yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

研究会報告「伊勢神宮はいつできたのか」の条

2009-12-31 12:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 12月19・20日は国立歴史民俗博物館での「新しい古代国家像のための基礎的研究」第3回研究会での報告であった。
 私の報告は

 「皇祖神の伊勢奉祭と制度化への道~考古学からみた3~8世紀の伊賀・伊勢・志摩と古代王権~」

であった。平たくいえば、現在、皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮はいつ成立したのかを考古資料から探ろうというものである。天照大神が天皇の祖先神として祀られた時期がいつなのかについては、『日本書紀』の記載を中心にして各種史料の検討から様々な意見が出されている。しかし、いずれの説を採るにしても、文献史学の研究は八世紀に編纂された史料を基礎文献とするに過ぎず、当該期の資料から分析することはできないのが現実である。
 しかし、文献史学に頼らなければ頭書の課題は解決できないのであろうか。そもそも、いずれの説を採るにしても対象時期の信頼できる原資料は考古資料をおいて存在しない。もちろん、考古資料は寡黙であり、そう簡単には伊勢神宮の創設時期を教えてはくれない。だから丁寧に、根気よく、新旧の資料を見直し、探しだし、分析しなければならないのだが・・・。

 こうした困難さがあってか、これまでほとんど考古学からこの課題に挑んだ研究は皆無に近かった。

 ところが最近、三重県の穂積裕昌氏が「考古学から探る伊勢神宮の成立と発展」(『第16回春日井シンポジウム資料集』春日井市教育委員会2008年)を発表し、この課題に果敢に挑戦し、大きな成果を出すことに成功した。

 今回の歴博での私の報告は、穂積氏の研究に導かれて、その驥尾に付して、若干の私見をまとめたものに過ぎないが、少し紹介してみたい。
 
 穂積氏が用いた考古資料は
 ① 多気町石塚谷古墳出土銀象眼大刀と江田船山古墳出土大刀、
 ② 斎宮周辺検出の土師器焼成土坑群と久居古窯や稲生古窯の成立による須恵器生産の開始。
 ③ 鳥羽市神島八代神社神宝(頭椎大刀・画紋帯神獣鏡・ミニチュア紡織具等)
 ④ 明和町坂本1号墳出土頭椎大刀
 ⑤ 松阪市佐久米大塚山古墳出土鉄地金銅装小札鋲留眉庇付冑
 ⑥ 伊賀市城之越遺跡
 ⑦ 伊勢神宮内宮採集滑石製玉類
 ⑧ 伊勢市高倉山古墳横穴式石室
等多岐にわたり、資料の性格やその該当時期について詳細に分析した。その結果、伊勢神宮成立の時期やその展開の様相が明らかにされ、5世紀後半を伊勢の地と大和王権との関係の画期と捉えた。

 穂積氏の指摘に異論を鋏む余地はないのだが、何点かの補足資料や別視点からの検討も可能なのではないかと思い、若干の私論を展開してみた。

 その第一は、分析するまでもないからされていないのかも知れないが、前方後円墳の展開のあり方である。既によく知られているように伊勢地域に前方後円墳が本格的に採用されるのは、北勢では麻績塚や高塚山古墳、中勢では池ノ谷古墳や宝塚1号墳である。しかしなぜか、伊勢地域ではこの後、7期とされる5世紀中頃末頃まで前方後円墳が築かれないのである。伊賀地方の前方後円墳が石山古墳の本格的な築造以降も連続的に展開するのと大きな違いを見せる。

 伊勢神宮が大和王権と深い関係にあるとするならば、当然前方後円墳の展開がなければならないだろう。即ち、大和王権と伊勢との関係は、前方後円墳の展開という姿から見ると、5世紀後半までは深くなかったと言わざるを得ないのである。

 さきの穂積氏の分析を見ても判る通り、伊勢の地に大和との関係を示す資料は5世紀後半になってようやく増加する。

 5世紀後半とは、文献史学ではおおよそ雄略朝とされる。では伊勢神宮はこの時期に成立したのだろうか。

 確かに、伊勢湾の先に浮かぶ神島は、伊勢神宮にも近く、美しい姿は伊勢湾内で異彩を放つ島である。その島の八代神社に5世紀後半に始まるとされる神宝類が多数奉納されているとすると、これを神宮と結びつけたくなる心境がわからないではない。しかし、神島と伊勢神宮を直接的に結ぶ材料はどこかにあるのだろうか?

 機織具のミニチュアなどが宗像神社の聖なる島である沖ノ島神宝類と類似することはよく知られている。しかし、沖ノ島は海上航行の安全を祈願する島として知られているのだから、神島も同様の性格と見てはいけないのだろうか。神島の神宝は、太陽神ともされる天照大神と直ちには繋がらないのだ。

 須恵器生産や土師器生産の開始(大量生産)も、途絶えていた大和王権と伊勢との関係を告げる新しい情報であることは間違いない。しかしこれらの製品が伊勢神宮に供給された証拠はどこにもない。

 5世紀後半が有力な時期である点は否定できないが、それ以外にも関係を考える資料はないのだろうか。これが私のささやかな提案である。

 その第一が、6世紀後半に外宮の裏山に構築される高倉山古墳であり、第二が、6世紀末~7世紀初めにかけて急激に進む大和王権の伊勢・伊賀・大和・三河を結ぶ水陸両交通路の確保である。
 高倉山古墳は6世紀後半に築造された伊勢地方最大の横穴式石室を持つ古墳である。外宮の裏山に築かれ、これまでにも穂積氏を始め多くの研究者からその存在が神宮との関係で論じられてきた。果たして誰が何の目的でこの古墳を築造したのか。この解釈を再検討すべきと考えたのである。
 6世紀後半という時期は、大和と地方との関係が激変する時期として知られる。しかし、考古学はこれまで、この激変する時代の変化の解釈を文献史学に委ねすぎてきたのではないかと考えている。高倉山古墳も南勢地域への大和王権の直接的影響力行使の象徴的存在と見ることができるのではないだろうか。その地が「外宮の裏山」である点は見逃すことができない。高倉山古墳の築造は、「外宮」即ち在地有力氏族の取り込みを意味するとも言えるのである。

 さらに伊勢地方で目立つのは、当該時期に、大和から東へ進出するに不可欠な交通路上に、大和王権の影が色濃く見えることである。後の古代官道・伝路沿いに数キロおきに王権の直接支配を示す物品を埋納した古墳が展開する(その根拠は既に脚付短頸壺の分布から証明したことがある)。

 高倉山古墳の築造や脚付短頸壺の分布から、6世紀後半にも大和王権は伊勢地方全体に直接的に大きな影響力を行使することが判る。これが私のささやかな私論である。

 もちろん研究会では、賛否様々で、反論の中心は、「6世紀後半には全国的に同様の事態が起こっており、これを伊勢独自の動向とみなすことはできない。」というものであった。確かにこうした変化に歴史性を読み取ろうとする基本的姿勢がなければ、伊勢のこの事態も平板にしか見えない。しかし、少し視点を変えればとても重要な事態であることに気付く。そもそも全国的に、その規模はある特定地域ごとかも知れないが(そこにこそ問題が潜んでいるのであるが)、一斉に変化が起こること自体が大問題なのではなかろうか。脚付短頸壺の用途が何であったのかは不明だが、このどこにでもありそうな(しかし東海西部にしか分布しない)土器が交通路沿いの古墳に限って埋納される点が問題なのだ。

 一定の評価をする意見としては、高倉山古墳の評価をきちんとすべきではないかというものがあった。副葬品が限られており、その特質を見極めることは極めて難しいが、横穴式石室の築造方法やその立地などからこれを再度詳細に分析すべきことを痛感した。

 考古資料を積極的に読み取ることも新しい歴史像を構築するために必要なことではなかろうか。それを最も恐れているのが「新しい教科書」を作っている方々でもあるのだが、考古学こそ当該期の生の資料を持っているのだから、そこからこれまでの歴史像を見直すことが不可欠なのではなかろうか。残念ながら、考古学はこれまでその絶好の機会を自ら断ってきたと言える。

 私は伊勢神宮創設は、大和王権の一連の地方支配の流れの中で採りえた政策の一つだったと考えている。全国的に強力な王権の力を発揮できていくこの時期、6世紀後半だからこそ、伊勢の地を王権に取り込み、新たな神を王権のものとすることができたのではないかと主張したのであった。そしてこれを制度化したのは、壬申の乱において天照大神を望拝し勝利した天武王権の時代であり、その具体化の姿が斎王制度であったと指摘したのであった。

 残念ながら、特に考古の人々に納得して頂けなかったのは私自身の力のなさではあるが、今後さらにこうした研究に力を入れて、まさに「新しい歴史像構築」のために進んでいこうと思う。

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そして今年最後の
 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

超多忙の出発点京都アスニーでの講演会の条

2009-12-27 05:36:39 | yaasan随想
 超多忙の出発点となったのが12月4日の京都アスニー(京都市・丸太町七本松)での講演会であった。

 

 講演前のリハーサル。とても親切な担当者の方に準備万端整えていただいた。感謝!

 講演のテーマは「長岡京から平安京へ―坂上田村麻呂と三十八年戦争―」

 しかし、ここで意外な出会いがいくつも。

 先ず開会にあたり恒例の責任者との名刺交換。私の一番苦手なところ。
 今年は、とても珍しく、京都アスニーでは二回目となる講演会である。四月には第二の故郷山科のアスニーでお話しをさせていただき、とても多くの方に拝聴いただいた。その時も田村麻呂が主人公だったのだが、主に西野山古墓のことを話した。今回も田村麻呂なのだが、京都市内での講演なので、田村麻呂出世の出発点である長岡京東院の話しを中心に話すことになっていた。だから、そんな話題から始まるのかな、と身構えていたら、

 「いつも年賀状では・・・・」と仰る。
 「???」(年賀状をやりとりするような人はこのアスニーにはいないのだがなーと思いながら顔を上げると)
 「坂井です。30年前に・・・」
 「エエッツ!アー、ウン?でもどうして??」
しばらく言葉にならなかった。確かに坂井さんとは年賀状をやりとりしている。でもこの前の人が坂井さん??

ちょうどあれから30年である。お互いに髪は薄くなる(これ私ね)は、白くなる(これ坂井さんね)は、で激変している。だから俄には認められないのだ。しかし、お話しをしている内に30年の時間は無くなった。まるで昨日の時のように甦ってきたのだ。坂井さんと初めてお会いしたのは1979年、長岡宮城の一角から築地跡が見付かったときだった。

 今でも鮮明にいろいろな方々のお顔が甦ってくる。通報してくれたユンボ業者の西田さん。直ぐに関係部局と折衝をしてくれた上司の島光男さん、その時の工事を担当されていた武本建設の秋月さん、そして発注元の市の建設部の清水さん等々。もうあちこっちを巻き込んでの大騒動であった。

 その中で大きな役割を果たして下さったのが、当時京都新聞洛西支局へ移って来られたばかりの坂井さんだった。連日連夜築地発見の重要性を訴える記事を書いて下さった。そのお蔭で、日本で初めてといってもいいと思うのだが、都の中の築地塀が立体的に出てきた遺構が史跡指定され、保存されることになったのだった。
 もちろん当初この遺構を削って道路を造る予定だった建築部局は苦り切っていた。20年後、私が市を退職して三重に行くことを報告に行った時の建設部局の悦びようはなかなかのものであった。(笑)

 その坂井さんに本当に30年ぶりにあったのであった。

 昨年退職なさって今はアスニーのアドバイザーをなさっているという。確かに年賀状はやりとりしている。独特の大きな四角文字でいつも一言言葉を添えていただく。それだけで心が通じていたような気がする。そのお方が目の前にいらっしゃるのだ。嬉しくて嬉しくて、講演会のことなどそっちのけでぎりぎりまで話し込んだ。改めて人間の出会いは大切だな-と思ったものだ。

 その話の途中で、「ここにも三重大の卒業生が一人いますよ。あなたのことをよく知っているという」
 「???」
 「呼びましょうか?」
 「エエッツ!」これまた驚きであった。彼女は私の教え子ではないのだが、中世史を専攻した学生で、これまた同じ学年にいた学生が昨年交通事故で亡くなった学生の従兄弟と結婚したという曰因縁付きの学生と同級生だったのでとてもよく覚えているのだ。

 更に更に、
「今日は先生の小学校の時の先生が来られますよ!」という。
「林弘子先生ですよ.広報誌でご覧になって是非来たいと仰っていました。」
エエッツ、これまた緊張するな-、どうしよう。

 そんなこんなで講演よりもその前の人間関係で盛り上がった日であった。講演自体は以下のようなものだったのだが、とにかく、知っている方がたくさん聞かれているというのでとても緊張したのであった。

 もっとも昨日一枚のはがきが届き、林先生は当日急用でお出でにならなかったという。どうりで終わった後もご挨拶できなかったわけだと納得した。話の内容に大した新しいものはなかったのだが、田村麻呂のことを調べていく内に新たに気付いたことがいくつかあった。

 その第一が、彼が延暦9(790)年3月10日に近衛少将兼越後国守になっている点であった。なぜ越後の国司が田村麻呂なのか?実は越後国はこの後の東北第二次征討において後方補給国として大いなる役割を果たす国なのである。事実彼はこの後、延暦10(791)年1月18日には軍士・兵器点検のため東海諸国へ派遣されているのである。そして同年7月13日に征東副使に任命され、のちの大活躍の基礎を築くのであった。どうもこれを見るとその前年の紀古佐美による征討に失敗して直ぐに桓武は田村麻呂を登用し、次の手を打っていたことになるのである。周到な準備の下実行されたのが田村麻呂による東北遠征だったことがこれによって実証されるのではなかろうか。そんな新たな発見を中心にお話しをさせていただいた。二時間も話していいというから最初から最後まで話し詰めで久しぶりに堪能した講演会だった。

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 アスニーの1階ロビーが改修されていて、展示室ができていた。以前は何もなかったので勝手に写真を撮っていたら叱られてしまった。「許可をもらって下さい!!」と。済みませんでした!もちろん直ぐに申請をして許可をもらって撮ったのがこれ、なかなかよくできた展示ですよ。皆さんも見に行って下さいね。写真も直ぐに許可してくれますよ。

*****講演趣旨****

 「長岡京から平安京へ―坂上田村麻呂と三十八年戦争―」

〔要旨〕
 延暦12(793)年2月、坂上田村麻呂は廃都の決まっていた長岡京の仮内裏である東院にて桓武天皇に辞見した。東北蝦夷との38年戦争に終止符を打つため、桓武が選んだ切り札の登場であった。長岡京から平安京へ、
波乱の人生を歩んだ坂上田村麻呂を通して時代のターニングポイントを解き明かす。

はじめに~長岡京東院の発見~
・ 1999年9月、世界企業・日本電産が市境界線上の京都市側に本体部分、向日市側に付属施設部分を建設する計画。地上105mの京都府下最大の建物が自慢。
・ その地は、長岡京左京北一条三坊二町に相当。長岡京左京での第435回目の発掘調査。
・ 10年前の今頃ニュースの第1報。「東院」の墨書土器発見!「エッ!?」
・ 左京二条二坊十町にも東院が!!二つの東院をどう解釈するのか?
・ 日本の歴代都城には宮城の東に「東院」が建設された。
・ 廃都決定禅の東院が二条二坊十町の東院、平安京遷都の司令部となった東院が北一条三坊二町の東院。
・ 長岡京から平安京への橋渡しの場=新東院!

Ⅰ 東北三十八年戦争
(1) 〈第1次征討〉:三十八年戦争の勃発 
・ 宝亀5(774)年7月壬戌(25日)。陸奥國言。海道蝦夷。忽發徒衆。焚橋塞道。既絶往來。侵桃生城。敗其西郭。鎭守之兵。勢不能支。國司量事。興軍討之。但未知其相戰而所殺傷。10月庚午(4日)。陸奥國遠山村者。地之險阻。夷俘所憑。歴代諸將。未甞進討。而按察使大伴宿祢駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。
→按察使大伴宿祢駿河麻呂等による海道蝦夷制圧
(2) 〈第2次征討〉:伊治公砦麻呂の乱 
・ 宝亀11(780)年3月丁亥(22日)。陸奧國上治郡大領外從五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使參議從四位下紀朝臣廣純於伊治城。廣純大納言并中務卿正三位麻呂之孫。左衛士督從四位下宇美之子也。寳龜中出爲陸奧守。尋轉按察使。在職視事。見稱幹濟。伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。廣純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。時廣純建議造覺鼈柵。以遠戍候。因率俘軍入。大楯呰麻呂並從。至是呰麻呂自爲内應。唱誘俘軍而反。先殺大楯。率衆圍按察使廣純。攻而害之。獨呼介大伴宿祢眞綱開圍一角而出。護送多賀城。其城久年國司治所兵器粮蓄不可勝計。城下百姓竸入欲保城中。而介眞綱。掾石川淨足。潜出後門而走。百姓遂無所據。一時散去。後數日。賊徒乃至。爭取府庫之物。盡重而去。其所遺者放火而燒焉。
・ 按察使紀廣純殺害。多賀城焼亡。
(3) 〈第3次征討〉:坂上田村麻呂の征討 
・ 延暦8(789)年7月丁巳(17日)。勅持并征東大將軍紀朝臣古佐美等曰。得今月十日奏状稱。所謂膽澤者。水陸万頃。蝦虜存生。大兵一擧。忽爲荒墟。餘燼縱息。危若朝露。至如軍船解纜。舳艫百里。天兵所加。前無強敵。海浦窟宅。非復人烟。山谷巣穴。唯見鬼火。不勝慶快。飛驛上奏者。今是先後奏状。斬獲賊首八十九級。官軍死亡千有餘人。其被傷害者。殆將二千。夫斬賊之首未滿百級。官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快。又大軍還出之日。兇賊追侵。非唯一度。而云大兵一擧。忽爲荒墟。准量事勢。欲似虚餝。又眞枚墨繩等遣裨將於河東。則敗軍而逃還。溺死之軍一千餘人。而云一時凌渡。且戰且焚。攫賊巣穴。還持本營。是溺死之軍弃而不論。又濱成等掃賊略地。差勝他道。但至於天兵所加前無強敵。山谷巣穴唯見鬼火。此之浮詞。良爲過實。凡獻凱表者。平賊立功。然後可奏。今不究其奧地。稱其種落。馳驛稱慶。不亦愧乎。
・ 紀古佐美による征討。大失敗。
・ 延暦12(793)年2月21日征夷大使藤原弟麻呂・副使坂上田村麻呂他三名による征夷使出発。
・ 延暦13年6月13日蝦夷征討
・ 延暦16(797)年11月5日征夷大将軍坂上田村麻呂任命
・ 延暦20(801)年2月14日征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀。
・ 延暦21年1月9日胆沢城築城。4月15日大墓公阿弖流為・盤具公母礼降伏。8月13日河内国杜山にて両人処刑。
・ 延暦22年3月6日志波城築城により第3次征討終了
(4) 〈第4次征討〉:文室綿麻呂の征討
・ 弘仁2(811)年7月辛酉(4日)。出羽国奏。邑良志閇村降俘吉弥   
侯部都留岐申云。己等与弐薩体村夷伊加古等。久搆仇怨。今伊 
加古等。練兵整衆。居都母村。誘幣伊村夷。将伐己等。伏請兵 
粮。先登襲撃者。臣等商量。以賊伐賊。軍国之利。仍給米一百
斛。奨勵其情者。許之。
・ 文室綿麻呂による幣伊村征討、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置。爾薩 
体・幣伊2村制圧。
・ 弘仁3年徳丹城の建設。三十八年戦争の終結

Ⅱ 坂上田村麻呂
(5) 渡来系氏族・坂上氏
(6) 延暦9(790)年3月10日:近衛少将兼越後国守→東北第二次征討計画の着手か。
・ 延暦10(791)年1月18日:軍士・兵器点検のため東海諸国派遣。同年7月13日:征東副使任命。
・ 延暦12(793)年正月15日:長岡京廃都決定!!

Ⅲ 東院から平安京へ
(1) 長岡京解体
・ 正月15日:長岡京廃都
・ 正月21日:長岡宮解体開始。東院遷御。長岡宮内裏の新京への移転。

(2) 東院の構造
・ 平安宮内裏の原形:回廊で繋がった殿舎群
・ 内蔵寮の設置
・ 改修された中心建物
・ 苑池のある禁苑内離宮から東院へ
・ 長岡京東二坊大路=西洞院(東院)大路、東三坊大路=東洞院(東院)大路
・ 四町域(約250m四方)の占有
・ 北一条大路が北京極

(3) 旧東院と新東院
・ 平城宮東院玉殿
・ 光仁天皇楊梅宮と長岡京山桃宮
・ 後期造営と旧東院の整備
・ 延暦10年山背国の修理と瓦
・ 平安京近東院と東院
・ 左京二条二坊十町の東院は近東院
・ 左京北一条三坊二町東院は東院


(4) 東院の木簡と墨書土器
・ 「東院内候所収帳」  (題箋軸)
「延暦十三年正月一日」
・「内蔵北二      (題箋軸)
  蔵外出
 「[     ]
  延暦二年正月」
・ 勅旨所

Ⅳ 征夷と東北の城柵~多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城~
(1) 第二次征討の契機・多賀城・伊治城の攻防
(2) 第二次征討の終結・胆沢城と志波城・徳丹城

おわりに~田村麻呂の死~
・ 弘仁2(811)年5月23日粟田別業にて死。
・ 5月27日山城国宇治郡栗栖村に葬る。宇治郡七条咋田西里に墓地三町を賜る
・ 西野山古墓

『平安京とその時代』(思文閣2010年1月刊行の条

2009-12-25 23:39:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 超多忙な中のほんの少しだけ影響した仕事がこれ↓

 朧谷壽・山中 章編

『平安京とその時代』

(思文閣 2010年1月刊)


 表向きは銘打っていないのだが、実態は『朧谷壽先生古稀記念論集』である。以下の序文に書いた通り、総勢19 名の研究者達が平安京・平安時代をテーマに多角的に論じた。本来ならば、先生の古稀が本年の3月28日だからこの日までに献呈しなければならなかったのだが、諸般の事情で実質的には一年も延びてしまった。でもそのお蔭で内容の充実した論集とすることができた。これまでに平安京や平安時代について個人研究論文集が刊行されたことは多いが、他分野の研究者が一堂に会して論文を寄せることはあまりなかっただけに興味深い内容となったと思う。是非ご一読下さい。

          

          ~古稀を寿ぐ~

 延暦十三(七九四)年、桓武天皇によって造営された平安京は、中世以降も京都として日本の政治、文化の中心を担ってきた。それ故、京都・平安京を研究するために、多くの研究者が京都で学び、暮らした。京都を核にして優れた研究書が出版され、角田文衛博士によって編集された『桓武朝の諸問題』(一九六二)『摂関時代史の研究 』(一九六七)『延喜天暦時代の研究』(一九六九)『後期摂関時代史の研究』(一九九〇)は、平安京研究に欠かせない書となった。
こうした研究状況の中で、『平安京とその時代』は、平安貴族研究の第一人者・同志社女子大学名誉教授・朧谷壽先生の古稀のお祝いの気持ちを結集して、京都に所縁のある歴史学、考古学、地理学の研究者が「平安京」をテーマに論文を寄せ、編んだ総合的な研究書である。第Ⅰ部を歴史学、第Ⅱ部を考古学・地理学の研究者による論考とし、多角的に平安京・平安時代を論じた。先生の強い希望により「古稀」と銘打つことはせず、ご自身も「摂関盛期の天皇の葬送」と題して、天皇の葬送の変化について新たな視点で御高論を執筆頂いた。しかし、実質的には『朧谷壽先生古稀記念論集』である。
朧谷壽先生は一九三九年、新潟県須原村(現・魚沼市)に生まれ、転勤族であったお父上の関係で少年時代は東国で過ごされた。一九五八年同志社大学に入学、一九六二年同志社大学文学部文化学科文化史学専攻をご卒業後は京都に居を定められ、平安時代研究に没頭された。平安博物館助教授を経て、一九八八年からは同志社女子大学教授として教鞭を執られ、二〇〇九年にご退職後は同名誉教授として引き続き後進の指導に当っておられる。その一方で、源氏物語アカデミー監修者、紫式部顕彰会副会長、国際京都学協会常務理事として多忙な毎日を過ごされている。二〇〇五年には京都府文化賞(功労賞)を受賞され、まさに京都・平安京の貌として活躍されている。
先生のご業績は数多く、専門研究の著作だけでも『藤原道長 ~男は妻がらなり~』 (ミネルヴァ書房)、『藤原氏千年』(講談社)、『源氏物語の風景』(吉川弘文館)、『日本の歴史6 王朝と貴族』(集英社)、『平安貴族と邸第』(吉川弘文館)、『人物叢書 源頼光』(吉川弘文館)、『清和源氏』(教育社)等、多数にのぼる。
本書は平安時代研究の中で、こうした先生の薫陶を受け、ご指導頂いた多様な分野での研究者の論考によって成り立っている。
天野太郎、上原真人、田島公、西山良平、橋本義則、元木泰雄の六氏は、平安京郊外・白河の一角、京都大学で若き日を過ごし、平安時代、平安京、京都の魅力に取り付かれ、今もこれを研究の核として取り組んでいる。天野氏は、歴史地理学の立場からこれまで必ずしも重視されてこなかった平安京に関する地名研究の意義を説く。上原氏は、ライフワークである摂関・院政期の軒瓦研究の核をなす、京都における讃岐系軒瓦の動向を総括する。田島氏は、祈年祭において近江国がなぜ「白猪」貢進国となるのかを『言談抄』の分析を通して明らかにする。西山氏は摂関期における衛府や検非違使庁などに所属する様々な身分集団が自らを襲った不利益な状況を訴訟・復讐等、いかなる方法によって対応したかを詳細に分析する。橋本氏は、これまであまり検討対象とされていなかった、平安宮大極殿・朝堂院の北に位置し宮城の中心点に置かれた中和院設置の背景について分析する。元木氏は、鹿ヶ谷事件までの平重盛の政治的立場と役割、人脈について検討し、平氏一門が内包した矛盾について論じた。
朧谷先生と同じ同志社大学で学び、平安京・京都に魅せられて研究を進め、今もなお同志社・同志社女子大学で後進の指導に当たっているのが鋤柄俊夫、竹居明男、山田邦和の三氏である。鋤柄氏は、信濃国出身ながら京都の魅力に取り付かれて研究を進め、平安時代以降の出土遺物から平安京内外の実像を明らかにした。竹居氏は、平安時代貴族にとって欠かせない年末の宮中年中行事である「仏名会」をめぐる王朝帰属の意識を「仏名会」に際して詠まれた和歌などの類を収集して分析した。山田氏は生粋の京都人であり、現在も検非違使庁跡の一角に居を構え、考古学・文献史学両面から平安京の実像に迫る。本書でも文献史料を存分に活用して保元の乱の関白忠通について分析する。
京都府下の行政での調査・研究を通じて得られた成果を活かし、研究を進めるのが梶川敏夫、清水みき、杉本宏の三氏である。梶川氏は、長く京都市の文化財行政を牽引し、発見された考古学の成果を多才な復元図によって判りやすく伝えてきた。その一端を今回も「甦る古代京都の風景」と題して往時の平安京を再現する。清水氏は、長岡京出土木簡の研究を向日市文化資料館学芸員として進め、長岡京成立の意義を明らかにしてきた。今回は桓武天皇の外戚氏族、土師氏の地位をめぐって新しい見解を示した。杉本氏は、宇治市教育委員会における平等院の発掘調査成果を基礎に、伽藍に関する最新の研究成果をまとめた。編集代表の山中章もまた、長く向日市教育委員会において長岡京の調査・研究に従事し、平安時代初頭の政治・文化・社会の実態解明に努めた。平安京右京五条一坊十二町に生まれ、今は桓武天皇柏原陵の近く、深草の地に住まいする縁もあって、桓武天皇の娘・布勢内親王が桓武から伝領した所領の伝世過程から古代王権の地方支配の一端を検討した。
学生時代から東山の山麓、京都女子大学で平安時代・平安京の研究に専念しているのが瀧浪貞子氏である。本書では陽成天皇廃位の真相を詳細に分析した。先に国立歴史民俗博物館主催『長岡京遷都―桓武と激動の時代』展を主導した仁藤敦史氏は、『新選姓氏録』を分析して京貫の開始期を既説を遡らせて平城京期に求めた。吉水葉子氏は、奈良女子大学人間文化研究科博士後期課程に在学する新進気鋭の研究者である。研究対象の桓武天皇の近江行幸について新たな視点を展開する。
本書のもう一つの特徴が、朧谷先生の同志社女子大学での教え子である二氏による、文化史的な視点からの寄稿である。安藤栄里子氏は、京都郊外嵐山に生まれ、育ち、京都新聞記者として長岡京・平安京の保護・保存に心を寄せ続けた。山中恵美子氏は、平安宮内裏の一角に生まれ育ち、朧谷先生の薫陶を受け、今も老舗の伝統を継承しつつ、「京まちや平安宮」を運営し、京都文化を育み伝えている。
なお、朧谷先生の御交遊範囲は極めて広く、歴史学関係者に限ったとしても古代から近代までの幅広い分野の研究者がおいでになる。通常の古稀記念論集であればそうした方々にも御寄稿をお願いするところであるが、本書はあえて先生の専門分野である平安時代にテーマを限らせていただいた。ご理解を賜りたく思う。
朧谷先生の還暦のお祝いは、卒業生を中心とした盛大なパーティーであった。ならば古稀は『記念論集』を、という話がとんとん拍子に進んだ。あれから二年余、本来なら古稀をお迎えになった二〇〇九年三月二八日に献呈の会を催すべきであったが、諸般の事情で今日になってしまった。深くお詫び申しあげたい。
 最後になったが、本書が平安京・平安時代研究に新しい視点を加え、学会に寄与することを祈念し、朧谷先生のますますのご研究の進展とご健勝をお祈りし、古稀を寿ぐ序としたい。


二〇〇九年一二月吉日 

           『平安京とその時代』編集代表
                  山中 章




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久留倍遺跡は初め朝明駅だった!だから聖武は泊まることができたの条

2009-12-24 21:11:40 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 これからしばらく超多忙な日々、何をしていたのかを少しずつ報告することにする。大半が市民向けの講演会だったので、講演会馴れしておられる先生方ならどうってことはないのでしょうが、私には大きな負担となって跳ね返ってきた。特に最後の最後に歴博での研究発表があり、これと重なったことも痛かった。最後は死ぬかと思ったほどである(大袈裟!!(笑))。

 もちろん講演会は、これまでに話ししたものを少しだけアレンジしたものや、論文に書いたものを判りやすくしたものなどいろいろなのでいつもならそんなに負担感はないのだが、今回はそれなりに色気を出して、「少しは新しいことを!」と思ったもので、これが大変の一因にもなった。

 今日ご紹介するのは、2009年12月12日(土)に現在開催中の四日市市立博物館での講演会であった。これがその展示会の正面のジオラマである。


 (展示会の正面には久留倍遺跡の最初の建物群の正面を飾る八脚門が復元されていた。素晴らしい!!)

  「古代朝明の風景」展の関連講演会ということで行った四日市市立博物館での講演の内容は以下の通りである。

 この展示会、2010年1月24日まで開催中で、想像以上に充実したとてもいい展示会ですよ。是非皆さんも見学に行ってくださいね。四日市市立博物館は皆さんご存知でしょうが、近鉄四日市から西へ歩いて直ぐ!都ホテルの裏にあります。

 1月16日(土)の午後2時からは奈良文化財研究所の島田敏男さんの「古代の役所のたてもの」と題した興味深い講演会もありますよ!!
「古代朝明の風景」展と講演会、是非行ってみようと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 さて私の講演は、題して「壬申の乱と四日市 ~朝明駅家と東海道~」

であった(前回紹介した「章君人形」を描いてくれた学生のお母様も聞きに来て下さったとか、会場一杯になる100名近い聴衆にお集まりいただいた。感謝!)。メインタイトルは博物館からの依頼のものなのであまり変わり映えしなく、少しアレンジするために副題を付けた。

 講演の趣旨は「久留倍遺跡は駅家だった!」である。少し残念だったのは、以前から久留倍遺跡の第Ⅰ期官衙が駅だという説を出しているのに、展示では一顧だにされていない点であった。各地の郡衙正倉の資料が中心に並べられていて、これではまるで久留倍遺跡が最初から郡の正倉であったかのように見えてしまう。ちょっとこれはなんぼ何でもおかしいやろ!と思った次第である。東向きの政庁を持った倉庫のない郡衙正倉なんて聞いたことがない!!もう少し配慮が必要であろう。

 ただし、久留倍遺跡の第Ⅰ期官衙建物が朝明駅ではないかという点については、折に触れて述べることはあったが、本格的に論証するには至っていなかった。というよりそういった機会に恵まれなかった。そこで、この機会に考えをきちんとまとめておこうと思って講演の素材に選んだのである。
 たまたまこの間、四年生の卒論指導で山陽道の駅家を実際に歩いたお蔭で、駅の実態を目に焼き付けることができ、随分イメージが変わってきた。山陽道駅についても、立地や施設配置など基本構造に関しいくつかの類型のあることが判明してきた。仮にこの類型が東海道についても普遍化できるとすると、朝明駅についても従来の説を大きく変える新たな提案ができるのではないかと考えたのである。

 ところで実は、駅だと確信したきっかけは広島県安芸郡府中町に所在する下岡田遺跡に関する小文にあったのです。

 今から10年程前、私が大学に就職して直ぐに母校から集中講義のお声がかかった。母校ではほとんど勉強しなかったことは何度も書いた通りなので、とてもとても気恥ずかしかった。特に、学生時代にはとてもとても失礼な態度を取った故川越哲志先生からのお声かけだっただけに、どんな顔をして参ればいいのか、しばらく悩んだ。私の非礼を咎められることもなく、お声かけ下さった川越先生の土量の広さにはただただ頭が上がらなかった。
 身の縮む思いで伺った集中講義では、毎晩毎晩様々な形でご馳走を頂いた。お亡くなりになった潮見先生や河瀬先生もご出席くださり、楽しい一時を過ごすことができた。
 その最後の一日は私の大学時代の同級生・現広島大学教授の古瀬清秀さんのご自宅に泊めてもらった。彼の奥様がこれまた広島県の文化課にお勤めで、もちろん私の先輩でもある。その奥様に依頼されて書いた小文がこれである。

 「安芸国安芸駅館小考」(広島県文化財協会『広島県文化財ニュース第160号』6頁~11頁1999年)

 なぜこれをテーマに選んだのか定かには思い出せないのだが、確か、奥様に「何か広島のことを書いてよ」と言われ、広島の考古学など私に判るはずもなく、悩みに悩んだ挙げ句、重圈文軒丸瓦が出土している関係で唯一現地を歩いたことのある(資料館で現物を手にとって見たことのある)下岡田遺跡を書くことにしたのだと思う。 

 しかしこれとて、研究し尽くされ、遺跡が安芸駅であることはほとんど衆目の一致するところであったから、新しいことは大して書けないのである。そこで、止むなく、その頃流行り出した「復原図」を示し、安芸駅のイメージを抱いてもらおうとした。


 それがこれ。

 広島湾に沿って山陽道が南北に走り、東から流れてきた榎川が広島湾(現在は温品川)に注ぐ辺りに正面を西に向けて門を開くのが下岡田遺跡・安芸駅跡である。内部の建物を精査すると、中央奥に西向きの立派な正殿が建ち、その両側に脇殿を備える施設である。もちろん周りは築地塀で囲われ、さらに裏(東)の少し小高いところには楼閣になろうかという立派な総柱建物や厩舎と言われる施設群がある。当時も思ったのだが、今改めて見直してみても、安芸駅というのは相当ちゃんとした駅であることが判る。最近の私の類型化では、安芸駅は国府に近く設けられたもので、港(国府津)とも一体化した水陸交通の拠点としての性格を持つとても重要な駅のタイプと判断できた。

 そしてこれが久留倍遺跡の建物群である。



 色が塗ってないので判りにくいが、一番上にあるⅠ期の建物が最初にこの丘の上にできた施設である。私はこれを朝明駅と考えている訳なのだ。真ん中やや左寄りに四角くくくった枠の中に方形に線で結んだものが並んでいる。これが建物で東向いた正殿と脇殿と解釈されている。正殿の後ろには2棟の総柱建物もある。また前(東)にはもう二つ区画がありそうで、私はこれらが駅家の付属施設と考えている。

 当然この前を東海道が通っていたはずだ。東西の違いはあるが、安芸駅家そっくりではないか!!久留倍遺跡が高低差のそれなりにある丘の上に建てられている点は少し異なるが、下岡田遺跡もやや小高い地形に立地する。なんといっても「コ」字形に中心建物が配置されている点が重要で、山陽道の類型を参考にすると、山崎駅に次ぐ二番目に格式の高い類型であることが判る。明確に異なる点は、朝明駅家には港(津)が附属していない点くらいであろうか。

 
 津が附属している駅が、朝明駅の次の榎撫(エナツともネナツとも読むらしい)駅であり、榎撫駅が聖武天皇が朝明の次ぎに宿泊した石占頓宮に推定されている点も興味深い。
 榎撫駅は東海道が三川合流地帯(揖斐川。長良川・木曽川)を渡る手前に設けられた駅で、川向こうに設けられた馬津駅に連絡する。船でこの間は繋がっていたのであろう。

 私は以前から聖武東国行幸は既存の公共施設、それも防御性の高い施設を利用して宿泊していったと指摘してきたが、実は山陽道駅の分析から、駅にはいくつかのタイプがあって、防御性の極めて高い施設もあることが判明してきたのである。つまりこの二つの駅は天皇が宿泊するに相応しい基本的機能を有していたのである。だから!これを改修して頓宮としたのだと考えるのである。

 そんなもったいない!!と考えるのは権力者の無駄遣いの酷さを想像できないお方のご意見である!!現にこの頃次々出てくる前政権下の膨大な無駄!!つい最近では農水省の造ってきた農業用用水の貯蔵ダムの多くが水が溜まらないダムだったとか。このために国民は何千億もの税金を使われてきたのだ。そしてその利益はお役人と極一部の建設業者の懐には入り、彼らだけがホクホク顔でいたのだ(その彼らが公共事業がなくなって困っている!地方が困っている!!なんて、よくもマスコミも適当なことばかり言うわな!と思う)。

 洋の東西、時代の新古を問わず、権力者というのは監視しなければ膨大な無駄をいくらでも生み出していくのである。

 えらく脱線してしまったが、とにかくこうして朝明駅は朝明頓宮に改装され、たった二日使っただけで再び改修されてしまうのであった。

 久留倍遺跡が当初朝明駅であったという仮説はこうして久留倍遺跡朝明頓宮説を補強する材料にもなるのであった。ただし問題がないわけではない。朝明頓宮として利用された時点で朝明駅はどこへいったのだろうか。これが不明なのである。
木下良先生の最新刊である「事典 日本古代の道と駅」(吉川弘文館 2009年)は、朝明駅の場所を根拠を示さないままに四日市市中村町とするが、ひょっとしたらこの地へ移転したのだろうか。

 なお、今後、是非、旧多度町関津に想定されている石占頓宮即ち榎撫駅を発見するための調査をやって欲しいのである。

 いずれにしろ、久留倍遺跡の発見はこうして今までほとんど判ってこなかった聖武天皇の東国行幸の実態を私たちの前に明らかにしてくれたのであった。

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第14回考古学研究会東海例会開催の条

2009-12-23 21:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
                                   
考古学研究会東海例会<第14回例会>

テーマ「東海における古墳時代祭祀・信仰の諸問題」

1.趣旨
 物質資料を扱う考古学からカミや祭祀、信仰といった人間の心に内在する問題にアプローチすることは難しく、「祭祀」をめぐる考古学的事象の解釈は研究者間でも意見が分かれることが多い。しかし、研究をより有意にするには、様々な機会を捉えて議論しあい、個々の解釈に至った過程を検証しあって、問題点をより明確化していく手続きが求められる。
 さて、東海には、文献からその成立にヤマト王権との関係が説かれる伊勢や熱田などの古社や、特徴ある祭祀遺跡が存在する。今回の例会では、古墳時代における信仰や祭祀の問題を考えるために、東海の代表的な古墳時代祭祀遺跡や古社、古墳などを手掛りに、「カミ」の性格や祭祀と葬送の関係性、あるいは古社の成立背景など祭祀を取り巻く様々な問題を顕在化させて、今後の祭祀研究に寄与するための方法論を吟味していきたい。

2.期日 
  2010年2月6日(土)12時45分~17時30分

3.場所
  三重大学 共通教育 1号館 4階 419号教室 

4.報告内容
12:45~13:00   開会と趣旨説明 (穂積裕昌)
13:00~13:40  「静岡」(田村隆太郎)  
13:40~14:20  「三重」(穂積裕昌)
14:20~15:00  「岐阜」(中井正幸)
15:00~15:10   休憩
15:10~15:50  「愛知」(赤塚次郎)
15:50~16:00   会場設営・休憩
16:00~17:30   座談会(各県発表者と三重大学・山中章)    
17:30~17:45   次回案内と閉会
18:00~      懇親会 生協翠陵会館二階 パセオ

問い合わせ先
   〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 
      Tel/Fax 059-231-9148
           三重大学人文学部 考古学研究室
            E-mail:yaa@human.mie-u.ac.jp

報告内容
○ 東海4県の祭祀遺跡や古社、古墳などにおける祭祀形態や埋葬諸儀礼などを手掛りに、古墳時代における信仰・祭祀を考えます。
○「祭祀」といっても、「国」レベルのもの、後の「郡」に相当するような地域(集団)が奉祭したもの、個々の集落の祭祀、さらにイエを単位としたものなど多様性がありますが、今回はそのうち規模が大きなもの(国や郡レベル、あるいは一定の広がりをもった信仰)について考えてみます。
○・各地域において、伊勢のようなヤマト王権勢力との関係性を認めうる古社・祭祀遺跡(外来由来)の存否やその成立時期について議論します。
 ・地域単位での独自信仰(在地由来)が認められるのか否か。あるとすればその祭祀形態やそれを象徴するような遺跡や遺物などの考古学的知見の有無についても触れます。
 ・地域における信仰の対象となっている山や峠、井泉、海、河川、峠、杜、などと遺跡の有無
 ・いわゆる「祭祀遺跡」の成立時期
 ・「祭祀」と「葬送」の関係性をどう考えるのか。
 ・「古墳被葬者」とはどういった存在だったのか


熱心な議論を展開したく思っています。期待して下さい。

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超超超多忙な魔の1ヶ月を乗り越えての条

2009-12-23 00:34:15 | 三重大学考古学研究室情報
 ご無沙汰致しております!


超超多忙でもこんなに元気な章君です。

 やっと11月末から今日までの超超超多忙な毎日から解放されました。先程何の因果か、私に今年課せられた最大の試練!!??官舎の自治会長最後(ホントはもう一回大事な総会が1月7日にあるのだが・・・)の仕事を終えて帰って来たところです。
 そこで久しぶりに溜まりに溜まった話題を一挙掲載!!と行きたいところなのですが、それにはそれ相応の準備が必要なので、まずは楽しい話題の紹介から! 

 ハハ、世の中居るもんですね、絵心の豊かな人類があちこちに。

 ここ三年間続けてやって来たPBL セミナーという授業、テーマは「実践、学芸員」きっと噂が噂を呼んで「山中の授業は一杯宿題やら調べ物があって止めといた方がエエよ!!」(笑)とうとう人文学部文化学科の1年生だけの6人になってしまった授業なのですが、これがまた絶妙の男女6人組が揃ってくれてとても楽しい!!

 こんな仲間となら来年もやってもいいのだけれど、どうもこの頃は大学本部の執行部が、こうした授業の中味をチェックするとか言い出して(別二私はチェックされて恥ずかしいことはやってないし、高く評価されると思うのだけれど・・・)、こういう当局の姿勢が大嫌いで、来年からはこちらからおさらばしてやることにした。

 そんなこんなで10月から始めた授業の成果をいよいよ公開する日がやってきた。

  スーパー章君と共にみる長岡京パネル展開催!



 彼が御案内役の「章君人形」です。(PBLセミナーでは3年間、いろいろな形で一年生を主役に学芸員のための基礎を学ぶために学生主体で展示会をやって来ました。一応今年はその実験的授業の総まとめ、最終章ということで、こんなタイトルの展示会が準備されつつあります。)


 長岡京ふしぎ発見 ~桓武におまかせ~  

 なんだかどこかで聞いたようなコピーなのですが、そこは彼らのセンスをそのまま活かして茶々を入れないことにしました。



 10月からの成果です!!!是非見に来て下さい。

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 展示の基本的な構想は、以前も紹介した一昨年の秋に千葉の歴博で行った企画展「長岡京遷都-桓武と激動の時代-」で用いたパネルです。以前から考えていた企画で、折角いろいろなご無理をお願いして頂いた資料ですから、是非一度公開したいと思って、虎視眈々と狙っていたのです。

 全く未熟な一年生の企画ですから、優しい目で見てやって欲しいのですが、みんなとてもとても熱心でしたよ。特に授業が始まって直ぐの休みには朝から夕方まで、インフルエンザの猛威の長岡京域を丸一日歩いたのです。その成果も展示される予定です。

 さて展示会は、4部構成となっていて、

 第1部が「桓武とゆかいな田村麻呂」と題して桓武天皇治世の二代事業の一つ征夷をテーマにした展示。
 第2部が「ゆかいな人々と呪われた長岡京」と題してとかく噂の多い、長岡京は「呪われている!!?」をテーマにした宗教の世界。
 第3部は「長岡京のゆかいな構造と他の都との比較」などと言うここまで来るとさっぱり何が言いたいのかわからないテーマ。

 要するに「ゆかいな」が共通テーマらしいのだが、本当にゆかいなんだろうか?よう判らん3部なのであります。

 そして第4部が「ゆかいな長岡京跡地」と題して自ら歩いた遺跡の紹介だそうです。ま、騙された!と思ってきて下さい。ただし遺物は一点もありません。パネルだけの展示です。

 古代衣装を身にまとったゆかいな学生が御案内致します。
日時 2010年1月18(月)~22日(金)    10時から17時 場所 三重大学講堂ロビー


あきらくんの独り言

桓武天皇って知ってるかい?
「鳴くよ(七九四)鶯平安京」は知ってるよね。平安京遷都の年号。この平安京を造ったのが桓武天皇。
実は桓武天皇はもう一つ都を造っていたんだ。平安京を造る十年前の延暦三(七八四)年に、平安京と目と鼻の先に長岡京という都を造ったことが記録に残っているんだ。
今から五十年程前まで長岡京は「幻の都」「仮の都」などと言われて、平安京を造る前の仮設的な都だと思われていたんだ。だってちゃんとした都を一つ造るにも十兆円以上かかると言われるているのにそれを二つも造ったとすると、国家財政が麻痺してしまいかねないものね。きっと今の政府なら事業仕分けされて「アウト!!」だと思うよ。
ところが一九五四年に、中山脩一さんという偉い学者が、「自分の生まれ育った地こそ長岡京の跡だ!きっと立派な都が埋もれているに違いない!!」こう信じて、私財をなげうって発掘調査を始めたんだ。以来今日までに三千回を優に超す調査が行われていて、次々と新しい事実が解ってきたんだ。
まず長岡京の大きさは、平安京と同じ東西四キロ、南北五キロもある広大な規模を持っていたことが判ってきた。四万人以上の人が住み、中国の最新の文化を取り入れた新しい社会を造ろうとしたらしいんだ。
じゃ、なぜ、桓武天皇はそこまでして都を造ったのか?その折角造った長岡京をわずか十年で廃止してしまったのか?これが私たちが今回挑戦した「長岡京ふしぎ発見!?~桓武におまかせ?!~」展のテーマなんだ。
今回の展示を企画したのはPBLセミナーA 山中 章「博物館学芸員への道」ゼミの六人のメンバー。いずれも人文学部文化学科の一年生だが、この四ヶ月、長岡京現地も訪れ、二五年前にできた向日市文化資料館も見学し、万全の体制で取り組んできた。使用するのは一昨年、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で行われた企画展示「長岡京遷都―桓武と激動の時代―」で使用されたパネルなんだけど、これにメンバーが新しく造ったパネルも加えて若々しい学生達の趣向で展示を行うことになった。できばえはどうかな?どうぞご堪能下さい。

二〇一〇年一月十八日 
あきらくんこと
人文学部文化学科考古学研究室 山中 章




 スーパー章君登場!!(いずれこれもバックに使わせてもらおうかなと思っています。)これを書いてくれた学生のお母さんはいつも私たちの主催する講演会に参加して下さっているとか、有り難いことです。
 また、今回学生が着る予定の古代衣装は久留倍官衙遺跡を考える会ご所蔵のものです。皆さんも着てみませんか?!

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『後藤陽一先生と私たち』上梓の条

2009-12-10 00:25:36 | yaasan随想
 後藤陽一先生は私の恩人のお一人である。
 その先生が亡くなったのが2002年3月17日。88歳だったという。その追悼文集を作るということで2003年に依頼の文章が来た。直ぐに拙い文章を認めて出したのだが、その後どうなったのかすっかり忘れていた。
 ところが12月4日になって表記の冊子が3冊送られてきた。あれから6年である。61人の教え子達が思い思いのスタイルで先生のお人柄を語っている。中にはこの間に亡くなられた方もいらっしゃる。それだけになんだか不思議な気のする冊子でもある。

 後藤先生に初めてお会いしたのは1969年6月4日のことである。
 その頃広島大学は全学封鎖の真っ直中にあり、4月に入学したはずの私たちの入学式は行われないままに自宅待機が命ぜられていた。

 もっともそんな命令に従うつもりは毛頭なく、早く京都から出たかった私は4月初めに翠町の下宿に入っていた。そして運命の4月10日。たまたま大学見学にでも行くか、と訪れたその日が文学部団交その日だった。
 以下の詳細はどこかに書いたのでこれ以上は触れない。

 そしてようやく決められた「入学式」忘れもしない大学の向こうを流れる太田川の対岸にある吉島公園に集められた一年生は飯島学長の「訓辞」を聞かされ、その後、クラス毎に集められて「大学生活の心構え」をたたき込まれた。

 これが私たちのクラス担任、後藤陽一先生との初めての出会いだった。先生は日本近世史の大家であられたが、大学の都合なのだろう、考古学の専攻生であった私たちも担任されることになっていた。総勢16人、極一部を除いて反骨精神盛んな奴ばかりが揃っていた。初日からクラス会はまるで担任の糾弾会であるかの如き様相を呈していた。

 朗々と響く大きな声で先生はその一つ一つに反論を加え、「君たちが今やることは学問の基礎的勉強である」と述べられた。

 もちろん私の答は「ナンセンス!!」の一言であった。

 その後先生に会うこともなかったが、8月17・18日に全学のバリケード封鎖が解除され、私は囚われの身となった。1ヶ月半ほど後、保釈されたその身柄を預かって下さったのが後藤先生だった。お礼のご挨拶に行った私だが、そこでも素直にはお礼を申しあげることができなかった。

 そんな学生の将来を案じ、決して表に出られることはなくこっそりと支えて下さったのが先生であった事を知ったのはずっとずっと後のことであった。そして、この文集を通じて新たに知ったのが、山口県平生町の『町史』編纂にまつわる事実であった。『平生町史』は私たちの先輩で、前島根大学教育学部教授相良英輔さんの編集になる書籍である。授業に出るわけでもなく、かといって反戦運動をするわけでもなく、所在なくブラブラしている私たちを、今一度(初めて?)学問の道へ導こうとして、表向きは金が稼げるから!という触れ込みで、海辺の小さな公民館に監禁されたのである。

 夏の暑い公民館で1ヶ月も居ただろうか?古文書などに全く興味のない私には苦行以外の何ものでもなかった。しかし友人達はあっという間に「フニャフニャ文字」をマスターし、原稿用紙何枚にも渡って翻刻を行っていく。内心羨ましかったのだが、私の能力の無さを悟った相良さんは、明治の謄写版書きの史料を与えて下さり、その翻刻?をやらせて下さった。

 文集に記された相良さんの『思い出』によって、この『平生町史』編纂こそ、後藤先生が密かに相良さんの能力を見抜き、学者として一本立ちできる材料としてお奨めになったのだと知った。私自身は結局大した仕事もしなかったのだが、友人の一本立ちしていく姿に大いなるコンプレックスを抱き、「いつか何とかしなければ!」という小さな闘争心の種火を熾して頂いた貴重な経験だったのである。

後藤先生を偲んで作られた追悼文集『後藤陽一先生と私たち』にはそんな先生のお人柄を示す温かい、教育者としてのお姿が随所に鏤められている。

 私にとって忘れられないのは、広島の西郊外、五日市にお住まいの先生のご自宅に博士号の証書と共に、拙い論文集『日本古代都城の研究』(柏書房1997年)を持ってお伺いした時であった。それはそれはとてもとても喜ばれて、涙を流して受け取って下さった。

「あの単細胞、暴力学生がこんなものを持ってきおった!」というところであろうか。私が申しあげることはただただあの当時の非礼であったが、先生はそんなことお構いなしで、奥様に訥々と私のいいところ(そんなものあるはずもないのだが)をお話しなさった。一流の研究者にして、人間味溢れる教育者。大学人としてのあるべき姿を目の前で示して下さったのである。私の父とどこか顔かたちの似ている先生。もう一度お伺いしようと思いつつ、結局お亡くなりになった時も中国陝西省にいて発掘調査で現場に出ていた私は、最後まで不義理をすることになった。

 そんな先生への思いを甦らせる文集を手にとって読み進めば進むほどに、教育者のあるべき姿を肝に銘じることになるのであった。

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木簡学会と青不動・師走の駄句集の条

2009-12-07 23:50:58 | yaasan随想
 先週もまたとても忙しかった。
 もちろん日頃の準備不足が招いた自業自得の結果なのではあるが、水木とソファーで二時間ほどうたた寝しただけだったので流石に金曜日の夜は堪えた。
 そして、土日は恒例の木簡学会。一応委員の端くれなので、9時の会議から出席しなければならない。今年は学会の30周年と言うことで、関係の委員の方々はとても大変なのだが、私のように何も役割がない人間はいつもと変わらぬ研究会であった。



 青蓮院の庭もなかなか見応えがある。

 ただ、残念だったのはいつもの奈文研の講堂が耐震構造のために改修中ということで、会場があちこちに移動しながらの開催で、是も疲れる原因だった。もっともこれまた担当の委員の方はとてもとても大変だったろうにと申し訳なく思う。感謝!

 今年は30周年に重きが置かれたせいか余り目新しい研究発表はなく、最新の発掘調査成果が中心だった。そんな中でも平城宮の朝堂院の直ぐ東の官衙区画から発見された木簡の焼却土壙?はなかなか面白かった。まだ木簡の洗浄途中での発表なので、中味に関してはほとんど触れられなかったのだが、土壙の状況が詳しく報告された。時間がなくて十分に質問できなかったのだが、おおよその見当はついた。

 少し嬉しかったのは、トイレを壊して木簡の焼却土壙が設けられたとかで、「木簡クソベラ」説がさらに動揺するらしいことが判ったことだろうか。もっともこの資料がいつ正式に報告されるのかは相変わらず不明だが・・・。

 それにしても宮城のど真ん中で何年も塵の焼却穴が使い続けられたというのは本当だろうか?ましてやその直ぐ横には大事な資材を保管する(一説では廩院だそうだが)倉庫が置かれているというのに・・・。信じられん!!ま、これも正報告書が出るまで答は闇の中なのだが。

 そんなこんなで少々疲れたので二日目の午後に開かれた一般向けのシンポジウムは、一般参加者の座る場所もないということで、遠慮して、何人かの仲間と京都青蓮院他に移動し、最後の紅葉を見学して酒宴を開いた。青蓮院では国宝の青不動が公開されていた。 
 その折の駄句を久しぶりに一挙掲載!!



 随分枯れてしまったがそれでも美しい紅葉

 炎揺れ 青不動の先 枯れ紅葉
(ほのおゆれ あおふどうのさき かれもみじ)



 池に散った紅葉もまたなかなかの風情である。

 紅葉葉の 揺れる水面に 妹が影
(もみじばの ゆれるみなもに いもがかげ)

 青不動 はゆる紅葉に 祈る君
(あおふどう はゆるもみじに いのるきみ)



 久しぶりに疎水沿いを歩いた。

 白しぶき 寒風の先 赤煉瓦
(しらしぶき さむかぜのさき あかれんが)

 琵琶湖から 運ばれ来しや 枯れ紅葉 
(びわこから はこばれきしや かれもみじ)


 
 姿を現しつつある大極殿。その前では遷都1300年のセレモニーのための「整備」が進む。

 三笠山 吹き下ろす風に 金の鴟尾
 (みかさやま ふきおろすかぜに きんのしび)

 寒水に 鈴守が墨 包まれて
 (かんすいに すずもりがすみ つつまれて)

 塵溜めに 驚きの声 師走の会
(ごみために おどろきのこえ しわすのえ)


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