yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

寒風の伊勢湾をバックに年越しそばの条

2010-12-31 23:55:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今年最後のブログは今年を象徴するようなシーンでおさらばです。

 広島から帰って、ずっと缶詰状態で缶詰ばかり食べ、とうとう年越しも伊勢湾を見ながら学生の作ってくれたどん兵衛で年越しです。来年こそこんなことにならないよう、用意万端、計画的に頑張ります。

 寒そう!!

 いろいろありましたが、とにかく有り難うございました。

 来年もよろしく。

 よいお年を!!

 缶詰で 缶詰喰って 年を越す 企良

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「藤原宮大嘗宮跡」と「長岡宮西宮跡」報道にみる考古学による都城研究の現状を憂う-2の条

2010-12-31 18:10:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 12月19日の関西地方の新聞各紙は「長岡宮西宮発見」の報道で賑わった。流石に四大紙は一面には載せなかったが、地元新聞はカラーで一面と社会面に大々的に載せた。

 普通なら、こうして大きく載れば、長岡京への関心が高まるし、遺跡の保存にも繋がるので嬉しく思うのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 あまりに遺跡の「解釈」が一部の説に都合よく組み立てられすぎているからだ。つまり、与えられた資料で「解釈」が一つしかない場合はその様に組み立てるのはやむを得ないことである。しかし、これまでにも複数説の可能性が指摘されている遺構を「解釈」する場合には当然その両説を天秤にかけ、最新の調査結果と合わせてどちらが正しいのか(また別の考え方はできないのか)を判断するのが学問の常道である。ところが今回は一方の説を主張するものが調査に関係した結果、他説は排除され、自説に都合のいいことだけが説明され、マスコミに流された。公金を使ってこんなパフォーマンスをすることが許されるのだろうか?

 実は今回「発見」された遺構は34年前に長岡宮跡発掘調査団によって調査され、その後報告書も刊行された遺構の延長部に当たっている。報告書でもこの重要な遺構が何なのか自問し、「西宮か嶋院」と推定した。その根拠は明確には述べられていないが、大極殿の西にある可能性の高い複廊を持つ重要施設候補としてこの二つの施設が推定されたのだと思われる。

 その後、近年にいたって、この回廊が西に曲がるものと仮定して「西宮」説が主張された。その根拠は、西宮を大極殿の北に推定する既存の説では、現在の地形の起伏から西宮を配置し得ないという状況証拠によるものであった。特に新たな資料が提示されたわけでも、新たな資料解釈によるものでもなかった。従来の見解でも北の地形が起伏に富んでいることは認識されていた。しかし、古代の建築技術にとって起伏が建築の決定的な障害にはならないと判断され、長岡宮造営当初の他の宮殿の建築状況から難波宮で北に置かれた内裏がそのまま長岡宮でも北に置かれ、これを西宮と呼んだのだと考えられてきたのである。

 34年前の複廊遺構を「西宮」とすることに大きな障害となっていたのが、出土した瓦であった。この複廊施設が難波宮の内裏を移転したものであるならば、当然大極殿や朝堂同様難波宮式瓦の比率が圧倒する(90%前後)はずなのである。ところが34年前の調査では(その後もう一度同遺構の一部が調査が行われこの時の出土資料も加えると)、平城宮式(長岡宮で初めて使用が確認できる瓦を含む)と難波宮式の瓦の比率が2対1と逆転するのである。こうした瓦の組成はこれまでの研究では長岡宮後期の造営に伴うものなのである。この点を克服することなく「西宮」説はあり得なかった。にもかかわらず唱えられたこの説は一般書籍にまで使われることになり由々しき問題を引き起こしていた。

 今回の発表ではこの事実も隠されていた。あたかも難波宮式瓦だけが出土したかのように巧みに表現されていた。なぜ?

 そして今回、回廊は東へ折れ曲がり、根拠は失われたかに見えた。ところが、東に曲がっても「西宮」だというのである。その根拠は近年発表された橋本義則氏の「内裏二空間準備説」である。古代の日本の都はある時点から東西2箇所に内裏(的)空間を用意したというのである。平安宮城はその最も典型的なもので、西に置かれた「宴松原」の空間こそその名残だというのである。だから今回のものもその証拠になるという。

 なるほどとても興味深い説である。私も20年前に平安宮城の官衙配置を分析する中から、この空間が東の内裏空間と相似形で、大極殿中軸線を挟んで左右対称にある特異な空間であることを指摘したことがある。そうした分析結果が文献史学からも裏付けられるのかと思い、とても興味深く拝読した。

 だからといって今回のものがそれだというのはあまりに飛躍しすぎている。考古学の精度の高い調査成果を無視しすぎているのである。東に存在する延暦8年に遷された東宮の空間と今回の東に折れた結果成立する空間とでは、位置も規模も全く異なるのである。半世紀前の平板測量しかなかった時代の遺構の比較検討ならいざ知らず、今や長岡京はミリ単位で遺構位置を比較する精度の高い測量成果に基ずく研究段階に達しているのである。故高橋美久二さんが導入し、私がそれを継承して率先して実行してきた国土座標による調査手法である。それによって長岡京の条坊制の独自性も、伝統との比較研究も可能になったのである。

 その精度の高い測量成果を無視して、10~20mもの差異のある軸線のずれを平気で「対称の位置」にあるというのはどういうことなのだろうか。私達の研究はもう一度50年前に戻らなければならないのだろうか?

 さらに問題なのは、この空間の規模である。34年前の調査で確認された「門」を中心と仮定して折り返すと145m余の規模になるという。西宮は内裏で方形に違いないから、東西もそれくらいあり、東の内裏(約160m四方。ここでも大きな差があるがこれも「似ている」らしい)に匹敵する、という論法である。
 わずかに1間だけ他との距離が長く、棟門ではないかと考えられている「門」を西宮(内裏)の南北の中心位置と仮定して、これを中心に折り返し、規模を推定する手法は考古学、建築史学での常道なのだろうか?
 「否!」である。
西宮だから規模が大きくなければならない、であるためならば大きくできる根拠を探す。適当なところに「門」らしき遺構があるからこれを基準にすれば大きくできる。どこかの犯罪捜査の見込みと似た論理である。まさに予断である。

 そして掘立柱建物の複廊を持つ内裏は古代の都城では平城宮の一時期と後期難波宮しかなく、なおかつ、その柱間の規模が一致するのは難波宮の内裏だから今回の複廊も難波宮を移転したものなのだ、という。なるほど!これしか資料を与えられなければ[なるほど!」と思いたくなる。しかし、難波宮の内裏は東西179mもある。長岡宮の今回の遺構は最大見積もってやっと145m余なのである。30mは誤差の内なのであろうか?信じられない!
 さらに、後期難波宮内裏から出土する瓦にどんな特徴があるのかご存じなのだろうか?ただの難波宮式ではないのですよ!

 本当に古代宮都では複廊は平城宮と後期難波宮の内裏にしかないのだろうか?どれだけ都城の事例をお調べになったのですか?と伺いたくなる。考古学が御専門でない先生方はごまかせても、ちょっと調べれば直ぐにある資料なんです。

 そしてさらに決定的な問題が!!

 西宮にするには規模が大きくなければならない。だから小さな棟門を中心に折り返すと大きくなった。これで万事「西宮」説の下ごしらえができた、と安心されたに違いない。しかし、大きくなればなるほど、南西の隅は現在も「滝ノ下」という地名が残る激しい地形変換点にかかるのである(以前からかかることは判っていたからこれを西に曲げることなどできるはずもなかったのである)。

 つまり一番最初の前提として、既存の説で否定した「西宮を北に置くには地形の凹凸が激しすぎる」というのと同じ事態に立ち至るのである。自説の「西宮」は少々の地形の変化は諸ともせずに建てることができ、他説の西宮は地形が悪いから建たないというのはいかがなものであろうか?

 これって科学的な学問研究の手法なのだろうか。ついそんな表現もしたくなる信じられない論法である。

 その様な非考古学的な、前近代的な手法で出された資料を考古学が専門ではない先生方に示して、賛同させ、自説を補強してマスコミに流す。こんなことありなんだろうか。少なくとも「西宮」説からは遙か彼方に追いやられた「嶋院」説は今回の発見によって荒唐無稽な説になってしまったのだろうか?そもそも先生方にこうした説があることが説明されたのだろうか(もっとも私の旧知の長岡京に詳しい、たくさんの専論のある複数の先生方は、今回の資料を見て、こちらが説明をする前に「嶋院が見付かったの?」と聞かれたが・・・)。

 「ノー!!」である。研究論文を書くとき、学生に口が酸っぱくなるくらい言うことは「研究史をきちんと押さえろ」だ。小説なら好きなように書けばいいのかも知れない(もちろん、正当な歴史小説家は学者と変わらないくらいきちんと資料をお調べになるからこういう言い方も失礼なのだが)。

 現在与えられている資料で本当にこの地に西宮があったのなら長岡宮の造営過程を再検証しなければならないのは事実である。しかし、今回の調査によって、天秤は大きく嶋院説に傾いたと思うのは私や「一部」の研究者だけなのだろうか。

 その根拠は次回詳述するが、こうした非論理的な説の横行が日本の都城研究を益々歪め、若い研究者の興味を減退させているとしか思えないのである。藤原宮大嘗宮跡発見の誤認識同様、ここでも都城研究の空洞化が進んでいる。と同時に発表を鵜呑みにして記事を書くマスコミの取材能力にも疑問符が付くのである。悲しいことである。高橋美久二さんや中山修一先生があちらでお怒りなのではないかと心配だ。

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「藤原宮大嘗宮跡」と「長岡宮西宮跡」報道にみる考古学による都城研究の現状を憂う-1の条

2010-12-29 18:09:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 2010年も終わろうとする時期に相次いで都城に関する重大な発表があった。一つは奈良文化財研究所による訂正発表、もう一つは財団法人向日市埋蔵文化財センターによる新発見報道であった。

 前者は今年の夏に同研究所が大々的に発表した藤原宮朝堂の朝庭から大嘗宮跡が発見されたという発表が間違っていたという報道であった。後者は発見された遺構が過去の調査成果と合わせて検討した結果「西宮」という長岡宮初期の内裏跡だったという報道であった。後者については次回詳述する。

 前者の報道に関してはネットのニュースでみたような記憶があるだけで、当時超多忙で見に行こうとする元気もなく聞き流していたところである。「ま、あるべきものが見付かったと言うことか?」という程度だったのかも知れない。

 ところが、これが調査担当の誤認で、溝を柱穴と間違って認識し、朝庭に柱穴があれば大嘗祭をやった跡に違いないと決めつけて発表したものだったというのである。溝を柱穴と間違うとはどういうことなのか?ニュースを聞いただけではよく判らなかったのだが、上層にある石敷きを外したところ、下から出てきたのは溝であって、柱跡ではなかったというのである。報道はそれだけなのでなぜこんなことが起こったのか未だに私にはよく判らないのだが、では、下から見付かった溝とは何なのか?上層にあった石敷きは外してしまうべきものだったのか?その事実関係がさっぱり判らないのである。どんな調査にも誤解や間違いはあると思う。複雑に錯綜する地層を時間もない中で発掘調査させられる緊急調査ではそれなりに起こりうる事態である。しかし、藤原宮朝堂院と言えば国の特別史跡である。国宝なのである。だから調査は慎重に、丁寧に、時間をかけて、日本一優秀な調査担当者が調査してきた。遺跡を護りながらの調査だから、上層に重要な遺構が見付かれば、どうしても下層の調査は十分にはできない。

 しかし、遺跡は永遠に残るのだから、研究が進み、下層をどうしてもみる必要があれば再調査することができるので、一旦は上層の調査で終わることになる。実際これまでにもそうした再調査はここ数年で何度かなされている。だから本来なら今回もそうすべきだったに違いない。しかし、下層に「見付かった」遺構が大嘗宮となるとこれは大ニュースである。文献史料を裏付けることになるからだ。ならば上層を飛ばしてしまおう!ということだったのかも知れない。事実は不明だが、結果的にはその様に上層の石敷きは外され、消えてしまった。ところが、結果として出てきた下層の遺構は溝だったという。溝をどうしたら幾つもの柱穴に間違えることができるのか?私にはこの点も不可解だが、事実はそうだったらしい(後日、奈文研を最近退職された先輩研究者と話すと「遺跡破壊だ!何でそんな下手くそに掘らすんや!」と怒っておられた)。

 これについてある新聞社から感想を求められたが、その時は事実関係もよく判らなかったので曖昧な意見しか述べられなかった。しかし、今改めて考えてみると、やはり、「功を焦った!」と言われても仕方のないことかな、と思う。近年のマスコミの考古学報道はすさまじい。特に西日本、関西の報道は飛び抜けている。纒向遺跡での大規模建物発見以来の「固有名詞報道合戦」の体をなしている。「邪馬台国」「斉明天皇」「太田皇女」等々。それもほぼ確実と表現される。

 確かに、「大きな建物を見つけました」、「変わったお墓が判りました」、では誰も見に来てくれない。この頃は行政もいかにたくさんの市民の支持を得るか、これが問われるから、発掘調査も公費を使う限り、多くの市民に関心を持っていただかなければならない。そのために一番宣伝効果が高いのがマスコミ報道である。
 そのマスコミ取材で記者は必ず聞く

 「どこが今回の成果なんですか?日本で一番ですか?最古ですか?誰のものですか?・・・・」等々。

 最古でも最大でも、誰のものかも判らない遺跡ならせいぜい地方版に小さく出る程度である。だからといって嘘を言うわけには行かない。例の「旧石器ねつ造事件」はこのことを厳しくいさめているからだ。ではどうするのか。明確な証拠がない限り、いくつかの可能性を提示し、そのどれかが有力である、どちらかというとこちらのの考え方に分がある、等とするのである。それなりに無責任にも聞こえるが、最終的には正式な報告書できちんと資料を提示して考察するのであるから、それは仕方のないことである。後は新聞記者の「判断」に任される。

 当日大した記事がなければ大きく報道されるし、政治的な大事件とぶつかれば記事にすらならないことも度度である。実際、記事がなければ最近ではカラーで新聞の一面に載ることもしばしばである。こうなると関西では万を超す見学者が押し寄せる。

 そんな中で「藤原宮朝庭から大嘗宮跡発見」と報道するのには相当の勇気がいる。確信する材料があるからだと受け取る側は判断する。特に奈良文化財研究所の発表ならである。

 これが間違っていたと言うことになると、影響は甚大である。信用問題となる。会社なら倒産にいたる可能性もある。だから驚いたのである。

 しかし、その予兆は以前からあったような気もする。この頃奈良文化財研究所の現場を訪ねても機械的なことしか説明してくれない調査員が多いのである。いくら質問しても「さー」「知りません」「アーそうですか?」という返答が返ってくることも少なくない。昔なら聞かなくても

「この調査地の隣ではどうだ、さらに何年前の調査がこの辺りで行われてどんなものが出ているから、だからここからでたこんな遺構でもこうしてある施設の一部だと言えるのだ」

と、それくらいのことは知って見に来てるだろうな?と言われんばかりに説明して頂けたものだ。だからもちろんこちらもそれなりに勉強して出かけたものだ。それがこうも変質するのか、と最近では思わざるを得なかった。何でも職員の採用が機械的で、試験、試験、試験のその数値のみが評価されて本人の意欲など評価外だとも聞く。そんな職員だから、直ぐに別の職場での採用があると出ていってしまう新人もいるとか。寂しいことである。

 先日の木簡学会でも、平城宮東方官衙から発見された養老年間の木簡の包含されていた遺構の説明をした調査担当者は何の疑いもなく

 「木簡は整地層から出ました」

と説明した。
「アーそうなのだ、平城京造営当初に大規模な整地が行われ、初期の建物群がこの地にできたのだ。養老の改作の資料なのだ。」
と思った。ところがスライドをみるとその層は真っ黒な色をしており、なおかつ腐食物の多い地層だという。さらによく見ると「整地層」の「端」が写っていて、その端に延びる層を切って遺構がある。???この「整地層」は広い範囲に延びる大きな落ち込み(平城宮造成前からあった凹み等)ではないのですか?」と質問したが、「トレンチは限られているが、「包含層」が浅くて広範囲なので整地層だ」と。要するに浅くて広ければ整地層と言うことらしい???

 「でも普通は整地というのは何か目的があってする造成工事で、平城宮ならば、それも初期の段階ならば宮城内の官衙を建てるためのものでしょうから、こんな腐ったような土を使うことはないのではないのですか?こんな土を使ったら上にできる施設は歪みますよ。平城宮遷都段階にこの地域が低湿地で、水溜まりのような凹みとなっていて、そこに遷都後の遺物がたまっていたのではないのですか?だからこれは大きな凹み(考古学では土坑という)に入っていた遺物と評価した方がいいのではないですか?」

 こんな疑問を投げかけたのだが、芳しい回答は頂けなかった。

 ことは平城宮がどの様な形で造営されていったかを知るとても重要な事柄なのである。但し、そうした課題は一般的にはあまり関心を持たれない。つまり、「○○宮殿発見」とか「□□氏の邸宅跡!」など、説明しなくても直ぐに理解してもらえそうな遺構なら興味をもって調べるが、そうでないと大した追究もしない、まるで素人と同じ立場なのではないかと疑いたくなる。やはり、この担当者も余り平城京のことに関心がないのではなかろうか、そう思ってしまうのである。

 みんなサラリーマン化しているのである(サラリーマンに失礼な言い方だが普通こう言うらしい)。17時までは与えられた仕事をそれなりにこなすが、後は自分の世界。自分の研究に没頭する。こんな職員が増えているのではなかろうか。もしそうだとすると、藤原宮跡や平城宮跡がかわいそうである。

 試験に強い、優等生ばかりを集めた結果がこうした事態を引き起こしているとしたらこれほど寂しいことはない。何事も個人の能力や突発的な事情で起こるものではない。どこかにその原因となる事態が潜んでいるものである。研究所全体にそんな事態が進行しているとするとことは重大である。都城研究が危機に立たされていると言っても過言ではなかろう。「遷都1300年で数百万人の入場者!」、「せんと君がモテモテ」等と浮かれている場合ではない。日本の都城研究の危機が進行していると自覚すべきではなかろうか。

 そして、背景は異なるが同じような深刻な事態を呈したのが「長岡宮西宮発見」の報道であった。長くなったので次回にその詳細を論ずる。

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 師走にも ○○発見 ホントなの

 寒風の 先のロマンを 疑って
  






あと4日、そして今年二回目の最後通告の条

2010-12-28 06:36:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 17日の更新から早11日、ブログを覗くことすらできない超多忙な年末である。



 17日は朝から新聞社の取材に追われ、「長岡宮西宮」説にコメント。もちろんどうしてあれが西宮なのかその根拠が判らないと丁寧に説明。調べれば調べるほど「長岡宮嶋院」であると確信。しかし取材を受けなかった新聞社は「西宮」で大々的に報道。ある新聞などはカラーで一面トップに。考古学の資料がこれほどまで発表者の都合で適当に組み合わされて報道されることの恐ろしさを実感。この件については後日この欄で詳細に論ずる予定。



 18日は午後からこの春に急逝された私の高等学校の時の恩師で、かつ、長岡宮の遺跡の保存にご尽力頂いた須田久重先生のご自宅にお参りに伺う。奥様に生前のお元気な様子を霊前の写真を拝見しながら伺い、寂しさがこみ上げる。特に生前先生が「あなたのことばかり自慢するのよ」と仰って下さった奥様の言葉に胸が詰まる。 

 お参りをして直ぐに急いで京都市内へ戻る。今年の正月に出版できた『平安京とその時代』の刊行記念パーテーを執筆者と出版編集者とでささやかに開催した。場所は執筆者の一人でもあるYEさんが主催される「平安京まちや」。山海の珍味のフルコースをたらふく食べるという贅沢な食事に、深夜11時過ぎまで時間の経つのも忘れてお喋りしまくる。



 出版記念といっても本当の目的は「朧谷寿先生の古希記念」なのだが、先生が5月に奥様を亡くされておられるので「先生を励ます会」だった。風邪を引かれたと言うことで、マスク姿、ガラガラ声に心配したが、会が進む内に少しお元気になられて一同一安心であった。



 もちろん十年会のメンバー全員が勢揃いし、会の盛り上げに努めたのだが、その中でも闘病中のAEさんが元気な姿で参加してくれたのがとても嬉しかった。あれから7年、奇跡が完成することを祈るばかりだ。



 遠路東京から駆けつけて下さった東大史料編纂所のTKさん、最近京都に居を移されたという山口大学古代史のHYさん、授業を終えたばかりだという京大考古学のUMさん、何かの会とバッテングしたとかで少し遅れてこられたが京大中世史のMYさん、同志社大学古代史のTA さん、元京都市文化観光局のKTさん、最年少現役大学院生のYYさん、そして私達十年会の朧谷先生を筆頭に6人のメンバーと思文閣出版編集担当のHさんとNさん。6人の方が残念ながらご欠席だったが、蒼々たるメンバーが平安宮内裏の一郭にある「町屋」で熱気溢れる激論?を交わし楽しい一時となった。こんな会ならいつまでもやっていたかったのだが、二日後から広島大学へ集中講義に行く私はそうも言っておられず、二次会で打ち止め。深夜に我が家へ帰った。

 19日は集中講義の資料作りに追われ、20日から23日までヒロシマへ。

 今回は今年の授業でやっている「考古資料で分析する古代駅伝馬制からみた古代情報伝達システムの多様性」がテーマ。この間進めている鈴鹿関を中心とした古代の交通情報管理体制は考古資料を駆使してやればやるほど面白く、深いことを知る。その一端をなんとか伝えたかったのだが、縄文時代の石器などをやっている学生が多く、果たしてどこまで理解して頂けたか・・・、少し不安。

 もちろん広島大学には旧友が二人もいて彼らとの宴も楽しかった。42年の時を経て学生時代そのままのため口でワイワイやれることほど気の晴れることはない。翌日の授業がなければ朝まで語り合いたかったのだがそうも行かず、中途半端な酒で毎日を過ごす。最終日前日には学生が用意してくれたなべで語らう。社会人の方がお一人いらっしゃり陶棺研究についていろいろ話しをすることができた。それにしても広島大学の考古学研究室は私達が習ったときの先生方が相次いで亡くなられ、三年後には創立50周年だというのに、そのトップが私達世代というから寂し限りである。








 最終日には授業の後、たまたま開かれていた東広島市の「横田1号遺跡」発掘調査現地説明会に旧友の車で向かう。ガラス管玉というとても珍しい遺物があるというのと、その直ぐ近くが旧友の研究成果で明らかになった古代山陽道の推定場所だというので楽しみにして向かった。斜面地に点在する竪穴住居址群は西条の盆地を見下ろす絶好の位置にあった。残念ながら古代の遺構は全くなく、直ぐ北を通過すると推定している山陽道に関連する遺構は見付からなかったという。

 会場では広島県の考古学研究者に次々と会い、旧交を温める。

 その後広島へ向かい八・六以来の先輩と杯を交わしながらこの停滞した世の中を憂い、遅くまで語り合った。

 24日に久しぶりに京都に帰りゆっくりしたのもつかの間、25・26日は歴博の共同研究で大津市埋蔵文化財センターへ。たっぷり関東の古墳時代研究の最新の成果や、古代山城研究の現状と課題、そして大津京の最新研究成果を聞き、翌日は少々二日酔い気味の頭で、寒風吹き荒れる崇福寺、穴太百穴、南滋賀廃寺、大津宮を歩く。ちょうど四年生の卒論のテーマの一つなので、何度も来ている遺跡だが、眺望をテーマに見て歩く。以外にも崇福寺の北尾根俗称弥勒堂から浜大津の湖岸が見えることが判明。もちろん、大津宮は見えず。学生の研究を聞きながら考えた崇福寺建立の目的の一端が見えたように思う。




 そして昨日27日は四年生の卒論の提出直前指導。五年生二人を含めた7人の卒論進行状況をチェックしたのだが、一人を除きまだまだ時間がかかりそう。特に折角いい資料を作りながらなかなか文字にできない学生の苦闘の姿に少し不安を覚える。しかし、今年はいつになく豊作の年で、就職する学生も含めてみんなとてもよく頑張っている。30周年の論集に載せたいものもあるので、そのつもりできちんとまとめるように指示する。若いっていいですね。羨ましい!!








 その後ささやかな忘年会の宴。いつも元気なYSが体調不良で元気のないのがとても心配だったが、すき焼きと湯豆腐という訳のわからない組み合わせで宴が進行。最後の最後になって四年生5人がみんなの趣味を聞き合っていく内に女子4人の内三人の趣味が「カンジャニ8」だと言うことで大盛り上がり。私には「寒鮭」としか聞こえず、何のことやらさっぱり判らず、ポカ~ン???要するに関西のジャニーズだとか?それでもよう判らんが、今度卒論の打ち上げは「カンジャニ」オンパレードと決定。では私はAKB48で対抗しようかな??ということに。やっと公式行事が終わって家に帰れるかと思いきや。これから年末まで大学に籠もって最後の最後の最後通告完成に向かって集中。

 本当に除夜の鐘を聞きながら近鉄に乗っているかも。

 最後は「藤原宮大嘗祭と長岡宮西宮にみる考古学による都城研究の現状を憂う」でこのブログを締める予定。もう少しお付き合い下さい。

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 師走にも 原稿に追わる 今年かな 





河野先生の講演会に関する三重大生の感想文が先生のブログに掲載されましたの条

2010-12-17 02:49:38 | yaasan随想
河野先生の講演会を聞いた三重大学の学生の感想文が河野先生のブログ「河野美代子のいろいろダイアリー」に掲載されました。

http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-9a37.html#comments

是非アクセスしてみて下さい(広島ブログランキングポチッとも忘れないでね)。

 この感想文は今回の講演会に裏方としてとても熱心に、丁寧に支えて下さった人文学部のTA先生の学生さん達のものです。特にご指導なさっている院生のTMさんにはチラシ撒きやら、先生の送迎やらで大変なお世話になりました。私はこうした熱心な院生こそ大学が「デートDV相談員」として雇用し、学生の悩み解決に対処すべきだと思うのですが、いかがですか。漠然と事務職員を幅広く全国から雇用するよりよほど学生達の意欲も増すし、三重大学の就職率を高めるにも役立つの思うのですが。

 日本の大学でもこうした「相談員」を置いているところ、「相談員制度」のあるところはそんなにないと思うので、その先駆けとして取り組むべきだと思うのです。

 つい最近も周辺で学生がそうした行為に巻き込まれているのではないかと思えることがありました。そんな時、こんな制度があって、その相談員が同じ年代の女性だとなればとても相談しやすいと思うのです。

 是非全国の大学でこれを当たり前の制度として定着させようではありませんか。「デートDV相談員制度」実現したいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

ここから私の研究史が始まった~33年前の私『木簡研究第32号』の条

2010-12-14 15:34:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 

 第32回木簡学会



 33年前、木簡学会の設立される前には3回にわたって木簡研究集会が開かれていた。全国の木簡出土遺跡の概要を担当者が報告し、木簡釈読による遺跡の評価を文献の方々が報告するという現在のスタイルの原形が既にできあがり、行われていた。

 その三回目の研究集会は1977年12月に行われた。そして、なぜか私もこの研究集会に参加していたのである。まだ向日市教育委員会に就職して1年しか経っていない私だったが、その年の6月から7月にかけて、工事現場でたくさんの土器が出土しているという情報が寄せられた。確かに木製品やら土器が地表面わずか30センチばかりのところから顔を出しているのである。工事をしていたのは地元の土木工事専門の小さな業者だった。工事はどんどん進んでいく。現場の工事の社長に言ってもらちが明かない。直ぐに元請け業者に連絡した。けんもほろろに断られた。しつこく頼むととうとう「先生」から呼び出される羽目になった。その事務所でこれまた延々と説得を続ける。粘り勝ちだった。やっとの事で1ヶ月だけ期間をもらって調査することが許された。もちろんお金など出してくれるはずもないから、わずかな補助金を回して調査することにした。

 大変な苦労をして事前指導をし、説得に説得を重ねて調査の許可を取り付けた甲斐が直ぐに現れた。木簡が次々と出てきたのだ。

 その当時都の調査でどんなものが出るかと言うことを十分に理解していなかった私は「歴史時代の遺跡というのはこんな字の書いた資料がたくさんでるんや?!」という感じでこの状況を見ていた。すると噂を聞いて駆けつけてくれた当時京都府教育委員会の技師をなさっていた高橋美久二さんが、目の色を変えて木簡を洗い出すと共に、直ぐにあちこちに電話しだした。二三日すると当時内裏公園の中にあった小さなプレハブには4~5人の青年達が集められていた。

 奈良国立文化財研究所の狩野久部長を筆頭に、鬼頭清明さん、加藤優さん、横田拓実さん、今泉隆雄さん達だ。その当時まだ私はこの方々が日本の木簡研究を先頭になって引っ張っておられる方々だなどと全く知らなかった。さらに三日して岸俊男先生がプレハブに来られた。先生を前にして皆さん方の緊張している姿が手に取るように判る。もちろん高橋さんもだ。岸先生が何の先生かも判らない私は、別に緊張することもなく黙々と現場から木簡を運び込む役に徹していた。

 一段落したところで、皆さん方から丁重な説明を受けた。
 ①何でもこの木簡は太政官の下にあるどこかの役所が保管していたものであること。
 ②様々な請求書などがあること。
 ③日付も長岡京にピタリと当てはまる延暦8年9年のものが中心であること。
等々、画期的な発見であると告げられた。そんな形で現場と木簡の釈読がほぼ同時に進められたお蔭で、現場が終了する頃にはほとんどの木簡の釈読は終わっていた。終わってしばらくして高橋さんは私にこの現場の概要を原稿に書けという。促されるままに書いた初めての原稿が「長岡京出土の木簡」(第一法規出版『月刊文化財 10月号』1977年 東京)だった。もちろん木簡のことは高橋さんがお書きになった。

 そしてその直後のことだった。

 「こんな会があるから山中君報告して。」と仰る。こんな会がどんな会かも判らない私は要するに月間文化財の自分の書いたことを喋ればいいのだろうと思い、スライドの説明を中心に話したらしい。全く当時の自分の行動を覚えていない。その会の後で記念写真を撮るから並べといわれる。もちろんほとんど知っている人はいない中でわずかに知り合いになったばかりの今泉隆雄さんの横、高橋さんの斜め後ろに小さくなって立った。

 それがこの写真である。あまりの変わりように私も周辺の誰も、私がどこにいるか全く判らなかった。別の会場に行くと、この写真の大きなものが展示してあった。

「山中さん痩せてますね~」と誰かが私を指さしていう。
「エッツ私どこにいるのですか?」
「これですよ。お若いですね。」

さて、私はどれだか判りますか?

 というわけで、なぜか私は木簡学会創設直前の研究集会に参加し、そのまま大した資格もないのに、会員となることができたのである。

 私の研究者としてのささやかな第一歩であった。もちろん、高橋美久二さんが薦めて下さらなかったら(高橋さんが全部報告なさっても何の問題もなかったのだ)、私はきっと普通の掘り屋になっていたと思う。そんな思い出の一杯詰まっている写真が最新の『木簡研究』第32号に掲載されている。そしてこの巻頭言を書いていらっしゃるのが、その後の長岡京木簡研究を先頭になって引っ張ってこられた清水みきさんである。

 私の写真はどうでもいいのだが、とても重みのある巻頭言。是非皆さんに読んで貰いたいものだ。

『木簡研究第32号』(2010年12月)

      巻  頭  言 ― 遺跡のなかで木簡を読む ―

 初めて木簡学会に参加したのは第六回木簡研究集会で、長岡京遷都千二百年を記念する『長岡京木簡一』の販売要員としてであった。売れないのではとの見立てで送り出されたが、長い列をつくり申込んでくださる氏名欄は著書、論文で存じ上げる方々のお名前で一杯になる。ここは古代史を学ぶ者にとって特別な空間なのだという感嘆が、木簡学会に対する第一印象となった。
 木簡学との出会いは、奈良文化財研究所で狩野久先生の集中講義を受けた時にはじまる。型式分類・内容・機能と用途・導入されたばかりの保存処理技法などの基礎を学び、最終授業は見取図の作成であった。白木の箱の中で絹布団に包まれた木簡の一本を、触れて差障りはないものかと畏れながら手にしたと記憶する。
 考古資料としての特性をもつ木簡をいかに活用していくか、その目的を達成するため発掘調査担当者との緊密な連携や情報の共有化が、岸俊男会長の『木簡研究』創刊の辞や山中敏史氏の第三一号巻頭言などでしばしば言及されてきた。全国各地の遺跡で出土する木簡の多くは地方の行政組織の中で取り扱われている。そこで、地方行政の末端に所属し文化財保護行政に携わり、木簡の調査を担った者の一人としてささやかな経験と現状の課題について記してみたい。
 発掘される夥しい木簡は千有余年の時をへて、腐食し、脆弱な状態で上がってくる。これらを薄い墨痕も見のがさないよう細心の注意を払って洗浄・釈読・実測し、写真撮影する。刻々と変化する木簡の状況から漏れなく情報を採取し、記録に残す。その後も、木簡の維持保管、保存処理という難題が待ちうけていて、小さな組織にはかなり負担の重い義務となる。 
 ところで木簡を読む者の役割はなんであろうか。第一は発掘現場の要望に応えることだと考える。現場調査員は発掘しながら遺跡・遺構の性格を理解するためにアンテナを張り巡らす。歴史時代の遺跡において文字資料に期待される部分は小さくない。それ故、発掘調査期間中にできるだけ早く正確な情報を届けなければならない。第二は釈文と解説を付した報告書の刊行である。木簡を実見することの難しい研究者のために、釈文と木簡情報は何にもまして正確を期さねばならない。史料として活用されますようにと願う、密かな高い目標は『大日本古文書』であった。そのために、複数の優れた目を通して確認すること。とりわけ鎌田元一氏、東野治之氏、今泉隆雄氏と奈良文化財研究所の方々には数えきれないほど御協力をいただいた。 
 遺跡の発掘は、原則的に開発事業主の費用負担によって成り立っている。随所に木簡が埋もれている長岡京のような都城遺跡では、いったん開発がかかると地中環境の変化が周辺地域にも影響をおよぼし、地中の木簡は劣化し失われてしまう。したがって、文化財担当者として事前協議や調査設定をおこなう際には、関係者の協力を得てできるだけ木簡を掘り出し、保護を加えるようにした。地方行政の現場で木簡を読む醍醐味は、遺跡調査と一体となって古代史研究を進められることにある。どのような小面積の調査でも、計画的に文字資料の情報を蓄積していけばジグソーパズルのように少しずつ全体像が見えてくる。春宮坊、離宮、宮外官衙町、各種規模の邸宅など、長岡京の構造が朧気ながら姿を現してきたのは発掘調査と木簡研究が協働した賜物と思っている。木簡を読むことが遺跡の理解を深め、遺跡を熟知することで木簡を豊かな史料として後世に残すことができる、と確信する。
 遺跡保存では幾度も厳しい現実に向かい合う。ことに長岡京東院を発見する現場は、開発協議の開始を前に発掘回避の意向が下り、担当者としては譲れない調査実施に漕ぎ着けるまでの軋轢があった。壮大な建物遺構が桓武天皇の東院であることを証明した出土木簡群は、歴史史料としての木簡の意義を明らかにするものであった。その年に異動があり木簡に接する仕事から離れたのが、遺跡を守れなかったという思いは消えることはない。木簡学の基礎資料を担う地方の発掘調査組織は、行政改革などによって文化を支える力の弱体化が危惧される。今こそ遺跡に根ざした木簡研究の再構築を願っている。(清水みき)


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お久しぶりです!初めての最後通告を乗り越え、やっとやっと一つ終わりましたの条

2010-12-13 17:58:10 | yaasan随想


 楽しい楽しい関西還暦大集会でした。このお店「ル・クープル」、美味しかったよ。

 河野先生の講演会の後どっと疲れが出てぶっ倒れていたのでは?等と思われるかも知れませんが、決してそんなことはありませんよ。むしろ河野先生にはエネルギーを頂いて元気になりました。感謝です。

 翌週には大宰府で行われた調査指導委員会へ、翌日、私にとってはたった1人残っている遠い親戚(当日おばさんに聞いたところ、私の母とおばさんの父とが従姉だとか)のおばさんのお見舞いに東広島へ。これだけ遠い親戚なのですが、なぜかとても親しくて、私が広島大学にはいるときや、卒業後就職するときにはとてもお世話になった方なのです。だからとても心配しながら伺ったのです。

 そして週末の土日は引き続き木簡学会、さらにその翌日は長岡宮城での新発見の現場へ。火曜は朝から晩まで授業。水曜は午前授業午後教授会。木曜は朝から晩まで授業。やっと週末と思ったら今年は週末に大阪まで出前授業。これで帰れると思うのが大間違い。実は木曜の昼に「最後通告」を人生初めて受け取ったのであります。二日後、つまり11日までに出さなければ切ります!!という。ショック!!もっともきっとそうなるだろうなという予感はあったので、それなりに追い込みをしていたから二日あれば何とかなるとはいえ、流石に参った!!

 もちろんここまで書かなかった私が悪いに決まっているので、誰に苦情を言えるものでもない。よくぞ今まで我慢して下さったものだとただひたすら感謝して何とか書き上げ、提出。

 フウウッツ!!



  この中で還暦をまだ迎えていない人間が3人います。誰でしょうか。

 そして昨日はとてもとても楽しみにしていた還暦大集会!

 もちろん僕はもう済みましたよ。僕の大学の同級生&そのお連れ合い達の還暦祝い。総勢6人!!もっともそのうちの2人は本当は昨年が還暦。なかなか時間が取れず、失礼したので今年で我慢してもらった。ごめんなさい。







 もう42年もの付き合いになるホント気心の知れた友人達。あっという間に時間が過ぎ、富田林を後にしたのが22時30分。帰宅したのが0時15分。楽しかった!!

これから『延喜式』研究会なのでちょっと中断して出かけます。また後で。

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