yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

Hadrian's Reports -3 ただ今ダーラムからロンドンへ向かっていますの条

2007-03-29 19:14:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
3日間のダーラムからのHadrian's Wall探索の旅を終えて、今ロンドン、キングスクロスへ向かう車中です。有料ではありますが、車中でこの様にメールやインターネットがつなげるのは快適です。

とは言っても速度が遅いので、なかなか繋がりません。

速報をお送りします。

とにかく素晴らしい遺跡であることを再認識しました。昨年のニューカッスルと合わせて今回西端のソルウエーまで行きましたので、ほぼ全長城を回ったことになります。

その詳細は帰国後にするとして、エッセンスを少し車中からお届けします。

27日は木簡の出土で有名なヴィントランダに行きました。調査担当のアンドリューバーリーさんの丁寧な説明を聞きながら、遺跡を堪能しました。


(西端はラムサール条約にでも登録されていそうな?!大干潟でした。海の向こうはスコットランドです。)
なんと言っても西端に行けたのはレンタカーのお陰でした。私の運転で、ものすごい霧の中をおそるおそる運転しながら、途中道に迷ったのですが、何とか西端に行き着くことができました。


(石切場)
西端から逆に東へ向かって、頂上に取り付くフォートにできるだけ足を伸ばしながらダーラムまで帰って来ました。

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Hadrian's Wall Reports-2 ロンドン塔とロンドンウオールの条

2007-03-26 16:37:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨日は、前回回れなかったロンドンウオールの一部とロンドン塔を回りました。

(まずロンドン博物館の横の14番を反対方向から見学)
手短にロンドンからのレポートを

ロンドンウオールには遺跡毎に番号がついているのですが、その番号を一覧にした地図が手元になくて、遺跡を順番に巡りながら追いかけていったのですが、途中で遺跡のあるはずのところになくて、結局全部を回ることはできませんでした。29日に時間があれば回ります。


(地下通路にあった5番)
それにしても友人の黄暁芬さんもイギリスにいたらしいのですが、僕と入れ違い!残念。

これからキングスクロスから列車に乗ってダーラムへ向かいます。

とりあえず、メールチェックでインターネットに繋いだので簡単なレポートで、また後日。


(探すのに苦労しました!こんな地下道の中ににあるんですよ)
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Hadrian's Wall Reports -1 憧れのハドリアヌスに会いにの条

2007-03-24 05:59:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 これからイングランド中部に2世紀前半に建設されたハドリアヌスの城壁に行ってきます。


(Hadrian's Wall 最東端に残された城壁の基底部。昨年3月にはこれしか見られなかった。2006年3月のブログをみて下さい。今度はここから西に向かって、カーライルまで車で移動しながら、各フォートを見てきます。)
 年度末の忙しい時期に何を好んでと思われるかもしれませんが、あらかたの仕事を済ませ、この時期にしか抜けられないので行ってきます。

 先にご報告した大学の現状について、我が構成員の大半はよく知らないようで、そんな記事がどこに載っていたのか教えろ等と言うことが話題になる現状です。寂しい!!

 それよりも何よりも中身の濃い大学教育をどの様にやっていくのかが一番問われているのだと思います。コメントいただいた方のお子さんのように、志を持って進んでこられる学生さんはここのところ大変少なく、大学という海の中で溺れ、方向性を失い、社会へ出て行くという可愛そうな現実があります。そんな子供達のために何をすればいいのか、これこそ「教師」たるものの努めなのではないかと強く思う今日この頃です。

 そんな子供達のためになんとか文章を書き上げ提出しました。後はお上の判断を末だけです。

 一応の仕事の区切りをつけたので(本当は一杯一杯仕事があるのです。特に研究面での仕事は結局何も片付きませんでした。 情けない!)、昨年からの課題であるHadrian's Wallを見にいってきます。

 帰国後直ぐにまとめなければならない鈴鹿関の評価にも大いに関係すると考えており、大変楽しみです。現地でインターネットに繋ぐことができれば、生レポートをお送りします。お楽しみに!
 なお、今回は初めて国際免許で、車での移動です。果たして無事に帰れるかどうか?これまた大きな問題です。

 それでは皆さん行ってきます!!

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大学報告  大学改革は「狼が来た!」脅迫論の条

2007-03-21 05:33:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 こんなニュースが飛び込んできた。

 「日本の半分の県から国立大学が姿を消しかねない――。国立大への国の運営費交付金の配分方法について、経済財政諮問会議の民間議員が「競争原理の導入」を提言したのに対し、文部科学省がこんな試算をまとめた。国立大の危機感を背景に一定の前提を置いて計算したもので、諮問会議側を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。発端は、日本経団連の御手洗冨士夫会長ら民間議員4人が2月末の諮問会議に出した提言。運営費交付金が、学生数や設備などに連動して配分されている現状に疑問を投げかけ、配分ルールについて「大学の努力と成果に応じたものに」などとの改革案を示した。

 3月上旬に都内であった国立大学協会の総会では、学長らから悲鳴に近い訴えが相次いだ。「日本の大学教育がほろびかねない」「地方の大学は抹殺される」

 このため文科省は、競争原理を導入した際の各大学の交付金の増減を試算した。研究の内容や成果に従って配分されている科学研究費補助金(科研費)の05年度獲得実績に基づいて計算すると、全87校のうち70校で交付金が減り、うち47校は半分以下となって「経営が成り立たなくなる」(文科省)との結果が出た。国立大がなくなるとされたのは秋田や三重、島根、佐賀など24県。私立大も少ない地方が多く、地元大学への道が狭まりかねないとする。

 文科省は最近、国立大に対する補助金に「競争的資金」を増やしてきた。科研費のほか、世界的な研究拠点を目指す大学に対する「21世紀COE」などがある。その文科省も運営費交付金については「人件費や光熱費などをまかなう、人間で言えば三度の食事のようなもの」として、大幅な見直しには否定的だ。

 諮問会議の民間議員は改革案を6月ごろに閣議決定される「骨太の方針」に盛り込みたい考えだ。今後、国立大側が反発を強めるのは必至で、議論は紛糾しそうだ。asahi.com 2007年03月18日19時06分」


(なぜ真冬の寒い中分布調査に協力するのか?もちろん自らの学問研究の基礎資料を得る方法として大切だからである。しかし、今なぜいなべ市なのか?それは三重県にある大学として協力しなければならない責務があると考えるからなのです。)

 経済財政諮問会議の民間委員である御手洗冨士夫キヤノン会長は国立大学へのより強固な競争的原理の導入を主張したというのである。もし提案通り財源配分を実施すれば、全国の国立大学の半分は消えるという。特に私立大学の少ない三重、島根、秋田、佐賀などの大学はその洗礼を最も受けやすい大学だというのである。

 学問が経済論理によって左右される悲しい事態である。とりわけ人文学において何を「競争」するのか?という疑問は常にある。

 だから三重大学の構成員、とりわけ我が人文学部文化学科の多くが、こんなものは「狼が来た!」という脅迫に過ぎないと考えているらしい。もちろんそうあって欲しい。しかし国立大学が簡単に独立法人化したように、この流れを本当に「狼」の一言で片付けることができるのだろうか?

 試算の根拠になっているのが、科学研究費の取得率だという。研究にお金がいるのだというなら、自ら計画を立てて申請しろ!というのである。もちろんいくつかの分野においては「科研費」を申請しにくいものもある。


(科研費も毎年取って、地域にも出かけて、こんな活動をしている研究者もいるのだということを財界人も理解すべきだろう。人間、経済だけでは生きていけませんよ!!ね、御手洗さん。伊賀・名張宇流富志彌神社にて、壬申の乱ウオーク2月12日)
 「科研費で試算するのがおかしい!」という主張の根拠である。

これも一理あるのかもしれない。しかし、そうとばかり言えない側面も多々あるのではないだろうか。
 「面倒だ!」
 「今のままでいい」
こんな声が何処かから聞こえてくるのである。

 つまりあらゆることが「今のままでいい」という考え方である。
 それはそうだろう、今のままということはこれまでの「平穏な」大学ということなのだから、誰も自ら火中の栗など拾いたくはない。

 だから、今回の事態も「狼が来た!」と誰かが脅しているに過ぎないんだ、と考える人が多いらしい。

 でもそうなんだろうか?私も「狼」なんか来て欲しくない!しかし、来ない保証はどこにもないのである。だから、「備え」くらいは必要ではないだろうか。そう考えるからこそ、面倒な科研費の書類やら、いろんな競争的資金の申請書を作るのである。ここのところほとんど大学に籠城状態の理由は実はここにある。春休み中で多くの教官があちこちに研究に出かけたり、書斎に籠もって研究している真っ最中に、私は事務書類と頸ッぴきで、どうしたらこのお金を獲得できるのかと文章と奮闘中なのである。虚しいことは虚しいが、自分たちの存立基盤が脅かされている以上その「備え」のために誰かが行わなければならないからだ。いやおそらく全員がやらなければならないはずなのだが、「誰かがやってくれるだろう」と高をくくっている。

 それでもやったことを感謝でもされるならまだ救われるのだが、大学教官というのは実に傲慢で(そうでない人も沢山いるんですがね)、「誰某は嫌いだからそんな奴のやったことに誰が感謝なんぞするものか、きっとええカッコするために違いない」などと考えて、足を引っ張る。

 悲しい世界である。だから私はこの世界に未練は無いのだが、学生がかわいそうだし、真面目な若い研究者も少しはいるわけで、彼らが気の毒だと思うから、老体に鞭打って書類と奮闘しているのである。

 明日もまた、そんな人達の「狼なんか来る訳が無い!」論理一色で埋まる会議に出席しなければならない。今最も備えが無くて危険なのは私の属する人文学部文化学科なのに!

 虚しい!!



(不破関へ抜ける旧道沿いにひっそりたたずむ村社。私はこの「旧道」を歴史ウオークの場として都市計画課と一緒になって整備すべきだと主張している。この先には岐阜県大垣市となった旧上石津町がある。もちろん、大垣市と調整してさらにその先を不破関へ繋ぐべきだ、さらにさらにその先は福井県の愛発関だ。そしていうまでもなく逆をたどれば鈴鹿の関、平城京と繋がっていく。人が車で通っていくのではなく、地に足をつけて歩いていくことこそ、地域の活力源となるはずだ。)

 せめて、私の学問の場が消えないように、地域に出かけていって、地域の人々の財産を護るため、発掘調査や分布調査をこなす。また、時には地域にとってかけがえのない遺跡の保護のために苦言も呈さなければならない。研究室に閉じこもっているだけでは誰も護ってくれない。自ら外に出て行って、切り開いていこうと思っての行動である。昨日も夕方から分布調査の成果を評価するため津市の埋蔵文化財センターまで出かけた。疲れたが、これも大学に求められている責務だと思うと足を止めるわけにはいかない。

 山田博士はそんな大変な大学教官をまとめて「花園大学改革」を置きみやげにした。素晴らしいことだ。あれだけ精力的に全国を飛び回りながら、これだけの任務をこなしてもらった大学は大いに感謝すべきだろう。後は託された次の研究者達がいかに内実を作っていくかだろう。

 私の作成する書類も間もなく完成する。これが数年後の置きみやげになればいいのだが・・・。少なくとも考古学の火を消さないために、まだまだやらなければならないことがたくさんある。なかなか原稿が進まない理由でもある。


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《 時には昔の話を 》の条

2007-03-20 04:58:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
加藤登紀子の歌を聴きながら、3時間もボーッとしていた。
そんな暢気なことしている時じゃないのに!
ちょっぴり疲れましたな・・・


(今はもう校舎もない大学正門前のフェニックスこの直ぐ横が私達のたまり場だった。)

親友が癌に冒されながら、紙一重のところで帰還して
後、数ヶ月、いや、数週間遅かったら、鈴木ヒロミツ氏と同じ運命だったと、述懐するのを読むと
確かに、いつ、どんな場面で、彼岸に迎えられても不思議のない今日この頃だと思い知る

だからこそボーッとしててはいけないんだけれど・・・・


《 時には昔の話を 》

時には昔の話をしようか
通いなれたなじみのあの店
マロニエの並木が窓辺に見えてた
コーヒーを一杯で一日
見えない明日をむやみにさがして
誰もが希望をたくした
ゆれていた時代の熱い風に吹かれて
身体中で瞬間を感じた そうだね
道ばたで眠ったこともあったね
どこにも行けないみんなで
お金はなくても何とか生きてた
・ ・・・・・

そんな歌が、ヒロシマの、フェニックスの並木道の横の 喫茶店を思い起こさせる
1969年の暑い夏を!


《 百万本のバラ 》

小さな家とキャンバス 他には何もない
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
百万本のバラの花を
あなたにあなたにあなたにあげる
窓から窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
ある朝 彼女は 真っ赤なバラの海をみて
・・・・・・・

加藤登紀子の歌の中では、知床旅情と共に余り好きでなかったこの歌を
何回も聴くうちにとても悲しくなってきた

さあ、夢はもう醒めた!現実が追いかけてくる
もう一度ねじを巻き直さねば

今はベートーベンのピアノソナタが静に音を奏でている
間もなく伊勢湾から朝陽が昇ってくる
後4日!


(今日は少し曇っているようで、朝日は直ぐには拝めない。いつもならかすかに見える知多半島が雲に隠れている。まるで椰子の木並木のように写っているものは我が大学の照明灯。でもとても美しい眺めでしょう!三重に来て数少ない、「得した!」と思うことの一つ。現在編集中の『三重大史学』第7号で、大阪市立大学の栄原永遠男さんが伊勢湾の内海交通について論じてくださった。そこでも引用されている『萬葉集』、大伴家持の次の歌はまさにこの静かな海を航行しいていたのだろう。
御食つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小舟に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ (1033))

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分布調査報告-X  志理斯野踏破の条

2007-03-17 17:39:30 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(志理斯野の名残ではないかと考えています。そして「尻篠」と結論づけました。)

 追いつめられるとブログに逃げたくなる悪弊の続く今日この頃です。
昨日は本年度いなべ市の分布調査の最後の日でした。これまで学生達が踏破した様々な資料を再検討し、遺跡として評価できるか否かを決定する大事な日でした。


(こんな格好で回るんです。なぜか?熊や猪に襲われないようにとか?ホントかな?怪しげな集団ですよね・・・!)

 特に今年度は1・2年生が大変頑張ってくれたので予想以上に早く予定地を回ることができ、さらに様々な遺跡を発見することができました。その一つ現在のいなべ市の最北端に位置する旧藤原町の遺跡の確認に回りました。残念ながら、最北端の古墳発見!と思われた古墳らしきマウンドはマンボウを掘削したときの土砂を集めたものに過ぎませんでしたが、念願の志理斯野や権現坂を回り、その立地を頭に焼き付けることができました。



 志理斯野は『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に記録の残る伊勢国員弁郡に所在した大安寺の墾田地の一つです。拙論「伊勢国北部における大安寺施入墾田地成立の背景」(『ふびと第54号』1頁~25頁 2002年1月)で論証したように、伊勢国内には不思議なことに1306町にも及ぶ大安寺の墾田地があります。なぜか?そんな単純な疑問から発した調査は、意外な結論に結びつき、現在の研究課題の一つにまで発展しました。その論証過程で史料に出てきたのが志理斯野です。「しりしの」と読むのでしょうが、大安寺に施入された土地はどこにあるのだろうとあれこれ探す内に「志礼石新田」にたどり着いたのです。単に音が似ているだけではありません。『資財帳』に記された四至が何となく地図で見る志礼石新田と合うのです。ところでこの「しりしの」という地名はどこから来ているのでしょうか。今回分布調査で現地一帯に入って気がついたことは、志礼石新田の北に展開する篠立村(しのたてむら)との関係です。藤原町ができたのは最近のことであり、江戸時代には篠立村と古田村(明治にはこの村の各一字を取って立田村が造られる。現在、山村留学で売っている立田小学校の名はここから来ている)に分かれ、桑名藩領でした。つまり大安寺墾田地の地名の由来は「尻(しり)」「篠(しの)」ではないかと思うのですが、どうでしょう。確かに現在の志礼石新田は篠立の南端に位置しています。
 残念ながら今回の分布調査では、早くにほ場整備がなされてしまっていったためか。この地域からはほとんど遺物は出土しませんでしたが、地域に入っていって始めて気がつくことが多いと言うことはこの間の分布調査で嫌と言うほど感じていることです。これほど学生の勉強になることはないのですが、お上は「学生なんかにやらせるとはとんでもない」と仰るそうなんです。不思議ですね。


(本日の唯一の成果!旧大安役場の直ぐ向かいの林の中で確認された古墳。山田古墳群と銘々?根拠は内緒!怪しげな集団が取り囲んでいるのが古墳の墳端近く、現在直径7M前後)

 さて、期待された「古墳」は駄目になりましたが、近くに近世の瓦が落ちているところがあるというので行ってみました。旧集落の村か、庄屋さんの家でもあったのではないでしょうか。鬼板やら軒瓦やらが、いくつかに区画された平坦面のあちこちに散乱していました。近世史の問題ではありますが、これも調べると面白そうです。


(落ちていた鬼板。その他軒瓦やら化粧板やら一杯!)

 最後は古田城跡ではないかという山に入り曲輪を確認しましたが、日も暮れかかり、寒さも厳しくなってきましたので(先日の雪がまだあちこちに残っていました)、確認だけして帰りました。情けないことに、下山途中から膝がとても痛くなり、降りた頃にはびっこを引いていました。アー恥ずかしい!!
 いなべ市の平川智真さんの案内で旧道をあちこち回りながら役場へ帰った頃にはすっかり陽も落ちていました。足も腰も頭も(朝から風邪気味だったのです)痛かったのですが、なぜか爽快な気持ちで大学に戻ることができました。なんと言っても生の資料はいいですね。


(この東海環状道路建設予定地の事前発掘調査では「五十戸」の刻書須恵器が出ているというからこの地域の歴史が半端じゃないことを教えてくれる。)

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喜界島報告-2  陽出る國の銘酒2001の条

2007-03-14 00:40:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 「ひいずるしまのせえ」と読みます。
 喜界島に二つある黒糖焼酎を醸造する内の一つ朝日酒造の最新古酒です。
 これこそ御案内いただいた外内淳(とのちすなお)さんご自慢の喜界島ブランドです。この姉妹品が「OOGOMADARA 南の島の貴婦人」と、とても気品溢れた初留をブレンドした素敵な焼酎です。「陽出る」が真っ黒な瓶に金象眼の文字、という置物にもできそうな凝った瓶に、「貴婦人」が白色のスマートな瓶に入れられていて、その他の古風な「朝日」とは全く趣の異なる若者を意識した焼酎になっています。
 こんなことを書くと私がとても焼酎好きのように聞こえますが、日常的にはほとんど呑みません。外内さんに朝日酒造の内部を御案内頂き、その醸造過程を詳しくご説明いただいたお陰で、一気にファンになっただけのにわか焼酎党なのです。
 

(皆さんご安心を!喜界島に飛ぶ飛行機はSAAB340というとっても頑丈な飛行機ですからね。どこぞのトラブル続きの飛行機ではありませんよ。安心して行ってみてくださいね。)


 焼酎ではないのですが、以前からお酒の醸造行程には大変興味があって、是非実際に見てみたいと思っていたのですが、まさか喜界島でそれが実現するとは思いませんでした。
 遺跡を見学した翌日、前日のお酒が少し残っていたのですが、迎えに来ていただいた外内さんに連れられて、勤務先の醸造所にお伺いすることになりました。


(この青いタンクで厳選された酒の原料である米が生産される)




(このステンレス製のタンクが蒸留装置だそうです。いずれもとても機械的になっているので驚きました。余談ですが、この手の古い装置を廃棄するときに、以前ならお金を払わないと引き取ってくれなかったのに、なぜか今回はとても喜んで引き取って帰ったそうです。最近の金属類が盗まれる状況でも判るとおり、どうもタンクのスクラップも中国へ渡ったようです。)

 入ると直ぐに「モワッ」とした発酵の暖かみのある香りが漂ってきました。直ぐ右手にあるのが焼酎製造の最終段階、蒸留タンクです。発酵した「原酒」をここで蒸発させ、再び冷やして焼酎の原酒ができるのです。左手にある青いタンクが米を粉砕し、酒の原料となる米を作る装置です。奥にあるのが米を麹と混ぜて発酵させるタンクです。私はもっと古風な木製の樽が並んでいるのかと思っていましたが、今や需要に応えるために大半が機械化されているのです。

 私は全く知りませんでしたが、サトウキビだけで造るお酒がラム酒だそうで、西インド諸島では盛んに飲まれるお酒です。黒糖焼酎というのは米を米麹で発酵させ、別にサトウキビを絞って造られた黒糖をブレンドして調整し、これを蒸留して造るお酒のことだそうで、ラム酒とは全く異なっているのだそうです。


(サトウキビを絞った滓が置いてありました。かじってみるとまだ少し甘い汁が出てきました。サトウキビの汁は透明ですが、こうして煮炊いていくので黒くなるのです。灰汁を丁寧に取りながら糖度を高めていきます。これがまた逸品!!)

 そこでサトウキビ汁を煮炊き、あくを除去して一旦かためた「黒糖」を再度溶解する行程が必要になってきます。巨大な溶解槽で煮炊いた飴状の黒糖が、発酵したもろみと混ぜられてしばらくねかせられます。その醸造タンクがこれです。

 驚きました!

 そして納得しました!!

 まさに木村泰彦さんが解明し、今や考古学をやっているものなら誰でも知っているこの風景!



(ビニールの帽子をかぶったタンク列です。今か今かと蒸留を待っています。)

 全く一緒でした。私はこれが見たかったのです。本当に本当に感激しています。もちろん、現代の大量生産に叶うように一つ一つのタンクは巨大でした。
 居並ぶタンク(古代では巨大な甕)には仕込まれた順番に最後の発酵をする「原酒」がありました。それぞれ何月何日にブレンドしたかが記されていて、若い担当者の方が、常にチェックしながら、蒸留する時期を探っておられました。

 どうして古代の酒醸造に順番を記した木簡が必要なのか、大変よく理解できました。仕込んだ日時や水・麹の量など、微妙に異なる容器毎の状況を常にきちんと管理しなければならなかったからでしょう。


(『長岡京市史資料編一』より。木村さんの原図は素晴らしい!まさにこんな感じでした。)
 長岡宮内で始めて発見された木簡は弥生時代の人面土器を出したことで知られる森本遺跡からのものです。

 「八条四甕納米三斛九斗」

と、とても単純な内容の木簡でした。しかし、この短い文字列の中に深い意味があることを解明したのは長岡京市埋蔵文化財センターの木村泰彦さんでした。
 長岡宮の大極殿の北東に位置するこの地域には宮城内に置かれた役所があったと考えられていますが、この木簡によって、一帯が宮内の醸造関係官司、即ち造酒司の管理する醸造工場であったことが判明したのです。
 毎日毎日杜氏達が甕の中で発酵する酒を見回り、「出荷」の時期を計っていたのではないでしょうか。そんな光景がこのタンクを見て甦ってきました。

 感謝しています!外内さん、有り難うございました。

 さて、これだけでは終わりませんでした。朝日酒造では品質にこだわり、黒糖の原料であるサトウキビも自ら栽培し、生産しているというのです。もちろん、無農薬です。
 その現場を見学することもできました。とてもとても自然な、フルーティ―なサトウキビの絞り汁。そして香ばしい黒糖(なぜか元々私は黒砂糖が大好きなんです!!)。これが先ほどの黒糖を溶かす槽に入れられるのだと思うだけで、酒のうまさが伝わってきます。

 工場では蒸留したての六〇度を超す初留の焼酎も試飲させていただきました。これが「貴婦人」の原酒になるのだそうです。口にしたとたん一気に口の中にアルコールの強烈な「炎」が広がるのですが、それがとても心地いいのです。さらに初留の後に本格的に取り出される四〇度前後の原酒も試飲させていただきました。わずか?二〇度の違いですが、一気にまろやかで、ほんのり黒糖の甘みの広がる焼酎の味でした。昼間でなかったら、いや、この後結婚式のスピーチがなかったら、もっとがぶがぶ?いただいたのですが、自制しました。残念。

 もちろん外内さんから「陽出る國の銘酒2001」をいただきましたし、一本土産にも買って帰りました(もっと買えば良かったのに!と帰って息子達に叱られました)。それくらいとてもまろやかなおいしい焼酎でした。特に特に、あの黒糖精製現場で分けてもらった、出来たての黒糖をつまみにロックで呑むと、これがさらにグー!!もう売り切れかもしれませんが、注文してみよっと。

 是非皆さんも、鹿児島県大島郡喜界町の朝日酒造の「陽出る國の銘酒2001」をご贔屓に!!

 臨時宣伝マンより。

 改めて御礼申し上げます(決して焼酎のお礼ではないですよ。イメージ豊かな御案内にですよ)。次回は喜界島風景編をお届けします。

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喜界島報告-1  国境の島・喜界島の条

2007-03-09 03:14:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 大変長らくご無沙汰してしまいました。それだけ忙しかったことをご理解下さい。
 前回の書き込みの後、朧谷先生古希記念事業の打ち合わせ、放送法改悪に対する抗議活動、大学の前期日程試験の監督、娘の急病・入院・留学出発延期、卒業生の結婚式、東アジア都城比較研究会出席、ヴェトナム社会科学院考古学研究所チン博士の京都案内と、休む暇もなく超多忙な毎日でした。やっと明日チン先生が帰られて、私の任務は終了。怒濤の2週間でした。
 
 もちろんまだまだしなければならないことはいっぱいあるのですが、たまにはブログの更新を!と、原稿に疲れた頭を冷やすために少し書き込みを始めました。
 まずは初めての喜界島報告から始めましょう。
 とっても刺激的な旅でした。
 遺跡編から・・・。


(こんな可愛らしい30人くらいしか乗れない飛行機で喜界島に向かいました。そうそう、喜界島の空港というのがどうも滑走路が短いらしく、降りるときは急ブレーキ、離陸するときは思い切りふかしておいて急発進という、何とも原始的な離着陸。スリル満点ですよ。でもご安心を、それだけパイロットは熟練!!)


(鹿児島空港を飛び立ったプロペラ機は大隅半島の上空、佐多岬を眺めながら南西諸島沿い、トカラ列島の上辺りを経て喜界島に向かいます。)

 3月2・3日と卒業生の結婚式に招かれて鹿児島に行ってきました。ついでに奄美大島の東に所在する喜界島へも足を伸ばしました。歌舞伎の「平家女護島(へいけにょごがしま)」能の「俊寛」等で有名な島です。というより本当は結婚式を出汁に喜界島に行ったという方が正確でしょう。


(とても可愛らしい花嫁さんでした。お幸せに!!)
 もちろんご存じの通り、平安末期、平家政権絶頂期の1177年、鹿ヶ谷の陰謀が暴かれ、捕らえられた俊寛が配流された島が鬼界ヶ島(この島が現喜界島かどうかについては異説があるらしい。でも、今回の訪問で確信を持ちました。)でした。

 私の目的は城久(ぐすく)遺跡群でした。6年程前にほ場整備に伴う調査でみつかった8世紀後半から14世紀の大遺跡群です。なぜこんなに離れた南海の島に8世紀に始まる遺跡があるのでしょう?

(東側に海岸段丘が南北に延びる以外はとてもなだらかな平坦地の広がる隆起珊瑚礁の島でした。遺跡からは西の奄美大島が直ぐ目の前に見えます。)

 8世紀後半のといえば、いうまでもなく、光仁・桓武朝です。その一大政策として知られているのが東北遠征です。身近なところでは斎宮の大改造が実施されたのもこの時期です。正当な皇位継承者として伊勢神宮祭祀を重視し、偉大な皇帝として国境を定める、壮大な計画の下に桓武王権の政策は着実に実行されていきました。北の国境を定めるための軍事行動が蝦夷征討であったとすると、南の国境を設定するために設けられたのがこの喜界島の城久遺跡群だったのではではないでしょうか?そんな期待を抱かせる遺跡への旅でした。

 國學院大學の鈴木靖民先生に紹介を受けて、喜界町文化財審議委員の外内(とのち)さんの御案内で二日間に亘り島内をくまなく回ることができました。
 現場に着くと、そこには無数の柱穴が並んでいました。これらの建物はいつ造られたのか?私の最大の関心事でした。現場には教育委員会の澄田さんが待っていて下さっており、丁寧に遺構の状況を話してくださいました。私の最大の関心事は、遺跡の成立時期でしたから、自ずと質問はそこに集中します。現場は柱穴ばかりで、直ぐには年代は決められません。年代の手がかりは一緒に発見された土器にあります。資料整理室で拝見した土器の量は半端ではありませんでした。特に中国から持ち込まれた青磁や白磁はこの地が都ではないかと錯覚するくらい、大量にありました。


(最近公表された「石敷き道路跡」です。私は何か特殊な空間を美しく見せるために石を敷いたのではないかと思うのですが・・・)

 しかし、私の目が釘付けになったのは、小さな破片の入った焼塩壺の箱でした。よく見ると種類の異なる焼塩壺があるのです。「!!」思わず手を打ちました。大成果です。
 奈良時代の貴族や役人達は、にがりの少ない純白の焼塩を好んで食しました。奈良時代に大宰府の人達は博多湾(海の中道遺跡)で作った焼塩を食したことが知られています。その搬入品かも知れない(胎土や厚さが少し異なるので別の製塩遺跡産かも知れません。九州島の焼塩壺のほんの一部しかみたことがないので・・・)内面に布目痕跡を持つ破片の他に、おそらく別の地域で作られたであろう焼塩壺も確認できたのです。いろいろな地域の焼塩壺が使用されるのは奈良時代から平安時代初期の都や役所で用いられる典型的なあり方です。何処かに市場或いは集積センターがあり、そこで交換または獲得されたものが各遺跡(機関)に持ち込まれるようです。
 城久遺跡群のもっとも盛んな時期は10世紀後半以降にあるようですが、どうも、開始は8世紀後半にあるように感じられました(まだまだ資料は不足していますが、須恵器や黒色土器などのあり方はそれを示しています)。
 都から「南の国境を喜界島にせよ」という命が大宰府を経由して薩摩国に伝えられ(或いは大宰府が直接)、建設されたのが城久遺跡群だった、というのが私の直感的発想でした。国境を管理していた役所が平安時代に入り弱体化し、代わって、中国との貿易中継基地としての役割が中心になったのかもしれませんね。そのように都との情報が頻繁な地だからこそ、俊寛は流されたのではないでしょうか。流刑地は決して断崖絶壁の孤島ではありません。後鳥羽上皇の流された隠岐の島は古代には国府も国分寺もあった行政機関の一つでした。早良親王の淡路も、頼朝の伊豆蛭島も、むしろ、古くから王権との関係の深い、それだけ管理の行き届くところだった。

 古代王権の南の玄関口こそ喜界島だった!と考えたいのです。


(知ってました?喜界島ってこんな形をしているんです。この島から東にはもう島はありません。百之台の展望台からはとてもよく全景が見えます。)

 桓武天皇は水上交通を重視します。これまでは河川交通を意識してきましたが、海洋交通網の整備にも力が入れられていたのではないでしょうか。そう言う目で見ると、伊豆・駿河湾→参河湾→伊勢湾→熊野灘→紀伊水道→大阪湾という東海道沿いの沿岸海洋交通路や瀬戸内海交通路、秋田城→渡島(北海道)の日本海交通路もこの時期急激に発達したものでした。当然、大宰府→博多湾→五島列島→薩摩→トカラ列島・南西諸島の海洋航路も整備されたに違いありません。『日本書紀』や『続日本紀』には、多褹、夜久、菴美、度感(吐貨羅)等の人々の朝貢・漂着が記載されています。古くからあった南西諸島の交易路を8世紀末に整備し、国境として確定したのではないでしょうか。


(朝日酒造の全銘柄。外内さんお勧めの「日出づる美し国の銘酒」とてもおいしかったですよ。)

 喜界島にはもう一つ大切なことがあります。古代王権にとって、喜界島は最果ての地で、最も早く朝日を拝むことのできる島でもあったのです。畿内にあって、東の海に面する伊勢国が重視されたのと同じ発想で、喜界島が選ばれたのかも知れません。
その夜、外内さんや教育委員会の皆さんと呑んだ朝日酒造(この名のいわれはまさに朝日を最初に拝む島という意味だそうです)の黒糖焼酎の味は格別でした。

 次回は黒糖焼酎の蒸留工程をご紹介しましょう。

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