yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

月一の診察日の条

2014-11-30 06:58:14 | yaasan随想
 今日は定期診察の日でした。

 大体1ヶ月に一回の間隔で薬の効き具合や病状の変化をチェックしてもらっています。
 ま、直ぐに治るものでもなく、かといって直ぐに悪化してどうなるものでもなく、寿命が先か、病が先かという病気です。きっと前者でしょう。この病が原因で死ぬことは先ずありませんので。

 でも病名が固定できるまではそれなりに不安でした。何せ病院を三軒ははしごしましたから。1軒目の先生は京都でもそれなりの権威のようですが、ほとんど何も説明してくれなくて、この薬を飲めばいい!とただそれだけでした。二軒目は専門医がいないところなので別の医院を紹介して頂くために行ったのですが、これが予想外に親切で、あらゆる可能性を検討してその結果、この病院がいいのではないかと言うことで紹介頂きました。

 ただ、その病院は大病院で、先生がたくさんおられて、私の関係の免疫関係だけで15人くらいおられる。どの先生がいいのかはさっぱり判らない。そんな中で受診するのです.クジみたいなものですね。

 先生曰く、
 「あんたの病気の原因なんかわかるわけがない!!」世の中の病気なんて原因がはっきり判るものはないんだ」と断言する。
 「そもそも病気のほとんどは原因なんかわからないから、いろいろ薬を試して手探りでやるんだ。」という。

 それを聞いて、なんぼこの分野では最先端の病院と言ってもこの先生じゃダメだ!と思ってしまった。余り医者の梯子はしたくなかったので、最初から、以前免疫不全で罹った京都の病院を訪ねたのだが、どうも、最初からボタンの掛け違いだったようだ。少し分野が違うと医者も様々。その結果3軒も訪ねて、これで症状が出てから半年が経った。

 「どうしよう?」と悩んでいる時、いつも行く病院に免疫の専門の先生が臨時できているという、ダメ元で一回行ってみようと言うことで伺った。

 この先生がとっても変わった先生で、いろいろ話を聞いてこられるのです。

 「なんでこんなに病院を代わったんや?」
 「病院は代われば代わるほどそのデータが引き継がれないからまた一から検査することになり患者にとっては損なんじゃ。」
 「だいたいなんでこの病院とこの病院へ行ったんじゃ?先生は誰じゃ?わしは関西のこの関係の医者なら全部しっとるから言うてみー。」

 最初からこんな調子なのです。

 (久しぶりに会話のできるお医者さんに会ったな!これだけ説明してくれる医者はこの間全くいなかった!!これは受診してみる価値が大いにあるな!・・・こんな印象だった。)

 診察が終わってドアーを開けようとすると、

 「あんなー、あんたインターネットするやろう?帰ったらな、わしの名前検索に打ってみ!直ぐに一杯記事が出てくるわ。それ見てから次来るかどうか決めや」

 何とも変わった最後の言葉だった。

 (決めた!!このお医者さんに賭けよう!)

 内心ワクワクしながらネットの画面を眺めた。予想通り、とても素敵な気骨ものだった《失礼!!》

 何でも勤務している大学の理事長と馬が合わないらしく、懲戒免職になり、その裁判中だというのである。何とマー予想以上の気骨ものですなー!(ウフッツ、ついほくそ笑んでしまった。)さらにいろいろ見ていくとこの先生を支援する患者さんやお医者さんの会があって、そのHPには山ほどの先生の患者さんに対する思いやりのある、そして治療効果のある診察の姿が紹介されていた。

 大正解!!

 以来3ヶ月、少しずつ症状が改善されてきている。

 今日も、診察の合間に、
 『あなたは考古学やっていると言うが、何時代の専門?』と聞かれる。
 『奈良、平安時代の都で、平城、長岡、平安京の研究をしてます』と答えると
 『長岡京なんてホンマにあるの?』という。
 『23年間掘ってましたからありますよ』(何なら案内しましょうか?と言おうと思ったところで話題が変わった。残念)

 こんなに医師と考古学の話しをするのは15年ぶりだった。

 ちょうどその頃、私は以前から罹っていた職場に近いところにあった味田医院を家庭医としてお世話になっていた。家族中、いや、周辺の知り合いみんなが尊敬する先生だった。だから日頃から、診察の合間に、今何してる?この前のあれはどうだった?等とたわいのない世間話を一杯していたのです。そんなある日、ある遺跡の保存運動をやることになり、あちこちに署名をお願いしていた。「ひょっとして味田先生に頼んだら協力してくれるかも?」そんな期待の下、話題を振ってみると直ぐに快諾して頂き、署名用紙を手渡すと次週にはあっと言う間に数百名の署名を集めて下さった。それどころか、医院の受付に置いておいて。私が患者さんに署名を頼むから、と仰って下さったのです。次週にはまた数百名の署名を渡して下さいました。本当にあの時は嬉しかったのです。

 そんなある日、噂で悲しい話を聞きました。

 「先生がとても重い病気に罹られていて、人生の最期に自分のしたいことがあるので医院を閉められる。」

 本当に悲しい、悲しい話しでした。その通り、その数日後には医院には閉鎖の張り紙がされていました。

 もう二度とこんなお医者さんには会えないな、と諦めていましたが、今回、その期待を抱かせるとても素敵な先生にお会いすることができました。感謝!です。

 病は気から、と言いますが、薬を出すだけのお医者さんの余りに増えた今日、もう少し人間らしい先生が増えて欲しいな、と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



藤原宮見学の条

2014-11-29 16:07:45 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
11月27日は授業の一環として藤原宮跡へ現地見学に伺った。研究所で木簡の説明をしていただいた後、現在進行中の藤原宮大極殿東方官衙地区の現場を見学した。いずれ現地説明会があるようなので、写真の公表はできないが、不思議な遺構群が発見されていた。大極殿の東側、ほぼ真東の位置(先行条坊で言うとちょうど「朱雀大路」延長道路から2本東の道路の東側から総柱の礎石建物4×3間?)の楼閣状の建物が検出されているのである。この西には大極殿院から延びる内裏の外槨塀が延びてきており、中枢部の一角であることに違いはない。しかし、平城宮の東側にはこうした施設はなく、藤原宮独自の荘厳な施設の存在が予想できる。いずれ現地説明会がある頃には新しい解釈も出てくるのかもしれない。要注目の遺跡である。

 その後、先般現地説明会の終わった大極殿前庭部の調査地を見学した。既に埋め戻されているということだったが、まだ何とか遺構の様子を確認することができ持参した資料によってできた。
 《「奈良文化財研究所『藤原宮大極殿の調査(飛鳥藤原宮第182次調査現地説明会資料 2014年11月8日)》資料より
 





藤原宮大極殿の前庭には、宮城造営前に運河と日本の南北方向の溝が発見された。これらは既存の調査成果とも合致するもので、今回はそれを再確認すると共に、藤原宮期には歴敷きであったことが判明した。少なくともこの地点に宝幢跡がないことが確定しました。個人的に興味深く思ったのは藤原宮廃絶後の奈良時代及び平安時代のそれぞれの土地利用とその際の地面鎮祭祀の跡です。比較的規模のっしっかりした建物が軒を並べるように建っていた様は公的機関を彷彿とさせます。





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第10回久留部官衙遺跡整備指導委員会開催の条

2014-11-29 15:42:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 11月24日は表記の委員会出席のために四日市市へ向かった。
 議題は、現在建設中のガイダンス施設の建物を見学し、本題であるガイダンス施設展示の内容検討の参考にすることであった。ついでに遺跡の現状も見学する機会が得られた。貴重な三連休もこれで全て公務で消化されることとなり、私的な論文の執筆はまたまたストップする羽目に。ま、それまでに仕上げておかない私が悪いに違いないのですが・・・。病を抱えた身には三連ちゃんは相当堪えました。昨日、今日と論文を書き進めているのですが、全身が痛く、直ぐに休憩となってしまいます。ただ、それだけが原因ではなく、「虚しい論文」の中身が足を引っ張っているのです。

 「なんでこんな雑な論考?に多くの研究者が引っ張られるのか?」

こんな思いがやればやるほど出てきて、そのことが論文を前に進めてくれない大きな要因なのです。悲しいことです。こんな時、高橋さんや今泉さんが生きてくれていたら、励ましてくれるだろうにと思うのですが、一人で切り抜けなければ仕方ないようです。




ガイダンス施設概観。200㎡ほどの小さな施設ですが、市民の声もあって立派なものになりそうです。

 ガイダンス施設展示の内容はこの間の市教委とのやりとりが功を奏して、随分全体の先生方の意見を取り入れた内容になりつつあります。来年春にはその詳細案が出てくるのでもう少し具体的に紹介することができるでしょう。ご期待下さい。

 行けば行くほどがっかりするのが現場を横切るバイパスの高架です。肝心の政庁、正殿からは眼下に広がっていたはずの伊勢湾は全く見えません。高架の鉄の壁とこれを支える橋脚が冷たく横たわっているのです。せめてこの壁に写真や絵を貼って見えるはずの伊勢湾の風景を示しては?と何度も主張しましたが、本気で国交省と交渉するものはいませんでした。最後の最後の頼みとして、この壁に見えるはずの施設を描画してはどうかとお願いしておきました。







 この道路に関してもう一つ気になったのが、この延長線上にあった伊坂城跡です。新名神とも取り付き、「地元」にはとても便利な道になるそうですが、こんな立派な、地域にとってかけがえのない遺跡を破壊してしまっていいものかという声も随分前からあったようですが、市や、国交省には届かなかったようです。一部?が移築されるそうですが、移築とは聞こえはいいのですが、お城という景観を最も重視した遺跡にはそぐわない方法です。地元には熱心な保存を願う方々があったと聞いていたので安心していたのですが、なぜか押し切られてしまったようで、とてもとても残念です。今や日本列島の背骨の下に最先端の技術によるリニアを通す力のある国です。遺跡の下をトンネルで通過することなど朝飯前なのに、どうしてできなかったのですかね。不思議なことです。こうして日本列島が再び虚しい道路建設によって数百年、数千年維持してきた文化の力を失っていくのですね。悲しい!!

 前日に現地説明会があったそうですが。

 以下、三重県埋蔵文化財センター『伊坂城跡(第6・7次)発掘調査現地説明会資料』2014年11月23日 です。













伊坂城跡、日本でも珍しい築城方法をとっている貴重な遺産が、簡単に破壊されてしまうなんて悲しい!!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 明日は授業で藤原宮跡の7世紀木簡を見学した後、現在発掘調査中の東方官衙遺跡をみせていただきます。学生には大いに刺激になることでしょう。これで考古学研究に目覚める学生が増えればいいのですが・・・。また数日後にはアップしますね。それまでに論文を完成しなくては!!忙しい、忙しい!!!(笑)

宇治橋辺りを歩くの条

2014-11-25 21:58:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 23日は、前日の三校交流会に参加した三重大学の学生7人が狭い我が家に泊まり、朝から我が家の周辺から伏見稲荷大社、そして宇治へと案内しました。寝具や泊まる場所は何とかなるのですが、問題は風呂なのです。7人が夜の10時から入れ替わり入るとなると早くしてもらっても4時間近くかかります。これでは翌朝が大変です。仕方ないので、簡単にシャワーの人、翌朝はいる人などと別れてもらって、何とか日が変わるまでには入り終えました。その間待ち人は「トランプ」。それもたまたま来ていた孫二人を入れての7並べ、ババ掴み、神経数弱など子供向けのトランプ遊び。要するに子守りのお手伝いをしていただきました。


 伏見稲荷大社正面鳥居

 翌朝は9時半出発で、先ず深草界隈を案内しました。我が家は以前にも書いた通り平安時代の元号寺院貞観寺跡。近くの孫の家は嘉祥寺跡。嘉祥寺の上が孫の家なので、その辺り(東山の頂上付近)から平安京南部と長岡京北部を遠望案内。この後、丘を下りて、京阪電車で伏見稲荷まで。私はもう飽きたし、脚も痛いので、喫茶店でお茶。大急ぎで見てもらって再び京阪電車で宇治へ。まだ10時頃だというのに既にお稲荷さんは人で一杯!!全国観光客一位の野堀があちこちに立ち、周辺のお店は大繁盛の様子。でも私たちには恩恵はなく、交通渋滞のみ。

 さて、宇治へ向かおうとすると電車が遅れ!!。やはりこれも観光客の多さでしょうか。何せ一つ手前が東福寺!秋はこの寺は超満員。道を車が走ることはできず、人で埋め尽くされる。きっとこのせいで遅れたのだろう。そのため待ち合わせていたO先生を随分待たせる羽目に。申し訳ありませんでした。

 


 宇治市源氏物語ミュージアム

 宇治ならすいているだろうと思った私が甘かった!!何せ年間5000万人来るという京都、その中でも春と秋はピーク。おまけにこの日は三連休の真ん中。駅チカのコンビニですらごった返し、おにぎりなどの食料品が既に空っぽ!!

 まずは源氏物語ミュージアムへ。私は全く行きたくなかったのだが、初めての学生もいるので仕方なく案内。この資料館、500円は絶対に高すぎる!!無料でもいいくらいだが、せいぜい100円くらいでいいはずの展示内容。トイレは狭いし、受付の案内は鈍くさいし、展示内容に至ってはほとんど作り物か近代の紹介もの。企画展も相変わらずで、ここに学芸員はいるのかいな?と思いたくなるくらい。そんな中で良かったのはミュージアムの周辺に植えられていた紅葉!!これは予想外にも真っ盛り!!写真を撮りまくりました。

 公園を抜けうるとそこには本日のメイン見学地、宇治上神社。



 宇治上神社は修理中。これは拝殿。実はこれ、今年の春に修理していた。

 と、ところが、ナナナント、国宝の本殿は修理中!!すっぱりと覆い屋に覆われて全く見ることができなかった。あれだけ学生には「いいぞ!みなければ日本人じゃない」等とうそぶいていたのに、見られない!がっかりでした。仕方なく、次の宇治神社へ。ここは元々余り期待できなかったのだが、やはりその通りで人も少なく、直ぐに参拝し終わって次なる目的地、平等院へ。歩行者専用の橋を渡ると直ぐに平等院の東塀に。そこから南門を通って中へ、と進むと長蛇の列!!



 「アーここにも人が!!」

 並ぶこと20分余、何とか中には入れたが肝心の鳳凰堂の内陣は予約が必要とかで見学できず。外から鳳凰堂を眺めるだけとなった。もちろん新しく整備された池は美しく、鳳凰堂も夕日に照らされてなかなかいい雰囲気ではありました。

 そして宝物館へ。鳳凰堂及び内陣などの整備で外された鳳凰や雲中像などを見学するがここがまた正倉院展並の混みよう。その上、夕方に来る予定のお客さんが早く来るかも知れないから早めに帰って欲しいとの電話。やむなく学生をO先生に託して帰宅した次第です。



 夕焼けに染まる鳳凰堂

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三連休はきつかった!!の条

2014-11-25 12:01:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 退職してから土日や連休というものとは無縁な生活に慣れ始めたこの週末。11月22~24日は仕事やら用事やらでとても忙しかった。連休明けの今日は少々グロッキー気味なのです。

 先ず1月22日(土)恒例の三校交流会が京都府立大学で開催されました。元気な頃は開催の度にブログを更新していたのですが、昨年はどうだっtかな?確か前回は三重大であったはずなのですが。ウ~ン思い出せない。



 で今回は先ず府立大の考古学研究室の案内板に驚き!!

  「三校交流

 とうとう三校が闘うことになりました!!勝敗の行方は??

 結論から言うと、M大≧F大>NJ大の順でした。(笑)ま、最近の傾向としてNJ大は余り先生に指導を受けていないみたいで、演習の発表の枠を超えていません。自分自身を振り返ってみても、それなりに教育を熱心にやった時(一番効果的なのは県内の現場をやった時ですね。この経験をした学生はとても元気で、未だに交流があります。海外に連れて行った学生や院生もやはりそうですね。)とそうでない時(後半の五年間くらいは海外はもちろんのこと、現場も余りやりませんでしたので、)は、専門の職に就く学生も少なかったのです。最晩年は大学の鬼が塩屋遺跡の調査が入ったのでまた元気になりました。今年の卒業生は全員関係機関に就職、または進学できそうなのです。なんだかそうできなかった時の学生には本当に申し訳なく思っています。反省!!

 さて発表ですが、F大が大学院博士課程の院生の発表で、「古代調理復元とその変遷」というものでした。
 調理というと焚く、煮る、焼くが基本ですが、古代になると文献史料なっどに「油」が出てき、揚げる、炒めるが加わるようです。しかしこれまでほとんど「油で揚げる」行為が考古資料にどのような痕跡を遺すのかと言うことについては考えてきませんでした。それを果敢に実験考古学なども加えて実証しようとしたなかなか興味深い発表でした。発表者とはもう四年ほどのつきあいですが、若者はどんどん進歩していくのだな、と感心しました。もちろんF大の二人の研究者の指導がいいことが最大の要因かも知れません。

 二番目がNJ大の「古代都城における工房の変遷-7世紀・8世紀鋳銅工房を中心に-」でした。他の先生からも指摘されていましたが、図面のトレースができておらず、条坊が波打つという不可思議な条坊図に遺構・遺跡の分布が落とされていました。「考古学実習」の教育を受けていないのかしら?と不思議に思いました。ここのところそれが続くのは悲しいことです。鋳造工房について論ずるのに、これまでに発見されているいくつかの遺構図の掲示がなく、都城のどこにあるのかだけが指摘されていました。そのくせ、石母田正だの平野邦雄が出てくるあたりはなんだか45年前の自分を見ているようでもありました。(笑)才能ある学生に道を示してやれないのは残念でした。

 最後がM大の「伊勢国の瓦塔の様相」でした。去年まで教えていた学生ですが、四年生になって飛躍的に進歩したように思います。もちろん去年の段階が少々問題あったことは事実ですが、少なくともドクターの発表と互したことは進歩だと思います。4月からご指導いただいているO先生のご指導の賜です。感謝!!
 テーマとしてはある特定の地域の、限られた遺物の分析ですから、狭いものです。ただ、時期、地域、型式の変換点に当たる遺物に遭遇したようで、その点をうまくあぶり出し、全国的な視野にまでつなげられる可能性を残したことは素晴らしかったと思います。大学院にも行くようですから、これからが期待できそうです。三人の中ではプレゼンテーションも良くできていたので、その点も好評の要因だったかも知れません。



 交流会後、恒例の宴会に四条まで打って出ました。飲み放題と昼飯抜きでビールばかり飲んだので、少々くたびれました。(笑)その学生達7人を久しぶりに我が家に泊めたので我が嫁や娘はてんやわんやだったようです。

 翌日は此の考古学研究室の学生7人と宇治周辺遺跡の見学です。次回お伝えしますが、紅葉が素晴らしい状態でした。今週は見ごろですよ!!

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再開宣言 長い長いご無沙汰です。少しずつ書き始めようかと思っています。

2014-11-21 19:59:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ご報告すべき歴史考古学研究の成果や様々な活動は山ほどあったのです。それが書き続けられなかった原因は第一に体調、第二に気力、第三に絶望でした。

 もちろん今でもその三原因は少しも除かれてはいません。でも、研究者として、論文はもちろんのこと、歴史エッセーとしてのブログを残すことも必要かと思い直し、少しずつ書き始めようと思った次第です。本職に無理のないように、でもそれなりの使命感を以て、書き始めます。

 その背景には、今、書いている論文があるのかもしれません。これほど調べれば調べるほど虚しく、筆が重くなる論文は初めてです。でも、これを書き上げることによって、第三のスタートを切ろうと思います。人生の最終章へのラストランです。人に向かって宣言するほどの大袈裟なものではないのですが、こうでもしないと私の尻に火が付かないので、あえて宣言するのです。

 私は何度も書いたように大学入学と同時に学者と学問に絶望し、絶望を希望に変えるにはどうすればいいのかと考え行動しました。残念ながら絶望は深まり、希望の光はほとんど消えてしまいました。小学生の頃からあこがれていた考古学研究。せっかく辿り着いたその入り口で息絶えてしまったわけです。ですから考古学の基礎も学んでいません。20年間温めてきた熱い思いを封印し、社会に出て、別のスタートを切ろうと思っていました。いや、実際にそのスタートは確かに切ったのです。ところが世の中には妙な因縁があるものなのですね。思いがけない出会いがあり、第二のスタートは予想もしない形で始まりました。

 長岡京の発掘調査でした。

 棄てたはずの考古学への熱い思いを再点火しなければスタートできないものでした。何という皮肉でしょうか。意地悪な神様が与えた試練なのでしょうね。大学を卒業すると共に棄てた本を買い戻し、新たに考古学を基礎から独学しなければならない羽目に陥ったのです。誰も教えてはくれませんから、そっと勉強せざるを得なかったのです。天罰だったのかもしれません。だから、未だに、きちんと大学で勉強し、調査研究の方法を学び、研究成果の公表方法を知りつくして社会に出た人々とは実力差があると自覚しています。

 もっとも、高橋美久二さんという人間性も調査能力も、研究能力もトップクラスの指導者のお蔭で、調査の方法はさほど時間をかけずとも習得することができました(とは言ってもさほど上手とは言えませんが)。調査した結果を公表する方法も高橋さんの見本をまねていれば習得することができました。その結果は50冊ほどの報告書として刊行することができました。もっとも此の報告書についても周りには「早く出すだけで中身がない!!」と批判する人もおられました。そうだったかも知れませんが、小さな町のお金もない組織での精一杯の形でした。

 大学を卒業する時に、著名な先生方を前に大見得を切った以上、再び同じ土俵に上がるなら、見得の中身をきちんと示さねばならないと考えました。
 「調査した正確な事実から発言しろ!」というのが見得の中身でした。
 批判して出てきた以上、自ら発掘調査した成果はできるだけ早く社会に提供しなければならない、というのが私がやるべき最低限の仕事だと強く自覚していました。もちろん、初期の頃にはその調査は必ずしも思い通りにはなりませんでした。技術が伴わない時期もありました。おそらく掘り間違えたこともあったと思います。調査成果の報告もやはり十分ではない時期がそれなりに続きました。何とか形になったのは3年後くらいからです。これを背後で支えて下さったのがやはり高橋さんでした。報告書を書くだけではなく、その資料を基に論文を書くように指導して下さったのも高橋さんでした。以来28年間、私の調査研究は続きました。

 研究の基本は1にも2にも事実に基づくことでした。調査した成果をできるだけ正確に集め、その上で仮説を立て、調査した事実は古代の何を反映しているのかをを明らかにすることでした。それらが一冊の本になり、大学に招かれることになりました。以来16年間、果たして国立大学の考古学担当教員としてどれだけの貢献を学会にできたかは判りません。大学で目標としたことは①地域の遺跡を護り人々にその価値を伝えるために努力すること、②伊勢湾岸の古代遺跡について研究し、地域歴史解明にそれなりの成果を出すこと、③優れた学生を育て、各地の調査研究に役立つ人材とすること、でした。残念ながらどれも中途半端に終わったような気がしますが、目標の半分くらいはできたかな、と思っています。そして3月を迎え、一応の区切りも付けることができてホッとしていた矢先、二つの病をやむことになってしまいました。幸い、直ぐに命にかかわる病ではないのですが、全身の痛みはこの間、あらゆる行動を制限してきました。直ちに命に関わらないとはいえ、寿命がいつまでもあるわけでもありません。まともな思考ができるのはせいぜい後五年くらいでしょう。とすると、痛さを理由にサボっていてはその内命が尽きてしまうという恐怖心が私を責め立てました。このまま黙って死んでいっては何のための第二の人生だったのか、その真価が問われかねません。

 再び論文を書き、ブログを始めようとする理由がここにあります。論文はまだ書き上がりませんが、ブログにそれほどのエネルギーはいりません。看板である「東アジア宮都研究」に恥じない文章を書き始めようと思います。もちろんそれと並行して命の尽きるまで自らの宮都研究の成果を認め続けようと思います。それが第一の人生で批判した先生方へのわずかなお詫びの印になればと思うのです。

 明日は、私が赴任して当時奈良女子大学におられた広瀬和雄さんと相談して始めた「三校交流会」です。三重大学からは今四年生のMYさんが「伊勢・伊賀地域の瓦塔」に研究成果を報告してくれるそうです。彼女は3年生までは心配の種でした。四年生に入り、大学院へ進学したいと言いだし、「エッツ??」と驚いたのですが、4月以降の努力と研究成果は目を見張るものがあります。私の後を継いで研究室を継承して下さった小澤毅先生の指導の賜です。
 かつての私は、あれだけの悪態をついたのに先生方から追放されることはありませんでした。研究成果の程は自ら評価できませんが、何とか第二の人生を無事終えることができたのは、先生方の懐の深い「情け」だったと思いますが、この若者は優れた指導者によって覚醒しました。明日の発表がとても楽しみです。

 論文に追われてはいますが、数日内に交流会の成果をこの場でご紹介することにします。

 ご無沙汰ばかりでしたが、またしばらくお付き合いいただければ幸いです。

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