yaaさんの宮都研究

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聖武天皇東国行幸都市サミット-8 その後の久留倍の条

2008-11-12 21:30:28 | 久留倍遺跡を考える会
 多事争論 語る人逝き 枯野の国 
 ストーブに 大森の声 重なりて
 


 さて、聖武が去った後の久留倍はどうなったのでしょうか。朝明の頓宮は間もなく解体されたらしく、八世紀末には整然と倉庫群が並びます。朝明郡の正倉にこの地が変化したのです。しかしそれらも九世紀中頃にはなくなり、いつしか忘れ去られようとしていました。その後の久留倍を三重大学の山田雄司先生の語ってもらいました。

 その後の久留倍    三重大学人文学部  山田雄司



 久留倍に所在したと考えられる郡衙が廃絶して以降、この地はどのように利用されてきたのでしょうか。これは難しい問題で、文献ではそれを明確に語る史料は残されていないので、発掘調査の成果を待つほかありませんが、ここでは断片的に残されている史料から、平安期の久留倍の状況について検討してみようと思います。

 〔1〕御厨・御園の成立
 久留倍周辺には東海道沿いに大矢知御厨、鳩野御園、鵤御厨などの神宮関係所領が存在していたので、これらの所領がどのような変遷をたどったのか見てみます。
 『左経記』によると、朝明郡は寛仁元年(一〇一七)に「御願」によって神宮に寄進されました。神郡とは
民戸の租庸調のすべてが神宮に供されたほか、内・外両宮および別宮さらには郡内諸社等の祭祀を支える巨大な神職集団の主要な供給地でもありました。
 その後さらに文治元年(一一八五)に飯高郡が寄進されることにより、度会・多気・飯野・員弁・三重・安濃・朝明・飯高の神郡は神八郡と呼ばれ、伊勢国十三郡中半分以上が神郡となり、公郡は桑名・鈴鹿・河曲・奄芸・一志の五郡でした。
 神郡は、十一世紀に変容を遂げ、神郡内の諸所領が職掌人給田などとして再編されるとともに、本宮庁(禰宜庁)を構成する荒木田・度会氏の領主的所領として御厨・御園が形成されていったと考えられています。
 神宮の所領について記されている『神鳳鈔』で、朝明郡の御厨・御園として確認できるのは以下のとおりです。
小嶋御厨・長井御厨・山村御厨・衣平御厨・保々御厨・鶴沢御厨・宇頭尾御園・鳩野御園・嶋田御厨・田口御園・岩田御厨・徳光御厨・小向御園・池田御園・長松御厨・石田御厨・福永御厨・山田御厨・弘永御厨・坂部御厨・金綱御厨・大矢智御厨・常楽寺御園・長橋御厨・富田御厨・鵤御厨・本能登御厨・吉沢御厨・開田御厨・高野御厨・坂本御厨
また、『外宮神領目録』には、『神鳳鈔』に載せられている御厨のほか、南富田御厨・北富田御厨・坂合部御厨・末永御厨・野田御厨・小泉御厨・茂福御厨が、『諸国御厨御園帳』からは林崎御園があったことがわかります。
 次に、具体的に久留倍周辺の御厨について検討してみようと思います。鵤御厨は茂福・羽津にわたって広がっていた御厨で、内宮祠官荒木田氏の氏寺建国寺領でした。ここには現在南北の伊賀留我神社が鎮座しています。
 鳩野御厨は長松御厨の四至に、北は「二条鳩口」を限るとあることと、大矢知町に小字「鳩浦」があることから、大矢知町から鵤町にかけてあった御厨と推定されています。『神鳳鈔』では、内宮領とされており、十二月に一石五斗納めていたことが記されています。
 大矢智御厨は大矢知町に比定され、天正年間の『外宮神税帳』に「七石八斗并壱貫文今ハ米成 大やち」とあり、七石八斗と一貫文を納めることになっていたことがわかり、『内宮神領本水帳』には、「四石六斗 中川新八棡内 大やち」とあり、四石六斗を内宮祠官中川新八が収納していることから、内外宮領であったと推定されています。



 〔2〕伊賀留我神社
 次に式内社について見てみます。『延喜式』神名帳には朝明郡二十四座として、以下の神社が記載されています。
伊賀留我神社、能原神社、伎留太神社、石部神社二座、兔上神社、太神社、多比鹿神社、鳥出神社、八十積椋神社、志弖神社、耳利神社、耳常神社、移田神社、櫛田神社、井手神社、殖栗神社、布自神社、穂積神社、桜神社、井後神社、苗代神社、長谷神社、
二十四座という数は、伊勢国においては、度会郡五十八座、多気郡五十二座についで多い数です。このうち久留倍付近の神社としてあげられるのが、長倉神社と伊賀留我神社です。現在長倉神社は久留倍谷に鎮座していますが、古来所在地には諸説あり、この地の産神であったと推測されます。
 興味深いのは伊賀留我神社に関する伝承です。伊賀留我神社は鵤御厨にあった神社と考えらます。現在伊賀留我神社は南北二社に分かれていますが、このことについて御巫清直の『伊勢式内神社検録』では、鵤村はもと一村だったが、寛永年中に南北二村に分かれ、分村した南鵤村にも新たに伊賀留我神社を祀ったとしています。そして、『伊勢式内神社検録』に引用される「古祭文」では以下のように記されています。
カケマクモカタシケナキトウシヤハ、アマノヲヽヒヌノミコトイヽチノソンシン□、テイクワン三年癸亥ムタリヘノツネマロ□シンへタルキウクウ□、山川セキリヤウ他土ニスクレ、西ハ白虎ノミネソヒヱテカタヲカ山ノツキメイシヤウニテラシ、北ハセイリヤウ□河曲清々トシテトミノオ川ノナカレシンクヲアライ、シユシヤクケンムノカイ四神アヒカノフノ地ユヱ、宮柱太シキタテヽレイ神トクハンシヤウシ、人コソツテイツキタイミヤウ神トカウス、
祭文中の六人部津根麻呂とは、『日本三代実録』貞観三年(八六一)六月二十日条に、妻の秦美豆岐が一度に三人の男の子を産んだため褒美が与えられたと記される人物で、御巫清直は「恩賜ヲ辱ミテ即時ニ其祖廟ヲ新修シタル旧社ナリカシ」と推測しています。この祭文がいつ作成されたのか不明で、「建久」と書くべきところを「ケンム」と間違えて書いているところから、室町時代以降に神社の由緒を権威づけるために『日本三代実録』の記事と結びつけたとも考えられます。
 伊賀留我神社の創始に関して、壬申の乱の際に大海人皇子が伊勢神宮を遙拝したことと関係するという説があります。天明八年(一七八八)に編纂された『古屋草紙』には、「伊賀留我神社大日孁女尊、壬申乱ニ天武天皇三重郡ノ頓宮ヨリ朝明迹保ニテ大神宮ヲ遥拝シ玉フ所也、于レ今号レ斎、此所ヨリ流ル川ヲ十四川ト云」とあり、これをうけて『式内社調査報告』第七巻東海道二の伊賀留我神社の項目において、荒川久壽男氏は、「(天武)天皇が大神宮の荒御霊を遙拝した故事により、かやうに大神宮の荒御霊を齋き祀ることになつたのであらう」と推測されています。
 『日本書紀』天武天皇元年(六七二)六月丙戌(二十六日)条に「旦於二朝明郡迹太川辺一望二拝天照太神一」とあることに関して、迹太川が現在のどの川に相当するのか、三滝川・海蔵川・部田川・米洗川・十四川・朝明川に比定する説がありますが、確定していません。しかし、ある時期からその場所が十四川の北側、すなわち「天武天皇迹太川御遥拝所跡」付近とされました。ここの字名は斎宮で、伊賀留我神社は斎宮とも称されました。これは天照大神を斎き祀る社という意味だと考えられます。明治三十九年の神社明細帳では、祭神は天照大御神之荒御魂神とされています。この地において大海人皇子が神宮を遙拝したという伝承に基づき、天照大神を祭神とする神社を創建したのではないでしょうか。そうすると鵤から久留倍にかけての地が天武天皇との関係を持ち、その伝承を伝える王権にとって重要な地であったということができます。

 その後真宗高田派を開いた真慧上人が久留倍の丘に最初の布教の地を開いたと言い伝えられています 

多事争論 語る人逝き 枯野の国
(たじそうろん かたるひとゆき こやのくに)
 
 昨日(6日)筑紫哲也さんが亡くなりました。とても悲しい思いに包まれました。ジャーナリズムがどんどん後退する中、筋を通した方が、テレビからまた消えてゆく のが残念でなりません。太平洋戦争が侵略ではないなどと言う人物が「空軍」を統率し,防衛大臣の指示も聞かずに居直り続け、言いたいことを言って「退職」 をする現実に背筋が寒くならない国民が多いのだとすれば、この国が枯れ野となる日もそう遠くないのでは、と思わざるを得ません。体制に迎合しないジャーナ リストを失った悲しみは深く、憂えは大きくなるばかりです。20081107



 ストーブに 大森の声 重なりて
 (すとーぶに おおもりのこえ かさなりて)
 
 昨夜(10日)からの冷え込みにたまりかねて、学生達がガスストーブを出してきた。夜遅くまで演習の発表資料の準備に余念がなかった。
「アー、そうか、じゃ、僕のも出そう、・・・・」と思った瞬間、この春のシーンが眼前に浮かんだ。
いつも苦労する自室のストーブの片付け。しかし今年の春は違った。
たまたまやってきた大森に
「済まん!ちょっとこれ抜くの手伝うてくれへんか。この奥になー,ガスの元栓があって・・・・」
「アーイーですよ。俺、やってあげますよ。」
いつものひょうひょうとした調子で、埃だらけの本棚の奥に潜り込みアッと言う間に元栓から抜いてくれた。その光景が甦った。
でも大森はもういない。寂しい。(20081111)

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