yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-3

2007-12-31 23:55:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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7月

① 昨日の検診は期待通りには行かなかった。まだ血小板は106000で足踏みしてしまっていた。だから6錠30mgにはしてもらえず、1錠だけ減らしてもらった。まだまだ先は遠そうである。
 でも元気を出して屋上から眺めていたときから行くぞ!と決めていた東福寺探検の散歩に出かけました。今回はまずアウトラインをたどる散策です。中心伽藍はまたいつか。退耕庵から南明院までと、そのまま伏見稲荷の大鳥居まで、裏道をブラブラ
歩きました。

(退耕庵に最初に出会いました。こじんまりした玄関に桃山時代という客殿が見事でした)

②  やっと自由な時間がもて、昨日、朝早くに家を出て、大阪府堺市に行ってきました。
 堺市役所の隣の総合福祉会館で開かれている「堺原爆展」に参加するためです。



(土曜日の朝早くにも関わらず沢山の人々が見学に訪れていました)

8月

 病気も落ち着いてきてまたまた活動開始です。

①  今回で第8回目になる壬申の乱ウオーク。でもここのところ続く猛暑の中どれだけの方が来て下さるのか心配だったのですが、加太駅についてびっくり!150人の参加者でびっしり。

(加太駅は無人駅。柘植と加太の間は9キロ近くある長い長い駅間。その間がクネクネ曲がる険しい山沿いのコース。鉄道マニアには有名なスポットだとも聞く。)
 今日のコースは特に健脚向きで、余り文化遺産がないのです。にもかかわらずこの沢山の参加者、有り難いことです。とは言っても今日のコースは私が案内するのではなく、亀山市教育委員会の亀山さんが全行程説明して下さることになっていて、私は参加者の一人として聞いていればいいのです。こんな楽なことはありません。

(大和街道を占拠?したウオーキングの一行)

② 17日から今日22日まで中国河南省の洛陽に滞在し、洛陽を堪能しました。
 本当はもっと早く書き込みたかったのですが、連日歩き回って、帰ってきたら20時過ぎ、風呂も入らずに(一寝入りしてから入ってますからご心配なく!!!)バタンキュウ。そんなのでなかなか書き込めませんでした。これから間もなく西安に向かって汽車で移動します。洛陽の本格的なレポートは西安に着いてから書きますが、少しだけエッセンスをお伝えしておきます。
 とにかく、5日間はとってもとっても充実していました。洛陽がこんなによく遺っているとは想像もしていませんでした。もちろん中国社会科学院の隋唐洛陽調査隊の方々が隅から隅まで案内下さったから充実していたことは言うまでもありません。しかし、今回は初めて自分の足で半日宮城内をあちこち歩き回り、私の頭に洛陽の地図を作ることができました。これが一番の成果です。今度皆さんを御案内することができるに違いありません??ホントかな?

(三度目の応天門も自分で歩くとよくわかります。この日は掃除もされていて全体がよく見えました)

9月
 
 記事にはできなかったのですが、橋本科研で難波・飛鳥・藤原を歩きました。

① 9月8日から14日まで橋本さんの科研で難波・飛鳥・藤原などいろいろなところを歩きました。専門家だけでの宮都再訪はなかなか意義深いものがありました。


(発掘調査中の藤原宮大極殿南門を見学しました。ちなみにその後、この施設の周囲で「地鎮」の跡が出たそうですが、私はこれを藤原宮造営の地鎮とする考えには反対です。余りに規模も内容も宮都の地鎮とは違いすぎているからです。)

(本薬師寺にも久しぶりに参りました。いろんな仕掛けがなされていました。)

有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-2

2007-12-31 22:56:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
Hadorian's Wallも良かったねと思ったらよろしくお願いします。

4月

 3月末からイギリスHadorian's Wallへ
① 今回の旅の大きな目的の一つが木簡の出土で知られるヴィンドランダ(Vindolanda)へ行くことでした。しかし、彼の地に行くには車で行く以外にありません。誰か案内してくれる人がいればいいのですが、残念ながら、先に記しましたようにこの時期は春休みで、みんな何処かにバカンスに出かけているそうです。イギリスの人達はとてもヴァカンスを大切にするそうです(これは本来当たり前のことで、日本人が働きすぎるのです!!お店が日曜日休みになるのも、わずか四半世紀程前の日本でも当たり前でした。ところがこの頃は年中開いている、それどころか24時間年中開いている店がざらにある異常さ!いつからこんなせわしない日本になったのでしょうね。どこぞの大企業の偉いさんが何でもかんでも効率、効率!そしてその後ろ盾の政治家も効率、効率!そのくせ、その人達こそ最も効率が悪い!!!変な国。)。だから御案内を頼むことができず。自ら運転する羽目に。アー恐ろしや!


(Chesterの北門。門の下にはちゃんと排水溝もありました。これも私の興味の対象。)

② 3月まで宮崎県で年季付きの嘱託職員として日向の地の発掘調査を担当していたMN君が無事いなべ市の職員として採用され、文化財担当として私達の仕事に加わってくれたことである。彼はHCさん同様、私が三重大学に赴任してから育てた?(育った!)優秀な考古学研究室の卒業生で、話によると宮崎県も惜しまれて出てきたそうだ。人間やっぱり見る人は見ているもんね。努力は決して無駄にはならない!!
その彼と行ったのが治田銀山だった。


(大通洞坑の中から外を見るとこんな感じ)
 このことが実は瓦分類に大きなヒントとなった。

5月

 昨日は新緑のまっただ中、吉野宮滝遺跡周辺のウオークに出かけました。四日市からバス2台100人、現地で参加された方50人、総勢150人で少し汗ばむほどのいい天気の中壬申の乱勃発の地吉野宮滝の遺跡巡りでした。


(河川交流センターは人で埋まりました。)
 宮滝遺跡の石碑の建つ直ぐ横にできた河川交流センターに集合し、12時から始まった見学会は熱気に溢れていました。今回は吉野町教育委員会の全面的な支援を受けて同町の池田淳さんの名調子の解説とたまたま奈良に来られていた玉城妙子さんの遺跡での解説までしていただく特別案内となりました。
 いつもながら時間と距離(3時間以内10キロメートル未満)が限られていますので、さほど沢山の場所が見学できないという問題はありますが、私にとっては手頃な距離と汗でした。


(吉野川を下に見ながら往時をしのぶ)

6月

ブログの更新を怠って早くも1ヶ月以上が経ちます。
大変ご無沙汰しています。あまりに更新しないので、間もなく皆さんに忘れ去られようとしています。
 ま、それでもいいかという最近の心境です。ハイ!タイトル通り入院しております。
 6月20日我が親友(宿敵ではなかったの?)山田邦和博士がわざわざ病室を見舞ってくださった。それも聞くところによると、午前中の面会時間外にも来られたのだとか。部屋が判らず、受付で聞くと、時間外だからと結局追い返されたとのこと。お出でいただくだけで恐縮次第なのに、授業と従業の合間を縫って二度も。申し訳ありませんでした。この御礼は必ず「出所」後に!!

 ところがそのお詫びの言葉の舌の根も乾かないうちに、今回は山田博士の桓武天皇柏原陵「桃山御陵説」は違うんじゃない?!というものなのです。怒るやろなー!

 実はこれ、今回の入院の一大成果(また、大袈裟な)の一つなんです。倒れてもタダでは済まさない!受領国司のような性格ですね。執念深い私故の成果かも知れません。もちろん東山の懐に「収容」してくださったお医者さんには大感謝しています。
 皆さんで京都の地図(何でもいいですよ)みて下さい。第一日赤は平安京の南限、九条大路が鴨川を越えて東山にぶつかるその地点にあります。


(毎日毎日二つの病棟を行ったり来たり、みんな変なおっさんと思ったに違いない。真ん中の杉木立の右手に米粒のように見えるのが「桃山城」桃山キャッスルランドの廃城の跡)


有り難うございました!2007年を振り返って 来年もよろしく!の条-1

2007-12-31 19:32:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
来年も訪問するよと思ったらよろしくお願いします。

2007年は波瀾万丈の1年でした。1年を総括して総集編をお送りいたします。

1月 
 がこうして始まりました。

① 新年明けましておめでとうございます今年もよろしくお願い申し上げます
 年末に突然思い立ってベトナムに行って参りました。ハノイで見学した社稷壇と南郊殿はいずれも工事に伴う事前調査であり、いつまで見ることができるか不明ということで、やむなく新年を跨いで飛んでいきました。
 

(現場の向こうには既にこのような大きなクレーン車やブルドーザーが入り遺跡下5mほどが下げられ、基盤工事が進んでいます。まるで早く調査して出ていけ!といわんばかりの居丈高な状況です。橋脚工事を進める久留倍遺跡のようです。寂しい!!)

 ついで悲しい知らせが・・・。
② 昨年末に京都新聞の佐分利記者から電話があり、高橋美久二さんのお亡くなりになったことを是非「追想」欄で取り上げたいので、話を聞かせてくれないかという。
 もちろんこちらからお願いしたいくらいのことなのでお話しをさせていただいた。
 京都の自宅で4時間くらいお話ししただろうか。
 まだまだお伝えしたいことは一杯一杯あったのだけれど、文字になるのはそのほんの一部。佐分利さんには申し訳なかったのだが、ついいろんな思い出を話することになった。もちろんその会話の中で思い出したことなどを先の「思い出」の中でも書いた。その取材記事の載った新聞が今日私の手元に届いた。

(飾られていた遺影もこの写真だった。亡くなる前に自ら出してこられた写真だという。8年前だからまだまだ若々しい元気な高橋さんだ。)

2月

 また悲しい出来事で始まりました。
①  折角前回、私の友人の順調な回復をお伝えし、ベトナムハノイの四鎮のお陰と感謝したばかりなのに、その直後に鎌田元一さんの訃報が届いたのです。
②  昨日は第6回目の壬申の乱ウオークでした。今回は初めて672年6月24日甲申初日の条を歩くことになりました。大海人皇子が吉野を出て、榛原にあった宇陀郡家を経て名張へ入りますが、名張に入ったその地が赤目付近だと言われます。赤目というのはあの有名な赤目四十八滝のあるところで、大和から伊賀に入る最初の地域です。参加者の多くの方がこれまで、四日市や鈴鹿。関の方々ですから、予め四日市方面の方用にバスをチャーターすることになりました。もちろんこれらの準備はすべて久留倍遺跡を考える会の皆さんの段取りです(本当に感謝します!!)。

(約8㎞二時間余のウオーキングはポカポカ陽気の名張赤目から夏見への旅であった。さすがに疲れたのか夏見廃寺では講堂の基壇に座り込んで皆さん動こうとしなかった。お疲れ様!!)

3月

 初めての喜界島に始まりました。
① こんな可愛らしい30人くらいしか乗れない飛行機で喜界島に向かいました。そうそう、喜界島の空港というのがどうも滑走路が短いらしく、降りるときは急ブレーキ、離陸するときは思い切りふかしておいて急発進という、何とも原始的な離着陸。スリル満点ですよ。でもご安心を、それだけパイロットは熟練!!
 


(最近公表された「石敷き道路跡」です。私は何か特殊な空間を美しく見せるために石を敷いたのではないかと思うのですが・・・)

ハノイ-6  もう一つの築地の条

2007-12-29 03:29:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ハノイから帰国して直ぐに国史跡北畠館跡調査指導委員会があった。
 そこでとても興味深い築地跡を見学することができたのでご紹介しておこう。
 もちろん築地塀ではないという意見もあるのであくまで私個人の見解である。

日本の築地塀も面白いねと思ったらよろしくお願いします。


(文献、考古、歴史地理様々な分野の先生方と意見を交わした委員会。とても勉強になりました。)
 北畠氏がこの地にはいるのは14世紀中頃である。神皇正統記で有名な北畠親房の3男北畠顕能が伊勢国司としてこの地-旧美杉村-に霧山城を築いたのが最初だと伝えられる。その後1576年、織田信長によって滅ぼされるまでの230年間この地を拠点にして伊勢支配に当たったのである。

 その館跡が近年発掘調査により明らかとなり、中枢部が国史跡として指定されたことは以前にも記したことがある。毎年1回の委員会がこの時期にあり、昨年も今回の調査地の直ぐ南西側の調査を見学したことがある。


(これが築地の基礎とした石垣の一部ではないかと思われる遺構です。両側に面をもっているのでその間が構築物であることは間違いありません。単なる背の低い石垣とはとても思えません。)
 今回は石を用いた遺構が出ているとのことでとても興味深かった。行ってみてびっくりしたのは基礎を石組みにした築地塀が見事に遺っていたことである。こんな幅の狭い(幅60cm)塀はこれまでにない?と言う意見もあったが、私はこれで十分基礎を石垣にした築地塀でいいと考えた。委員会の後でいろいろ調べてみると、この頃(16世紀の何処かで造ったか)の築地塀なら壁土を積み上げていく近世以降の方法で十分に築地塀はできると思われる。特に瓦がほとんどでないのであるから、恐らく屋根は板葺きであったろう。ならば益々この工法で築地は築造可能である。


(ハノイタンロンの築地塀です。ここでは外周を磚で覆いますから芯は磚や瓦を詰め込んでいます。土や木の文化である日本と磚の文化であるベトナムとの違いをまざまざと感じることができます。)



(これが日本の築地塀です。高麗寺の築地塀はもちろん土壁です。)
 それ以外に方形の石組みや円形の井戸らしき石組み、直径1mはあろうかという巨大な礎石状の石が認められる。かなり立派な石を多用する施設があったのである。ところがこれらの遺構とは趣の異なる余り綺麗に揃わない掘立柱建物の小ピット群があり、何とか建物にすることができるという。さらにこれらの「掘立柱建物」の内部におさまるように炉壁や鉱滓が廃棄された土坑があるという。とてもこれらの石組み遺構とはそぐわない建造物である。
 はっきりはしないのだが、掘立柱建物と石組み遺構との間には検出遺構面に違いがある可能性があり、時期差があるかもしれないのだ。ならば話は理解しやすいのだが、現場はもう既に発掘されてしまっており、その可否を判断する材料がほとんど無いのである。これは少し残念だった。
 こうした発掘調査では、やはり遺構の変遷を確認できるよう、必ず断面ベルトを残しておかなければ、確認のしようがないのである。ちょっとそれが残念だった。
 
 さて、なぜこんな所に石組みを基礎とした立派な塀が設けられたのであろうか。その答えは、この地が多気の北畠館の東西メインストリートに面する場所だからである。この道を真っ直ぐ東へ登ったところに北畠の大事な寺院が建立されているのである。言ってみれば一等地である。面白いことに出土遺物の中に尼さんの存在を示す墨書土器がある。私は文献では知られていない尼寺がこの地一帯に伽藍をもっていたのではないかと考えたいのだがどうだろう。


(これが出てきた炉壁です。鋳型や鉱滓が出ているので鋳造が行われていたことが判明しているんですが、これは壁が真っ直ぐに立っていて、鋳造炉ではないと思われる。鍛冶もやっていたんでしょうね。私は工房→尼寺という変遷を考えてみたのですが・・・。)
 その可否はこれから先調査地の東で行われるであろう発掘調査によって明らかにされるであろうが、私が最も注目したのはベトナムタンロンの11世紀の築地塀と日本中世16世紀の築地塀の構造の大きな相違であった。タンロン王城の16世紀と言えば黎朝期である。これから先同時期の築地塀も明らかになるはずだが、その際、日本中世のこの石垣の資料は、技術の相違を確認する上で極めて貴重な資料になるに違いない。時代も国も異なるのだが、新たな比較資料を入手することができ、とても有り難く思った一日であった。1月には現地説明会もあるらしい。是非たくさんの人々に見に行って欲しい遺跡である。

多気の北畠館も面白いねと思ったらもよろしく
 



ハノイ-5  比較都城の対象はどこなのかの条

2007-12-27 02:07:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は特に難しい!!と思ったらよろしくお願いします。

 大越国のモデルとした都城は一体どこにあるのだろうか。

 日本の古代都城が諸説あるが、その基本形を唐長安や洛陽によっていることは間違いなかろう。少なくとも京域の形態がヴェトナム大越国のタンロン王城のそれ(大羅城)とは相当異なっていることだけは間違いない。現在いわれている形態ー西の方へ大きく膨らんでいるーが本当に建国当時のものであったとするなら、他に例がないとも言える。


(正確な遺構変遷を確認すること!これが共同調査に際しての第一の課題である。切り合い関係を確認するには最適なD3 区 湿地帯なので木製品の残存度が極めて高い。)

 ただし、その形態にしても確定しているわけではない。あくまで限られた編さん史料である文献史料や古地図からの推定である。必要なことはまず第一にタンロンの実態を明確にすることである。現状の議論は発掘調査されたホアンジウ18番遺跡の極めて概略的な遺構変遷とこれまでの文献史学や歴史地理学的な研究成果がつぎはぎされて推定されているだけで、どうも各王朝毎の正確な建物変遷も確認できていないのである。もちろん京域に当たる大羅城に到ってはほとんど手つかずなのである。これでは比較の基準が余りにも違いすぎる。


(築地塀の積み方もかなり異なるようだ。)

 第二には都城の都市的要素(都市性)毎に東アジアの調査成果の明確な都城と比較することである。もちろんその中心に中国唐長安城や洛陽城の調査成果がなければならないのであるが、残念ながらそれらは極めて限定的である。発掘調査が進んでいるのは大明宮域であり、本来の長安城の中枢部である宮城や皇城はほとんどまともな発掘調査はなされていないのである。洛陽城はその点中枢部の調査が部分的ではあるが進められている上、京域にほとんどそのままかつての京域が遺存しているのである。洛陽城の調査が進めば大いに東アジアの都城との比較が可能となろう。

 もちろん最も調査研究の進む日本古代宮都の調査成果はあらゆる点で比較の対象となる。但し問題は極東の島であるが故に、多くの点で独自の都城を構築していることにある。今回もタンロン王城の遺跡の再調査の中で問題となってきた築地の構造について、「磚を多用する大越国」と「木造建築技術が秀でている日本古代宮都」では相当技術が異なっていることが判明した。単純に日本の研究成果を持ち込めないのである。


(社稷壇の発掘調査は世界初!!)
 しかし、昨年末に発掘調査が開始された社稷壇や南郊殿は、世界で初めてと言っていい成果であるだけに、今後長安や洛陽での調査成果が出たときに必ず比較の対象となる調査である。残念ながら日本古代宮都には社稷壇の事例は全くなく、南郊殿にしても桓武朝に一時的に設けられる程度で、ほとんど比較できないモノもある。それでも、日本になぜ社稷壇や南郊殿が設けられなかったかということを考えるに当たっては、当然、大越国でのそれの成立との比較で重要な役割を果たすことになる。

 この様な思いを込めて比較研究の視点について若干の提案をしてみた。以下はその簡単なレジュメの一部である。

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2007,12,21
「タンロン研究」ワークショップ資料
日本古代宮都研究の現状とタンロン研究
~東アジア宮都比較研究によるタンロン研究の新視点~
山中 章(三重大学)
はじめに~日本考古学の基礎理論と宮都研究50年の実践~
(1) 層位学的調査技術《層位論》による掘立柱建物の検出・切り合い関係の掌握→施設の変遷を解明する 
・ 宮都変遷の相対的年代観を明らかにすることができた。
・ 平城京(710年~784年)の5期変遷(15年×5期)を解明した
Ⅰ期:平城京遷都期 Ⅱ期:聖武朝前半 Ⅲ期:聖武朝後半 Ⅳ期:孝謙・称徳朝
Ⅴ期:光仁(桓武)朝 Ⅵ期:長岡京期 Ⅶ期:平城上皇還都期
・ 平安京・京都(794年~1868年)の発掘調査は千年余を分層してきた→左京域では3mを超えることも
(2) 層位論と遺物型式論による相対的年代観の確立《型式論》→出土・検出遺物・遺構の比較研究  
・ 遺物(軒瓦・土器等)の相対的年代観とのクロスチェック
・ 平城京遺構の5期変遷と土器・軒瓦の5期型式変遷
・ 長岡京(784年~794年)10年の型式→ホアルー城や胡朝城の考古資料
(3) 木簡・墨書土器・刻印瓦・磚の紀年資料による相対年代の補正《年代論》→年代のクロスチェック 
・ 相対的年代観に出土遺物から絶対的年代観を与えることができる。
・ 絶対的年代提供技術の深化→紀年資料による年輪年代の補正
・ 5期型式のクロスチェック
(4) 世界共通基準座標測量《分布論・配置論》→絶対的位置比較  
・ 時間軸への是大敵空間軸の付与
・ 条坊設計の高精度な施行:設計の復原
・ 座標方位:同一性と変遷
(5) 文献史学と歴史考古学《資料論》→公開された多様な資料からの分析 
・ 文献史学との共同研究→文献史学者の発掘現場への参加・担当・討議
・ 『日本書紀』・『続日本紀』の記載とのクロスチェック
・ 「評」制の解決、「五十戸」制から里制へ
・ 出土文字資料群との比較研究

Ⅰ 宮城・皇城・禁苑構造の比較研究(以下、《 》は日本古代宮都の施設名)
1 宮城・皇城の比較
(1) 宮城・皇城構造について → 日・韓 対 中・越
a) 宮城・皇城の区別
・ 宮城と皇城が区別された:唐長安城・渤海上京龍泉府
・ 宮城と皇城が区別されたが皇城空間が狭く東に不足分を足した:唐洛陽城
・ 区別されなかった日本古代宮都:宮城・皇城が混在した
・ タンロン王城はどちら?:狭い皇城空間→洛陽型か? 不足分はどこに?
・ 宮城と皇城の区別は王権の専制性と関係か
・ 日本古代王権は伝統的に中央高級貴族と密接不可分→だから混在したのではないか
・ ではヴェトナムはどうなのか?
b) 大和殿・含元殿・大極殿前の前庭の有無  《大極殿・大極殿前庭》
・ 唐長安城・洛陽城・大明宮には広大な前庭がある
・ 日本古代宮都では唯一平城宮前期の中央区にのみ存在する
・ 日本古代宮都ではその前後には認められない
・ タンロンの敬天殿前は前庭かどうか?
・ 渤海上京龍泉府宮城は前庭がない
c) 儀礼・饗宴的空間の比較 《中央区朝堂・豊楽院》
・ 唐長安城・洛陽城は?
・ 唐大明宮は西の臨徳殿が迎賓施設
・ 日本古代宮都は政治的中枢部の南または西に展開《中央区大極殿・朝堂 豊楽院》
・ タンロン王城:ホアンジウ18番遺跡調査地がそれではないか。→建物構造の類似性と小規模建物群の点在、大量の出土遺物
d) 皇后宮と東宮の配置
○ 皇后宮
・ 唐長安城・洛陽城では宮城内西の掖庭宮に所在
・ 日本古代宮都では8世紀後半まで宮外に所在
・ 8世紀末以降内裏内の北半部に配置、同時に後宮もその両側に配置
・ タンロン宮殿では宮城の北端部に所在か
○ 東宮
・ 唐長安城・洛陽城では東東宮に所在
・ 日本・新羅慶州(雁鴨池)・タンロンも同じ
 2 禁苑と禁野
(1) 王権と禁苑・禁野
・ 禁苑・禁野は各国の都に存在する
・ 唐長安城禁苑・洛陽城西内苑と平城宮松林苑は確実に存在する。
・ 渤海上京龍泉府の北部には大規模な池や川(牡丹江)があり、禁苑と考えられる。
・ 禁苑に向かう大規模な橋も確認できる。
・ 日本古代の長岡京・平安京宮城の北部には広大な禁野が展開する
・ タンロン王城の北部には大規模な太湖(西湖)が所在する。→禁苑ではないだろうか
・ 東アジア全体に宮城の北部に禁苑または禁野をもつことが共通する。
・ 特にタンロンは湖水面が広範囲を占め、水上での遊覧や競演が中心となろうか。
(2) 禁野
・ 長岡京・平安京と禁野:遊猟空間 《大原野・北野》
・ 植物園・動物園:フエの動物園
・ 長屋王邸の珍獣禽たち→高級貴族も禁野的空間をもつか?
Ⅱ 京城・京師構造・機能の比較研究
1 都市と条坊・街区
(1) 条坊制の解明:日本古代宮都研究の最も先進的な成果
a) 遺存地割研究の重要性
・ 唐洛陽城の極めて良好な遺存地割の確認→平城京の遺存地割研究が平城京研究の開始に大きな役割を果たした
・ タンロンの遺存地割研究でも、南郊殿と社稷壇の発掘調査によって、地割りの一部が11世紀に遡る可能性が指摘できた。
b) 基準点座標測量
・ しかし、ミリ単位の精度の基準点測量の導入によって、遺存地割りではわかり得ない厳密な年代毎の条坊の位置が確定できた。
・ 正確な測量結果から精度の高い造営尺や造営方位が復原できた。
(2) 設計理念の読解
a) 設計理念
・ 都市の設計図を復原することによって、各都城の設置理念を解明できる→日本の平城京は建設当時は貴族や上級官人層の居住する政治都市として設計された。
・ ところが長岡京になって、拡大する都市下層民の出現に対応するため、都市構造が大幅に改変された。
・ 条坊制の解明は、都市交通システム、下水管理など都市の基本機能を復原することを可能にした。
b) 都市居住民の階層性への対応
・ 階層別に居住空間が指定された→宮城に近い空間には実務官司、高級貴族邸宅、京内離宮を配置
・ 宮城より離れると下層都市民を居住させる
(3) 都市空間の利用実態
a) 京内離宮
・ 長安城興慶宮や平城宮・長岡京・平安京東院、平安京冷泉院など京内に多数の離宮を建設した。
・ 新羅慶州やタンロンでは?→文献史料の記述を確実なものにする必要性がある
 b)  京外離宮
・ 洛陽合璧宮・洛陽興秦宮と日本古代王権の設置した吉野離宮・竹原井頓宮・河陽離宮等、避暑、保養のために王権は京外に常置の離宮を建設した
・ 発掘調査により離宮での生活や饗宴のために大量の物資が都から運び込まれ、大規模な警備がなされた。
・ タンロンではどこに予想できるのか?
c) 宮外官衙と宿所町
・ 宮城・皇城の機能と実務官衙との関係を考慮する必要性がある。
・ 多様な実務官衙の存在が日本古代都城からは確認できる。
・ 実務官衙他で勤務する多数の労働者(仕丁)のための宿所が用意される。
(4) 羅城
・ 羅城のある都市:越・中・韓→長安城明徳門・洛陽城定鼎門の偉容と機能
・ 羅城のない都市:戦争のない国日本の特性
2 交通・流通・軍事と市・関
(1) 交通システムの解明
・ 交差点から見た交通の優先関係の理解
・ 王権は都市内交通の優劣を決めていた!
・ 交通制御には橋も重要な役目を果たす。
(2) 市の構造や交通網の研究
a) 市と運河のセット関係
・ 洛陽城南市には洛河と結ばれる運河を確認
・ 日本古代宮都の全ての市に運河が設置される→物資運搬の要・必要条件である
・ タンロンの市は東?→洛河を使う??
b) 市の構造
・ 店の配置はどの様なものであったかによって、市の販売能力を確認できる
・ 販売物品種を文献史料から抽出すると共に、市(周辺遺跡)出土文字資料や製造製品によって、特定可能
・ タンロンの市では何が販売されていたのか?
c) 貨幣流通
・ 日本では7世紀後半に鋳造が開始された富本銭に始まり、708年以降皇朝十二銭と呼ばれる貨幣の鋳造が始まる。
・ 貨幣が役人の給与として流通すると共にまじない道具としても用いられる
・ 日本古代遺跡から唐代の貨幣が希に出土する。
・ 日本の貨幣が唐長安城や洛陽城他から発見される。
・ ヴェトナムの貨幣は?
(3) 関
・ 三関と呼ばれる関が東部3箇所に設置される。
・ 日本古代の鈴鹿関や高句麗の関馬薔は軍事施設として機能した
・ 唐代長安城や洛陽城には各所に関が設置された。
・ タンロン王城へ到る京外の道に関は設けられたのか?→その実態はどの様なものなのか?
Ⅲ 社会・文化の比較研究
1 文化の比較研究の必要性
(1) トイレ文化の変遷
・ トイレ研究のきっかけは寄生虫だった
・ 寄生虫の種類で判る食生活→人種や地域性の確認が可能
・ トイレを隠すか隠ささないか
・ 中国・ヨーロッパは隠さない
・ 日本は厳しく隠す!!
・ ヴェトナムは?
・ いつからこの文化が開始されたのか?→信じていた日本人
(2) 識字層の広がり
・ 識字層を知る手がかりはどこにあるのか
・ 道具の発達:硯は文字を書くための東アジア共通の筆記道具
・ 円面硯から風字硯への展開は文字の個人化を意味する
・ 文字を書いた土器と記号を刻んだ土器の確認
・ 識字層と非識字層の証明→都には非識字層が大量にいた!!
・ 税物に付けられていた木簡→誰がいつどこで書いたのか
・ 日本古代の行政組織:国・郡・郷・里制度
・ 里よりもさらに下の単位で書かれた可能性のある木簡がある→識字層の予想以上の広がり
(3) 国家祭祀と道教
・ 律令的祭祀の頻繁な実施:人形・人面墨書土器・土馬・ミニチュア竈・銭・櫛
・ 「民間」祭祀へと展開した道教祭祀:楚民将来札
・ 都の検察に際しての地鎮祭の実施
(4) 社稷壇の比較研究
・ 南郊殿(天壇・地壇)の比較研究
・ 宗廟祭祀と陵墓の遺存:京内に遺った古墳群
・ 社稷壇と南郊殿をもたない日本古代国家
・ 社稷壇のみをもつ朝鮮諸国家
・ 社稷壇と南郊壇を持つ大越国
(5) 造酒技術
・ 不思議な甕ピットの発見と造酒痕跡
・ 飲酒は人間文化!→どこでどの様に醸造したのか?
・ 宮城(皇城)周辺の京内宅地にて大量醸造
・ タンロンの醸造所は何処か?
・ 封泥と酒管理→皇帝への酒は不可欠だから封泥により品質保証(毒の混入防止)をする
(6) 製塩技術
・ 岩塩と煎熬塩
・ 焼塩と散状塩
おわりに ~日本古代宮都半世紀研究の課題~
(1) 東アジア漢字文化圏(日・中・韓・越・蒙古・チベット等)との詳細な比較研究の必要性
・ 漢代郡治・唐代六都護府(安南都護府・安東都護府・安西都護府・安北都護府・単于都護府・北庭都護府)
(2) 総合的比較研究の実施
・ 調査技術・研究レベルの統一
・ 課題別比較研究と全体的総合的比較研究の必要性
(3) 文献史学との連携
a) 漢字文化圏の強み
b) 漢文データーベース
(4) 民俗学・民族学との連携



ハノイー4  南郊殿発掘の条

2007-12-26 03:07:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
南郊殿、見てみたいな!と思ったらよろしくお願いします。

12月20日はタンロンでの共同研究・調査に関する打ち合わせ会議でした。
お二人の責任者と具体的な話をし、お昼は日本料理店での楽しいひとときでした。
食事を終えてタンロンの調査事務所へ帰る途中、南郊殿の近くを通りました。

直ぐにタクシーを降りて、現場を拝見することにしました。もちろん案内してくれたのは責任者のチンさんでした。面白いことに現場の入口にいた若い学生がチンさんを知らなかったらしく、勝手にはいるなと注意をします。名乗っても判らないらしく仕方なく振り切って苦笑しながら入ることになりました。ま、どこの世界でもよくあることです。


(南郊殿の発掘調査は最盛期を迎えているようです。特殊な建物構造をした施設が天壇の周りに置かれていたということでした。)
南郊殿は昨年来たときに掘っていた北側のところを大々的に調査していました。事前に建っていた施設によってかなり壊れているのですが、彼の話によると、天壇の周りに建っていたと考えられる施設の一部が出ているとのことでした。


(このビルの建設に際し調査がなされていたらなーとみんなが思ったことでしょう。どこの国でも文化財の力はとてもちっぽけなもので、いつも経済の力に圧倒されています。悲しいことです。)
残念ながら、天壇は調査地の西に推定できその西には巨大なデパートのビルが既にできていました。既に壊れているかも知れませんね。
中国長安でも近年天壇の発掘がなされており、ベトナムでこれが出れば初めて外国の天壇と比較が可能だったのですが。残念です。タンロン宮殿の世界遺産登録を目指しているベトナムですが、まだまだ周りには世界遺産級の文化遺産が大量に残っているようです。現場はまだ調査中で、その極一部しか拝見することはできませんでしたが、それでも、中国では判っていない周辺施設の状態が判りつつあるようで、とても興味深い調査が進行していることが判りました。


(タンロンでの確認で私が最も注目しているのが文字磚と築地塀です。いずれもこれまでの調査で確認されているものですが、改めて基本的なデーターの収集が必要で、そのための方法論を模索しています。)

その後タンロンに戻り、これまでの調査区を再精査している現場を見て回り、ここでも新たな事実が判明していることを知りました。
現場がようやく日本的な遺構の検出方法になってきたことが判り、新たな一歩が切られ始めていることを実感しました。

現場では文字・記号刻印磚を中心に再チェックを試みました。薄手の磚の端面に記されている例の多いこと、数字の刻印が目立つことなどを新たに確認しました。




(築地塀の建設法について、西村さん達と議論しています。いろいろな意見が出されていると聞きますが、まずベトナムでの基本的技術の掌握が先決でしょう。日本や中国とは異なる技術体系があるように感じます。この点でも比較研究の大いなる必要性を感じることができるのです。どうもこの築地塀の建設方法を見ているとベトナムでは磚で外壁を化粧するためか、内部の積み土がとても乱雑なことが判ります。これも大きな発見でした。結論を急がず、一つ一つ技術を解明していくことこそ大事だと言うことを実感させてくれた事例でした。)

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ハノイー3  内容の濃い1週間の条

2007-12-25 10:30:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ハノイから昨日早朝に戻りました。
とてもたったの1週間のこととは思えない内容の濃い時間を過ごしました。

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(ホテルは太湖の北西岸、シェラトンホテルが直ぐ横にあるというとても環境のいいところだった。但し値段はシェラトンの10分の1(笑) ホテルの最上階の食堂から南西に眺められる太湖。ちなみに市内のホテルはどんどん値上がりし、このホテルより汚く、エレベーターも壊れかけのものが45ドルというから相当高くなっている。)

 もちろん今回の目的はハノイ大学で行われたユネスコの援助による「タンロン研究会」の歴史班での報告であった(21日)。
 日本からはヴェトナム研究で著名な大阪大学の桃木先生、広島大学の八尾先生がご出席で、短い時間ながら実に手際よく李朝から黎朝までの文献史学における研究課題を御報告され、とても勉強になった。実は前日に今回、研究会に誘ってくださった関西大学助教の西村さんの家で事前勉強会も開催され、先生方のお人柄にも触れることができ、より多くの新しい知識に合うことができていたので、さらに理解しやすかったのである。

お話しの中でナナナント、同じ飛行機の横に座っていらっしゃった方であることが判り、もっと早くお知り合いになっていればよかったな・・・、等と思った次第である。


(思いがけなくも訪れることが出来たコーロア城の城壁調査は幅5m近くにわたって城壁から内側の濠までを断ち割るという大規模なものであった。来年2月に濠部分の詳細調査が実施されると言うことで、その成果が待たれる。)

報告の詳細はまたこのシリーズの中でお話しするとして、今日は1週間のアウトラインを書いておくことにする。

実はその前前日(19日)、ヴェトナムの歴史を語るには欠かせないコーロア城と陶芸の町バッチャンに行った。前者へは3度目、後者は初めてである。


(バッチャン村はとても観光化されていて、売られている焼き物はとても高価であった。観光というものが本当にいいのか、考えさせられる風景でもあった。)

コーロア城は現在調査中というので見学に行ったものである。まだ未発表なので、残念ながらこのブログに写真をご紹介することはできないが、アメリカの大学との共同調査で、3重に囲われている真ん中の城壁を断ち割り、濠と共に発掘調査しているものである。濠の部分はまだ未発掘で、上の盛り土を取っただけの状態であったが、幅40m近くある巨大なものであることが事前の地形確認からも知られている。かつては船も通っていたという濠は今も水をたたえている。


(中城壁から内城城壁を見る)

中城壁はとてもよく遺っており、以前も近くを見学し、大量の瓦の散布を確認しているが、これだけの規模で断ち割るのは全く初めてだという。調査の結果、上から1mくらいの地点から両側に瓦の堆積が帯状に遺っていると言うことで、基底部の幅20m、高さ3.5m以上はある城壁に最上部には何らかの施設のあったことが推定できる。調査担当者は建物の存在を推定しているようだが、私は築地塀があった可能性を指摘しておいた。もちろん、紀元前に造られたとされるこの城が、伝説上のものと一致するのかどうかはこれからまだまだ検討しなければならないことが多いのだが、城壁の構造がどうであったかは、鈴鹿関の構造とも関係してとても重要なことであろう。

いずれ公表されれば世界中をあっと驚かせるに違いない。

午後は紅河の右岸に展開する陶器の町バッチャンに行った。本当はさらにその奥にあるキムラン村にも行く予定だったのだが、時間が無くなり次回に回すことになった。

バッチャン村の陶芸はとても著名で、観光客が大型バスで乗り付けて買って行くとか、街中のあちこちにまるで清水焼の五条坂のようにお店が並んでいる。でも案内してくれた西野さんによると、この磁器は焼成温度の問題なのか、少しもろいそうで、ベトナムの人には余り人気がないという。


(迷路のような路地ばかりの旧村の内部。あちこちで陶器を焼いていた。この少女の背後の壁には大きな炉跡が壁に埋め込まれていた。)


(今は型作りのものが多いらしく、この様な型があちこちに乾されていた。)

旧村の中は迷路のような路地が続いているのだが、さすが、長くこの地域の調査をなさっている西野さんはすいすいと歩いていく。途中、聖母を祭ったお寺や集会所を通り、紅河の辺に出ると川向こうにハノイの市街が遠望できた。2日後の研究会で安南都護府の変遷について西村さんの御報告があったが、その移転前の候補地を川向こうからみることもできた。


(この川がハノイの町を造った紅河。川向こうがハノイの東部に当たる旧市街地である。)


路地のあちこちの壁には元使っていた炉跡が埋め殺されて見ることができ、とても神秘的な光景を呈していた。壁には最近使い出したという「豆炭」が貼り付けて乾かされており、これまた不思議な光景であった。

(先生は最近高血圧とかで寝ておられたが、機嫌よく私達の話の相手をなさってくださった。)


途中、西野さんの親しい元学校の先生で、この辺りの村の歴史に詳しい先生のお家を訪ね、雑談をしたり、江戸時代初期にこの地にいた和田理左右衛門の御子孫のお宅にお伺いし、その家譜を拝見したりととても充実した半日を過ごして家に帰ったときにはすっかり暗くなっていた。


(和田家の御子孫というこの方は熱心に古文書の話をしてくださった。まさかベトナムの民家で「古文書」に出会うとは思ってもいなかった。)


そしてその夜皆さんとお会いすることができ、報告の内容を少し変更しなければならないことに気付き、ホテルに帰ってから、大急ぎで内容の修正に取り掛かる始末だったのである。その顛末は次回また。

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ハノイー1  ハノイデ比較研究の条

2007-12-18 13:37:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
これからハノイへ行って参ります。

24日早朝に帰ります。

今回は簡単な?東アジア宮都の比較研究の方法論についての報告です。

レジュメが長くなりすぎて時間がたらなそうです。

ま、いつものことですから。

ちなみに明日は初めてバッチャン村です。
陶芸の町として知られる紅川左岸の村です。楽しみです。

また帰ってきたら報告しますね。

行ってきまーす


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山田博士に振られ寂しく高麗寺の条

2007-12-15 00:00:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(先日記者発表があって、大きく紹介された高麗寺の現地に行ってきました。7世紀の築地がそのまま見られるなんて最高!!)



先日思い立って木津川市の中島さんに電話し、まだ高麗寺の現場が見られるか尋ねてみた。わざわざシートをめくって見せてあげるという。

ヤッター!!

そこであちこちに見に行こうと誘うのだが急なことで誰も来ない。

勤務地から電車で数分のところにいるはずの山田博士。彼なら来るに違いない。いやひょっとしてもう見に来たのかも知れないが、朝一番にメールをする。

(紅葉真っ盛り!現場は最高!!これを見なかった山田博士はきっと地獄に堕ちるに違いない!!)



昼頃になって返事が来て、
「今日は大事な人とのデートがあるから行けません」だって。
デートと高麗寺とどっちが大事何や!(そりゃデートに決まってまんがな)
(高麗寺の外郭を囲う築地は河岸段丘のぎりぎりのところに設けられていた。そのためか外側は崩れ、築地の芯から内側くらいしか遺っていなかった)



(右側が築地塀、左が瓦だまりである)


(中島さんの話によると、屋根が風によって浮き上がるように持ち上がり、寺域の内側に墜ちたのだというこの様に瓦が重なったまま発見されたことにより、手前が屋根の下だからです)



世の中一般はそうかもしれん、だがしかし、博士は博士なのである!!やはり博士な日常を送らなければならないのである。四六時中博士でなければ博士の意味がない!??のである。

(南門は去年発見されていたがその一郭も見せていただきました。礎石が遺り、これによって門の規模が再現されました。これが門の礎石です)



(櫓4段に上って上から写真を撮らせてもらった。寺域が木津川方面からの眺望を意識して建てられていることを実感することができた。可愛そうな博士!○○○とウニ丼に溺れて)


そんなことしてるから、マックとクイールを置いて母ちゃんに逃げられるんである!??
天罰である。おまけに見学が終わった頃に来たメールがこれまた小憎らしい!
「ただ今ウニ丼食べてます!」だって。こんちくしょう。



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大手前高校出前授業池島福万寺遺跡の条

2007-12-14 23:06:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
激動の2週間の真ん中には恒例の大阪府立大手前高等学校の出前授業に出かけた。今年で10年になる。

この頃は近々に出かけた遺跡をテーマに話すのだが、今回は大学では毎年恒例の「トイレの考古学」受講生は大体20人前後。それなりにみんな集中して聞いてくれたような感じ。

午後からは電車を乗り継いで近鉄花園駅からバスに乗って現場まで。
最近は大阪府文化財センターの方々がとても丁寧で親切な説明や体験発掘、遺物整理体験をさせてくれるので、こちらは何もしないで見てるだけ。

学生は現場で地層をさぐるためのガリかけだけでもおはしゃぎ。翌日現地説明会の現場を掘り散らかして帰ることに。本当に有り難いことです。この中から何人かの考古学専攻生がでてくれれば最高なんですがね。


(現場ではセンターの塚本技師から懇切丁寧な説明)


(ガリかけは大好評で、みんな必死に削っていました)

(室内では土器洗いとマーキング。ベテランの作業補助の方々が丁寧に指導してくださいました)




(遺跡の大半が水田なので、農具を復原して見学者に使用方法を説明するらしい。生徒達も石包丁で穂首ガリ実験)

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またもや怒濤の2週間の条

2007-12-14 22:31:17 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
あっという間に2週間が過ぎてしまった。
書くことは山ほどあったのだが、書く暇がなかった。そもそもが、写真を登録する時間がなかった。そのうち新味に欠けて果たして今頃書いていいのやら・・・

第10回東海例会に行こうと思ったらここをクリックして下さいねよろしくお願いします。

この間の忙しさの第一の原因は原稿にありました。
もちろんずっと前から締め切りが決まっていたのですからほっておけばこうなることは見えていたはずなんです。それがなかなかできないのが今日この頃なんです。体力も落ちているんですよね。
まず一つ目がどんなことがあっても11月末日までに出してください。でないともう切りますと言われた学生社刊の広瀬和雄さん編集の本。本のタイトル何だったっけ?忘れましたそんなことより何より、とにかく書くことで必死でした。
僕のタイトルは「律令国家と海部~海浜部小国・人給制度にみる日本古代律令支配の特質~」原稿量で40枚ちょっと、図などを入れて60枚程度の小品。

元々歴博の広瀬さんの共同研究で発表したもののまとめなのでそんなに時間がかかるはずじゃなかったのだが、例の変な病気で1ヶ月入院したため完全にペースが崩れ、とうとうこんな羽目に。早く出した人からクレームが来てもう少しでカットされるところだった。何とか書いて提出。

それが終わる前からやんやの催促だったのが来年2月1日刊行!ともう決まっている久留倍遺跡を考える会の皆さん達が自ら地域の歴史を調べ書き上げた冊子の前半に入れられる原稿。タイトルは早くから決まっていて、「久留倍遺跡と二人の天皇」。なにせ熱心な市民運動の仲間達が自ら筆を握って書いた力作ばかりだから、こっちもいいかげんなことはできない。刊行が遅れようものならこれまで培ってきた信用が総崩れ。絶対に10日にはというのを何とか数日延ばしてもらって、やっと昨日手渡した。論文ではないので、原稿枚数200枚図表など合わせて240枚というのはさほど苦にはならないのだが、ここ数日は布団で寝ることができなかった。さすがにさっき久しぶりに入ったお風呂でついうとうと。心配した家族が見に来る始末。



(三翠会館玄関。今度来られたときには御案内できると思いますよ)


これで終わり!!ばんざーいのはずが、もう二つ宿題をもらう。判りやすく朝明郡内の遺跡解説を書けという。それも来年1月10日必着だとか・・・・。そそそんなーヤメテー!!これじゃ正月もまともに過ごせない!!


(三重高等農林時代の資料が3つの展示室に分かれてぎっしり)

さらに今年の春に行った考古学研究会関西例会の報告をまとめるのでこれまた11月一杯で!と言う。実はこの原稿もかなり書き始めていたのだが途中で何らかの事情で中断してしまい、改めてフォルダーから出してきて書きはじめる。タイトルは「古代宮都と周辺都市~山崎院から都市・山崎への変貌~」ごめんなさい!菱田さん。出かける前に何とかとは思っているんですが・・・。
「どこへ行くんじゃ!?}とコワーイ声が聞こえてきそう。神様仏様。お許しを!
何とか年内には・・・
他にも鎌田元一先生追悼文。某市報告書。そして2月2日シンポの原稿等々。この1ヶ月で書く原稿量は半端じゃない。アーしんど。


(当時の学校の復元模型もあって、十分「三重大学資料館」として位置づけできる。もったいないことです。)


もちろんちゃんと授業もしてますよ。
昨日は一年生主体の授業で、ミニ展示会をやるのでその会場として登録文化財の施設を貸して欲しいと、副学長と交渉。そもそもがその展示場で展示する展示品の借用依頼の文書のひな形も示さなければならない。これまた今朝方やっとできあがり学生にメールで指示。を出して病院へ向かう。


(2階には100人以上入れる大広間がある。ここも貸して欲しい!と頼んである。)


こんなことではまたまた入院もあり得るのではと最近では少しばかり心配になりつつある。前もそうだったように歴博の研究会の後がいけない。とうとう今回は7/8日の研究会を風邪気味でサボってしまった。

本当はこんなの書いている間に書けるはずなんだけれど、もう今日は限界!さっきから知らないうちに寝てばかり。

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