yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

尾張徳川初代藩主義直菩提寺定光寺訪問の条

2012-07-22 00:07:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は7月に入って毎週通っていた瀬戸市の水南公民館での「壬申の乱と東海地方」という講座の最終日でした。瀬戸市は言うまでもなく瀬戸物の産地の町なのですが、恥ずかしながら私は初めての訪問でした。

 その上、せっかく伺っても、講座の後、京都で非常勤の授業が移動して入ったり、講座の前に名古屋で別の講座があったり等で前後が制約され、行って帰るだけの瀬戸市訪問の日々でした。
 ところが前回の講座の前に、親切にしていただいた館長さんが、

 「もしよろしかったら定光寺をご案内しますよ。」と仰る。

 にわか勉強して、徳川尾張藩の始祖徳川義直の菩提寺が定光寺だとは聞いていたのですが、もちろん行ったことがありませんので、どんな魅力のあるところなのかはよくわかっていませんでした。ネットなどで調べてみると、尾張藩の狩り場が一角にあり、狩り場への移動途中にこの地の絶景が目にとまったらしい。
 狩り場については一昨年、東京の府中で徳川家康が盛んに使った府中御殿の一角が発掘され、往時の面影を伝えてくれるというニュースを読んだことがある。早速共通教育の授業でも取り上げて話したのですが、もちろん専門外ですのでアウトラインを説明する程度でした。にわか勉強ではあるのですが、府中御殿の立地や構造は古代の鷹狩りを考える上でとても参考になりました。

 ご存じ、桓武天皇は鷹狩りが大好きな天皇だったから鷹狩りと王権というテーマには大いに興味を持っていたからなのです。自ら鷹を飼い慣らすほどの腕前だとも伝わり、生涯123回もの鷹狩りを行ったという記録の残る天皇なのです。その上、その鷹狩りの場であった京都市西京区大原野に私たちは住んでいたことがあるので、余計、天皇と鷹狩りについて興味があったのです。


 定光寺は「応夢山」という山の中腹に設けられたお寺で、現在は臨済宗妙心寺派だそうです。山中の寺院なのですが、とても手入れが行き届いている上、植木の剪定も見事に行われ、落ちついた雰囲気を醸し出してくれるのです。寺伝によれば覚源禅師の開祖と伝え、後世、尾張藩主となった徳川義直が巡行の途次風光明媚なこの寺地に触れ、自らの墓所と定めたという寺です。


 義直の死後三年をかけて整備されたそうなのですが、義直の墓所の前に建つ焼香殿や宝蔵、唐門などが重要文化財とされています。見学者には残念ですが、その保護のためいずれも覆い屋で被われ,細部を見学するには少々工夫がいります。お参りしたときも放水銃設置の工事が行われており、施設に対するなみなみならぬ保護の意志が感じられる空間でした。


 本殿は檜皮葺きのとても趣のある建物で,お寺のホームページ(http://oumusan.jyokoji.com/)を見ても寺域の保護にとても腐心されていることのわかるお寺です。とくに櫻と紅葉のシーズンは最高らしく、私も今度はどちらかのシーズンに来てみたいなと思いました。


 本殿の横を通って緩やかな山道を登るとそこが墓所です。途中龍池や龍門が設けられています。道ばたには修理の時にでも外されたものであろうか、鬼瓦が置かれていました。


 徳川義直の墓のある空間を守る門跡です。


 これも重文に指定されていて、とても優美な彫刻が施されています。門扉の飾りなどはガラスで覆われているため細かい様子を紹介することはできません。


 門扉の豪華な彫刻です。


 義直の墓は一段高いところに設けられ、直径5mほどの盛り土の上に墓標が立っています。その前面左側には殉死した9人の家臣の墓地があり、ここにも石の大きな墓標が小さなマウンドの上に立てられています、.


 当日は台風の影響なのか、はたまた「雨男」の本領発揮か、見学の時だけ大雨で、ずぶ濡れになりました。(笑)

 この後、思いがけずも館長さんのご案内で瀬戸焼の展示館「瀬戸蔵ミュージアム」に参ることができました。



 瀬戸蔵ミュージアムの中に入って最初に目に入ってくるのがこの瀬戸物製品の乾燥風景と窯です。


 展示室は近代の瀬戸物産業の勇姿を圧倒的ボリュームで伝えてくれます。とても迫力のある展示室なのですが、平日とは言え、ほとんど見学者の居ないことがきになりました。おそらくこの資料館をきちんと扱う学芸員が配置されていないのでしょうね。とても残念です。



 近代に入って大活躍した石炭窯です。まさに瀬戸物の歴史が一目でわかるミュージアムでした。最新の紺屋田A 窯跡の成果も展示され、焼き物を勉強するものにはたまらない空間だろうなと思いました。
                                              
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松阪市常光坊谷4号墳の埴輪調査の条

2012-07-17 07:47:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日もまた忙しい一日でした。
というのも毎週月曜日にやっている京都の某大学の非常勤がまさか祝日の今日授業があると思っていなかったのです。だから演習で学生と話すうちに表記の予定を入れてしまったのです。後日、授業があるとわかり大慌て。行ったり来たりの一日となってしまいました。

 常光坊谷の埴輪は特に形象埴輪がよく知られており、三重県では松阪市の宝塚古墳の埴輪群が発見されるまでは、伊賀の石山古墳に次いで形象埴輪に特徴のある古墳として知られていたのです。特に後期の古墳に出現する人物埴輪などの使用古墳として注目されてきたのです。

 特に人物埴輪の中でも顔面に刻みを入れたものが複数あり、その表現の意味をめぐって様々な意見も出されてきたところなのです。我が卒業生の中でも、私が初めて教えた第1期生の神尾和歌子さんが、卒業論文のテーマとして顔面彩色。線刻人物埴輪の機能を選んだので、当然この埴輪群も対象になったのでした。

 彼女は元々彩色が入れ墨だという説に疑問を持ち、その可否を問うために始めたのですが、この点を明らかにするだけではなく、彩色(線刻)埴輪と無彩色埴輪がセットで用いられていることを論証したのでした。なかなかおもしろい論考で、『三重大史学』にも掲載されました。

 人物埴輪は学生には人気の素材で、毎年のようにテーマに選ぶ学生がいるのですが、今年もまた、人物埴輪をやってみたいという学生が現れました。まだ二年生にも関わらず既に研究室での諸活動、諸研究に携わるという、近来稀にみる意欲的な学生なのでその意欲をそいではいけないと、いろいろ相談するうちに、「やっぱり現物を見に行こうよ!」ということになり、直ぐに諸機関と連絡を取ることになったのです。

 人物埴輪をどう調理するか?そのヒントとなるようにまず先輩の論文を読むように指示しました。その結果、先輩の分類に課題を見つけたらしく、研究テーマは再び「人物埴輪の配置」となりました。事前の学習で分類を試み、同じ研究室の上級生や同級生の批判も踏まえて、「一回見に行こう!!」となったわけです。

この日が祝日だというので、候補日が決まり、松阪市へ電話することにしたのでした。すると以前から度々お世話に案って居るK さんが電話に出られたので話はとんとん拍子、今日に決まった訳なのでした。

 そんなことですから、後で非常勤の授業があるとわかって困惑したのでした。お願いした人間が挨拶もせずに学生だけを行かせるというのは礼儀に反します。朝6時40分の電車に乗って松阪で学生と合流し、松阪市埋蔵文化財センターに出向き、約1時間観察の要領を学生に指導して、直ぐに京都へとって返した次第なのです。実は前前日も夜遅くまで京都府立大学で大学院の授業があったもので、津→京都→伊賀上野→宮都→松阪→京都とせっかくの三連休を非常に効率悪く行ったり来たりして授業やら講演やら資料調査やらに費やしたのでした。

 陰の声

 そんなばかげたことをするから(引き受けるから)忙しいんじゃないですか!!自業自得ですよ!!断りなさい!!

 本人のつぶやき

 いや、それはその通りなのです。でも、知り合いに頼まれてそう簡単に断れませんでしょ!!人間関係ですよ!!

 私は短時間の見学でしたが結構おもしろかったですよ。
 ① 円筒埴輪部がいずれも淡輪技法で作られていること。
 ② 各円筒埴輪の製作技法に微妙な違いがあること。
 ③ 円筒埴輪部が長いものと短いものがあることは学生の指摘でわかったのですが、同じ長いもの同士、短いもの同士で製作技法が異なるのです。
 ④ もし円筒埴輪も形象部も同一人物が作成したというのでいいのなら、常光坊谷では一定の製作の基準が示された上で一つ一つがそれぞれの工人によって製作された可能性があること。
等々、もっとゆっくり見たかったが、後は学生諸君により正確な観察をお願いして還ってきた。三日間のうちではやはり今日のこの1時間が一番楽しかった。

 ところがそんな楽しい思いも、一通のメールで吹き飛ぶことに・・・!原稿!!

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伊賀市生涯学習セミナー2012 伊賀再発見-2「古代から見た伊賀~東大寺を造った木々~」の条

2012-07-16 02:10:33 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 週末の土曜日は表記の事業による講演を行いました。
 近年は地方の国立大学は『地域連携』と称して様々な事業を地元市町村と連携して実施しています。三重大学人文学部では以前から「伊賀文化フォーラム」という事業を展開し、あちこちで講演会を実施してきましたが、これをより積極的に地元市のみならず商工会議所などとも連携し、展開しようという試みです。とてもいいことだと思います。

 その趣旨や概要は以下の通りとなっています。
 
 「伊賀市生涯学習セミナー2012 伊賀再発見」
《趣旨》
 さまざまな年齢層の市民が集まり、教養を深め、郷土の歴史、文化、自然に親しむことにより、よりよい地域社会を育み、市民が生涯に渡って学ぶ喜びを感じることのできる機会を提供する。*10 月から始まる三重大学伊賀連携フィールドの講座につながるような企画とする。

 日程: 2012 年6 月10 日~9 月15 日(土または日) 全5回
    14:00~15:30(講義60 分、質疑応答30 分)
 場所: ハイトピア伊賀5F 生涯学習センター多目的大研修室2(96 名まで収容可)
 対象: 一般市民(70 名程度)
 受講料: 無料(申し込み不要)

《主催》  三重大学人文学部、伊賀市教育委員会
《後援》  三重大学伊賀連携フィールド、上野商工会議所
《講義内容》
  テーマ「伊賀再発見!」
6 月10 日(日) 森 正人三重大学人文学部准教授「近代の観光における伊賀」
7 月14 日(土) 山中 章三重大学人文学部名誉教授「古代から見た伊賀~東大寺を
造った木々~」す
7 月28 日(土) 安食和宏三重大学人文学部教授「地図で読み解く城下町」
8 月 4 日(土) 岩崎恭彦三重大学人文学部准教授「自治基本条例から見た伊賀」
9 月15 日(土) 青木雅生三重大学人文学部准教授「企業経営から見た町づくり」

 とてもないよう豊かで幅広いテーマによる興味深い講師陣による取り組みだと思う。以前から「フォーラム」に関わっていたので、担当の先生から直ぐに声がかかり、古いところの話をしてくれないかと仰る。定年後にぶらぶらしていても仕方がないとおもって、喜んでお引き受けした。ところが定年後が決して暇でないことは既にご報告したとおりです。毎週、毎週、次から次へと様々な仕事が舞い込んできて、先々週などはほとんど悲劇的でした。それが過ぎてホッとする間もなくこの準備をしないといけなかったので、先週も悲惨でした。週末の二日間はほとんどまともに寝ることもできませんでした。

 テーマとした「東大寺と伊賀」については文献史学の方から特に平安時代の庄園の展開について分厚い研究成果のあるところですが、勉強してみると意外と奈良時代についての研究は少ないことがわかりました。特に不思議だったのは平安時代に広大な庄園が成立する伊賀地域なのですが、なぜそうなるのかと言うことについての研究は意外と薄いと言うことでした。もちろん私自身の勉強が不足しているのかもしれませんが、研究論文の書き始めはいずれも「黒田庄の淵源は板蝿杣であるが・・・」等とさらりと記されているだけなのです。


板蝿杣を南から望む。

 そもそもその「板蝿杣」というのはどうしてこの地にできたのか?誰が造ったのか?こんな事については深く触れられていないのです。そこで、以前から関心のある古墳時代後期、6世紀以降の古墳の成立や展開、その中に入れられている副葬品の特質などを中心に検討してみると、何となく往時の王権による「政策」のようなものがあったのではないかと思えてきたのです。

用いる史料は相変わらず『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』なのです。ただし伊勢国に比べると量は少ないのですが、やはり伊賀にも興味深い「資財」のあることがわかります。聖武天皇の時代天平16(744)年に施入されたという柘植野原の他に、「伊賀郡太山蘇麻庄」と「阿閉郡柘植庄」という荘園があるのです。たった14文字しかない史料ですから、これから考えるのはなかなか難しいのですが、ほんのかすかな関係資料が考古学にあります。

 例の脚付短頸壺です。柘植の壬生野の奥にある奥弁天4号墳という何の取り柄もない古墳です。ここから脚付短頸壺が出ていることはあまり知られていません。報告書の本文にも触れられていません。これを見つけたのは現在岐阜県山県市に勤務する山田真靖君でした。報告書の写真版に見事に写っているのを見つけたです。
 この脚付短頸壺、地元ではそれなりに有名なのですが、全国区ではありません。だからでしょうか、ある全国区レベルの研究会でこの資料を用いた研究発表をしたのですが、「こんな大した取り柄もないただの須恵器がどれほど重要な意味を持つのかわからない」「こんなものに何が入っていたのですか?」などとにべもない。中央王権の研究をなさっていると王権はとても立派な「金物」こそ地方豪族に分配し権威を与えるのだ、とお考えのようで、このようなどこにでも転がっていそうな(ちゃんと調べるとどこにでも転がっているのはないのですよ!!)土器が権威の象徴=威信財にはならないというのでしょう。どうも余談と偏見があるようで、時代はもう6世紀末のこと何ですよね。前期や中期の古墳時代とは時代が違うんです。この時代の代表的な金ぴかものは確かに環頭大刀なのです。事実、東海地方からはたくさん出ています。おそらくこれを持っている古墳の被葬者が親分なのでしょうね。私はこの配下の者に渡されたのが脚付短頸壺だと思っています。配下の者達はどこにいるのでしょう。


(会場のハイトピア伊賀はとても立派な施設でした。画面もこんなに大きなスクリーン!)

 転々とあるその古墳をつないでいくと線になります。これは当たり前です。でもその線は今日使用されている道とほぼ並行します。それも、一本は東海道、もう一本は巡検街道です。いずれも近世には確実に整備されていた道で、これがどこまで遡るかについては慎重な検討が必要です。もちろん検討はしました。おそらく、古代、7世紀後半までは遡ります。

ある線は伊勢湾を横断し、島や半島の先に至ります。海にも広がっているのです。

どこまで遡るのかについては現在精査中ですが、線の原型はおそらく弥生時代後半まではいくでしょう。物資交易の「道」として用いられていたものが、国家管理の「官道」として姿を現し始めるのが6世紀末の脚付短頸壺が配布される時期ではないかと考えたのです。

実は脚付短頸壺は、伊賀ではこの柘植壬生野の奥弁天4号墳、大和では、宇陀の石田2号墳から出ているのです。前者は伊賀から伊勢へと抜ける伊賀側の出口の位置に、後者は吉野から伊賀へ抜けるルート上にあります。おもしろいことに後者のルートは古く3世紀に遡り、伊勢湾中部の沿岸部で製作された土器がこの地を経て桜井の纏向遺跡に至っている可能性があるのです。そんなところに目を付けて、このルートを確実なものにしようとしたのが6世紀末の王権だったとしたらどうでしょう。王権がこの地に直轄支配するための拠点を置いたと考えるのです。その範囲は不明ですが、その後の国家と地域との関係をみると、柘植野一帯や宇陀一帯と考えてもいいのではないかとおもいます。少なくとも奈良時代には「庄」と呼ぶに相応しい空間を国家寺院である大安寺に与えられていたのです。

その一つが「太山」の「蘇麻庄」です。「太山」とは「天皇の山」「王権管理の山」ではないでしょうか。伊賀郡には東西に「太山」とするに相応しい山があります。しかし「蘇麻=杣」とするには東の山では木を降ろすルートがありません。西に広がる名張郡から伊賀郡一帯に展開する「山」こそ太山ではないでしょうか。名張郡北部に「板蝿杣」が8世紀後半までに成立するのは偶然ではないでしょう。
もう一つの「阿閉郡柘植庄」は『資財帳』にもある墾田地「柘植野原」に近接する場所ではないでしょうか。その範囲は不明ですが、少なくとも「柘植」の地名の残る一帯が「柘植庄」だったのではないでしょうか。柘植の平野部に接するのが甲賀から伸びてくる山岳地帯です。甲賀に奈良時代の「山作所」があることは誰もが知るところです。この伊賀側にあるのが玉滝杣なのです。平安時代の史料によれば、この地には鞆田庄ほか多数の庄園が認められます。いずれも川沿いの小さな庄園です。理由は不明ですが、私はこれらの庄園は玉滝杣が分割されたものだと考えています。また、東大寺文書にはこの地に山作所のあったことも知られます。

整理しますと、

6世紀末「柘植ミヤケ」成立→8世紀中頃大安寺と東大寺の杣に再編→東大寺山作所成立→玉滝杣に展開→10世紀前後鞆田庄など小庄園に分割。

この杣を実際に利用したのが東大寺大仏殿の建築を主導した猪名部百世だと考えるのです。彼の経歴の詳細はわかっていませんが、伊賀国出身と伝えられています。「いなべ」と音の通ずるのが「員弁」です。山を越えて伊勢に入って脚付短頸壺の分布する後の巡検街道を北上すれば員弁郡です。員弁郡に所在した元々船大工として播磨から伊勢のこの地へ移住してきた猪名部氏が木材の豊富な伊賀と関係が深まり、その一部が(当日会場におられた廣岡義隆先生からのご指摘で彼らは国策として伊賀に置かれたのではないかと指摘下さった。そうかもしれない。)伊賀へ移り、杣を形成していたのではないでしょうか。
その居住地はわかりませんが、伊賀北部に依那古、猪田道などと言う地名などが残るのは関係があるのかもしれません。

 こんな連想ゲームの繰り返しのような試行錯誤から東大寺と伊賀との関係を「木」を媒介に考えてみたわけです。 



 当日は100人を越える方々がおいで下さったようなのですが、講演の後で行われるアンケートというのがかなりシビアーな意見もあるとか、いずれご担当のI先生から報告があるのでしょうが、ちょっとドキドキものです。老後のボランテアもなかなか難しいご時世となって参りました。(笑)

会場へは近鉄伊賀神戸駅で伊賀鉄道に乗り、終点の上野市で降りると正面前方(一本向こうの道)に端が三角形にとがった建物が見えますその五階で行われています。どうぞお越し下さい。



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『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』を刊行の条

2012-07-10 16:15:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 年度末に急遽刊行が決まった『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』という報告書が3月31日に完成しました。
 
 

 実はこの報告書の編集も過酷を極めたのでした。年度末不調の大きな要因の一つでした。

 私自身の原稿はもちろんのこと、合計7名の執筆陣に原稿を期日通りにお願いする仕事が結構厳しい状況となりました。年度末には印刷が完成し、完成物を事務当局に提出しなければならないからです。
 出版決定から完成までわずか2ヶ月半という強行軍。こちらがお願いしたこともあって、流すわけにはいきません。最近はメールというなかなかの優れものがあるからなせる技でした。

本の目次は以下の通りです。

巻頭カラー図版
目次                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・7
序章                山中 章・・・・・・・・・・・・・・・・・9  
第Ⅰ部 鬼が塩屋遺跡の地震履歴      ・・・・・・・・・・・・・・・・・11
第1章 鬼が塩屋遺跡第2次発掘調査  山中 章・・・・・・・・・・・・・・・・・・13-44
  例言                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・13             
  1 はじめに                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・13             
  2 調査経緯                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・14             
  3 地理的環境・歴史的環境         (山崎し央倫)・・・・・・・・・・・・20
  4 層序                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
  5 遺構                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
  6 遺物                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
7 小結                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
  8 附載                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・26
   〔1〕 三重大学人文学部考古学研究室『三重大学人文学部考古学研究室
調査研究報告書第3集 鬼が塩屋遺跡Ⅰ』(2004年)  ・・・・・・・・・・・26
   〔2〕 第1次発掘調査調査日誌(抄)      ・・・・・・・・・・・・・・・・・34
〔3〕第1次発掘調査の液状化を示す土層の分析  ・・・・・・・・・・・・・・・・36
〔4〕第1次発掘調査出土土錘の分析      ・・・・・・・・・・・・・・・・・42
 第2章 鬼が塩屋遺跡の地形・堆積物の分析      松田順一郎・・・・・・ ・・ 45-50
 第3章 三重大学構内・鬼が塩屋遺跡から発見された巨大地震の記録 森 勇一 ・・・ 51-64
 第4章 発掘調査成果からみた伊勢湾西岸部の地震履歴 山中 章・・・・・・・・ ・ 65-68
 写真図版                     ・・・・・・・・・・・・・・・・69
〔1〕第1次発掘調査補足写真図版
〔2〕第2次発掘調査写真図版

第Ⅱ部 文献史料にみる伊勢湾西岸部の地震履歴 ・・・・・・・・・・・・・・81
 第1章 文献史料からみた古代の東海・東南海地震履歴   清水みき     ・・・・83
 第2章 文献史料からみた中世伊勢湾岸地震履歴      山田雄司     ・・・・95
 第3章 江戸時代における地震津波の記憶と教訓
-紀伊半島に残る古文書・石造物資料から-  塚本 明     ・・・・107
終章 
鬼が塩屋遺跡からみた伊勢湾西岸の防災          川口 淳      ・・・119
参考資料
1 三重大学校内基準点座標一覧                       ・・・・123
2 鬼が塩屋遺跡第1次発掘調査出土木片の14C分析結果            ・・・・124

こんな内容構成となった。
 考古だけではなく古代から中世・近世までの文献史料の成果や地質学、生物学からの分析結果、そして防災への提言など一応幅広く諸専門の先生方にお願いした。

 少し残念だったのはあまりに時間が短すぎて、一部の分析が紹介程度になってしまったことでした。特に考古学の報告は、第1次調査の土器の実測にあまりに時間がかかりすぎて終了せず、やむなく、第2次調査の少量の土器だけを載せざるを得なかった点でした。

 もちろん刊行が決まった時から、「紹介」でも意味があるのでできる限りをしてできない場合は次回により詳細なものを載せようということになっていましたので、まずは任務を果たせたかな、と思います。

 刊行物は直ぐに読売新聞三重県版と中日新聞文化欄とに紹介され、少ししか残っていなかったのですが、その少しをお分けしますよと申すと申し込みが殺到した。しばらくして自然科学の専門の方からも申し込みがあり、それならば全部残しておけばよかったと反省している次第です。



一応全国の主な埋文センターや三重県内の高等学校には配ったのですが・・・。




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「おにいさん!」が逝ってしまいましたの条

2012-07-08 12:51:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私には「おにいさん!」と呼ぶ人が居た。

 京都府教育委員会に勤めておられ、長く恭仁京の調査も担当されていた久保哲正さんです。

 恰幅がよくて、少しおつむが薄くて、いつもニコニコされていて、とても優しい方でした。

 今から33年前のことだった。当時まだ長岡京発掘調査研究所の調査員をなさっていた久保さんは、研究所の事務所(といっても長岡宮内裏公園の一角に建っていた小さなプレハブ)に詰めておられた。1981年9月20日だったと思う。事務的な用事で研究所を訪ねていくといつもになく賑やかであった。

 「おれな、今日誕生日やね!」

 「へ~それはおめでとうございます。ところでおいくつになられたのですか?」

 「33や」

 「ウソでしょう!!さば読んでるでしょう!!」

 「ホンマやがな!」

 「ほんならなんか証拠見せて下さいよ!」

 「ほら!」

 差し出された免許証を見せられて驚愕した。

 そこには1948年9月20日とあるではないか。まったく生年月日が一緒なのです。貫禄のある久保さんは当然の事ながら私より5歳は年上だと思っていたのです。

 「え、久保さん、おない歳だったのですか?実は私も今日が誕生日なのですよ。」

 その瞬間、二人同時に

 「おにいさん!!」と叫んだのでした。

以来二人が顔を合わせるたびにどちらが先に「おにいさん」と言うかで、その日のお兄さんが決まったのでした。

 そのうち「おにいさん」は京都府教育委員会へ就職なさり、私たちを指導する立場になられたので実質的に「おにいさん」として慕うことになったのでしたが、逆に職場が離れ、あまりお会いすることもなかったのです。たまに恭仁京の現地説明会でお元気そうな姿を拝見し、もちろん顔を合わせると「おにいさん!」と叫びあったのでした。

 私が三重に移ってしばらくした頃、あまり体調がよくなく早くに退職なさったと聞き心配していたのですが、いのちにかかわるほどのものではなく、すこしらくをすれば元気になられるともきいていたので むしろよかったな、と勝手に思っていたのです。

 ところが5月30日になって突然知り合いからメールが来て、

「亡くなった!」というのです。

ショックでした。

 このこともこの間の不調の大きな原因でした。

 またあちらで会ったら「おにいさん!」と言い合いましょうね。さようなら。またね!!


 「おにいさん」


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初めての更新講習の条

2012-07-07 18:22:12 | yaasan随想
今日は、教員免許を持っておられる方々に10年に一度講習を行うという自民党政権下で教員を何がなんでも管理しよう!という文教族によって始められた悪政を、醜く、小心者の集団で、ほとんど無能な民主党政権はやめる事もできずズルズルと続け、なんのためにやるのか全くわからなくなっている制度の一端を担わされた仕事の日でした。10年または5年に一度受けなければならず、それも時間1000円を払い、30時間.30000円を払って受ける講習らしいのです。給料はどんどん下がるわ、労働環境は悪化するばかりだわ、まともに休みも取れないわという先生方にとっては最悪の『講習』なのです。お気の毒でなりません。こんな環境で志の高い若者が先生になろうなんて思うはずがありません。

 受ける方はもちろん嫌でしょうが、やる方も嫌なのです。だから誰も進んでやろうとはしません。仮に渋々やってもお互いに暗黙の了解で浅く広く適当やるのが普通らしいのです。その証拠に、うちの学部では非常勤の先生に頼んで「スペイン語」を提供しているのです。意外なことに(失礼!)これが結構人気なのです。どうせ自前で金を出してせっかくの休みをつぶしてくるのだから気楽にやろうというところなのでしょう。

 講習では形式的に試験もやらせ、採点もするというのですが、実態は、白紙で出さない限り全員合格だというのです。要するに形式的な誰も喜ばない講習なのです。

 こんな実態ですから、あえて喜ぶ人を探すとすると、非常勤のバイトで生計を立てている人くらいでしょうか?!以外では全国の教育学部系の大学だけでしょう。少し(しかし全国規模でみればすごいお金)お金が回ってくるからなのです。

 誰も引き受けないので、私のように退職した人間がターゲットになるのです。順番にやってもらっていますので、と言われると逃げられない!

 というわけで、その初めての講義が昨日だったのです。とても緊張しました。ギリギリまで何を素材に使うか悩みました。その結果、1 地震考古学、2 天皇陵問題、3伊勢神宮創建年代論、4 長岡京論で四コマ、六時間を構成する事にしました。けっか、最初と最後は、ま、問題なかったと思うのですが、真ん中の二つは、少し準備した資料が足りずわかりにくかったとおもいます。ゴメンなさい!反省!してます。

 それにしても驚いたのは、三重県ばかりではなく、奈良や滋賀からもこられてた事です。このことも緊張を増す原因でした。さらに驚いたのは、10年前に卒業した学生が、立派に小学校の教師となり、受講していたことでした。終わってから少し話す時間があり、話を聞くと、既にニ児の父だという。写真を見せてくれたが、四歳の女の子はまん丸顏のとても可愛い子だった。彼自身も丸刈りにしていて、かつてのイケメンの面影が消えて、とてもいい顔になっていた。やはり、社会に出、子供ができると人間変わるものだなと、感心したのでした。これからもいい先生になって下さいね。

 もうみんなが帰ったのに一人だけ残っていらっしやるので、何か質問でもあるのかな?と思って構えていると、

 「私は、K考古学研究所のOの妻です。」

とおっしゃる。わざわざ奈良からこられる方がおられるのはわかっていたのですが、間接的とはいえ、意外なところで知り合いに合うことになり、つい話がはずんだ。

 そんなこんなで、今週も本当に目が回るくらい忙しかったのです。

 ま、忙しいくらいがちょうどいいのかもしれません。もう少し大学で頑張らないと仕方ないのでしょうか。(笑)


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瀬戸市水南公民館の条

2012-07-06 17:07:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
先週、から三回の計画で、瀬戸市水南公民館で講演をしています。

「壬申の乱と東海地方」というタイトルです。

四月から中日文化センターで、やっているもののダイジェスト版とも言えます。
もちろんこちらの参加者は無料。

たまたま新聞に載った中日文化センターの記事をご覧になった公民館の方が、依頼の電話をかけてこられたのです。最初は

「こちらはせとしのすいなんこうみんかんですが」

という電話で、何のことやらさっぱり検討もつかなかった。最近は防災のことが多いので、てっきり「水難」つまり地震による津波にかんする講演依頼かと思いました。よく聞くと、壬申の乱について話して欲しいという。

「あーそれならば、はい、中日文化センターで話しているようなものでよければやりますが?」ということで、話はトントン拍子で進み、四月の段階で日程が確定したのでした。お引き受けするに当たって少し躊躇したのは、瀬戸市という土地柄でした。尾張の真ん中の北端に位置しているので、あまり壬申の乱とは関係がありません。それでもよろしいですか?と念を押したうえで決まった。

 実は、瀬戸市には行ったことがなかったので、これを機会に、周りのことでも少し勉強してみようか?などとも思って引き受けたのでした。ところが例の春先のドタバタで、何の準備もしないうちにあっという間に開催日となってしまいました。
 ほんとうなら、「水南」の由来など調べて行くのですが、何も調べられなかったのです。そこで、講演後のお茶の中で、恥をしのんで、聞いてみたのです。

 「水野の南」だから「水南」というのです。水野というのは江戸時代、尾張藩がこの地域を治めるために代官所を置いたところで、現在はその跡地に水野小学校が設置されているという。
 
 矢野館長さんの丁寧なご説明のお蔭で、この少し変わった地名の意味が納得できたのです。そして、やはり!!世間ではどうしても「水難」とゴロがあうので、屋外での行事を一緒にすることを嫌われるとか。ウソのようなホントの話も冗談交じりに語って下さいました。

 30名ほどの聴衆ですが、皆さんとても熱心で、おわってから「わかりやすかった!」「はじめてしった!」まるで謎解きのようだね」等々、概ね好意的な声が聞こえてくるのでホッとしています。大学で同じような話をしても学生は聞いているのか聞いていないのかさっぱり反応が伝わってこない。中には始まる前から寝ている学生も居る。後ろの方は内職でもしているのかずっと下を向いている。ま、40年前の私もそうだったのだから、あまり「今時の学生は!」などと年寄り臭いことを言っては無粋なのだが、少なくとも私は、最初から寝るくらいなら授業に出ることなどなかった。それくらいの仁義は果たしたつもりなのだが、・・・?。

 特に今日の資料を準備していて興味深かったのは壬申の乱に際し、大友皇子が送った筑紫の太宰・栗隈王とのやりとりだった。彼は大友皇子の挙兵依頼に実に興味深い理由で断っている。

 筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。
(筑紫の国は元々辺境を外敵から守ることを任務jとしております。城を高くし、堀を深くし、海に向かって守っているのは、国内の賊に対するためではありません。今御命令に従って軍勢を発したなら、国の備えはなくなります。そのような時、もし不意に事件が起これば、たちまち国家は滅んでしまいましょう。そうなってしまってからでは、百編私を殺してみたところで、どうにもなるものではありますまい。決して私は謀反しようと考えているのではありません。容易に軍兵を動かさないのは、このような理由からなのです。井上光貞監訳『日本書紀』中央公論社1987年より)

 実に立派な口上である。かつての私は『日本書紀』の編纂者がそのように作文したのかと思っていたのですが、先般太宰府で見つかった7世紀の筑紫の太宰に関する(か、筑紫国に関する)木簡が出たのを見ていると、栗隈王の口上もあながちウソではなく、まさにそのような任務で配属されていたのかな、とも思えたのです。彼は大海人皇子との関係もあるのでしょうが、本来の任務に従って派兵を拒否したのではないでしょうか。

 こんな妄想をまた抱かせてくれた水南公民館でのお話しでした。

 皆さん、熱心に聞いていただいてありがとうございました。再来週が最後ですが、今度は早く行くと尾張藩の菩提寺定光寺をご案内いただけるとか。是非参りたいと思います。

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第24回壬申の乱ウオーク出発 宇陀路を歩くの条

2012-07-03 22:06:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 2012年6月晦日、久しぶりの壬申の乱ウオークでした。

 これも本当は5月12日に実施予定だったのですが、昨日の書き込みのような事態で急遽延期いただきこの日とさせていただいのです。

 私の入院のことを知ってか、会う方々が「もうよろしいんですか?」と声をかけて下さる。
 「鬼の霍乱ですから」とそのたび毎に笑い飛ばす。



 この日のメインは人麻呂公園と宇陀水分神社であった。特に後者は初めての見学で大いに期待された。



 人麻呂公園は宇陀市阿騎で発見された中之庄遺跡を保存し、公園化したもです。
 万葉集に残る柿本人麻呂の著名な歌

 ひんがしの のにかぎろひのたつみえて かへりみすればつきかたぶきぬ

 が文武天皇が宇陀の地で行った薬猟の舞台で詠まれたものだったというのです。そこで公園の名前に「人麻呂」が冠せられたたらしいのです。遺跡は7世紀代の複数の掘立柱建物が少なくとも二期以上に渡って立て替えながら利用された空間だというのです。2棟の中心建物が立体復元され、その周りの建物群は高さ50センチ程度の円柱を立ててそれとわかるように展示してありました。

 ただ残念なことは、この公園もご多分に漏れず整備して年月が経つらしく、管理はうまくいっていないようで、あちこちに草が生え、導線がわからなくなり、建物の印とされた柱の木材が腐食して醜くなっているのです。もちろん訪れる人は私たち一行80人以外に誰もおられませんでした。

 久留倍遺跡がこうならないようどうすればいいのか、真剣に考えないといけないのですが、今大矢知地域を二分するような形で進行している事態はとても深刻で残念なことだと思っています。せっかく丁寧に、地に脚の付いた形で「考える会」の皆さんが頑張っておられるのに・・・・。だから毎回ウオークにも100人近い方が参加して下さるのに!!アーア悲しい!もちろん僕はこの皆さん50回目指してと頑張っていきますよ。

 さて昼ご飯を食べて午後の部が始まる頃になると雲いきが怪しくなってきました。

 アッ、また「雨男」の汚名を着せられる!!

 そんな思いを胸にしながら最も楽しみだった宇陀水分神社(中社)に向かいました。
 水分神社に着く頃には土砂降り!!

 yaasan はやっぱり「雨男!!」でした。ごめんなさい皆さん。



 宇陀水分神社(中社)の本殿は国宝です。3棟ある神殿は朱塗り白壁の建物に檜皮葺きの屋根が載っている。本殿を囲っている塀越しに見ていても、周りの木々と解け合ってとても趣のある、いかにも水分の地とわかる素晴らしい光景でした。それが特別のご配慮で本殿の中にまで入れていただけるという。

 近年修復がなったばかりで朱は鮮やかに光り輝いていました。その鮮やかさと檜皮葺きの古風なたたずまいが何とも言えない緊張感を与えてくれます。皆さんため息をつくばかりでした。

 いつまでも見ていたかったのですが、出発の時間となり、後ろ髪を引かれる思いで神社を後にしました。

 次回は2012年9月15日(土) 壬申の乱最後の激戦地「勢多唐橋」です。次回もバスでの「ウオーク」になりますが、現地集合も可能です。また近づきましたらご案内しますので、是非ご参加下さい。

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お久しぶりです!!何とか生きていますの条

2012-07-03 15:56:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
最後のブログを3月9日にアップしてからおよそ4ヶ月。

もうブログは店じまいかな?と自分でも思っていたのですが、何となく書くことになりました。
そのきっかけがこの写真です。



今から12年前の3月、私たちの敬愛する平安時代貴族研究の第一人者・朧谷寿先生が還暦をお迎えになったのを記念して開催したパーテーの写真です。右に写っているのが安藤栄里子さん。この時はまだ京都新聞の記者だったと思います。かわいらしさすらみられるこの若々しくはつらつとし、そして心からお祝いの気持ちを表している貌、とても素敵な写真です。パーテーの司会を二人で務めたのでした。

写して下さり、会の後にはがきに貼って送って下さったのがそのときの主人公・朧谷寿先生でした。

達筆なのでよく読めないところもありますがお礼と次の10年会の『お花見』のお誘いのお便りでした。

横に立っている私も素敵な安藤さんとのツーショットだったからでしょうね、まだ若々しく、髪の毛もふさふさとあって??とてもいい顔をして写っています(ホント!!大体、気難しい顔をして写っているのが普通ですから、ちょっと異例ですね。(笑))

こんな写真が出てきたこともこの4ヶ月の不調と大いに関係があるのですが、それはさておき、この彼女が4月14日に亡くなったのです。まだ43歳でした。この写真から4年ほどして、血液の悪性多発性骨髄腫を発症し、闘病生活に入ったのでした。余命2年といわれた時はまだ34歳の若さでした。それから8年あまり、とても余命2年の病人の人生とは思えない輝いた「時」を生き抜いたのでした。現在可能な治療のすべてをやり尽くし、走り抜けたのでした。その人生の素敵な姿はまたいつかご紹介するとして、この頃から私の不調も増幅していったのでした。

既に過去のブログでも何度かご紹介している10年会。朧谷先生を筆頭に10歳ずつ歳の異なる5人が集まってその時々の話題を肴に宴を催す。京都の老舗の季節の旬のものをいただく幸せは贅沢そのものでした。そしてそのメンバーが気の置けない5人の研究者仲間。その最年少が彼女でした。朧谷先生の教え子でもある彼女と先生との会話はまたテンポのいいやりとりで、横にいて聞いているだけで心地よいものでした。

そんな彼女が逝ってしまったのです。

お通夜に集まった4人の悲しみは言葉にできないものでした。先生の一言で、近くの酒場で飲む酒は妙に明るいものでした。そう振る舞わざるを得なかったのだと思います。

その3日後、私の身体が思うように動かず、何とかしのいでやっていた授業もとてもできなくなり、大学病院に駆け込むと「入院!」

久しぶりのレッドカードでした。

ところがそんなものを吹き飛ばす大事件が飛び込んできたのです。

そのとき一緒に飲んでいた10年会のメンバー山田邦和氏が倒れたというのです。奥様からのメールは深刻そのものでした。心肺停止状態で救急病棟に運び込まれ、面会謝絶で生死の境をさまよっているというのです。それも原因が私と同じ「肺炎」から来ているというのです。

私の方は幸いなことに入院して点滴を打っている4~5日で随分楽になりしばらくして退院できたのですが、山田さんの病状は予断を許しませんでした。1週間ほどして山田さんの入院先の病院の医師から電話があり、私の肺炎の症状を尋ねるのです。

実は私自身も気になっていたのですが、「私が病気をうつした!!」のでは?

最終的にはこの点は杞憂に終わったのですが、当人としては気が気でありませんでした。

10日ほどしてメールが届き、心臓が自力で動き出し、呼吸も少し可能になったのいうのです。やっと大きな山を越えたのでした。

ホッとしました。ゴールデンウイークが終わる頃のことでした。

この間、広島での大学の友人の古稀のお祝いも、早くから準備していた北朝鮮の首都平壌での遺跡踏査も、今年から始まった名古屋での連続講演会も全部キャンセルになりました。そして、復帰したゴールデンウイーク後の5月・6月にはこのツケが回ってきたのでした。

7月もまだまだ過酷な仕事が続きます。でも精神的には少しは楽になりました。だからこうしてブログを少しだけ復活することができたのです。
次回がいつになるか、今のところ不明ですが、書きたいことは山ほどあります。エネルギーを補充してまた書くことにします。

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とにかく魔の4ヶ月でした。

3月に『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』という刊行物を編集することになり、これが忙しさに火を付けたようです。

その直前に