yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【最新情報(NEWS)】 特別史跡級!!長岡宮朝堂南面に門闕

2005-10-31 21:21:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
既に京都新聞、asahicomなどのインターネットニュース、朝日新聞10月29日付朝刊などでご承知のことと思いますが、長岡宮の朝堂院南門の西から翼廊に付属する複廊とこの先端に取り付けられた闕(楼閣状施設)が発見されました。まず本日はその状況を伝える各紙報道をアップ致します。読めるかどうか?適当に拡大して印刷してみて下さい。

1 京都新聞オンラインニュース(2005.1025)
長岡宮朝堂院南門に楼閣
向日市埋文センターが確認 古代宮で初


長岡宮朝堂院正門の楼閣の基礎の根石とみられる遺構(向日市鶏冠井町)
 長岡宮朝堂院南門の「翼廊」が、門の南側に楼閣を張り出す壮麗な建物であったことが、京都府向日市埋蔵文化財センターの発掘調査で24日までに分かった。後の平安宮朝堂院の正門「応天門」に見られる「翔鸞(しょうらん)楼」に先駆け、日本の古代の宮では初めて朝堂院の正門に楼閣を伴う例だったとみられ、向日市上植野町の調査地を訪れた研究者らは「日本で唯一の遺構であり、まさに長岡京のシンボル的施設」と遺構保存の必要性を指摘している。
 今年3月、同センターが朝堂院南門を中心とした回廊の西側部分の発掘調査を行い、門に続く回廊が途中で途切れ、築地塀などにつながる翼廊であったことを確認した。その際、回廊の柱間が過去に確認されている回廊の柱間より狭かったことから、楼閣などの構造物が連なることも推測していた。
 翼廊の調査地南隣が宅地開発されることになり、8月中旬から発掘調査を実施した。その結果、翼廊から南側に走る基壇の地覆石の抜き取り痕跡や、柱が建てられたと思われる礎石の根石、多量の瓦片などが見つかった。基壇の東西の幅は約9メートルで、根石の位置から、複廊形式の回廊が約20メートルにわたって南に延びていたと推定される。さらに数メートル南側には、建物の根石の痕跡が、T字形またはL字形に並ぶとみられることから、楼閣があったことが分かった。
 平城宮など長岡宮以前の時代、朝堂院の正門が楼閣を備えていた形跡はこれまでの発掘調査でも文献史料にもない。また平安宮では、朝堂院の正門「応天門」が「栖鳳楼」と「翔鸞楼」の東西2楼を備えていたことが平安京の「宮城図」など、いくつかの古図に示されている。中国・唐の大明宮の正門には楼閣があった、とされる。
 調査地を訪れた山中章・三重大教授は「発掘調査の事実を素直に読めば、平安宮は長岡宮をモデルに造られたことを示す貴重な資料」と高く評価している。

2 朝日新聞10.29朝刊社会面



とにかくすごい!!のですが、もう埋められてしまいました。でもこれから暫く各種写真をアップしてお知らせ致します。

ではご堪能下さい。

3 京都新聞10.29朝刊1面



4 読売新聞10.29朝刊社会面




5 朝日新聞・京都新聞10.31朝刊 現説報道




〈主張(OPINION)〉 長岡-斎宮-太宰府

2005-10-28 02:12:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 最後の書き込みから暫く余りに多忙でBLOGすることが出来なかった。
 標記のように先週末は、西日本縦断の大旅行であった。金曜日に出前授業に名古屋へ出向いた後、土曜には長岡宮朝堂院前の門闕跡の発掘調査現場を見学した。改めて長岡京の持つ革新性に大いなる感動と確信を覚えて週初めには大宰府に向かった。大宰府では開館したばかりの九州国立博物館や発掘調査中の水城跡の調査現場を訪れ、国立博物館の使命や「学術調査」の課題を強く感じた。
 その間、長岡宮発見の門闕跡について大宰府調査研究指導委員会の先生方とお話しをし、高い評価を得て認識に自信を深めたが、一方で、この素晴らしい(まだ十分に資料が公開されてないので、日曜日の現説後に正確なコメントをこの誌上で発表するつもりである)遺跡の価値を全く理解しない行政当局の呆れるばかりの対応に怒りを覚えつつ、今日を迎えた。

 ところがさらに寂しい情報が今朝の三重県版の新聞に踊った。今夏私たちの大学も一部発掘調査に参加した現場の新聞報道である。どんな内容でどのように発表されたのか、全く知らなかったが、「これでは遺跡が可愛そう!」と言いたくなるほど、小さく小さく地方版に紹介されていたのだ。
 もう少しで見落とすくらい小さく!学術調査だから、当然、その目的、成果、現状、課題などが語られたと思うのだが報道はほとんど何も触れていない。どうしてだろう・・・。あれだけ頑張って土方をし、土方の直ぐ下から見つけた柱穴なのに・・・。柱穴の中に居並ぶ「人柱」の写真にただただ呆然として写真を見る以外になかった。そして伝えられる内容の貧弱さに、この報道によって、どれだけ国民にこの「学術調査」の目的が伝えられたのだろうか?と考え込まされてしまった。
 遺跡の情報公開とは何か?長岡・斎宮両調査のあり方から改めて深刻に考えさせられた1週間だった。いずれの調査についても、今私が何か発言すると「せっかく見せたのに・・・」と非難の矢が飛んできそうなので沈黙せざるを得ないが、考古学の発掘調査と遺跡保護・保存という古くて新しいテーマを考える上で貴重な反面教師を見せてもらった1週間であった。
 
 そんな時またまた衝撃的な圧力がわたしたちのささやかな研究会にも及んできた。これまた、どうして世の中こんなに世知辛くなったの!と大声を上げたくなるような恥ずかしいものだった。これまた正面から批判するとどこかへ飛び火しそうなので、止めておくが、日本列島全体にも言える、小心者が権力を持つとろくなことがない!という典型的な事例である。学問が次第に様々な権力によって息苦しくなって行っている今日この頃である。

 とにかく少しづつお話ししていきたいと思っています。

 久しぶりの yaasanblogでした。

[研究(STUDY)] 共同研究「古代における生産と権力とイデオロギー」-2

2005-10-16 12:23:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(芸術の秋とはほど遠い伊勢の国ではこんな風景に秋を感じる今日この頃である。)

 〔山田博士の久しぶりの書き込みを読んでホッとしている。あまりのグルメで、とうとう通風の発作に七転八倒されているのではないかと心配していたところだ。「泉」と「老いらくの恋」に陥っていたとは・・・。確かにこの絵は何とも言えない妖艶さを漂わせている。私も高校時代に胸をときめかせたことを改めて思い出した。本物が来ているとは知らなかった。明日にでも見に行ってこようかな。それにしてもやはり京都は文化の地ですね。羨ましい。〕
(第二節は以下の通りです)


(答志島和具の港と裏山の最高所にある岩屋山古墳)



(参河国播豆郡の木簡『日本古代木簡集成』(東京大学出版会2003年)から複写)

 二 隠伎の横穴と阿曇部

 隠伎国もまた典型的な島嶼部の「小国」である。周吉郡、役道郡からなる嶋後には、古墳時代には五世紀代に前方後円墳が築かれ、列島と同じ地方豪族による統治と大和王権との同盟関係による支配が行われていたらしい。六世紀後半には横穴式石室を持つ古墳も築造され、ここでも列島の変化と同様の変遷をたどる。さらに律令体制下では、国府や国分寺が置かれ、隠岐島では常に中核をなす地域であった。
これに対し、島前は西之島、中之島、知夫里島などの中小規模の島々で構成され、平野部の少ない海部郡と知夫郡の二郡からなっていた。海民達の生活の痕跡は断続的にたどれるものの、島前地域としてまとまりを見せるのは、六世紀後半のことであった。
 勝部昭さんの研究によると、島前にはこの頃突然、島々の各所に横穴が設けられるという。横穴の形状や構造、副葬品には一定の共通性が認められ、何らかの目的をもって意図的に配置された人々の墓域であったと推定できる。
 横穴の横断面形状には、家形に美しく刳り抜いたものと、無造作に掘削したものがあり、両者の間には副葬品においても明らかな階層差があるという。さらに興味深いのは副葬品の中に都で多用される土師器の内面に暗紋を施す「暗紋土師器」があるというのだ。まだ現物を実見していないので何とも言えないが、実測図を見る限り、いわゆる畿内「系」ではなく畿内「産」ではないかと思える形状をしている。飛鳥Ⅳ期(天武朝)から平城宮Ⅱ期(聖武朝前半)くらいまでのものを含んでいるようだ。勝部さんはこれらの横穴の被葬者達こそ、奈良時代に平城京へ海産物の貢納を行った海民達だと指摘されている。卓見である。
 この研究成果に学んで、私はもう一度最新の平城京出土隠岐国木簡を整理し直してみた(拙稿「隠岐国」『日本古代木簡集成』東京大学出版会2003年)。その結果、大量に出土した二条大路木簡には明確な傾向の違いを認めることができた。これまでにも隠伎国木簡には「部」姓の者が多いことは、鬼頭清明氏や佐藤信氏によって指摘されてきた。ところが二条大路木簡は年代がほぼ天平七・八年に限定される上に、島前の木簡が大量に含まれ、かつ、貢進者名の姓が海部と阿曇部である例が圧倒的に多いのである。もっと興味深いのは、島前には海部や阿曇部がいるが、島後にはほとんど分布しないのである。これだけの際だった資料の傾向には必ず歴史的背景があるはずである。
 勝部さんの研究成果を使えば、横穴に埋葬され、奈良時代まで営々と追葬され続けた海民達は、海部であり、阿曇部であったと解釈できると考えた。この事実は前回ご紹介した参河国播豆郡や志摩国答志郡の海民達の姿と大いにだぶってくる。
 六世紀前半過ぎに起こった海民達の社会(とりあえず今は海民であるが、おそらくそれは内陸部の各種「技能民」にも及ぶものと確信している)への新しいうねりは、六世紀後半に確固たるものとなり、同一歩調をとる。私はこれこそ全国的な海部の編成だと考えたいのである。隠伎国海部郡(海評)には三宅郷(三家里)の存在が知られ、尾張国海部郡や参河国宝飯郡にも三宅(美養)郷があるなど海部とミヤケとの関係も検討されなければならない。
 
 さてここまでは考古学研究会東海例会準備研究会で報告したが、今回は少し新しい分析を試みて結論を補強してみた。

 隠伎国木簡については今泉隆雄氏の分析以来、他国には見られない小形木簡、部分的に分かち書きする書式、筆跡の類似性等多くの研究者が様々な見解を提示してきた。拙論でも、木簡の製作技法が郷里制下の里段階でまとまるものがあり、一般的に多い郷段階の記載を越えて、さらに下部の単位である里段階において木簡の製作された可能性を指摘したことがある(拙稿「考古資料としての古代木簡」『木簡研究』第十四号1992年)。ただし分析当時は出土木簡が限られていたため、一部を除き大半が里段階でも書式を異にした理由を十分説明することができなかった。
 ところが先のような横穴の検出状況から、隠伎国島前地域の海民達が里のさらに下部に実際の生活拠点を有していた可能性が高くなった。すると先の製作技法の検討で評価しきれなかった里段階以下の記載のまとまりが現実味を帯びてきたのである。そこで、改めて現時点で出土が確認できる海部郡の木簡の記載書式を分析し直すと、興味深い事実が浮かび上がった。即ち、同一里内に同一書式で記載する数グループを抽出することができたのである。これらを行政組織上は表に現れてこない海浜部の浦々の生活・生産拠点と見れば、横穴の分布と対応するのである。特に私が注目したのは、横穴群の「長」が畿内産の可能性のある暗紋土師器を埋納している点である。彼等は王権との強い結びつきを有していたのではなかろうか。先の参河国播豆郡三島や志摩国答志郡の海部同様、西日本の海部を統括する阿曇氏との間を現地で維持する立場を有したのが彼等だとすれば、奈良時代に浦々から貢進物に文字を認めて出したことは十分に考えられるのである。
 六世紀後半に編成された海部が、八世紀前半までそのままの形態で維持されたとは到底考えられない。当然、部民制研究で指摘されているように、「大化の改新」や天武朝の段階で大きな変更が加えられ、最終的には『大宝律令』の成立によって新たな貢納体制が確立されたのであろう。しかし、残念ながら現状ではその間の変化を示す文献史料も考古資料も十分ではない。研究会でも文献研究者からの批判の多くがここに集中した。この間をいかにして合理的に説明するか、重い課題である。解決には七世紀代の木簡群が新たに大量に発見される必要がある。但し、第三節で展開した駿河国と伊豆国における鰹生産に関する資料が課題解決に若干補強してくれるのではないかと考えている。



(様々な分野の方々とどこでもいつでも、いつまでも議論の続くのがこの研究会の最大の特徴であり、いいところである。いろんな刺激がいただける。いつも己の井の中の蛙状態を反省させられる。北地4号墳の上、草むらの中で蚊に刺されながら、被葬者像を語るメンバー)


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[研究(STUDY)] 共同研究「古代における生産と権力とイデオロギー」-1

2005-10-15 08:35:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久しぶりのブログである。暫く下記のような研究会で島々を渡り歩いていたので報告することができなかった。



(日間賀島の北地古墳群の眠る岬岬の先は太平洋)

 今年から国立歴史民俗博物館で組織された標記の共同研究に参加している。10月8日から10日までの三連休には現地見学を兼ねた研究会で知多半島から知多・参河湾の三島、伊勢湾の答志島、松阪の宝塚古墳などを回った。何しろ16人もの各分野の研究者を案内するのだ、相当気を遣った。少々疲れ気味であるが、折角の研究会である、成果の一部をご紹介しておこう。
 
 第1日目は夜、山田博士に負けないくらい豪勢な魚料理、鯛やヒラメに鰒(ではないが知らない貝の貝柱)?の刺身や蛸の生ゆで等々をたらふく食べて大宴会と行きたかったのだが、食事の後、20時から22時まで私の研究報告及び質疑などがあったため、魚はたらふく食ったが、酒は美味しく呑むことができなかった。残念!!



(おいしかった!!でも酒が余り飲めなかった!!残念!また行くぞ!)

 以下、私の報告「律令国家と海部」の概要である。

 私の近年の問題関心は、何故律令体制下の地方行政組織に、僅か2~4郡しかない地域が国(中国・下国)として設定されているのかにある。特にその大半が海浜部に所在するのはなぜか。
 海浜部「小国」とは、和泉(畿内)、志摩、伊豆、安房(東海道)、若狭、能登、佐渡(北陸道)、隠岐(山陰道)、淡路(南海道)、対馬、壱岐(西海道)など11ヶ国がこれである。山陽道を除く畿内六道にまたがって所在する。内陸部に所在する「小国」が伊賀、飛騨の2国に過ぎないだけに、その数(全体の17%)は際だっている。律令国家がこのような「小国」を必要とした背景はどこにあるのだろうか。これら「小国」はどういった歴史を持っているのだろうか。この課題解決の第一・二段階として東海道や山陰道の「小国」を分析した。 

 一 参河・志摩の後期古墳と海部
 参河はそれ自体「小国」ではない。しかし、知多湾の先端に浮かぶ播豆郡(木簡の記載は「幡」豆郡ではなくこうだ)の三島(篠島、析(佐久)島、比莫(日間賀)島)は参河国のなかでも際だった特徴のある貢納体系をみせている。これについては既に概要を拙稿にまとめたことがあり(「律令国家形成前段階研究の一視点-部民制の成立と参河湾三島の海部-」『弥生時代千年の問い-古代観の大転換-』ゆまに書房2003年)、拙論を踏まえた上で若干の新検討の成果を紹介した。
 伊勢湾、知多湾、渥美湾等には狭小な島嶼部が展開している。各島々にはそれぞれの歴史を示す縄文時代以降の生活痕跡が認められる。その多くは生業を海に依存する海民達の遺跡である。以後断続的に生活の痕跡を確認することができるが、状況が一変するのが6世紀前半から中頃にかけての時期である。日間賀島では、北地4号墳や上海2号墳といった竪穴系横穴式石室や横穴式石室が出現するのである。それまで、海民達の墓が確認されることはなく、死者は特別な墓に埋葬されることがなかったか、島外に葬られていたと推定できるが、この時期に突然のように特殊な技術を持った者の手助けがなければ構築しえない石室を伴った墓が建設されたのである。



(佐久島最古の古墳秋葉山古墳の現状)

 さらに興味深いのは、その後の島の中心的な墓域であったと考えられる北地古墳群(4・5号墳)に新たな生産物であるサメ釣り用の特殊な釣り針が埋納されるのである。他に延縄漁に用いるだるま形石錘も出現し、海民達の生業に大きな変化が生まれていたことが分かる。サメ漁については三島を巡り大量の情報が平城京からもたらされている。「参河国播豆郡○○嶋海部供奉贄△月料佐米楚割」(○○は三島の嶋名、△は貢進月)と定型化した文言で記載された荷札が二条大路土壙や平城宮内裏から大量に発見されている。「佐米楚割」とはサメを割いて干乾しにした干物の珍味である。三島でいつからサメ漁が開始されたかについては明確なことは分からないが、考古資料としては北地4号墳に埋納された釣り針が初見である。この事実を重視すれば、サメ漁が6世紀前半過ぎに比莫嶋に伝えられたと言うことができる。そのサメ漁の伝統が遅くとも8世紀中頃まで継続され、「海部供奉贄」という奈良時代の貢納としては極めて異例な形で都に運ばれたのである。
私はサメ釣り漁と横穴式石室の導入が並行している事実と、奈良時代の貢納形態をもって、少なくともこれら島々では、6世紀中頃に海部が編成され、その遺制が奈良時代まで継続されたと考えたのである。

 さらにこうした変化を見せる古墳群に、伊勢湾の西側にある鈴鹿市岸岡山古窯で生産された特殊な土器が埋納されているのである。北は美濃、東は参河国東端部、南は伊勢南部から渥美半島の先端部、西は大和国南東部から伊賀一帯にまで広範囲に分布している特殊な土器である。
 私はこのような土器と横穴式石室(そして参河国播豆郡三島のサメ釣り針)は一体化してもたらされたものと解釈した。当然、大きな権力がなければなしえない物資の移動である。少なくとも島嶼部の動静については大和王権による海部の編成と深く関わっていると考えたのである。
 三島とは海を挟んで目と鼻の先にある志摩国答志郡の答志島にも同じ頃に築造された岩屋山古墳がある。志摩国は当初一郡(嶋郡と呼称した)であった典型的な海浜部「小国」である。



(岩屋山古墳の玄室島々の中では一番大きな石室かも知れない)

 和具港の直ぐ裏の、嶋では最も高い、海からよく見える位置に岩屋山古墳は築造された。
 答志郡和具郷からは調として海藻や黒鯛が貢納されている。貢納者として多数認められる大伴部は東日本の食材を扱った膳氏の統括する部民である。後述する隠伎国同様、東日本では食材調達を分担した膳氏の統率の下、六世紀前半過ぎにまず志摩国や参河国播豆郡三島に海産物調達のために、海部や大伴部が配置、編成され、定期的な貢納体制が確立されたと理解したいのである。岩屋山古墳の被葬者はまさに伊勢湾の入り口に配属された膳氏との間を取り持つ中間管理者の墓ではなかったろうか。


(神秘の島神島。寄ってみたかったが、横を通っただけ。まだ見ぬ鏡に憧れて・・・)


 伊勢湾から知多湾、渥美湾一帯の島嶼部の海民が六世紀中頃前後に海部に編成され、六世紀後半以後奈良時代まで彼等の墓域が各島々に形成された、と言うのが私の第一節の結論である。
 
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【最新情報(NEWS)】 新学期開始と授業改善

2005-10-04 00:48:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日から新学期である。
 まだまだ完全なセメスター制になっていない国立大学(法人)では少しゆとりがある。但し最近は全国どんな大学も同じで、半期15回、通年30回という授業回数が決められているから、自ずと休みの日数も全国同じ。私立の場合は授業開始が早く、その分夏休みの開始が早いだけで、決して国立(法人)がサボっているわけではないんですよ!!

 というわけで大学に出かけたが、目的は全学のある会議のためだ。最近は授業を改善して、学生に分かりやすくしなさいというのがお上のお考えで、全国の大学はそのために大変な労力とお金を費やしている。
 どれだけいい授業ができているかは学生から評価により判断される。将来的にはその評価が教員の給料にまで跳ね返るらしい(そんなの民間企業じゃ当たり前じゃないか!とお怒りの方もいらっしゃるかも知れないが、教育というのはまさに個を相手にする仕事。いいんですかね、金太郎飴のような教育を強制していて・・・)。
 現に私が非常勤で出かけている愛知県の某大学では実際にそのような事態になっている。だから専属教員に対する学生の授業評価は実に良好で、平均が五段階の4以上である。だからそこでは休講は御法度!休講の場合は必ず補講が義務づけられる(これも今や当たり前になりつつある。そうでないと給料泥棒の誹りを受ける)。

 非常勤なんて出勤した分しか給料をもらわないんだからええじゃんか!別にサボっている訳じゃなくて、会議だの、委員会だの、いろいろあるんだから・・・、と思うのだが、そうはいかない。とにかく事務部がうるさくてうるさくて・・・・。めちゃくちゃえらそうにしている!!ところが学生は授業では大抵寝ている。来て直ぐ寝るのだからこちらの授業が悪いからではないことは明白だ。最初から寝に来ているのだ。にもかかわらず、そんな学生に限って、授業がつまらないだの、休講が多いだの、学費返せだのいう。そんなこともあって、今年いっぱいで辞めさせていただくことにした。非常勤にまで行って神経をすり減らすのはたまらない。こちとらは頼まれたので行っているのに、貴重な研究時間を割かれたうえに、文句まで付けられてたまるもんか、と思う。

 しかしそこまで極端ではなくともうちの大学の学生の幼稚化は甚だしい。授業では寝ているのに、真夜中によさこい音頭を踊るために何十人もの学生が校内に集まって、同じ法被を着て踊っているのだ。夜中にそんな集団と出くわすとぎょっとする。かけ声一つで右向け右!!これではどこぞの総理大臣の「◎○民営化こそ改革」というキャッチフレースに踊らされるはずだ。

 末恐ろしいことだ。何せ、国家に反対する奴はみんなヒトラーやポルポト、毛沢東、スターリンらしいから・・・。まー彼等なら直ぐなびいてくれることでしょう(そういえば、この前の金曜日、神領の駅前で70歳前後のおじいさんがたった一人で何も言わずに憲法改悪反対と書いた紙のついた署名板を持って立っていた。先を急いでいたのでお話しできなかったが、ハッとさせられた。そうだ、僕も原点に帰らなければ!たった一人の反乱から始めなければ・・・)。

 そのような学生様(とでもお呼びしないといけないのでしょうねきっと)の期待がどんなものかを予め高等学校段階から調べるために、明日はわざわざ大阪にまで出向く。彼等がどんな授業を受けて育っているのかを視察に行くのである。ついでに大学に対するイメージ調査も行うつもりだ。

 この前たまたま教育テレビでやっているトップランナーという番組を見た。ダンサーの何とかという女性が出ていた。実にはきはきしていて、確か22歳くらいだったと思うのだが、とてもそんなに若くは見えない。今の四年生と同じなのだが・・・。その彼女、高等学校に行かないで一人フランスに渡り、超難関国立バレエ学校に入り、日本人としては数少ないプロとなって今日に至っているという。学校教育の無力さを感じざるをえなかった。

 ところで、今日の会議では学生の授業評価のアンケートをどのような内容でどのようにするのかというのが議題だったのだが、ある教育学部の先生の言葉が大変印象的だった。
 「私たち教育学部では、今、教育者としての自覚を持った立派な先生を養成するために、授業評価を実施しようと考えています!もちろん、学生達には「評価するということは、将来評価される自分があるのだということを考えて、真剣にやって下さいよね」と」


 その先生個人の授業については全く知らないが、何故か私たち人文学部の学生達に評価の悪い授業が間違いなく教育学部の教員免許用の視覚教科なのだ。このことをご存じだからこそ新しい授業改善に真剣に取り組もうとなさっているのだと思う。しかし、本当に教育が「立派な人間」を育てられるのだろうか?むしろそんな片意地貼らなくても、もっと人間的に豊かな感性を学生時代にこそ磨くべきなのではないだろうか。
 ダンサーの彼女は高等学校教育(いやきっと義務教育段階から)のそんなうさんくささを感じ取っていたからこそ日本を逃げ出したのではなかろうか。

 いい授業は学生に評価してもらわなくても、自分自身が一番よく分かっている。いい授業をした時は学生の目が違っている。みんな楽しそうに聞いている。少しだけざわざわしていて、それが学生の反応だと直ぐに分かる。学生同士が授業の内容をその場で話しているからだ。こんな授業を毎日できたらいいのになー、といつも思う(ということは私はいつもできていないということだ。今の論理で行けば、私は教員失格なのかも知れない)。

 だから授業方法に見本なんてないんだ!その日その日、科目科目によって、テーマによって、当然授業の仕方なんて変わるはずなんだ、それを一律にやらせようとするからおもしろくなくなるんだ。

 こんなことを思いながら一日を終えた。きっと誰かさんと同じで、つらいつらい授業がまた始まったからだろう。

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〈主張(OPINION)〉 ハノイタンロン遺跡調査・研究の課題-2

2005-10-03 10:21:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(そうなんですよね。僕が東京で発表している頃、京都では埋文研究会があったんですよね。残念!それにしても山田さんは飲み過ぎではないですかね?!僕なんか帰りの新幹線で、あまりにお腹が減ったのでスルメを当てに350mlの缶ビール1本を呑んだだけなのに・・・。通風が再発してもしらんけんネ!)



(重層する遺構群と掘立柱建物。約1000年間が堆積している。)

 タンロン遺跡の発掘調査の状況は調査担当者のTriさんに伺うとさほど変わっていないらしい。開発予定地(国会議事堂の建設予定地だった)A~D 調査区の四ブロックに分けて進められ、A・B区はほぼ全域が、C・D区は一部の調査が進み、A・B・D区では最下層付近まで達している。Triさんによれば、A区とB区の間の運河を掘っているらしい(まだ早いんじゃないかなー)。

 しかし、千年近い王宮の営みに関する資料が複雑に重層し、遺構毎の同時代性を識別することは、よほど慎重に調査しないと大変困難な状況である。中心施設の大半は礎石建物で、基壇化粧を塼で行っているが、建物の修復や改築の跡が認められる他、建物群の中・小規模の配置換えなども想定できる。さらに、礎石建物と平行して掘立柱建物があるほか、最下層(おそらく安南都護府の時代の遺構)を切り込んで掘立柱建物のあることが初めて確認されている。ところがヴェトナムでは未だに掘立柱建物の認識がなく、建物すべてが礎石建物であるとの前提の下で発掘調査がなされている可能性が高い。このため掘立柱建物と礎石建物との前後関係の認識が全く逆転している場合も認められる。まず掘立柱建物という建築構造があるという認識を統一する必要性がある。
 文字線刻瓦、刻印瓦が各時代毎に大量に出土しており、分類が試みられているが、さらに詳細な出土位置毎の情報も付加し、立体的分布状況の検討が必要となっている。これら文字資料を釈読し、研究する文献史の研究者は現場には誰もいない。



(李朝1057年の年号の記載された煉瓦。各時代毎の多様な文字塼が大量に見つかっている。)

 タンロン遺跡全体の歴史的位置づけについては、ヴェトナム考古学・歴史地理学・古代史学界をあげて研究が進められつつある。特に十五世紀以降に製作されたとする古絵図を用いた比較研究が盛んで、遺跡と宮殿の相対的な位置関係や、現在はほとんど調査の実施されていない都市空間の分析が行われている。唯一の文献である『大越史記全書』の研究も盛んである。しかしタンロン遺跡の現地で調査に当たるのは考古学研究者のみである。
 もちろん、考古学からは意欲的な研究が進められ、Dr. Bui Minh Tri氏や西村昌也氏を中心とした出土土器の研究により、日本産(肥前)磁器の搬入が認められ、日越交易の研究に目覚ましい成果が上げられつつある。



(タンロンから発見された肥前)

 さらに発掘現場からは、タンロン遺跡日本諮問団を通して、日本の宮都研究の最前線の積極的な視察が行われ現状改善のための意欲的な活動がなされている。

 遺跡保護の現状はどうであろうか。
 発掘調査成果の一部を公開保存するため、B区南部で発見された建物群に覆屋がかけられ、直射日光や雨水を避けて遺構の現状が維持、保存され、公開されている。こうした保存状態について、昨年8月のUNESCO会議を通して各国からの保存対策の意見がまとめられ、この国宝級の遺跡の範囲確認と遺跡の全面的な保護の提言がなされている。
 しかし、掘立柱建物に入っている柱は露出したままで劣化が進みつつあり、宮殿内から発見された池には各種植物の種や茎の一部が大量に認められるにもかかわらず、保護措置はとられた形跡がない。自然科学分析や遺構・遺物の保護対策は皆無に近い状態である。

 このような現状においてタンロン遺跡の調査・研究の課題はどこにあるのであろうか。
 まず最も大切なことは、タンロン遺跡を調査・研究するための専門研究機関の設立である。
 日本の奈良文化財研究所は古代宮都を研究する考古学、文献史学、地理学、建築史学、環境学、保存科学、修景学の専門家をスタッフとして持ち、平城宮や藤原宮の調査・研究・保存・活用を一貫した方針で進めている。これによって、日本古代、特に奈良時代の政治、経済、軍事の中枢部である宮城の様相が飛躍的に解明された。タンロン遺跡はまさにヴェトナムの平城宮である。
 幸い発見されて間がなく、まだ発掘調査の不備は修復することが可能である。周辺部は公共機関が所在し、広大な敷地が開発されずに残されている。周辺部に当然残っている関連遺構群は遺存状態が良好で、かつ膨大な量に上ると思われる。当該遺跡を集中して調査・研究・活用する機関としての「ヴェトナムタンロン遺跡研究所」の設立は不可欠であろう。
 ヴェトナムに関する文献史料は『大越史記全書』が唯一といってもいい資料である。内外を中心とした文献史からの研究は一定の成果を上げている。しかし、同書の考古学的、地理学的、建築史学的分析はまだ緒に就いたばかりである。一部分析を試みたところ、同書には、関連分野に関する情報が多数記載されていることが判明しつつある。同書のさらなる研究は、発掘調査だけでなく、タンロン宮殿の保存、整備、活用にも大きな役割を果たすものと期待される。『大越史記全書』分析のための日・中・越・韓のプロジェクトチームを結成し、広く東アジア的視野から分析することが求められている。
 既存の発掘調査成果を世界座標に載せ、得られた成果の共有化もまた急務である。タンロン宮殿遺跡だけではなく、周辺に予想される都市空間の発掘調査、開発に対する明確な規制の方針が確立されなければならない。
宮都全体をカバーする航空写真が公開され、これに基づく地図が作製されることがまず求められる。

 保護・保存整備の課題は多岐にわたる。
 これまでに出土した遺物の大半は陶器、土器、瓦類である。しかし既に建物の柱材が確認されており、地下水位の状況からみて、下層に木製品など有機物が大量に依存している可能性が高い。木簡や漆紙文書が残存している可能性が十分ある。これらは放置すれば瞬時に劣化し、その価値を失ってしまう。ところが、出土遺物保存処理体制は未確立であり、担当する技術者は一人もいない。保存設備の建設と保存技術者の養成が急務である。
 保存技術のみならず、花粉分析、昆虫分析、植生分析、年輪年代学、放射性炭素分析、蛍光X線分析等々、各分野の技術者の協力や養成も急がなければならない。
研究協力体制として、タンロン遺跡諮問団を核とした日越共同研究機関の確立も大きな課題である。

 このような課題解決のために私たちはどのようなことをしなければならないのだろうか、また、どのような協力が可能なのであろうか。既に総理大臣自らタンロン遺跡の調査・研究・保護のために日本政府が援助するとの約束をしている。そしてそれと同時に、この約束に目を付けた関連企業の動きも活発化していると聞く。まるでODAの争奪戦のような光景である。私たちタンロン遺跡日本諮問団は、こうした利益追求型の「協力」こそ排除すべきものだと考えている。
 タンロン遺跡日本諮問団の第一の役割は、タンロン遺跡の調査・研究のために長・中・短期に必要な学術的プロジェクトが何かを諮問し、相互の関係を調整することである。
 第二には、日越官民合同でのタンロン遺跡協力委員会設立の基盤を形成することである。
 私たちは、今年度後半より、タンロン遺跡の現状を調査し、今後の日越間プロジェクトの基本方向を提出する予定で現在作業中である。
 今回のシンポジウムを通して明らかになってきたことは、タンロン遺跡の調査が緒についたばかりであり、発掘調査の手法、技術、発掘調査地の図化、出土遺物の情報処理、遺構の撮影、遺跡の保存等々あらゆる考古学的技術、手法において日本を中心とした先発国から取り入れるべきことが多種多様にあるということである。特に日本における宮都研究の蓄積は必ずやタンロン遺跡研究に役立つはずである。そのためには、パフォーマンスだけの取り組みを排除し、まず基礎を確立することに全力を尽くすべきであろう。日本諮問団がその中核を担うに十分な能力とノウハウを持っていることはいうまでもない。



(この掘立柱建物の柱堀方の断面が見抜けないようだと我が研究室では雷が落ちる!!スタッフの目盛りでいくと白と黄色の段(おそらく1mの境目だろう)の30cm下くらいが堀方の切り込み面。)

 
 最後に、直ちに実行可能な日本の役割を提案して報告を終えた。
(1)即戦力調査・研究員の養成のために日本の関係機関が協力すること。
(2)遺跡の精密測量を実施すること。
(3)遺溝・遺物分析の研究に協力すること。
(4)タンロン遺跡を総合的に調査・研究する「ヴェトナムタンロン遺跡研究所」(仮称)の設立に協力すること。
(5)「タンロン遺跡調査・研究・保存・活用プラン」の策定のための「日越共同研究機関」を設立すること。
(6)東・東南アジア宮都研究ネットワークを構築すること。

 ヴェトナムで初めて発見された宮都の素晴らしい遺跡を利権から守り、真に学術的な調査研究が東・東南アジア的視点から進められることを強く願っている。

(なお、本シンポで発表されたその他の研究成果については別に報告する予定です。お楽しみに!)

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〈主張(OPINION)〉 ハノイタンロン遺跡調査・研究の課題-1

2005-10-03 02:11:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(少し長いので二回に分けて書き込むことにしました。)

 2005年10月1・2日の二日間にわたって東京大学において「ハノイ1000年王城-地域情報学を探る-」と題する国際公開シンポジウムが開かれた。昨年の6月以来古代ヴェトナム大越国の首都タンロンの調査・研究・保存に関与してきた関係から報告を求められ、以下のような考えを述べた(タンロン遺跡についての詳細は三重大学考古学研究室公式ホームページhttp://yaa-archaologue.dialog.jp/tyosa/vietnam/index.htmlに詳しいほか、拙稿「ヴェトナムバーデン皇城遺跡」(『考古学研究』第51巻2号2004年)に概要を記したことがある)。

 タイトルは「タンロン遺跡に関する現状と将来の課題~東・東南アジアからの視点で~」である。

 はじめに、日本の古代宮都とタンロン遺跡の調査・研究とがどのように関連するのかについてまとめた。
 藤原京、平城京、長岡京、平安京等、条坊制を有する日本古代宮都が唐長安城をモデルとしていることについては定説化している。しかし、近年の各宮都で精力的に進められた発掘調査によって、長安城との異同について細部にわたって比較することが可能になった。その結果、天武天皇の建設した新城が『周礼』考工記に示す理想の都像を採用したとの新見解や、平城京が長安城の四分の一に正確に設計されていること、さらに、渤海国の首都上京龍泉府が平城京をモデルにして設計されたとする説等が発表され、東アジア史の視点で比較研究する必要性が強調されるようになった。
 私も拙稿で、飛鳥時代の都は朝鮮三国の都とも共通点があり、新城についても新羅国の都慶州の構造と酷似していると述べたことがある。東アジアの宮都研究は益々双方向に研究しなければならない状況にある。

 そのような研究状況の中、私たちタンロン遺跡日本諮問団は昨年夏、ヴェトナム政府の招き等で二度にわたってハノイを訪れ、タンロン遺跡の詳細な現地調査や保存方法、将来の課題などについて研究、協議してきた。
 その結果、タンロン遺跡がヴェトナム国家成立史を解明する上で最も重要な特別史跡級の遺跡であることが明らかにされた。それだけでなく、さらに下層には日本外交史、日本文化史、日本都市史とも深く関係のある安南都護府の遺構も存在することが明らかで、これまでほとんど顧みられることがなかった東南アジアの宮都研究が、日本の古代研究に欠かせないことも初めて証されたのである。

 次いで、タンロン遺跡の諸問題を検討するために日本の古代宮都研究の現状と課題を整理した。
 日本古代宮都の発掘調査は極めて大規模に、詳細に行われており、既に10000回以上に達しているものと思われる。発掘調査は宮殿などの王権の中枢部のみならず、都市空間での調査も実施され、往時の生活、文化、宗教、社会などを知る上で欠かせない資料を提供している。それらの資料の大半は国土座標によって3次元位置がミリ単位で計測され、記録の基準とされている。GIS環境に極めて有効な資料を蓄積しているのである。
 特に複雑な重複関係を呈する平城京や平安京の調査については、それらの前後関係を識別する世界一の調査技術が確立している。またこれと平行して行われる出土遺物の型式学的研究の進展により、遺物の相対的編年が確立しており、約15~20年単位で遺物の年代観を示すことが可能となっている。
 こうした調査・研究の核となる研究機関として奈良文化財研究所があり、同研究所は管轄する二つの宮殿跡-藤原宮と平城宮-の計画的な発掘調査を実施しているほか、全国の調査機関から送られてくる膨大な発掘調査データーを蓄積している。
 さらに奈良文化財研究所埋蔵文化財センターは、調査技術の研修、伝習、新技術の開発、保存技術の研究、保存遺跡の修景、実践などを行い、その成果を全国の調査機関に還元している。
 平城宮跡や藤原宮跡の中心部は国の最重要遺跡として法律により守られ、順次整備、修景され、国民に公開されて、市民の憩いの場として広く親しまれている。

 では、日本古代宮都研究の課題はどこにあるのだろうか。
 各宮都はそれぞれ発見の経緯や調査開始の時期、自然地理環境、人文地理環境を異にし、調査体制や調査成果公開、遺跡保存への行政的対応、資料活用制度の有無などに大きな差違が存在する。このため、例えば膨大な量に上る遺構や出土遺物の位置情報について、国土座標に基づく精緻なデーターがあるにもかかわらず、それらを相互に活用し合う体制を欠いている。相互に関連する宮都でありながら情報の共有化が行われていないのである。
 各宮都には関連する文献史料が存在し、文献による日本古代史研究は精緻を極めている。さらに、発掘調査により木簡が大量に出土し、生の文字史料が提供される環境が生まれ、『六国史』等の編纂史料の伝えきれない内容の分析に貴重な資料を提供することになった。にもかかわらず、奈良文化財研究所を除き、文献史研究を専門とする研究者がどこの宮都調査にも配置されていないのである。
 同様のことは遺物の保存や遺跡の修景等についてもいえ、専門スタッフを抱える機関は少なく、調査体制が考古学に偏っているという問題点がある。
 
 遺跡の保存は最重要課題である。平城「宮跡」は国の史跡としてほぼ全域が国有地として買い上げられ、手厚い保護がなされ、一部は施設が復原されて来訪者に往時の景観を分かりやすく展示している。ところが、都市化の進む平城「京跡」や長岡京跡、平安京跡では、開発に伴う事前調査に対応するのがやっとで、重要な遺跡が発見されても保存には大変な困難が伴う。現実に営まれている市民生活と遺跡とをいかにバランスよく保つかが大きな課題となっている。
 保存遺物の展示のため、いずれも小規模な展示施設を管理し、遺物の一部を公開している。しかし、膨大な出土資料のごく一部に過ぎず、資料公開が十分になされているとは言い難い。また既報告資料の保管状況が必ずしも良好ではなく、直ちに資料調査できない状況にある点も大きな問題である。



(タンロン遺跡では、現在このようにして遺構の一部が露出展示・公開されているのだが)

 次回では、このような日本の古代研究の現状と課題を参照しながらタンロン遺跡の調査・研究が歩むべき道を考えてみる。

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【最新情報(NEWS)】 基準点座標測量とGIS

2005-10-01 21:31:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(何故か東京のホテルで無線ランに繋がった。今日はタンロンのシンポジウム。ヴェトナムのTRIさんとも再会した。内容については後日報告するが、日本の人文科学はまだまだGISの入り口に立っているに過ぎないと実感した。)

 三重大学校内に弥生時代終わりから古墳時代初めにかけての集落遺跡・鬼が塩屋遺跡があることを大学のホームページでご存知の方がいらっしゃるかも知れない。一昨年の夏に突然校内の一郭から発見された遺跡で、現在も大学の直ぐ南を流れる志登茂川の旧流路の一部に捨てられたゴミための一部を遺跡と認定したものです。それまでは三重大学校内には全国の大学でも珍しく、遺跡がないと言われてきたものですから大変な驚きでもって迎え入れられました。

 夏のある日、大学の中に突然工事現場が出現し、何の工事だろうと不思議に思っていると、パワーショベルが動いているのを発見したのです。以前から、「三重大学に遺跡はないと言われているが、何があるかは掘ってみないと分からないから、必ず工事のある時は事前に私に連絡して下さいね!」と念押ししておいたのだが、見事に裏切られた。急遽工事をストップし、試掘をすることにする。試掘といってもパワーショベルで一部を掘るだけで、工事予定地の三カ所に3m四方ほどのグリッド調査に過ぎない。内心も「どうせ何にも出ないだろうな」、等と高をくくっていた。ところが、最初のグリッドから予想もしない真っ黒な地層が造成土の下から顔を出したのです。「まさか?!」驚いて機械を止め、すくい上げられた黒い土を探ってみた。なんと、実に残りのいい弥生時代中期終わり頃の土器が出てきたのです。粘土にパックされていたので手が切れそうなくらいよく残った土器片でした。余りにシャープなので本物だろうかと目を疑ったくらいでした。直ちに関係部局に連絡をとり、工事を中止していただいた。後から考えると冷や汗が出たのだが、残りのグリッドはどこまで掘っても砂だけで、何も出なかった。最初の一つがずれていたら・・・・。

 それから二ヶ月弱、真夏の炎天下での発掘調査のお陰で、三重大学に来て初めて伊勢湾らしい遺跡の調査に当たることができたのです。発掘調査には研究室の学生はもちろんのこと、授業を受けている学生や同僚の塚本先生の子供さん、最後には私の娘も動員?して大急ぎで調査に当たった。大変だったが実に楽しい調査でもあった。

 発掘調査の方は何とか期限内に終わり、その後遺物整理などを進め、今年の終わりには正規の報告書を出さないといけない。ところが、本当に緊急調査だったもので、遺跡の近くには基準点座標がない。昔なら弥生時代の遺跡に基準点なんて、といわれて当たり前だったが、さすがに近年はどんな時期の遺跡でも国土座標を入れる。特に最近はGISソフトを使った多様な視点からの分析が考古学の世界にも浸透しつつある。急いで大学と交渉を重ねた結果、年度末になって予算が確保できたので基準点測量をしてくれることになった。しかし、学生が卒業した後の時期だったため、困ったことが起こった。測量を分担してくれていた院生が居なくなってしまっていたのです。
 調査当時のデーターを探しだすのにも一苦労。本当に一時はパニックだったのですが、何とか探し出し、この夏休みに斎宮での測量調査に参加し、測量計算をならったばかりの学生へ受け継がれた。ところが相談に来た学生の資料を見て冷や汗が背筋を流れた。大学が新設したポイントと現場に残したポイントとの関係が微妙なのである。「だめかも知れない!」と不安に駆られながら現地に赴いた。杭は残っていたが、測量結果は使えなかった。結局全面的に再測量することになってしまった。測量が終わったのは19時を回っていた。真っ暗だった。久しぶりに懐中電灯の光を頼りにトラを立て、光波で距離を測った。何とか測量は終わった。

 発掘調査の成果をGISに落とすとはまさにこうした作業を経て初めて可能になるものなのです。ところが今日明日と開かれている東大の「シンポ」の関係者の皆さんはどうも誤解なさっているようです。地図と現場の図面を適当に組み合わせばGISに載り、新しいことが見えると・・・。驚くべきことに昼にあった専門業者のGISのデモンストレーションが、内容が実にちゃちなのです。
 これまでにも、平安京の情報が用いられてGISに取り込まれた研究があるのですが、はっきり言って、平安京の発掘調査内容について公開されている情報は、私たちが検証することのできない、一方通行なのです。必ずしも正確とは言えない情報!こんなものを一生懸命取り込んでもな~んにも見えません。それと全く同じ過ちを業者もやっている。不思議な光景でした。
 
 一にも二にも、現場で正確な情報がとられない限り、歴史研究にとって、GISは単なる地図を用いたお遊びになってしまうように思うのです。基礎情報がいかに大切か。これさえしっかりとっておけば、科学の進歩が後から研究を支えてくれることもあると思います。

 一昨日の昼の作業は、こうした基礎作業を全部だめにする危険性もあったのですが、何とか救うことができました。一緒に作業をしてくれた学生にもきっといい勉強になったと思います。但し、最近の発掘調査は余りに分業が徹底していて、調査員自らがトランシットで測ることがないようです。しかしこうした作業を自らやるからこそ業者から送られてきたデーターの正否や意味を適切に理解できるのではないかと思うのです。学生に測量を教える理由がここにあります。彼等の手で鬼が塩屋遺跡がGISによって復原されることを大いに期待した一日でもありました。


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