yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【最新情報(NEWS)】 斎宮跡でのインターンシップと地質調査

2005-09-29 10:21:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今週から斎宮歴史博物館で三重大学人文学部考古学研究室の学生を対象としたインターンシップが始まった。簡単に言えば学生の職業体験である。
 


(ぎこちない初日の復原作業)


 どこの大学も生き残りに必死だ。特に就職率が問題にされることが多い。インターンシップとは学生の就職率を高めるために、企業に、就職希望の学生達を対象に現場体験を実施してもらう制度だ。いろいろな事情から三重県斎宮歴史博物館で初めて実施されることになった。
 月曜から金曜までの5日間を2サイクル、10日間の「研修」である。もちろん今年はそれまでに既に何度か報告したように斎宮跡第146次発掘調査で現場実習をしてきたので、現場の雰囲気や気心は知れている。学生としても受け入れ側としてもやりやすい点はあるに違いない。さらに今年は斎宮博との連携で竹内さんを始め数人の方々のリレー講義もしていただいているから、学生達にとっては先生でもある。
 初日はインターンシップの概要を聞いた後、早速現場体験らしい「仕事」が待っていた。台風19号は今回東海地方にはさほど大きな影響をもたらせなかったが、何せ広大な斎宮跡である、台風の後には必ず見回りをしなければならないという。遺跡の各所を歩いて回り、異常がないか点検する仕事である。いかにもインターンシップらしい仕事である。
 帰って来るや、昨年発掘調査し、今年報告書を出す予定の調査地出土遺物の写真の準備である。いずれ遺物写真の実習もするという。写真を撮るために一度復原した遺物のうち一部が破損したり、まだ未復原の遺物があるので、その修復も仕事のうちだ。もちろん大学での考古学演習で一通りはしているのだが、周りには作業員のおばさま達の厳しい目が光っている。雑談をしながらの演習とは大違いだ。学生達の所作の一つ一つが緊張で引き締まっていた。もちろん久しぶりの復原作業である。要領の悪いことこの上ない。受け入れ側にとっては迷惑に違いない。しかし、お願いしている側(その引率者として三日間一緒に作業を見て回った)としてはこの雰囲気を見るだけで効果があるな!と感じた。
 二日目はいよいよ現場に出て第146次発掘調査地の壁面図の実測である。もちろんこれも一通りの実習は積んでいるのだが、現場によって土の顔が違うことはいうまでもない。ましてや曰わくのある今回の現場である。「プロ」でも識別が難しいという黒色のクロボクといわれる遺構面を切り込む多数の黒色系の遺構の断面図である。難しい土色の違いを自らの目で判断し、識別し、線を引いていく、一つ間違えば遺構の前後関係を誤ることになる。これまた緊張する瞬間である。もちろん竹内氏の厳しい目が光っている。わずか二日間の体験だけで学生達の成長ぶりが手にとるように感じられる。本当にやってもらってよかった!と実感した。



(二日目から始まった土層断面図作り。この壁にもピットが・・・)

 ところで、久しぶりに現場の断面を見て驚いた。例の大きな柱跡の出た南側のトレンチの東壁に規模は小さく60cm前後なのだが、全く同じようにクロボクと黄色い地山の土の混じり合った土で埋まるピットが引っかかっているのだ。但し間隔がえらく広く3.9~3.6mもある。きっと、東西に並ぶ柱列の一部を切っているのだろう。残念ながら平面はシートで覆われていて見えないのだが、「これって、本当に平面で検出できないのかなー」と密かに思った瞬間である。
 学生達には微妙な層の違いも見落とさないよう指摘して、「とにかく自分の目を信じて、線を引いた以上説明ができるようにしておきなさいよ」と伝えて現場を去った。現場の複雑な社会関係も学習の一つかも知れない。
 ところで昨日は、滋賀県立琵琶湖博物館の宮本さんに現場で出た線状に延びる礫層の確認に来てもらった。ひょっとすると大規模な墳砂か?等と言ってきてもらったのだが、一目で、これは違うよ、といわれてしまった。こんな墳砂があったらこの辺の家はもちろん大木もみんな倒れる大地震、地殻変動だと笑われてしまった。そんなもののために来月からアフリカに出張するという宮本さんにわざわざ斎宮まで来てもらって申し訳なかった。しかし、その後第146次調査地の断面を見てもらったりして、斎宮の地盤の情報を一部頭に入れてもらえたことはよかったと思う。今後こうした学際的な交流が斎宮においても継続されることが望まれる。いろんな人に現場を直接見てもらい一緒に調査するという経験が斎宮には必要だとさらに感じた瞬間であった。宮本さんも「また見せて下さい」と気持ちよく言って帰られた。有り難いことだ。是非これから一緒にGISなどを用いて、斎宮の詳細な宮地表面の復原地形図なども作っていきたいものだ。
 


(琵琶湖博の宮本さんによる地質調査。現場は多くの目で見る必要性をつくづく感じた。史跡の学術調査なら特にそうだろう。)

 今年の夏は斎宮での授業体験などを通して初めて斎宮の「実態」を目と体で知ることができた。それと共に大学と三重県というそれなりに大きな組織同士が「共同」することの難しさを改めて思い知らされた。さらに国史跡をいかなる技術で掘るかと言うことについても、先に訪れた多賀城での「旧調査地の再発掘」の様子などから考えさせられた。間もなく夏休みは終わる。この貴重な体験を秋以降の研究に活かしていきたい。

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【最新情報(NEWS)】 横浜朝日カルチャー:トイレ文化画期説

2005-09-25 11:54:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(長岡京の頃から円面硯(真ん中上や下の硯)に風字硯(左隅の硯)が加わって、硯が個人のものになり始めた。)

 昨日は朝早く起きて横浜に向かった。13時からカルチャーセンターでの講演があるからだ。「新視点・日本の歴史-8世紀後編-」を共通テーマとして関東の蒼々たるメンバーがリレーしてきたその最後の講座である。与えられたテーマは「長岡の都と桓武天皇」。こんなテーマでもう何回も話をしているので少々マンネリ気味であるが、関東では余りなじみのないテーマなのでお話しする事にした。
 開催に際し「長岡京へ来た事がありますか」と伺ったところ、50人ほどのうち5~6人ほどいらっしゃった。ほぼ予想通りの反応だった(講演後質問に来られた女性は何と五回も来られた事があり、私にも案内してもらったという。驚いた。)。



(都の役所や貴族の邸宅でもこんなトイレが普通に使われていた。但し貴族自身がどんなトイレを使っていたかは不明である。)

 私の自説は長岡京の遷都を契機に世の中が大きく変わったということである。今のところその説を変える必要性はないと考えている。昨日も、硯の変化、食器の変化、物資輸送経路、手段の変化、文化の変化等々、枚挙に暇がないほどの変化の一部をご紹介した。
 変化の事例としてよく取り上げられるのがテレビや自動車である。私たちが小学生の頃にはまだテレビは貴重品で、一部の資産家でなければ持つ事ができなかった。ところが東京オリンピックが始まる直前くらいから一気に広まり、我が家にも日立のテレビが入ってきて、暫くかじりついたものだ。初めての衛星中継で見たのがケネディー暗殺という衝撃映像であった事も鮮明に覚えている。
 導入と普及とでは意味が違う。導入というのはかなり年月がはっきりしているが、普及というのは主観に拠る事が多々ある。本当にTV普及がオリンピックの頃なのか?については、経済学者によって見解の相違があるのは当然だろう。しかしその「解釈」がさほど大きな見当違いでない事は私の経験からしても実感できる。つまりあるものが急激に生産量を増やす時、平行して政治的、経済的、軍事的、文化的動向に異変があればこれをその重要な要因と考えるのはセオリーであろう。長岡京期に上記の「物」が突然増加しだすのが事実だから、これと長岡京遷都(桓武天皇の即位)を連動させて考えるというのもまた、セオリーに基づいた基本解釈である、と自負する所以である。
 ところがこうした自説の中に、必ずしもうまく説明できない「物」があることも事実である。昨日は余り細かな話をしなかったが、トイレ文化の変遷がその一つである。
 私たちの家のトイレには必ずドアーがあり、鍵がついている。よく子供の頃、漏らしそうになってトイレに駆け込み、母親から「ちゃんとドアーを閉めなさい!」と叱られたものだ。私にしてみれば、ドアーより漏らさず果たす事の方が大事に決まっている。だから・・・・なのだ。ところが母には、ぎりぎりまで我慢している事が問題で、トイレには悠然と入り、きちんと鎰を締めてするものだという「常識」があるのだ。子供のそうした行為は恥ずべきもので、躾の対象なのだ。かしくて日本人には大人になるまでに「トイレのドアーはきちんと閉める」習慣が確立されるのである。
 しかし考えてみれば、どこにわざわざ囲いを作ってトイレする動物がいるだろう?人間だけではないだろうか。
 すると人間は(いやとりあえず日本人は)、いつからトイレを隠すようになったのだろうか?こんな疑問が湧いてくる。これに有効な答えが出せるようになったのは僅か10年ほど前からである。トイレ考古学の進展が有力な材料を与えてくれた。その手法はさておき、私は先の疑問にようやく答えが出せるようになったと考えた。

 日本人が本格的にトイレを隠すようになったのは「長岡京の頃からだ!」と考えたのである。「また長岡京画期説か」と顔を曇らせる数人の顔が思い浮かぶ。



(秋田城のトイレ。斜面にトンネルを掘って崖下の肥だめに溜める構造である。自動水洗か、手動水洗化は議論が分かれている。『トイレの考古学』より)

 その根拠にしているのが10年ほど前に秋田城跡から発見されたトイレだ。なだらかな低い崖の上からトンネルを掘って下に流す「水洗式」のトイレで、なんと一つ一つが個室になっているのだ。崖下の肥だめからはいろいろな物資が発見されたが、その堆積時期は出土木簡から延暦年間だと分かった。長岡京期にはご承知の通り大軍が東北地方に派遣され駐留した。坂上田村麻呂をはじめ有力な武将が東北で軍隊の指揮を執った。秋田城も例外ではなかった。日本海側の司令基地として緊張した状況にあったに違いない。
 当時の都から発見されるトイレの大半は囲いがない。オープントイレなのである。役所の中も、貴族の邸宅の一郭でも、外国人専用のトイレも、囲いがないのである。何故秋田城のトイレは囲いが?こんな素朴な疑問が出てくる。そこで考えた結果が秋田城のトイレは都から来た出羽国の長官である国司など貴族(指揮官)専用のトイレでは、という解釈なのだ。肥だめから発見された寄生虫にはほとんど東北人が持っていた鮭を通して感染するサナダムシの寄生虫卵がないというのである。このトイレは現地の人が使わなかった特殊なトイレだと分かる。都からはまだ天皇や貴族のトイレは見つかっていないが、彼等のトイレだけは既に個室なのではないか、家屋の一郭に取り込まれてしまっているので気がつかないのではないか、あるいは、オマルや溲瓶を使用していたから分からないのではないか、等と考えたのである。彼等だけがいつの頃からか(これがさっぱり分からない)トイレを隠していたのでないかという発想である。
 こんな事実と推理を経て「長岡京トイレ観変換点説」が生まれたのである。しかしその当時から少し困った事があった。どうしてこのトイレ観は一気に広まらなかったのだろうか?という疑問である。
 近世のトイレを研究した成果によると、江戸と京ではトイレの構造が違うという。前者が隙間だらけの板屋で、扉も半ばくらいしかないのに対し、後者は土壁構造で密閉され、扉は完全に「部屋」を塞いでいるという。長岡京期に「隠す」トイレ観が成立したはずなのにそれから千年以上も経って、「日本」全国に必ずしもそれが浸透していたわけではなかったのである。ある地域、階層?まではトイレを隠す習慣が浸透したが、それ以外では浸透しなかったという事であろう。
 トイレの考古学はまだまだ始まったばかりである。三十余年にわたって続く斎宮跡の調査でも未だにトイレは発見されていない。斎王自身はオマルを使っていたと思われるが、斎宮寮の役人は?警備の兵士は?等、まだまだ疑問は多い「トイレ文化画期説」は今少し資料の増加を待って、補正されなければならないようだが、長岡京の頃から上級官人僧を中心に「隠す」文化が広まったことは確かだと思うのだが・・・。

 そしてもう一つ忘れてはならないのは、「日本的なるもの」の形成はさほど一律的でも、古くからもたれてきたものでもないという事だ。歴史をきちんと研究し、学習する事の大切さがここにもあるといえる。

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【最新情報(NEWS)】 タンロン遺跡東京シンポジウムに向けて

2005-09-24 00:14:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 京都大学東南アジア研究所の柴山 守教授他共同研究の科学研究費基盤(S)「地域情報学の創出-東南アジア地域を中心にして-」におけるプロジェクトの一つとして、国際シンポジウム「ハノイ1000年王城-地域情報学と探る-」「ベトナム首都ハノイの中心に突然出現した7-19世紀の大都城タンロン遺跡に地域情報学が挑む」という何とも長大なタイトルのシンポジウムが10月1日、2日東京大学で開催されるという。
 本シンポジウムでは、タンロン遺跡関連の討論も予定されているらしく、在ベトナム日本大使館からわざわざタンロン遺跡日本諮問団からの講演を含めるよう依頼があったという。

 新学期開け直前の極めて忙しい時期ではあるが、このシンポジウムにはいろいろな意味から誰かが発表しなければならず、最も暇な?私が報告する事になった。タイトルは「タンロン遺跡に関する現状と将来の課題~東・東南アジアからの視点で~」(仮題)である。

 本科研費は京大と東大の先生方が核となられてとられた巨大な経費のついたものである。私たちが少々頑張っても採択されない基盤研究(S)である。テーマも壮大で東南アジア全体に情報学を構築しようとするものらしい。その中のプロジェクトとしてタンロン宮殿遺跡に白羽の矢が当たり、上記のようなシンポジウム開催となったらしい。そもそも私には「地域情報学」なるものがよく分からない。一体何をするのだろう?特にタンロン宮殿遺跡はまだ発掘調査が始まったばかりで、その調査方法や調査体制についてもたくさんの課題を抱えたままだ。

 まず考古学的な発掘調査をしっかりやる事がすべての始まりだと思うのだが、地理の先生方、特にGISをやろうとなさっている研究者は直ぐにシュミレーションに走ろうとするような気がする。もちろん将来的には大いにそこに期待が集まるのだが、この間の岡山大学、橿原考古学研究所、大阪歴史博物館などでのGIS研究会を見ていると、一番大事なのは考古学の発掘調査データー(もちろん考古学の情報だけでなくてもいいのだが、少なくとも3次元のデーターベースが必要だ)をデジタル情報でいかに正確に持っているか、のように感じる。それさえあれば、根気よくGISソフトを使いこなしていけば、これまで見えなかった立体的な視覚に訴える情報から新たな視点が生まれるように思うのである。

 タンロン宮殿遺跡に関して言えば、まず遺跡自体の重層性が大問題である。李朝、陳朝、黎朝、阮朝の四代だけではない、最下層には安南都護府の遺構もある事が確実である。この他にもヴェトナムには漢代の日南郡や九真郡などの郡治もあるはずである。それらを正確な考古学的分析手法により識別し、正確な図面に落としていくのはまだまだ至難の業である。日本ですら、平安京→京都は四〇余年にわたり発掘調査がなされているが、未だに正確な情報は公表された事がない。おそらく1200年にわたる3m前後の極めて多様な堆積層を正確に分析し、報告する事が困難なのであろう。余りに発掘調査だけが先行しすぎ、分析の手法が後追いになった事の悲劇がここにある。ヴェトナムで同じ過ちを繰り返させるわけにはいかない。

 すでに発掘調査は一部で実施されている。そのお陰で私たちは千年近い遺構の断面情報を一気に見る事ができる。これを最大限に生かしながらじっくりと各時期の遺構の特徴、遺物の特性、製品の供給関係、生産地などを特定し、以後の調査に活かさなければならない。そもそもこれまでの調査にどれだけのデジタル情報が落とされているのかも明確ではない。まずそこかあ出発しなければならない。

 あれだけの科研費のお金が私たちについていれば、十分にその作業が行えるのだが・・・。残念だ。実は私もいろいろな手を使って補助金、助成金を得ようと頑張っているのだが、「三重大学」の看板は相当軽いらしい。科研費などの審査官の琴線に触れる事ができないでいる。

 ただ少しだけ展望が開けたのは、今回の発表を在ヴェトナム大使館が要請した事である。外務省ルートで私たちが目指すタンロン宮殿遺跡解明と保存、整備の長い調査がスタートするきっかけに今回のシンポジウムがなれば貴重な時間を割いていく価値もあるといえよう。日本列島で進行しつつある拝外主義的な動向に何とか歯止めをかけ、広い視野で宮都研究を進めるためにもシンポジウムでの報告を何とか成功させてきたい。なお、シンポジウムの内容については後日報告する事にする。



(不思議な六角形建物群。これらの正確な情報もまだつかめていないが、将来、GISを駆使すればいろいろな視点が見えてくるものと期待している。)

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【最新情報(NEWS)】 久留倍遺跡追加調査と今後

2005-09-22 23:54:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(写真は正倉院の外に建てられた最後の時期の倉庫跡の柱痕跡。これも道路で削られるらしい。)

 三重県四日市市にある久留倍遺跡についてはこれまでも何回かこの誌上で紹介してきました。遺跡中心部の史跡指定が現実的となり、今後は史跡整備に重点が移されることになりそうな状況です。長かった保存の戦いも一段落したかに見えます。しかし私はあくまで史跡の中に橋桁を打ち込み景観を台無しにする高架案には反対していこうと思っています。遺跡の下をトンネルで抜ける案が遺跡にも、環境にも、適していると考えるからです。

 昨日の指導委員会議では、史跡指定に向けた追加調査の成果が公開されました。政庁や正倉の北側に残った舌状の張り出し部に古代の遺跡がないかを確認するために調査したということでした。結論的にはこの部分には目立った遺構がないことが判明したという説明でした。私の予想と大きなずれはなかったので一安心しました。以前からこの地域ではなく、遺構群の東側の低地部の調査に取り組んだほうが成果が上がるのではないですかと申し上げてきたからです。特に北東部に広がる中規模の建物群に接する東側の低地にトレンチを入れるとおもしろい成果が出るのでは、と訴えてきました。しかし残念ながら今回もトレンチは入れられませんでした。
 
 私の主張の根拠はこうです。

”本遺構群は既にその大半が検出されていると思われます。その結果郡衙の政庁 かといわれる8世紀前半前後の施設群と8世紀後半以降の正倉(別院)の一郭が検出されました。しかしこの間の時期に営まれた大規模な施設群の性格については全く手がかりがなく、諸説が出されたままです。その性格を探り当てる材料が遺跡の東部に広がる低湿地に残されているのではないかと思うのです。古代の官衙遺構にあっては土器の出土する地域からは必ずと言っていいほど文字の書かれた資料が出土します。これまでのところ久留倍遺跡からは遺物が集中して出土した場所は知られていません。無いのではなく、有るところを掘っていないだけだと思います。その場所は食事を作ったり、事務仕事をする下級官人達の仕事場付近です。それは高台にはないと思います。余り生活環境のよくないところで下級官人達は仕事をさせられていたはずです。それこそ東側の低地です。”

 実は今回追加調査として道路工事で破壊されてしまう予定の、史跡指定地に入れられなかった部分の調査が行われています。東側で集中して中規模の建物の検出されている(しかし一部は既に破壊されてしまっている)地域に接して東側が発掘調査されていました。実に興味深いことにさらに大規模な建物や新たな施設が発見されました。私は以前からこれこそ実務機関を統轄する事務の中心機構だと申してきましたが、今回の発見によって益々その可能性は高まったと言えます。まさにこの東に雑舎があるはずです。

 私たちはこの冬に久留倍遺跡の第二回調査を実施する予定ですが、今回の調査のお陰でようやくその候補地が狭まってきました。どうしてこんなにワクワクするところを調査しようとしないのか、不思議な気持ちです。発掘調査に関わっている人々が、もっともっと少年・少女の時代に戻って、このスコップの先に何がでるのだろうかと期待に胸膨らませながら調査に当たるべきではないでしょうか。いいものを出し切ってから(いやもちろん何もでないかも知れませんが)、その後の世俗のことを考えるべきではないですかね。
 新しい発見ほど楽しいものはありません!!もう一度考古学を純真な考古ボーイ・ガールの手に!!



(政庁北側の舌状の張り出し部から発見された建物の一部)


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(私の反戦思想は単純です。どんな理由であれ、人を殺しに行きたくない!人を殺しにいけという命令には絶対に従わない!これだけです。憲法九条は世界に唯一の最も人間的な憲法です。国家をあげて戦争はしませんと宣言しているのですから。皆さん子供の時には戦争はイヤだと思ったでしょう!くだらない奴らのくだらない洗脳を恐れず、堂々と反戦を主張しましょう)

【最新情報(NEWS)】 三重県松阪市村竹コノ遺跡~大環濠集落~

2005-09-21 01:15:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(検出中の環濠址) 

 松阪市の東、多気郡明和町に近い金剛川の右岸から最近発見された環濠集落である。弥生時代後半の山中期から古墳時代初めの欠山期の土器が出土するという。但し両者の土器の出土する環濠は全く位置が異なっており、山中期のものが伊勢地域南部では最大規模であるとされる。東西300メートル南北350メートル余と推定される環濠は三重に巡っている。発見されている環濠は東辺と南辺の一部に過ぎず、北、西については推定の域を出ないが、周辺部の地形からこのように推定されている。詳しくは下記の三重県埋蔵文化財センターのホームページに9月11日開催のカラー写真満載の現地説明会資料が公開されているのでこれをご覧頂きたい。
 http://www.museum.pref.mie.jp/maibun/

 興味深いのは環濠集落が営まれた時期である。上記の通り、古墳時代になると環濠は縮小され、弥生時代に比べると小規模になるが、連続してこの地域に環濠集落が営まれている点が注目される。私は弥生時代の研究者ではないのでさほど詳しく情報を得ているわけではないが、三重大学校内から発見された同時期の遺跡・鬼が塩屋遺跡の分析に携わった関係で、この時期のものについてだけ少し興味を持って調べている。
 今回の資料のすべてが公開されているわけではないので、未だ詳細は不明であるが、実はこの時期に特徴的な土器に瓢形土器というのがある。別名口縁内湾形土器である。伊勢湾西岸部に特に集中して出土する土器で、その形態や調整手法などから極めて特殊な用途に用いられた土器と考えている。
 これまでほとんど注目されたことがなく、研究はまったくといっていいほど進んでいないが、わたしはこの土器は伊勢湾西岸部の当該期文化の独自性を物語る証拠の品だと考えている。つまり伊勢湾西岸部中部を中心に瓢壺はもちろんのこと高坏や壺など、多くの土器を丁寧なミガキ技法によって調整するのである。村竹コノ遺跡はこうした土器群のある地域からはやや南にずれてはいるが、その影響下にあったことは間違いなかろう。調査は始まったばかりで、東部の状況しか判明していないが、環濠の外には方形周溝墓群が存在するという。環濠自体は検出深度50㎝、台形状の断面形を呈するもので、防御性に富むとは思えない構造をしている。今後の周辺環濠の調査によって、どのような手工業製品、道具類、花粉や寄生虫が出るのか、また環濠内がどのように住み分けられているのかによって、環濠集落の正確も判断できようが、当該期における中核的「都市」の可能性も視野に入れて今後の調査に当たることが望まれる。

 もう一つ気になったのが、この遺跡発見の経緯である。松阪市では最近国の補助金を得て詳細分布調査がなされた。ところがこの遺跡は分布調査では確認されておらず、その後、偶然この地を通りかかった文化財パトロールの担当者が夥しい土器の出土する工事現場に居合わせ発見したものである。もちろん私は分布調査の質を問題にしているのではない。分布調査そのものの有効性に少し疑問があるのである。
 三重大学でも、四年前から白山町、安濃町、大安町(いずれも旧町村名)で分布調査を行ってきた。本年度もいなべ市、亀山市(旧関町地域)の分布調査をしなければならない。しかし、今日のように休耕田や造成工事の激しい地表面を人海戦術でもって歩くだけで、果たして有効な遺跡分布調査ができるのか大いに疑問なのである。もちろん三重県のように学生が歩く例は珍しく、全国の大半の都道府県では、文化財パトロールの担当者や、周辺市町村の調査員が集まって、調査するという。但し中にはこれではとても短期間に事業を遂行できないので、発掘作業員などを動員して行うという。いずれの場合にしても私が疑問に思うのは「表面の遺物採集だけで遺跡が発見できるだろうか」と言う疑問である。それよりはあらゆる土木工事に立ち会い調査を義務づけ、地層観察や遺物の有無について十分確認させるべきだと思うのである。土木工事がその結果遅れることがあることはやむを得ない。それがだめなら詳細分布調査で試掘グリッドを開けさせるべきだと思う。でなければ同じ轍を踏むことになると思うからである。

 幸い村竹コノ遺跡では調査を行うことができたとはいえ、一歩間違えば、遺跡は闇に消えていた可能性があったのである。より厳密な立ち会い調査こそ遺跡分布調査には有効なのではなかろうか。

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[研究(STUDY)] 桓武考古-8 第2章 山背遷都

2005-09-20 23:12:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は僕の誕生日。とは言ってもこの年になると特別な料理が出るわけでもなし、ケーキを食べるわけでもない(そもそも我が家には誕生日を祝うという習慣がない。子供達が成長し、子供ができ、新たな家族が生まれると誕生パーテーが開かれることになりつつある。私の子供時代は特に貧しかったので何もしなかった)。変わったことといえば何人かの友人や学生から「おめでとう??」のメールが来たくらいのものである。「体に気をつけて!」というのは涙が出るくらい?嬉しいが、「もうすぐ赤いチャンチャンコですね」と言われるとドキンとする。アー恐ろしや。でも昔は50歳までは頑張って生きてね!と言われ続けていたので(山中家の男は早逝だった)、間もなく60だと思うと感慨も一塩である。


第2章 山背遷都

 内外の諸制度、諸文化を最大限に利用しながら、皇位継承の正当性を示す一方、桓武が取った次なる方策は、新たな権力構造の形成であった。その根幹をなすのが山背遷都であった。
 社会学者藤田弘夫氏は「都市建設の最大の問題は、建設コストや技術ではなく、その地に建設することの同意を得ることである」と指摘する。長岡京遷都最大の難関は、三世紀以来、王権の中心地としてあった大和の地を離れ、畿内とはいえ中枢部が置かれることのなかった山背北部に首都を移転することにあった。大和には五百余年にわたって培われてきた複雑な利害関係が形成されてきた。山背遷都はそれら利害関係の清算をも意味した。それ故、遷都には様々な抵抗が予想された。桓武王権は遷都の同意を綿密な戦略の下に形成した。
遷都実現のための最初の方策が副都難波宮の解体と三国川開削による難波津の停止であった。後に遷都の理由を「水陸の便」と説明したように、三国川の開削によって、新都は大河・淀川を経て瀬戸内海と直結した。水上交通網の形成は、流通構造の大改革をもたらし、物資生産拠点の移動を余儀なくさせた。
他方、山背へ移されなかったものがある。平城京建設と共に外京に集められていた諸氏族の仏教寺院である。ここにも山背遷都の明確な意思を読み取ることができよう。
本章では山背遷都の背景を難波京と寺院に焦点を当てて探ってみることにする。

1 難波京解体
難波の重要性は瀬戸内海交通と内陸部交通の結節点に位置することにある。時には海外からの情報がいち早くもたらされた難波は、天武天皇による複都制の実施によって、王権の中枢部に直結することとなった。しかし副都・難波宮は朱鳥元(686)年大蔵からの失火により焼失する。これを再建したのが聖武天皇である。聖武は神亀三(726)年、知造難波宮事に藤原宇合を任命し、副都難波宮を建設した。以来、平城京は難波京との複都制を堅持する。
発掘調査では前期難波宮朝堂にすっぽり入るような形で大極殿院・太政官院(朝堂)、内裏などの中枢施設の他、西方官衙等の諸施設跡が発見されている。後期難波宮跡である。
後期難波宮跡の中枢部の特徴は、まず第一に、宮城の中心に配された大極殿院、太政官院が共に瓦葺建物であること、第二に、太政官院内部の朝堂が東西4堂ずつの8堂で構成されていること、第三に、太政官院の西に大規模な門を伴う空間が設けられていること等にある。
当時の平城宮の中枢部には、瓦葺き建物で構成された中央区と掘立柱建物で構成された東区の2施設が併置されていた。中央区は大極殿院と朝堂空間に二分され、前者は前後に例を見ない塼積み基壇の上に巨大な大極殿を配し、その南には広大な広場を有していた。後者は長大な建物4棟で構成され、儀礼空間として利用されたといわれる。後期難波宮中心施設とは全く異なる構造をしていたのである。
一方東区には北に内裏、南に十二の朝堂を伴う大規模施設が設けられ、前都藤原宮の中枢部を掘立柱建物で建設したような形式を取る。朝堂の前に広がる広場からは大嘗祭の跡が発見されており、伝統的儀礼や政務空間として機能した。規模や建物構造は異なるが後期難波宮中心施設はむしろこの東区の施設に形態的に似る。
このように後期難波宮は平城宮よりも藤原宮の基本構造により多くの共通点を有している。天武天皇の副都施設の位置を踏襲し、藤原宮大極殿、朝堂の基本構造を採用するなど、聖武の天武朝回帰の意識はこの頃既に形成されていたのであろうか。
ところが延暦二(783)年三月、和気清麻呂が摂津大夫に任命されると、副都難波宮で様々な事態が展開する。延暦三(784)年五月十三日、「摂津職言今月七日卯時蝦蟇二万許長可四分其色黒斑従難波市南道南汚池列可三町隋道南行入四天王寺内至於午時皆悉散去」と摂津職から怪異現象が報告される。その僅か三日後、遷都のため山背国乙訓郡長岡村の地相を見聞させ、六月十日には造営工事が始まる。怪異現象は難波京から長岡京への遷都の予兆演出であった。なぜ難波京から予兆が始まったのだろうか。その解答は発掘調査によって明らかにされた。
延暦四(785)年正月朔日、元日朝賀の儀式が大極殿で行われた。建設開始から僅か半年足らずで大極殿は完成していた。大極殿院、朝堂の発掘調査によって、瓦の大半が難波宮式重圏文軒瓦であることが判明した。大極殿を始め、朝堂の各施設も規模や構造が酷似していた。桓武天皇は副都難波宮を解体し、長岡京の施設に転用することで建設のスピードアップをねらったのである。と同時に、平城京ではなく難波京からの遷都によって、人心の動揺を抑え、抵抗勢力の機先を制したのであった。

(ランキング登録はもう止めようと思ったのだが、最近の歴史ランキングを見ていると明らかにその手の筋の方々が様々な顔を装って登場し、排外主義の宣伝に努めていることが分かる。今回の選挙で勢いづいた彼等は、今こそ戦前回帰の絶好のチャンスと、あらゆる手段を使って「洗脳」に乗り出しているのだろう。いずれ私たちの意見は「危険思想」としてマークされ、怒号の中に消され、発言の自由を奪われ、抹殺されていくのだろう。そうなる前に、読者の皆さんが是非、良心的な意見を述べる場として個々人の発言の場・ブログを立ち上げてほしい。立場のある方は本名でなくてもいい。権力によりブログが占領される前に、手を打とうではありませんか!!憲法第9条の改正絶対反対!教育基本法の改正による軍国主義教育の復活阻止!!殺すな!殺しに出かけるな!平和憲法の下、豊かな自然に守られた平和な日本を作ろう!!)

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〈主張(OPINION)〉展示と研究成果 ~歴博展示「桓武の野望」(仮題)成功のために~

2005-09-19 15:39:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日大阪市歴史博物館で標記のような展示に関する研究会があった。昨年度まで行っていた「律令国家転換期の王権と都市」の研究成果を活かした企画展示を2007年度実施するための展示研究会である。その中の議論はまだ始まったばかりであるが、これから先少しずつ以前から考えている展示とは何かについてまとめていきたい。

研究会には、先の共同研究以来、山田さんをはじめ、平城、長岡、平安京の第一線の研究者が入っておられて大変刺激になる。特に昨日は博物館の学芸員の古市氏から大阪歴史博物館の開館準備段階からの展示構想(難波京関係)について詳しくお話を伺い、その十分に練られた構想に一同大いに感心したものである。午後からは、立命館大学の河角氏から宮都研究にGISをいかに活かすかについて、詳しい事例研究の成果を基に具体的に語ってもらった。
 近年の展示にGISは不可欠である。今回の「桓武・・・」でも同じである。しかし、具体的にどのようにGISを用いるかについてはメンバーの中で一致しているわけではない。そこで河角さんにお願いした次第である。長岡京のデーターを加工して提示して頂き大いにイメージが脹らみ、研究会は大変盛り上がった。

 ところで久しぶりに山田さんに会い、一連の事態に大笑いした。ところがその会議に出ておられた歴博のNさんから、関東?文献研究者?の間では、山中がお休みしたのは「十条問題」だったのでは・・・、という噂が流れていると聞かされた。またまた大笑いであった。確かに平城京十条問題ではなかなか激しい論戦が戦わされ、多くの人の注目を集めた。その後も中村さんの参入があり(本当はこれにもお答えしなければならなかったのだが、お休み中でもあり、差し控えてしまった。)、さらに盛り上がっている。そのことも関係したのか、十条問題で小澤、井上、山中、山田で裏バトルがあったのでは・・・?という心配が流れていたというのだ。とんだお騒がせをしてしまったものだ。先にも書いた通り、心機一転、細かいことにはこだわらず、Going my way.自らの意見を冷静に表明する場としてここに再出発するので、過去のことはお忘れ頂きたい(もちろん議論の中味は忘れないで下さいね。皆さん真剣なんで)。

 さて、以前にも「分かりやすい博物館展示」で少し議論をしたことがあるが、ここでは身近な課題に沿って、研究と展示について若干の私見を述べてみたい。

 最も大切なことは展示内容をいかに分かりやすく示すかである。私が最近、感心して見ているのが日曜日の朝七時から放映される日本テレビ系の『目がテン』という番組である。様々な話題を取り上げ、実験したり、現場に赴いたりしながら課題を説明していく様に、いつの間にか引き込まれ、あっという間に時間が過ぎてしまう。実験、現場、分析に説得力があるのである。先日も「梨を科学する」として、梨の甘さ、ザラザラした感触、日本梨と西洋梨の違い等を次々と解明していった。こうした手法を展示に活かせないものかと思案している。
 
 今回のテーマは「律令国家転換期」である。自説では政治、宗教、軍事、文化、経済、生産、流通、生活習慣等々実に多くの「もの」が長岡京期を境に変化していると見る。これを『目がテン』手法で示すにはどうすればいいのだろうか。
 ここ数年外国を訪れるたびに撮影するのがトイレである。現在の日本人のトイレを隠すという習慣がいつ頃成立したのかに興味があるからである。またそうした習慣と海外の習慣との異同についても探っている。実は私は、長岡京期を境に日本人はトイレを隠し始めたと考えている。その習慣は貴族社会から始まり、都、その周辺、と徐々に地方に広まっていったと考えている。だからトイレは今回の展示の一つとして十分使えると思うのである。但しどのように展示するのかが問題である。
 たたき台として考えているのは、歴博の入り口に世界(アジア中心でもよいかも)のトイレを復原する案である。
 中国の境のないトイレ、韓国の綺麗なトイレ、スマトラの水洗式無臭トイレ、ポンペイの腰掛け式トイレ等々。そして我が国の藤原京、平城京、長岡京、秋田城、鴻臚館のトイレを並べ、開放型から密閉型への変遷を示し、現代のトイレ観がさほど古くに形成されたものでないことを示すのである。入り口付近の屋外展示だから臭いを付けてもいいのではないかと思うのだが・・・(問題はこんなブースが展示場の外に製作できるかである。お金もかかるし難しいかも知れない)。日本人のトイレ観の変遷をこうして示すことができないだろうか。もちろん一緒に出土した籌木、種子、骨、花粉、虫の遺骸、寄生虫の顕微鏡写真などを展示する。餓鬼草子の立体模型も迫力があっていい。トイレの展示はかつて大田区立資料館で行われたが、今回はトイレ観の変化に主眼を置いて比較展示するという案である。
 硯と書体の変化については実験的な展示を考えてみてはどうだろうか。
 長岡京期に風字硯の使用が本格化することは既に『歴博』で記したことがある。その背景に文字の個人化があることも指摘した。風字硯と円面硯を復原して実際に墨を刷ってもらう。さらに、木簡の複製をお手本に習字してもらうのである。もちろん木簡のお手本には奈良時代の典型的な楷書木簡と長岡京期の典型的な草書木簡の両方をお手本に、書いてもらい、作品は「古代書道展」として展示し、書家に審査してもらうのである。全国の学校に見本を送り書道展への応募を促すと事業は全国区になる。審査により文部科学大臣賞・歴博館長賞・・・・などを与え、入賞者には歴博永年利用券を進呈するなどはどうだろう。

 この他事例はたくある。アイデアをみんなで持ち寄り、テーマに即してどんな資料をどのように展示すべきか大いに議論したい。
 『目がテン』の最大の特徴である実験、実演に主眼を置いた動く展示場の設営である。日本の人文系資料館展示の最大の欠点である「動き」の無さを、模型を動かせて行うのではなく、鑑賞者を動かせて展示の中に入れ込ませるのである。
 そのほか展示図録の工夫、講演会や実演会の改善、シンポジウムの開催方法、事前宣伝(たとえば新館長平川南さんと永井路子さんとの対談は是非やってほしい!!)等々、2007年秋に向かってあちこちでプレイベントを開催することもいいのではなかろうか。
 
 「研究成果と展示」をいかにマッチさせるか、なかなかの難問である。これからの研究会ではさらに具体的な資料分析が求められる。

[研究(STUDY)] 桓武考古-7  初めてのカラー食器

2005-09-18 01:22:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 桓武朝の変化を考古資料からしか知ることができなかったのが食文化であった。八世紀末の桓武朝前後から多様な緑釉陶器が生産、使用されるようになる。高台の付く椀、高坏、尖底状の鉄鉢、唾壺、移動式竈、羽釜、甑、小型壺と蓋のセット等、突然に姿を現す緑釉陶器は、技術的には前代の奈良三彩に拠っており、橙色や黄色を除き、意図的に緑色だけを取り出して彩色に用いた土器である。
 
 何故緑にこだわったのであろうか。並行して生産され始める灰釉陶器や黒色土器を通して、その意図を読み解くことができる。
 新しい三種類の土器群は少なくとも桓武朝から嵯峨朝にかけて用いられ続け、日本の八世紀末から九世紀の食器の原型を形作る。
 何故桓武朝は緑釉陶器、灰釉陶器、黒色土器にこだわったのであろうか。
 当時中国で貴族社会において当たり前に用いられていたのが青磁、白磁、黒陶であった。しかしいずれの製作技術も門外不出の秘技とされた。高度な技術によって生産された磁器は、当時の技術力では製造方法を見抜くことは不可能であった。生産品を持ち帰ることはできても、その数には限りがあった。貴族社会の需要をすべて賄うことはできなかったのである。そこで考え出されたのが既存の技術を用いた模倣品の生産であった。
 須恵器と同じ技術で成形し、須恵器ほど硬質に焼成せず、還元も十分に行わないでやや赤みを帯びた素地に鉛や銅などを主成分とする釉薬をかけて再焼成し、緑色に発色させるのが初期の緑釉陶器である。嵯峨朝に尾張の猿投窯の技術者が都へ呼び集められ、国家直伝で秘技が伝授されると生産体制が整う。その後、須恵器同様に硬質に焼成した素地に釉薬をかける技術が開発されると、大量生産の道が切り開かれ、一気に全国に消費が拡大する。
 初期の軟質の素地を用いる緑釉陶器を緑釉単彩陶器と呼称し、硬質の緑釉陶器と区別してその機能の違いを強調する説もあるが、用語自体が矛盾している上に、事実関係に誤りがあり、歴史認識も正確ではない。何故緑だけが三彩陶器の生産技術から取り出されたのか、桓武朝に開始された背景は何か等、窯業生産もまた、往時の政治、経済、文化と無縁ではないのである。
 
 たとえ模倣品とはいえ、日本の貴族社会が初めて手にしたカラフルな食器である。彩色された食器は、古墳時代の人々が須恵器という新しい容器を知った時と同じくらい大きな衝撃を与えたに違いない。色彩的に多様な食器を用いて食事をする習慣がここに初めて開花するのである。
 桓武朝の大胆な政策は食器にまで反映しているのである。やがてこれら「緑」は平安初期の東寺・西寺、大極殿、朝堂院、豊楽院等の宮都の中枢施設にも用いられる。考古資料から見ても、桓武朝の中国化政策は明白であった。

情報再発信

2005-09-18 00:30:54 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 長い休暇だったと思って改めてカレンダーを見るとわずか1週間。それだけブログが体の一部になりつつあったということだろうか。もう止めようかとも思ったのだが、いろいろな方から「まだ?」「何故?」とのメールをいただき、心機一転表紙も変えて再開することにした。本当は手作りの表紙にしたかったのだが、まだそこまでのゆとりもないので借り物で再スタートする。

 それにしてもあちこちから「山田さんと喧嘩したの?」「まだ山々戦争は終わらないの?」等の質問やメールを頂いた。そのたび毎に苦笑いしたものだ。もちろん、「資料の個人所有観」や「平安京観」、いやそもそも人生観や性格など同じ平安京内で生まれ育った二人だが、相当な違いがある。そんな二人がいつの頃からか意気投合したのは、むしろその違いに拠る所が多いのではないかと思う。だから、世間でそんな噂が流れていると聞いて密かにお互いのメールで大笑いした次第である。日本の学問、とりわけ考古学界の悪いところは、「異見」を言うと仲が悪く思われたり、実際に悪くなる点だ。異見の述べ方も悪いのかも知れないが、私も含めて議論の仕方が下手である。再開ブログでは冷静な議論が進められるよう「問題提議」型の主張をしてみようと思っている。
 
 この間のコメントを改めて拝見すると(休止中は見る気も起こらなかった)、多方面の方々がご覧になっていることに気づく。私自身は気楽に自分の思いを表明し、読んだ方々がそれぞれ「こんな奴もいるんだなー」程度に感じて頂ければと、書き連ねたつもりだが、過敏に反応なさる方もいらっしゃって、面食らった。「だから日本の学者は思い上がりがすごく腹が立つ」というのもその一つだろう。私の表現が過激になると読むだけでは済まなくなったようだ。気楽に書いたのではいろんな誤解を呼ぶことが分かった。コメント欄を廃止しようかと思ったが、陰口をたたかれるのもいやなので残すことにした。
ブログは基本的に発信側が誰かが明確で、コメント側は匿名のことが多い。このため、どうしても議論は成り立ちにくい。そこに大きな問題はあろうが、再開後は主に、最新情報(News)、主張(Opinion)、研究(Study)の3種類の構成で書くことにする。もちろんできるだけ冷静に議論のしやすい形で「問題提議」していきたく思っている。

ところで、ブログに発掘現場の様子等を少し紹介しただけで行政側から圧力かかったという話を聞いた。私も最新情報には細心の注意を払って書き込んでいる。現場で写真を撮らせていただくときも、もちろんお断りをして撮る。しかし、最近は「○○で発掘調査をやっている」程度の書き込みでも取り下げを要求されたり、嫌みを言われたりすると言う。信じられない。一種の言論弾圧ではないのだろうか。きっと従わないと二度とその関係の現場には足を踏み入れることがでいないのだろう。
日本の法律では発掘調査は文化財保護法で届出(通知)が不可欠である。即ち法律に基づく義務行為である。その情報をある者には公表し、ある者には公表しないというのはいかがなものだろうか。公表の内容が公表する側によって操作、取捨選択されるのも問題ではなかろうか。
しかし現実は徐々にそのように進行しつつある。権力側に立つ者には正確な情報が大量に流されるが、そうでない者には流されない。私が「行政から発掘調査を取り上げろ」と極論を展開する背景にはこうした現実がある。この点に関する「主張」はいずれ改めて行うつもりだが、実はブログ再開の理由もここにある。

もしこのままブログを閉鎖してしまうと、権力(行政)に対する異論を堂々と述べる場が一つ減ってしまうのでは、と考えたからである。もちろん私の異見等取るに足りないもので、他人に押しつけるつもりはない。しかしこのまま黙ってしまえば異見の対象者は喜ぶかも知れない。チクリと蚊が刺す程度かも知れないが、痛いところをつく「異見」表明の場が必要ではないか、そう思ったのである。ブログは大袈裟にいえば世界中に己の考えを発信することのできる数少ない武器である。今後は海外の友人にも見てもらおうと思っている(やり方は模索中)。正々堂々と情報や異見を公開し議論の遡上に載せることこそ、学問の発展には必要なのではないだろうか。

研究成果については論文で書けばいいことである。この場でさわりを出しても専門家には何の魅力もないに違いない。ただ、専門的な内容を幅広く伝える機会にはなるかも知れない。これまでも研究成果の一部を紹介してきた。「桓武考古」「調査・研究報告」などはその類である。しかしこれまではどちらかといえば余り専門家でない方々を意識することはなかった。少し頭の片隅に意識しながら書いてみようと思う。但しこの欄はやはりどちらかというと研究の草稿を書き込み事前に意見を頂こうという主旨でもある。

明日は国立歴史民俗博物館の展示プロジェクト「桓武朝の光と影」の研究会である。後日、最新研究情報としてご紹介するつもりである。

個人所有資料に関する私見

2005-09-10 16:02:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
平安京閑話「博物館実習と個人所有資料の巻での山田さんのご意見についてはどうしても一言申し上げておかなければならない。この私見は私の信念とも言える考えである。

 3年前、西安の東120キロにある商洛で東龍山漢墓の発掘調査を行った。調査は墳丘の残る後漢の地方官の墳墓と考えられていた。ひょっとしたら未盗掘では?という期待もあったが残念ながら数本の盗掘坑が見つかり、その期待は見事に裏切られた。そもそも中国では盗掘が当たり前になっている。「常識」なのだ。こんな常識は考古学にとっては困ったことなのだが、現実である。

 その商洛での発掘調査は途中から異様な雰囲気に包まれた。盗掘団が襲撃に来るかも知れないから徹夜で遺跡を監視するのだという。遺跡の周りはすっぽりとシートで囲われ、毎晩交替で補助員の皆さんが泊まり込んだ。しかしよく聞いてみると盗掘団はピストルで武装しているというのだ。こちらはもちろん丸腰である。とてもかつての社会主義国中国では想像もできない話である。襲われたらどう抵抗するの?と不思議な気持ちだったが、彼らの心意気にそんなことを聞く隙はなかった。

 そんな時さらに緊張の走る事件が起こった。現場から車で30分ほどの遺跡で盗掘が行われたのである。調査に参加していた商洛市の担当者の王さんによれば、大量の青銅器が確認されており、間もなく発掘調査する予定だったという。急いで現場へ確認に向かった。

 工場の奥にあった遺跡から持ち出され、金目にならないからか遺棄された遺物があちこちに散乱していた。よほどの確信をもっての盗掘だったのだろう。案内してくれた王さんの話によれば、直径60センチはあろうかという巨大な鼎があったはずだという。売れば日本円にして数百万円にはなるだろうという。最近ではそんなうまい話を農民も知るようになり積極的に盗掘団を案内し、その分け前に与るという。我々の現場が襲われる危険性が現実味を帯びた瞬間であった。

 なぜこんなことが起こるのだろうか?
 買い手がいるからだ!
 
 実用性も、貴金属としての値打ちもないものをなぜ盗むのか。おそらく日米欧(最近は中国も)の「金持ち」が買ってくれるからである。

 日本の博物館で世界各地の資料が見られるのも、多くはこうした、遡れば盗掘された「美術品」を「美術商」を通して購入するからだ。その「お陰」で私たちは外国に行かなくても世界の資料を見ることができる。しかしもしこれらが正規に発掘調査され、当該国の博物館に保管されていたらどうだろうか。確かに私たちは外国に行かなければそれらを見ることができない。しかし例えば、どんなに美しい火炎土器がイギリスの大英博物館に飾られていたとしても、それを見たイギリス人には、日本の縄文中期の世界をイメージすることは不可能ではないだろうか。所詮理解できない物があっても仕方ないではないか。それならお互いの国を相互訪問できる体制を作ればいい。或いは、定期的に学術的説明を付けた展示の相互交流を組めばいいのではないだろうか。

 確かに現在の中国の博物館は秘密主義で、なかなか資料を見ることはできない。しかし、盗掘がなくなり、発掘調査により出土した資料が増加すれば、収蔵庫は溢れ、海外での出品機会も増やさざるを得なくなるだろう。多くの研究者が来館するようになれば、公開せざるを得ないと思うのだ。貴重品が少ししかないから出し渋りや見せ渋りが横行するのだと私は思っている。

 博物館の公開機会が少ないからといって、たまたま流れてきた骨董市場の遺物を学識ある人々が買い上げ、「保護」することは重要なことだろうか。盗掘品のすべてを学識経験者が買い上げることは不可能ではないだろうか。救うことができるのはごく一部に過ぎない。

 盗掘団の資料は全世界を移動し、真贋を鑑定する人々の手によって「価値=値段」が決められ、財産んとして「保護」される。しかしその価値は本来の歴史的価値を全く失った物に過ぎないのである。そんな物がどうして「考古資料」として扱われるのであろうか?

 こんな馬鹿げた世界が世界中にあるのが現実であり、惚けたタレントが値段を聞いて喜んでいる番組があることも事実である。しかしこうした番組を徹底的に批判し、骨董屋を世界中からなくす努力こそ必要なのではないだろうか。

 骨董屋、骨董市場など、もしそれらがきちんと調査されてさえいれば(よほどだめな調査員が発掘したものでない限り)、全く不必要な世界なのだ。

 「弘法さん」(毎月21日に京都の東寺で開かれる市)で売られていたものを山田さんが見つけ、その来歴を推理し、御高論を書かれたことはよく知っている。確かにあの須恵器が山田さんの手に入らなければ、永遠にその存在は知られることなく、闇から闇へと好事家の手元を渡り歩くだけで歴史的評価は全くなかったろう。しかしそれは結果論であり、現状肯定の上での成果であって、この問題の根本を解決する手だてにはならない。考古学者である以上、「市場」に関与することはやめるべきだと思う。たとえ目の前に手頃な値段の明らかに平安京時代の完形の緑釉陶器があり、それを隣の歴史とは全く縁のない人が「綺麗やなーこれ!なんぼや?」とまさに今買おうとしていても、考古学者は買うべきではないと思うのである。

 たとえ理想論と言われようが、身近なところで一つずつ盗掘のメリットを消していかない限り、中国を中心とした盗掘を防止することは不可能なのである。まず日本は世界に先駆けて美術品の一切の輸入を禁止すべきなのである。つまり骨董品市場を狭くする手だてを打つことが肝心なのである。売れないものに値段は付かない。

 場合によっては逮捕されれば死刑になる中国での現在の法秩序を犯かしてまで、盗掘するのはそこに危険を冒す価値が見いだされているからである。その価値とは即ち金である。金にならなければ誰も苦労して遺跡を掘ることはないのである。

 結論は単純明快だ!「美術品」を買わない、売らない!!このことこそ考古学に関係するものの最低条件ではないだろうか。もちろん古文書も、漢籍もしかりである。

 特に日本の考古学に欠けているのが「資料学」である。これさえしっかりできていればこのような議論は不毛なのである。
 日本の発掘調査やさんには土器を専門にする特殊な集団がいる。遺跡には興味がないらしく、私たちが遺跡の保護を訴えると、そんな暇があったら土器をしっかりと「研究」しろと言う。土器は移動しても「研究」できるから遺跡の保護に面倒な時間を費やすことがイヤなのであろう。しかし、土器もまた、遺構、遺跡と一帯となって初めて意味があるのである。土器は型式だけを分析すればいいのではない!!私にしてみれば彼らは土器の鑑定やさんのようなものに過ぎず、考古学をやっているとはとても思えないのである。つまり彼らには土器という遺物とは何かという資料学がないのである。

 こんな人々が増えるから、つまり、物さえ壊れなければ、その価値は失われないと勘違いしている人がいるから、平気で遺物の売り買いが横行するのである。そんな物の価値は「0」だと断言すべきなのである。価値のない物に値は付かない。値が付かない物を、危険を冒してまで盗む人間はいない。こうして文化財に平穏が訪れ、じっくり調査をして資料を分析することができるのである。

 文化財の個人所有を断固否定する所以である。

 学問とは何か?考古学とは何か?資料学とは何か?発掘調査とは何か?じっくり考えて、少しずつ発言することにしたい。

冷静になれない事情・・・・

2005-09-10 00:12:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ここ数日いろいろなことが表面化しました。私にはとても冷静に事態を報告できない状態です。

 このままたとえ冷静になったつもりで書き込んだとしてもおそらくいろいろなところに波紋を投げかけることになると思います。

 ブログのルールとして一方的に他人を非難しないことがあげられます。もちろんその仁義はいつも守っているつもりです。そして今回の「事態」も決して個人批判をするつもりではないのです。しかし既にそのように誤解しておられるかも知れない「雰囲気」があります。寂しいことです。

 私がこのブログを立ち上げた理由は、考古学の学問としての真の意味を問いかけ、議論したかったからです。平城京十条については私の少し感情的な表現にもかかわらず関係者の皆様は冷静に対応していただき、大変な盛り上がりを見せました。大変嬉しく思いました。まだ読んでいませんが、中村太一さんからもコメントが来たようですね。

 「平安京をご破算に」と過激な表現をしても「またか!」といった感じで皆さん冷静です。そして、もちろん平安京閑話での文化財を私蔵することについても、私は冷静に批判することができると思っています。後日この件については「批判」し私の意見を述べるつもりです。

 しかしそれ以外の事態が進行しつつあります。日本考古学のまさに今日的課題そのもののような事態を受け、きちんと批判したいのですが、おそらく個人攻撃とおとりになると思いますので、今しばらく自分自身の冷却期間をおき、推敲に推敲を重ねて書き込みたいと思います。

 明日、文化財私蔵問題のコメントを書き込んで以後しばらくお休みします。
 それにしても日本「考古学」(日本行政発掘調査)はあまりに未熟です。一刻も早く行政機関から埋蔵文化財の調査を取り上げるべきだと思っています。所詮行政とは権力の末端機構です。学問が権力と一体化してまともな成果が生み出せるはずがありません。


【研究報告版-15】 「中世都市研究会三重大会」という不吉なメール

2005-09-06 21:17:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(こちらはもう何時間も大雨と大風。ボロな校舎がギシギシとうなっている。こんな建物付近の住民の避難場所にもつかえんな!!) 

 先日我が大学のF先生から久しぶりにメールをいただいた。ただその文面はちょっと微妙な内容だった。たった一行「来年度の中世都市研究会が三重県で開催されることが決まりました。その件で来週Y先生と一緒に研究室へ伺います。」というのである。

 「中世都市研究会?ひょっとして、あの山田博士が全力投球した結果、とうとうブログを6日もご無沙汰するほど消耗して、生死を彷徨っているという噂のあの大変な研究会のことやろか?」
 「もしそうやとしたら、私がこれに巻き込まれると、大会後、干からびて死んでしまうんちゃうやろか?えらいこっちゃ!どないしよう?」

 「そもそもこの二つの研究会の名前はよう似てるけれどほんまに同じもんやろか?こりゃ棺桶に片足つっこみかけている山田博士に今の内に聞いとかなあかんのとちゃうやろか?ひょっとしたら遺言の一言も聞けるかんもしれんし」

 てなわけで博士に電話した。

 「どちらさん??」と、いつになく冷たい声。
 「もうあかんのかもしれんな」と、切ろうとすると再び、「どちらさんどすか?」
 「アー、僕の声も忘れてしもうたんや!ナンマイダナンマイダ。三重大学の山中ですが・・・。」
 「エーッ、誰?」
 「ヤ マ ナ カ!」
これで正気に戻ったのか突然、「山中さん?どうしたんですか?桓武天皇陵のこと?それとも平安京の話?」
 「(もう意識が混濁してるわ・・・こりゃ末期症状やお気の毒に)・・・、でもきいとかなあかんしな!アノー・・・・(以下略)」

 と先の質問をする内に答えがまともになってきた。とても片足棺桶とは思えない。

 結論として両研究会は同じもので、山田博士はそのために死にかかり、よっておまえも当然その苦しみを味わわなければならいということであった。
悪い予感が当たった!

 「どないしょう?」

 あれだけ中世都市と平安京、そして古代宮都を連結した研究をするべきだと大見得を切ったばかりである。
何をお頼みにお出でになるのかはうすうす見当が付く。後一年はあるとはいえ、古代宮都研究と京都研究、そして中世都市(おそらく三重県でのテーマは北畠の多気)をどないして繋げばいいのか、困った!
 普通だったら「大成功!!中世都市研究会」の見出しが踊るはずのブログ。よほどの重体らしい。博士の意識がはっきりしている内に今回の成果を伺わねば・・・。

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【研究報告版-14】 第1回歴史GISセミナー 柏原陵から何が見える・・・

2005-09-04 23:02:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 岡山大学にてGIS(Geographic Information System:地図情報システム)の研究会があった。岡山大学の新納泉、今津勝紀両氏は考古学、歴史学の分野でGISを研究に活用する第一人者である。私自身はGISに憧れてはいるものの、今から勉強するには遅きに失した感があるので、最先端の研究状況を拝見させてもらおうと軽い気持ちで申し込んだ。



(GISを用いて分析した「稲荷山」推定地からの長岡京・平安京・天智陵の眺望)

 ところがとんでもない事態に陥った。ナナナント「実習」なる時間が二日間に渡ってあり、自分の持ち寄ったデーターを使ってGISを動かしてみなさいと言うのである。そんなこと案内のどこかに書いてあったかしらと耳を疑ったが後の祭り。新納さんや今津さんの操作解説を必死で後追いしながら何とか初めてのGISに挑戦した。
 とはいってももちろんそんなデーターは持って行っていないから、急遽聞きかじったばかりの可視範囲に関する機能を用いて、「桓武天皇柏原陵」からの眺望によって、山田博士説柏原陵・桃山城跡説に何とか挑戦してみることにした。

 私の仮説を再度整理しておくと①桓武天皇は自らの葬地を予め紀伊郡深草の地に決めていた。②しかし没後定められたのは宇多野であったため、怪異現象が付近で度々起こり、やむを得ず本来の場所に改葬された。③葬地決定の第一条件を長岡京と平安京の両京の見える地点と仮定した。④第二条件は皇統の正当性を示すために欠かせない天智天皇陵が見える地点と仮定した。この条件に桃山城説が合致しないことは明らかであった。しかし他に両条件をクリアーすることのできる地点が深草にあるのか?

 全く自信もないままおそるおそるGISmapのソフトに挑戦した。まず両説共に長岡京と平安京を見ることが可能なことを確認した。次いで、桃山から天智天皇山科陵が見えないことも予想通りであった。さて、「深草山」からではどうだろう?
驚くことなかれ、深草のかなりの範囲から山科陵が見えるのである。もちろん、今現地に行っても見ることはできない。しかし理屈上は丁度山科陵の当たりだけが「深草山」からは見えるのである。

 もちろん、柏原陵の選地条件に天智陵が見えることが入っていなかったとしたら、山田博士説でも問題はないのである。

 次いで淳和天皇散骨の場所からの眺望を分析してみた。自らの遺体を物集村にて火葬に処した後、西山峰から遺灰を撒けと命じたその地点である。両京がカバーされていることはもちろん、深草に眠る父桓武天皇、大枝に眠る母藤原旅子の葬地も眺望の中に入っていたことが判明した。平安初期の天皇は自らが関係した宮都や直系の祖先の葬地を意識して選地していた可能性が出てきた。

 先にも指摘したように「深草」の地は桃山ではない。また、その後仁明天皇陵の造営を初め藤原摂関家に関係する寺院が次々と深草の地に建立された背景には柏原陵の存在がおおきかったのではなかろうか。そして忘れてはならないのは、延暦11年に出された深草への埋葬の禁止令である。遷都直前のこの時期になぜ深草の地が注目されるのか。間違いなく「深草山」からは長岡宮城が真正面なのである。

 GISに用いた地図情報が必ずしも精度の高いものではないところに課題は残すが、柏原陵「深草山」説に一筋の光明が見えた瞬間であった。新納さんも、今津さんも一様に「ヘーあんなところから山科陵が見えるんだ!」と驚きの声を上げた。今度是非山田博士に見てもらって感想を聞いてみよう!




 GISについても追々ご紹介することにするが、もう10年早くにこのソフトが一般化していたら、もっとおもしろい研究ができたのに・・・、と残念にも思った。



(この真宗院山町の丘の奥からは三カ所が同時に見ることができるという)

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斎宮「授業」報告-8  柱穴の堀方

2005-09-04 21:05:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(写真ではわかりにくいが、堀方の断面です。皆さんどう思われます?是非現場へ来てご教示下さい。)

 ようやく柱穴の堀方が姿を現した。それも最大1.5m四方にもおよぼうかという堀方が2基。柱当たり25cmだから斎宮では最大級である。2.4m(8尺)離れて、ほぼ東西に。誰しもがこれは!と思うのだが、これが難物。一体いつの時期の堀方で、相手はどれか、どこにあるのかが問題なのである。発掘調査地が調査地だけに、慎重にならざるを得ない。現場に緊張が走る所以である。他にもこれと重なる堀方があり、少なくとも2時期以上の建物が重複しているらしい。榎村さんのご教示もあり、いろいろな可能性が頭をよぎる。

 解釈はさておき、今回の調査に参加させていただいて、つくづく思うことは、複数の人間で調査することの重要性である。そして、現地に立ち、現場の土に馴染みそれをじっくり観察し、あれやこれやと考えることの大切さである。

 これまで何度も訪れて現場で見ていた斎宮の真っ黒な土とその下にある黄色い地山である。複雑に切り合う柱穴の検出がいかに大変かを何となく感じていたが、今回の参加を通して初めて自分のものになったような気がする。そして、もっと大切なことは予断と偏見を持たないで調査に臨むことである。前回も記した通り、斎宮の遺構面は真っ黒ないわゆる黒ボクの上に載っている。発掘調査をやったことのある人なら誰でも直ぐ了解できることだが、黒い地層に掘り込まれた遺構に黒い土が埋まっている場合、これを識別することがいかに難しいかである。もちろん時間をかければ見分けることは十分可能なのだが、なかなかそうも行かない。



(発掘調査開始直後の表土直下の現地スナップ写真。よく見ると左側(東)の壁沿いに四角な固まりが並んでいるように見える。)

 どうしても黒い部分を取ってからしっかりと遺構を見分けようとする。つまり本来の遺構面を破壊して、柱穴や溝の底近くでもいいからしっかりと遺構を検出しようとするのである。実際に私も何度かそうしたことがある。今回は学術調査であるとはいえ、予算や地主さんとの約束もあるらしい、時間は有限である。一度は表土を除去した段階で遺構検出に努めたが、たくさんの攪乱によって、黒ボクの遺構面はがたがたで、一体どれが遺構に関係する土なのかが見分けられなかったらしい。攪乱を掘りあげ、遺構面を形成する黒ボクを半分ほど掘り下げたところで異変に気づいた。先ほどの大きな堀方があることに。大急ぎで地面を削ることになった。初めて真剣に斎宮の土と馴染んだ瞬間であった。

 私の目には堀方は相当上から掘り込んでいるように見えた。もちろん最近は目が悪く地層の識別にはかつてほどの自信がない。何度も何度も周囲の地層を識別し、違いを頭にたたき込みながら壁を、地面を削った。他の調査員がやってきて、また地面を削る、水をかけて地層の変化を調べる、線を引く、また私が地面を削る、線を引く・・・・、これの繰り返しであった。そうする内に次第に黒ボクと黒い埋め土の区別がつき始めた。「しめた!」と思った。黒ボクはそう言われるとおり、かなりサラサラした感触の土である。古い時代に一度移動しているのか所々に淡褐色のぼんやりした色の土が黒い土と混じり合っている。ところが遺構に入っている土はやや粘っこくて、石や黄色い小さな粒になった地山の土が転々と入っている。削った感触は明らかにざらざらしている。

 堀方の一つは幸運にも壁に掛かっており、まだ掘り下げていない部分が調査地外に延びている。この壁の断面こそ宝物である。私は現地表を形成する畑の土の直下に黒ボクが広がっており、ここから遺構が掘り込まれていると見る。場所によっては僅か10cmほど(と言うよりは既に上部が削平されて本当のかつての生活面はもうないと考えた方がいいだろう)で黒ボクになる。その黒ボクはこれも場所によって異なるが、おおよそ50cmほどの厚さで堆積しており、その下に淡褐色の地山起源の土、さらに下に地山と思われる黄色の小粒の礫混じりの土となる(私の土層の解釈が正しければ、この堀方の深さは1m近くにもなる)。

 既に書いたことがある通り、この調査地は史跡斎宮跡の最高所である。一般的に高いところに残る遺構は削られることが多い。先の解釈にもうまく合う。果たして私自身が見分けられたかどうかは大いに疑問だが、或いはじっくり地面を観察すれば、この所で遺構が検出できたかも知れない。過ぎたことは悔やんでも仕方がない(もちろん非難するつもりなど毛頭ない)。今の状態からいかに古代の遺構に正確に迫れるかである。

 そこで多くの目が大切になるのである。私自身、30年以上発掘調査に携わっているが、大半は一人で調査をこなした。実に不安なままエイヤーと掘った時もある。そんな時、誰かと相談しながら、地層を確認しながら掘れたらどんなにいいかと思ったことは一度や二度ではない(もっともいざ二人でやるとたいてい激しいやりとりとなり、結局「権力」が勝つのだが・・・)。

 だから今回のような重要な遺跡に私も含めて3人もの調査経験者が参加するのは大変心強い。昨日もアーでもない、こうでもないと久しぶりに地面を前に議論をした。来週も朝からやらねばならない!これが素晴らしい遺跡への恩返しである。そして私を調査に参加させてくれた三重県立斎宮歴史博物館への恩返しでもある。頑張ろう!!そしてこのやりとりを学生が見聞きし、その大切さを実感してくれてこそ、この現場を授業に取り入れたことの最高の成果なのだが・・・。

(この二日間岡山大学での第1回歴史GISセミナーに参加していたためインターネットを開けることができなかった。その間に書いておいた斎宮での調査報告をまずしておく。セミナーは大変充実していた。この報告は今夜これから書いてみる。山田博士の「柏原陵への困難な挑戦」に一筋の光明が見えたような気がするので・・・。)

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斎宮「授業」報告-7  ようやく軌道に・・・世紀の発見の日はいつ?

2005-09-01 20:50:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 (現場近くに咲くケイトウの花?花を見るゆとりが出てきた?!)
 斎宮の発掘調査に参加して正味7日目となった。我が研究室の学生達もようやくペースがつかめてきたのか、少しずつゆっくりとではあるが車輪が回転しだしたようだ。

 午前中に問題の基準点測量を再測したところ、こちらには問題がないことが解り、ホッとした(しかしこのことの方が大問題かも知れないが今は原因不明としておこう)。並行して周辺地形のコンター図の作成を開始した。調査地の現在の地表面の標高は14mで安定しており、西端で急激に落ち込むことが明確になりつつある。



(何とか進み出した平板図)

 午後からは博物館学関係の授業の学生と共に、斎宮内を3時間にわたって歩き回った。こちらもくたびれたが学生はへとへとのようだった。それでも現金なものでいつも立ち寄る「いつきの宮体験館」横の無料休憩所でアイスクリームをおごるといっぺんに元気になった。今回これで2度目の斎宮巡りであるが(これまでにも何度か案内したことはあるのだが)、次第に遺跡の相互関係が頭の中に焼き付けられつつある。

 今回の大きな収穫の一つである。特に初めて、斎宮の載る段丘の下から周囲を回り西端の崖を見ながら、推定祓川渡河地点から斎宮域へと歩いてみた。
 歩きながら思ったことは「この崖の下に広がる平坦地には雑舎群が眠っているのではないか!」ということであった。



 (祓川の氾濫源。ここに木簡が眠る!!)

 これまで斎宮では木簡が出ないでないと言われ続けていた。確かに史跡指定地はやや周辺部よりは高く、発掘調査を実施しても検出される地層はほとんどが黒色の土で、地山は典型的な黄褐色を呈している。これでは木簡が捨てられていても腐植して残るはずがない。出ないのは当然であろう。
 さらに、長岡京期に史跡指定地南東部に方格地割が造営されるまでの斎宮は必ずしも一カ所に営まれたわけではなさそうで、となるといろいろな施設が発見できてもなかなかどの機能かを判断することが難しい。

 ところが、ひょっとしてこの渡河地点と段丘の間には何時も必要な機能-渡航のための架橋機関、斎宮へ水上交通路から物資を輸送した場合の物資保管機関等々、まさに都における宮外官衙的な実務機関がこの地域に集中している可能性があるのではないかと思ったのである。

 そんなことを夢想しながら現場での学生の作業を点検していた夕暮れ時、斎宮の生き字引、榎村さんが現場に来られた。私たちの所にも立ち寄られ、私たちが現在測量中の現場(西柵列推定地)辺りで、奈良時代の遺物に混じって、灰釉陶器が出土するという耳寄りな情報を教えて下さった。つまり平安時代には方格地割だけが利用されていたのではなく、さらに広範囲にその他の施設(住居を含む)が展開していたのである。

 「これはいける!!」と思わず手を打った。つまり方格地割はこれまでも指摘されているように、都で言えば「宮城」、斎王の居所(内院)と中心的官衙機構が集中するところなのである。当然これだけで全機能が収まったとは考えにくい。渡河、物資運搬、保管、場合によっては出入者のチェック機能等々、この低地におかれたとしても不思議ではないだろう。

 ならば、木簡はこの地にこそあり、良好な状態で遺存している!!これが本日の閃きである。またまたどこかから矢が飛んできそうな予感がするが、どうか忌憚のないご意見をいただきたい。
 なお、今日から、本格的に私たちの学生も発掘調査に参加することができた。ようやくそれらしき遺構も姿を覗かせつつある。調査はいよいよ佳境を迎えつつある。歴史的瞬間に立ち会える日もそう遠くないだろう。
 
 とにかく現場は暑いのです!!学生は無償で頑張っています。お立ち寄りの折は冷たい(ビールではなく)お茶を!!



(発掘調査はいよいよ本格化!乞うご期待!!)

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