yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

クーラーを使わない快適な暮らしの条

2011-06-29 15:45:41 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 過日の宣言通り、クーラーを使わない生活が着実に進んでいるのである。

 皆さん心配してくれるのである。

 「熱中症にならないように気をつけて下さいよ」とか、

 「時々はクーラーもつけてもいいんじゃないですか!」とか、

 「クーラーと扇風機を併用すると長時間クーラーを使わなくても涼しいですよ!」とか、

皆さんそれなりに工夫をなさっているのがよく判るのである。

 しかし、実行してみて判ったことは、やはりクーラーはよくない!!ということだけだった。

 実は授業の時はエアコンをつけている。つけないと学生がブーブー言うからである。さらに悪いことに、直ぐ隣で環境を破壊する建物?!「環境情報科学館」なる訳のわからない施設の工事が始まっていて、うるさくて、窓が開けられないのである。

 それでも室温は28度にしてあるから私には快適なのだが、学生は資料で仰いでいるのである。根性なしめ!!

 それ以外にも、今日は定期診断の日で大学病院に行ったのだが、ここは、ガンガンに効いているのである。そこで2時間も待たされてソファーで居眠りしながら仕事をしていたので、すっかり身体が冷えてしまったのである。

 そうしてやっと、部屋に帰って来たら、ナナナント、とってもいい風が入って来るではないか。学生共は研究室でエアコンをつけて勉強そしているのだが、私はつけていないからその温度差が酷いのである。もうちょっと温度を上げたら、と言うのだが、なかなか学生は言うことを聞かない。

 それにしても廊下中の窓を開け、部屋の窓を開け、しているとそこら中から風が入ってくるのである。
 かつて、発掘現場の木陰で過ごした夏の調査を思い出したのである。

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原発はもういらない-17 意地でもエアコンを使わないゾ!宣言の条

2011-06-28 15:22:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 大森俊輔君が亡くなって3年が過ぎました。

 2008年6月25日、二週間命の境をさまよった彼の魂は、残念なことにこの日の早朝逝ってしまいました。

 http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/m/200806

もうあれから3年か?と思います。今年は25日に千葉の歴博で研究報告をしなければならなかったので命日に参りすることができませんでした。やむなくお花をお送りし、今朝始発電車に乗って、新幹線名古屋経由でお墓のある尾張一宮まで行ってきました。

 おそらくご命日にお参りなさったのでしょう。ご家族のお花が飾ってありました。私も一宮の駅に花屋さんがあるので、そこで買って行こうと思っていたのですが、朝早すぎて開いていませんでした。残念!!

だから申し訳ないのですが、少ししおれたお花を片付けさせて頂いて、お墓の周りに咲いていた小さな雑草を二本華筒に入れておきました。

 昨夜買っておいた蝋燭がやけに元気がよくて、勢いよく炎を上げていました。まるで大森が歓迎してくれているようでした。お水を替え、線香を上げて、わずか10分足らずの滞在でした。この後授業があったもので直ぐに待たせておいたタクシーで駅にとって返しました。本当はお仏壇で手を合わせたかったのですが、朝早くからお伺いするのはご迷惑だと思い、ご家族には何も言わずに帰りました。



 もう三度目なので場所も覚えてしまった。


 大森よ!そっちは涼しいか?こっちは暑いぞ!!その上放射能まで降ってくる。ま、バカな日本人の最期をしっかり見ておいてくれ!!

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 ところでこの暑さ、何とかしたいのですが、どうしようもありません。

 原発を必要とさせるために「オール電化」を推進させる。
 
 オール電化のマンションや町は節電しようにもがんじがらめの罠ですることが難しい!

 こんな嘘のようなホントの話しが明らかになってきた。

 なりふり構わぬ経産省と電力会社、そして核武装を目論む連中の嘘ばかりで塗り込められた原発神話。そしてこの期に及んでも原発維持のために奔走する彼ら、その彼らに乗せられる愚かな政治家共。
 
 この猛暑は半端じゃなさそうだ。泣きっ面に蜂とはこのことあろう。

 外はとても歩けたものではない。だから今日も考古学実習は外での測量実習を断念して、土器実測、トレースの実習に切り替えた。

 しかし、そんな中、私の部屋は、エアコンを使わず、窓とドアーを開けて自然の風でなんとかしのいでいる。

 私の部屋は五階建ての五階にあるから屋根が熱せられて夏はとても熱いのである。その夏がもう来てしまったのである。だから本来ならエアコンをつけざるを得ないのである。しかし、この原発事件!意地でも原発の世話になんかなるものか!と心に決めたのである。原発分30%の電気を使わない行動。具体的行動を先週から始めた。

 1 昼間は室内電灯を使用しない。
 2 エアコンを使用しない。
 3 電話機の電源を切る(用事のある人は携帯に電話させる)。
 4 授業以外は短パン・Tシャツで過ごす。
 5 廊下の電灯を切る。


以上五箇条のご誓文である。

これによって、私の部屋が電気を使うのは、パソコンの充電時、約二時間、夜の室内灯約八時間、コーヒーミルの運転トータル約30分だけとなる。もちろんエアコンの消費電力が圧倒的に多いので、私の個人消費電力は確実に30%以上削減できることになった。
 
 
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原発はもういらない-16 低線量被曝こそ問題!!!の条

2011-06-21 12:12:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 引き続き守田さんのノートテークによる肥田先生のお話です。

 お話を読んで思うことは現代の医学ですら解明できない、このことほど恐ろしいことはない!!ということでしょう。

 そして、前回のお話しでも、今回のお話しからも判ることは、ヒロシマ・ナガサキへのアメリカ軍による原爆投下は、極めて残虐な人体実験だったということです。そして、今回の原発事故での対応でもって判ることは、今なお、その実験は続けられているということです。

 日米両政府は、共に組んで、表向き爆発はしなかったが、徐々に徐々に放射能汚染の広がる原発事故と原爆投下後のヒロシマ・ナガサキの入市者の被爆とを比較し、人体への影響の研究素材として利用しているのです。だからこそ、自国民には直ちに80キロ圏外(あるいは大阪)へ避難しろと指示し、日本政府には「直ちに人体に影響することはない」と言わせて日本人を材料として実験をしているのです。

 「直ちに」とは直ぐに症状が現れないというにすぎません。悲しいことですが、少なくとも後40年、50年と生きる可能性のある若者達は福島県を後にすべきです。

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 守田です。(20110619 19:30)

肥田先生のお話の続きを送ります。今回で完結です。

前回は、原爆が破裂した時のお話でした。広島上空に火の玉ができて、やがて黒い雲が広がるように襲ってきた話が、リアルにされていましたが、この8時15分という時間帯は、実は人々が出勤で動いたり、朝礼や体操で外に出るなど、広島市民が一番外に出ていることが確実な時間なのでした。

アメリカ軍はこの時間帯を狙って、原爆を投下したのです。もちろん、原爆の人への打撃力を確かめるためにです。このため、多くの人がもろに熱線と放射線を浴びてしまった。これらの人々は、治療のほどこしようがなく、次々と亡くなっていきました。
 しかしその後、長い間、先生が向かい合ったのは、「原爆ぶらぶら病」など、今にいたるもきちんと医学的に解明されたとはいえない、被ばく者たちの病、苦しみでした。低線量の内部被ばくの影響です。

 以下、肥田先生のお話を続けてお読みください。

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3 広島での医療活動とぶらぶら病
http://www.youtube.com/watch?v=vX11MKzs7Ug&feature=related

 私は小学校に行きました。道路と小学校の境がなくて、かなり大きな運動場の向こうに崩れ落ちた校舎がある。そこに立ってみると、大きな校庭で一目見て5000人ぐらいいる人間が、全部、横になって倒れている。たまに座っている人が何人かいました。
それで見ていると、頭が動いたり、手が動いたりしている。これは生きているいる人です。まったく動かなくなった人も見える。その中へ、頭の中で、俺は医者だと思っている人間が、聴診器もなくなって、素手で何もなしでそこで突っ立っている。どうしていいか分からない。

 そうしたらたまたまよその分院にいた軍医が、僕を含めて4人集まった。「どうするよ」「どうしようもないよ、これは」。でも広島中走り回ったって病院もなければ薬もない。ここでどうにかしようということになった。

 それでさすがに村長などがいるのですよ。集まっているのだけれど、どうしようもない。考えがつかない。ゴーっと言う音がして、何が広島に起こったか分からない。キノコ雲をみてませんからね。大きな風が吹いて、ゴーっといったら、村の家が壊れだした。村の人は家が心配だからそこで何かをやっていた。

 村の幹部だから、何軒の家が潰れたとか、人が死んだとか聞くし、何かをしなければならないのだけれど、何をしていいいか分からなくてうろうろしてちょうど私が帰ってきたので、「何とかしてつかあさい」と言う。私もどうしていいか分からないのですが「今、私は広島のそばまで行ったけれども、今からこの村に何万人か逃げて来るよ。あんたがたは嫌でも面倒をみなくてはならない。こんなところでおどおどしてないで、村の人を集めて迎える準備をしろ」と言いました。

 それから私が動かなくなった人のそばにいって確かめて、この人ダメと指示を出すと、村の人がついてきて担ぎ出すという仕事から始まった。これは残酷な仕事ですよ。そばに寝ているひとはね、軍医が来たと言うのが分かるから、とにかく痛みをとってくれとか、治療をしてほしいとか思ってみんな私を見る。本人は起き上がってこれないからね、寝たままに睨みつけるわけです。それを目をそらしながら、向こうにいる動かなくなったところにいって、脈をとったり聴診器をあてたりして、辛い思いをしました。

 こんな話だけをしていると終わってしまいますが、そういう状態が続いて3日目の朝に、四国や九州の軍隊から、軍医さんがおそらく全部の人数で200人ぐらい、看護婦をたくさん連れて、薬を持ってきました。私の村も患者が集まっていますから、そこへ27人の若い軍医さんが来てくれた。ところがこの連中は、僕と同い年が僕より若い人たちであまり臨床経験のない人たちだった。

 連れてきた看護婦は100人ぐらいでしたから、それが村に散って、症状の重い人を見つけては、大きな声で軍医を呼ぶのですね。「軍医どの熱が出てます」と言って持ってきた体温計で測ると39度とか40度とか出ている。こんな熱は、広島ではチフスかマラリアしかみたことがない。

 広島はチフスの有名な伝染地なのです。生ガキをだべるので。あれで伝染するのです。なのでチフスと聞くとぞっとするのです。ここにもしチフスが感染すると全滅ですから。だから新しく来た人に飛んでいって欲しいのですが、この人たちはチフスをしらないから、結局、僕が飛んでいくのです。それでチフスじゃと思ってみますと、チフスではなさそうなのだけれども、症状が、まったくみたことのないものなのです。

 熱が出ている。普通のときには絶対に出血することのない瞼から血がだらだら、
だらだら垂れる。顔をやけどしているのですよ。でも目の中はやけどをしているはずがないし、見てもやけどをしていないのに、目の粘膜から血が出る。鼻から出る、口から出る。熱を出した患者が出血をして寝ているわけです。

 熱が出ているなら扁桃腺が腫れているだろうと、口の中を見ます。指を入れてあけさせて覗き込んで見る。普通口の中は、桃色か赤い色ですね。ところがその人は真っ黒で、口の中の粘膜が腐っているのです。扁桃腺も真っ黒になっている。第一、顔を向けてじっとしていられないぐらい臭いのです。腐敗していますから。そんな症状は今まで見たことが無い。

 それでああだこうだやっているうちに、やけどをしていないきれいな肌が残っています。そこに紫色の斑点が出て来る。これは臨床経験の深い医者だと心臓の病気で、死ぬときにあらわれることが分かります。他の病気ではどんなに重症になってもこれは出ないですね。心臓の重症の病気では死ぬ前に必ず出るんです。死斑という。これを見たことがある医者はそうないないのですね。知っている医者が見れば分かるけれど、知らない医者が見れば、何のことか分からない。そんな風に変わった症状で死んでいく。最後に頭の毛が抜ける。

 みなさんも抜け毛の経験はあるでしょうが、手で触ったら、触ったところが全部抜け
てしまう経験はないと思います。大勢の人が手で頭をなでるとそのまま毛が抜けてしまう。あと1時間も生きてないだろうという重症の女の人が、息を振り絞るような声を出して「私の毛が」と泣きだすのですよ。僕は女の人にとって、死ぬ間際まで、自分の毛が無くなることがあんなに悲しいことだということを、始めて知りました。

 つまり普段僕らが見たことが無い、出血と、脱毛と、高熱と、死斑と、口の中が腐ると、そういう症状が5つ揃うと、死んでしまう。こんなことは生まれてから見たことがない。教科書にも載っていない。初めてあそこで経験したことなのです。原因ももちろん分からない。2,3日して原子爆弾ということは聞きました。しかし原爆がどのようなものか分からない。そういうことで当日から、原因が分かるまで、30年間かかった。


 東京へ帰って、東京に来た被ばく者を診て、埼玉にいって、関東平野からお金があってこれるような人は、みんないっぺんは僕のところへ来るのです。あそこに行けば、話をしてくれると。よそへいっても何も分からないからそんなことは関係ない。今、お前は血圧が高いからそれを診るというような話になってしまう。

原爆の時から、広島の時から話を聞いてくれて、分かるように説明してくれるお医者さんがいるということで、長野や新潟、群馬、宇都宮、千葉、神奈川、東京から毎日、毎日、一杯来ました。その説明だけで嫌になっちゃってね。そんな仕事をしてきたのです。

最初にこの病気が何かということを教えてくれたのは、アメリカで世界的に有名なスタングラスというピッツバークという町の大学の放射線科の医者でした。これは、ちょうど1950年頃から、核実験をうんと始めたのです。核実験で放射性物質があがり、これが雨に含まれると黒い雨になるのですね。それでみんな逃げる。当たると病気になる。広島の経験上、それは知られていた。ところが雨の粒にならない埃だけの放射能は目に見えない。それを吸い込んで病気が起こる。埃を吸ったと言うのは誰も気がつかない。

アメリカの兵隊が核実験で爆発させると、・・・アメリカの国は本当に残虐な国だと思うのだけれど、自分の大事な兵隊を試験場の周りに塹壕を掘ってその中に待たしておく。そして爆発して大きな火の玉が出来て、大変な状態がおこって、しばらくすると降ってくるじゃないですか。

周りで見ている人間には、放射線はすぐにやってくる。何もないのでね。あとは上から黒い雨は降らないで、埃だけが落ちて来る。その事態になると、今度の爆弾は、爆発後、戦場で何分後に影響を受けるか、あるいは突撃ができるかということを、生身の人間を使って実験したのです。

それに使われた兵隊こそ、本当に迷惑ですよね。目をつぶっていろ、後ろを向いていろ、鼻をつまんで息を止めていろ。それでOKと言ったら目をあけてよろしいと。それで演習場の放射能の中へ突撃したりした。みんな被ばくですよね。


4 医者がわからない「ぶらぶら病」
http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&NR=1

広島・長崎の被ばく者が、同じように、直撃を受けないで、後に出たものを吸いこんで出てきた病気が、ぶらぶら病という病気なのです。ぶらぶら病という名まえは医者がつけた名前ではない。これは家族がつけた名まえなのです。見たところ、何でもない。

「とうちゃん、働いてよ」。それじゃあというので、つるはしをふるい出したら、30分ともたない。「俺はもうとてもかったるくて、生きてられない。先に帰るからな」と先に帰って、座敷に寝てしまっている。そういうことが続くから、家族や本家のものが、あいつは広島にいって怠け者になって帰ったんだ、医者に診せろということで、診るけれども病気らしい兆候は何もない。本人がかったるくて動けないというだけなのです。

それで怠け病というのは具合が悪いから、ぶらぶらしているからぶらぶら病ということになって、これが広島・長崎を中心にますます広がって、僕らにも聞こえてくるのです。

僕の場合、一番驚いたのは、だるいというのは自分も経験があるから、その点のだるさは分かるわけです。ところが初めてきた患者が、受付では黙ってしまって言わないのです。被ばく者は差別されていますから。ところが僕の前にくると「広島におられた肥田先生ですか」と聞くのです。「そうだ」というと、安心して、「私も広島にいた被ばく者です」と、初めて言うのですよ。

初めて来た患者が、どうしてきたのと聞くと、かったるくて動けないというのです。それでどんな医者に診てもらったのとか聞いているうちに、この男が先生ごめんなさいといって、私の机の上で頬杖を突きだした。失礼ですよね。えっと思っていたら、椅子から床へ降りてあぐらをかく。

ごめんなさい。椅子に座っていられませんといって、そのうち横になってしまう。こういう形でしか私は起きていられないのですというのです。「そんなにだるいの」というと「そうなんです」という。それで初めて僕はぶらぶら病の患者のだるさという程度が分かったね。初めてこれはただことではないと思いました。

広島にいたときも、戸坂(へさか)村の避難所がやがて閉鎖になりました。学校も始まるし。それがちょうど12月の半ばだった。村の人は悪いけれど、病院のお医者さんと患者さんでどこかへ行ってくれというのです。どこかへ行ってくれといっても、広島の中は何にもない。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、行くところがなくて困っている。どこでもいいからこれだけの人数が入れて、病院の仕事ができるところを手配してくれと。

それで初めて山口県の柳井という市の郊外にある古い軍隊の建物をもらって、私たちは100人を連れて行った。とことが山口県に逃げていた被ばく者が何万人もいて、国立病院ができたっていうんで皆くるわけだ。たちまち満員になってしまってね。

医者がたった6人か7人のところに3000人から4000人が来て、まだできていませんといったって、勝手に布団を持ってきて、横になっちゃう。暖房がないから、そこら辺の農家から七輪をもらってきて、そこら辺の古材をもってきちゃ、病室の中でたき火をしている。ボウボウ火の出るね。

そういうところで僕が仕事をしていたら、ぶらぶら病が入院してきて、そのまま寝たきりになってしまう。すると朝から晩まで看護婦がいかなけりゃならない。人手は取られるし治療法は分からないし、それで翌朝になって、看護婦が行ってみたら、死んでましたということになる。そういうのを何例も診て、一体何の病気なのかということが30年間、私の頭の中にあった。


東京に出てきてから、東大の先生とか、大学の教授に患者を送ったりして教えて欲しいと言っても、まともな返事をくれた人は一人もいない。本当なら、こういう病気は私は診たことがない。申し訳ないけれど私には分かりませんというのが、一番、正直なのですね。そう書いて欲しかった。

ところが自分の経験ではこれは病気ではないということが帰ってくる。こんな乱暴な話がありますか。自分の知らない病気はこの世の中には一つもない。あるいは全部俺は知っているというのが大学教授なのですよ。

もう腹が立ってね。お前は人間なのかと思いましたよ。実際に苦しい人間を紹介状をつけて、お金もかかって、ムリムリで家族が病院まで連れていくわけじゃない。それで何時間も診てもらって、やっとこさ診てもらったら、病気じゃありませんなんて、とんでもない話です。だから私は偉い先生は、ぜんぜん信用しないのです。

そういう人間が何人もいるわけだ。僕はその先生からもらった、病気じゃありませんという診断書をとってありますよ。生きていたら持っていって、お前、こんなことを言ったのだぞと言ってやりたい。まあ、生きている人は一人もいませんけれども。今生きていたら100歳以上ですので。

まあそういうわけで、アメリカに行って、なぜアメリカに行ったのかというと、国連に訴えに行こうということになって、昭和50年、1975年に日本の国民代表団が、アメリカとソ連、あるいはよその国の、核実験をやめて欲しいと、その署名を集めて国連に行ったのです。世界中の医者を集めて、日本でシンポジウムを開いて、日本の医者にどうしたらいいか教えてくれという要請状を持って、私が日本の医者の代表となって行ったわけだ。

最後に話を聞いた国連の事務総長が、日本の代表団の要求はよく分かっすぐに国連の会議にかけたい。しかし残念ながら、ドクター肥田の出されたシンポジウムの要求は受け取るわけにはいかないと断られた。

びっくりして理由はと聞いたら、私が行ったのが1975年、その7年前にアメリカ政府と日本政府が、合同で、広島・長崎の医学的影響についてというものを、23年目に初めて出した。

これは全部、アメリカのABCC(広島原爆傷害調査委員会)が作った資料だった。広島でアメリカが来て治療をするらしいということで、みんなおしかけるじゃない。中には大八車に乗っていった人もいる。そうしたらどこで被ばくしたと聞かれて、では爆心地から2.5キロだとかいう話を聞いて、直接頭から浴びた人は中に入れるわけです。

遠くの方で、翌日入りましたとか、午後に市内に入ったとか聞くと、ここはそういう方たちは扱わないのですということで帰されてしまう。だから彼らは内部被ばくの問題はぜんぜん診てないのです。だから遺伝の問題にしろ何にしろ、何にも報告書を出していない。

アメリカが世界に発表するものは、全部、このアメリカのABCCがやった実験のデータばかりなのです。世界中の人が、これが原爆の被害だと思っているのは、ほとんど頭から直接浴びた人たち。僕らから言わせるとほとんど即死した人たちの症状なのです。

それをもってこれが世界の人が初めて受けた核兵器の被害なのですということになっているので、どこの国の医師会も医学界もそれを金科玉条にして勉強している。日本の医者の報告はぜんぜん向こうに渡らない。だから私が向こうにいって、何人かの医者と話をすると、みんなびっくりするのです。どうしてお前のところの政府は、そういうことをやらないのか。

占領されている間はそういうことができなかったし、今、安保条約で日本の政府は何一つ自由にできないんだ。特に核に関することは全部アメリカのご承知をいただくという仕組みになっていると話をするとびっくりするね、みんな。

それを私は、国の数にすると17ぐらい。同じ国で何度も行っているところもありますから、ドイツとフランスと英国と、この国はだいぶ、政府のところまで私の話が通っているし、私が入っている映画とかそういうものが世界中に回っていますから。

そういう点では、うるさいとは思いましたけど外国のテレビが来て、インタビューして私の話をビデオにして持って帰って、一番世界で信用のある英国のBBCという放送局が作った私の番組が何カ国語にも訳されて、世界中で上映して歩いているね。


今、言っているのは「当面は心配ない」ということですね。ウソじゃない。確かに当面は心配はない。だけど本当は何十年先のことは分かりませんよと言わなくてはいけないのだけれど、そこを言うとみんな分かってしまうから、言わなくてね。

だから後、一か月もたつと、この辺もかなり放射線が、普通よりは高まります。今、100ミリシーベルトとか、1000ミリシーベルトとか言ってますね。1ミリシーベルトなんてのは、なめたっていいんだと言うような感覚ですよね。僕らから言わせると1ミリシーベルトがみなさんの幸不幸の分かれ目になるのです。

以上

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原発はもういらない-15 肥田舜太郎先生のご講演からの条

2011-06-20 23:09:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 原爆被爆者であり、被爆者医療に長く携わり、特に低線量被爆の脅威を訴え続けておられる肥田舜太郎先生の講演をいつもの守田さんがノートテークして下さりました。長いので二回に分けて紹介します。
You-Tubeに先生の講演の生の姿も紹介されています。是非合わせてご覧下さい。

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 守田です。(20110619 10:30)

 311以降、福島第一原発で起こっていることをウォッチし、隠された危機をできるだけ多くの人に伝えようと活動してきましたが、その中で、現在起こっている事故の実相が隠されているだけでなく、放射線被曝の恐ろしさもまた隠されていること、とくに内部被曝が非常に過小評価されていることを、今更ながら、実感を持って認識するようになりました。

 それで僕は、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」との対決を、志すようになりましたが、このキャンペーンの出所を探っているうちに、それが放射線影響研究所などによって流布されていることが見えてきました。それでこの研究所のことを調べていくと、それがアメリカ軍の、原爆傷害調査委員会(ABCC)を前身とする組織であり、結局この問題の背後には、アメリカによる核兵器戦略の推進、そのための非人道性の隠ぺいという政策が色濃く横たわっていること、それに日本政府が協力してきたことが見えてきました。

 その頃、天の引き合わせと言うべきか、僕は次々と、被曝二世、三世の方たちとお会いするようになりました。その中には、お父さんが、原爆投下後の入市被ばく=内部被ばくによって、その後に発病されて亡くなった方々もいました。また胎内被ばくをされた方、自らが、僕のブログに、「原爆ぶらぶら病」というご自身が患わってきた病の苦しさ、恐ろしさを投稿しても下さいました。

 僕にはそうした連続の中で、無念の内に亡くなられた被ばく者の方々からのメッセージが届けられているように感じました。「私たちのこの悲しい体験を、明日に向けてつないで欲しい」というメッセージです。

その中で僕は、この問題を研究して来られた方を探し、今も福島にも赴いて内部被ばくの恐ろしさを説いている矢ヶ崎克馬先生の本に出会い、さらに自ら被爆医師として、被ばく者6000名を診察され、まさに第一人者として内部被ばく問題を研究・追及して来られた肥田舜太郎先生の書物と出会って、深い感銘を受けました。

これらから、僕の探究の方向性が間違ってはいないという確信を得ると同時に、戦後65年以上もたって、このことがこの国に住まう私たちの常識となってはいないこと、その上に、常に被ばく労働の上にたち、放射線被ばくを必然化させてきた原子力発電の容認があったことを、痛感するようになりました。

このため、今後、この紙面などを通じながら、僕はこの問題をより深く探求し、多くの方に伝えていきたいと思っています。ここに原発問題、あるいは被曝問題を考える上での一つの核心があると思うからです。

そのための試みとして、今回は、2011年3月19日に行われた、肥田舜太郎先生の講演を、動画からノートテークしたものをみなさんに紹介したいと思います。長いので、2回にわけて掲載します。

ぜひお読みください。そして再度、広島・長崎原爆から、被ばくの問題を一緒に考えていただけたらと思います。

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被ばく医師・肥田舜太郎氏講演
「大人たちのつくった世界」―低線量被曝とぶらぶら病
2011年3月19日

http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=player_embedded#at=39

http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&feature=related


当該ビデオに掲載された肥田舜太郎氏のプロフィール
1917年広島市生まれ。1945年8月6日 原爆被爆。
直後から被曝者救援・治療にあたる。2009年引退まで、被曝者の診察を続ける。被爆医師として被爆の実態を世界各地で語りつぐ。アメリカの低線量放射線被曝に関する研究書等を翻訳、普及につとめ内部被曝の脅威を訴え続ける。


1 ヒロシマ原爆体験
http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=related

肥田瞬太郎という広島で被ばくした医師です。

28歳の時に、現役の軍医として広島の陸軍病院に赴任しました。
ちょうど原爆の落ちる一年前の昭和19年8月でした。

もう軍隊の中で勝てると思っている者はひとりもいませんでした。
中国から帰ってくる兵士からの話でもそれは分かりました。

広島は不思議なことに、米軍機はくるのに不思議なことに一発も爆弾を起さない。そんな状態でした。飛行機がきてもよそに落としていくというそんな状態でした。8月6日に原爆が落とされました。

被ばく者の方は、原爆が落とされた時の惨状はお話されます。惨憺たる地獄についてはお話になります。でもなぜ広島や長崎が選ばれたのかとか、その後被ばく者はどのような立場に置かれたのかについては、自分の知識しかなくて全体的にお話ができる被ばく者の方はいません。

私は原爆にやられて死んで行く人を治療して、大変なことになったと思っていましたが、本当にこれは人類にとって二度と許してはならないことだと思うようになったのは、30年、40年経ってからでした。

本人が被ばくをしなかったのに、たまたま警察官をしていて動員されて、翌日、広島に入って、火の中でいろいろと救援活動をやった。ところが警察官の仕事に戻ったころから、身体の調子が悪くなって、お医者さんにかかっても、どこも悪くないと言われているうちに、寝たきりになってしまって、どんな先生に罹っても、病気が分からない。それで死んでいってしまった。

死亡診断書の書きようがない。お医者さんの方も原因が分からず、最後は心臓が弱ったということで、急性心不全ということで、役場で扱ってもらっていました。私は、半年ぐらいまでは、強引に原爆症という病名をつけました。しかし役場がこの病気は国際的に登録されてないという。国の法律としてこれを受け取るわけにいかないから、法律の中にある病名を書いてくれといいます。間違いないといくら言ってもダメなのです。

直接、原爆を受けないで、翌日、三日後、一週間後ぐらいに市内に入って、そして今の医学では分からない病気になって、失業するし、仕事にもつけないし学校にもいけない、結婚もできないというような不幸を受けた被ばく者の人にとくに私は意識的に対応してきました。

そういう意味で、アメリカの占領軍のもとでは、そうしたことを言っただけでとっつかまります。私は三度つかまっています。それでも救援活動をしました。その後に、1952年にサンフランシスコ条約で日本が独立をして、日本の総理大臣が国を治めるようになりましたが、中味は安保条約があり、結局、日本人の総理大臣が日本人のために政治を行うことは未だにできていません。大事な問題は、全部、アメリカの承認を受けると言う状態が今でも続いています。

そのおかげで、広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密になってしまいまいた。ですからこれだけ時間がたって、原発でどうしようもないことになっているけれども、何をどうするかという問題について、自由にできない。こと放射線に関する問題は、日本人は何の自由もない。

直後から、日本の医学会や医師会は、放射能に関することは言ってはいけない、研究してはいけないことになっていました。日本の医者や学者は全部アメリカの言うことを、アメリカにいって学んできて、それが放射線問題だと思いこんでいます。

だから被ばく者の側から何を言っても、その人の病気があのときの放射線の影響だと言おうものなら、学校は首になる。そのため日本の先生方は、何も言いませんでした。自分の出世に差し支えますから。

私はそれで首になった人をたくさん知っています。みんな涙を飲んでくびになった。広島であのときに一緒に被ばく者を観た同年輩の医師は、もうみんな死ぬか寝たきりになって、日本全国でこんなところに出てきて話をする医師は、もう私一人になっていると思います。そういう意味で、今日は、みなさんにとって、二度と他の人からは聞けないお話をしています。


頭の上で爆発して、地上の人間で即死した人は、公には広島では7万人ぐらいと言われています。

私はその日の朝、午前2時ぐらいに、戸坂(へさか)村という、広島から真北へ6キロ行った村から、孫娘の往診を頼まれました。おじいさんが一人留守番をして孫娘がいて、お父さんは戦死していない。奥さんは病気で里に帰っている。おばあさんは死んでいて、おじいさんが一人で6歳の孫娘を見ている農家でした。そのおじいさんが昔から少し知っている人だったので、自転車で病院まで来て、発作が起こっているから来てくれと言う。今なら救急車で病院に行くような症状ですけれども、当時は車がないし、救急体制もありません。ところがその時はお酒をずいぶん飲んでいて、自転車の後ろに乗っているとおっこちてしまうのです。それでおじいちゃんが自転車の後ろに私を乗せて、私を自分の身体に縛りつけて、自転車で運んでいきました。

そんな状態でも、何か治療をやったのですよ。そうしたら発作が治まった。それで布団を敷いてもらって、夜明けに帰ろうと思って寝ていました。

翌日、寝坊しました。あの爆弾が爆発したのは8時15分なのです。私は7時に起きて病院に行くつもりだったのですが、目を覚ましたのが8時だった。それで軍装して、でがけにもう一度診察しようと、女の子に聴診器をあてました。もし私がいなくなって、不安になると発作が起きますから、寝かしておこうと思って、睡眠剤を注射器にとって注射しようとした。ちょうどその頃に上空に飛行機が入ってきました。当時のアメリカのB29という一番大きな爆撃機でした。日本の飛行機は1000メートルもあがれなかったので向こうは来放題でした。


2 1945年8月6日に見たもの
http://www.youtube.com/watch?v=Ck4h9AwyNxM&feature=related

広島での長崎でも被爆した人はみな目がくらんだといいますが、私もそのとき目がくらみました。田舎の6キロも離れた農村の何にもない大空の下で目がくらんで、目を開いてみても金色になってしまって何も見えない。それでおかしいなと思って、早く注射しようと思って、またもう一回、注射器を構えました。でも何が起こったのか気になる。それでまたみようとしました。

この話をできるのは、おそらくもう広島でも長崎でも僕一人だと思うのですが、何にもない大空なのですね。そしてちょうど広島の上空に当たるところにまあるい火の輪ができたのです。かなり大きな真っ赤な火の輪です。

その真中に白い雲の塊が、ぽこっと浮いて、どんどん広がって、それが最初に広がった火の輪にくっついたなと思ったら、それがそのまま真っ赤な火の玉になりました。

これを火球と書きますね。直径が700メートルぐらいですね。火の玉です。それを遠くから見ると、目の前に太陽ができたみたいなのですね。そんなすごいものができて、口を開けてみていたのですけれども、玉の上の方がだんだん膨れて、白い雲になって、赤い玉の上からどんどん登るのですよ。

下の方はちょうど広島の方をみると、ちょうど私から見る方向に横に長い岡のような山があって、その向こうが広島なのですけれども、ちょうど広島市の幅ぐらいの火柱がたった。そして上は凄い雲になって、もくもく、もくもくとなって、圏外にまでいきそうでした。

私は生まれて初めてみるので、怖いのですよね。非常に怖くて、農家の縁側に腰をついたまま、ぼやっとみていました。そうしたら一番下の山の瀬の向こうから、真っ黒な横に長い雲が、ぐっと顔を出した。それが山を越えて、なだれ落ちる。落ちたところには太田川があり、周りに家があるのですが、そこに山の上から雲が
ざあっと流れ落ちるのです。

私から見ていると、自分の視野の向こうに、黒い雲の帯ができて、目の前の山の瀬から崩れ落ちて来るのが見えるわけです。それで渦を巻きながら、私の方に走ってくるわけです。こちらでみているともうくる、もうくると思うようなスピードで、
渦を巻いてくる。

それですぐに私がいた村の前に小さな小山があったのですが、その向こうから顔を出してきた。黄色い泡にも見えるし、黒くも見えるし、わけがわからないのです。私がいた家は村の高いところに、一軒立っていたのですが、まともにそこに真正面から来るわけです。村の端に小学校がありました。木造の2階建でしたが、そのかわら屋根が私の見ている前に舞い上がりました。それを見ている間に私のところに来てしまい、黄色い雲なのか煙なのかそれがバーっと来て、そのまま後ろに飛ばされました。

不思議なものでそのときのことをよく覚えていて、後ろ向きに天井の方に飛んでいきながら、天井の襞を見ているのですね。ああ、天井だなと。そのまま藁ぶきの屋根の天井が吹きあげられて、青空を見たまで覚えているのです。

それで突きあたりの壁に運悪く仏壇があって、そこにガシャンとたたきつけられて、そこに上から屋根が落ちてきます。まず藁ぶき屋根の泥が落ちてきました。それがどんどん落ちてきて家がつぶれてしまい、子どもと一緒に埋まってしまった。農家の家は丈夫なので、完全には潰れないのですが、屋根の泥がみんな落ちて、私はその中に埋まってしまいまいた。

気が付いて、とにかく一生懸命動き出して、逃げることを考えました。途中で、赤ん坊がいたと思いだして、私のすぐ前に泥の山がありましてそこに赤ん坊が埋まっている。花模様の布団の端がみえて、それを無理やりつかんでひっぱったら一緒に赤ん坊が転がり出てきた。

それを確かめる間もなく小脇に抱えて、表に出ました。それで泥をはたいて出まして、聴診器がどこかにいってしまってないものだから、耳の穴の泥をとって、女の子の左の胸にあてたら、元気な音がしていた。

私はとにかく病院に帰られなければならない。自分の任務を無断で離れていて、病院の開院時間が近い。だからすぐに行かなければと思い、おじいさんに大きな声で、赤ん坊はここにいるよ、大丈夫だからねと叫んで、自転車にまたがって、キノコ雲の方に走り出しました。

そのときの気持ちは、本当は後ろ向きに走りたかった。おっかないところにいかなくてはならない。しょうがない。もう一生懸命に走りました。

すると瀕死の重傷者がたくさん来るわけです。ちょっと「申し訳ない、私は広島に行かなくてはならない」とは言えたものではないですよね。これはとても広島には行けないと、道をあきらめて太田川に飛び込んで、川の淵を腰までつかりながら、広島に歩いて行って、病院の500メートルぐらい手前まで歩いて行って、そこからあがって市内に入ればすぐに病院だというところまで来ました。

ところが土手のあがるところまで寄って行って、あがろうと思ったら、その上に建っている家が燃えている最中だった。その燃えている火の中から、今、焼けたばかりの人が、白い肌を見せながら、川の中に飛び降りて来る。だから僕が上がろうと思ったら、目の前から人が飛び込んできて、川に落ちるわけです。落ちてジャバンと入って、そのまま流れていったり、立ち上がって歩きだしたりする。

だいたいの人は、私のあがろうとする岸から、川の中に逃げて来る。まだ元気な人は歩きだしますが、そのまま死んでしまう人もいる。だからそこに死体が重なっていく。後から後からそこに飛び込んできて、私は何をしていいか分からないわけです。行こうにも火があるし。そこにどうしたらいいか分からずに、30分ぐらいいたと思うのです。その人たちに申し訳ないといって後ろを向くわけにもいかない。

そうしたら死体が流れてきて、私の腰にボンと当たるのです。ふっとみると、女の人で、顔も焼けているし、おっぱいも焼けている。上を向いて、髪の毛が流れている。わあっと思っていると、身体がまわって流れていく。それで気がつくと、川の中にも死体が流れている。いっぱい流れていく。

小さな子どももいるのです。それを見たときは、私は生きている心地がしませんでした。残虐の極みですから。それで最後に決心をして、見ている人たちに手を合わせて、私は村へ帰りました。

結局、道を通れませんから、川を遡って村へ戻りました。3時間ぐらいかかって村に戻ってあがったら、もう村の中はそういう人でいっぱいになっていた。村の家も飛んでいるか、傾いているか、どの家もまともなものは一軒もないです。だから血だらけになって来た人が、家にあがることができない。

結局、その近所の空き地だとか、林の中の光をさえぎるところでみんな横になっちゃった。最初にそういうところで横になっちゃうから、後から来る人がそういう人の上を這い上って、奥へ奥へと入って行く。


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 これでも本当に原子力は必要ですか?

 真剣に取り組みましょうよ。原発、原子力、核兵器の廃絶を!!

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原発はもういらない-14 官僚に踊らされる政治家なんて全員クビ!の条

2011-06-20 05:01:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 官僚とは国家運営の細部を支えるために創出された職業・地位なのだが、今の日本国は完全に官僚が政治家を踊らせているとしか言いようがない。もっとも国会議員にしろ、県知事にしろ数多くが元官僚なのだから、こうした出自を持つ政治家に官僚を超えることなどできるはずもないのではあるが・・・。そして残りが政治家一家と言うからこれではいい政治家が出てくるはずもない。

 海江田万里、ま、元々大した政治家だとは思っていないのだが、ここまで官僚の意のままに動かされる政治家とは思ってもいなかった。

 おそらく、経産省が今原発政策を転換したら、仕事がなくなるに違いない!!要するに自分達の就職先がなくなるという危機感があるから、必死でこれを食い止めようとしているのである。だからこのまま原発の運転が再開できないとなると自分達の死活問題なのである。彼らが必死で原発再開を画策する本当の背景はここにあると思う。官僚は超エリートである。自分達は東大を出て役所に入り、日本を動かす黒幕だと認識している。東大に入るのはその他の人間とは違う「エリート」であると心底信じているのである。だから!彼らは国民を上から目線でしか見ていない。
 その延長線上に世襲議員もいる。表向きはへいこらしているが、後ろ向いて舌を出していること見え見えだ。なぜ?そりゃお坊ちゃま育ちで、大して頭もよくなく、自分達の豊富?(但し偏った)知識量をもってすればこんな政治家を翻弄すること等朝飯前なのである。

 私も小さな町で役人をしていたことがある。管理職になると議会に出て答弁しなければならないか答弁書を書かねばならない。所詮市会議員の調査力なんて知れたものである。あれこれあれこれ法律を出せば彼らは分析能力の限界を超える。だからのらりくらりのらりくらりとアーでもない、こうでもないと答弁するか答弁書を書くのである。もちろん少数党の議員さんに限って鋭い質問をしてこられるのだが、答弁側はこうした相手はほとんど眼中にないのである。だから少々論理的に負けていても力で押し切る(無視する)のである。

 
 もちろん田舎の市なんかとは比べものにならないのだが、国会も似た様なものである。

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1 原発事故:定検で停止中の原発、政府が再稼働促す
記者会見する海江田万里経産相=東京都千代田区の同省で2011年6月18日、西本勝撮影
記者会見する海江田万里経産相=東京都千代田区の同省で2011年6月18日、西本勝撮影

 海江田万里経済産業相は18日、東京電力福島第1原発事故のような設計基準を上回るシビアアクシデント(過酷事故)対策について、各原発への立ち入り検査などを実施した結果、「水素爆発などへの措置は適切に実施されている」と評価した結果を公表した。海江田経産相は「これにより、運転停止中の原発についても再稼働は可能」との見解を示した。しかし、原発立地の自治体では慎重姿勢が強く、定期検査などで停止している原発の再稼働までには時間がかかる見通しだ。海江田経産相は結果の説明と再稼働要請のため、来週末にも立地自治体を訪問する方針を明らかにした。

 調査は原子力安全・保安院が7日、電力会社など11事業者に対し、(1)原発の中央制御室の作業環境の確保(2)停電時の原発構内での通信手段の確保(3)放射線管理のための体制整備(4)水素爆発の防止対策(5)がれき撤去の重機配備--の5項目について状況を報告するよう指示。さらに各原発への立ち入り検査を実施した。

 この結果、中央制御室の作業環境については震災後に各電力会社が非常用電源などを確保しており、保安院は「必要な電源が確保されている」と評価。福島第1原発1~3号機で発生した水素爆発についても、沸騰水型軽水炉については、建屋上部での水素滞留を防ぐために建屋に穴をあけるドリルなどが配備された。さらに水素を建屋外に逃がすベント装置の設置計画も進んでいると判断した。

 国内の商業用原発54基のうち、37基は定期検査や東日本大震災の被災などで停止している(調整運転を含む)。17基は営業運転を続けているが、うち5基前後が8月末までに定期検査に入るため、電力需給の逼迫(ひっぱく)が懸念されている。海江田経産相は記者会見で「電力供給の不安、コストの上昇は国内投資への抑制、日本企業の海外への回避を呼び起こし、産業の空洞化を招く恐れがある」と強調。「原発の再稼働をぜひお願いしたい。私が直接地元に出向いて説明する」と述べた。【中西拓司、野原大輔】
 ◇「住民、納得しない」 福島で当惑の声

 東京電力福島第1原発事故の収束が見通せない中で18日、海江田万里経済産業相が各地の原発の安全対策の確認を発表、定期検査で止まっていた原発については再稼働を促した。「本当に安全が確認できたのか」「時期尚早だ」。原発事故などで2万人にも及ぶ避難者を出し、今も被害に苦しむ地元・福島では怒りや当惑が広がった。

 自宅が警戒区域にある浪江町川添の松本幸子さん(27)は県内外で7カ所の避難所を転々とし、現在は新潟県柏崎市の民宿に身を寄せている。大熊町の勤め先は営業の見通しが立たず解雇されたが、その後も住居が定まらないため、職探しもままならない状態だという。松本さんは「福島第1原発も絶対安全だと言われて安心していたが、事故が起きてからはもう信用できない」と話した。

 福島県内では10基ある原発のうち、福島第1の5・6号機と第2の1~4号機が冷温停止中だ。これらについて佐藤雄平知事は4月以降「再稼働はあり得ない」と明言し続けている。第2原発が立地する楢葉町の猪狩克栄・企画課長は「まずは原発事故を収束させるべきだ。地震にも津波にも対応した安全対策を国が十分に説明できるとは思えない」と疑問を投げかけ、「夏場の電力不足を心配してのことだと思うが、立地自治体の住民も納得しないのではないか」と話した。

 福島第1原発事故で全域が計画的避難区域になった飯舘村の菅野典雄村長は「国を信用できないわけではないが、原発の再稼働は国の判断だけではだめ。地元の人たちの十分な合意が必要だ」と話した。

 津波の被害を受け運転を停止したものの、深刻な事故を免れた東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)。女川町の鮮魚店経営、佐藤圭一さん(54)は「電力会社は過去に何度かトラブル隠しを起こしており、国や町がきちんと批判できる体制を作らなければ不安は消えない。まず仲間意識を断ってほしい」と注文をつけた。その上で「廃炉にすれば職に困る人がたくさん生まれるので、本当に安全が確認できるのならば反対はしない」と複雑な思いを語った。【金寿英、松本惇、種市房子、津久井達】
 ◇宮城県知事は「一定の理解」

 宮城県の村井嘉浩知事は18日午前、運転停止中の原発について海江田万里経済産業相が「再稼働は可能」との見解を示したのを受け、東京都内で記者団に「日本全国で電力が不足する状況で、国がそのような考え方を示したことには一定の理解はできる」と語った。ただ、東日本大震災後に停止中の女川原発(宮城県女川町、石巻市)については「東北電力から何も聞いていないのでコメントできない」と述べるにとどめた。【中井正裕】
 ◇橋下知事「経産相が原発周辺に住めばよい」

 大阪府の橋下徹知事は18日、海江田経産相の発言に「時期尚早だ。海江田経産相や経産省のみなさんが原発の周辺に住めばよい」と批判。「福島第1原発事故を収拾できていない政府が、安全を言うのはどういう思考回路なのか」と述べた。

 5日間のインドネシア出張を終え、関西国際空港に帰国し、記者団に明らかにした。【堀文彦】

毎日新聞 2011年6月18日 11時44分(最終更新 6月18日 14時28分)

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110618k0000e040041000c.html

2 原発:海江田経産相「再稼働を」 立地道県知事、批判噴出
記者会見で質問に答える佐藤雄平知事=福島県庁で2011年6月18日午後1時半、種市房子撮影
記者会見で質問に答える佐藤雄平知事=福島県庁で2011年6月18日午後1時半、種市房子撮影

 海江田万里経済産業相が18日、原発再稼働の要請方針を示したことに対し、毎日新聞が原発立地道県の知事に姿勢を尋ねたところ、「適切」とした安全対策への疑問の声が噴出、現時点での受け入れを表明する知事はいなかった。原発の運転に関して知事に法的権限は無いが、電力会社と道県などの協定もあり、知事の同意無しの稼働は困難とみられる。経産相は近く福井県と九州を訪問する方針だが、慎重姿勢を見せる知事の説得など、各地で紛糾するのは必至の情勢だ。

 取材に応じなかった福井県知事と連絡が付かなかった茨城、鹿児島両県知事を除く10道県知事が取材に応じた。現在、国内の商業用原発54基のうち37基が停止中(調整運転を含む)。運転中のうち5基が8月末までに定期検査に入る予定で電力需給の逼迫(ひっぱく)が懸念されている。海江田経産相は同日の会見で、シビアアクシデント(過酷事故)対策に関し、適切との評価結果を公表した。

 適切と判断した根拠の説明を求める知事は多く、溝口善兵衛島根県知事は「国が指示し、電力会社が実施する安全対策で十分かチェックする必要がある」と国の方針をうのみにできないとの姿勢を堅持。新潟県の泉田裕彦知事は「安全性について論評に値する内容が無い」とコメント。「本県の技術委員会の質問に国は回答していない」と不快感も示した。

 原発事故の現場となった福島県の佐藤雄平知事は「再稼働はあり得ない」と従来通り断言。菅直人首相判断で運転停止となった静岡県の浜岡原発は、今回の経産相方針でも対象外とみられ、川勝平太知事は「再開のさの字も出る状況ではない」と現状を語った。

 浜岡原発と他の原発との違いについて説明を求める知事も複数いた。福井県は、県幹部が「原発の高経年化対策や、浜岡原発のみに停止を命じた判断根拠などが示されなければ、定期検査中の原発の再稼働は了解できない」と慎重な姿勢を示した。

 原発の建設や運転の許認可権は国にあるが、道県と市町村、電力会社は安全協定を結び、施設増設などは地元の了解を取る▽自治体の安全措置要求の受け入れ--などを約束している。経産相の発言を巡っては橋下徹大阪府知事も「時期尚早。経産相や経産省のみなさんが原発周辺に住めばよい」と話している。【まとめ・石川淳一、柳澤一男、関東晋慈】

 ■道県知事のコメント

◇北海道 高橋はるみ知事

過酷事故対策が適切と評価した根拠も含め、国は責任ある説明が必要。説明を踏まえ対応を検討したい

◇青森県 三村申吾知事

県原子力安全対策検証委員会での検証結果、県議会での議論などを踏まえ、慎重に、かつ厳しく対処していく

◇宮城県 村井嘉浩知事

一定の理解は示すが、不安の声があるのも事実で安全対策を万全にしてほしい。女川原発にはコメントできない

◇福島県 佐藤雄平知事

原発が立地している県の知事は安全確認の証左がなければと言っている。(福島第2原発の)再稼働はあり得ない

◇新潟県 泉田裕彦知事

本県の技術委員会の質問に国は回答していない。原発の安全性について論評に値する内容を何も含んでいない

◇石川県 谷本正憲知事

経産相の判断は一つの考え方だが、浜岡原発と他の原発の違いを十分説明していただかないと判断は難しい

◇静岡県 川勝平太知事

(浜岡原発が含まれないのは)当然だ。完全な対策だと確認できない限り、再開のさの字も出る状況ではない

◇島根県 溝口善兵衛知事

国の指示内容が、福島原発事故の原因を踏まえた安全対策として十分かチェックしていく必要がある

◇愛媛県 中村時広知事

再稼働の必要性に理解を求めたのだろうが詳細は分からない。伊方原発の稼働は白紙であることに変わりはない

◇佐賀県 古川康知事

再起動への国の意思が明確に示されたと受け止める。玄海原発の再起動は、県議会での議論も踏まえ判断したい

毎日新聞 2011年6月18日 21時28分(最終更新 6月19日 1時42分)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110619k0000m010074000c.html

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もっともこうした知事も、本気でこう思っているわけではないのである。あくまで「パフォーマンス」なのである。そう言っておかないと次の選挙で勝てないからである。とりあえずは県民に波風を立てないでおこう!なのである。

とにかく、一刻も早く現在の国会銀の数を10分の1に減らし(本当は0でもいいと思うのだが)、地方区など廃止し、全員全国民の投票で選び、これに全国の知事も入れて「国会」にすればいいと思う。もちろん大統領制にして、選挙でこれを選ぶべきであろう。

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本居宣長記念館での学芸員実習の条

2011-06-18 22:22:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先週の土曜日は学芸員実習の授業での本居宣長記念館での実習にお付き合いした。


 T先生の解説付きの見学会であった。こんな豪華な会はないのに参加者が少し少ないのが気になった。


 宣長と賀茂真淵が会った場所での解説から始まった。


 左参宮道 右和歌山道とある道標のところを右にとって松阪城へ向かう


 途中本居家の墓にも参る。


 記念館に行く途中も武家屋敷跡などを散策しながら駆け足で記念館へ.これは明治以降工業・商業などの学校建設を進めた松阪の遺産松阪工業高校へも。





 松阪城の一角に記念館はある。


 受講生は何じゃかんじゃといって休んだ奴がいて結局15 名ほどだったのだが、T先生の教え子達が、そんなにいい機会があるのなら是非!ということで5名参加し、教員3名を含む総勢23名での見学となった。これに参加しなかった学生は大損したと思う。


 移築された宣長旧宅



 記念館でご挨拶




 館長直々のご説明であった。

 本居宣長記念館へはこれまでにも4~5回訪問したことがあるのだが、今回は館長の特別の御配慮で、収蔵庫を見学させて頂くことができた。

 館長自ら展示解説までして下さった。

 開けてびっくり玉手箱!とはこのことだろう。宣長という人物の天才ぶりをじっくり知ることができた。まず驚かされたことは几帳面なその筆跡であった。9歳の頃の文書だというその文字が終生変わることのない同じ筆跡であるというのにも驚いた。


 ここから先は内緒!!

 もちろんその読書量、蔵書量の半端でないことは収蔵庫に納められた資料が27000点というから想像に難くなかろう。さらに驚いたのが原書への付箋による書き込みだった。付箋の上に付箋が貼られ、さらに付箋が追加される。このため書籍は付箋により分厚くなってしまっている。

 かつて建築史の大家福山俊男先生のご自宅にお邪魔したとき、かつてのご自身のノートを持ち出されてこちらの質問に答えられたとき、そのノートを見てびっくり!!ノートに何枚もの付箋が付いているのである。その付箋がナナナント裏白の新聞に挟み込まれている広告用紙なのだ。

 それも60年程前のノートだった。

 天才がこれほど努力されるのだから、凡人がどれだけ努力しなければならないかは自明のはずなのだが、・・・・。

 次いで驚いたのが彼の想像力であった。宣長といえば極めて実証的な地に足の付いた学者かと思っていたら、もちろん基本はそうなのだが、そうした膨大な知識量を活かした「空想家」でもあったことを知った。

 ナナナント、架空の都市を自ら精緻な筆致で描き、その都市の構成員の系図まで作成しているのである。その創造された都市図の筆致の精緻なこと!!実に几帳面に碁盤の目のように区画されたモデル都市図を、一つ一つの町の区画まで実に正確に一枡一枡丁寧に書き込み、その間に残されたわずか2ミリ足らずの空間にその道路に関する情報を書き込んでいるのである。

 ある人はこれを「平安京と松阪城下町を素材に理想の都市像を描いたのでは」と仰ったのだが、私は違うと思う!

 これは唐長安をモデルにした理想都市図だと思った!!

 その第一の根拠が東西に長い方形の条坊都市だったことにある。第二の根拠がその北部中央に「宮城」を置いたことである。さらに北部に川を配したことも長安の渭水と重なる。こうした知識がどの資料に負っているのか、そこまで私は知らないが、きっと蔵書の中には中国関係の史料もあるに違いない。

 次々と紹介される資料にいつしか学生をかき分け、目の前に陣取って出される資料に見入った。いつまでも見ていたかったが学生の実習もあったので渋々研修室に戻り、掛け軸の展示実習に移った。




 誰かやってみませんか?という声がかかっても誰も進みでないからやむなくご指名!






 おっとトッと背が足りない!助けてー


 次いで我が考古学研究室のN君が挑戦!
 お断りしておくが、私が学芸員実習の授業をやっているのではなく、その他の授業も含めて学芸員関係は基本的に非常勤のSM博士にお願いしている。私は面白そうなので付いていっただけなのである。大正解であった。是非来年もやってほしいものだ。


 最後にお礼を言って館を後にする。

 資料館見学後T先生お勧めの焼肉店でお昼ご飯!これがなかなかの美味であった。勉強をし、美味しいものを食べて大満足の一日であった。


 宣長の著書などを預かっていたという豪商長谷川家の蔵。


 途中宣長旧宅跡へ。


 もちろん我々は和田金なんかへは行けない!!お店の前を素通り。私は初めてお店の前を通った!感激!!??

 
 見学会は13時半で修了。有志だけが会費1500円で昼食の肉屋さんへ。

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原発はもういらない-13 私達は「集団ヒステリー」にかかっているらしいの条

2011-06-16 16:16:16 | yaasan随想
 自分達で蒔いた種が毒草となって芽を出したとたん、「芽を出させた奴が悪い!」という。

 これほど無責任で身勝手な人間はいるまい。

 その種まきを主導し、未だにその事を反省もしない親子が日本の政治を動かしている悲劇。

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 反原発は「集団ヒステリー」 自民・石原幹事長

2011年6月14日22時55分
asahicom http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110614-OYT1T01205.htm?from=main2

 自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、イタリアの国民投票で原発反対派が多数だったことについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」と語った。福島第一原発事故を念頭に置いた発言で、表現が不適切との批判が出そうだ。

 石原氏は「反原発と言うのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったとき、国民投票で9割が原発反対だから、やめましょうという簡単な問題ではない」とも述べた。

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イタリアは、これまで、原発に頼ってこなかった、だからこそ「簡単」に止めます!と主張することができる。一方日本は、自民党の政権の下、税金をばらまき、お金で人の心を買い取って、無理矢理原発を日本中に造り出した。だから、「反原発」といっても直ぐに30%の電力を停止することができない。とはいっても、実は30%の電力が止められて一番困るのはこの恩恵を最も享受してきた企業なのだ。私達国民はいつでも電力消費を30%減らすことができる。場合によっては少々のお金がかかっても自然エネルギーに替える努力もできる。

 私達は別に「病気」にかかって「原発はもういらない」といっているのではない。その逆だ。まともな神経を持っているからこそ「反原発」を声を大にして叫んでいるのだ。

 今の不便、これからの負担がイヤだから、原発を維持する!というのは未来に社会を形成していく子孫達に対して責任が持てないからいっているのである。政治家というのは、国家をどの様な方向に持っていくかのビジョンを示す職業なのではないのか。明確なビジョンを描けないあなたこそさっさとお辞めになったらいいのではないだろうか。

以下は毎日新聞与良正男氏の主張である。未熟と無責任しかない日本の政治。結局は自分達で足下から作り直さねばならないのかも知れない。

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熱血!与良政談:民主の未熟、自民の無責任=与良正男

 東日本大震災の被災者たちの、まるで先が見えない苦しい日々が続く中、自民党など野党が内閣不信任決議案を提出し、民主党からも大量の同調者が出そうになったのは、私にはあきれるばかりの出来事だった。

 菅直人首相が否決された途端に年明けまでの続投をにおわせたことも、鳩山由紀夫前首相がそれを「うそつき」呼ばわりしたのも、民主党の未熟さ、幼稚さを改めて示すものだった。

 それでも、こうなった以上は何とか菅内閣よりましな政治体制を作ってもらいたいと願う。しかし、ことはそう簡単に進まないのではなかろうか。

 民主党内の小沢一郎元代表をめぐる「小沢対反小沢」の対立は実際には何ら解消されていない。今、「ポスト菅」として名前が挙がっている人たちは、ほとんどが「反小沢」に属する。小沢元代表が納得しなければ再び、党内抗争に発展する可能性がある。私たちは党を二分する代表選びにまたまた延々と付き合わされるのだろうか。

 しかも、誰が代表=首相になっても国会の衆参ねじれ状況は変わらない。そこでにわかに語られ始めたのが、民主と自民の大連立だ。

 私は震災直後、自民党の谷垣禎一総裁が菅首相からの入閣要請を断った際、本欄で「谷垣氏は入閣すべきだった」と書いた。与野党協力して危機に臨むということであれば、期間限定で復旧・復興に課題を絞り連立するのも一つの方法だと今でも思う。

 でも、自民党からは早速、「連立するなら首相は自民党に」とか、「いずれ民主党政権は行き詰まるから、今年秋の衆院解散・総選挙を狙え」とか異論が出ている。谷垣氏は不信任案提出前には「菅首相が辞めれば、党派を超えた団結はいくらでもできる」と言っていたはずだが、党内がまとまらないから、例によって慎重な物言いだ。要するに責任を負いたくないのだなあと言いたくなる。

 「どっちもどっちだ」と批判しているだけでは無責任だと思うから一つだけ提案を。連立するにせよ、しないにせよ、自民党の方から「次の首相はこの人なら協力する」と具体的に提案してみてはどうか。邪道ではあるけれど、なかなかまとまりそうもない民主党も「自民党が協力してくれるのなら」と後継人選が進むかもしれないし、自民党にも一定の責任が生じる。

 とにかく物事が決まる国会にしないことには、政治への絶望は広がるばかりとなる。(論説副委員長)

http://mainichi.jp/select/opinion/yora/

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原発はもういらない-12 一体誰のためにまつりごとやってんのや?!の条

2011-06-15 15:15:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 このところ経産省が相次いで原発停止(廃止)のリスク宣伝に躍起だ。
 先日は根性無しの官僚にばかりええカッコする海江田が原発止めたら3兆円多くかかると脅しにかかったかと思うと今日は、経産省の官僚が国民が一人頭毎月1000円電気料金値上げの負担がかかるぞと脅しにかかった。

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全原発停止なら…電気料金月1千円アップと試算
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110613-OYT1T00849.htm?from=main2 読売新聞


 経済産業省所管の日本エネルギー経済研究所は13日、すべての原子力発電所が運転停止し、火力発電所が発電を代行した場合、液化天然ガス(LNG)や石炭など燃料調達費が増えるため、2012年度の毎月の標準家庭の電気料金が平均で1049円上昇し、6812円になるとの試算を発表した。

 試算は、燃料の単価や為替の変動に応じて電気料金を上下する燃料費調整制度や、電力会社が料金の抜本改定を実施しないことを前提としている。世界的に燃料の需給が逼迫(ひっぱく)したりすれば、電気料金が更に上昇する可能性もある。

 今年4月のLNGの輸入価格などを基にすると、12年度の火力発電の燃料調達費は10年度より3兆4730億円増加するという。電気料金に転嫁すると、1キロ・ワット時あたり3・7円の値上げになる。
(2011年6月13日22時06分 読売新聞)
最新主要ニュース8本 : YOMIURI O

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 ホントこいつ等、どこ向いて仕事しとんのんや!と怒鳴りつけたくなる。

 そんな試算する暇があったら、原発を止めて自然エネルギーに転換するには後どの様な技術改善が必要なのか、後どれくらいで実用化される技術があるのか、どんな援助をすれば可能かを調べて国民に情報提供すればいいではないか。

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原発はもういらない-11 日本の国民世論はマスコミによって操作されているの条

2011-06-14 08:08:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 これが普通の世論でしょう!!

 原発再開反対票、9割超す勢い…伊国民投票
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110613-OYT1T00790.htm?from=top 読売新聞ニュースより

 【ウィーン=末続哲也】原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は13日、2日目の投票が締め切られ、即日開票が始まった。

 伊ANSA通信が伝える投票率の暫定集計値は57%前後で、国民投票が成立するのは確実。出口調査によると、反対票は9割を超す勢いで、再開反対派の圧勝が確実となった。ベルルスコーニ首相は13日、投票の終了を待たずに「イタリアはおそらく原発計画と決別し、再生可能なエネルギー分野の開発に取り組む必要があるだろう」と述べ、事実上の敗北宣言を行った。

 福島第一原発の事故後、原発をめぐる国民投票が行われたのは初めて。欧州ではスイスとドイツ両政府が将来原発を廃止する方針を決めており、イタリアの原発拒否の立場が固まったことで、欧州各国で反原発世論が勢いづく可能性もある。
(2011年6月13日23時39分 読売新聞)


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 朝早くから大声で原発の必要性を叫んでいるMMキャスターさんよ、さようなら!あなたのせいで私の孫達が癌になったらどう責任をとってくれるというのだ?どうせその頃にはあなたは死んでいるか、辞めているから「しらんふり」でしょう。

 日本でも「反原発」の国民投票法を成立させよう!!その第一歩は、全国の都道府県、市町村議会での圧倒的多数での原発拒否決議、原発廃止を求める住民投票運動ではないでしょうか。
 これを主導する日本版「緑の党」を是非作って頂きたい!!

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原発はもういらない-10 大阪府知事がまともに見えてくるこの情けない現実の条

2011-06-13 22:02:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 朝日新聞の速報記事によれば橋本大阪府知事は敦賀市の市長からの質問状に対し以下の様に答えたという。

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 「電力の多くを原子力に依存する現状を考えるべきだ」。大阪府は13日、原発が立地する福井県敦賀市長から橋下徹知事宛てに届いた「公開質問状」に対する回答(10日付)を公表した。橋下氏は回答で、原発の新規建設や老朽原発の稼働延長の中止を求める持論について「反原発を唱えているわけではない」「電力の需要と供給のあり方を、住民が考えるきっかけにしたい」と理解を求めた。

 商業炉2基などが立地する敦賀市長の河瀬一治氏は2日付で、「脱原発」や節電を掲げる橋下氏に対し、「電源供給地にどんな思いを持っているのか」「どんな時間軸で新エネルギーに代替するのか」といった質問状を送っていた。

 橋下氏は回答書で、「原発立地地域があってこそ、関西の産業や生活が成り立っている」としたうえで、「地震国の日本はリスクが高い原子力の依存をできるだけ減らしていくべきだ」と主張。一連の発言については「リスクを抱えたまま今の生活を続けるのか」と住民に問いかけたメッセージだと説明した。

 さらに、原発が地域活性化や雇用維持に役立っているとする河瀬氏の主張に対しては「立地地域の経済や雇用のために原発を維持するのは本末転倒だ」と反論した。
 
asahi com
http://www.asahi.com/politics/update/0613/OSK201106130078.html

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辞める辞めないといって未だに未練がましくぐずぐずしている菅直人なんかよりよほどましだ、とつい思ってしまう、この情けない現実。

こうして日の丸・君が代に起立斉唱しない奴はクビだというファシズムがどんどん力を強めてくる。戦前の空気と同じ臭いのする今日この頃だ。こんな目くらましに乗ることはないのだが、それにしても菅直人の中途半端さがここでも目立ってしまうのである。あなた方(もちろん鳩山も同罪!!)そうして頼りないことばかりやっているから、こんな見え見えの「着物の下の甲」がましに見えてしまうのではないか。どうせ辞めるんだから、最後くらい、「日本の原発を2020年までに全廃します!!」くらい言って辞めろよ。

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原発はもういらないー9村上春樹さん「原子力、拒否すべきだった」の条

2011-06-10 17:54:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 これが人間として当たり前の反応でしょう!


 福島の惨状を見てなお原発の必要性を説く福井県の某市長や、核兵器の必要性を声高に訴えている方々は、とても地球に住むことを望んでおられるとは思えないのです。人間ならばこう思うのが普通なのです。普通のことを普通に主張しようではありませんか。

 読売新聞の速報

 【パリ支局】スペイン通信などによると、スペイン北東部のカタルーニャ自治州政府は9日、作家の村上春樹さんに今年のカタルーニャ国際賞を授与した。
 村上さんはバルセロナでの受賞スピーチで、福島第一原発事故について「(日本では広島・長崎の原爆投下に続く)2度目の核の惨事だ」と指摘。「我々日本人は原子力エネルギーを拒否すべきだった。安易に効率を優先する考えに導かれるべきではなかった」と述べた。

 村上さんは、原発に反対する人々がこれまで「非現実的な夢想家」と呼ばれてきたとしたうえで、「今や原子炉が地獄の扉を開けた」と語った。さらに、「我々は広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉『安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから』を、再び心に刻むべきだ」と訴えた。

(2011年6月10日12時57分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110610-OYT1T00385.htm?from=top

村上春樹さんスピーチ全文
毎日新聞より


 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)




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http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html

より

原発はもういらない-8 本当のまつりごと人の条

2011-06-08 20:52:48 | yaasan随想
 広島の産婦人科医河野美代子さんのブログで知りました。

 宝塚市長中川智子さんの行動力を。

 広報たからづかNo.1137号(平成23(2011)年5月号)の一文です

 河野さんは私の学生時代の知人(先輩)で性教育の必要性を説いて全国を講演で飛び回っておられます。河野さんと中川市長とはこれまた旧知の仲で河野さんが度々宝塚市の学校などに出かけ、性教育など若者達のための真摯なお話しをなさっています。

 彼女達お二人のブログや広報を読んで、これこそ真の政治家!「まつりごとをやる人」だと実感しました。

 東京では総理大臣を替えることに血相を変え、被災地のために何をしたわけでもない800人余の政治家共が、まるで我こそは被災者のために働いているかの如く言辞を吐いて政争に明け暮れています。
 
 おそらく中川さんが総理大臣なら、震災当日に直ぐに宝塚市が行った数十倍の物資を準備し、スタッフを派遣し、人々のきめ細かな要望に耳を傾け次々と物資を、人を、技術を提供したに違いありません。そして間髪入れずに自ら現地に入り、人々の声を聞き取りに行ったに違いありません。

 原発の風評被害を心配する前に、事態の深刻さを掌握し、それに応じた対応を取ったに違いありません。もちろん彼女が阪神・淡路大震災の経験をしたことも大きな要因でしょうが、だからといってどれだけの関西の政治家がその様な行動を取ったというのでしょう。

 永田町で不信任案に賛成するか反対するかでドタバタしている暇があったら、被災地に行けばいいではないのですか。そもそもあれだけの原発を造れ造れと大号令をかけ、補助金をばらまいて地元を札束で殴って傅かせ、有無を言わさず原発を認めさせてきたのは40年間政権の座にあった自民党ではありませんか。そんな奴に「被災者のため」だなどと大口を叩かせるのがもってのほかです。お前らも政府と一緒に土下座しろよ!!というべきです。

 菅直人にしても、そんな愚かな政治家共を放っておいて、被災地に飛んでいき、くまなく被害の実態を見聞きし、被災者のために働けばよかったのです。そうすれば誰も文句は言えなかったはずです。天皇ですら何度も行っているのです。だからクビにされるのです。

 そして、今また、どんな新しい総理大臣が選ばれようと、中川さんのような行動を取らない人間ばかりがその候補者なのですから、同じです。

 総理大臣は憲法の決まりにより国会議員でなければならないのですが、どうせ誰がなっても一緒ですから、形だけ誰か国会議員にしておいて、中川さんにこそ、副総理格の全権を超法規的に与える東日本大震災復興大臣に任命して仕事して頂くべきです。


  
 中川智子宝塚市長を復興大臣に!

 そして総理大臣に!!

 

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原発はもういらない-7 国民を愚弄する政府発表:プルトニウムが出た!!の条

2011-06-07 20:08:03 | yaasan随想
 恐れていたことが既に事実となっていた!!

 東電と政府は、情報を小出しにすることによって国民による原発不要論の高まりを抑えようとしています。福島原発第3号機はプルトニウムを用いた最も危険な原発です。猛毒のプルトニウムはそれが半減するのに24000年もの年月を必要とするのです。完全になくなるまでに48000年です。その原発が地震直後に破損し、核燃料が空気中に、海中に漏れていたことが明らかになったのです。それも最も危険な燃料を使っている3号機が破損しプルトニウムが漏れているのです。

 この様な危険極まりないものをなぜ原子力発電に用いるのか?

 答えは簡単です。

 あちこちのブログで「核武装」を唱えている者達に不可欠なものがプルトニウムだからです。表だって核兵器を生産できない日本にあって、いつでもそれへの転用が可能なように原発を装ってこれを用いた「発電」を行わせているのです。だからこの事態の深刻さを知られることを最も恐れているのです。

 彼らは北朝鮮の核武装を問題にしますが、既に日本はプルトニウムを用いた原発を何基も所有し、精度の高い人工衛星を打ち上げる技術を獲得しています。昨年、「イトカワ」の技術に酔いしれましたが、あれほど精度の高いロケット技術があれば、その先に「水爆」を付ければ直ぐに、いつでも核武装することができるのです。いつでも北朝鮮は愚か中国であろうがどこであろうが攻撃可能な材料を有しているのです。

 しかし、原発が廃止されると「原料」がなくなるのです。だから、必死で「風評被害」なる感情論を持ち出し、原発廃止運動の高まりを食い止めようとしているのです。

 そして菅直人がたとえ一基であれ、「浜岡原発」を「勝手に、誰に相談することなく停止させた」事に危機感を抱いた彼らは、彼の追い落としにかかり、「大連立」による被害者救済なる「幻想」をばらまくことによって、次なるプルトニウム原発の停止、とりわけ敦賀のプルサーマルの廃炉を必死で食い止めようとしているのです。

 連立してしまえば、民主党の一部の勢力による「勝手な」原発停止を阻止できるからです。彼らだって判っています。今誰が総理をやったって(もちろん谷垣や石原、石破でも)大したことはできはしないことを。しかし、菅直人にできて谷垣達にできないことはただ一つ、「原発を勝手に止める」ことなのです。

 もちろん菅直人の中途半端なところは、「浜岡」しか止められなかったことです。ドイツのメルケルのようにきっぱりと「2022年原発完全廃棄」と言えなかったのです。ここが情けない総理大臣の限界ではあります。しかし、他の誰が総理になっても誰も「原発廃棄」とは言い出しません。それはそう言えば核武装論者が本気で刺客を送ってくるからです。あの、福島県前知事の佐藤栄佐久氏が「抹殺」されたように。

 しかし、今!! プルトニウムが検出された時点で、そんな政治の茶番劇はどうでもいいのです。

 はっきり言おうではありませんか。


 日本の全原発廃棄!!


 と、でなければ我々の子供達、孫達の未来はありません(既にプルトニウムは海に大量に流出しています。おそらくこれから太平洋岸の魚貝類を子供達に食べさせることはとても危険で、できなくなるでしょう。イヤ世界中の人々が食べられなくなる可能性もあります。)。

 もう一度事故が起きてからでは遅いのです。慌てて逃げても逃げるところはありません。その時は日本列島に住む人類は死に絶えます。

 だから、今こそ原発完全廃止!!を大きな声で叫ぼうではありませんか。朝早くから「原発は大丈夫!」「原発の危険を言うことによってどれだけたくさんの人が風評被害に遭っているか!」等と大声を張り上げていキャスター者達に騙されてはいけません。一刻も早く原発完全廃棄に向けて行動しましょう。

 原発敷地外でプルトニウム検出 のニュースが、いかに深刻な事態であるかを、いつもの守田さんの情報から転載致します。

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 守田です。(20110606 23:00)

 原発敷地外からのプルトニウム検出の報が出てきました。原発から1.7キロの道路脇から、北海道大学の木村真三非常勤講師らによって採取された土から検出されたものです。NHKドキュメントの取材の一環として行われたもので、NHKはこれを昨夜と今朝の番組の中でも報道しました。
今回、検出された量自身は微量です。しかし福島原発由来のプルトニウムがここで検知されたということは、他の多くの放射性核種が、原発から漏れ出している可能性も強く裏付けるものです。ヨウ素と、セシウムだけを測っているのではあまりに危険なのです。

 同時に、今回、検知されたプルトニウムの主なものは239と240とされていますが、このうち、プルトニウム240は、プルトニウム同位体の中でも、最も自発核分裂しやすいものであり、他の放射性物質に変わって、検知までに減った可能性があります。事故当初に放出された量は、もっと多かったと推論されるのです。

 ではそれは主にどこにいっているのか。一つには海に入っていったのではないかと思われます。そこでは冷やされて自発核分裂しないままに存在してるのではないだろうか。その点で、海底の泥などのプルトニウム検知をぜひ行って欲しいものです。

 二つに、この1.7キロ地点が、飛散した限界だとはとても考えられない。もっと広範囲に飛んでいる可能性が濃厚だということです。根拠にあげられるのはアメリカ環境保護局(EPA)の観測で、ハワイ、カリフォルニアなどで、福島原発事故由来と考えられる超ウラン元素が計測されていることです。

 この場合、プルトニウムそのものは、値が小さくて、誤差の範囲を出ていないのですが、他のウラン同位体などが有為な値として検出されており、「プルトニウムは重い元素だからあまりとばない」と言われてきた説を覆す根拠となっています。ウランがそこまで飛びうるのならば、プルトニウムの飛散も十分ありうるからです。

 ではどうしてウランのみが有為に検出されたのか。単純明快で、燃料棒にはウランの方が圧倒的に多くあるからです。そのウランも微粉末となって飛び散った。おそらくは3号機の爆発がこの粉末を空高く舞い上がらせて気流にのせ、太平洋を越えさせて、アメリカで観測されたのだと思われます。

 これらを考えるとき、やはりプルトニウムや他のさまざまは放射性核種が、相当量、原発から飛び出している可能性が高まったといえます。これまでここで繰り返してきた推論が確かめられることは、まったく嬉しくないことですが、ともあれただちにもっと広範囲な地域で、さまざまな核種の調査をすべきです。

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 原発敷地外からプルトニウム検出


 NHKニュース 2011年6月5日 19時33分
 東京電力福島第一原子力発電所からおよそ1.7キロの道路脇の土から、原発から放出されたと見られるプルトニウムがごく微量検出されました。今回の事故でプルトニウムが原発の敷地の外で見つかったのは初めてで、専門家は「人体への影響はないが、汚染の実態をより詳しく調査すべきだ」と話しています。

 ごく微量のプルトニウムが検出されたのは、福島第一原発の正門から西におよそ1.7キロの大熊町の道路脇で採取した土です。NHKの番組取材で、北海道大学の木村真三非常勤講師らが警戒区域に設定される前の日の4月21日に採取し、金沢大学低レベル放射能実験施設に分析を依頼していました。その結果、3種類のプルトニウムがごく微量検出され、このうち多かったプルトニウム239と240は、1キログラム当たり、合わせて0.078ベクレルの濃度だったということです。

 これは過去の核実験で国内に降ったプルトニウムと同じレベルですが、3種類のプルトニウムの割合が異なることから、原発から放出された可能性が高いとしています。今回の事故で、プルトニウムが原発の敷地の外で見つかったのは初めてです。分析にあたった金沢大学低レベル放射能実験施設の山本政儀教授は「ごく微量なので人体への影響はないが、放射性物質が飛び散るメカニズムを考えるうえで貴重なデータになる。原発に近い場所では、汚染の実態をより詳しく調査すべきだ」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110605/t10013327841000.html

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福島第1原発:ごく微量のプルトニウム検出 事故で放出か

毎日新聞 2011年6月5日 23時21分

 東京電力福島第1原発の正門から約1.7キロの福島県大熊町内の土壌に、今回の原発事故で放出されたとみられる放射性物質のプルトニウムがごく微量含まれていることが5日、山本政儀金沢大教授の分析で分かった。
 プルトニウムは文部科学省の調査でも、原発敷地外でごく微量検出されているが過去の大気圏内核実験によるものとされており、事故の影響とみられる検出は初めて。
 山本教授によると、この地点のプルトニウムの濃度自体が、過去の核実験の影響で検出される国内の平均的なレベルよりかなり低く、「人体への影響は心配ない」としている。

 山本教授によると、土壌は原発周辺20キロ圏内の警戒区域が設定される4月22日より前に、北海道大の研究者らが採取。プルトニウムの3種類の同位体の比率から、核実験ではなく今回の事故が原因と考えられるという。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110606k0000m040120000c.html

 
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美濃国武義郡で都市を語るの条

2011-06-06 09:45:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 週末は岐阜県美濃市にある某高等学校での出張講義であった。

 タイトルは「ローマ都市を掘る」。

 この授業は大学が無料で提供する高等学校向けの講義で、高校生に大学の授業を体験してもらおうというものである。近年では全国の大学で当たり前にやるようになっている。三重大学人文学部では、予め学内でそれぞれ出前授業可能な講義概要を発表し、これを見た高校側が希望を出して行うというスタイルである。

 ほぼ全員がテーマを出すことになっているのだが、なかなか高校生には取っつきにくいものもあって、どうしても判りやすいテーマのものが選ばれる傾向にある。それぞれの先生方の考え方によるのだから仕方がないとはいえ、どうしても希望はある特定の先生方に集中する。

 私への希望は平均的で、年に1~2回出かけることが一般的だ。別に其れを負担には思わないのだが、問題は、どうしても希望の日時がこちらの都合とうまく合わないことが多いことだ。

 今回も日程調整なくいきなり日時の指定があり、困惑した。一番授業の多い週である木曜日に要請されたからだ。昔なら、その日を休講にしてハイそれまでよだったのだが、この頃は「義務」を果たせとかで、休講分を補講しろという。こちらの都合で休んだのならやむを得ないかも知れないのだが、「公務」として休んだものをさらに「補講」するとなるとこれは明らかに超過勤務である。しかし、誰もそれを補償はしてくれない。別にお金が欲しいのではない(希望してももちろんもらえないシステムになっている)。私は十分すぎるくらい大学での授業をこなしている。平日はその講義準備でてんてこまいする。そんな者にまで補講を強制するのはいかがなものであろうか。

 さて、某高等学校がどの辺りにあるのか、見当も付かなかった。車に乗らない私は当然公共交通機関でしか移動できない。地図を見て調べると何でも美濃市にあるという。美濃市へ公共交通機関でどの様に移動したらいいのか、調べだして驚いた。

 何と三時間余りもかかるというではないか。それも、特急を乗り継いでやっと相手方の希望時間に間に合うのだ。但しこの間には実に無駄な時間が沢山入っているのである。結局、私は津を9時に出て、高等学校に着いたの13時50分であった。これでぎりぎりである。実に5時間の長旅であった。
 実は12時前には乗換駅である美濃太田には着いていたのである。ここで困ったことが。直ぐに電車があり、高等学校の横付けに近い駅に40分ほどで着くのだが、行っても何もないところだという。昼ご飯を食べるところがないのである。別にご飯は食べなくてもいいのだが、時間を潰す喫茶店もないらしい。

 やむなく美濃太田にあるホテルのランチバイキングで時間を潰すことに。特急に乗らなければもう少し効率よく?行けるのだが、その場合は電車に立ったまま何時間もゆられていかなければならない。勤労奉仕をして疲れるのはイヤだから特急に乗る。雨のホームで寒さに震えながら待っているのはイヤだからレストランに入る。これだけの負担はもちろん個人持ちだ。こんなよく判らない制度をなぜ個人的な配慮で賄わなければならないのか。一方で社会貢献!!を声高に叫びながら、結局それはあくまで個人の努力に任される。相変わらず、そんなこと知るもんかと何にもしないで胡座をかいてふんぞり返っている教官もいる。こんなアンバランスなことで組織がまともに動くとは思えないのである。

 こんな思いをしながらやっとの事で高等学校に着いた。

 この日は他の大学の先生方も来られていて、いろいろな授業をやるらしい。だから生徒は一応希望は聞くらしいのだが、半ば強制的に割り当てられる者もいるらしい。だから、高校としては珍しく、遅刻して来る奴がいるわ、そいつが始まる前から目の前で寝るはでとても気分が悪かった。

 もちろん熱心に聞いてくれる生徒もいるわけだから、文句ばかりも言ってられない。大学の宣伝もし、ローマ都市の研究の意味を説き、日本や中国の都市との比較を行って、一時間の授業を終えた。しかし、丸一日をかけてここまでやったことに相互にどれだけの意義があったのか、私にはよく判らないモヤモヤだけが残った日であった。

 こんな経験をする度に思うことは、高等学校の授業料を無償化し、義務教育化することに果たしてどれだけの意義があるのかということだ。その子供達のほぼ全員が今、大学に進学することが可能になっている。そうした生徒を受け入れる「大学」が増えるのだが、教官をきちんと揃えないから、非常勤が求められる。しかし、授業に行っても最初から寝ている学生やお喋りに夢中な学生ばかりだ。

 こんな学生のためになぜ親は高い授業料を払うのか?単なる「見栄」のためだけではないのか。貴重な16歳以降の青春を、無駄にしているに過ぎない今の構造。これもまた打ち破らないといけないものの一つであろう。

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原発はもういらない-6 政治「屋」共を追放しよう!ニューヨークタイムスの指摘に耳を傾けよう!の条

2011-06-01 00:18:10 | yaasan随想
 今、東京霞ヶ関では内閣不信任案を巡って政治「屋」達が右往左往しているという。菅直人がどうしようもないことはこの間の彼の言動からはっきりしたが、されとて、谷垣に何ができるわけでもなく、況んや石原や石破に至っては谷垣以下という頼りなさ。もちろん他の党にたまがあるわけがなく、・・・・.要するに党利党略の政争劇。東北でそれこそ何十万人という人が未だに苦しんでいるというのに。政治「屋」共の無神経といったらこの上ない。

 そんな暇があるのなら、さっさと国会なんか締めて数百人いる国会議員全員が、てめーらの家族共々東北に行って、ボランテアすればいいじゃないか。あるいは、避難所にホームステーして何が今必要なのかを体験し、それらを持ち寄って援助のスピーデーな方針を決めればいいのに。

 ホント、どいつもこいつも信じられない愚かさ!!

 とにかく愚かとしかいいようがない!! 要するに今回の大震災は、この60年間政治「屋」共が官僚に頼り切って何にも自らの力では判断できなかった事を見事に証明して見せた。
 それにしてもそれが解るために原発のメルトダウン、放射能の東北一円への拡散というとんでもない犠牲が払われなければならなかったところに悲しすぎる現実がある。

 最早日本に議会制民主主義なんていらないのじゃないだろうか!?等と思ってしまう今日この頃である。

 ところで、中日新聞WEB版は次の様なニューヨークタイムスの記事を紹介している。全くその通りなのである。原発を建設するために金で住民や、漁民の心を買い取ったため、金(補助金)にまみれている地元はこれだけの災害を経験してもなお「ノー!!」とは言えないのである。最早補助金という「麻薬」がなければ成り立たなくなるまで地域社会を根底から破壊してしまっているのである。
 その事を日本の新聞ではなく、アメリカの新聞が指摘するところにも悲劇がある。

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 「原発依存は日本の現実」と米紙   補助金頼りの構造指摘

 2011年5月31日 23時56分

 【ニューヨーク共同】5月31日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、福島第1原発事故で原発の安全性に深刻な懸念が生じた後も、日本で草の根の大規模な反対運動が起きないのは、政府や電気事業者から支出される補助金に依存する地域構造があるからだと分析する長文の記事を掲載した。

 「日本の原発依存」という見出しの記事は、補助金や雇用が日本の原発を「揺るぎない現実」にしていると報道。

 松江市の島根原発を取り上げ「40年以上前に立地の話が持ち上がった時は、地元の漁村が猛反対し、中国電力は計画断念寸前に追い込まれた」と指摘。しかしその約20年後には「漁協に押された地元議会が3号機の新規建設の請願を可決した」とし、背景に公共工事による立派な施設建設や潤沢な補助金があったと伝えた。

 同紙は、補助金への依存により、漁業などの地場産業が衰退していくと報道。広島、長崎で原爆投下を経験しながら、米国のスリーマイルアイランド原発や旧ソ連のチェルノブイリ原発の事故後に欧米で起きたような反原発運動が起きなかったのは、補助金への依存が理由とした。

 記事は「この依存構造のせいで地元は原発に異を唱えられなくなる」とする福島大副学長の清水修二教授(地方財政論)のコメントも伝えた。

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 念のためにニューヨークタイムスの原文も載せておこう。
In Japan, a Culture That Promotes Nuclear Dependency


 Ko Sasaki for The New York Times

 The Chugoku Electric nuclear power plant in Kashima. A third reactor is currently under construction.
By MARTIN FACKLER and NORIMITSU ONISHI
Published: May 30, 2011


 KASHIMA, Japan ― When the Shimane nuclear plant was first proposed here more than 40 years ago, this rural port town put up such fierce resistance that the plant’s would-be operator, Chugoku Electric, almost scrapped the project. Angry fishermen vowed to defend areas where they had fished and harvested seaweed for generations.
   
 Ko Sasaki for The New York Times
Fishermen in Kashima, on the Sea of Japan, fiercely resisted plans for a nuclear plant 40 years ago. Now, many embrace the largess it provided.
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 Two decades later, when Chugoku Electric was considering whether to expand the plant with a third reactor, Kashima once again swung into action: this time, to rally in favor. Prodded by the local fishing cooperative, the town assembly voted 15 to 2 to make a public appeal for construction of the $4 billion reactor.
Kashima’s reversal is a common story in Japan, and one that helps explain what is, so far, this nation’s unwavering pursuit of nuclear power: a lack of widespread grass-roots opposition in the communities around its 54 nuclear reactors. This has held true even after the March 11 earthquake and tsunami generated a nuclear crisis at the Fukushima Daiichi station that has raised serious questions about whether this quake-prone nation has adequately ensured the safety of its plants. So far, it has spurred only muted public questioning in towns like this.
Prime Minister Naoto Kan has, at least temporarily, shelved plans to expand Japan’s use of nuclear power ― plans promoted by the country’s powerful nuclear establishment. Communities appear willing to fight fiercely for nuclear power, despite concerns about safety that many residents refrain from voicing publicly.
To understand Kashima’s about-face, one need look no further than the Fukada Sports Park, which serves the 7,500 mostly older residents here with a baseball diamond, lighted tennis courts, a soccer field and a $35 million gymnasium with indoor pool and Olympic-size volleyball arena. The gym is just one of several big public works projects paid for with the hundreds of millions of dollars this community is receiving for accepting the No. 3 reactor, which is still under construction.
As Kashima’s story suggests, Tokyo has been able to essentially buy the support, or at least the silent acquiescence, of communities by showering them with generous subsidies, payouts and jobs. In 2009 alone, Tokyo gave $1.15 billion for public works projects to communities that have electric plants, according to the Ministry of Economy, Trade and Industry. Experts say the majority of that money goes to communities near nuclear plants.
And that is just the tip of the iceberg, experts say, as the communities also receive a host of subsidies, property and income tax revenues, compensation to individuals and even “anonymous” donations to local treasuries that are widely believed to come from plant operators.
Unquestionably, the aid has enriched rural communities that were rapidly losing jobs and people to the cities. With no substantial reserves of oil or coal, Japan relies on nuclear power for the energy needed to drive its economic machine. But critics contend that the largess has also made communities dependent on central government spending ― and thus unwilling to rock the boat by pushing for robust safety measures.
In a process that critics have likened to drug addiction, the flow of easy money and higher-paying jobs quickly replaces the communities’ original economic basis, usually farming or fishing.
Nor did planners offer alternatives to public works projects like nuclear plants. Keeping the spending spigots open became the only way to maintain newly elevated living standards.
Experts and some residents say this dependency helps explain why, despite the legacy of Hiroshima and Nagasaki, and the accidents at the Three Mile Island and Chernobyl nuclear plants, Japan never faced the levels of popular opposition to nuclear power seen in the United States and Europe ― and is less likely than the United States to stop building new plants. Towns become enmeshed in the same circle ― which includes politicians, bureaucrats, judges and nuclear industry executives ― that has relentlessly promoted the expansion of nuclear power over safety concerns.
“This structure of dependency makes it impossible for communities to speak out against the plants or nuclear power,” said Shuji Shimizu, a professor of public finance at Fukushima University.

 Ko Sasaki for The New York Times
Fukada Sports Park, a public project paid for with some of the many millions of dollars Kashima is receiving for approving the No. 3 reactor.
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Ko Sasaki for The New York Times
Higashidori, which rebuilt its town center, got almost 46 percent of its $94 million budget last year from nuclear-related subsidies and taxes.
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Code of Silence
Indeed, a code of silence seems to prevail even now in towns like Kashima, which merged with the neighboring city of Matsue a half decade ago.
Tsuneyoshi Adachi, a 63-year-old fisherman, joined the huge protests in the 1970s and 1980s against the plant’s No. 2 reactor. He said many fishermen were angry then because chlorine from the pumps of the plant’s No. 1 reactor, which began operating in 1974, was killing seaweed and fish in local fishing grounds.
However, Mr. Adachi said, once compensation payments from the No. 2 reactor began to flow in, neighbors began to give him cold looks and then ignore him. By the time the No. 3 reactor was proposed in the early 1990s, no one, including Mr. Adachi, was willing to speak out against the plant. He said that there was the same peer pressure even after the accident at Fukushima, which scared many here because they live within a few miles of the Shimane plant.
“Sure, we are all worried in our hearts about whether the same disaster could happen at the Shimane nuclear plant,” Mr. Adachi said. However, “the town knows it can no longer survive economically without the nuclear plant.”
While few will say so in public, many residents also quietly express concern about how their town gave up its once-busy fishing industry. They also say that flashy projects like the sports park have brought little lasting economic benefit. The No. 3 reactor alone brought the town some $90 million in public works money, and the promise of another $690 million in property tax revenues spread over more than 15 years once the reactor becomes operational next year.
In the 1990s, property taxes from the No. 2 reactor supplied as much as three-quarters of town tax revenues. The fact that the revenues were going to decline eventually was one factor that drove the town to seek the No. 3 reactor, said the mayor at the time, Zentaro Aoyama.
Mr. Aoyama admitted that the Fukushima accident had frightened many people here. Even so, he said, the community had no regrets about accepting the Shimane plant, which he said had raised living standards and prevented the depopulation that has hollowed out much of rural Japan.
“What would have happened here without the plant?” said Mr. Aoyama, 73, who said the town used its very first compensation payment from the No. 1 reactor back in the late 1960s to install indoor plumbing.
While the plants provide power mostly to distant urban areas, they were built in isolated, impoverished rural areas.
Kazuyoshi Nakamura, 84, recalls how difficult life was as a child in Kataku, a tiny fishing hamlet within Kashima that faces the rough Sea of Japan. His father used a tiny wooden skiff to catch squid and bream, which his mother carried on her back to market, walking narrow mountain paths in straw sandals.
Still, at first local fishermen adamantly refused to give up rights to the seaweed and fishing grounds near the plant, said Mr. Nakamura, who was a leader of Kataku’s fishing cooperative at the time. They eventually accepted compensation payments that have totaled up to $600,000 for each fisherman.
“In the end, we gave in for money,” Mr. Nakamura said.
Today, the dirt-floor huts of Mr. Nakamura’s childhood have been replaced by oversize homes with driveways, and a tunnel has made central Kashima a five-minute drive away. But the new wealth has changed this hamlet of almost 300 in unforeseen ways. Only about 30 aging residents still make a living from fishing. Many of the rest now commute to the plant, where they work as security guards or cleaners.
“There was no need to work anymore because the money just flowed so easily,” said a former town assemblyman who twice ran unsuccessfully for mayor on an antinuclear platform.
A Flow of Cash
Much of this flow of cash was the product of the Three Power Source Development Laws, a sophisticated system of government subsidies created in 1974 by Kakuei Tanaka, the powerful prime minister who shaped Japan’s nuclear power landscape and used big public works projects to build postwar Japan’s most formidable political machine.

The New York Times
With 54 nuclear reactors, Japan has given billions in community payouts.
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The law required all Japanese power consumers to pay, as part of their utility bills, a tax that was funneled to communities with nuclear plants. Officials at the Ministry of Economy, Trade and Industry, which regulates the nuclear industry, and oversees the subsidies, refused to specify how much communities have come to rely on those subsidies.
“This is money to promote the locality’s acceptance of a nuclear plant,” said Tatsumi Nakano of the ministry’s Agency for Natural Resources and Energy. A spokesman for Tohoku Electric Power Company, which operates a plant in Higashidori, said that the company is not involved in the subsidies, and that since Fukushima, it has focused on reassuring the public of the safety of nuclear plants.
Political experts say the subsidies encourage not only acceptance of a plant but also, over time, its expansion. That is because subsidies are designed to peak soon after a plant or reactor becomes operational, and then decline.
“In many cases, what you’ll see is that a town that was depopulating and had very little tax base gets a tremendous insurge of money,” said Daniel P. Aldrich, a political scientist at Purdue University who has studied the laws.
As the subsidies continue to decline over the lifetime of a reactor, communities come under pressure to accept the construction of new ones, Mr. Aldrich said. “The local community gets used to the spending they got for the first reactor ― and the second, third, fourth, and fifth reactors help them keep up,” he added.
Critics point to the case of Futaba, the town that includes Fukushima Daiichi’s No. 5 and No. 6 reactors, which began operating in 1978 and 1979, respectively.
According to Professor Shimizu of Fukushima University, Fukushima Daiichi and the nearby Fukushima Daini plants directly or indirectly employed some 11,000 people in communities that include Futaba ― or about one person in every two households. Since 1974, communities in Fukushima Prefecture have received about $3.3 billion in subsidies for its electrical plants, most of it for the two nuclear power facilities, Mr. Shimizu said.
Despite these huge subsidies, most given in the 1970s, Futaba recently began to experience budget problems. As they did in Kashima, the subsidies dwindled along with other revenues related to the nuclear plant, including property taxes. By 2007, Futaba was one of the most fiscally troubled towns in Japan and nearly went bankrupt. Town officials blamed the upkeep costs of the public facilities built in the early days of flush subsidies and poor management stemming from the belief that the subsidies would remain generous.
Eisaku Sato, who served as the governor of Fukushima Prefecture from 1988 to 2006 and became a critic of the nuclear industry, said that 30 years after its first reactor started operating, the town of Futaba could no longer pay its mayor’s salary.
“With a nuclear reactor, in one generation, or about 30 years, it’s possible that you’ll become a community that won’t be able to survive,” Mr. Sato said.
Futaba’s solution to its fiscal crisis was to ask the government and Tokyo Electric, Fukushima Daiichi’s operator, to build two new reactors, which would have eventually increased the number of reactors at Fukushima Daiichi to eight. The request immediately earned Futaba new subsidies.
“Putting aside whether ‘drugs’ is the right expression,” Mr. Sato said, “if you take them one time, you’ll definitely want to take them again.”
Eiji Nakamura, the failed candidate for mayor of Kashima, said the town came to rely on the constant flow of subsidies for political as well as economic reasons. He said the prefectural and town leaders used the jobs and money from public works to secure the support of key voting blocs like the construction industry and the fishing cooperative, to which about a third of the town’s working population belongs.
“They call it a nuclear power plant, but it should actually be called a political power plant,” Mr. Nakamura joked.
The Most to Lose

This dependence explains why Prime Minister Kan’s talk of slowing Japan’s push for nuclear power worries few places as much as the Shimokita Peninsula, an isolated region in northern Honshu.

 The peninsula’s first reactor went online in 2005, two are under construction, and two more are still being planned. Japan is also building massive nuclear waste disposal and reprocessing facilities there. As newcomers to nuclear power, Shimokita’s host communities now have the most to lose.
Consider Higashidori, a town with one working reactor and three more scheduled to start operating over the next decade. With the subsidies and other revenues from four planned reactors, town officials began building an entirely new town center two decades ago.
Serving a rapidly declining population of 7,300, the town center is now dominated by three gigantic, and barely used, buildings in the shape of a triangle, a circle and a square, which, according to the Tokyo-based designer, symbolize man, woman and child. Nearby, a sprawling campus with two running tracks, two large gymnasiums, eight tennis courts and an indoor baseball field serves fewer than 600 elementary and junior high school children. In 2010, nearly 46 percent of the town’s $94 million budget came from nuclear-related subsidies and property taxes.
Shigenori Sasatake, a town official overseeing nuclear power, said Higashidori hoped that the Japanese government and plant operators would not waver from their commitment to build three more reactors there, despite the risks exposed at Fukushima.
“Because there are risks, there is no way reactors would be built in Tokyo, but only here in this kind of rural area,” Mr. Sasatake said, adding that town officials harbored no regrets about having undertaken such grandiose building projects.
But Higashidori’s building spree raised eyebrows in Oma, another peninsula town, with 6,300 residents, where construction on its first reactor, scheduled to start operating in 2014, was halted after the Fukushima disaster.
Tsuneyoshi Asami, a former mayor who played a critical role in bringing the plant to Oma, said that the town did not want to be stuck with fancy but useless buildings that would create fiscal problems in the future. So far, Oma has resisted building a new town hall, using nuclear subsidies instead to construct educational and fisheries facilities, as well as a home for the elderly.
“Regular people and town council members kept saying that no other community where a plant was located has stopped at only one reactor ― that there was always a second or third one ― so we should be spending more,” Mr. Asami said. “But I said no.”
Still, even in Oma, there were worries that the Fukushima disaster would indefinitely delay the construction of its plant. It is just the latest example of how the system of subsidies and dependency Japan created to expand nuclear power makes it difficult for the country to reverse course.
“We absolutely need it,” Yoshifumi Matsuyama, the chairman of Oma’s Chamber of Commerce, said of the plant. “Nothing other than a nuclear plant will bring money here. That’s for sure. What else can an isolated town like this do except host a nuclear plant?”