yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

飛鳥遺跡見学と帰りの電車の条

2013-08-31 08:11:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 8月29日(火)は午後から橿原考古学研究所、明日香村、奈良文化財研究所の現場を回り、橿原考古学研究所付属博物館で開催中の「大和を掘る」を見るとても充実した一日だった。

 発掘調査は橿考研の飛鳥宮西の苑池遺構,明日香村の飛鳥寺西のいわゆる「槻の広場」の現場と奈文研の甘樫丘東方遺跡だった。いずれもまだ未発表の発掘途中の調査なので、報告は秋以降にしたいが、それなりに調査が終了すれば玄人向けのなかなか深みのある発掘調査であった。いずれも同研究所のTYさん、MSさんのご配慮のお蔭である。感謝申し上げたい。秋の現説の頃に是非もう一度お伺いしたいと申し上げて後にした。

 この日の見学も段取りは山口大学の橋本さんにしてもらったので、てっきり、見学の後どこゾで飲むのかと思いきや、橋本さんは用事があるとかで別行動。マ、私もここのところでかけてばかりなので、これ幸いにと帰宅の途に。

 ところがである。ここで頭に来ることが。

 というのか、ここ数年ずっと頭に来ている事態の極みのような事態に遭遇したのである。

 橿考研のある畝傍御陵前駅周辺には体育施設がたくさん展開している。29日といえば間もなく夏休みの終わる時期。おそらくそんな時期の「県大会」でもあったのだろう。駅にはホームを溢れんばかりの中学生の軍団が選挙していた。持っているバッグのロゴなどを見ているとどうもバスケットボールの大会であったようだ。中学生にしては大柄な男(きっと男子の大会だったのだろう)それぞれの部員が自分の荷物の他に、チームの用具も持たされているようで大きなバッグが二つずつホームに置かれ、歩くことすら難しい状況だった。そこをかき分けかき分け(何せ、のいてくれないから仕方なく線路際のあの点字板の外側を歩く羽目に)やっとの思いで電車の後の方にいって座席を確保しようと考えた。

 そこまでは正解だったのだが、この後の判断が間違っていた。実は偶然直ぐに電車が来たものでこれに乗ったのだが、よく聞くと普通電車。それも西大寺行き。仕方がないので、次の大和八木で一旦下りて、急行に乗り換えることに。そして何気なく、いつもの習慣で先頭車両の停車する位置に移動して待った。

 ところが驚いてしまった。着いた電車は先ほどの中学生の後続部隊を満載していたのである。いつもならガラガラで必ず座れる電車が満員電車状態。それだけなら我慢できるのだが、こいつらが持ってきたバッグを通路に散乱させ、座れないガキとの間で座席を替わったり、移動したり、もちろん大声ではしゃぐわ、しゃべるわ。そのたびに私の身体にぶつかってくる。もちろんわびの一言もない。その内、降りるやろうと思っていたら、降りる予定の駅を乗り過ごしてしまったとかで、また一騒動。結局大和西大寺まで大検躁状態のまま、吊り輪に疲れた身体を委ねざるを得なかった。

 どこかで怒鳴ってやろうかと思ったが、この頃これすら「声の暴力」だとか、訳のわからんことをいう輩もいるから、タイミングを計ったり、もうそろそろ降りるやろから我慢しようかと思い直したり、悶々としていた。結局西大寺で全員が降りて、座ることができたので、怒りも収まったが、いつか爆発するような気がする。

 どう見てもこれらの集団は学校行事の一環で参加した連中である。一体引率の教師はどこにいるんや?!引率しないまでも、日常的にどんな生活指導しているんや!と思いたくなった。
 この日に限ったことではないのだ。大体この体育会系の連中は大きなバッグを持っている。それを平気で通路において、大きく開いた足のあいだに置くのである。さらにそのバックを守るためなのか、足を通路の真ん中まで伸ばして、ふんぞり返って「寝る」のである。この手の輩は大きい!!つまり、二人分の席を占領し、通路を塞ぎ、音楽を聴きながら寝るから、周辺の状況も見えない(もちろん見る気などない!!)のである。

 このため、お年寄りは通路を移動することすらままならない。もちろん、海外(台湾での経験は前に記したことがある)なら、この手の若者が座席を占領することがないのである。座らないのが海外の常識なのである。ところが日本の体育会系のガキは練習に疲れたからなのか、必ず徒党を組んで我先に座る。そして大騒ぎをするか先のように広く場所を取って寝るのである。

 こんな奴らが少子化だといってちやほやされ、益々甘やかされて育っていったら日本列島はどうなるのか。お先は丸見えである。

 最近思うのだが、うちの学生も大学に入ったら直ぐに大半が体育会系のクラブやサークルに入る。そこでとんでもない状況が生ずるのである。この手のクラブは「朝練」と称して授業前の数時間を練習に充てる。中には5時頃からやるところもある。この朝練には真面目?に参加するので、授業に出てきたら直ぐ寝るのである。あるいは、クラブがあるから授業外の行事には参加できない!と断るのである。

 「お前、何しに大学へ来たんや!」といいたくなる。1年生相手の教養の授業では毎年このことを話すがそれが効果を持つのは連休前まで。連休が明けた途端に教室の雰囲気は怠惰な空気に覆われる。そしてこいつらが股おっぴろげて電車で寝るのである。

 世も末とはこのことだろう。

 三重大学を退職後余り積極的に非常勤の仕事を探そうという気にならないのはこのためである。食べさえできれば、買い溜めた本をゆっくり読んで、もし新しい考えでも浮かんだら投稿して、こんな生活を思い描かざるを得ない、悲しい現実である。

 電車に乗る体育会系のガキ共よ!カバンは網棚に乗せろ!まずお前達より年上の人を座らせろ!!電車は自宅ではないのだから、静かにしろ!!!こう思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 「大和を掘る」で入り口付近に纏向遺跡の巨大建物の復元模型が置いてあった。何か、私のイメージには合わない不思議な復元だった。せめていくつかの案のそれぞれとか、いくつかの案の紹介とか、「あなたならどう思う?」という問いかけとかがあって欲しかった。




 

藤圭子の死

2013-08-22 23:21:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 毎週土曜日の朝早く、阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」がある。何気なくスイッチを入れたある日、そこでおしゃべりする阿川佐和子の話術に引き込まれてなんとかく見て以来、癖になってしまって、時々気になるゲストの時は見ることが多い。

 その番組の最初に阿川が求めるのが、「記憶の中で今もきらめく1曲」だ。

 僕だったら何を撰ぶのだろうか。ゲストの会話を聞きながらあれこれ思い描いて楽しむ。候補はもちろん60年代末から70年代初めだ。

 岡林信康「山谷ブルース」、フォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」、そして藤圭子の「圭子の夢は夜開く」

 もちろんどれもが学生達とカラオケに行った時に歌う唄なのだが、誰も聞いてはくれない。

 「今日の仕事は辛かった、後は焼酎をあびるだけ・・・」

 「おらは死んじまっただー、おらは死んじまっただー・・・・」

 「昨日マー坊、今日トミー、明日はジョージかケン坊か・・・・」

 何ともバラバラな選曲だ。いずれも19~21歳頃に口ずさみ、何時しか覚えてしまった歌ばかりだ。中でも藤圭子のあのハスキーな声はたまらなく心にしみた。

 それだけに、何とも言えない宇多田ヒカルの「不安定な明るさ」が、藤圭子のハスキーな声とも重なってお気に入りとなった。その宇多田も今は休眠中。そして母の死。ひょっとしたらもうこのまま出てこないのかも・・・。

 青春の原動力がまた一つ消えた。やはり我々も消える時が近づいているのだろう。ま、いいか・・・!


 反戦の時代が終わりつつある。戦争を求めて若者が叫ぶ時、民は無意味に殺され、国は滅びる。こんな時代を余り永くは見たくはないと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 ランキングなどどうでもいいのだが、これを利用して大声で戦争を叫び、在留外国人を「殺せ」と叫び、核開発をお国のためだという者がいる。それが人類の道とはとても思えない。ほんの少しでも、それに抵抗する人に火種が残せればと書いてきた。しかし、こうまでショッキングなことが起こると、果たしてその気力がいつまで続くやら。


 

洛陽踏査の旅-3 0812 整備された明堂・方壇・定鼎門・寧人坊探索の条

2013-08-18 08:06:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 洛陽到着二日目は定鼎門址、その北西に接する寧人坊址を見学し、午後から明堂と方壇を見学した。



 定鼎門址はこの様に整備されていた。発掘調査開始の時から知っている私としてはとても複雑な思いだった。



 定鼎門の前、城外に進む道の復元整備。さきに見える色の違うところが駱駝などの足跡を屋外展示したコーナー



東門闕の復元。南外郭城壁の上に乗っているだけであることがこれでよくわかる。

 定鼎門址はかつて発掘調査中に訪れ、その復元に付いくつかの案があるとのご説明を受けたその遺構である。
  ① 遺構の位置だけを立体表示する
  ② 遺構を覆い屋で保護し、保護施設は定鼎門風の施設に作る。
  ③ 遺構をすっかり復元する
 こんな案だったかと思う。それで行けば第②案が採用されたようで、西安郊外の陽陵の西門闕がそうであるように遺構をすっぽりと定鼎門風の建物で覆ったものであった。その面構えは古代建築様式の知識を活かして復元したもののようで違和感はないのだが、復元されてみて気付いたのだが、洛陽城の正面の門にしては意外と立体性に欠けるものだな、という印象であった。
 発掘調査時にも感じていたことだが、こうして復元されてみるとさらにその印象を強くしたのが、東西の門闕であった。それなりの規模で付属させられているのだが、定鼎門の左右に延びる外郭城に平行に付設されているため、前後への迫力がないのである。漢魏洛陽城の昌闓門ですら前面の道路にこれらを突き出しているのに、ここではそれがないのである。

 そんな印象を持ちながら、内部の保護区に入った。なかなかよくできた展示施設で、発掘調査時の写真はもちろん、様々な比較資料や出土遺物の解説が所狭しとパネル紹介されていた。特に圧巻だったのは3本ある門道の中央門道、これは皇帝が通る門道だが、これを通行できるようにしているところだ。なかなか粋な計らいでもある。

 さらにもう一つ、門は楼閣のように重槨構造になっており、その2階部分から京内や京外が見渡せるのであるが、城外を見ると門道から延びる「道路跡」が色彩の違う石版で表示してあり、さらにその途中に、発掘調査でも見学した道路下に残され得た駱駝や人の足跡、轍が現地表示されているのだ。こうした細部にわたる遺構の表示は考古学者の提案無くしてあり得ないだろう。今は現場を離れられた調査担当者の思いの伝わる復元であった。

 この後見学した遺跡復元施設の展示でも言えることだが、考古学関係者の深く関わっている公開施設の展示はとてもよく工夫されているのだが、博物館になるとからきし駄目なのである。これはおそらく、考古学関係者が世界各国、特に日本との交流が深く、全国各地の遺跡復元をご覧になって参考にされているからではないかと推察するのである。現に、現場を案内下さった方々とは旧知の仲なのである。

 敢えて意見を言わせてもらうとすると、「遺物の展示」であろうか。門跡に遺物が少ないのは当然である。しかし、現場を訪れた時に見せてもらった大量の塼雅あるはずなのである。様々なマークが刻印されていて、これを研究した研究者は塼の製作と関係しているのではないかと考えておられた。残念なことに研究者が担当を離れられたので、その研究が活かされなかったのかも知れないが、「物」の少ない施設だけに、その展示コーナーがあってもよかったと思う。

 定鼎門址の復元施設に感激しながら次の現場、定鼎門を入って直ぐ西側の寧人坊の現場を見学した。



これは洛陽城内から南へ延びてき、定鼎門に至る大街の現状である。この右手・西側が洛陽城南端大街に接した町、の寧人坊である。

 これまた宮都発掘関係者にはたまらない内容の濃い現場であった。まだ発掘調査が始まったばかりなので、詳しい内容をご紹介できないのが残念だが、いずれ全面調査がなされ、報告書が出れば、間違いなく日本の都城制との比較研究に欠かせない資料となるだろう。これまでの中国の都城のイメージを一新する衝撃的な現場であった。やはり掘ってみるものだな!!というのが強い強い印象であった。

 文献史料だけでは都城は語れない!!文献史料にだけ頼っているととんでもない誤解をすることがあるのだと実感できた現場であった。

 とても強い感想を覚えた後、市内に戻り、明堂と方壇、応天門址の復元施設や発掘現場を見た。これまた様々な感慨を与えてくれた現場なので、別に日を改めて紹介することにする。


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 最も発掘調査の成果をどこまで日本の研究者、発掘担当者が活かそうとしているのかについてはこれまた新たな考えが浮かんできた一日でもあった。




洛陽踏査の旅―2 0811洛陽博物館見学の条 

2013-08-17 21:25:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 この日は最初に、東晋時代の王城の城壁の残骸を見学した。ガソリンスタンドの裏の私有地にほんの少しだけ残った城壁である。洛陽にとっては東晋の都こそが洛陽が都として用いられる最初だというのに随分扱いがでたらめである。もちろん洛陽郊外には中国最初の王朝・夏の王都ではないかという二里頭遺跡があり、そちらの方が大事なのかも知れないが、今日の市の中心に残る王城跡である。これは余りに可愛そう。


 東晋の王城の全体像はほとんど判っていないだけに残念でならない。隋唐や漢魏の洛陽城の保護・保存はそれなりに進んでいるのだが、現在の市街地の遺跡はズタズタである。

 



 次いで道路工事中に見つかったという「水利施設」を見学した。隋唐のものだというが機能はよくわかっていないらしい。

 

 


 洛陽城外、南西にある遺跡なのだが、この様に「城外」といえども様々な遺跡が残る洛陽。ところが、城外は開発し放題の状況で、ほとんど大規模なビル街へと化している。かつての穏やかな田園風景はどこにもない。

 悲しい思いを抱きながら、洛陽博物館へ向かった。

 
 

 巨大な博物館が洛陽城の南西、定鼎門の北西にできていた。
 その面構えはまるで大明宮含元殿みたいなものである。どうせなら洛陽に関係するものにすればいいのに・・・。
こんな思いを抱きながら中へ。

 

 巨大な展示スペースはゆったりとしており、とても近代的なのだが、展示方法は相変わらずの「一級品の羅列」どうしてこうも金太郎飴のような展示ばかりできるものだと、逆に感心する。中国には博物館学芸員課程というのはないのだろうか。専門の学芸員がいるとはとても思えない、工夫に欠ける単純な遺物の展示である。










 実は中国に来て毎回思うことなのだが、こうした博物館施設に子供を連れた若いお父さん、お母さんの姿をよく見るのだ。一生懸命説明している光景も珍しくはない。日本ではほとんど見ることのできなくなった光景である。それだけに学芸員の仕事が欲しいと思うのだが・・・。
 
 洛陽博物館を後にして、午後からは古墓博物館に出かけた。ここはもう4回目の見学である。但しその背後に巨大な壁画館が完成していた。直ぐ横にある景陵も含めて見学した。

 



壁画博物館の展示は洛陽博物館とは対照的に、生のいい資料を見せながら、特別展を開催して壁画の題材毎の解説や壁画を作る道具なども展示しており、それなりに工夫のされた展示となっていた。





私は壁画を見る時、基本的に、衣服や履き物、持ち物、建物などを中止に見ます。ここでも、靴や蓋がよくわかります。













予想外の資料との出会いにすっかり満足し博物館を後にし、直ぐ西隣の景陵に向かった。北魏の第8代皇帝・宣武帝(せんぶてい)の墓である。














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素人がサッカーに一言の条

2013-08-14 23:36:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今夜、サッカーの親善試合があったらしい。この前のブラジルでの試合とまるで同じ。大量失点の試合だったようだ。日本にいてテレビを見てカリカリ来なくてよかった。

 これだけ同じことを繰り返すのは選手も監督も、組織も頭が悪い!と言われても仕方ないかも。

 少し前、ある番組のスポーツコーナーで野村克也がサッカーの著名な解説者の質問に答えていったのがとても印象的だった。

 某氏「サッカーにアドバイスを!」

 野村「サッカーにわしは何にも興味がないね。サッカーって頭使うの?」
 
 某氏「えっ?!」(絶句)

 野村氏「足でやる競技に頭なんかいるの?」

 某氏「絶句」


私もそのとおりだと思う。サッカーに頭はいらないらしい。戦術だの守りのフォーメーションだの言うんだけれど、とてもそれを選手が頭と身体で覚えているとは思えないのである。

 この間の日本チームのあの大量失点を見ていると、同じシーンで、同じように点を採られる。要するにフォーメーションは頭に入っているかも知れないが、その応用が利かないのではないだろうか。数学に応用問題があるようにサッカーにだってそれがあってもいいはずだ。今夜の試合は見ていないのでよくわからないが、DFが攻撃に行き過ぎなんじゃないかしら。野球も守りが第一と言われるように、まず守りをしっかり固めないとね。DFは総替えだよね。


 でもそんなこととは別にどうでもいいこと。サッカーの素人のつぶやき。今夜はとても楽しかった。社会科学院の皆さんとの楽しい宴であった。研究という戦いを共有する者は同じなのかもと思っていまった。

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洛陽踏査の旅-1 猛暑の上海・鄭州を経て洛陽にの条

2013-08-11 02:10:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 朝四時に起き、というよりほとんど寝ないでそのまま京都駅に送ってもらい、始発のはるかに乗って関空へ。九時の飛行機が少し早く出発とかでバタバタと機内へ。

 上海の国際空港甫東空港に着いたのが現地時間の10時半(時差1時間だから約二時間半の飛行)。ここで福岡から飛んできた仲間と待ち合わせ。ところがいない。ふと考えると上海にはターミナルが二つある。電話すると案の定。

 とりあえず換金しろと言うのでしてみてまたまた腹が立った。去年は1万円で770元手に入ったのに、あのおぞましい安倍のせいで、ナナナント570元。何が円安誘導じゃ!!ささやかな庶民の海外旅行の楽しみも奪う悪政。何時か権力を奪取したら一番に黒田と安倍を並べて○×□△?等と威勢のいいことを思っても叶わぬ夢。200元の差は大きい。その上上海の物価の高いこと。空港でラーメン食べたら一人1000円!!日本と変わらんじゃん。

 甫東空港から地下鉄に乗って国内線の紅橋空港へ。紅橋へは地下鉄2号線に乗って広蘭路駅で乗り換え。すぐ前に電車が来るからここで紅橋空港まで乗る。但し、なぜか一つ手前の駅で電車が止まり、全員降りることに。その後紅橋空港よりさらに先へ行く電車が来てそれに乗り換えるというハプニング?







本当ならここから洛陽に直行するはずが、客が少ないからか?!キャンセルに、やむなく鄭州に。お腹がすいたので空港内で食事に。これがバカ高。




これだけで1000円!!今や中国は日本並み。

上海から鄭州へ飛んでそこから車で3時間、洛陽をめざす。鄭州の空港で夕食。ところがこれまた高い!!小さな缶ビールでささやかな乾杯。おつまみも少しで、仲間が持ってきた日本のポテチをつまむ惨めさ。

 実はバタバタと出発したのでお金を下ろすのを忘れていた。空港で何とかなるわ、と思っていたら、九時までは他行のカードが使えない。飛行機は9時に出る!アカン!!あちこち探しまくって、少しだけお金のあるカードからやっと6万円を引き出して出国へ。きっと中国では仲間から借金生活。アー情けない。これも出発まで原稿やら採点やら、病院やらでじっくり準備ができなかったせい(とは言ってもいつもこんな調子ではあるが(笑))。

 昨夜の睡眠不足で車中はほとんど寝ていたものの、車の冷房がきつくて、頭が痛い。バファリンを飲みたいがお金もないから水が買えない。アーこの先どうなることやら。

 車で揺られ揺られ、やっと23時に洛陽に着いた。しかし暗闇に浮かぶ洛陽の町はどうも不気味。以前と様変わり、街路灯の燦然と輝き、高層ビルが林立する。どこにでもある地方都市に変貌。なんで為政者というのは金太郎飴のような町ばかり作りたがるのか?判らん!!明日朝、明るくなってから見る洛陽の町が怖い。

 奈良の趣を残した宮都の面影はどこにもない予感がする。超高層ビルの建設で遺跡は破壊され、「保護」という名の講演開発によって、こぎれいにされた遺跡はきっと壊滅しているのでは・・・。
 
 というわけでホテルに入り、お湯を沸かし、コーヒーを作ってホッとしたところ。目覚めて窓外に広がる洛陽の朝が怖い!!明日は洛陽の正面門、定鼎門の見学から始まる。5年前には発掘中の現場を案内頂きそこに使用されている塼に遺された様々な目印に小躍りした現場だ。とんでもないものに生まれ変わっているという噂が怖い。

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森浩一先生が亡くなられての条

2013-08-10 01:00:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 森浩一先生がお亡くなりになったという報せが昨日の夕方友人から届いた。お亡くなりになったのは8月6日だったそうだ。85歳だったという。

 私が初めて森先生とお会いしたいきさつは2005年7月21日のこのブログの記事に詳しい

 1990年頃の春だったように思う。毎週水曜日に開かれている同志社大学の研究会で私に長岡京のことをしゃべれというご依頼?で新町の同志社大学の研究室に伺ったのがはじめである。恥ずかしながら同志社大学の校内に入ったのは浪人の頃以来のことで、もちろん考古学研究室は初めてだった。

たしか、条坊制のことを話したような気がする。先生の目的の半分は、その後の宴会で私にお誘い頂いた原稿の執筆依頼にあったらしい。

『日本の古代遺跡 京都Ⅱ』(保育舎1992年)への原稿の執筆だった。もちろん私の分担は『長岡京』。昨年亡くなった久保哲正さんも恭仁京辺りのことだったかを分担されると言うことで確かその場におられたような気がする。

 締め切りはそんなに遅くはなかった。直ぐに書かないと間に合いそうもなかった。でも、長岡京のことなら何とでもなるわ!と高をくくっていた。するとある時再招集がかかり、現状の報告を求められた。私は何とか書き始めていたので合格だったのだが、多くの方がまだ手つかずだった。すると、「もう仕方がない。君ら二人で書け!!」と、あいなった。もう一人が山田邦和博士である。以来20余年、山田博士とは刎頸の友となった。

 これをきっかけにして森先生から次々と原稿の依頼が来た。その6年後には、論文の数はあっという間に増えた。特に査読誌である『古代文化』には連続して3本ほど書かせてもらった。先生の編集なさった本にもその一部を書かせてもらった。今数えてみると、単行本(山田博士との共著)1冊、論文8本、先生の編集なさった書籍への執筆5冊。いずれもその後、博士号を取る時に核をなした論文ばかりである。

 もし森先生との出会いがなかったなら、私は今のところにはいなかったに違いない。まさしく人生の恩人である。

 でもある時ショッキングな話を聞かされたことがある。

 某有名な旧帝大系の先生とお話ししている時である。

 「山中君、君はいつから森派になったんや?」一瞬耳を疑った。

 「ハ?」(森派とはどういう意味なんや?)
 
 「この頃森浩一の編集する本によう書いているやないか?!」

 「ハ、ハイ・・・・」

以後会話は続かなかった。そしてその大先生から二度と原稿のお誘いはなかった。

私は、言ってみれば一匹狼である。広島大学を卒業はしているが、それは履歴上のことであって、実際に考古学を身につけたのは「高橋学校」においてであった。

 かつて京都府教育委員会の技師をなさっていた故高橋美久二さんの門下生である。考古学、地理学、文献史学を一からたたき込んで頂いた。だから私に「派閥」などあるはずがない。

 森先生にはおそらく認めて下さって、「原稿を書け!」と仰って下さったのだと思う。言うまでもなく、私は同志社大学出身でもないし、友人にそういう者がいたわけではない(もちろん今は山田博士と朧谷先生という偉大なお二人の同志社人とお付き合いさせて頂いているが)。

 それこそ学閥など無縁だから、機会さえ頂ければ次々と書かせて頂いただけなのである。それなのに・・・。学閥というのは恐ろしい!!痛感した瞬間だった。

 その後も様々な場面で森先生にはご援助頂いた。最後にお会いしたのは2010年111月13日(土)だった。その頃は既に腎臓がお悪くて、透析の合間を縫ってのご講演であった。

 第19回壬申の乱ウオークを午前中に実施して、その午後からのご講演であった。

 第3回久留倍講演会、「聖武天皇と万葉歌人と伊勢」というテーマで、前座を私が務め、最初に奈良文化財研究所の馬場さんにお話を伺い、その後森先生から「伊勢国雑考」と題して伊勢にまつわる万葉集のお話しを幅広い世界からの引用で進めて頂いた。会場に集まった300人の聴衆は「森節」に魅了された。

 終演後のアンケートには是非もう一度!!と書かれていた。

 あの壮大な世界観をもう一度お伺いすることができなくなって、本当に寂しい。

 心からご冥福をお祈りしたい。ありがとうございました。

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もうすぐ京都始発のはるかに乗って関空に向かい上海経由洛陽である。元気があれば洛陽・殷墟・鄴城便りをお送りしたい。

2013年の8月6日ヒロシマの条

2013-08-07 02:51:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 虚しかった。

 広島市長のヒロシマ宣言が、今福島で起こっているとんでもない事態に触れることもなく、被爆者の差別を今頃になって持ち出す姑息さ。核兵器が「絶対悪」なら、その原料を産み出す原発もまた同じ「絶対悪」!!しかし、それは目の前にいる安倍に遠慮して言わない。この茶番。これほど醜い、姑息な「ヒロシマ宣言」なんて聞いたこともない。「広島市長のつぶやき」とでもすべきだろう。これが世界に発信されるなんて、馬鹿げてる。

 そしてこの後に続いた安倍晋三の談話?挨拶?

 広島市長の「宣言」の一部をもらったかのような被爆者援護の表明?君たち自民党が被爆者援護をずっとずっと遅らせてきたのじゃないの。ようもぬけぬけと差別に苦しんだ被爆者に同情するかのごとき虚しい文言の羅列。そして、実現する気などこれっぽっちもない2020年核兵器廃絶という言葉の軽さ。だって核兵器の原材料となるプルトニウムを産み出し続ける原発を廃止する気など全くないのだもの。

 それにしてもこんな男に、軽い軽い言葉にどうして日本国民は騙されるのか。

 もっともこんな茶番はオリバーストーンさんが既に予告していたこと。「どうせ明日皆さんは口を揃えて「核兵器廃絶」を唱えるのだろうが・・・」と。皮肉はずばり的中。

 しかし、国民の関心は「経済」。金儲け!!核兵器も原発も無関心。

 かつて井上陽水は

 「都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた。だけども問題は今日の雨、傘がない」

と歌った。しかし今の国民は「福島第二原発で放射能漏れが増えている。だけども問題は今日の株、円高」政治には関心がないが、唯一関心があるのは「金」。

 「ヒットラーの手口をまねろ!!」と堂々と右翼の集会で発言した副総理兼財務大臣を、どの新聞も全面批判しない。誰も辞任要求しない。任命権者の安倍の責任を問わない。それどころか、朝日に至っては「また失言」とまるで軽口のごとく捉えて窘めるだけ。ある読売テレビの番組のコメンテーターに至っては「発言は悪いが、麻生さんはいい人だ。」と個人の性格にすり替える。

 アメリカやドイツが批判すると少し問題にするが、自ら批判の口火を切ることはない。

 既に麻生が言わなくても、今の日本はかつてのナチス台頭の時と同じ状況になっている。「金」のためなら少々の「軽口」はいいという考えらしい。こうして気がついてみたら軍隊ができ、集団的自衛権を認めて「自衛のためだ」と言っていつでも戦争に出向くことができるようにする。戦前の録画を見ているような今日この頃。

 
 とてもとても悲しい今年の8月6日であった。同感!とおもう人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ