yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

帰ってきた栄里子さん!

2007-04-28 23:42:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
多発性骨髄腫治癒のためにいつもの数倍の力で協力下さいよろしくお願いします。


ここのところ暗い話題ばかりでした。

伯母の死。その後、ショックを受けた私の母の入院。

年末にも同じような症状で3週間ほど入ったのですが、再発。なにせ食べ物が食べられないというから厄介です。

そんなこんなでバタバタしていると今度は自分自身がとんでもない風邪に罹ったらしく、ここ数日は死にそう!(ちょっと大袈裟!)珍しく官舎に帰って布団にくるまって半日ほど寝ていました。それでもよくならないのですが、連休を前にして授業をさぼるわけにもいかず、ゴホンゴホン、ゼーゼーいわせながら講義。学生の方こそ迷惑だったに違いない。ごめんなさい。もっと健康管理に気をつけないとね!

さらにこれに追い打ちをかけたのが 「し ご と 」!!!

会議、申請事務と報告事務が各1件。

会議ではやけのやんぱち久しぶりに吠えてしまいました。
だってね、こんなこと信じられます?

3月初め頃から中頃まで、未執行の予算が学部全体で○○○○万円あるから何とかして欲しい、というアナウンスが度々流されていたのです。ところが4月になって精算してみると0になっていたというんです。

「????」

もちろん大物を買うわけにもいかず、・・・?

答えは  「本」

もちろん学問に本は不可欠ですよ。でもね、わずか2週間ほどで、○千万円の本が読めるんですかね? 

「わからん!」大学人の常識について行けませんわ。(そんなことしてるから自分で稼いでこいと言われるんや!稼ぎもせんから読みもせん本をまとめ買いするんや!自分で稼いだらもっと計画的に何でも買うはずやないですか!)

だから吠えてやりました。少なくとも,科学研究費の申請すらしない人に平等に研究費を分配することはもう止めましょう!と。書類を書くのはとても大変ですよ!事実私はここ数日その準備に追われていたのですから。でもね、そうしないと各大学への研究費の配分を減らすと財務省が言っている最中、自分だけはその雑務からのがれようとする醜い魂胆!

あまりの迫力?に会議はシーン!お陰で治りかけていた風邪がさらに悪化。ブログなんて・・・、という状態だったのに、なぜか連休に入った今日から急に楽になってきた。要するにとことん仕事せい!ということですかね。

アー、長い愚痴。

そんなところへ朗報!!

安藤栄里子さんが骨髄移植を終えて帰還しました。

この間何度かご報告したように、彼女の回復のためにベトナムで、イギリスで、そして信州善光寺で、まさに世界中の神様にお願いしてきたことの御利益がほんの少しあったのです。

こんな便りが来ました。

*********************************

親愛なる10年会のみなみなさま

こんにちは。安藤栄里子です。
みなさんの応援のおかげをもちまして、
このほどドナーからの骨髄移植を経て、“生還”いたしました。

毎日、府立医大の8階で目の前にドドーンとあった「大文字」を
京都の街並み越し遠くに認めては、あ~帰ってきたのだなあ、と思います。

入退院はありましたが、移植前の地固めの治療を含めると、
今回は通算7か月を病院で過ごしたことになります。
あえて振り返ると長かったですけれど、この間、私には
主治医をコーチに迎えたオリンピックかなにかの強化合宿みたいな感じ
(ってオリンピックの強化合宿がどんなのかしりませんけど)で、
ひとつひとつ自分の閾値の自己ベストに挑戦するような経験
だったように思います。

現状をもう少し報告させてください。
骨髄検査によると、私の骨髄の中ではいま、どんどん
移植した姉の血球が増殖をはじめています。
自分の末梢を流れている血液はこれまでA型でしたが、
まもなく私の全身を栄養する血液は、姉と同じAB型に変わります。
(というかすでに変わってきています)

幸いにも、HLAという白血球の型が一致したドナーの血球は、
限りなく私本来の血液と似た顔をしているのですが
微妙な違いをカラダの免疫システムは見逃しません。
そこで、ぬぬ?このカラダは本来流れるべきカラダと違うぞ、
と、彼らが気付いた時、私のカラダを「異物」とみなして攻撃を始めます。

攻撃は、下痢、嘔吐、皮疹に肝機能低下・・・などなど
拒絶のような現象になってあれこれ出現します。
これをコントロールするために、いまはまだ
免疫抑制剤などの薬剤の力を借りています。
免疫抑制剤ですので、文字通り、いまは免疫が抑制されていて
感染症に弱い状態ですので、イヌコロと遊ぶのにもマスクが手放せません。

これから先もしばらくは、ドナーの血球と私のカラダが摩擦を繰り返していきます
が、
やがて免疫システムは「寛容」を体得し、両者が和解。
私のカラダに姉の血球がなじんでいくのだそうです。

主治医の説明では、私の場合、薬剤の解毒がうまくいっていることもあり
この「和解」のスピードがおかげさまで異例の早さで進んでいて
「理想的な経過」とまで言ってくださっています。

こうして移植の山場は乗り越えることができたのですが、
ただ、本来の「多発性骨髄腫」という疾患がこれで治癒したというわけでは
ありません。まだ、全身各所に残存する骨髄腫細胞を、これからドナーの
血球によって退治してもらおう、というのが本来、移植の目的です。

したがって、ここから先は別の感染症にさらされたり、
ストレスで免疫低下を起こすなどのリスクを下げ、
ドナーの血球にめいっぱい闘ってもらえる環境をつくることが
私自身にできる「治療」になります。

こうして、1年なり、2年なり、もしも無治療で病気の力を
押さえ込むことができたなら、
その先に、もしかしたら、これまでありえなかった「治癒」の
可能性を現実のものにできるかもしれません。

道のりは長いですが、先を急がず、ゆっくりと歩いていくつもりです。
どうぞ、AB型になった新生安藤もよろしくお願い申し上げます。


安藤栄里子


■追伸
血液型占いはどの欄を見ればよいのか、ちょっと戸惑う安藤です。

***********************************

不思議に思ったのは人間の血液型が変わるということです。
僕もこの怠惰なA型をAB型にして欲しいんですが・・・・。

もちろんまだまだ安心はできません。と言うよりこれからが本番です。ご本人の言葉にもあるとおり、世界中で治癒例のないこの難病にいつ勝てるのか、全く判りません。でも、無信心、無宗教の私が全世界の神様にお願いしているのですから、見捨てられないはずです!神を名乗るそれぞれの神様が!もし彼女を治癒させなかったら世界中の神様の追放運動に本格的に立ち上がります。それくらいの強い信念で神頼みしています。

皆さんも、是非お願いします。世界初の治癒例ができることを祈ってください!
それによって、何万の患者さんが助かる道が開けるのです。彼女が少しずつその扉を開けつつあることだけは事実です。

お願いします!!

多発性骨髄腫根絶のためにポチッとよろしく。


商家・山中家の終焉

2007-04-21 07:45:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

ここのところ訃報ばかりが飛び込んできて、喪服を片付ける暇がない。
19日未明、伯母が亡くなった。
96歳だった。明治末年の生まれだ。大袈裟に言えば明治・大正・昭和・平成の時代を生きたことになる。
普通この年だと天寿を全うした、大往生だ、等というのかもしれない。しかし伯母の場合は亡くなるわずか2週間程前まで経営している店の切り盛りをし、品物の仕入れやら、客の対応やらをこなしていたというのである。3月末頃に少し具合がおかしいというので一度入院したが、退院してホッとさせていたのであるが、ペースメーカーを入れていた心臓がもたなかったのだろう、ぽっくり亡くなった。死に顔もとてもその年には見えない皺のない綺麗なものだった。

彼女は私の父の姉である。彼らの姉弟は12人もいたらしい。内4人は乳幼児の頃になくなり、8人が成人した。昔のことなので、男の子は3人を除き養子に出され、残ったのが、前にも紹介した長男良正と私の父、そして戦死した叔父であった。祖母は末っ子であった戦死した叔父を生んで間もなく亡くなったらしく、私は全く知らない。祖父と共に2人とも子供のなかった曾祖父母に養子に迎えられた。その曾祖父は生け花を、曾祖母は産婆学校を経営しようとして反対され、幼稚園にしたというから起業家の卵だろうか、商才があったのだろう。その幼稚園に後、私の妹が勤めるというのだから妙な巡り合わせだ。彼らの親は江戸時代、西陣織を営んだというから「山中家」は商家の血筋というのだろうか。

直接血は繋がっていなかった祖父だが、彼も商才に長けていたらしく、戦前に大規模な友禅染屋を経営し、京都では羽振りをきかせたらしい。しかし、どこの「家」も戦争という課題を背負わされ、戦後解体していくのだが、「山中家」も同じ運命をたどった。跡を継がせる予定だった末っ子が戦死し、長男・次男は全く商売人には向かない性格、伯父伯母の一致した言い分が、一昨日亡くなった伯母が男だったら・・・、というくらい、彼女こそ商売人向き。もちろん嫁に行ったので、跡を継ぐわけにはいかなかった。結局戦後、友禅屋は番頭さん達に暖簾分けして止めたらしい。私のかすかな記憶では、4・5歳の頃友禅工場で遊んだので、その頃解散したのだろうか。

伯母自身は嫁いだ後、早く伯父に先立たれ、とても苦労して5人の子供を育てるのだが、やはり商売のセンスがあるのだろうか、今から40年程前に突然お好み焼き屋さんを始めて一時は京都でも評判の店になった。私の学生時代、京都に憧れて押し寄せる友人達を腹一杯にしてくれたのがこの店だった。そんな店もさすがに伯母の歳と共に縮小気味だったらしいが、それでも昨年、学生を連れて食べに行くと元気な姿を見せ、喜んでくれていた。

「山中家」の男子は早世の血筋らしく、伯父が42歳、私の父が49歳で亡くなった上、伯父のところには3人の従姉妹しかいなかった。結局山中の「家」は私のところにだけ残ることになった。そんなわけで、伯母は父が亡くなった後、たいそう私を可愛がってくれた。お好み焼きをたらふく食わせてくれたのもその一つだったのだろう。

そんな伯母の残した財布の中に「こんなものがあった」といって葬儀の後で従姉妹の見せてくれのが、細かくたたんだ新聞の切り抜きだった。三重県四日市市の久留倍遺跡の重要性を訴えるために、京都新聞の文化欄に掲載された私の顔写真の載る取材記事だった。

とても嬉しかった。

はじめて涙がにじんできた。伯母の「期待」が身にしみた。それと共に「商家・山中家」の終焉を実感した。「家」というのがこうして壊れていくのだと。

新たな「○家・山中家」が生まれる素地はない。これからは息子や息子の息子達がそれぞれの「家」を生きていくのだろう。私にのし掛かっていた「山中家」の重圧が取れた日でもあった。

「章ちゃん、有り難う」という声が聞こえたような気がする。


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悲しくて、悲しくて、だから!世界中から武器をなくそう!!

2007-04-18 07:29:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
とてもとても悲しいニュースが2件も続いて届いた。

アメリカでは再び無差別の銃撃によって32人もの学生や教官が殺害された。

昨日の授業で、なぜアメリカは拳銃の所持を許可するのか?と疑問を投げかけたばかりだった。

ところが昨夜になってさらに悲しいニュースが飛び込んできた。
市長選挙まっただ中の長崎市で伊藤市長が銃撃され、先ほど亡くなったという。

17年前、本島市長が銃撃されたとき、言論を封殺する社会的風潮がこの背景にあると考え、民主主義の危機を訴えたが、事態はさらに深刻であることを今回の「事件」は示している。

長崎の「事件」の背景は「個人的恨み」であるとされている。本当だろうか?
伊藤市長は市長就任時には必ずしも「平和」に熱心であったわけではなかったと言われる。私自身も、本島市長が選挙に敗れ、その誠実な平和を希求する心が長崎から消えるのではないかと危惧していた。まさに暴力によって言論が封殺されるのではないかと危ぶんだのである。しかし、近年の伊藤市長は毎年の8月9日に核兵器の廃絶を訴え、平和を願う誠実なメッセージを流し続けた。「党」とは関係ない誠実な態度に感銘すら覚えたものである。

ところが再びその長崎市長が銃殺されるという民主主義の根幹を揺るがす暴挙がなされた。先の広島市長選挙でも、平和を強く訴える秋葉忠利さんの選挙ポスターが選挙期間中二度にわたって刃物でずたずたに破られたという。私にはこの刃物が秋葉さんに向けられている(向けているのだと威嚇している)としか思えなかった。

その背景に、「平和」を否定する暴力があることは間違いない。

秋葉さんを批判する意見に「平和で飯は食えない」という論理がある。これもまた今回の暴力と同じだと私は思う。平和だからこそ飯が食えるのであって、まず私達がなさねばならないことは平和な社会である!戦争で飯の食えない子供達を私達はどれだけみてきたことか。

私は長崎市長銃殺「事件」は単なる恨みから発しているのではないと考えている。

背後に潜む「言論を暴力でもって封殺する風潮」こそが原因だと考える。民主主義の根幹である自由な言論を封殺しようという風潮(政治的意図)があるからこそ、白昼堂々とこんな暴力がまかり通るのである。


今国会に上程されている放送法「改正」案は、ほとんど注目されることなく密かに審議入りし、成立を待つという不気味な状況にある。

私はこうした法律をたまたま絶対多数を握った今の内にやってしまおうという現政府の非民主主義的な手法は、拳銃で言論を抹殺しようという「事件」と同じだと考えている。

総務省のホームページで示されているその案文は、実に恐ろしい内容を示している。

まるで戦前の国営放送局の設置法案である。人々はウソの放送に踊らせれ、国家の意図の下に動員され、殺されていった。そんな放送局が造られようとしているにもかかわらず、マスコミは沈黙し、政党はその真意を暴く能力もない。

政府の任命した経営委員が権力を握り、政府の都合の悪い情報は流されない構造が構築されようとしているのである。つまり言論を国家が統制し、国家の情報のみが強制的に流された戦前の体制が構築されようとしているのである。

目の前に拳銃は突きつけられていないから誰も今の時点で恐怖感を味わうことはない。しかし日本国家は強力な軍隊を持っているのである。これ以上強力な武器はない。その武器を背景に国家の意見に逆らうものを排除しようという法案である。

長崎市長を殺害したのと同じ狢であることを全世界の人々が知らなければならないと思う。


そもそも地球上に武器はいらない。武器がなかった頃地球上の人類は平和であった。

「そんなの理想主義者の幻想だ」と一笑に付されるかもしれない。

しかし、アメリカの無差別殺人も、日本の長崎市長銃殺事件も、拳銃が、武器がなければ起こりえなかった!!

日本歴史を見れば明らかなとおり、日本列島で大量の殺戮が行われたのは刀や鉄砲が蔓延した戦国時代と、外国で大量の殺戮を行った戦前の軍隊による殺戮に対する反攻として行われた沖縄戦、広島・長崎原爆・全土に渡って行われた空襲のみである。それ以外の争いは極めて小規模であった。

日本列島には歴史的に都市や国家を護る城壁がない。これは世界史の中で希有な例である。なぜか?大量破壊兵器・体制を持たないから守る必要性がなかったのである。

海という強力な「城壁」があるから外国に対してすら護る施設が必要なかったのである。

海という城壁を最大限に生かせば、武器などなくても日本列島は守れることを日本史が証明してくれている。

ところが今日、日本列島内には沢山の「軍人」や警察官が配属されている。彼らはいったい何を守ってきたのだろうか。今問題になっている拉致の問題も、そもそもこうした軍人や警官がきちんと海上や周辺を警備しなかったからこそ起こった問題だったのではないだろうか。その反省はどこからも聞かれない。


彼らが徹底的に「暴力団」の「刀狩り」を進め、海上を監視して武器の密輸を阻止すれば、こんな悲劇は防げたはずである。

どうしてしないのだろう?私には国家がぐるになって「暴力団」というテロ組織を温存しているとしか思えないのである。

今こそ、時間をもてあましている機動隊員を全国の暴力団事務所に出向かせて家宅捜査させ、構成員をしらみつぶしにチェックして武器を取り上げるべきではないだろうか。そうすれば少なくともこんな悲劇は起こらない。

さらに自衛隊を海上保安庁の指揮下に入れ、海上の徹底的な監視体制を築かせるべきではないだろうか。そうすれば日本から武器は消える。

世界とて同じである。アメリカが武器規制をできないのは世界中に武器を輸出している武器商人の圧力に屈しているからである。彼らの武器が、中東で、アフリカで、中南米で大量殺戮を生み出しているのである。武器さえなくなれば・・・・。

世界中から武器を取り上げない限り地球の存続なんてあり得ない。

悲しい!と事件が起こる度に嘆き悲しむだけで何も解決しない。その根本である武器をなくさない限り。

それを一番実行可能な国は、島国であり、平和憲法を持つ日本である。いや、日本しかないかもしれない。経済大国日本がそれを実行すれば、世界の国々に与える影響は絶大である。

今すぐ日本の「刀狩り」を実施し、世界の範たるべきではないだろうか。

とても「文化財」を語る気にはなれない悲しい日だからこそ、時間を割いて久しぶりに書いてみた。

悲しんでばかりはいられない。世界中の「刀狩り」をみんなの力で、今こそ訴えようではありませんか。世界中のブログを書いている人がこれから毎日一言何処かに「武器を捨てよう!」と訴えればいつか大きな力になると私は思う。

今、「歴史のロマン」を語る気にはなれない!!

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分布調査-XX  治田銀山に登るの条

2007-04-05 09:38:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(いなべの分布調査はいつも山奥があって大変!腐りかけた丸木橋をおそるおそる渡る。)

 イギリスから帰ってまだ四日しか経たないのにもう遠い昔のことのように思えてくる。これはいつものことなんですが、現実は次々と押し寄せ、ここ二日は例の大学教育の新しい方向性を打ち出すための補助金申請文書の作成に追われた。事務の方を長時間待たせて昨夜深夜にようやくできあがった。とはいってもやはり短時間で書き上げた(本当はイギリスに行く前に出してあったのだが、担当事務官が放置しておいたために帰国後新しい事務官と大急ぎで書類を作成する羽目になった)ものだけにまだまだ推敲に欠けるが、書きながら少しずつ面白くなってきたというからこれまた「病気」かもしれない(笑い)。


(治田銀山・銅山への道なき道の一つ「ヒロカワラ」確かに広い川原がここだけは広がっていた。)
 この書類騒動の前には出かける前からの約束で、年度末に終わった昨年度分布調査の新発見の遺跡の再確認と新年度に向けた協議のために2日には亀山市へ、3日にはいなべ市へ出かけた。


(明治の政商五代友厚の娘アイが築かせたという隧道)
 亀山市では昨年度の夏の調査で出た平・丸瓦の分類に当たった。やはり生の資料はとても面白い!!(このマニアックなおもしろさがなかなか今の学生さんには判ってもらえないみたいで、私の現在の大きなストレスの一つである)

 沢山のコンテナから瓦を一袋ずつ出しながら気付いたことの第1は「えらく剥離したかけらが多い!」と言うことであった。これまでの瓦整理の経験ではあまり感じなかった第一印象である。


(大通洞坑の中から外を見るとこんな感じ)
 このことが実は瓦分類に大きなヒントとなった。

 平瓦は全て一枚造りなのだが、どうも一枚を成形台に載せるに際しておそらく工人差があるのだ。①直方体の粘土塊から糸切りで比較的綺麗にはぎ取るもの、②一枚を綺麗に切り取れないせいか部分的に子供の掌大くらいの粘土塊を成形台に継ぎ足したもの、③明らかに成形台が大きく、比較的厚い粘土の一枚板を用い、少し砂質の粘土を使うもの、おおよそこの3種類に分かれるのだ。もちろん、まだその一部を見ただけなので、これまで周辺の観音沖遺跡や切山瓦窯跡から出土している粘土質が良好なせいかやや厚く持った感触が非常に思い一群が今のところ見当たらないのである。基本的に瓦の粘土質(胎土)は大きく変わらないので、これまでに生産地として知られている切山瓦窯産だとは思うが、ひょっとしたら近くにもう1・2カ所瓦窯があるのかもしれない。

 いずれにしろ、3~4のグループの工人集団が割り出せた成果は大きい!果たしてこうした見通しを新年度から名古屋大学の大学院生となったMY君がどれだけうまく整理し、新たな研究成果として出してくれるか、これからが楽しみだ。


(日之丘稲荷は火之丘稲荷?)
 まだまだ時差ぼけが激しく、途中一時間ほど仮眠させてもらっての瓦観察ではあったが、とても充実した一日を過ごすことができた。これも、鈴鹿関という超一流の遺跡のなせる技!このことも実は一部の学生さんには理解してもらえない。発掘調査に出かけることが「きつい仕事」だと考古学を学ぶ学生が感じる今日この頃でもある。でも、どこぞの高校野球の監督さんではないが、、怒りは奥深くにしまって、笑顔で接しなければ・・・、と思う今日この頃でもある。ホントにこれでいいのかね?判らん!!


(拾った炉壁。何度も貼り足したものも散乱しているし、もちろん鉱滓はいくらでも拾える。金属関係の研究がしたいといっている学生もいるんですが、分布は絶対に来ないしな・・・・)
 さて、翌日は三重県最北端の町、いなべ市に編入された旧北勢町に所在した近世の治田銀山・銅山の確認調査である。前日がかなり暖かかったのでつい薄着で行ったのが悪かった、大安町の駅に着いたときから冷たい風に襲われて震え上がってしまった。急遽教育委員会のHCさんのジャンバーを借りていざ出発!

 ところでここで嬉しいニュース。

 3月まで宮崎県で年季付きの嘱託職員として日向の地の発掘調査を担当していたMN君が無事いなべ市の職員として採用され、文化財担当として私達の仕事に加わってくれたことである。彼はHCさん同様、私が三重大学に赴任してから育てた?(育った!)優秀な考古学研究室の卒業生で、話によると宮崎県も惜しまれて出てきたそうだ。人間やっぱり見る人は見ているもんね。努力は決して無駄にはならない!!

 久しぶりに会った彼はやや若返ったようにも見えた、きっと新入社員として身繕いをしたせいだろう。たくましくも見えた彼と共に新三年生の元気のいい学生と共に青川の上流へ向かった。

 大学に帰ってから調べると彼の地は登山者や渓流釣りの人々にはとても有名な場所らしいが、まだ時差ぼけの残る私には大変な難所であった。途中道は消え、川原を縦断し何度も丸太だけの橋を渡り、やっとの思いで明治末年に採掘に挑戦したという五代家の残した大通洞坑にたどり着いた。途中、工夫達の暮らしたという下がり藤(さがりふじ)と呼ばれる狭い「村」跡(ここには小さな遊郭もあったという)を通り過ぎ、縦坑跡に着いたときには汗びっしょりであった。


(精錬炉の想定位置)
 五代家が採掘のために敷いたというトロッコの跡が縦坑から対岸へと見事に残っていた。周辺にはさすが紀伊半島の一角、沢山の銅や水銀の付着した鉱石の残骸が散乱している。おそらく採算に合わないから放棄されたのであろうが、最盛期の江戸時代元禄年間には鉱石の重さで換算すると年間200トン近く産出したという。銀鉱石も年間100トン以上産出した時期もあるらしく、幕府直轄の鉱山としてかなり重要な役目を果たしていたことが判る。

 大通洞坑を後にして、さらに上流へ登ると、そこには日之丘稲荷があった、稲荷の祭られていた場所には直ぐにそれと判る鉱滓や炉壁が大量に散乱している。この地で精錬していたのであろう。日之丘が「火之丘」の転じたものであるという説もこれでうなずける。そう言えば京都の山科にも日ノ岡があるが、この地は有名な製鉄遺跡の見つかった場所である。或いは地名もそこから来ているのであろうか。

 周辺には銅精錬に携わった人々の作業小屋であろうか、狭い空間を切石で仕切ったかつての建物跡が長屋風に並んでいるのも認められる。


(登り口にある「青川峡キャンピングパーク」全国でも一二の評判のキャンプ場だという。確かに!冬場は半額らしい。来年の分布はここに泊まり込んでやりたいな!なお、思いつきを一つ。青川という川の名前は「青生」から来ていて、「丹生」の語義同様、上流の銅鉱山の緑青の青と関係があるのではと思いついた。駄目?)

 先のHadorian’s Wallのチェスターのフォートでも明かな通り、こうした作業人夫や兵士、仕丁達の生活、仕事場空得感は極めて狭く劣悪でした。もっと元気があれば先の峠まで行くのですが、既に膝が笑い出していましたし、次もありますので諦めました。もっともその次というのが大変なところで、結局目的地に到達せず、帰ってきました。もちろん膝は両足ともガクガク。江戸橋から研究室まで歩くのすら大変でした。

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Hadorian’s Wall Reports-5 ダーラム出発いざ!ヴィンドランダへの条

2007-04-02 06:01:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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今回の旅の大きな目的の一つが木簡の出土で知られるヴィンドランダ(Vindolanda)へ行くことでした。しかし、彼の地に行くには車で行く以外にありません。誰か案内してくれる人がいればいいのですが、残念ながら、先に記しましたようにこの時期は春休みで、みんな何処かにバカンスに出かけているそうです。イギリスの人達はとてもヴァカンスを大切にするそうです(これは本来当たり前のことで、日本人が働きすぎるのです!!お店が日曜日休みになるのも、わずか四半世紀程前の日本でも当たり前でした。ところがこの頃は年中開いている、それどころか24時間年中開いている店がざらにある異常さ!いつからこんなせわしない日本になったのでしょうね。どこぞの大企業の偉いさんが何でもかんでも効率、効率!そしてその後ろ盾の政治家も効率、効率!そのくせ、その人達こそ最も効率が悪い!!!変な国。)。だから御案内を頼むことができず。自ら運転する羽目に。アー恐ろしや!


(レンタカーに乗ること自体が2回目というのに、まさか異国の地で乗るなんて、誰が考えたのでしょうね・・・))
 車はクライスラーのディーゼル、7人乗り。レンタカー代は2日間で35000円。ガソリン代など諸々入れて40000円くらいかかりました。でも、一人頭5000円ですからイギリスでは安い方でしょう。おそるおそる出発!何せ、ウインカーの位置が反対。もっと問題は交差点!「高速道路」にまで交差点があり、右折するのにサークルをぐるぐる回らなければならない。アー恐ろしい!!


(Corbridgeはお休みでした。地図を見ながら道順を親切に教えてくれました。有り難うございました。基本的にイギリス人は親切です。)
 まず最初の目的地は、Corbridge というローマ時代の町とfort(要塞)の一つ。案内はVindolandaまではMさん。これに我が同行者山口大学の橋本さんのナビ。

 ところがこれがまたよくわからない!橋本さんの名ナビのお陰で村の中の細い道を進んで、やっとの思いでゲートに到着。と、ところが・・・!本日休館日!柵の前で記念撮影したり、周辺の風景を撮っていると、奥から女性が出てきてくれた。
 今日はここは休みで誰もいないからChester に行ったらどうかと勧めてくれる。Mさんも行ったことがあるというので、急遽そちらへ見学地を変更。ところがこれまた、よくわからない道をあっちへ行き、こっちへ曲がり・・・。またまたやっとの思いで到着。


(Chesterの北門。門の下にはちゃんと排水溝もありました。これも私の興味の対象。)
 でも、Chesterはなかなか素晴らしいfort跡!!後で調べると、Corbridgeも他とは異なる面白い遺跡だと判ったのだが、Chester も劣らない素晴らしいものだった。ケガの功名。


(遺跡の直ぐ横を川が流れる。この川の流れは遙かニューカッスルまで及ぶ)
 ここはHadorian’s Wallが川を渡るので橋の遺構がある。きっとそうだからこの地名Corbridge(ChesterとCorbridgeは直ぐ近く)ができたのだろう。残念ながら橋脚は川向こうにあり、次の訪問地での時間を約束していた私達は橋脚を直接見ることはできなかった。悲しい!!(なぜなら私の研究テーマの一つが「橋」)
 しかし、神は見捨てず。私の遺跡探訪で必ずチェックする「風呂・トイレ」があったのです。それも何と、fortの城壁の外にあり、川に面しているのです。誰が入ったのか、司令官はもちろんのこと、兵士達も入れたのでしょうね、川のせせらぎを聞きながら・・・(決してそんな優雅なものではなかったとは思うが)、ローマ人達の生活の一端を忍ぶことのできる遺構を見学することができたのはラッキーでした。


(こんなひ弱な兵士はいなかったとは思うのですが、それにしても狭いですよね。) 
 さらに、私の学問的関心の一つも満足させてくれました。 
 長岡京左京第15次調査以来虜になっている「兵士駐屯地」です。12畳一間に5人が詰め込まれて住んでいたことが判るとても重要な遺跡です。その後、平城京の長屋王邸跡地(長屋王邸が取り壊されいろいろな人々が住んだ一番最後には彼の地は兵士・仕丁の駐屯地と化すのです)でも見つかり、さらに長岡京右京6条1坊では長岡京建設時の飯場跡としても発見されて、自説が補強されたものです(数年前のシンポで、これを市だと仰るお方がいらっしゃって、恥ずかしかった!遺跡の解釈は思いつきで、適当に言えばいいもんではないんですがね。あらゆる情報を総動員して解釈しなければ遺跡はなかなか語ってくれません!!どうも最近の方々、特に「発掘調査技師」はその辺を誤解なさっている。一生懸命知識を総動員して解釈した先人の結論を、論拠も示さず「こうだって言える」と簡単に否定なさる。そりゃーなんとでも言えますよ。文字でも出ない限り。しかし、目立ちたい一心で、「定説」化した見解に異を唱えて注目を浴びようとする。その根性が嫌ですね。考古学が嫌になる一因です。)。

 そんな思いのこもった遺跡に遙かイングランドの地でお目にかかれたのです。嬉しかった!
 もちろん、その遺構群は日本の宮都のそれらと基本構造は同じなのです。細かく仕切られた同一規模の部屋(この写真を見ても判るでしょう。きっと沢山の兵士が詰め込まれていたんですよ)が、真ん中に通路を挟んでずらっと並んでいるんです。ローマ兵達の厳しい生活の場こそこれだったのです。望郷の念に駆られながら、いつ戻ることができるかも判らない異国の地で、防衛に当たる兵士達の気持ちを思うと涙が出てきます。もちろん、長岡京に送られた兵士(仕丁)達の思いも同じだったに違いありません。軍隊なんて悲しいものです!!Hadorian’s Wallに思うことは結局、侵略者の横暴でしかありません。この長大な城壁を築くために一体どれだけの人々の涙が流されたのでしょう。

 そんな思いを抱きながら、この日の最大の目的地、Vindolanda へ向かいました。



(Chesterの風呂。川の直ぐ側にあった。春の入浴はよかったかもね。)

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Hadorian's Wall Reports-4  いざダーラムへの条

2007-04-01 02:11:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 正確には昨日の朝9時40分にアムステルダム経由で帰ってきました。

 
(イギリスには夏時間というのがあるそうです。ちょうどこの日、3月26日から始まるそうですが、さすがにお城の時計は普通時間でした。正確にはこれより一時間進められています。ロンドンから4時間かかってやってきました。夏時間の設定の仕方は9時間の時差を8時間にするということです。つまり1時間普通の時よりも早くなります。ということは1時間早く起きないといけないことになってしまい、とても眠かったです。)

 時差が9時間(厳密には今は夏時間ですから8時間)もあるので、とても眠たくて、帰って居眠りばかりして今頃目が覚めてきました。そこで忘れないうちにHadorian's Wall Reportsを始めることにしました。


(私達の宿泊したキャッスルの一角。とても荘厳な感じの「ホテル」でした。トイレや風呂はもちろん別にあり、ほとんど誰も泊まっていない暗闇の中の夜の風呂やトイレはなかなかスリル満点でした。こわがりのYYさんはどうしたのかな・・・)

 これからしばらく、主に写真でつづるHadorian's Wall Reports をお届けします。


(城と大聖堂のある丘を取り囲む川の対岸から見るととっても綺麗な建物群です。16時までなら見学できたのですが、残念ながら間に合わず、塔の上から町全体を見ることはできませんでしたが、とにかく街中が美しい歴史遺産の固まりで、平地にあったヨークの町とはひと味も二味も違うとても素敵な所でした。あ、そうそう、この川岸の瀟洒な建物がダーラム大学の考古学資料館です。)

 まずはその出発点となったダーラムの町からご紹介することにしましょう。

 もちろん私も今回の旅で始めて知った町です。私の大学の同僚のMさんが現在訪問研究者として地理学では有名なダーラム大学で研究中なので、彼を頼って、Hadorian's Wallの研究調査では一番のこの大学のツテを使って見学しようと考えた遺跡探訪の旅だったのですが、果たしてどんな珍道中となったことでしょう・・・


(ダーラム大学のHadorian's Wall関係資料を展示する施設だそうですが、訪れたときには既に開館時間を過ぎていました。イギリスで注意しなければならないのは開館時間と開館曜日です。今回も何回も「休館」のため時間を無駄に使いました。要注意!!日曜日なんてほとんどお店は開いていませんからね。)


(大聖堂の中は撮影禁止!毎朝のミサは7:30からあるとか、同行者の一人は元気よく??見学に行って怪しがられたそうです。)

 ダーラム大学の専門の方に案内をお願いしようと、Mさんに事前に頼んで連絡をお願いしたのですが、残念なことに3月後半から春休みに入り、大学にはほとんど誰も残っていないとか、事前に説明をお願いしてうまく連絡が取れたのは後日レポートするヴィットランダのAndrew さんだけでした。


(町は急な坂道の両側に広がっていました。これら建物の左側は本来城壁のあったところです。その一部も利用して建物が建築されているのです。)


(この両側の壁がかつての城壁の名残です。この急坂を見てもいかに城壁が防御性に優れたのものであったかが判ります。)

 さて。3月24日に日本を発ち、お金も時間もないので、安いKLMのアムステルダム周りで、ロンドンに同日入りました。2時間近くよけいにかかってしまいます。私達は、翌日希望者毎に分かれてロンドンウオールと大英博物館の見学に回りました。もちろん私はロンドンウオールへの再挑戦です。その一部は既に簡単にご紹介しましたが、詳細は後日お話しするとして、しばらくはHadorian's Wallに堪能していただきましょう。

 まずは私達の旅の拠点となったダーラムの町からです。

 26日月曜日の朝にロンドwんを発ったのですが、タッチの差でダーラムに向かう特急に乗り遅れてしまいました。ダーラムはヨークとニューカッスルの間の町なのですが、うかつなことに、どんな列車でも止まるものだと信じ切っていた私のミスで、一番いい列車に乗り遅れてしまったのでした。何とか、次の列車でとりあえずヨークに向かい、そこで乗り換えることにしました。

 旅慣れた方はご存じでしょうが、イギリスは大変鉄道網の発達したところですから、ロンドン以外の所へ行くには予め滞在期間と相談して、「ブリットレール(Brit Rail)」というチケットを日本で購入し、これ2を使うと、大変便利です。今回は4日間限定でしたから余りあちこちへは行けなかったのですが、それでも万が一の変更も自由になりますし、乗り遅れても心配がいりません。但し用心しなければならないのは、予めチケットセンターに行って出発日のスタンプをもらわないと行けないのです。今回もこの時間に手間取って、乗り遅れてしまいました。列車は基本的に全車指定席ですが、日本のように満席になることはありません。ブリットレールですと、「指定」料金も含まれていますから、事前に予約すればいいのですが、たいてい何処かの席が空いていますから、そこを確保してしまえば大丈夫!!

 さて話を元に戻して、こんなことならヨークで降りて少し見学してもよかったのですが、急には動けませんので、しばらく乗り換えの列車を待ってダーラムへ向かいました。

 着いてびっくり!!とても綺麗な町でした。それもそのはず、ハリーポッター第1作のロケもここだったとか・・(ちなみに私はハリーポッターに興味がないと言ったら同行者からブーイングを受けました。そんなに変ですかね?)。
 宿泊所は普通は学生達が利用している「寮」!お城をそのまま利用した宿泊施設でした。学生達は春になると追い出され、観光客が迎え入れられるという変わった制度の「ホテル」でした。

 観光客にも有料で見学場所として開放される歴史遺産に泊まるというのはとても気分のいいものです。但し、問題が一つ、こうした歴史遺産ですから、当然エレベーターはありません。宿泊を許可されたのが最上階に近い見晴らしのいい4階の奥でしたから、そこまで重い荷物を運びあげるのが大変でした。今でも腕が筋肉痛で痛いのです。


(Mさんの案内で川向こうにある丘にも登りました。丘から見た大聖堂と城です。私達はこの右の建物に泊まりました。)
 宿泊所の部屋で参加者一同集まって、しばらくこの後の行動を話し合っているとMさんが駆けつけてくれました。直ぐに彼に案内されてダーラム探訪です。

 現在丘の最頂部に建っているのは大聖堂と城なのですが、その周りを川が取り囲み、まさに軍事的要塞の体をなしていました。


(城壁の下まではかなりの高低差があり、そこには川が流れています。橋脚の一部を利用して設けられていたのが、現在はパブとなっている牢獄跡でした。)
 丘の南西部にはかなりきつい坂道の周辺にこざっぱりした商店街が並んでいました。その一部は城の外周をなす城壁の一部を利用して形成されており、歴史を生に感じさせてくれる町でもありました。

 夜にはMさんの行きつけのパブに行ってとてもおいしい地ビールとギネスを堪能しました。但し食事は予想通り、さほど褒められたものでないことは言うまでもありません。


(ギネスビールは最高でしたが、食べ物は・・・。普通の家かと思ってしまうとても簡素なパブ。でも中はなかなか凝った造りで、とてもくつろげました。)

 深酒は翌日の運転に差し障りますので、ほどほどにして切り上げました。
 なんといっても、日本と同じ右ハンドルながら、初めてのイギリスでの国際免許による運転ということで、とても緊張して床につきました。


(料理によって若干のうまい、まずいはあるのですが・・・)
 果たして無事に帰ってこれることやら?


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