yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

伊賀で伊賀国たる所以を説くの条

2010-07-22 05:04:01 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 7月11日午後は伊賀市での講演会でした。

 実はこの日は危うくダブルブッキングするところだったのです。桑名が午前10時から、伊賀が午後2時半から。電車を調べてみると間に合わない!!

どうしよう?

車だとどう行くか?

桑名インターから東名阪経由西名阪で伊賀上野へ。これなら約1時間半で行けると判る。しかし私は車を運転しない。ではどうする?

娘に頼んでみよう!

「了解!」と返事。ところが後日、会社の出張で、その日早朝帰国でベトナムに行くことになったという。息子は?夏の訓練で忙しい!

仕方ない、タクシーで行こう。

というわけで、午前中は先にご紹介した桑名での「榎撫駅と柚井遺跡」について、午後は、「伊賀と古代交通」について話しをすることになった。
 
 伊賀での講演会は三重大学が地方自治体と連携して行う一種の目玉事業なのです。だからできるだけ沢山の人に来てもらわなければならないのです。

 ところが悲しいかな、会場がないというのです。以前名張でやったときには優に100人は入れる会場が有り、実際それくらいの方々が来て下さったのですが、悲しいかな伊賀市の施設は40人しか入れない。何とか机の周りに椅子を入れ、ぎゅうぎゅう詰めで入れて60余人。雨は降るは、当日は選挙の投票日と重なるわで散々だったのです。

 そんな中、お話ししたのが、伊賀が国として位置づけられた理由だったのです。

 講演の概要は
 「日本の古代社会は、世界的にも珍しい律令と呼ばれる法律によって国を統治する中央集権的な法治国家でした。8世紀には大和国に、8世紀末以降には山城国に都が置かれ、全国に設置された国-郡-郷に官僚を派遣、任命して統治していました。国は66カ国ほど有り、現在の都道府県(北海道と沖縄を除く)とほぼ対応しています。特に海辺に所在する地域や島は天皇に海産物を貢納する特別な国とされ、志摩、伊豆、安房、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬等の人々が特産物を都へ納めていました。内陸部で同様の扱いを受けたのが飛騨と伊賀です。飛騨は飛騨匠と呼ばれる木工に優れた技術者集団の居住地として知られ、国家に建築技術を提供しました。では伊賀はなぜ国とされたのでしょうか。それを検討する材料が考古学にあります。特に4世紀終わりから5世紀中頃にかけて築造された石山古墳や御墓山古墳はその象徴的遺跡です。こうした様々な考古資料から伊賀の魅力を探ります。」でした。

 Ⅰ 伊賀国の前史
 まずスライドで、伊賀の古墳時代を代表する石山古墳を紹介し、この古墳がなぜこの地に設けられたのか、誰が何のために築造したのかについてお話しをしました。伊賀のど真ん中に4世紀末にできたこの古墳は大和王権が伊賀に手を付けた最初の証拠です。

 120mの前方後円墳の築造、東方外区と呼ばれる造り出しの形成、その「外区」上での埴輪祭祀、囲い形埴輪や、多様な家形埴輪、武器形の諸埴輪、石製模造品の大量埋納、等々、当時の王権との強力な関係をもつ古墳の築造は、大和が並々ならぬ力をこの地に入れていたことを示します。その証拠にこの後伊賀の地には北部に御墓山古墳、南東部に美旗古墳群が連続的に築造され、その影響が強く維持されたことが判ります。
 石山古墳の直後に伊勢湾に進出した王権が、伊勢中央の松阪に宝塚古墳を造りながら、この一代限りで前方後円墳の築造を止めてしまうのと大きな違いがあります。
 伊賀はこれ以後の大和にとって不可欠の地域だったのです。

Ⅱ 伊賀国の行政    
 ではどの様に不可欠だったのでしょうか。
 伊賀国は四郡(名張郡・伊賀郡・阿拝郡・山田郡)からなる下国でした。
 国府は講演をしたJR伊賀上野駅を東へ真っ直ぐ進んだ阿拝郡国町の一角にあります。この地を南へ真っ直ぐ南下した伊賀市西明寺に伊賀国分寺・国分尼寺も所在が確認されています。伊賀では阿拝郡が重要な地域として認識されていたのです。なぜでしょうか。

 その答えは次の『続日本紀』の記事から理解できます。
『続日本紀』和銅四年正月二日条
・四年春正月丁未。《丙午朔二》始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛

 和銅四(711)年ですから平城遷都の直後のことです。おそらくそれまでの飛鳥に置かれていた都が北へ移動した事による新たな交通路の策定が行われたからではないでしょうか。平城京を北へ出てその最初が都亭驛、そして木津川を渡って木津川に沿って東へ真っ直ぐ進んだところ、伊賀に入って最初の駅家が新家駅だったのです。

 壬申の乱の進軍ルートが吉野→榛原→名張→伊賀→柘植→鈴鹿・・・であったことからすると、飛鳥時代の大和から伊賀へ至るルートはおそらく古墳時代に確立したこのルートが用いられたのです。ところが都が遷されて新たな道が模索され、それに伴って国として位置づけられた伊賀国に新たな交通路が用意されたのではないでしょうか。なお、伊賀国の郡衙としては伊賀郡のそれが下郡遺跡として知られ、木簡が出土しています(後述)が、これ以外は今のところ判っていません。

 Ⅲ 伊賀国と「東海道」
[1] 変遷する「東海道」
 古墳時代に大和から伊勢湾へ抜けるルートは3本ありました。第一のルートが壬申の乱で大海人皇子が通ったルートです。桜井→榛原→名張→伊賀→柘植→加太越え→鈴鹿です。
 第二のルートが名張→美旗→阿保→川口→一志・安濃(津・松阪)です。
 第3のルートは名張→名張川→峠→櫛田川→飯高→多気→渡会です。
 
 平城京以前の飛鳥・白鳳時代も基本的にこの3ルートが用いられたと思われます。

 ところが、遷都により都が北上すると、平城京の時代のメインルートは、岡田駅や新家駅の新設によって、新たに木津川ルートが開発され、これが官道・東海道とされ,国府もこのルート上の阿拝郡に置かれます。

 長岡京以後都が山背に置かれると、東海道は一新され、近江から伊賀・伊勢或いは平安京以後は、近江から伊賀を経ずに伊勢というルートが開発され、ここに前代以来王権の所在地に対するエアーバックの役割を担ってきた伊賀の存在感は一挙に薄れます。伊賀の役割が終演する瞬間でもありました。延喜式に伊賀国の駅家が記載されない理由がここにあります。

 伊賀国を東海道が通過していた奈良時代の駅家は、公式には新家駅のみです。それ以前に壬申の乱で『日本書紀』に記載される「隠驛」,「伊賀駅」が知られますが、これらは奈良時代には伝馬の置かれた郡衙の施設の一部となったものと思われます。

[2] 文献史料に見る東海道
 天平年間に作成された『伊勢国計会帳』(断簡28行分。『大日本古文書巻第二十四巻』)は、都からどの様に公文書が逓送されたかを知る貴重な資料です。

 (前略)
 令下齎太政官并民部・兵部省符、遣中尾張国上遊牒一紙以九月三日来返抄。
 右 付鈴鹿郡散事石寸部豊足
 齎太政官并民部・兵部省符、従伊賀国来使返抄一紙
 右 付還使石部赤麻呂 
 (後略)

 この計会帳によって、次のようなことが復原できます。
a) 太政官符・民部省符・兵部省符が都(平城宮)から大和国→伊賀国→伊勢国→尾張国・・・→というルートで伝達されていた。
b) 伊勢国→尾張国へは鈴鹿郡の役人(石寸部豊足)がこれらの文書を伝達した。その際、送り状としての「遊牒」を尾張国へ届けた。その受け取りとしての「返抄」を九月三日に伊勢国(石寸部豊足)が受け取った。
c) 一方、太政官符・民部省符・兵部省符を「遊牒」と共に齎(もたら)した伊賀国の来使(石部赤麻呂)には「返抄」を持たせて返した。

 この様に730年代に実際に行われていた東海道を通じた公文書の流れを復原することができるわけです。

(注) 計会帳 : 律令制下において、地方官は中央政府に政務を報告するために4種の帳簿(「四度公文(よどのくもん)」)を提出するが、その一つである朝集帳の付属帳簿(枝文(えだふみ))をいう。諸国の国衙(こくが)が1年間に中央政府や他国との間で授受中継した詔(しょう)・勅(ちょく)・符(ふ)などの公文書を、授受の月日と使人の姓名とともに記帳し、期日までに太政官に提出した帳簿である。太政官では中央諸司主典(さかん)と諸国朝集使の参集のもとで提出された計会帳を監査し、公文書の授受に遺漏がなかったかどうかを確認した。計会帳は正税(しょうぜい)帳とともに律令制地方行政の実態を明らかにするための貴重な資料の一つであり、「出雲国計会帳」「伊勢国計会帳」が現存する。(小学館『日本大百科全書』)

 もちろんこの場合の実際の公文書の流れは平城宮(太政官)→大和国→都亭駅→岡田駅→新家駅(伊賀国)→伊賀国《石部赤麻呂・遊牒》→(加太越)→鈴鹿関・鈴鹿駅(伊勢国)→《←返抄・石部赤麻呂》伊勢国府《石寸部豊足・遊牒》→河曲驛→朝明駅→榎撫駅→馬津駅(尾張国)→《←返抄・石寸部豊足》尾張国府→・・・・→参河国府・・・
のようであったと思われます。

[3] 伊賀の人々
 この様な史料を通して、伊賀国に「勤務」した石部赤麻呂や伊勢国に「勤務」した石寸部豊足の存在が明らかになります。特に石部氏については平城京で発見された木簡から伊賀郡にも展開していたことが知られます。

・ 伊賀国伊賀郡長田郷
・ 新木里石部道□長

→石部氏は磯部氏、伊勢部氏ともされ、この他に伊賀国阿拝郡柘植郷長解に石部大万呂等が知られ、伊賀国の中心的氏族であったことが判ります。

 なお、伊賀郡衙と推定される下郡遺跡からは延暦の元号を記す木簡が発見されています。三重県下では先に紹介した柚井遺跡の木簡と並ぶ地方での貴重な文字資料となっています。

《伊賀市下郡遺跡》
・ 沓縫阿□□□□祖□□○□
・ 〈〉出可租稲七束四把四分延暦□

おわりに
・なぜ伊賀は国になったのか
→大和が中心であったときに東国との間のエアーバックのような役割を果たし、中央の情報は伊賀を経て東へ伝えられた。
・しかし、都が長岡京・平安京と遷されるに従って、次第にその役割を終えることになる。

 こんな話しをした訳なんです。

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「胸が土器土器。」 ~考古学はおもしろい~亀山歴史博物館常設展示新装大オープンの条

2010-05-06 09:09:09 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 これまでまるで神社のように真っ白な世界で知られた亀山市歴史博物館常設(企画)展示!

 ナナナント、この度新装大改修オープンとなったらしい。

 先頃,館長の亀山隆さんからメールを頂き、その変身ぶりにびっくり仰天。なんといってもこれまでの同博物館は「古文書館」。どうも近世史の古文書大好きオタクが学芸員でいると、古文書を並べまくりたがる。古文書もとても大事な文化財なのだから、それを展示するなとは言いませんよ。だけど古文書を市民のみなさんが全部読めるわけでもないのに、所狭しと並べまくる。読めて当たり前!!と言う姿勢なのだ。古文書がスラスラ読める人でも博物館の展示ケースの中の古文書を読むのは相当辛いはずだ。しかし、大体言っても聞かない!!のが一般的だ(亀山の方々が真面目であることはよく知ってますよ。とても熱心な研究者なんです。だけど、博物館は研究だけをするところではない。資料を一般の方々に公開し、その意義を知らせる義務もある。特に公共機関が建設した博物館はそれが不可欠だ。)


 先頃朝日新聞が「ハコモノ列島限界」とデカデカと一面トップに記事を持ってきて博物館の現状と課題の特集記事を連載した。その主張の基本は無責任な自治体の箱を造って人を入れない姿勢の批判にあるのだが、一方で、博物館に所属する人々(学芸員だけではない)の経営意識の欠如も指摘している。
 私はこの記事を読んで、直ぐに学生に配り、その感想を求めた。
 もちろん興味を持って受講している学生だから、みなさん異口同音にその事態を嘆いた。

 しかし私は敢えて一言追加した。

 「その責任の一端は学芸員にもある!」と。

 つまり、公共博物館であることにあぐらをかいて、学芸員が学芸員としての仕事を放棄するのだ。何もしないなら直ぐに飛ばされるのだが、そうでないところが悲劇なのだ。
 たいていの学芸員は、自分の興味のある分野にのみ熱中し、それ以外のことをしなくなるのである。まるでそれが権利であるかの如く誤解して。もちろんそうした学芸員の興味を極一部で支える市民を巻き込んで。之も質が悪い。
 
 「そんな展示、見に来るものおらへんがな!!」と言いたいのであるが、しかし、ほとんどのオタク学芸員はそんなこと聞く耳持たないのだ。

 隅から隅までずずずいと・・・自分の好きなものを好きな者にしか判らない方法で並べまくるのである。だから「古文書館」には真っ白な紙の絨毯の世界ができあがるのである。さらにさらに、壁面にまれに解説がパネルにして置かれるのだが、これがまた文字だらけ。明らかに博物館の私物化である。そんなに古文書と戯れたかったら自分で博物館でも建てて古文書大好き人間と楽しめばいいのに。そこまでの度量はない!!

 私の元所属していた資料館もこの古文書病に冒されて今はすっかり古文書講習会場に化している。

 折角苦労して造った資料館だが、結局学芸員が学芸員として機能しなければ「無用のハコモノ」と化し、つぶされるのが落ちなのである。
(お断りしておきますが、古文書を展示するなとは言いませんよ。古文書だけでも工夫すればとても判りやすい地域の歴史を語る材料になることは25年も前にやった先の資料館での「よみがえる古代の文字展」(1986年)で実証済みなんです。要するにできるだけ多くの人に理解してもらうにはどの様な工夫が必要なのかを真剣に考えれば、「文字」だけでも十分伝えることができるのです。

 ところでこの古文書病に勇敢にも断固立ち向かった??のが昨年から館長になられた名前まで市を背負っていらっしゃる亀山さんなのである(笑)。

 その展示の様子は博物館のHP に詳しいが、許可をもらってここでも紹介しておこう。

 常設展示にまで名前がついて・・・・

 「胸が土器土器。」 ~考古学はおもしろい~
 

 日本考古学の礎を築いた坪井正五郎は、『遺跡にて 良き物得んとあせるとき心は石器(急つき)胸は土器土器(ドキドキ)』と戯れ歌を詠んでいます。坪井さんはどうして胸がドキドキしたのでしょうか?土器や石器を見つけることがそんなに楽しいでしょうか?今回の展示は、土器や石器を観察する楽しさがテーマです。



 なんと言っても本邦初公開!釣鐘山古墳の組み合わせ式石棺が見もの。



 弥生時代の亀山は近江と伊勢湾岸との間にあってとても興味深い様相を呈していますよ。これは現在市史の関係で地蔵僧遺跡の土器を整理中。初源期の「s」字型甕が面白い様相を呈しています。



 古墳時代ではこの木下古墳の埴輪群がよく知られています。我が大学に所蔵されているものが1年間里帰りです。亀山市に全部戻そうかしらと思っています。



 そしてもちろん鈴鹿関の資料もしっかり展示されています。





 近世亀山城関係の資料もばっちり。


 正直言って土器ばかりで我々考古学のものでも少々疲れそうですが、ま、これまでの真っ白、2次元世界に比べればようやくまともな博物館として進み始めたかな、というところ(失礼!)。できれば少し他の資料、例えば鈴鹿関なら立体模型を一緒に並べるとか、3Dの画像を流すとか、もう一押し工夫が欲しいところではある。ま、これからボチボチ修正されて行かれることだと大いに期待している。

 亀山市の博物館にようやく夜明けが近づいてきた!!

 そうしたところを新一年生のオリエンテーションセミナー「博物館学芸員をめざそう!!」でしっかり見させ、批評させようと、7月10日には学生と訪れて博物館の評価と学芸員の仕事をチェックすることにしている。
 どんな感想を出してくれるか大いに楽しみである。

 みなさんも、是非、新装の亀山市歴史博物館へお立ち寄り下さい。
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大宰府探訪-1 大宰府条坊遺構群を歩くの条

2009-11-28 00:53:48 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本


 多気北畠氏遺跡 第32次調査地現地視察



 礎石が4基東西に並んでいる。担当者は柵列だと言うが、どうやって建てるのだろうか?判らん!!



 一番の問題はこの石列。昨年この直ぐ西側で発見された石列(私は築地の基礎だと思っている)と1mも北にずれるという。ホント????配られた資料ですらずれているのとずれていないのがある。原因は「略測図だから」だそうだが、こんな大事なことを「略測」で報告するのは何故?不思議!

 今日は朝から「多気北畠氏遺跡調査指導委員会」でした。9時から18時まで拘束されていたので、とても疲れました。この報告もいずれしなければいけないのですが(書いておかないといけないことが一杯あるのですが)、今日はまだ頭が整理できていないので、別にします。

 ここのところずっと風邪気味なのですが、とてもとても忙しくて、これから先ももっともっと忙しくて・・・、まさに文字通り師走を実践しそうな勢いなのです。しかし、その師走前から既に助走が始まっていました。11月27日(今日多気)北畠氏遺跡調査指導委員会 28日亀山市史編集委員会 29日亀山市史古代史部会との個別協議 30日病院検査終了後歴博 12月1日歴博 12月3日講演会レジュメ提出 4日京都アスニーでの講演会 5日木簡学会 6日木簡学会 10日レジュメ提出2件 11日出前授業 12日四日市市歴博講演会 13日名張生涯学習講演会 19・20歴博研究会報告 24日~28日補講 アー死んでしまう!!

そんなこんなで、更新する気力も起こらない今日この頃なのですが、たまにはやっておかないと忘れられそうなので、助走期間の大宰府探訪をしばらく断続的にご紹介します。
 
 11月20日から24日までYグチ大学のHY教授の科研費による研究会で大宰府とその周辺に展開する山城などを踏査する研究会に参加した。とても充実した研究会で、22日には各遺跡の調査担当者からの内容の濃い報告がなされ、熱心な討論が行われた。本来ならリアルタイムで報告するところだが、連日連夜の夜の宴でホテルに帰るとバタンキュ!!24日夜に津に戻ってきたのですがその後もハードスケジュールがぎっしり詰まり、やっと少しだけその報告を認める気力が起こってきたので書いてみることにする。


 初日は本当は19日(木)なのだが、私は夕方まで授業があったのでやむなく二日目から参加した。初日は大宰府政庁やその周辺に展開する観世音寺、学校院地区、蔵司地区等々の中枢部を歩いたらしい。もっともこれらについてはこれまで大宰府の調査委員として何度も訪れていたので、今回はパスしても問題なかろうと判断もした。ただし蔵司地区は10月の委員会で現地を見学させていただいたのだが、その後発掘調査が進むということで、少し気がかりであった。ところが同行者に伺うと発掘はほとんど進んでいなかったということでホッとした。

 二日目は太宰府の政庁周辺部で進む条坊の発見現場を歩いた。午前中は水城を中心に、午後は夕方暮れきるまで条坊を歩き回った。



 水城へ至る官道を南から進んでいった。太宰府市教育委員会の丁寧な発掘調査によって、あちこちでこうした道路の確認調査が行われ、開発によって壊された時には看板が設置されている。

 もちろんこれも以前に太宰府市教育委員会のNKさんのご案内で丁寧に歩いたところであり、その後の調査調査の進展により幾分か新しい成果が増えたものの、基本的な条坊の研究には影響がないということで、復習のつもりで歩いた。しかし新しい発想も得ることができた。感謝!!

 案内者は今や太宰府条坊研究を一手に引き受けて先導するD教育委員会のIN氏である。近年の氏の研究によると太宰府条坊は基本的に90m四方の方眼を基準にしてその両側に道路敷きと宅地を割く分割型の条坊によって形成されているという。以前に訪ねたところも数多いのだが、どうしても自分の足で歩かないとその場のイメージを描きにくい。それにしても大半がマンションの一角にその痕跡を残しているに過ぎず、Iさんのご案内がなければ到底回れない遺構群であった。逆に言うと今回はIさんの御案内のお蔭で隅々まで回ることができた。感謝!!

 最近の彼の持論は、90m方眼の地割りが7世紀段階からあったというものである。特に右郭と呼ばれる西側には7世紀代の遺物の集中する地域があり、今は宅地となっているところが多いが、かつては「通古賀」(とうのこが)等の地名研究からもこの地が筑前国の中心であったというのである。その地域を中心として.『周礼』考工記によるという説もある飛鳥の新城のような広大な条坊が整備されていたという。

 「ウーン??なんぼiさんの説と言ってもそれはナインちゃうか!!」

こんなことを思いながら一緒に歩いた(詳しい説明や反論は22日の研究会の報告で)。要するに私は条坊が7世紀代には既に形成されていたという見解には従いかね流のだが、大宰府政庁を中心としてどの範囲にどんな遺構群があるのかを説明を聞きながら丹念に歩いた。



 官道の跡がカラー舗装されて表示されている。こんな所をこの後次々と訪れることになる。

 まだまだ先は長い。ひとまず今日はさわりだけで。

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備後国を訪ねて-番外編  大迫古墳から蛇円山、そして帝釈峡へ思いを馳せての条

2009-07-03 09:57:00 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 葦田駅家を訪ねた後、近くの佐賀田城跡に登った。絶景だった。備後を一望することができた。山頂には毛利が築いたという石垣が見事に残っていた。備後府中に入る最も狭くなった地点の山頂に佐賀田城はある。ただ、とても残念だったのは、広島テレビや中国放送、NHKの電波塔が林立しこの素敵な光景を邪魔していたことだ。高い山なら他にもあるのだから、こんな歴史遺産のど真ん中に建てないでもっと別なところに建てればいいのに!!と強い憤りを覚えながら城内を回った。一刻も早く電波塔を撤去すべし!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ





(本能寺の変が起こらなければこの地をめぐる大戦争があったかも知れないという)



(左手に府中の町並みが一望できる)



(一番奥、濃い緑の尾根が右手へ細く延びているこの先辺りが品治駅家跡だという。)

 品治駅家の探訪の後、この駅家がなぜこの位置にあるかを考えるために周辺の遺跡を少し回ることができた。
 品治駅家の直ぐ北にあるのが県下最大級の後期古墳・二子塚古墳である。今回は残念ながら訪れることができなかったが、伝えられる資料によると、二頭の龍がそれぞれ向かい合って玉を銜えるという特異なスタイルの双龍環頭太刀を出すという。近世にこの地域を潤した服部池の直ぐ南に位置し、大規模な横穴式石室をもつこの古墳が、六世紀末にこの地域を大和王権との深いつながりの中で治めた首長のものであることは疑いなかろう。福山市駅家町二子塚古墳の様子が、福山市のホームページ上で詳しく紹介されている。必見である。

 二子塚古墳の奥にあるのが大迫古墳である。奥壁に巨大な一枚岩を用いる六世紀後半の円墳と推定される古墳である。



(石室は民家の庭先に潜っていっている。)













(古墳の前の畠に咲いていた花)

 大迫古墳を見学した後、さらに奥へ入り、学生の実家を訪れた。大きな門構えを持つ旧家は『倭名抄』の服織(部)郷に当たる福山市駅家町雨木にあった。いろいろお話を伺ううちにこの地域が備後北部から出雲へ抜ける近道だと判った。我が母校の研究財産である帝釈峡も実はこの道から行くと直ぐだと判った。





「なるほど!!」

 思わず手を打った。

 駅家から北に延びるこのルートは遅くとも古墳時代後期には備後北部から出雲へ抜ける重要交通路として王権によって管理された地域だったのではなかろうか。今でこそあまり大きな道はないが、その道は古代にも生きており、ちょうど品治駅家の横を通っていた。だからあの位置に設けられたのだ。そう考えると実に合理的な位置に最明寺後南遺跡はあった。



(こんなものが身近に見られる自然の残る備後路だった。充実した一日を有り難うございました。)

 学生の実家で冷たいお茶と美味しいアイスクリームを頂いて家路を急いだ。実に収穫の多い一日だった。

 有り難うございました。

 間もなく8.6である。ヒロシマではこの日、「核武装」を唱えるとんでもない集会がぶつけられると言う。アメリカ大統領オバマは核兵器廃絶に向けた第一歩を踏み出した。にもかかわらず被爆国日本の自衛隊の元トップがこうした言動を振りまいて国民を再び戦争の道に導こうとしている。とてもとても悲しく、恥ずかしいことである!
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 「ピカドンを 二度と許さぬ 強い意思」
 「棚田誘う 水面の先に 出雲路が」
 「双龍が 銜えし玉に オオムラサキ」

備後国を訪ねて-3 品治駅家はなぜ彼の地に設置されたのかの条

2009-06-27 00:35:06 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 今日26日(もう明日になってしまった)は歴博での研究会出席のために東京にやってきた。

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 夕方懐かしいメンバーと会うためだ。
今から17年前(にもうなってしまったらしい)、木簡学会の会場手前の休憩用ソファーのところで、佐原真さんに呼び止められた。

「山中さん、学生さん要らない?」

これが彼女たち、お茶大考古学研究会の連中との付き合いの始まりだった。その懐かしいメンバー5人が集まって、東京駅近くの居酒屋でワイワイやった。一人を除きみんな独身というのが今時のインテリ女性の傾向と見事に一致する。来れなかったメンバーの消息なども聞くことができとても楽しい会を二次会も含めて23時近くまで過ごした。

  
 さて、備後国訪問の旅の最終回である。実は一昨日原稿を書いてアップする直前に用事が入って、しばらくして部屋に戻り、手直ししてから・・、と思って操作したとたんに原稿が消えてしまった。ショックで、なかなかそのままの原稿が思い出せない。仕方ないので、今東京のホテルで写真だけでもとにかくアップしておこうと思って始めている。

 品治駅家は現在の広島県福山市駅家にある。先にも書いたとおり、JR駅家というそのままの駅名まで残っている。長くその所在地は不明だったが、近年の発掘調査でその一部が明らかになってきた最明寺跡南遺跡がそれではないかという。



(道路拡幅工事に伴って推定地の一角が調査された。しかし残念なことに道路建設が優先され、遺跡は破壊されてしまった。)





(南に伸びる丘陵の先端部を切った切り通しがあり、これが山陽道に推定されている。駅家はその直ぐ北にあったらしい。)



(出土瓦には平城宮系のものや備後国府系の瓦が大量にある。)



(中にはこの様な重圈文鬼瓦も含まれており、山陽道駅家の特徴と合致する点も多い)



(現在も瓦が採集できるらしく、遺跡の一角に設けられた祠にはこの様に奈良時代の瓦が置かれていた。)



(以上の航空写真や遺物の写真は福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財調査団編『最明寺跡南遺跡』より)



(破壊された遺跡の壁に遺された説明板。)

 実はこの前に訪れた葦田駅家跡の途中で突然デジカメの電池が無くなったのである。勿論予備はいつも持って歩いているから予めポケットに忍ばせておいたものと交換した。、ところがである。

「バッテリーを交換して下さい」と出るのである。

「???今替えたジャン!」

 なぜかその交換用電池ももう切れていたのである。充電し忘れたのか、はたまた放電したのか、えらいことになってしまった。やむなく同行した学生にデジカメを貸してもらいながら、時々自分の携帯で写真を撮りながら進むことになった。



(その携帯(iphone)で撮ったあまりよくない画像。備後国品治郡の全景。佐賀田城から。)

それにしてもよく判らないのが品治駅家の立地である。確かに山陽道の切り通しのあるところにあり、播磨国の野磨駅家との共通点ともとれるが、切り通しの直ぐ北にあり少し雰囲気が異なるようにも感じられる。野磨駅のような大規模な築地によって囲繞された空間があるのか否かも問題だが、直ぐ近くには交差する道もなさそうである(唯一北、服部郷方面から備後北部へ抜ける交通路に近い点が注意されるが)。


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備後国を訪ねて-1 高橋美久二さんの墓前に誓う条

2009-06-21 18:11:08 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 昨日の土曜日には久しぶりに研究者らしい目的に沿った旅をすることができた。朝早くに新幹線に乗って、福山経由府中に向かった。
 山陽道駅家葦田・品治・安那駅を探訪しつつ駅家や関などの立地と景観との関係を調べ、その新たな視点構築のための調査であった。

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 以前、播磨国内の野磨駅、布勢駅、高田駅などを回ったことは既に報告したことがある。

 今回はその続きで、学生の出身地である広島県福山市駅家から府中へと山陽道をたどることにした。
 


(これがJR福塩線駅家駅である。山陽道備後国2番目の駅、品治駅に由来する。)

 山陽道が備後国へ入ると、国府に至るまでの間、安那駅、品治駅、国府を経てから葦田駅の3つの駅を通過したと考えられている。他に2駅あったが廃止されたらしい。
 現在の都市で言えば、広島県福山市から府中市へ向かう道沿いに展開している。何と品治駅推定地には「駅家」というJRの駅まである。

 前回同様、府中市の谷重さんに御案内いただいた。そして、谷重さんのお蔭で、とても素晴らしいところへ御案内いただいた!!

 高橋美久二さんのお墓である。



もし高橋さんが生きておられたらきっと喜んで御案内下さったに違いない、駅家から三重大学へ進学してきた学生が、山陽道駅家の研究をしたいというのである。

 途中、道ばたに咲いていたお花を摘んでお参りをした。高橋さんのとっても喜んでおられる声が聞こえてきたような気がした。
 そして、とてもとても足下にも及ばないのだが、大胆不敵にも高橋さんの山陽道の研究に挑戦しようという学生を伴っていたから、いろんなアドバイスを下さったと思う。


(決してお化けではありません!!あしからず。本人の希望により、お見せするほどの顔ではないということで?隠してあります。まるで高橋さんの亡霊みたい?何、高橋さんが怖がっているって?!(笑))

 有り難うございました。

 さて見学は先ず府中市歴史民俗資料館から始まった。ちょうど盈進学園 盈進中学高等学校の生徒さん達が土曜日の現地学習?とやらで見学に来られていた。谷重さんの立て板に水の説明に笑いあり、驚きあり、皆さん感動して聞き入っていた。さすが!そして驚きのセレモニーが。



 何と、昔々市役所のイベントで使った古代衣装がでてきたのでそれを子どもたちに着せているのだという。昨年は、修学旅行で奈良へ行った子どもたちに持って行かせ、薬師寺の前で着せて、記念写真を撮ったのだという。周りにいた外人さん達が大喜びで、みんな一躍大スターになったとか。




(こちらぼかしが入っております。失礼)

 とても柔軟な発想だ!!

 これぞ子どもで賑わう博物館!!

 今年は東大寺だけではなく、ナナナント、平城宮の東院庭園で着るんだそうな。楽しい!!こういう学芸員さんが全国にいるといいのにね。(それにしても子どもたちが東院庭園で古代衣装を着て写真を撮ってもいいか?と国に問い合わせると「ちょっと待って!」と即答してもらえなかったらしい。信じられん!!!そんなお役所仕事しかでけへん役人共が「学芸員課程の充実」なんて言うたって誰が信じるもんか!)


(この拓本、資料館へ体験学習に来た小学生が採ったのだという。どこぞの学生さん!ようみときや!!)


 さて遺跡見学だが、先ず備後国府推定地から歩き始めた。
 まだ残念ながら確定はしていないのだが、総社の眼下に広がる平地がそれらしい。総社の丘に登って驚いた、同行していた学生EYの妹が走り出したのである。


(今は小さくなってしまった備後総社の祠.宮司さんが後給さん。)


(眼下に広がる国府遺跡)

 ?? 一同不審に見ていると、帰ってきて一言、

 「ここは親しい先輩の家じゃ!」
 「後給さんちゅうんじゃ」

 「エエッツ!そうなんじゃ、世間は狭いな―」

といつもの言葉が出てきて一同大笑い。

 その後府中最古の寺院と言われる伝吉田寺跡(現金龍寺にはその心礎と言われる礎石が一基)をはじめ、市街地の中に点々と残る国府関連施設の調査現場を丹念に回っていただいて、二度目であった私にはとてもよく理解することができた。
 大規模な礎石建物の発見された正殿推定地がスパーに貸されている話し、国衙の境界に推定できる築地塀の跡、道路の交差点跡や、条里の余剰帯から推定できる道路跡、国府移転説の根拠となっている市役所裏の推定地等等を伺いながら、次々と遺跡を回る。

 昼ご飯は府中名物「お好み焼き」
 うまかった!!

 その後、前回の探訪の後、谷重さんから頂いた焼酎「駅家の女」を買いに酒屋さんに立ち寄り、

(ここしか売ってないらしい。1本1100円)
たまたま行われていた樋ノ口2号墳(後期古墳)の現地説明会へ。





(御調郡域に展開する樋ノ口古墳群の一部)

高橋さんのお墓に参ろうと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

この続きは明日ね。

(バックは高橋美久二さんの眠る備後府中常福寺の本堂)

「紫陽花の 花一輪を 備後にて」
「駅家訪う 学徒の背なに オオムラサキ」
「佐賀田城 オオムラサキや 国府の跡」
  企良

川西遺跡情報第2弾の条

2009-06-04 15:32:40 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
こんな案内が来ました。私はあいにく当日三重で講演会があっていけないのですが、川西遺跡!!すごいですよj、是非行ってみて下さい。

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関係各位
   財団法人徳島県埋蔵文化財センター
            理事長福家清司

   川西遺跡遺構検討会の開催について

 時下,ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 この度,当センターでは,徳島南環状道路改築事業に伴う埋蔵文化財発掘調
査で確認された川西遺跡について,遺構検討会を開催することとなりました。
当遺跡では,園瀬川(徳島市)の旧河道に面して,13世紀から15世紀に
かけて修復・拡張を繰り返しながら構築されたと考えられる石積護岸遺構を検
出いたしました。遺構の性格・機能等は,極めて類例の少ないものであること
から,なお検討が必要です。

 つきましては,関係各分野の方々にお集まりいただき,それぞれの専門分野
からの御意見,御指導を賜りますようよろしくお願いします。


            記

日時  2009年6月13日(土) 午後1時30分から午後4時まで
場所  徳島市上八万町川西(別紙地図参照)

・徳島市バス「しらさぎ台」行き,「一宮」行き乗車
「西光寺」下車(徒歩10分)

・駐車場:発掘調査現場駐車場をご利用ください。

【連絡先】財団法人徳島県埋蔵文化財センター事業課
石井伸夫・藤川智之

TEL:088-672-4545
FAX:088-672-4550
メール:ishii@tokushima-maibun.


行った人は報告して下さいね。
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緊急最新情報・肥後国編 国史跡池辺寺が面白い!!の条

2009-05-26 03:35:36 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
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西海道古代官衙研究会事務局の山村さんから、こんな情報が届きましたのでお知らせ致します。

西海道古代官衙研究会会員の皆様

ご無沙汰いたしております。
肥後熊本の古代山林寺院である国史跡地辺寺跡が、史跡整備前の最後の再調査で、伽藍中心建物(9世紀)部分を調査中で見学可能となっております。建物は、床じきまで残っている稀有な例だと思われます。さらに、後背部の斜面に分布する「100メートル四方に100個の石塔が迫りくるロケーション」は見応えのある必見の資料です。多数お誘い合わせの上で下記要領に従ってご見学下さい。


史跡池辺寺跡 百塚地区本堂建物跡 見学会
のご案内

史跡概要
熊本県熊本市に所在する史跡池辺寺跡(9世紀の山林寺院)では、整備事業に伴い百塚地区C地点の本堂建物跡を再調査しています。部分的な公開ですが、3009年6月7日(日)に一般見学会を予定しており、西海道古代官衙研究会の皆様には6日(土)午後にご案内いたします。建物跡の見学会は、最後の機会かもしれません。是非ご覧ください。

時間のある方は、二本木遺跡群での遺物見学会も計画しています。

 日程:2009年6月6日(土)13時30分~16時頃
 場所:史跡池辺寺跡(熊本市池上町平、西平山公園となり)
 
JRご利用の方や池辺寺跡の場所がわからない方は、二本木遺跡群(熊本市文化財資料室春日分室)からの送迎・案内をおこないます。春日分室を13時に出発します。春日分室はJR熊本駅西側、熊本市立春日小学校向かいの2階建プレハブですが、周辺は新幹線関連の開発で仮設道路が多くなっています。ご注意ください。

 懇親会:同日18:00頃から熊本駅周辺 

お申し込み先:電子メールにて西海道研事務局の山村まで 

dazaifu2340@mail.goo.ne.jp

(懇親会ご参加の有無もお書きください)山村携帯090-9561-8886

連絡先:池辺寺跡担当 網田 携帯090-5470-2296
E-mail amita.tatsuo@city.kumamoto.lg.jp
春日分室  096-323-4043(担当:原田)

残念ながら私は当日は先に御案内致しました「長岡京見学会」のために参加できません(今時関西から沢山人が行くのも問題かも・・・(笑))。九州及び近辺の方はご参加下さい。いえ、もちろん菌を持っていらっしゃらない方で元気な方は是非全国からお出かけ下さい。



(池辺寺の調査状況写真。山村さん提供)



(建物跡の実測図。同提供)
池辺寺、面白そうですね!!

6月20・21日に廣島に行くんですが、もうその頃は終わってますかね・・・・残念!!

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屋島城探訪-1 阿波から讃岐へ屋島を目指しての条

2009-05-24 15:44:10 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
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 「源平の 合戦の声 春風に」 義経がこの城のあることをしっていたとは思えないが、軍事に長けた者の嗅覚は同じだったのか?眼下に平氏の船を見たとき、既に勝利は決まっていたとか。屋島城の主は眼下に唐・新羅船を見ることはなかったのだが・・。 



(屋島の雄大な光景にただひたすら圧倒されていました。向こうに霞んで見えるのが女島と男島でしょうか)

 阿波国に後ろ髪引かれる思いで讃岐に向かいました。徳島駅からJRの普通電車で1時間半、屋島に向かった。古代南海道が通ったという大坂峠越えのルートを、今もJRが通っている。一駅一駅「まだ阿波か、オッツ、讃岐に入った!」と1人感動しながら屋島を目指しました。普通電車の旅もなかなか粋なもので、ゆったりと風景を楽しみながらの優雅な旅だった。若いカップルが寄り添って、徳島からずっと乗っていた。高松まで行くのだろうか。ゆったりとした時間が流れ、40年前を錯覚させる光景だった。

 屋島駅には高松市教育委員会の山元敏裕さんが出迎えて下さっていた。折角の連休の真っ直中を御案内下さるというのである。何でもこの日のために前日お子さんを実家へお預けになったとか、本当に申し訳ない(お子さんにも)。感謝以外の何物でもない。聞くところによると山元さんは学生時代京都で過ごされたとかで、京都のことはよくご存知だった。だから直ぐに意気投合して気楽な旅となった。

 心配していた観光客による大渋滞(その半分は麓の著名なうどん屋さんに来る客だとか)もなく、無事山頂の駐車場へ。そこから半日、観光客の喧噪を離れて、時には道無き道を雑木をかき分けかき分け、念願の城門に辿り着いた。もちろん現在はシートに覆われているので、本物はみられない(11月頃から発掘調査を再開するのでその頃来るとみられるらしい。是非行こうと思っている。)が、崖際にへばりつくようにして設けられた城門の立地は手に取るように判る。
 説明によると、ほぼ標高270m付近を、南嶺だけなら4キロ、北嶺も入れると7キロ屋島特有の断崖絶壁をうまく取り込みながら一周しているらしい。


(これは東城門の続きに延びる城門の基底部です。)

 これを起点に屋島南嶺をほぼ一周しました。あちこちに水門の跡や城壁の断続的に続く石塁の跡が確認できます。詳細は次回にして、取り急ぎダイジェストをお送り致します。

 屋島城見学をダイジェストでスライドショーにしておこう。まずはこれで全体像をご確認下さい。

 そうそう、もう一つお伝えするのを忘れていました。屋島の麓にあるうどん屋さんでとても美味しい讃岐うどんを頂いた後、直ぐ近くの久本古墳に参りました。高い石棚を持つ円墳で、讃岐ではここだけだそうです。私はこの地こそ山田郡海部郷だと思っています。



(久本古墳は道路に面して開口しています。中に入ると玄室に巨石を用いた高い石棚があります。見事です。調査が不十分なのが残念ですが、屋島とのシチュエーションが抜群です。この間に製塩遺跡が広がっていないのかしら?)

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「石棚を 見上げた隙間に 蝶の舞う」
「讃岐うどん 春風と飲む 汁の音」
 

阿波国報告-2 徳島県埋蔵文化財センター20周年記念シンポジウム

2009-05-23 00:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
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 「弟国部」と阿曇部、本当に感激しました!必ずもう一度、いや何回も阿波に行くぞ!!

当日のシンポジウムで与えられた課題は以下のようなものでした。


阿波の国府と平城京・長岡京

 レジュメ集の構成は以下のような感じで、これに図を付けて主に都の構造の変化―官衙機構の拡大と現業官司の宮外への進出(宮外官衙の成立)について詳述し、8世紀末以降と以前との中央における官衙配置や機能の変化が国府においても起こる可能性のあることを指摘しました。
 観音寺遺跡(阿波国府)における広範囲における木簡の出土や関連建物群の検出もこうした官衙機構の変遷、拡充と大いに関係があるのではないかと考えたのです。
 その上で国府域については既に藤川智之氏によって指摘されているように、金田章裕氏の提唱する南北型であろうとする見解を支持しました。
 報告では十分に指摘できなかったのですが、『続日本紀』に出る長岡京造営(一度は山崎橋修造のための料材の進上)への阿波国の関与が、水陸の便を目的とした長岡京遷都に起因していると考えました。

 なお、個人的には、テーマから外れますが、平城京出土阿波国木簡を分析した松原弘宣氏の研究成果(「都城出土の阿波国関係木簡」『観音寺遺跡Ⅰ』2002)にある「堅魚木簡」に大いに興味を抱きました。同堅魚を貢進したのは「阿波国那賀郡武芸駅子」「薩麻駅子」の生部や鵜甘部でした。私が注目したのは同郡同郷から御取鮑を出した海部里阿曇部大嶋・若万呂でした。
 大化前代には長国造支配域に所在した那賀郡の那賀川流域及びその海岸部の一部には海部が分布し、阿曇部に統括されて堅魚や鮑の海産物を収取して貢納していた姿が浮かび上がるのです。先に考察した(拙稿67. 「律令国家と海部―海浜部小国・人給制にみる日本古代律令支配の特質―」(広瀬和雄・仁藤敦史編『支配の古代史』青木書店,pp.45-64 2008年)隠伎国における海部の動向及び阿曇氏による統括の関係がここでも確認できるのです。俄調べによると現在の海部郡の後期古墳の初めとして大里古墳があることを知りました。恐らく海部との関係を大いに予想させる古墳です。

 シンポジウムの成果はともかくとして、報告の機会を頂いたお蔭で、これまで全く勉強していなかった阿波国(長国造支配領域)と海部との関係を知る貴重な資料を確認することができました。
 さらに、観音寺木簡によって初めて確認された「弟国部」の存在はこうした阿波国と王権との関係の契機の一つが継体朝がある可能性を考えることができたのです。ワンダフル!!

 新しい阿波国研究の契機を頂いて大満足したシンポでした。必ずもう一度、特に長国造の故郷を訪ねて、今回得られた新しい研究材料の追究に努めることを約して阿波国を後にしました。機会を与えて頂いた徳島県埋蔵文化財センターの藤川智之さんに最大限の謝意を呈して次なる目標地屋島へ向かいました。

 (屋島編はこの後続けてお届けします。今しばらくお待ち下さい。)

 当日のレジュメの一部はこんな感じ。

はじめに
・ 初めての阿波国
・ 宮都研究から地方研究へ
・ 長岡京と阿波国:宮城諸門の移築
・ 斎宮・鈴鹿関・河口頓宮・朝明頓宮・美濃国府・朝明郡衙・朝明駅の研究
・ 東海道・東山道・古伊勢街道の研究
・ 志摩国・伊賀国と部民制(海部)・ミヤケ制
・ 阿波国府と伊勢国府・美濃国府の比較は可能か

1 国司の仕事と阿波国木簡
(1)『養老職員令』大国・上国条の規定
・ 法律(『律令』)で定められていた国司の仕事
・ 当時の地方行政組織:国-郡-郷(-里)
・ 国の経営責任者が国司(守カミ・介スケ・掾ジョウ・目サカン-四等官制)
・ 国司の配下で各種事務的、現業的仕事をする人々
・ 阿波国は大・上・中・下国の内の上国
・ 最低でも640人余の大所帯
・ 大国
 守一人。掌祠社。戸口。簿帳。字養百姓。勧課農桑。糺察所部。貢挙。孝義。田宅。良賎。訴訟。租調。倉廩。徭役。兵士。器仗。鼓吹。郵駅。伝馬。烽候。城牧。過所。公私馬牛。闌遺雑物。及寺。僧尼名籍事。余守準此。其陸奥出羽越後等国。兼知饗給。征討。斥候。壱岐対馬日向薩摩大隅等国。総知鎮捍。防守。及蕃客帰化。三関国。又掌関剗及関契事。介一人。掌同守。余介準此。大掾一人。掌糺判府内。審署文案。勾稽失。察非違。余掾準此。少掾一人。掌同大掾。大目一人。掌受事上抄。勘署文案。検出稽失。読申公文。余目準此。少目一人。掌同大目。史生三人。
 上国
 守一人。介一人。掾一人。目一人。史生三人。
(2) 観音寺木簡と国衙官人の仕事(和田萃2002より)
A 国司の仕事(数字は『観音寺遺跡Ⅰ』の木簡番号)
① 祠社:2・5
② 簿帳:6・34・35・37・62・66
③ 租調:4・15・20・60
④ 糺察所部:70
⑤ 勧課農桑:23
⑥ 勘署文案

B 雑員の仕事
⑦ 治療・施薬
⑧ 教育
⑨ 物品管理:4
⑩ 食事の弁備:「国厨」
⑪ 製本・文具の製作:紙・墨・筆
⑫ 土木工事作業・運搬
表1 主な国衙職員一覧表(山中敏史1994より)

2 宮都の役所とその配置
(1) 中央官庁
・ 平安宮城図:二官八省の配置
・ 対称的官衙配置:形式的官衙配置
・ 北二条分:大蔵空間
・ 東西辺:警備・警察的官司
・ 平安宮内裏図:内裏施設の回廊連結化
・ 平城宮光仁・桓武内裏が祖型、長岡宮内裏が原型
・ 皇后宮・後宮の発達・東宮の接近

(2) 宮外官衙

・ 長岡京条坊図:T字形官衙配置の形成
・ 宮城内中軸:王権の支配空間・内廷官司
・ 宮城内東西:二官八省(皇城的空間)
・ 宮城東西面街区:王権の二次的支配空間(行宮)・二官八省の現業的官司・饗宴施設・大規模邸宅・公的宿所
・ 宮城南面街区:王権の二次的支配空間(行宮)・二官八省の現業的官司・饗宴施設・大規模邸宅・公的宿所(造長岡宮使)・鴻臚館(外交施設)・国家寺院(平安京東寺・西寺)
・ 左・右京街区:官僚居住空間・東西市(経済空間)・市町・物資運搬水陸交通網・工業製品生産施設・祭祀空間(四隅祭)
・ 禁苑・禁野の形成:京の北部に形成;王権の二次的支配空間(遊猟・祖廟・饗宴)・祭祀空間・王陵空間(皇后藤原乙牟漏陵・皇太后高野新笠陵・妃藤原旅子陵・淳和天皇火葬地・長野古墓・物集女車塚古墳・向日丘陵古墳群)・緑釉陶器(国家秘伝技術)生産地
・ 外交国家津・山崎津:水陸交通の結節点(中国・朝鮮→鴻臚館→瀬戸内海(山陽道)→淀川→山崎津

・ 長岡京官衙町・宿所町

・ 平安京諸司厨町図
・ 平安宮朝堂院・豊楽院・太政官曹司の比較
・ 中央の基本官制(二官八省)

3 阿波国府の構造
(1) 国府の基本構造:国府の類型模式図(金田1995「国府の形態と構造について」より)
・ 方八町国府説から諸類型型へ
・ 阿波国府南北型説:藤川智之2002(『観音寺遺跡Ⅰ』)
・ 国司・国府の機能から検討
・ 宮都の官衙配置・機能比較
・ 出土木簡・文字資料からの分析
・ 周辺地形・所在遺跡からの検討
・ 阿波国府航空写真と遺存地割:N10°W地割と正方位地割
・ 大御和神社説から観音寺説へ
・ 国府・国分寺・国分尼寺・駅・国府津・南海道などの総合的検討
・ 敷地遺跡:推定国司館
・ 矢野遺跡:現業的空間(厨・手工業生産)
・ 観音寺遺跡:国衙・祭祀空間・地方行政事務機構

(2) 阿波国府の推定構造
1 敷地遺跡:国司館?                 
2 観音寺遺跡の建物群
3 観音寺遺跡:木簡廃棄場?
4 木簡出土状況と墨書器

(2) 阿波国関係宮都出土木簡と阿波国府
 A 平城京出土木簡
 B 長岡京出土木簡

【史料】 
1 『律令』に定められた阿波国
官位令
・ 11 従五位下 上国守
・ 13 従六位上 上国介
・ 15 従七位上 上国掾
・ 17 従八位下 上国目
・ 史生:無位
 
2 『続日本紀』に見える阿波国
 A 飢饉・賑給記事
・ 文武天皇元(697)年閏十二月七日:播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊豫
・ 大宝二(702)年九月十七日:駿河・伊豆・下総・備中・阿波
・ 慶雲元(704)年四月廿七日:備中・備後・安藝・阿波
・ 天平三(731)年八月廿五日辛丑。詔曰。如聞。天地貺所。豊年最好。今歳登穀。朕甚嘉之。思与天下共受斯慶。宜免京及諸國今年田租之半。但淡路。阿波。譛岐。隱伎等國租并天平元年以往公私未納稻者。咸免除之。
・ 天平五(733)年閏三月二日:和泉監・紀伊・淡路・阿波
・ 天平宝字七(763)年七月廿六日:備前・阿波
・ 天平宝字七年八月廿三日:阿波・讃岐
・ 天平宝字八(764)年四月十六日:阿波・讃岐・伊豫
・ 天平神護元(765)年三月十六日:尾張・參河・播磨・石見・紀伊・阿波
・ 延暦九(790)年四月五日:備前・阿波 

 B 地方行政関係・改姓記事
・ 和銅五(712)年七月十五日秋七月壬午。令伊勢。尾張。參河。駿河。伊豆。近江。越前。丹波。但馬。因幡。伯耆。出雲。播磨。備前。備中。備後。安藝。紀伊。阿波。伊豫。讃岐等廿一國。始織綾錦。
・ 養老二(718)年五月七日庚子。土左國言。公私使直指土左。而其道經伊与國。行程迂遠。山谷險難。但阿波國。境土相接。往還甚易。請就此國。以爲通路。許之。
・ 養老三(719)年七月十三日庚子始置按察使。〈中略〉伊豫國守從五位上高安王。管阿波。讃岐。土左三國。
・ 養老六(722)年八月廿九日丁夘。伊勢。志摩。尾張。參河。遠江。美濃。飛騨。若狹。越前。丹後。但馬。因幡。播磨。美作。備前。備中。淡路。阿波。讃岐等國司。先是。奉使入京。不聽乘驛。至是始聽之。但伊賀。近江。丹波。紀伊四國。不在之限。
・ 天平元(729)年十一月七日〈上略〉又阿波國山背國陸田者不問高下。皆悉還公。即給當土百姓。
・ 天平勝宝八(756)年十二月二十日己亥。越後。丹波。丹後。但馬。因幡。伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安藝。周防。長門。紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六國。國別頒下潅頂幡一具。道塲幡四十九首。緋綱二條。以充周忌御齋莊餝。用了收置金光明寺。永爲寺物。隨事出用之。
・ 天平宝字五(761)年十一月十七日〈上略〉紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。播磨。美作。備前。備中。備後。安藝。周防等十二國。検定船一百廿一隻。兵士一万二千五百人。子弟六十二人。水手四千九百廿人。
・ 神護景雲元(767)年十二月四日庚辰。收在阿波國王臣功田位田。班給百姓口分田。以其土少田也。
・ 神護景雲二(768)年七月十四日乙酉。阿波國麻殖郡人外從七位下忌部連方麻呂。從五位上忌部連須美等十一人賜姓宿祢。大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連。
・ 宝亀四(773)年五月七日辛巳。阿波國勝浦郡領長費人立言。庚午之年。長直籍皆著費之字。因之。前郡領長直救夫。披訴改注長直。天平寳字二年。國司從五位下豊野眞人篠原。以無記驗更爲長費。官判依庚午籍爲定。又其天下氏姓青衣爲采女。耳中爲紀。阿曾美爲朝臣足尼爲宿祢。諸如此類。不必從古。
・ 宝亀六(775)年三月二日三月乙未。始置〈中略〉美作。備中。阿波。伊豫。土左大少目員。肥後少目二員。豊前大少目員。
・ 延暦二(783)年十二月二日甲辰。阿波國人正六位上粟凡直豊穗。飛騨國人從七位上飛騨國造祖門並任國造。

 C 中央政府関係・祥瑞報告記事
・ 慶雲元(704)年六月十五日己巳。阿波國獻木連理。
・ 延暦三(784)年七月四日秋七月癸酉。仰阿波。讃岐。伊豫三國。令進造山埼橋料材。
・ 延暦十(791)年九月十六日甲戌。仰越前。丹波。但馬。
播磨。美作。備前。阿波。伊豫等國。壞運平城宮諸門。以移作長岡宮矣。斷伊勢。尾張。近江。美濃。若狹。越前。紀伊等國百姓。殺牛用祭漢神。
           ※ 阿波国司任官記事は省略
3 『観音寺遺跡Ⅰ』木簡 別掲
2・4・5・6・15・20・23・34・35・37・60・62・66・70
【参考資料】 国庁の諸類型(山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』1994より)
① 長舎型-1
① 長舎型-2
② 大宰府型
③ 城柵型-1 多賀城
 ・ 曹司の機能
 ・ 国衙と曹司
 ・ 肥前国府と曹司
 ・ 伊勢国府と曹司
 ・ 伊勢国衙の構造


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「初堅魚 捕る海部の目に 幡羅の郷」
「弟国部 初夏の鳴門を 渡り来て」 企良

楽しみだな―、阿波国の海部探訪

阿波国報告-1 観音寺遺跡と阿波国府の条

2009-05-20 13:45:54 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 連休中様々な行動の報告を少しずつやっていきます。まずは徳島県埋蔵文化財センターでのシンポの様子をアップ! 

 5月1日、京都駅を8時10分発の高速バスに乗ると徳島駅に11時に着きます。何と便利な!!


(京都駅の乗り場探しで少し焦りましたが、後は順調!ただしそれは往きしだけ!実はこの後とんでもないことに・・・・)

 徳島県埋蔵文化財センター設立20周年記念シンポジウムでの報告のために前日に徳島へ向かうことに。

 実は恥ずかしながら、阿波国へは行ったことがなかったのです。讃岐へは何度も、土佐へも数度行ったことがあるので、何となく行ったつもりだったのです。ところが、よくよく調べてみる(記憶をたどってみると)、どう考えても行ってないのです。
 一昨年北海道に初めて行って、これで47都道府県全制覇!!と思っていたら大間違いでした。日本国秘境の地!いえいえとんでもない!京都からわずか二時間半で来られるところに来てい無かったとは、実に恥ずかしい。

 まずはテーマである観音寺遺跡を見ておかなければ、と前日に遺跡へ!!
 何と最寄り駅がこれ!「府中」と書いて「こう」と読む。



 府中駅を降りて何となく観音寺を探すが、途中で不安に。地元のおばさんに尋ねてまずは一宮-大御和神社を目指す。観音寺はその直ぐ隣だと聞く。
 


(春祭りのための縁が立っていた。さらにラッキーなことに、本殿前では神楽が演じられていた。神主の娘だろうか?面をかぶって鈴を鳴らしながら氏子の周りをそろりそろりと歩いて行く。少々ぎこちないところが素朴でとてもよかった!!)



(本殿の裏はこんな感じ。「おおみわ」という名称も意味深だが、なかなか古風でいい神社である。)



 大御和神社の前が旧伊予街道。江戸時代はこの道が伊予へ向かう官道だったとか。これを西にとると直ぐに16番札所観音寺へ。『観音寺遺跡1』という県が刊行した報告書はとてもよくまとまっている内容でにわか勉強にはもってこいだった。その報告書(執筆者は今回私を誘って下さった県埋文の藤川智之さん)によれば江戸時代の地積図によってかなり正確に当地周辺の小字や地割が復原できるという。それによればこの伊予街道は東西に神社の前を通り、なぜか、観音寺の前で南へ少し膨らんで再び西へ向かっている。藤川さんの研究ではどうも国府は従来の推定地であった大御和神社周辺ではなく、この観音寺一帯らしいので、この膨らみも意味がありそうである。



 そんな妄想を抱きながら観音寺へ。

 

(何と、若いカップルが二人より沿って、真剣に経を読んでいる。「ウーン・・・もちろんTDLにいくよりはいいのだが・・・」ちょっと考えさせられた。怨霊に興味を抱く学生が多いのと共通するようにも見えた。少し複雑な感じ!!?)



(観音寺遺跡周辺の航空写真。『観音寺遺跡Ⅰ』より)

 とりあえずをご覧あれ!!

観音寺遺跡周辺のミニスライドショー


 とにかく、阿波国、とても気に入りました!!間もなく近くで見付かった川港?の遺跡の現説もあるとか、是非もう一度行ってみようと思っています。 

山陽道駅跡探訪の旅の条

2009-04-12 23:36:12 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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「野磨駅 山桜の先 築地跡」
「小犬丸 訪ねし畠に 蓮華草」
「邑智駅 筍の側に 求む瓦」
 


(出発点は播磨国西端の駅野磨駅(落地遺跡))

 三月末の月曜日に新四年生の卒論テーマである「山陽道駅の立地と景観」(仮題)を調べるために山陽道の駅(うまや)の調査に行ってきました。山陽道の駅を訪ねて歩くのは実質的に初めてなので多くの収穫を得ることができました。やはり現場を歩かないと駄目ですね。


(野磨駅第Ⅱ期遺構群)

 学生は広島県福山市駅家の出身。JR福塩線に同名の駅があるというそのものズバリの土地出身者だ。福山というのは古代でいえば備後の国、備後国内には安那-品治-葦田の三駅が置かれたことが知られている。その内の一つ、品治駅(ほんじのうまや)の所在地だったから1913年に周辺の村々が合併したときに付けた名前だそうだ。三年生の時の演習のテーマがそのまま卒論に結び付いた。

 三月の初めにも我が親友広島大学のNM先生と、今回もお世話になったF市のTTさんに御案内頂いて府中市内の山陽道や駅家跡を訪ね歩いたと聞く。この頃の学生にしては珍しく積極的に野外に出かけて何かを見つけてこようとする。いい論文になればいいのだが・・・。





(布勢駅の南には室津への「道」が延びている。)
 当日はF市のTTさんにわざわざ車を出して頂き,上郡駅に集合して西から東へと山陽道の五駅を見て(通って)来ました。


(大市では親切なおじさまが瓦を見せてくれました)


 これまで高橋美久二さんのご研究で論文は山ほど読んでいたのですが、現地を本格的に歩いたのはこれが初めてと言ってもいいくらいでした。図上では判らなかった土地の起伏や視角が手に取るように判りました。高橋さん達の先学の研究で最早言い尽くされた感のあった山陽道ですが、少しは新しいことが言えそうな感じで帰ってきました。

 新たな視点は学生がうまくまとめてくれることを祈ることにして、ここでは
見学した駅周辺の景観をスライドショーでご紹介しておくことにします。



 「櫻舞う 切り通しにも 古の香」 


伊勢本街道探求-2 琴平山古墳の選地の条

2009-01-06 14:27:52 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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枯れ葉舞う  赤目の古跡  仁王立ち 

(かれはまう あかめのこせき におうだち)
 20090104 正月休みを終えて伊勢路に帰る途中、息子の運転で勢和から国道368号線を名張赤目まで抜けて待望の琴平山古墳に登る。




 
 (名張市の現説資料より)

 

 (峠村から名張川を下っていきます)


 (伊勢奥津→上・中・下太郎生→長瀬→夏見と下っていきました。この道を一日に2本だけ名張駅からバスが通っているわけです。昨年卒業した学生でここ太郎生から通っている女子学生がいました。大変!!)

  枯れ館 主が睨む 伊勢・大和
  (かれやかた あるじがにらむ いせ・やまと)
  20090104 今は知る人もあまりない多気の北畠館。現代人からしてみれば、 
 
 「どうしてこんな不便なところに?」



(2007年度の北畠館跡の調査で見付かった謎の石組み遺構群)

と首をかしげたくなるこの地こそ、かつて伊賀→大和、伊賀→伊勢北部、→伊勢中南部を一挙に睨むことのできる絶好の地であった。伊勢国司を担った北畠氏の熟慮の末の選地であろう。

 もちろん北畠にとってこの地が古くから王権と伊勢とを結ぶ交通の要衝であったと言う意識は十分にあったに違いない。細々と続いていた伊勢斎王制度は南北朝の頃途絶えてしまうが、平安時代には伊勢と伊賀・大和・山城を結ぶメインルートの一つであったことは間違いない。

木漏れ日に 映ゆる古道 布勢の露
(こもれびに はゆるふるみち ふせのつゆ)
20090104 葉の落ちた木々の間から射す初日に浮かび上がった伊勢路の古道は何となくうら悲しい暖かさを示してくれた。1200年前、布勢内親王は父桓武の死とによって役目を終え、都へ帰ることになる。しかし最早都には彼女を迎える父の姿がないと思うと、涙が溢れてくるのであった。



(壬申の乱ウオークで探訪したときの夏見廃寺。皆さんが座っているところが建物跡)

 大伯皇女の夏見廃寺、布勢内親王の寄進により成立した東寺大国庄、さらに遡ること100年前の天武天皇による「大安寺」への飯野郡中村野の寄進、そして伊勢中部に本格的な後期古墳(時代)の到来を告げる山添2号墳の築造、河田古墳群の形成(脚付短頸壺の配布)と、数多くの考古資料が眠っているのである。
 この道こそ、まさに「王権と伊勢」を結ぶ幹線道だったのである。

 そしてこの道を確実なものにしたのが、名張赤目に伊賀初めての横穴式石室を築いた琴平山古墳(現地説明会資料が公表されている)・丸尾山古墳の築造者であった。



 (前方部の金比羅様.この下に第3石室がある。)


(くびれ部の第2石室の石材。)


(発掘調査された後シートで覆われている後円部中央の第1石室。ここから兜や太刀が出たという。)


(この一帯が横山古墳群・丸尾山古墳群である。)

 いずれも畿内系の右片袖式の横穴式石室を持ち、6世紀初頭の畿内王権と深く繋がった勢力の墓域であろう。両古墳の築造を契機として,南の丘陵頂部には春日宮山古墳、宇陀川対岸に鹿高神社境内古墳が築造され、伊勢へのもう一つの出口である美旗から青山にかけて赤井塚古墳や桐ヶ谷15号墳が築造されるのであった。

 まさに伊賀随一の後期古墳の雄が赤目の地に築かれるところに大きな意味があるのである。そしてその地こそ、宇陀川沿いに伊賀に入り、「伊勢本街道」を用いて伊勢に入る首根っこの場所なのであった。

   金比羅を 覆う枯れ葉に 霊の宿
  (こんぴらを おおうかれはに れいのやど)
 琴平山古墳の前方部にはいつしか金比羅様が祀られている。その下に1基、前方部と後円部の境(くびれ部)に1基、後円部に1基と合計3基の横穴式石室が設けられている。伊賀南部特有の複数の横穴式石室を持つ後期古墳の最初である。


(琴平山古墳を西の平地から見たところ。正面の住宅の向こうに琴平山古墳がある。右手が大和方面、左手が伊勢本街道である。)


(琴平山古墳の南から西北方向を見た眺望)
 
 
 さて、そろそろ仕上げにかからないといかに温厚な山田邦和大博士様でも堪忍袋の緒が切れて怒鳴るに違いない。
 その上、このままだと新年宴会もできない。ごめんなさい、博士様。南無阿弥陀仏。
 
 早く宴会の日取りと場所を決めて下さいね。私は18日(日)が一番いいのだけれど・・・。

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金比羅を 覆う枯れ葉に 霊の宿

 (こんぴらを おおうかれはに れいのやど)
 実に明快!横穴式石室の展開と副葬された須恵器。皆さんも一度歩いてみて下さい。

 お勧めは①近鉄赤目口駅(名張の一つ大阪よりの駅)で降りて琴平山や鹿高神社境内古墳を歩く赤目コース、②名張駅から滅多にない三交バス(1日二本で昼は13時のみ)に乗って適当なところで降り(せめて上太郎生くらいまでは行った方がいいかも)、歩いて伊勢奥津を目指す。伊勢奥津発の名松線の最終は18時54分だからこれに遅れないように!!(もちろんバスにずっと乗って、伊勢奥津まで約一時間、車窓から伊勢本街道を楽しむのが安全かも(笑))もちろん松阪から名松線に乗り換えて伊勢奥津に入る手もある。(名松線の時刻表URL: http://www8.ekitan.com/norikae/Time/0_83-14_1_2.html 三交バスの時刻表URL: http://businfo.sanco.co.jp/)一度散策下さい。壬申の乱と関係ないけれど行ってみようかな?


伊勢本街道探求-1 「峠村 汲む人もなく 落柿の井」の条

2009-01-05 16:11:48 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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 「残雪の 伊勢街道に 大伯追い」短い旅をしました 

(ざんせつの いせかいどうに おおくおい)
 20090104 大伯皇女が斎王として初めての務めを終えて大和に帰るその道は,後に伊勢本街道と名付けられた櫛田川沿いの古道であった。その道を辿りながら、大伯の心情を思いやる。

 実は私は2002年に書いた論文の頃から飯野郡の南部、多気郡の一角に至る名張からの道、現在の国道368号線が、原始古代からの重要な古道の一つではないかと考えてきました。間もなく完成の朧谷先生古希記念論集への掲載予定原稿ではこの辺りを骨子にした文章をまとめています。しかし、一度もこの道を歩いたことも通ったこともないのに本当にそう言えるのか、少し気になっていました。本当は元日に行こうと思っていたのですが、あいにく偏頭痛でダウン!!偶然やってきたのが昨日。長男が長女と私を京都から津まで車で送ってやるというのです。

 車中で何気なく、
 「もし時間が許すんやったらちょっとドライブしてくれへんか」と言ってみると、
 「ええよ!!」と快諾。


(最新のカーナビとこの地図を頼りにいざ368へ!大袈裟な。)

急遽津の先の勢和インターまで高速を走って、そこから368号を北西行することに。丹生の交差点から朝柄・桜峠を経て粥見井尻の交差点へ。ここはかの有名な縄文草創期の土偶を出した粥見井尻遺跡の直ぐ横。もちろん現地に行くのはこれが初めて。しかし時間がないので、むしろ興味深かった粥見神社とその向かいにある大和信貴山毘沙門天に上がった。
 

(粥見神社と大和信貴山毘沙門天は向かい合った丘の上にあった。)



(毘沙門天からは眼下に粥見の集落と伊勢本街道、そして吉野へ向かう和歌山街道を見ることができた。)

  粥見路や 枯れ葉に眠る 原始人 
  (かゆみじや かれはにねむる げんしびと)







 木漏れ日に 映ゆる古道 布勢の露 (こもれびに はゆるふるみち ふせのつゆ)
20090104 葉の落ちた木々の間から射す初日に浮かび上がった伊勢路の古道は何となくうら悲しい暖かさを示してくれた。1200年前、布勢内親王は父桓武の死とによって役目を終え、都へ帰ることになる。しかし最早都には彼女を迎える父の姿がないと思うと、涙が溢れてくるのであった。


(仁柿峠へ向かってクネクネ道を行く。途中には櫃坂が・・・)




(仁柿峠にはかつて峠村があった。)

 峠村 汲む人もなく 落柿の井
(とうげむら くむひともなく らくしのい)
20090104 伊勢本街道を多気・粥見と進むと今はなき峠村にさしかかる。古家が取り壊されたのであろう、葉の落ちた柿の木の下に小さな古井戸がぽつんと残されていた。




(集落の裏には分水嶺を越えて、北西へ流れ出した名張川の小さな清流があった。)


(石垣だけがかつての村の繁栄を教えてくれる。)
  

(美杉を目指して北上!)

 昨年末12月28日にアップした北畠館跡の調査。どうしてこんな所に北畠は本拠を置いたのか?以前から大きな疑問だった。しかし、今回の探求でそれは見事に氷解した。この道の先は直ぐ美杉村(現在は津市)多気である。続きは次回。


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北畠の館跡とこうして道が繋がった!北畠がなぜこの地を選んだのか、よく理解できる。 


 ※背景の写真は大和信貴山毘沙門天の参道階段の途中から見た粥見の集落である。