7月11日午後は伊賀市での講演会でした。
実はこの日は危うくダブルブッキングするところだったのです。桑名が午前10時から、伊賀が午後2時半から。電車を調べてみると間に合わない!!
どうしよう?
車だとどう行くか?
桑名インターから東名阪経由西名阪で伊賀上野へ。これなら約1時間半で行けると判る。しかし私は車を運転しない。ではどうする?
娘に頼んでみよう!
「了解!」と返事。ところが後日、会社の出張で、その日早朝帰国でベトナムに行くことになったという。息子は?夏の訓練で忙しい!
仕方ない、タクシーで行こう。
というわけで、午前中は先にご紹介した桑名での「榎撫駅と柚井遺跡」について、午後は、「伊賀と古代交通」について話しをすることになった。
伊賀での講演会は三重大学が地方自治体と連携して行う一種の目玉事業なのです。だからできるだけ沢山の人に来てもらわなければならないのです。
ところが悲しいかな、会場がないというのです。以前名張でやったときには優に100人は入れる会場が有り、実際それくらいの方々が来て下さったのですが、悲しいかな伊賀市の施設は40人しか入れない。何とか机の周りに椅子を入れ、ぎゅうぎゅう詰めで入れて60余人。雨は降るは、当日は選挙の投票日と重なるわで散々だったのです。
そんな中、お話ししたのが、伊賀が国として位置づけられた理由だったのです。
講演の概要は
「日本の古代社会は、世界的にも珍しい律令と呼ばれる法律によって国を統治する中央集権的な法治国家でした。8世紀には大和国に、8世紀末以降には山城国に都が置かれ、全国に設置された国-郡-郷に官僚を派遣、任命して統治していました。国は66カ国ほど有り、現在の都道府県(北海道と沖縄を除く)とほぼ対応しています。特に海辺に所在する地域や島は天皇に海産物を貢納する特別な国とされ、志摩、伊豆、安房、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬等の人々が特産物を都へ納めていました。内陸部で同様の扱いを受けたのが飛騨と伊賀です。飛騨は飛騨匠と呼ばれる木工に優れた技術者集団の居住地として知られ、国家に建築技術を提供しました。では伊賀はなぜ国とされたのでしょうか。それを検討する材料が考古学にあります。特に4世紀終わりから5世紀中頃にかけて築造された石山古墳や御墓山古墳はその象徴的遺跡です。こうした様々な考古資料から伊賀の魅力を探ります。」でした。
Ⅰ 伊賀国の前史
まずスライドで、伊賀の古墳時代を代表する石山古墳を紹介し、この古墳がなぜこの地に設けられたのか、誰が何のために築造したのかについてお話しをしました。伊賀のど真ん中に4世紀末にできたこの古墳は大和王権が伊賀に手を付けた最初の証拠です。
120mの前方後円墳の築造、東方外区と呼ばれる造り出しの形成、その「外区」上での埴輪祭祀、囲い形埴輪や、多様な家形埴輪、武器形の諸埴輪、石製模造品の大量埋納、等々、当時の王権との強力な関係をもつ古墳の築造は、大和が並々ならぬ力をこの地に入れていたことを示します。その証拠にこの後伊賀の地には北部に御墓山古墳、南東部に美旗古墳群が連続的に築造され、その影響が強く維持されたことが判ります。
石山古墳の直後に伊勢湾に進出した王権が、伊勢中央の松阪に宝塚古墳を造りながら、この一代限りで前方後円墳の築造を止めてしまうのと大きな違いがあります。
伊賀はこれ以後の大和にとって不可欠の地域だったのです。
Ⅱ 伊賀国の行政
ではどの様に不可欠だったのでしょうか。
伊賀国は四郡(名張郡・伊賀郡・阿拝郡・山田郡)からなる下国でした。
国府は講演をしたJR伊賀上野駅を東へ真っ直ぐ進んだ阿拝郡国町の一角にあります。この地を南へ真っ直ぐ南下した伊賀市西明寺に伊賀国分寺・国分尼寺も所在が確認されています。伊賀では阿拝郡が重要な地域として認識されていたのです。なぜでしょうか。
その答えは次の『続日本紀』の記事から理解できます。
『続日本紀』和銅四年正月二日条
・四年春正月丁未。《丙午朔二》始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛。
和銅四(711)年ですから平城遷都の直後のことです。おそらくそれまでの飛鳥に置かれていた都が北へ移動した事による新たな交通路の策定が行われたからではないでしょうか。平城京を北へ出てその最初が都亭驛、そして木津川を渡って木津川に沿って東へ真っ直ぐ進んだところ、伊賀に入って最初の駅家が新家駅だったのです。
壬申の乱の進軍ルートが吉野→榛原→名張→伊賀→柘植→鈴鹿・・・であったことからすると、飛鳥時代の大和から伊賀へ至るルートはおそらく古墳時代に確立したこのルートが用いられたのです。ところが都が遷されて新たな道が模索され、それに伴って国として位置づけられた伊賀国に新たな交通路が用意されたのではないでしょうか。なお、伊賀国の郡衙としては伊賀郡のそれが下郡遺跡として知られ、木簡が出土しています(後述)が、これ以外は今のところ判っていません。
Ⅲ 伊賀国と「東海道」
[1] 変遷する「東海道」
古墳時代に大和から伊勢湾へ抜けるルートは3本ありました。第一のルートが壬申の乱で大海人皇子が通ったルートです。桜井→榛原→名張→伊賀→柘植→加太越え→鈴鹿です。
第二のルートが名張→美旗→阿保→川口→一志・安濃(津・松阪)です。
第3のルートは名張→名張川→峠→櫛田川→飯高→多気→渡会です。
平城京以前の飛鳥・白鳳時代も基本的にこの3ルートが用いられたと思われます。
ところが、遷都により都が北上すると、平城京の時代のメインルートは、岡田駅や新家駅の新設によって、新たに木津川ルートが開発され、これが官道・東海道とされ,国府もこのルート上の阿拝郡に置かれます。
長岡京以後都が山背に置かれると、東海道は一新され、近江から伊賀・伊勢或いは平安京以後は、近江から伊賀を経ずに伊勢というルートが開発され、ここに前代以来王権の所在地に対するエアーバックの役割を担ってきた伊賀の存在感は一挙に薄れます。伊賀の役割が終演する瞬間でもありました。延喜式に伊賀国の駅家が記載されない理由がここにあります。
伊賀国を東海道が通過していた奈良時代の駅家は、公式には新家駅のみです。それ以前に壬申の乱で『日本書紀』に記載される「隠驛」,「伊賀駅」が知られますが、これらは奈良時代には伝馬の置かれた郡衙の施設の一部となったものと思われます。
[2] 文献史料に見る東海道
天平年間に作成された『伊勢国計会帳』(断簡28行分。『大日本古文書巻第二十四巻』)は、都からどの様に公文書が逓送されたかを知る貴重な資料です。
(前略)
令下齎太政官并民部・兵部省符、遣中尾張国上遊牒一紙以九月三日来返抄。
右 付鈴鹿郡散事石寸部豊足
齎太政官并民部・兵部省符、従伊賀国来使返抄一紙
右 付還使石部赤麻呂
(後略)
この計会帳によって、次のようなことが復原できます。
a) 太政官符・民部省符・兵部省符が都(平城宮)から大和国→伊賀国→伊勢国→尾張国・・・→というルートで伝達されていた。
b) 伊勢国→尾張国へは鈴鹿郡の役人(石寸部豊足)がこれらの文書を伝達した。その際、送り状としての「遊牒」を尾張国へ届けた。その受け取りとしての「返抄」を九月三日に伊勢国(石寸部豊足)が受け取った。
c) 一方、太政官符・民部省符・兵部省符を「遊牒」と共に齎(もたら)した伊賀国の来使(石部赤麻呂)には「返抄」を持たせて返した。
この様に730年代に実際に行われていた東海道を通じた公文書の流れを復原することができるわけです。
(注) 計会帳 : 律令制下において、地方官は中央政府に政務を報告するために4種の帳簿(「四度公文(よどのくもん)」)を提出するが、その一つである朝集帳の付属帳簿(枝文(えだふみ))をいう。諸国の国衙(こくが)が1年間に中央政府や他国との間で授受中継した詔(しょう)・勅(ちょく)・符(ふ)などの公文書を、授受の月日と使人の姓名とともに記帳し、期日までに太政官に提出した帳簿である。太政官では中央諸司主典(さかん)と諸国朝集使の参集のもとで提出された計会帳を監査し、公文書の授受に遺漏がなかったかどうかを確認した。計会帳は正税(しょうぜい)帳とともに律令制地方行政の実態を明らかにするための貴重な資料の一つであり、「出雲国計会帳」「伊勢国計会帳」が現存する。(小学館『日本大百科全書』)
もちろんこの場合の実際の公文書の流れは平城宮(太政官)→大和国→都亭駅→岡田駅→新家駅(伊賀国)→伊賀国《石部赤麻呂・遊牒》→(加太越)→鈴鹿関・鈴鹿駅(伊勢国)→《←返抄・石部赤麻呂》伊勢国府《石寸部豊足・遊牒》→河曲驛→朝明駅→榎撫駅→馬津駅(尾張国)→《←返抄・石寸部豊足》尾張国府→・・・・→参河国府・・・
のようであったと思われます。
[3] 伊賀の人々
この様な史料を通して、伊賀国に「勤務」した石部赤麻呂や伊勢国に「勤務」した石寸部豊足の存在が明らかになります。特に石部氏については平城京で発見された木簡から伊賀郡にも展開していたことが知られます。
・ 伊賀国伊賀郡長田郷
・ 新木里石部道□長
→石部氏は磯部氏、伊勢部氏ともされ、この他に伊賀国阿拝郡柘植郷長解に石部大万呂等が知られ、伊賀国の中心的氏族であったことが判ります。
なお、伊賀郡衙と推定される下郡遺跡からは延暦の元号を記す木簡が発見されています。三重県下では先に紹介した柚井遺跡の木簡と並ぶ地方での貴重な文字資料となっています。
《伊賀市下郡遺跡》
・ 沓縫阿□□□□祖□□○□
・ 〈〉出可租稲七束四把四分延暦□
おわりに
・なぜ伊賀は国になったのか
→大和が中心であったときに東国との間のエアーバックのような役割を果たし、中央の情報は伊賀を経て東へ伝えられた。
・しかし、都が長岡京・平安京と遷されるに従って、次第にその役割を終えることになる。
こんな話しをした訳なんです。
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実はこの日は危うくダブルブッキングするところだったのです。桑名が午前10時から、伊賀が午後2時半から。電車を調べてみると間に合わない!!
どうしよう?
車だとどう行くか?
桑名インターから東名阪経由西名阪で伊賀上野へ。これなら約1時間半で行けると判る。しかし私は車を運転しない。ではどうする?
娘に頼んでみよう!
「了解!」と返事。ところが後日、会社の出張で、その日早朝帰国でベトナムに行くことになったという。息子は?夏の訓練で忙しい!
仕方ない、タクシーで行こう。
というわけで、午前中は先にご紹介した桑名での「榎撫駅と柚井遺跡」について、午後は、「伊賀と古代交通」について話しをすることになった。
伊賀での講演会は三重大学が地方自治体と連携して行う一種の目玉事業なのです。だからできるだけ沢山の人に来てもらわなければならないのです。
ところが悲しいかな、会場がないというのです。以前名張でやったときには優に100人は入れる会場が有り、実際それくらいの方々が来て下さったのですが、悲しいかな伊賀市の施設は40人しか入れない。何とか机の周りに椅子を入れ、ぎゅうぎゅう詰めで入れて60余人。雨は降るは、当日は選挙の投票日と重なるわで散々だったのです。
そんな中、お話ししたのが、伊賀が国として位置づけられた理由だったのです。
講演の概要は
「日本の古代社会は、世界的にも珍しい律令と呼ばれる法律によって国を統治する中央集権的な法治国家でした。8世紀には大和国に、8世紀末以降には山城国に都が置かれ、全国に設置された国-郡-郷に官僚を派遣、任命して統治していました。国は66カ国ほど有り、現在の都道府県(北海道と沖縄を除く)とほぼ対応しています。特に海辺に所在する地域や島は天皇に海産物を貢納する特別な国とされ、志摩、伊豆、安房、佐渡、淡路、隠岐、壱岐、対馬等の人々が特産物を都へ納めていました。内陸部で同様の扱いを受けたのが飛騨と伊賀です。飛騨は飛騨匠と呼ばれる木工に優れた技術者集団の居住地として知られ、国家に建築技術を提供しました。では伊賀はなぜ国とされたのでしょうか。それを検討する材料が考古学にあります。特に4世紀終わりから5世紀中頃にかけて築造された石山古墳や御墓山古墳はその象徴的遺跡です。こうした様々な考古資料から伊賀の魅力を探ります。」でした。
Ⅰ 伊賀国の前史
まずスライドで、伊賀の古墳時代を代表する石山古墳を紹介し、この古墳がなぜこの地に設けられたのか、誰が何のために築造したのかについてお話しをしました。伊賀のど真ん中に4世紀末にできたこの古墳は大和王権が伊賀に手を付けた最初の証拠です。
120mの前方後円墳の築造、東方外区と呼ばれる造り出しの形成、その「外区」上での埴輪祭祀、囲い形埴輪や、多様な家形埴輪、武器形の諸埴輪、石製模造品の大量埋納、等々、当時の王権との強力な関係をもつ古墳の築造は、大和が並々ならぬ力をこの地に入れていたことを示します。その証拠にこの後伊賀の地には北部に御墓山古墳、南東部に美旗古墳群が連続的に築造され、その影響が強く維持されたことが判ります。
石山古墳の直後に伊勢湾に進出した王権が、伊勢中央の松阪に宝塚古墳を造りながら、この一代限りで前方後円墳の築造を止めてしまうのと大きな違いがあります。
伊賀はこれ以後の大和にとって不可欠の地域だったのです。
Ⅱ 伊賀国の行政
ではどの様に不可欠だったのでしょうか。
伊賀国は四郡(名張郡・伊賀郡・阿拝郡・山田郡)からなる下国でした。
国府は講演をしたJR伊賀上野駅を東へ真っ直ぐ進んだ阿拝郡国町の一角にあります。この地を南へ真っ直ぐ南下した伊賀市西明寺に伊賀国分寺・国分尼寺も所在が確認されています。伊賀では阿拝郡が重要な地域として認識されていたのです。なぜでしょうか。
その答えは次の『続日本紀』の記事から理解できます。
『続日本紀』和銅四年正月二日条
・四年春正月丁未。《丙午朔二》始置都亭驛。山背國相樂郡岡田驛。綴喜郡山本驛。河内國交野郡楠葉驛。攝津國嶋上郡大原驛。嶋下郡殖村驛。伊賀國阿閇郡新家驛。
和銅四(711)年ですから平城遷都の直後のことです。おそらくそれまでの飛鳥に置かれていた都が北へ移動した事による新たな交通路の策定が行われたからではないでしょうか。平城京を北へ出てその最初が都亭驛、そして木津川を渡って木津川に沿って東へ真っ直ぐ進んだところ、伊賀に入って最初の駅家が新家駅だったのです。
壬申の乱の進軍ルートが吉野→榛原→名張→伊賀→柘植→鈴鹿・・・であったことからすると、飛鳥時代の大和から伊賀へ至るルートはおそらく古墳時代に確立したこのルートが用いられたのです。ところが都が遷されて新たな道が模索され、それに伴って国として位置づけられた伊賀国に新たな交通路が用意されたのではないでしょうか。なお、伊賀国の郡衙としては伊賀郡のそれが下郡遺跡として知られ、木簡が出土しています(後述)が、これ以外は今のところ判っていません。
Ⅲ 伊賀国と「東海道」
[1] 変遷する「東海道」
古墳時代に大和から伊勢湾へ抜けるルートは3本ありました。第一のルートが壬申の乱で大海人皇子が通ったルートです。桜井→榛原→名張→伊賀→柘植→加太越え→鈴鹿です。
第二のルートが名張→美旗→阿保→川口→一志・安濃(津・松阪)です。
第3のルートは名張→名張川→峠→櫛田川→飯高→多気→渡会です。
平城京以前の飛鳥・白鳳時代も基本的にこの3ルートが用いられたと思われます。
ところが、遷都により都が北上すると、平城京の時代のメインルートは、岡田駅や新家駅の新設によって、新たに木津川ルートが開発され、これが官道・東海道とされ,国府もこのルート上の阿拝郡に置かれます。
長岡京以後都が山背に置かれると、東海道は一新され、近江から伊賀・伊勢或いは平安京以後は、近江から伊賀を経ずに伊勢というルートが開発され、ここに前代以来王権の所在地に対するエアーバックの役割を担ってきた伊賀の存在感は一挙に薄れます。伊賀の役割が終演する瞬間でもありました。延喜式に伊賀国の駅家が記載されない理由がここにあります。
伊賀国を東海道が通過していた奈良時代の駅家は、公式には新家駅のみです。それ以前に壬申の乱で『日本書紀』に記載される「隠驛」,「伊賀駅」が知られますが、これらは奈良時代には伝馬の置かれた郡衙の施設の一部となったものと思われます。
[2] 文献史料に見る東海道
天平年間に作成された『伊勢国計会帳』(断簡28行分。『大日本古文書巻第二十四巻』)は、都からどの様に公文書が逓送されたかを知る貴重な資料です。
(前略)
令下齎太政官并民部・兵部省符、遣中尾張国上遊牒一紙以九月三日来返抄。
右 付鈴鹿郡散事石寸部豊足
齎太政官并民部・兵部省符、従伊賀国来使返抄一紙
右 付還使石部赤麻呂
(後略)
この計会帳によって、次のようなことが復原できます。
a) 太政官符・民部省符・兵部省符が都(平城宮)から大和国→伊賀国→伊勢国→尾張国・・・→というルートで伝達されていた。
b) 伊勢国→尾張国へは鈴鹿郡の役人(石寸部豊足)がこれらの文書を伝達した。その際、送り状としての「遊牒」を尾張国へ届けた。その受け取りとしての「返抄」を九月三日に伊勢国(石寸部豊足)が受け取った。
c) 一方、太政官符・民部省符・兵部省符を「遊牒」と共に齎(もたら)した伊賀国の来使(石部赤麻呂)には「返抄」を持たせて返した。
この様に730年代に実際に行われていた東海道を通じた公文書の流れを復原することができるわけです。
(注) 計会帳 : 律令制下において、地方官は中央政府に政務を報告するために4種の帳簿(「四度公文(よどのくもん)」)を提出するが、その一つである朝集帳の付属帳簿(枝文(えだふみ))をいう。諸国の国衙(こくが)が1年間に中央政府や他国との間で授受中継した詔(しょう)・勅(ちょく)・符(ふ)などの公文書を、授受の月日と使人の姓名とともに記帳し、期日までに太政官に提出した帳簿である。太政官では中央諸司主典(さかん)と諸国朝集使の参集のもとで提出された計会帳を監査し、公文書の授受に遺漏がなかったかどうかを確認した。計会帳は正税(しょうぜい)帳とともに律令制地方行政の実態を明らかにするための貴重な資料の一つであり、「出雲国計会帳」「伊勢国計会帳」が現存する。(小学館『日本大百科全書』)
もちろんこの場合の実際の公文書の流れは平城宮(太政官)→大和国→都亭駅→岡田駅→新家駅(伊賀国)→伊賀国《石部赤麻呂・遊牒》→(加太越)→鈴鹿関・鈴鹿駅(伊勢国)→《←返抄・石部赤麻呂》伊勢国府《石寸部豊足・遊牒》→河曲驛→朝明駅→榎撫駅→馬津駅(尾張国)→《←返抄・石寸部豊足》尾張国府→・・・・→参河国府・・・
のようであったと思われます。
[3] 伊賀の人々
この様な史料を通して、伊賀国に「勤務」した石部赤麻呂や伊勢国に「勤務」した石寸部豊足の存在が明らかになります。特に石部氏については平城京で発見された木簡から伊賀郡にも展開していたことが知られます。
・ 伊賀国伊賀郡長田郷
・ 新木里石部道□長
→石部氏は磯部氏、伊勢部氏ともされ、この他に伊賀国阿拝郡柘植郷長解に石部大万呂等が知られ、伊賀国の中心的氏族であったことが判ります。
なお、伊賀郡衙と推定される下郡遺跡からは延暦の元号を記す木簡が発見されています。三重県下では先に紹介した柚井遺跡の木簡と並ぶ地方での貴重な文字資料となっています。
《伊賀市下郡遺跡》
・ 沓縫阿□□□□祖□□○□
・ 〈〉出可租稲七束四把四分延暦□
おわりに
・なぜ伊賀は国になったのか
→大和が中心であったときに東国との間のエアーバックのような役割を果たし、中央の情報は伊賀を経て東へ伝えられた。
・しかし、都が長岡京・平安京と遷されるに従って、次第にその役割を終えることになる。
こんな話しをした訳なんです。
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