昨日(2月13日(土))は第16回久留倍官衙遺跡を考える会主催の壬申の乱ウオークだった。
前日までの暖かい雨天とは打って変わって、快晴だがとても寒い朝だった。
にもかかわらず近鉄北勢線在良駅前には100人ものたくさんの市民の方がお集まりになった。今回のウオークは在良駅の直ぐ西北にある額田廃寺を「見学」することだった。
とは言っても額田廃寺は今や跡形もなくなり、その伽藍のあったところさえどこなのか判らなくなっている。昭和38年の発掘というから今から47年も前のことである。まだまだ文化財保護行政が確立していなかった当時、三重県の指定になっていた遺跡であるにもかかわらず開発申請が出され、限られた予算で発掘調査を実施したものの、転売に転売を重ね、申請時の目的も変えられて住宅開発され、完全に遺跡が削平されるという悲しい運命をたどった遺跡である。
それも研究が進めば進むほどこの遺跡の価値は計り知れず大きく、おそらく三重県最古の寺院跡と言っても過言ではないものだと言うことがわかってきたのである(古くは7世紀前半と言われていたが、流石にそこまでは古くはなさそうである)。特に注目されるのが飛鳥の川原寺と同笵(一部笵を改刻)の瓦が出土することである。山崎信二さんの研究によれば全国に多数存在する川原寺系といわれる瓦、しかし、あくまで「系」であって、川原寺の瓦ではない。その他○○系といわれる瓦も含めてその基となる寺院に用いられた笵で作られる瓦が用いられることはほとんどないというのである。もしその様なことがあればその寺院はよほどの意味を持った寺院だというのである。
三重県桑名市に所在する額田廃寺はまさにその希有な例なのである。
私は壬申の乱においてなぜ大海人皇子が桑名を拠点に選んだのか?その第一の背景がこのことにあると考えている。
桑名郡というのは伊勢国最北端に所在する郡である。『倭名抄』によれば伊勢国の筆頭に記されている。さらにその郷構成を見てみると、野代、桑名、額田、尾津、熊口の5郷しかない下郡なのである。古代の行政では郡は所管する郷の数によって5等級にランク分けされていたが、桑名郡は下から2番目のとても小さな郡なのである。
どうしてこのような小さな郡が重視されたのか?もちろん三川合流地帯の直ぐ南に位置し、伊勢湾北西部の沿岸部にも位置し、陸路では東海道の伊勢湾への到達点であり、揖斐川沿いに美濃国養老郡・不破郡へ至ることができる水陸海交通の結節点であるからである。そんな交通の要所であるから大和王権は早くから注目していたのではなかろうか。あるいは王権の直轄領があったのかも知れない。だから王権の手によって、或いはその影響を受けた豪族が額田廃寺を建立したのではなかろうか。
そんな桑名の地を歩いたのだが、後半は桑名の「歴史の案内人」の方々に近世桑名の魅力をたっぷり語って頂いた。
感謝!!
ところで、このウオークを始める前に参加者の方から悲しい話を聞いた。
第1回の時から毎回参加して頂いていた秋元アキラさんが亡くなったという報せだった。秋元さんとは名張の夏目廃寺などを歩いた時に親しくなって、お話しするようになった。特にお名前が「アキラ」なのでお互いにより親しみを感じていたのだ。詳しいお歳などは存じ上げないが70歳代の女性である。
物静かだが、歴史にはとても詳しく、いろいろな質問をされて、こちらがたじたじすることもあった。そんなあるウオークでの別れ際に
「私は癌になってしまってもう余り歩けなくなりました。これが最後だと思います。いろいろ有り難うございました。」と。
何と申しあげていいのか判らなかったが、そこにはすがすがしい秋元さんのお顔があって、そんなお顔になるのに「ウオーク」が少しは役に立っていたのかな、と思いお別れした。ところがそれから半年後の昨年の第2回久留倍まつりでの講演会に和服姿でお出でになったのだ。私自身は会場準備などでバタバタしていたので知らなかったのだが、加藤謙吉さんの講演が終わり、片付けをしている時に突然和服姿の女性が現れ、「ご挨拶なさるのだ。私の知っている秋元さんはもちろん「歩く」時だけなのでその違いが一瞬理解できなかったのだ。
鶯色の和服がとてもお似合いで、
「もうこれへんかと思うてたんですが、今日これがあると知って参りました。どうも有り難うございました。」
何とお答えすればいいのか、何とか「また来年もやりますから是非来て下さいね。」と申しあげるのが精一杯だった。きっと最後の気力を振り絞ってお出でになったに違いない。それから1ヶ月ほどしてお亡くなりになったという。
いつまでもいつまでも心に残る方だった。
心からご冥福をお祈りしたい。向こうで「ウオーク」しましょうね!!ありがとうございました。
壬申の乱ウオーク、私も参加してみようかなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→
前日までの暖かい雨天とは打って変わって、快晴だがとても寒い朝だった。
にもかかわらず近鉄北勢線在良駅前には100人ものたくさんの市民の方がお集まりになった。今回のウオークは在良駅の直ぐ西北にある額田廃寺を「見学」することだった。
とは言っても額田廃寺は今や跡形もなくなり、その伽藍のあったところさえどこなのか判らなくなっている。昭和38年の発掘というから今から47年も前のことである。まだまだ文化財保護行政が確立していなかった当時、三重県の指定になっていた遺跡であるにもかかわらず開発申請が出され、限られた予算で発掘調査を実施したものの、転売に転売を重ね、申請時の目的も変えられて住宅開発され、完全に遺跡が削平されるという悲しい運命をたどった遺跡である。
それも研究が進めば進むほどこの遺跡の価値は計り知れず大きく、おそらく三重県最古の寺院跡と言っても過言ではないものだと言うことがわかってきたのである(古くは7世紀前半と言われていたが、流石にそこまでは古くはなさそうである)。特に注目されるのが飛鳥の川原寺と同笵(一部笵を改刻)の瓦が出土することである。山崎信二さんの研究によれば全国に多数存在する川原寺系といわれる瓦、しかし、あくまで「系」であって、川原寺の瓦ではない。その他○○系といわれる瓦も含めてその基となる寺院に用いられた笵で作られる瓦が用いられることはほとんどないというのである。もしその様なことがあればその寺院はよほどの意味を持った寺院だというのである。
三重県桑名市に所在する額田廃寺はまさにその希有な例なのである。
私は壬申の乱においてなぜ大海人皇子が桑名を拠点に選んだのか?その第一の背景がこのことにあると考えている。
桑名郡というのは伊勢国最北端に所在する郡である。『倭名抄』によれば伊勢国の筆頭に記されている。さらにその郷構成を見てみると、野代、桑名、額田、尾津、熊口の5郷しかない下郡なのである。古代の行政では郡は所管する郷の数によって5等級にランク分けされていたが、桑名郡は下から2番目のとても小さな郡なのである。
どうしてこのような小さな郡が重視されたのか?もちろん三川合流地帯の直ぐ南に位置し、伊勢湾北西部の沿岸部にも位置し、陸路では東海道の伊勢湾への到達点であり、揖斐川沿いに美濃国養老郡・不破郡へ至ることができる水陸海交通の結節点であるからである。そんな交通の要所であるから大和王権は早くから注目していたのではなかろうか。あるいは王権の直轄領があったのかも知れない。だから王権の手によって、或いはその影響を受けた豪族が額田廃寺を建立したのではなかろうか。
そんな桑名の地を歩いたのだが、後半は桑名の「歴史の案内人」の方々に近世桑名の魅力をたっぷり語って頂いた。
感謝!!
ところで、このウオークを始める前に参加者の方から悲しい話を聞いた。
第1回の時から毎回参加して頂いていた秋元アキラさんが亡くなったという報せだった。秋元さんとは名張の夏目廃寺などを歩いた時に親しくなって、お話しするようになった。特にお名前が「アキラ」なのでお互いにより親しみを感じていたのだ。詳しいお歳などは存じ上げないが70歳代の女性である。
物静かだが、歴史にはとても詳しく、いろいろな質問をされて、こちらがたじたじすることもあった。そんなあるウオークでの別れ際に
「私は癌になってしまってもう余り歩けなくなりました。これが最後だと思います。いろいろ有り難うございました。」と。
何と申しあげていいのか判らなかったが、そこにはすがすがしい秋元さんのお顔があって、そんなお顔になるのに「ウオーク」が少しは役に立っていたのかな、と思いお別れした。ところがそれから半年後の昨年の第2回久留倍まつりでの講演会に和服姿でお出でになったのだ。私自身は会場準備などでバタバタしていたので知らなかったのだが、加藤謙吉さんの講演が終わり、片付けをしている時に突然和服姿の女性が現れ、「ご挨拶なさるのだ。私の知っている秋元さんはもちろん「歩く」時だけなのでその違いが一瞬理解できなかったのだ。
鶯色の和服がとてもお似合いで、
「もうこれへんかと思うてたんですが、今日これがあると知って参りました。どうも有り難うございました。」
何とお答えすればいいのか、何とか「また来年もやりますから是非来て下さいね。」と申しあげるのが精一杯だった。きっと最後の気力を振り絞ってお出でになったに違いない。それから1ヶ月ほどしてお亡くなりになったという。
いつまでもいつまでも心に残る方だった。
心からご冥福をお祈りしたい。向こうで「ウオーク」しましょうね!!ありがとうございました。
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