yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

鈴鹿関報告-10  台風の中の300人の条

2006-09-19 12:28:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(現地説明会会場はとても素敵な芝生公園であった。)


 台風13号の影響が心配された現地説明会は無事開催することができました。遠く東京からも朝早くから問い合わせがあり(実際に東京から来たという熱心な学生さんからたくさん質問を受けました)、開催が危ぶまれましたが、鈴鹿関第1次発掘調査に限り雨とは無縁の調査だっただけに最後まで雨には祟られずに済みました。余り天とは仲のよくない私にしては珍しいことでした。


(大変熱心に聞いてくださった参加者)


 午前と午後の二回に分けて実施した説明会には300人ほどの人が集まりました。説明会資料ができあがったのが当日の午前二時、台風の影響が心配されたので、朝の7時半から待機してくれた亀山市教委の職員もいて、久しぶりに大変な説明会準備となりました。
 早朝まで降り続いた雨がやみ、9時頃から陽の出るとても暑い天気になりました。芝生はたっぷりと水を吸い台風のもたらした熱風と相まって、まるでサウナ風呂に入っているような、うだるような暑さになりました。そんな中、午前中は主に地元の方々が、午後は大学で出した案内状で参加された県外の方々がたくさん参加してくれました。

(下段から上段を見る見学者の方々) 

 もちろん他の新聞がもっとまともに取り上げてくれていればこの数倍の参加者が見込めたのですが、あまりの関心の低さに開催前からこの程度だろうとのだいたいの推測は付いていました。力不足でゴメンナサイ。



(展示した遺物)

 学生が寝坊するやら、遅刻するやら、大学単独で開催する現説とは少し趣が違い、午前の部は開会ぎりぎりまでごたごたしましたが、何とか無事に開くことができました。これも地元教育委員会の皆さんの献身的なご協力と三重大学考古学研究室学生のがんばりのお陰と感謝しています。

 特にこれまで報告してきた内容と大きく異なる事実は今のところ無いのですが、専門家も含めて、どうも築地が折れ曲がっていることがわかりにくいようでした。それも、ちょうどコーナー部が崩落していて、肝心の築地が調査部分ではなくなっているのでよりわかりにくいようでした(もっとも、専門家ならもう少しきちんと人の説明を聞いてれば分かると思うのですが・・・アッツまた愚痴っちゃった)。


(パソコン登場)

 今回の新しい趣向としては立命館大学の河角さんにお願いしてGISによる眺望というのを現地で公開しました。この準備がまた大変で、コンピューターとDVDの相性が悪い上、コンピューターそのものも拗ねてくれたもので、なかなか立ち上がらず冷や冷やしました。評判などまだ聞いていませんが、もう少し完成度の高いものをこれから用意して、報告書に間に合わせようと思っています。
 少し分かってきたことは、「関の眺望」という視点です。特に西から鈴鹿の関にはいる、つまり奈良時代の東海道は伊賀を経て、柘植、加太を通り現在の旧国道25号線から鈴鹿にはいるコースですから、そこから関や今回の築地がどのように見えたかということは、特に城壁が築地であるだけに大変重要だと思っています。これを確かめるにはGISが最適であることが分かりました。河角さん、もう一踏ん張り頑張りましょうね(感謝!!)。

 ところで、最近はどこの自治体もカラー刷りの現説資料を作るのですが、そんなお金と暇があるのならもう少し中身の濃いものを用意すべきではないかというのが私の持論です(お断りしておきますが、今回の亀山市の資料がそうだといっているのではありませんよ!私の怠慢でもっと詳しいものをカラー印刷する予定だったのですが、間に合わなかっただけですから。画期的なカラー印刷の数枚に渡る現説資料!と思っていたのですが、果たせませんでした。ごめんなさい!)。現説資料といえどもある程度資料として利用できるものがあれば、現場を見た印象も含めて、後にいろいろ考えるヒントが得られるからです。図面もきちんと実測した図を載せるべきですし、出土資料も、関連史料も同じです。そうすることが報告書にもつながるし、考えを整理することにもなるからなのです。確かにカラーでA3表裏にまとめた資料は一般的には見やすいかもしれませんが、果たして今の市民はそんなに教養の程度が低いのでしょうか。私は難しい内容をいかにわかりやすく丁寧に伝えるかも大事なことではないかと思っています。

 もっとも今回は準備が遅れて印刷に間に合わず、追加資料ができあがったのが午前二時ですから、これは大いに反省すべきことかもしれません。


(ムカデには大変な目に遭わされただけにあちこちで注意を喚起した。)

 さてこれからなんですが、まだまだ取らなければいけない図面や確認しなければならない遺構があります。しかし学生はもう終わった気分のようで、そこが問題ですね。みんな!もう一踏ん張り頼みます!!
 とにもかくにも一段落しました。新しい事実確認へ明日から再出発です。記事の続編をお楽しみに!まだまだ現場はやっていますよ。終末はさすがに休みますが、どうぞ遠慮無く現場を見に来て、ご意見をお願いします。

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鈴鹿関報告-9  現地説明会の御案内の条

2006-09-13 12:18:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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現地地図
(○に十のマークのところが現地説明会会場です)
2006年9月13日
鈴鹿関跡第一次発掘調査現地説明会のお知らせ

三重大学人文学部 考古学研究室
 
 三重大学人文学部考古学研究室では、亀山市教育委員会と共同で鈴鹿関跡第一次発掘調査を行ってまいりました。
 今回の調査は、亀山市教育委員会が昨年度より実施している、旧関町域における埋蔵文化財(遺跡)詳細分布調査において発見された「鈴鹿関跡西城壁」の詳細を明らかにし、適切な保護を図ることを目的として実施したものです。調査は、8月21日(月)から9月18日(予定)で行っています。
現在までのところ、①鈴鹿関外郭城壁が築地塀であったこと、②大規模な造成工事を経て建設されたこと、③重圏文軒丸瓦が出土し城壁の築造が聖武朝であった可能性が高まったこと等が明らかになりました。古代三関の構造解明に大きな手がかりを得ることができたといえます。
 そこで、今回の発掘の成果を公開するため、以下の要領で現地説明会を行います。皆様お誘い合わせの上、お越し下さいますよう、御案内申し上げます。



1 日時 2006年9月18日(月・祝日)
     ①午前の部:10時00分~12時00分
     ②午後の部:13時30分~15時30分
      ※午前・午後は同じ内容になります。ご都合のよい方にお越し下さい。
      ※小雨決行

2 場所 亀山市関町新所(観音寺公園内)※裏面の地図を参照下さい。
  JR関西本線関駅下車徒歩20分、タクシー5分(関駅の到着時間にくれぐれも注意下さい)
   ※近鉄津・JR津(同じ構内)→亀山→関 名古屋→亀山→関 奈良・草津→柘植→関があります。

3 駐車場 BG海洋センター駐車場を御利用下さい。※裏面の地図を参照下さい。

4 内容 三重大学人文学部山中章(考古学:亀山市詳細分布調査指導委員・亀山市史編さん委員)・亀山市教育委員会まちなみ・文化財室調査担当(森川幸雄)による説明。

5 その他お問い合わせ
・三重大学人文学部考古学研究室
   〒514-8507 三重県津市栗真町屋町1577 
   Tel/Fax:070-6527-3594 E-mail:yaa@human.mie-u.ac.jp
・亀山市教育委員会事務局まちなみ・文化財室調査担当(関支所駐在)
 〒519-1192 亀山市関町木崎919-1番地
 TEL:0595-96-1215(直通) FAX:0595-96-2414
 Mail:sekishisyo@city.kameyama.mie.ne.jp



(腰掛け岩から東海道を眼下に見る。時間のある方は現説会場の直ぐ上です。道も整備されていますので上がってみてください。)

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【電車案内】
<津方面>
 JR津駅……JR亀山駅……JR関駅
 ・8:24発-8:50着  9:09発-9:15着
 ・9:35発-9:54着  9:56発-10:01着
 ・12:16発-12:34着 12:45発-12:50着
<名古屋方面>
JR名古屋駅……JR亀山駅……JR関駅
 ・7:31発-8:43着  9:09発-9:15着
 ・8:19発-9:39着  9:56発-10:01着
  ・11:08発-12:18着 12:45発-12:50着
<草津方面>
JR草津駅……JR柘植駅……JR関駅
 ・8:10発-8:54着  8:58発-9:15着
 ・11:23発-12:06着 12:12発-12:29着
 ・12:23発-13:06着 13:12発-13:29着

鈴鹿関報告-8  GIS化への過程をお楽しみ下さいの条

2006-09-13 08:34:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 河角先生の御奮闘のお陰でGIS化が進みつつあります。残念ながらブログではその全体をお示しできないのですが、現地説明会当日(9月18日月曜日・祝日)には何とか動かせてお見せできるようにしたく思っています。余り期待しないでお待ち下さい。

 
 もちろん言うまでもなく画面中赤く表示されているのが築地で、いずれこれを復原図に置き換えたく思っているのです(よね!河角さん)。

 1 西低地からの眺め



 2 周辺地形測量図


 3 北上空から


 4 東上空から


 5 西南西低空から


 6 東低空から


 7 南から


 8 上空から


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鈴鹿関報告-7  重圈文が出た!!の条

2006-09-12 06:58:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 ついに出ました!


(切山瓦窯産を裏付けるこの丸瓦部との接合方法の特殊性!おしりをみて喜ぶ!)


 北側の崩落土の中から重圈文軒丸瓦が。


(伊勢国特有の二重圏線の重圈文です。表面に残る微妙なしわがこの瓦の造瓦技法の特徴をうまく表しています。)

 伊勢国特有の二重圏線の軒丸瓦です。急遽関町唯一の瓦窯である切山瓦窯産のものと比較検討してみました。胎土、瓦当文様(同笵ではありません)、製作技法などいずれをとっても細部に至るまで一致いたします。同瓦窯が鈴鹿関築造のために開窯されたものであることが確実になりました。大きな考古学的成果です。

 そして何よりもこれで今回発見された鈴鹿関北西部の築地(城壁)が聖武朝に建設されたものである可能性が極めて強くなりました。大成果ではないでしょうか。もちろん聖武朝のいつなのか、前半なのか、後半なのかによって、その位置づけは大いに変わるとは思います。私自身のそれなりの考えはありますが、現説までとっておきます。

 というわけで現地説明会も決まりました。9月18日の10時と13時半からです。二回もやるほど人が来るの?とご心配いただく方もおられるかもしれませんが、現地は急な斜面の上にある上、大変狭く、100人のかたがこられてもごったがえすので、二回にしたしだいです(もちろん1000人くらい来ていただけるとうれしいので、これをお読みのかたはいっぱいいっぱい宣伝してくださいね)。

詳しいことはまたブログでもお伝えしますが、なかなか山を下りてこれを書く機会がないので、道順など詳しいことをお知りになりたい方は私までメール下さい(旧関町にある「関ロッジ」という国民宿舎への誘導路の入り口にありますので地元の人に「関ロッジはどこですか?と尋ねると直ぐ教えてくれるはずです。)。メールは読めますので。

 最近は行政関係の方もたくさん見えて、現地もそのたびに説明に手を取られますが、これも仕事の内、遺跡が守られ、関心が高まればこの上ないと、昔を懐かしく思い出しながらお話しさせていただいています。ボランテアでお手伝い下さる方がいたり、毎日のようにいいろんなものを差し入れていただいたり(誤解なさらないように、決して、決して差し入れを要求しているわけではないんですよ)、学生にはこの上ない現場になっているのですが・・・。

 そうそう、現場についてはもう一つ難題が発生しています。


(この最下段の造成過程を検討する中でこの写真の上ぎりぎりに写っている大きな石が気になりだしたのです。現場では「恐竜絶滅の隕石」に相当する「鈴鹿関崩壊の巨岩」と言っています。)

 以前から気になっていた崩落土の一角にある巨大な岩石です。これも造成時のものなのかと軽く考えていましたが、昨日から立ち割を開始するとどうもそうは簡単ではなさそうなのです。築地が大きく崩落した原因の一つがこの石と関係ありそうなのです。崩落土からは土器も出始め、現在は崩落過程の復原が最も大きな課題となっています。みなさんには現説までに何とかお話しできるとは思うのですが・・・。
 アーでもない、こうでもないと毎日みんなと議論しながら発掘する楽しさは格別です。久しぶりにいい頭の体操をしています。今は特に三関制の中でのこの遺構群の位置づけを考えています。何故聖武朝に建設したのか、何故築地塀なのか、考えれば考えるほどワクワクします。現地説明会を楽しみにしてください。うまくいくと先日立命館大学の河角先生から教えていただいたばかりのGISを使った鈴鹿関3D再現デモを当日お見せできるかもしれません(もちろん私が作るのではなく、河角先生が今孤軍奮闘中なのですが・・・。お願いしますよー先生!)。

アーもう7時になってしまいました。シンデレラ?のようですが、間もなく現地に向けて出発です。ではまた後日。続報にご期待下さい。

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鈴鹿関報告-6  鈴鹿関周辺遺跡・古厩の条

2006-09-05 11:47:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 歴博の共同研究で北海道に出かけていました。広瀬和雄さん主宰の「古代における生産と権力とイデオロギー」という共同研究の一環です。以前から境界において古代王権の権力・イデオロギーは「辺境」に対していかなる影響を与えるのか、与えられるのか、その影響がその後の各社会をどの様に変えるのか変えないのか、特に考古資料からその実態を明らかにしてみたいというのが私の研究課題でした。それだけに大変楽しみにしていた研究会でした。


(あこがれの擦文期の竪穴住居跡。北海道では擦文期の住居跡はあちこちの森の中で大きな凹みとして認められ、調査前から分かるとのことだった。)

 内容は多岐にわたりますが、実に充実した研究会で、初めての北海道に魅せられて帰ってきました。特に最終日にちょっとした偶然でお伺いすることのできた千歳市埋蔵文化財センターで端劇的な発見がありました。拝見した末広遺跡に残されていたある須恵器が、私に新しい課題-桓武王権による境界の拡大、決定の視野に渡島が入っていたのではないか-を与えてくれました。荒唐無稽にみえる仮説に証拠品を得ることがでたかもしれないと思っています。こうした「発見」も含めて、いずれ北海道レポートとしてご紹介したいと思っています。


(北海道埋蔵文化財センターのキウス9遺跡の現場。3mメッシュの国土座標の地区グイが見事な列をなしている。旧石器時代の宝庫である北海道でもこんな調査方法は常識なんですが、日本の中ではまだなされていない地域がたくさんあり、その意義を知らない調査員がたくさんいる。悲しい!!)

 そんなわけでしばらく現場はお休みでした。昨日から再開していますがまだしばらくガリかけ三昧ですので、新しい情報が得られるまで鈴鹿関を考える上で不可欠な周辺の遺跡や歴史的環境についてお話しすることにします。



(せっかくですので見学したキウス周堤墓群をご紹介しておきます-人の歩いているところが周堤、私の立っているところがお墓が設けられているところ-。縄文時代後期の初めにこんな巨大な穴を石器で掘り、堤を築き上げた北海道の人々のエネルギーのすごさを感じさせる遺跡でした。こんなのが20近くもあるんです。この墓に眠る人々は今何を思っているのでしょうかね。)

 まず今日は旧関町一帯にある古代遺跡の中で交通史に関係する重要な地名「古厩」についてです。
 ずばり「いにしえの厩」というのがこの地名の由来ではないかと考えられています。現在もこのように地元の人々もこの地名を大切に使っておられます。

(かつてはお寺だったという場所が現在は村の集会所として利用されている。)

 古厩跡を案内してくださった亀山市教育委員会のMさんによると、公民館の裏に広がる台地あからはたくさんの古代の土器が拾えるとのことでした。その古さが奈良時代にまで遡る可能性が高まっているのです。特に興味深いのは伊勢別街道が鈴鹿川を渡って直ぐのところにある大井神社の一角にある土塁です。高さ3㍍以上はあろうかと思われる大変大きな土塁で、直ぐ西側には小さな川が流れており、かっての堀の痕跡かとも思われます。

(古厩跡に残る土塁跡)



(井戸の一角)
大井神社の名前の由来は土塁の直ぐ横にある立派な井戸によるのでしょうか、もちろん井戸の掘られた年代など詳しいことは今となっては不明ですが、井戸は村の人々の大変大切にされているそうです。


(大井神社となった古厩古称地の一角)

 残念ながら一緒に歩いたときには拾えませんでしたが平安時代の須恵器があるそうです。
 この地は先にも記しましたように東海道から鈴鹿川を渡り、伊勢に抜ける古道との接点に位置する遺跡だと考えられております。現在の県道10号線がほぼこれに当たり、大学から関町へ来るときもいつもこの道を使っています。車でわずか30分で関に至ることができ、かなりまっすぐな道です。


(古厩の土塁の奥に広がる平坦地。この地では多くの土器を採集することができ、これが鈴鹿駅の遺跡の候補地だと言われる。)

厩と土塁との関係が今ひとつはっきりしませんが、古代の交通の要所であることはまあ違いないようです。

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