yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

心配な報せの条

2011-03-13 22:05:31 | 三重大学考古学研究室情報
 今朝になって次々と東北地方の惨状が明らかになってきた。驚いたことに名取市がかなり酷い被害を受けているらしいのである。空港も未だに水が引かず、2~3階のロビーに1200人もの方がいらっしゃるという。驚いた。

 その名取市に就職している卒業生がいるのだ。

 同級生からの連絡で「連絡がつかない」という。

 つい先ほども、今日新婚旅行から帰ったばかりという同級生が心配して電話してきてくれた。

 直ぐに私も電話したが、もちろん繋がらない。メールもしてみたが、送ることは送れても返事はない。171にかけてみたら、相手の電話は携帯電話はダメらしい。彼は遠い親戚の家を継ぐとかで宮城県亘理郡へ転居したはずなので、確か家には誰もいないはずだ。だから誰も固定電話を知らない。

 SAという彼は大学院に進学したのだが、養子先に行くとかで名取市の市職員試験を受け、合格して今はそちらにいるはずだった。最近は同級生の結婚式に電報が来たりしていたが、直接話したことはなかった。

 学生時代はいろいろなことがあって、なかなか私には連絡しにくいのかな?と思っていたが、そうでもないらしい。つい最近も消息を聞いたことがある。だからとても心配なのである。

 そんな話しをしていると、もう一人卒業生が「仙台」にいるという。発掘会社で全国の遺跡を飛びまっわっているのだが、なんでも少し前から「仙台」らしい。その彼とは連絡がつき、なんでも避難所にいるという。

 仙台にも避難所があるのだろうか?それとも多賀城市や名取市のことだろうか。避難所では長話も出来ないから心配だけが残る。ま、それでも生きていることが判っただけでもホッとした。

 いまは、SAの無事を祈るだけである。きっと電気も通じていないだろうから、メールもネットも見られないので連絡がないと信じたい(さっきから、メールの着信音の度にビクッとするのだが・・・。まだ連絡はない。明日静岡のご実家に電話してみることにする。)。

 一人でも多くの方が助かることを祈って今夜もテレビにかじりつきそうである。



8人の卒業が確定しましたの条

2011-03-09 21:01:29 | 三重大学考古学研究室情報
 今日は定例の教授会であった。

 ここで本年度卒業、非卒業の認定作業が発表された。その前におおよそは判っていたのだが、卒業生にとってみると「確定」の文字が欲しいらしく、それなりにみんな心配していたようだ。

 それが「確定」したのでこんなメールを打っておいた。

 卒業生のみなさんへ

 先ほどの教授会で皆さん全ての卒業が確定しました。四年間~五年間、よく頑張りました。それぞれの道を頑張って下さい。

 OYは明日(ペルーへ)出発だよな。気をつけてな!スリやひったくりにくれぐれも気をつけて!あんまり金持ちらしい格好はしていかないように。

 IHはもう勉強を始めてるか?KTがやっていたように(公務員試験は)集中して繰り返すこと!これだからな。

 SSはいつまでこちらにいるのだ?お前がいなくなった後のYSがちょっと心配だから、時々連絡してやってくれな。

 MTは怒られたからしょげてるのか?情けない。ウジウジ病を再発したら(彼女に)棄てられるぞ!世の中に出たらこんなことでは済まないくらいいろんな攻撃 が来るのだから、もっとしっかりしろ。怒られたからと言って黙って帰るとは言語道断!

 YSは,故郷に帰って英気を養ったら、次なる目標に向かって進もうぜ。少なくとも2年後にはMTを越えられるようにな。やっぱり大学院に行くと 違うな!と言わせるくらいになろうぜ。

 NAは、念願の彼氏も手に入ったし、後は壽退職に向かってひたすら貯金しろよ。彼がうまくK市に入って文化財担当になったら、実測おば さん
やってくれるともっと嬉しい。期待してるぞ。

 ETは、就職したら独り言は止めろよ。嫌われるぞ。とはいってもあんたの職場そのものがそんなに明るいところではないから、カラオケの時のように明るく元気にな。

 RSはさっさと納めるもの納めろよ!!俺の仕事はもう終わったからな。後の行動は自分で責任持ってやれよ。


 以上最後の小言でした。ジャーな。あ、そうそう、以前、壬申の乱に来てくれていた○○ちゃんが無事三重大に通って、四月から考古学研究室生第1号 だと伝えてきた。またどこかで会うかも知れないから、忘れないでね。

 今年の卒業生も一年生の時の授業から一緒の者が多くて、公私ともにいろいろなことを知っている仲だからとても思い出深い。その分ちょっぴりセンチにもなる。


 すると直ぐにこんなメールが返ってきた。

 OYさんから

 8人の卒業確定よかったです〓〓
 明日からいよいよ出発です
 もちろん貧乏スタイルで行きますよ〓
 体調とスリに気をつけて行ってきます〓
 また先生のイタリアの話も楽しみにしてます〓
 今後のブログの更新も楽しみにしてますね〓  
        (〓〓これは絵文字が化けたらしい)

 MT君から

 メールありがとうございます。昨日の件でまた先生にご迷惑をかけることとなり、最後まで先生のお役に立てず申し訳ない気持ちで一杯です。
先生に前から言われてきたことですが、形ばかりを気にする性格というのが今さらですがわかってきました。期日や字数といったうわべの数字ばかりにとらわれて、中身が疎かになりがちです。要求の裏にどんな意図があるのか、もっともっと考える癖をつけるようにします。こんなことで学芸員をやっていけるのか不安ばかりです。けれど、この前の卒論発表会で、大勢の前で分かりやすく説明しようと心がけて話をすれば、みんなにも伝わりあんなに自分にも達成感があることをひしひしと感じました!四月からは先生に叱って頂いた言葉を一つ一つ思い出してウジウジ病を退治します!!先生、四年間ご指導下さりありがとうございました。まだまだ教えて頂きたいことが山ほどあります。院生として残り、都城や官道の基礎を学びたかったです。また、E先輩やYさんからパソコン上でのデータの処理や発表方法など盗みたかったです。でも、その分現場経験を積む所存です。
MTも少しはましになったと、言われるよう頑張ります!先生、きっとN市に講演に来て下さい!!

 NAさんから

 お言葉、本当にありがとうございます。
 普通の学生より1年長く大学に通う事になりましたが、大学の思い出を振り返えれば、充実した大学生活だったと感じています。
 1年生のオリセミから、5年間という長い間、親身にご指導して頂き、本当にありがとうございました。
 1~3年生の時は部活でよく怪我をしていましたので先生に心配をかけ、4年生では将来が定まらず心配をかけ、5年生では卒論制作で心配をかけるなど、思い返すと何かと先生に心配ばかりかけていた気がします。本当にすいませんでした。
 出来の悪い学生でしたが、先生の人柄に救われ何とか卒業出来ました。本当にありがとうございます。
 考古学のゼミに入って、先生から注意された事、褒められた事、たくさん食べ物を頂いた事…どれもが掛け替えのない思い出です。山中先生は私の生涯の恩師です。本当に今までありがとうございました。
 ゼミでの様々な思い出を胸に、社会の風に負けず壽退社を目指して貯金に勤しみます(笑)そして、ゆくゆくは実測おばさんに!?
 山中先生、これからもお元気で。先生のご健康を願っています。
 追伸:この先私が彼に捨てられずに結婚という事になりましたら、先生にお言葉を頂きたいと思っていますので、その時はよろしくお願いします!


 みんな、有り難う!!(ちょっぴり涙)彼らの卒業式に出られないのが本当に残念だ。


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 一人臥す 草の枕の夜の露は 友なき鹿の涙なりけり  実朝

 




朗報!!の条

2011-03-09 00:56:18 | 三重大学考古学研究室情報
 今朝、とても嬉しいメールが飛び込んできた。


 「三重大学人文学部 合格しました」


 というのである。

 もちろん私の娘や息子でも、姪や甥でもない(実は姪が一浪してやっと東京のC大学に合格したという連絡が来たばかりなのであるが)。

 昨年の春頃からメールのやりとりをして、どうしても三重大学の考古学研究室に来たいという,実に真面目な女子高校生からなのである。

 とっても嬉しくて、直ぐにみんなに連絡した。

 彼女は受験中にも関わらず、春の壬申の乱ウオークにも参加してくれたり、内の学生と食事に行ったりととても熱心なのであった。とても考古学をやるような荒々しい(ごめん、決して内の女子学生が荒々しいと言っているのではないのですよ(笑))子じゃなくて、とても清楚で、物静かで、それでいて何か秘めている、この頃の高校生とは明らかに違う生徒さんだったのです。

 一番驚いたのは初めてもらったメールなのです。

 全く面識のない生徒さんからある日突然(今見ると4月11日の17時02分のことだった)、こんなメールが飛び込んできたのである。

「こんにちは。
 ○高等学校3年の□□ と申します。
突然ですがこの度、山中教授にお尋ねしたいことがあって、メールさせて頂きました。

 最近考古学に興味を持ち始め、三重大学人文学部の受験を考えています。
 長い間卒業後の方向がまったく定まっていなかったのですが、もともと歴史が好きだったこともあり、昨年の冬頃から考古学を学ぶことを考え始めました。
 地元で勉強ができないかと探していた三重大学のホームページで山中教授のお名前を知り、運営されているブログを見つけて、1ヶ月ほど通わせて頂きました。どのような方なのだろうと思い進路部に相談にいったところ、
「考古学がやりたいなら、山中先生のところがいい」

という答えを貰いました。

 1月の三重大学での展示には足を運べませんでしたが、『長岡京研究序説』を拝読しました。
 専門用語が多く分からない部分も多々ありましたが、教科書の上ではたった1行、1頁で済まされてしまうようなことにも様々な背景があって、血の通った誰かが残した記録なのだと感じました。
 それからますます、山中教授の所で考古学を学びたい、そう思えるようになりました。

 山中教授はあと数年で定年を迎えられるということですが、定年後も三重大学に残って頂けるのでしょうか。2010年度の受験で三重大学に入学したとして、山中教授に教えて頂くことはできるでしょうか。

 お返事頂ければ幸いです。」

 
 こんなメールだった。とても高校三年生のものとは思えない、しっかりした文章だったのにまず驚いた。

 だから直ぐに、こんな返事を出した。

 「残念ながら(幸か不幸か)私は後3年(昨年の四月段階で)弱しか大学におられません。あなたの学校のレベルならきっと名古屋大学や京都大学、大阪大学も合格可能だと思います。それぞれ私のよく存じ上げている素晴らしい先生方がいらっしゃいますから、是非そちらを受けて下さい。どんな時代をやりたいのかによって、推薦できる大学が異なりますので、おおよそで結構ですから教えて下さい。」

 ところがである。是非地元から通いたいという。

 ならば、名古屋なら通えるし、名古屋には梶原先生というとってもいい先生がいらっしゃるからあちらへ行きなさい。と伝えた。

 名古屋に通る自信がないから三重にしたいと言う(もちろんこれは謙遜だと判っていた。)。ならば、三重に入って、3年次編入というのがあって通りやすいから、これで私がいなくなる3年生から名古屋に行きなさいと申しあげた。それよりもとにもかくにも私に会えば、こんなおっさんの所はイヤだと思うに違いないから一度話しに来ませんか。と申しあげた。

 数日後だったか、直ぐにやってきた。その第一印象が先に記した通りのとても清楚なお嬢さんだったのである。メールの文章そのものが姿を現したという感じだった。驚いた。こんな表現はいけないのだろうが、「今日日こんな高校生もいるんだ!」というのが正直な感想だった。

 いろんな事を私から話すだけではよく判らないだろうから、学生達の雰囲気も見てもらった方がいいと思い、学生にはざっくばらんに私の恐ろしいところ、ダメなところもきちんと話せと言って数人の学生と話しをしてもらった。私はあいにくその日の夕刻から用事があったので後は学生達に任せて反応を待ったのである。

 すると直ぐにメールが来た。

 「お忙しい中たくさんお話を聞かせて頂いてありがとうございました。
研究室の方々にも親切にして頂き、とても楽しい時間を過ごすことができました。
 遅くまで居座らせて頂いた上、夕食までご馳走になってしまい、申し訳なかったです。

 手に取れるような距離で土器を見たのは実のところ初めてだったのですが、土の中から発掘されたそれらが、何百年も前に使用されていたものなのだと思うと凄く胸が高鳴って、実際に掘ってみたい! という気持ちになりました。その場所に息づいていた歴史があって今があるのだと、おぼろげながら感じることができたように思います。

金曜日から聞かせて頂いたことも色々と考えて、やはり三重大学を受験したいという気持ちを固めることができました。受験期ではありますが、勉強もしっかりしつつ、壬申の乱ウォーク等、誘って頂いた企画も参加できればと思っています。

本当にありがとうございました。」

 「アチャー!逆効果だったか。」

 どないしょ。でも折角そこまで言ってくれてるのだから、三重大学考古学研究室の雰囲気を予め知っておいてもらうのも悪くないだろう。

 こんな思いから、余り引きずり回しては受験に差し障るが、五月ならまだ時間もあるし、多度を中心として歩く第17回壬申の乱ウオークに参加して見ないかと、誘ってみた。当日やってきた彼女が差し出したのが、私の好物「かりんと」だった。それも抹茶かりんと。なんでもお母様が持って行けと言ったという。(「アー、ちゃんと親子でいろんな話しをしてるんだな!」と思った。ちなみに、三重大学の学生と話していて思うことは皆さんとても親子の会話が多いことだ。だからみんないい子ばかりなんだと思ったことがある。)

 そこで驚いたのはみんな彼女のファンになってしまったと言うことなのだ。

 「是非三重大に受かって,考古学研究室に来てね!!」いつしかこんな言葉が飛び交うようになった。

 

 そして今日のこの朗報なのである。

 もちろん彼女なら受かるだろうと思っていた。だからそれを見越して、来年度はやらないでおこうかなと思っていた共通教育の特別な授業スタイル「PBLセミナー」をやることにしていた。彼女とならきっと素敵なセミナーが出来、他の学生も引き込んでくれるに違いない。

 ただ、それだけに責任は重大である。どんな学生に育ってもらうのが一番いいのか、まださっぱり判らない。少なくとも三重大学に来てよかった!と思ってもらえる様な教育をやらねば!と身の引き締まる思いをした日でもあった。

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考古学研究室お別れパーテーの条

2011-03-07 11:09:05 | 三重大学考古学研究室情報
 毎年恒例の研究室お別れパーテーが昨6日開かれた。

 いつもなら卒業式の後、我が家で、我が妻の手料理を振る舞うのだが、今年はあいにく卒業式の日に海外出張が重なってしまい、出来ないので前倒しですることになった。

 もう少し卒業式に近づいてからでもよかったのだが、卒業旅行に行く学生もいて、この日になった。今回は特別に四日市まで繰り出して、イタリア料理とワイン,そして二次会は大カラオケ大会でお祝いをした。卒業生8人、在学生7人、総勢15人での会となった。残念ながら留学生の一人が就職試験だというので、参加できなかったが、ほぼ全員の楽しい会となった。

 もっとも前日が卒論発表会だったのでほぼ同じメンバーではあったが、そこは、考古だけの内輪の話もあってとても楽しい一日となった。

 

 なぜ二人だけ椅子に座っているか?
 その理由はこの後のサプライズで!!


 

 今年は学生からなんだかとてつもなく大きい箱に入ったものをプレゼントされた。びっくりした。



 空けてびっくり玉手箱!ナナナント!寝袋である。それもツタンカーメンの棺のプリントされた寝袋である。研究室で泊まる時用にわざわざ手配してくれたらしい。とても暖かそうで、これならいつでもどこでも寝られそうだ。感謝!!



 でも、まだあるという。



 ???



 モアイ像のデザインされたテイッシュの函カバーだという。これも風邪を引いたたとき手放せないテイッシュ用の素敵な品だ。
 みんなみんな、有り難う!大感激。

 在校生からは、卒業生一人一人に「考古学研究室」とプリントされたボールペンが渡された。これもとても心のこもった品々だった。



 さてお料理は様々なとても美味しいものばかり。



 前菜のマカロニ(イタリア語ではマッケローニ-複数-というらしい)サラダ。



 生ハム



 小魚のフライ

みんなみんなあっという間になくなってしまって、中には私まで回ってこなかったものもあったので、マスターがメインデイッシュは一人一人配ってくれた。



 そんなこんなで時間は一気に過ぎたのだが、もう一つ誰も予想だにしていなかった大サプライズが暴露された。

 卒論を頑張ったNAさんと我が研究室の某学生が最近お付き合いを始めたというのである。これにはみんな一瞬、何が言われたのか判らず

 「ポカ~ン」

 「ハ!??」

 実は某学生にはバレンタイン疑惑というのが浮上していたのである。

 当日の話しでは家族からチョコを3つもらったと言っていたのが、その後の宴会でぽろっと、四個もらったと言ったのである。

 「誰?誰?」とみんなで追及するのだが、口を割らないのである。

 きっと、クラブの下級生か、同級生だろうと勝手に思い込んでいたのである。

 そして当日、ホワイトデーのことが話題になって、誰に何を返すのか、とみんなが追及しだしたのである。そこで彼は「マグカップ」と答えた。

 再び注目を集め、みんなが「誰だ?誰だ?」と騒ぎ出した。


 「今そこでお箸を置いた人」

 「????}キョロキョロ

 「エッツ?まさか?」

 「ほんと??」


 ここで一番ショックを受けたのが、彼女の友人で、いつもいろんな事を話していたEYだ。

 「エエッツ!!ウソオーッツ!なんで言うてくれんかったん!!」

会場は騒然、みんななんと言っていいやら判らないので、しばらく沈黙であった。

 というわけで、その「罪」によって全員写真では真ん中に座らせたのであった。

 この頃我が研究室は「めでたい」話しばかりで、それももてないと思っていた野郎に次々と彼女が出来ていくのである。折角「フラレタリア同盟」の組織員を増やそうと思って会員にしたのに次々と裏切られていくのである。今回も有力な会員候補に逃げられた」悲しむべきやら喜ぶべきやら。

 ま、それにしても私の教え子では初めて同じ研究室同士のカップルである。彼女は既に就職先が決まっている。しっかり姉さん女房で素敵な愛を育てて欲しいものである。

 結婚するときは呼んでね-!!とみんなに祝福されたのであった。



 そしてこの後、カラオケへ。



 もちろん皆さん大ブレークしたのであった。

 もうこれで会えなくなるかと思うととてもしんみりした一日でもあった。皆さん新しい社会でそれなりに充実した、楽しい人生を歩んで下さいね。お幸せに!!

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 新しき 門出に友と 二人して

 
 





2010年度卒論報告会報告の条

2011-03-06 09:31:00 | 三重大学考古学研究室情報
 昨日の卒論報告会はいろいろな意味でとても盛り上がった。



 これがエントリー表である。ナナナント内の3年生の男子学生MA君の書なのである。彼は電気屋の息子で、様々な電気器具に精通し、パソコンにも詳しく、ピンポンが得意で、そしてこれである。
 素晴らしい!!ある学生などはこれを切り取って持って帰りたいとまで言っていた。納得!!



 久しぶりの参加?だと我が同僚の塚本先生が言うのだが、昨年出なかっただけで、一昨年は出たはずだし、・・・。

 それにしても今年は多かった。50人くらい来てくれただろうか。ただし、考古の先輩方は誰も来てくれなかった。とても残念だった。見捨てられているのだろうか。どうせ卒論なんてろくなもんはない!と決めつけられているのだろうか。

 でもちゃんと来られないからと言って差し入れを届けて下さった方がいらっしゃる。


 ジャーン


 八賀晋先生が、わざわざ、薩摩のいも焼酎「風来坊」を届けて下さったのである。

 感謝!!(それ以外の先輩共は何をしとるんか!と言いたいね。これくらい書いとけば来年はわんさか参加するだろうし、差し入れも一杯届くに違いない。忘れないでね!!!)


 今回よかったもう一つの点は司会だった。午前と午後に3人の司会を三年生が務めたのだが、とてもよく報告を聞いていて、会場からの質問が途切れ、ちょっと時間が空くと予定時間と照らし合わせながら、実に手際よく質問を補足したのである。素晴らしかった!!



 今度大学院へ進学する我が考古学研究室の「☆★」??YSさんの発表は、若狭出身ながら若狭の皆さんが信じて止まない船岡式製塩土器の機能論を木っ端みじんに吹き飛ばした力作だった。

 ま、これで若狭へ錦を飾ることはできなくなったが・・・。(笑)




 もう一人がMT 君。使いものになるかどうか、4月からの就職先に昨年から勤めている先輩OIさんもチェックに駆けつけた。
 A412頁もの資料をたった20分で実に手際よくまとめ、聴衆を魅了した!??授業を替わって欲しかったくらいだ。もっともこれを愛知や岐阜の連中が聞いたら頭から火を噴いて怒るに違いない。4月から岐阜の山奥の教育委員会に勤めるのだが、もう三重には帰って来れないかも知れない。だって、犬山で赤塚次郎さんに誅殺されるから(笑)。

 ホラ、みんな熱心に聞いてくれてるでしょ。こんなに身を乗り出して!!ようく見て下さいね、この構図 (笑)

 で、内容なのですが、これがなかなか充実していた。もちろん「石」もあったが、今回は大半が「玉」だった。

 どれがというのは言いにくいのだが、ま、ご想像にお任せします。

 さて普通ならこれで報告は終わりなのだが、今回は番外がまた盛り上がった。

 会場を大急ぎで片付けて「情報交換会」の開催だ。簡単な立食なのだが、ここでまたまた司会など様々な準備に奔走してくれたMA君がまたまた大活躍。マイクやらバックグラウンドミュージックやら、普通のパソコンを駆使して、エッツ??なんでこんなこと出来るん?というほどの「芸」を披露したのだ。


 そして極めつけは、山田博士の「歌」!最初は井上陽水だったのだが、自ら引き続き、得意だという同年の「○○○○」の歌(名前をよく覚えていない!学生もしらんという女性歌手の歌)を披露なさったのである。






 これには会場が騒然!!とにかく18時半に始まった「情報交換会」は実に有意義な会となって21時半に打ち上げとなったのであった。

 皆さん有り難う!!幹事の3年生お疲れ様。来年は新三年生が頑張らないとね。よろしく!!

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 発表が 終わってみなと ”高3生”

 巣立ち行く 若者の元気 しんみりと

 四年間 楽しい仲間と 素敵な日々


 

2010年度卒論報告会の条

2011-03-04 10:50:50 | 三重大学考古学研究室情報
 毎年三月初めにその年度の卒業論文を先輩方や後輩達に見てもらうための報告会をしている。

 今年は3月5日(土)10時から三重大学の共通教育2号館三階にある381号教室で開催する。

 今年の卒論は以下の様なものだった。
◎ 二〇一〇年度卒業論文題目
【考古学】
遠藤哲「宝塚1号墳における盾形埴輪の特徴・役割についての一考察」
中野綾子「宝塚古墳における円筒埴輪の製作技法と配置―埴輪工人集団の考察から―」
林 振華「唐長安大明宮含元殿考」
犬飼はな江「古代東海道の復元」
大島由衣「ガラス勾玉の製作技法に関する一考察」
杉本智子「大津京の選地に関する一考察」
味噌井拓志「古墳時代初頭の伊勢湾系土器波及にみる伊勢地域の役割について―ヒサゴ壷の分析を通して―」
山し央倫「船岡式製塩土器の機能における一考察」

【中世史】
稲垣あゆみ「源頼朝による戦死者供養―源義朝の供養を中心に―」
下林未奈「中世後期北野社における」
生川千恵「鎌倉時代における治療関係者―僧医を中心に―」
長谷川沙智子「狂言の排卑俗化について」
松本葵「治承・寿永の乱における南都焼討の認識と被害状況」

【近世・近代史】
大西美紅「近世尾鷲地域における難船処理の経済的影響―尾鷲組九木浦を事例に―」
岡村沙紀「明治・大正期における伊勢朝熊岳の開発と保存―保勝会とケーブルカー敷設問題を中心に―」
服部由貴「近世東海道石薬師宿・庄野宿の機能と特質」

【講評】
 本年度は十六本の卒業論文が提出された。近年の傾向と違わず、今年も出身地に関する題材を出発点に資料を集め、当該地を知る者ならではの視点で分析を加え、新たな解釈を導き出す秀作が目立った。ただ惜しむらくはそれらが、地域に深く食い込んで詳細な分析をしながら、普遍化する力が弱い点に課題を残した。もう少し風呂敷を広げる若者らしい大胆な発想の論考があってもよかった。


 三重大史学11号も販売します。是非ご参加下さい。終了後簡単な宴をもよおします。

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『三重大史学』第11号刊行の条

2011-02-25 12:12:12 | 三重大学考古学研究室情報
 私達考古学研究室と日本史研究室、そして昨年から東洋史研究室も一緒に一年に一回雑誌を出すことにしている。

『三重大史学』という。

 刊行して今年で11年。もう既に10号を越えた。そこでこれまでのバックナンバーを作成したのでご紹介しておくことにする。まさに玉石混淆の雑誌であるが、興味をお持ち頂けた掲載誌があり、購入頂ければ幸いです。ただし、2号につきましては在庫がほとんどありませんので、コピーサービスにてお願い致します。ご注文は、下記まで料金を添えてお申し込み下さい。

 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148 山中 章

送料は不要です。

三重大史学バックナンバー(各1000円)

創刊号    比較都市考古学の旅―慶州と飛鳥―                      山中 章
江戸時代における大名居城の城門規定について                白峰 旬
人物埴輪樹立の意義                          神尾 和歌子
賀茂別雷神社と盲人                           山田 雄司
鳴物停止令と地域社会―伊勢神宮周辺地域を中心に―             塚本 明
伊勢新聞に見る近代日本のアジア観                    伊藤 真琴
第2号     伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国庄                  山中 章
伊勢・伊賀における埴輪製作集団の動向                 中川 千恵美
『北野社家日記』人名索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
山田奉行の裁許権                             塚本 明
第3号     尾張国名古屋城修補許可の老中奉書について                 白峰 旬
尾鷲大庄屋文書の調査始まる―地域文化運動としての古文書調査の試み―    塚本 明
中華人民共和国陝西省東龍山漢墓
―陝西省考古研究所・三重大学人文学部考古学研究室合同発掘調査記録―
三重大学人文学部考古学研究室
『北野社家日記』地名索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
南北朝期室町幕府の軍事制度について―建武五年の畿内「大将」統轄軍―   石川 匡伸
第4号     鈴を付けたS字文鏡                           赤塚 次郎
漢代における壁画墓の地域色に関する研究                鈴木 裕美子
中世における武士の愛宕信仰                       小林 美穂
速懸―近世宇治・山田における葬送儀礼―                  塚本 明
第5号     律令期における地方祭祀の諸形態―木製祭祀具を素材として―       竹内 絵里奈
大学と地域連携―尾鷲組大庄屋文書調査のその後―              塚本 明
『北野社家日記』事項索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
第6号     古代伊賀・志摩における官営瓦工房                    梶原 義実
「宗国史訓注(一)」                     谷井 俊仁・斎藤 正和
近世村落における山林所有形態の展開―尾鷲九か村持合山を事例に―     井口 侑子
中世遷宮にみる伊勢神宮の構造                      山内 宏之
第7号     伊勢湾交通からみた北伊勢の地域的特徴                 栄原 永遠男
洛陽隋唐城における合璧宮遺跡への初歩的調査                陳 良偉
平安時代伊勢国朝明郡大矢智周辺の状況―伊勢神宮との関係から―      山田 雄司
文献史料に見る行幸史料集(抄)               天野 三恵子・山中 章
紀州藩の医療政策と地域社会                       上野 周子
第8号     『宗国史』の歴史叙述                    谷井 俊仁(谷井 陽子)
嗚呼、谷井俊仁さん                           廣岡 義隆
慰労詔書書式の変遷に関する覚書                      山中 章
道中記研究の可能性                            塚本 明
鈴鹿峠と坂上田村麻呂                          山田 雄司
第9号     人里昆虫が語る三重県・鬼が塩屋遺跡の古環境          奥野 絵美・森 勇一
松井石根と興亜観音                           山田 雄司
伊勢国村落の年中行事と豪農の生活―伊勢国三重郡八王子村を事例に―     藤谷 彰
平安時代の天下触穢について                       青島 史敏
第10号    考古学からみた古代王権の伊勢神宮奉祭試論                 山中 章
居延県城と漢代河西社会                         村 武幸
近代の志摩海女の出稼ぎについて                      塚本 明
直島における崇徳院伝承                         山田 雄司

編集したばかりの11号はこれ。

第11号
研究ノート 
『伊勢新聞』に見る近代の志摩海女―明治・大正期の「海女」の諸相―  塚本 明 (1)
卒業論文
船岡式製塩土器の機能に関する一考察              山 し央倫 (19)
宝塚古墳における円筒埴輪の製作技法と配置
―埴輪工人集団の分析から―              中野 綾子(57)
論文
中世の葬送と供養観の展開                      吉田奈稚子(一)


 4人でお金を出し合って発行している。もちろん大赤字だが、時々光る卒論や修論を埋没させておくのももったいないので、これに載せている。

 今回はいろいろな事情で、予定していた原稿が急に掲載できなくなったり、投稿直前にキャンセルになったり、やむなく編集の責任を取って、考古学の2人の学生の卒論を編集し直して載せることにした。

 何度も読んだし、中味も熟知していたので、少々「てにおは」を直せば何とかなる、と鷹をくくっていた。ところがである、卒論として読むのと、公にするのに際して読むのとでは大違い。もう最後はエイヤッだった。疲れた!いつもなら充実感があるのだが、今回はまたもやヘロヘロ。

 だから編集後記も好き勝手なことを書いた。

第11号編集後記

 本年度は十六本の卒業論文が提出された。近年の傾向と違わず、今年も出身地に関する題材を出発点に資料を集め、当該地を知る者ならではの視点で分析を加え、新たな解釈を導き出す秀作が目立った。ただ惜しむらくはそれらが、地域に深く食い込んで詳細な分析をしながら、普遍化する力が弱い点に課題を残した。もう少し風呂敷を広げる若者らしい大胆な発想の論考があってもよかった。
 今、チュニジアに始まる「ネット革命」で、数十年間抑圧され続けた市民達が、丸腰の若者達を核に戦車の前に立ちはだかり、「暴君」を次々と追放している。天命による「革命」が地響きをあげて連鎖反応を起こしている。
 陳腐なのは、「革命」の本場・中国で、九〇年に及ぶ「独裁」に天命が下るのを恐れたのか、為政者達が、必死で情報統制を加え、「革命」の波及を食い止めんとしている姿である。間もなく二二年目の「天安門事件」がやってくる。二〇一一年六月四日、北京から目が離せなくなった。
 ところが日本では、革命などどこ吹く風と、国民を放り出した醜い党派闘争が繰り返されている。小心者の代表者は何も決められず権力にしがみつき、前の代表者は自らの発言を「方便」だと言い放ち、汚い金まみれのカリスマは、自らの犯した罪を棚上げして居直り、元権力者集団は敵失に乗じて権力奪還に奔走している。この間隙を縫って放言軍団はできもしない約束を大声でぶち上げる。実現の可能性など無いと判っていても、目先の利益に飛びつくしか術のない国民は、ウジウジと方針も出せない奴よりましかと、絶望しながら「大声」に期待をかける。北アフリカとは逆に「暴君」の方がましか、と多数が思い始めている。
 そして今の日本の若者の一番の関心が、「ディズニーランドでの冷たい雨の日の傘がない」ことだとしたら、これほど悲しいことはない。
 最後の編集担当を終え、ホッとしたところでの愚痴である。  (山中)


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卒論提出日あと3時間の勝負の条

2011-01-13 12:55:09 | 三重大学考古学研究室情報
 今日は卒業論文提出日なのである。
 16時締め切りなので後3時間なのである。
 だから今四年生は必死なのである。バタバタとコピー機やら、印刷機やらパソコンやらがフル回転している。だから今朝の授業の資料が危うくできないところだったのである。

 でも既に提出した学生もいて、今年はとても優秀なのである。
 中味が?

 イヤ、もちろん、中味も時間も。

 指導教官の体たらくを横目で見ながら、彼らはああはなるまいと必死で書いたに違いない。まだきちんと中身まで読ませてもらったのは早々に提出した一人ぶんだけだが、一番心配していたが学生のものもきちんとできて今は何の心配もないのである。

 内容も結構いいもの、きちんと資料を収集し、中には現地へ何回も脚を運んで新たな視点を見出し、まとめ、作成した論文だから、安心なのである。論証がどうであれ、まずは第一関門突破である。よくやった!!

 そんな先輩方の雄姿?!を見て感動したのか、3年生の男子学生がぜんざいを作って振る舞ってくれた。昼ご飯も食べずにやっているので少しの腹ごしらへということらしい。

 何と優しい学生であることか。

 なぜかついでに?私もご相伴にあずかった。実はまだ書けていないので、(坂道に突然障害物が出てきたので、筆がストップしてしまっているのだ。後一息というのに。)だから僕にも振る舞ってくれたらしい。



 MA君が作ってくれた心温まるおぜんざい。
 おいしかったよ!ありがとう。

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 ぜんざいの 甘みが胸に しみいって

 餅くらい 筆走らせて 後何分

 卒論の 万歳待って 乾杯を

 

飛鳥めぐり第二弾キトラ四神と出会うの条

2010-06-06 14:04:27 | 三重大学考古学研究室情報
 本年度二回目の飛鳥巡りを実施した。
 
 もっとも前回は研究室の事業として、今回は授業の一環として実施したものだが、結果的には二度の飛鳥巡りでほぼ藤原京域から飛鳥京域まで制覇した事になる。特に今回は前回酷評した奈良博の「大遣唐使展」に比べて中味がいい!!とコメントでご推薦頂いた橿原考古学研究所附属博物館主催の「大皇帝陵展」へ行くことを主目的にした。

 

 飛鳥資料館は大変な人だった。果たしてどんな印象を持ったのか、感想文が楽しみだ。

 実は当初はキトラの四神展を見る予定はなかったのだ。しかし折角目の前にいてみないで帰るのは・・・、と言うことで入ることに。長蛇の列の先でほんの少しだけお目にかかることができた。壁全体を剥がし保存したのかと思いきや、四神だけが剥ぎ取られていて、少し驚いた。もちろん周りの壁もあるのかも知れないが、なぜか公開はその部分だけだった。本物の迫力は言うまでもないのだが、やはり石室全体を本物でみてみたいものだと思った。



 私達は10時頃には資料館に入ったので、待ち時間無しだったが、この後どんどん時間が延びて、後で通ったときには30分待ちになっていた。



 今回の飛鳥巡りは非常勤のSM博士のクラスと合同だったので、彼らは予め課されていた各遺跡毎の調べた結果を現場で報告してくれた。



 流石に総勢40人余となると結構遺跡の中も人で一杯になる。



 奥山久米寺付近の交差点で中世史4年のSさんが説明。。



 山田道に沿った中ッ道の交差点付近で。



 漏刻の跡では近世史3年生のSさんが説明。そろそろこの辺りでみなさんばててきた。早いな!!



 漏刻も随分傷んできていますね。



 飛鳥寺ではみなさん日陰に、この後飛鳥大仏へ。



 それにしてもどこの拝観料も高い!!!
 前にも言ったが、学生はもっともっと安くしてやればいいと思う。
 ちなみに今回の諸経費は、飛鳥のバス代が520円、飛鳥資料館が団体割引を利用できたので200円、飛鳥寺の大仏が320円、万葉文化館は500円もしたのでパス!!橿原考古学研究所附属博物館の太唐皇帝陵展が学生700円、締めて1740円
これに往復の交通費を納れると5000円は超える。ちょっと学生には気の毒な値段であった。





 万葉文化館北側に残された飛鳥池遺跡の復原広場。ここでようやくお昼に。




酒船石にもなんとか登り、文化会館西口からバスに乗って橿原神宮前まで戻る。かなりくたびれているようだが、何とか博物館まで。



 博物館に入ってお金を払っていると思いがけず館長さんのMさんに出会う。
 「そのコーナーで中国皇帝の衣服と后のそれを復原しているから学生さんに着てもらいなさいよ」と仰る。

 そこで三人が挑戦、なかなかよく似合っている。



 そしてみんなで記念撮影。暑い中、みなさんお疲れ様!!レポート楽しみにしているよ。

 この「大唐皇帝陵」展はコメントでの推薦で是非!と言うことになったのだが、予想に違わぬとてもすっきりした、目的のはっきりした展示だった。キトラを見た人にとっては太子墓の墓道に描かれた青龍と白虎の模写展示は両者を比較するに相応しいものであった。

 個人的に感動したのは李(にんべんに)垂という唐初代皇帝高祖の五世の孫に当たる人物のお墓である。736年になくなったとあり、まさに日本では奈良時代、聖武天皇の頃である。その墓は珍しく未盗掘で様々な副葬品が無傷で残ったのだが、その中に、銀製の海老錠があった。以前から海老錠を調査している私にはとても貴重な資料となった。それにしても同じ頃遣唐使がもたらせたものであろう正倉院宝物の中にもこれとそっくりなものがあるのを覚えていて驚いた。その他の各種銅製のミニチュア製品は、かつて東龍山漢墓を掘ったときのミニチュア製品と重なった。

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三考研再開!の条

2010-06-02 22:43:15 | 三重大学考古学研究室情報
 三重大学考古学研究室研究会略して「三考研」が何年かぶりかで再開された。

 私が三重大学に赴任して3~4年経って.大学院生がコンスタントに進学した頃から表記の研究会を開催し、月に1回くらいのペースで学生や院生の勉強会を開催していた。

 修論や卒論のテーマを中心に、10人前後は必ずいる研究室の構成員の発表の場を確保するための行事だった。しかしそれも、2005年から大学院進学希望者をそのテーマに応じて京都大学や、名古屋大学、奈良女子大学、南山大学等に勧めたものだから不在となり、学部生だけでは発表が負担となり、いつしか開催されなくなった。

 ところが今年、二人の大学院生が内部から誕生し、「復活」を提案したところ、喜んで!と言うことになり、準備を進めてきたのである。今年の学生達のいいところは、今の四年生も三年生もとても真面目で積極的。四年生5人のうちの二人は進学して専門家希望だし、三年生は二人しかいないのだが、とても優秀な男子学生の二人組で、毎週のように回ってくる演習をとても楽しみながらやっているのである。

 そんな学部生のバックボーンもあって、三考研が再開できたのであるが、記念すべき第1回目の研究会の報告者は、その熱心な四年生のMT君が一番バッターだった。

題して

「弥生時代末~古墳時代初頭の伊勢湾西岸地域における土器様式について」
 
だった。卒論のテーマで、つい最近基本的内容を私は聞いたばかりなので、あまり新鮮味はなかったのだが、発表者の方は二回目と云うこともあってスラスラと報告していた。

 伊勢湾西岸を中心に弥生時代の終わりから古墳時代の初めにかけて盛行する「s」字形の甕の型式変化を検討した意欲的なものであった。実はこれ、私の尊敬する愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎さんの研究成果への「挑戦状」でもある。

 もちろん赤塚さんにしてみればいたくも痒くもない学生の戯言なのだろうが、私にとってはそれなりに先の展望を持っている研究の一つなのである。私は弥生時代など全く判らない人間なのだが、たまたま発掘調査した三重大学の校内で発見された鬼が塩屋遺跡から同じ頃の土器がそれなりの量出土した。その中で興味を持ったのが瓢壷と呼称される特異な形態をした壷であった。
 
 「なんじゃこれ?」調べてみるとあまりこの壷に関する研究がない。並行して資料を集めさせるとえらく三重県内からの出土が目立つ。

「????」

「誰か調べてみいひんか?」

この間何人もの学生を挑発したのだが、残念ながらみんなに逃げられてきた。

 「俺が若かったら絶対にやる資料なんだがな~」

こうして5年余の年月が過ぎ、諦めかけた頃MT君がやりたいと言い出したのである。丁度同じ頃亀山市史で弥生時代の資料をやる人間がいないのでなんとかうちで対応してくれないか、と言うことになり、彼に白羽の矢が当たった。連日夜遅くまで残って、再実測に取り掛かった。なにせ調査自身はもう20年以上前に行われ、その原図もないとのことで、みんな実測し直さなければならなかったのだ。こうして徐々に、亀山における「s」字甕の実態が明らかになってきた。近江とは鈴鹿峠を挟んで最も近接する伊勢最西端の亀山市の当該期の土器が、強く近江との関係をもち、そこから「s」字化が始まっているかに見えるのである。

 赤塚説とは真っ向から対立するこの「事実」を如何に証明するか。これが大きな課題であり、まだまだ取り組まなければならない課題は多いのだが、小さな穴は空いたように思っている。卒論まであと8ヶ月。もちろんその後の大学院でも研究を続けばいいのだが、一定の成果は欲しい。

 そんな意欲的な報告に、研究室のみんなもとてもよく食いつき、鋭い質問の雨を降らせてくれた。私にとってはこちらの方が大収穫であった。結構みんな進歩しているな!と言う強い印象を得た。

 三考研、やって良かった!!

と思えた今日の夕方であった。

次回は二週間後、新大学院生のMKさんが報告する。

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伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねて最終回報告の条

2010-05-05 08:00:00 | 三重大学考古学研究室情報
 伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねてもいよいよ最終回である。



 伊勢の家々にはこうした「蘇民将来札」があちこちに架かっている。伝統的祭祀行為は営々と続いている。

 外宮をさっと見学した後、市内バスで内宮に向かった。10分おきに運行されており、とても便利なのだが、とても高い。内宮までの10分足らずが410円だった。ついでに言うと、内宮から二見浦(御塩殿神社に近いバスセンター)までもバスに乗った。これも高くて580円。ちょっと学生には可愛そうだった。



 3月の末に、卒業生が結婚して台湾に行くというのでささやかなお別れの宴を1泊2日でやったときに行ったばかりだった伊勢神宮内宮、この日は前の天皇の誕生日ということもあるのか、奇妙な服装の老人達や新興宗教らしき集団がうようよしていた。
 もう一度戦争をして大儲けしようと企んでいる奴らの思惑に載せられて、それこそもっとじっくり神社を眺めればいいのに。
 もちろん我々は掛け替えられたばかりの橋をじっくり観察した。



 この日は前日の雨で五十鈴川は激しく流れていた。



 私は以前から橋と交通に関心があり、論文も何本か書いたことがある。その過程で、橋の構造についても興味を持つことになり、世界各地を訪ねても橋を見ると直ぐ下からのぞき込みたくなるのである。そして、今は式年遷宮に合わせて伊勢神宮関連の橋が次々と架け替えられている。こんなチャンスは滅多にない。もちろん、架橋技術が古代から続いているとは思えないのだが、少なくとも木造橋架橋の一側面を知ることができる。



 そして嬉しかったのはこの伊勢神宮内宮への宇治橋を守る神様として置かれている、内宮とは道を挟んで反対側に鎮座する饗土橋姫神社を訪ねることができたことである。ナナナント、この橋姫神社も「式年遷宮」していたのである!



 なぜ橋が女性の神様なのかも興味深いが、とても可愛らしい社殿にその意味が込められていた。但し興ざめなのは社殿のすぐ前がタクシーの待機場になっていて、肝心の橋がよく見えないのである。商売のことばっかり考えてんともっと本来の「聖なる地」としての空間を大事にせんとな・・・・。



 何とか見えるでしょう。向こうの方の人だかり。これが五十鈴川に架かる宇治橋。



 そしてなんといっても私にとって嬉しかったのは、風日祈宮(かぜひのみのみや)に渡る橋が改修工事真っ盛りだったことである。既に橋脚が建ってしまっており、その基礎構造がどうなっているかは判らなかったが、橋板はまだはめられておらずそこから全体像を見ることができた。ラッキー!!





 確かにこんな状態なら二十年に一度くらいは建て替えないと橋脚も痛むはな!(今の全国に架かっている高速道路の橋、50年後に建て替える予算を考えているのかしら??)



 なるほど!宇治橋の真ん中に同様の出っ張りがあるのは真ん中の橋脚を受けるためなのだ。納得。

 

 橋の周辺にはかつて架橋時にお祭りをしたときのものであろうか、須恵器の甕片や銭貨が落ちていた。



 風日祈宮の本殿の鰹木も綺麗になっていた。



 本殿は大変な人だかりなので適当に見て遷宮の地を横目に大急ぎで神楽の会場へ。





 残念ながら神楽は丁度終わったところだったが、出演者達が目の前を通って帰って行くところに出くわした。



 独立棟持ち柱建物があちこちに。これも参考になるのだが、学生達は素通り。「おい、ちょっとちょっと、ここの建物もちゃんとみとかんと!!君たち何しに来たん?」とつい愚痴も。



 海老錠。私はこうした由緒のある神社や寺院を訪ねるときは見るポイントを決めている。一つが建物の構造。基礎から床、梁、天井、そのそれぞれの組み物がとても興味深いからだ。そしてもう一つが錠前。かつて発掘したことのある様々なタイプの錠前。以後必ず正倉院展ではチェックするのだが、こうした古い建造物でも必ず注意をする。



 さて内宮での橋探検を終えて、ようやく最終目的地昼河古墳群へ。バスの都合で先に二見浦にある御塩殿神社へ。4年生で若狭の製塩土器をやる学生がいるから是非これも見ておこうということで寄ったのである。



 御塩殿神社の裏にある鹹水(濃縮した濃い海水)を溜めておく小屋。御塩殿神社の祭りは毎年10月5日に開催されるのでそれまでは入ることができない。



 バスを乗り継ぎ乗り継ぎ、やっとの思いでやってきた昼河古墳群。ところが・・・。な~んにもない!!看板すらない(そらそやろ、恥ずかしくて建てられんわな)。



 それにしても、この地にできている施設は高速道路といい、アリーナといい、そして目の前の広大な公園といい、みんな公共施設ばかり。どうしてそれなのに昼河古墳群は消されたの??信じられん!!
 これを目的にやってきた院生はがっくり!!

 昼河古墳群は伊勢市を代表する古墳群。それもそんじょそこらにあるものではなく、横穴式木室墓という、日本でも極めて珍しい葬法をとったお墓である。石で造るのがあたりまえの当時の遺体埋葬室を木を組んで作り、遺体を納めた後、火を付けて燃やしてしまうという非常に興味深い火葬の方法なのである。なぜ伊勢神宮のお膝元でこんな葬法が取り入れられたのか。そもそもこうした火葬の方法はどこから来たのか、どんな思想から来ているのか。課題とすべき事は山ほどあるのである。それをすっかり壊してしまって、有ったことすら伝えないというのはどういう事なのだろうか。訳のわからない公園を造るお金があるのなら、古墳を活かした公園造りをすればいいではないか。

 あまりの空しさに、折角の一日の充実した思いが一気に吹き飛んでしまい、疲れだけがどっと残った。帰りのバスではみんな声もなくただ眠った。

 伊勢の地は本当に奥深いのだが、どうもどこかボタンが掛け違われているように思えてならない。とても悲しい一日だった。

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纒向遺跡から藤原京踏破の条

2010-05-04 09:08:13 | 三重大学考古学研究室情報
 (もう少し伊勢報告があるのだが、忘れないうちに研究室での纒向遺跡・藤原京探訪の報告を)

5月1日は予告通り①纒向遺跡から②箸墓、③渋谷向山古墳を歩いた後、藤原京へ移動し、④吉備池廃寺、⑤藤原宮大極殿跡、⑥朱雀門・朱雀大路から⑦日高山古墳群・横穴群、⑦大官大寺、⑧本薬師寺と歩いた。

ナナナント、ブログを見てきて下さった方が3人、メールでやりとりをしていた奈良文化財同好会の方が1人、同僚の先生が2人、授業で配ったチラシを見てきてくれた1・2年生が2人、そして我が研究室の学生と総勢19人の大??行列となった。中でも2人の元気な学生が参加してくれたのにはとても嬉しかった。

 そして最も驚いたのは、以前放送大学の面接授業を受けて下さり、長岡京見学も参加された社会人の方が豊田から駆けつけて下さったことである。上は還暦をとっくに過ぎた○○歳の方から、まだピチピチの18歳まで実にバラエテイーに富んだグループだった。



 まずはみなさんお待ちかねの纒向遺跡へ。
 あの大規模建物?が発見されたところはもう埋め戻されていて、影も形もない。図面や写真を見ながら想像してもらう。そうそう、忘れないうちに。今回の資料は久しぶりに学生達が一生懸命作ってくれた。きっといい勉強になったはずなのだが、いざ説明しろと言うと、尻込みしてしまう。みなさんおしとやかだね。



 実はまだまだ保存の方策が立っていないらしく、折角の「邪馬台国の都」も今のところ判るものはこうした看板しかない。早く整備できるといいのにね。



 箸墓古墳を北東から。



 続いて景行天皇陵として宮内庁によって管理されている渋谷向山古墳へ。

 全長310mという巨大な古墳は、地上からではその壮大さがよく判らない。
 直ぐ北には崇神天皇陵としてやはり宮内庁が管理する行燈山古墳がある。

 本当なら行燈山古墳まで行きたかったのだが、次の列車が来るので、大急ぎで巻向駅へ戻り、次なる目標藤原京めざして香久山駅へ。



 こんな駅で降りるのは初めてだ。いつもは車で来るので。地図を確かめ吉備池廃寺を目指す。ところがここで大助かりの方が。久留倍遺跡を考える会の役員さんのUさん。つい先日この辺を歩きに来たというので、うる覚えの私より前をすたすたと歩いて下さる。それも聞いてびっくり、Uさんは心臓が悪いのでニトロを持って歩いているという。でも、一番元気!!学生さんよ、日頃もっと歩けよ!!!



 横大路を横切って吉備池へ。



 田植えの時期なので池には満々と水が。この下に寺跡があるというとみなさんびっくり。塔跡の基壇は土手にまで利用されている。



 丁度いい時間だったので、ここでお昼に。



 このみんなが座っている切り株のあるところが日本最初の国家寺院百済大寺の塔基壇跡。この後訪れる大官大寺の基になった寺院で、その塔に匹敵する巨大な基壇が確認され、百済大寺と確定した。



 途中の民家に咲いていた紫陽花。→と思っていたら「オオデマリ」という名の木だそうです。やはり私には植物の名前は無理!!ごめんなさい。



 吉備池廃寺を堪能して、西へ。途中中ッ道を横断(そんなもんある訳がない!!という先生もいらっしゃるのだが・・・。私にはどうしても納得できない。)そしてもう一つ。これまた大先生に刃向かうことになって、小さくならないといけないのだが、この中ッ道から西を岸俊男先生は藤原京(新益京)とされたのだが、今日の大勢は10条10坊の正方形の都説になっている。つい最近のある雑誌の特集号でもそれは強調されていたのだが・・・。私は新益京は岸説でいいと思っている。ま、早く書かないからいけないのだが。



 藤原宮大極殿基壇跡。



 大極殿正面の閤門の外、朝堂院の北端付近の発掘調査が始まったばかりらしい。この4月から三重大学の卒業生が飛鳥藤原宮跡調査部?に戻ったらしいのでいつか見せてもらおうっと。



 朱雀門、朱雀大路を経て日高山横穴群へ。驚いたのはこの貴重な遺跡が大した保護もされず放置されていたことだ。直ぐ横の斜面は最近機械によって激しくえぐり取られている。いいのかしら、こんな事で。藤原京だけが守れればいいとは思わないのだが・・・。しかし、一緒に行った院生は大喜びだった。




 そして大官大寺へ。途中県営のテニスコートでトイレ休憩。この地が紀寺跡でもある。もうこの頃になるとみなさん歩がのろくて・・・。
後少しだからね!と励ましながら歩く始末。アー情けない。なんと言っても先頭を歩くのが常に最年長なんだから、何とかして欲しいな、学生諸君。



 はいポーズ!の声に反応する元気もなさそう。(笑)



 そしてようやく最後の地・本薬師寺へ。お疲れ様!!





 東塔の塔心礎の水たまりに映った参加者。はい、これで本当におしまし。

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伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねて第1回報告の条

2010-05-02 19:09:15 | 三重大学考古学研究室情報
 29日は朝から伊勢市に出かけた。
 大学院の学生が本年度は二人所属しているのだが、彼らの受講している授業に「三重の文化と社会」というのがある。大学院は人文社会科学研究科というのだが、そこには学部の文化学科系の地域文化論専攻と法律経済学科系の社会科学専攻という2つの専攻がある。普通は共に学ぶことのない大学院で、両専攻の学生が、県内のある自治体を舞台にそれぞれのテーマで研究を進め、研究成果を自治体職員や市民に紹介するというユニークな授業である。本年度は伊勢市が舞台となった。

 そこで考古学専攻の我が二人の学生がそれぞれの関心に従って伊勢市の関連する遺跡を見て回ろうということになったのである。その第1回を実施したのである。
 一人のテーマが「伊勢国の交通路~度会郡の駅家を中心に~」、もう一人が「古代伊勢の葬送~昼河古墳群の考察から~」である。いずれも資料の限られた難題であるが、ひとまず現地を見ておこうということで出かけたのである。他に熱心な4年生二人も参加した。



 津発8:04のJR紀勢本線の鈍行で宮川へ。丁度一時間ののんびりした旅で始まった。



 離宮院は一度調査したかったのだが、残念ながら果たせなかった。

 当日の予定コースは①離宮院→②小御堂前遺跡→③磯神社→④隠岡遺跡→⑤外宮→⑥内宮(橋姫神社)→⑦御塩殿神社→⑧昼河古墳群である。

 まず離宮院からスタートである。
 離宮院は延暦十六(797)年猿田彦神社近く、月読宮の東に推定されている山田原沼木郷高河原から遷されたという。この高河原の地については興味深い記事が残されている。宝亀四(773)年に一度大修理が行われたというのである。前年の11月13日、光仁天皇の斎王として酒人内親王がト定されている。同年の3月2日に、母井上皇后が天皇への巫蠱(ふこ)事件で逮捕されているにもかかわらず、ケガレを嫌う斎王にその娘が選ばれているのである。明らかに異例の斎王である。その斎王の使用する斎宮が大規模に、壮麗に建設されたことは既によく知られているところであるが、離宮院もまた改修の手が加えられていたのである。そして平安遷都間もない延暦十六年に伊勢神宮から遙か離れた現在の離宮院の地、度会郡湯田郷宇羽西村に遷されたという。離宮院はその後824年から839年までの15年間常斎宮として使用されたこともあった。なぜ離宮院は8世紀末から9世紀初めにかけて、この様に激しく変遷するのであろうか。

 五月末日までに完全原稿で出せ!と鬼のような形相で迫る山田博士に

 「はい、必ず・・・」と蚊の泣くような声で命令に従ったがために『仁明朝の研究』の隅っこに入れてもらう原稿を書かなければならない羽目に。このテーマに少しだけ添う可能性のある伊勢での唯一の素材がこの離宮院である。

 私はもちろん何回も来たことがあるのだが、学生達を出汁に今一度現地を歩いて、なぜこの地なのかを分析し論文のデーターに使おうとしたのである。

 学生達は直ぐ近くに住みながら、いずれも初めてだという。まず立地を確認しようということで南を流れる河(汁谷川ということを初めて知った)の岸辺に降りた。今は完全に護岸され、岸辺の道は舗装されてかつての面影は全くない。そこで説明していると自転車に乗ったお爺さんが通りかかった。古老は遺跡のかつての様子を教えてくれる貴重な情報源である。




 「この河の名前は何というのですか?」
 「□△川じゃ!」
 「ハア?・・・」
 「汁谷川!!さんずいに十の汁の汁じゃ」(これで川の名前がわかったのである。)

 古老のお陰でこの川の名前が汁谷川とわかった。葭の生える湿原だったというからこの辺りは水運で自由に行き交うことができたようだ。汁谷川という名も湿原を表しているようだ。


 何とお爺さんは89歳だという。とてもそうは見えない。何でも前立腺肥大等で何度もお腹を切ったと言って腹の傷跡まで見せてくれた。自分はこの辺りで生まれたというので、さらに聞いて見た。

 「この辺の土地の名前は何というのですか?」
 「馬道とか松倉や.田丸のお城に年貢を運ぶので馬が使われたそうや。」
 「この川は昔は船が上がって来たんですか?」
 「そうや、この辺は昔葭が一杯茂っていてな、船はなんぼでも上がって来た。」

 離宮院は斎王の離宮(伊勢神宮奉祭のための宿所)であると共に駅使の宿所でもあるとされる。伊勢国内には『延喜式』によれば東海道と別れた支路が志摩の国へ延び、市村駅、飯高駅に次いで度会駅がある。度会の後は志摩国に入り、鴨部駅、磯部駅を経て志摩国府へ至る。度会駅がどこにあるかは明確ではないが、離宮院もまた有力な比定地である。少なくとも現在地に離宮院が移動して以後は、斎王が伊勢神宮に六・九・十二月の三度参るための交通路は当然、斎宮→度会駅→内宮であったはずである。近年の研究によれば駅家の配置は陸路だけが重視されたのではなく、山陽道のように瀬戸内海に沿って東西行する官道は水運との接点も重視されていたことが知られる。伊勢湾岸を北上する東海道、鈴鹿駅から別れて南下する東海道支路もまた当然水運との関係を無視することはできなかったはずである。離宮院が汁谷川の直ぐ側に設けられたのも、こうした交通路との関係も無視できないのではなかろうか。


 

 学生達はあちこちで土器を拾ってきた。離宮院は丁度今書きかけの「仁明朝期の斎宮」の舞台である。残念ながらその中心部分は発掘できていないため、詳細は不明だが、これだけの土器が拾えるのだから調査すればその実態が判るに違いない。



 いうまでもなく離宮院には区画を示す築地の高まりが残っている。



 次いで③磯神社に向かった。当初は歩いてまず②小御堂前遺跡を見る予定だったが、予想外に離宮院で時間をとったのと、あまりに距離が長すぎたのと、たまたま宮川駅にタクシーが止まっていて、その運転手が親切にも私達5人が乗れるように中型の車を呼んでくれたのである。これは大正解だった。おそらく歩いていたらこの行程は半ばで挫折していたに違いない。

 離宮院から東4キロほどのところに磯神社がある。直ぐ近くの小御堂前遺跡を訪ねるためにまずこの地を訪れた。磯神社は式内社であるが社地は宮川の氾濫で度々変遷したようだ。正確な鎮座地は別にしても、こうした宮川の川側にこの神社があり、この後訪れた小御堂前遺跡がおそらく宮川の水運と関係することを考えると、この神社の立地の由来もおおよそ見当がつこうというものである。



 小御堂前遺跡は宮川に接する位置から発見された古代の遺跡で、その性格についてはほとんど言及されていない。しかし、立地から見て、水運との関係を考えざるを得ない。しかし、ただそれだけなのだろうか。



さて②小御堂前遺跡であるが、かつてほ場整備の関係で調査されたらしい。大量の緑釉陶器や志摩式製塩土器が出土しており、宮川を通じて大量の物資がこの地に集積されていたに違いない。宮川には近世には渡しがあったらしく、水運の伝統は続いていたようだ。

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第17回壬申の乱ウオーク出発~石占頓宮をめざせ!~の条

2010-04-20 08:26:47 | 三重大学考古学研究室情報
 春はいろいろな行事が目白押しなのである。
 これも大学の使命~能動型授業や地域連携の実践~なのである、とかってに思っている。

 〔1〕5月1日(土)三重大学考古学研究室春の遺跡めぐり~纒向遺跡から藤原京へ~



 藤原宮朱雀門から耳成山を見る。実際に歩くのはこの逆で、纒向遺跡や箸墓古墳をみた後、藤原京の北東部から南下して大極殿、朱雀門から大官大寺へと行きます。

日時 2010年5月1日(土)
 第1集合場所 近鉄津駅7:48発急行の一番前の車両(津からの人はこの電車に乗るのが一番安くて早い!!)
 第2集合場所 伊勢中川発8:04の急行一番前の車両 (伊勢方面の人はこの電車で合流して下さい)
 第3集合場所 JR桜井駅(近鉄桜井駅と接続)改札口9:30〔関西方面の方はここか、次の巻向駅で会いましょう。私は京都から行きますのでここから学生と合流します。〕
 第4集合場所 JR巻向駅(JR桜井線)9:44 〔要するに現地へこの時までに来て下さいね〕

解散予定 近鉄津駅 19:21

主な見学場所(予定コース)

巻向駅9:45→纒向遺跡(邪馬台国の都?)→箸墓古墳(卑弥呼の墓??)→渋谷向山古墳(景行天皇陵???)→巻向駅11:04→11:13JR香久山駅→ 吉備池廃寺(百済大寺)→藤原宮跡大極殿・昼食)13:00→朱雀門・朱雀大路→日高山古墳群・横穴群→大官大寺14:30→15:30本薬師寺→畝傍御陵前駅16:00→大和八木経由津

持参するもの
弁当、水筒、雨具、筆記具、カメラ、タオル(服装や靴は軽装で)

雨天決行
連絡 山中 章 Mail: yaa@human.mie-u.ac.jp

 そしてもう17回になりました、壬申の乱ウオーク。毎年欠かさず4回やっていますので、5年目に入ったと言うことですね。目標は50回なんですが命がもつかしら(笑)。

〔2〕 5月8日〔土〕 第17回壬申の乱ウオーク~石占頓宮をめざして~


 今回は聖武天皇が740年11月24日に宿泊した朝明頓宮から、翌日に入った桑名郡石占頓宮に至るコースを見学し、歩きます。
 
 石占頓宮の場所は未だに判ってはいませんが、この間の探訪でおおよその見当がついてきました。今回も訪れる予定になっている「尾津」神社!この名称の由来は東海道伊勢国北端の「榎撫(えなつ)駅」ではないかと考えられています。聖武天皇の伊勢行幸は、基本的に国郡レベルの地方官衙が利用されていることが判明してきました。榎撫駅家はまさにそうした施設の一部だったのではないでしょうか。




 日本で初めて発見された木簡の出土地、柚井遺跡から多度神社を歩きます。

 柚井遺跡の木簡は今から82年も前に地元の熱心な教員・鈴木敏雄氏他によって発見された資料です。発見場所は当時の三重県桑名郡多度町一番割ですが書かれている内容は「v桜樹郷□頭守部穎代籾一石□五百□v」(皇學館大学史料編纂所『皇學館大学史料編纂所蔵 鈴木敏雄氏遺稿・旧蔵資料目録』(1991年)解説)等、かつての美濃国石津郡桜樹郷から守部が穎稲籾1石を送ってきた荷に付けられていた荷札木簡です。石津郡桜樹郷とは現在の大垣市上石津町付近と推定されますから小河川から揖斐川に出て舟運で籾を運んできたものでしょうか。柚井遺跡の南には戸津という地名もあり、榎撫駅の名称などからこの辺りに揖斐川の港(津が置かれていたことが判りますから、まさに水陸交通の要所だったのです。さらに興味深いのはこの地は伊勢国と美濃国の国境にも近いと言うことです。駅家設置のあり方とも一致します。

 日時 5月8日8時40分養老鉄道多度駅〔桑名発8時24分→多度着8時37分)集合

 主な見学地 尾津神社→ヤマトタケル歌碑→宇賀神社(柚井遺跡説明)→愛宕中世墓群→多度大社→多度駅12時解散予定

 案内 桑名市教育委員会石神教親氏 & 山中 章 

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4月1日の嬉しい知らせの条

2010-04-02 13:08:05 | 三重大学考古学研究室情報
 4月1日はエープリルフールだとか、しかし、こんなの日本でどれくらい浸透しているのだろうか。
 そんな欧米のブラックユーモアはどうでもいいのであって、そんなものを気にしていては一日が無駄になる。
 要するにこの日は新年度である。つまり1週間前に卒業した学生達の社会人最初の日である。特に公務員となった連中がどこに配属されたのかは大いに気になるところである。もちろん今年の考古学からは就職者がいないので新卒については無関係なのだが、同じ歴史の学生はほぼ全員就職したのでその行き先が心配だったのである。

 特に気にしていた「化け物研究」のOIさんはなんといきなり「文化スポーツ部生涯学習課」で読書推進の係をすることになったという。本人はできれば同じ部の博物館に行きたかったようだが、近年の傾向としてなかなか新人は配属してくれない。読書担当でも十分やりがいのある職だろう。めでたしめでたしである。

 そんな中もう一人日本文学の大学院生からも連絡があった。何で文学の学生がお前に連絡するんや?という疑問はもっともである。話せば長いので端折ると、彼女、昨年末に突然現れて

「遺物の実測の仕方を教えて下さい!」という。
「??どうしたん?」
「三重県で学芸員を募集しているのですが、その実技試験で実測があるらしいのです。だから」というのである。
(フーム、どうせうからんだろうが、一年生の頃から僕の授業をよく受けている真面目な学生だし、教えてやるか)、ということで、手ほどきをした。するとどうだろうか、実測の実際を示した内の学生よりうまいのである。驚いた。元々実測というのは「センス」だというのが考古学一般的意見である。だから仕方がないとはいえ、ちょっとがっかりした。

「もし仕事がなかったら内で実測のバイトしない??」などと実に失礼なことも言ったくらいだ。

 その彼女がわざわざ訪ねてきてくれて、県庁は駄目だったのですが地元のS市役所に受かりました。先日配属先が判り「博物館」になりましたというのである。もちろん内の学生ならもっと喜んだに違いないのだが、しかし、彼女とて、少しは私達のやったことが役に立ったのである、嬉しくないはずがないのである。

「あそこには僕の後輩もいるし、困ったことがあったら彼に相談するといいよ。また展示会で何か企画したりすることがあったら気軽に声をかけてくれたらいいからな」

 こう励まして帰した。ホント、三重大の学生はとても優秀でとにかく真面目だから、雇う側がしっかり仕事をさせる環境さえ作ってやればいくらでもいい仕事をすると確信している。がんばれ!!YRさん。

 そして夜も更けた23時頃携帯が鳴った。卒業生からだ。

「どうしたん?生まれた?」
彼は昨年夏に結婚し間もなくお子さんが生まれると聞いていたのでてっきりその報告かと思ったら違っていた。

「教育委員会に配属になりました。文化財担当です。」

彼は役所に入って3年になるがこれまで市民課にいて住民票やら年金やらをやっていた。結婚式の時に上司の方も沢山いらしたのでそこを意識して彼の埋蔵文化財技師としての素晴らしさを強調しておいた。果たしてそれが功を奏したのかどうかは解らないが、結果として希望する部署に配属されたという。

「よかったな!!おめでとう!!頑張れよ。」

眠気も吹っ飛ぶ嬉しいニュースであった。ここのところいろいろな事情があってこれまでの卒業生の進路を調べることがあった。大体の傾向は判っていたのだが、いざ数字に出してみてびっくりした。私が来て12年が過ぎたが、その間約70人の卒業生を送り出し、そのうちの30人弱が文化財関係、公務員、教師として働いているのだ。40%の高率だ。もちろん彼がそうだったように未だに文化財と無関係な部局にいる卒業生もいるのだが、見る目のある上司さえいればいずれ関係部局に異動させてくれるものだ。

 これは大いに自慢して言い数字だと思う。新卒が何人就職したかなんてどうでもいい数字だ。三重大生のようにじっくり型の学生は直ぐには結果は出ないが、いずれ本人の希望を叶え、社会に大いに貢献できるのだと思っている。いいかげん、三年生の内から就活するのをやめさせて欲しい!!みんながみんな、卒業して就活を同時スタートすれば学生生活も堪能できるし、一定の研究もこなせるのである。一刻も早く在学中の就活を禁止すべきと思う。

 新しい職場で新しい部署で張り切っているみなさん、思う存分やって下さいね。

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