今日は問題の「10年会」の日です。
賀茂の川原近くの密室での会合がどうなることか・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/63/5d8b8147af2ca5846c885e7ad712f79c.jpg)
(2005.11.27~12.09 東アジア宮都研究共同研究・ヴェトナム調査団配布西村昌也氏編集資料集「Thanh Hoa Lu」を転載)
でもその前にまだまだ続くヴェトナム報告です。今回は4~10世紀に統一への道程を歩む「北属期」の歴史です。侵略→抵抗の歴史を繰り返しながら一歩一歩進む、ヴェトナム北部の代表的な遺跡ホアルー城からその一端を再現するものです。本当ならこの間に激しい戦闘の繰り返された歴史があるのですが、まだにわか勉強の私には十分こなすことができませんので、見学したところだけをご紹介いたします。
なお、予めお断りしておきますが、私は決してヴェトナム史の専門家ではありません。聞きかじり、読みかじりの断片的な知識を見学した遺跡の写真で繋いでいるだけです。密かにご覧になっている東アジア史の先生方には山中はこんなことも知らんのか、とお呆れのことと思います。先日の蓮田さんの文字表記の問題もきっとその一つだと思います。どうか間違いはどしどし指摘して下さい。私の勉強にもなりますので。
さて今回はハノイから南へ100㎞、車で2時間ほどのところニンビン省にあるホアルー城です。
ルンケー城の時代からホアルー城の時代の歴史はとても複雑で私にはなかなかスムーズに説明することができません。いうまでもなく唐の時代には安南都護府がハノイに置かれ、768年にはあの阿倍仲麻呂が都護に任命されて赴任していたとされています。しかし、その唐も907年には滅亡し、宋が建国されます。宋もまたヴェトナムを侵略し、諸勢力と度々戦争を行います。
しかし939年に呉権(ゴーグエン)がコーロア城で即位し、呉朝(~965)を建てると統一の動きが加速します。ホアルー城はこの後に設けられる丁部領(ティンボリン)が開いた丁朝(968~980)の都として機能しました。丁朝に次ぐ前黎朝(980~1009)もまたこの場所を都とし、李朝以後にタンロン(昇龍・ハノイ)に都を遷し以後1788年まで首都として機能します。タンロンについてはまた改めてご紹介することにしましょう。
さて、ホアルー城の所在するニンビン省一帯は海岸に近く、平地部ににょきにょきと飛び出している岩山は本来この地域が海中にあったことを示しているそうです。地盤が隆起したのか自然の沖積作用によるのかは分かりませんが、とにかく平野部一帯に岩山が飛び出ている光景は不思議なものがあります。
さらに驚いたのがこの岩山を利用して城郭が形成されていることです。岩山と岩山の間に土を突き固めた(?)土塁が築かれ、北からの侵入を防ぐ構造になっています。同伴した先生方の意見には綺麗には巡らないが、内城と外城が区別されていたのではという意見が圧倒的でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4a/9539c6841042a97c035f127e3dd32721.jpg)
北の川も利用した防御的性格の強い都だったのではないかと思います。
(ホアンロン川がホアルー城の北の限りをなすのだろう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/24/9cf5b63f687853701cb78f23f2b8852d.jpg)
なお内部を流れる小河川に架かる橋には「鄽」(但し旁のオオザトがない)の文字のある石碑がありました。石碑には(碑文自体は新しいもののようですが)、橋と市という関係が見えて大変興味深く感じました。現在もホアルーの中では市が展開する場所だとも伺いました。その市が古代の城壁の外城と内城とを繋ぐような位置にあることも興味深く感じました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9b/ebb3165ed8fb72b2f1dd5711688ac9dd.jpg)
さて、城壁の内部、内城の中心部には発掘調査によって発見された塼敷きの遺構が覆い屋で覆われて保存されています。残念ながら真っ暗闇で私のカメラでは光量が足りず十分な写真を写すことができませんでしたが、発掘調査を担当したリエンさんのお話によると、塼敷きが広範囲に広がっており、広場のような機能だったのではないかと仰っていました。塼の中には明らかにタンロンから運び込んだものもあるらしく、タンロン遷都後もこの地が利用されたことが分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/a7/6ef892df817416842b7a65d678bee2b0.jpg)
内郭の中心部には現在二つの寺院が置かれ、現在も村の各種行事に大きな役割を果たしていることが知られます。寺の前面にはやはり大きな池が設けられており、ヴェトナウの寺院全体に言えることなのかも知れません。寺院の一角が資料展示室として利用されており、これまでの発掘品や復元模型が展示されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/cd/94b5b2af84c39f60a8a8a2fe2a8fa6b3.jpg)
(寺院内部の展示室に飾られたホアルー城の復元模型。なかなかよくできた模型だった。当地に思いを寄せる人々の心意気の伝わる展示室だった。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/94/4f0612ac87559f7705a2150c70d63c36.jpg)
(寺院に保管されている輿、祭りの際に天地の神を乗せるのだという)
寺院の前面には小高い独立した「山の字形」の小丘があり、かつて聖廟が設けられていたところとして現在も崇敬されているという話でした。遠足に来ていた子供達が険しい道を登っているのが見えました。てっぺんに登ればホアルー城内郭が一望できたのですが、時間もなく諦めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/fbd8da684066433e72ed30b89c97199c.jpg)
(これは発掘調査地点付近から聖なる山を撮ったものです。この水田地帯のあちこちに塼が散布しています。タンロン王城跡は基本的に礎石建物が塼で覆われています。その原型が既にこの地で準備されていたのでしょう。両都の比較は大変興味深いものがあります。)
城内各所には現在も塼が散乱しており、発掘調査すれば壮大な宮殿跡が出現するものと思われます。
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(接写図面以外はご山中章が撮影したものです。自由にご利用下さい)
賀茂の川原近くの密室での会合がどうなることか・・・。
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(2005.11.27~12.09 東アジア宮都研究共同研究・ヴェトナム調査団配布西村昌也氏編集資料集「Thanh Hoa Lu」を転載)
でもその前にまだまだ続くヴェトナム報告です。今回は4~10世紀に統一への道程を歩む「北属期」の歴史です。侵略→抵抗の歴史を繰り返しながら一歩一歩進む、ヴェトナム北部の代表的な遺跡ホアルー城からその一端を再現するものです。本当ならこの間に激しい戦闘の繰り返された歴史があるのですが、まだにわか勉強の私には十分こなすことができませんので、見学したところだけをご紹介いたします。
なお、予めお断りしておきますが、私は決してヴェトナム史の専門家ではありません。聞きかじり、読みかじりの断片的な知識を見学した遺跡の写真で繋いでいるだけです。密かにご覧になっている東アジア史の先生方には山中はこんなことも知らんのか、とお呆れのことと思います。先日の蓮田さんの文字表記の問題もきっとその一つだと思います。どうか間違いはどしどし指摘して下さい。私の勉強にもなりますので。
さて今回はハノイから南へ100㎞、車で2時間ほどのところニンビン省にあるホアルー城です。
ルンケー城の時代からホアルー城の時代の歴史はとても複雑で私にはなかなかスムーズに説明することができません。いうまでもなく唐の時代には安南都護府がハノイに置かれ、768年にはあの阿倍仲麻呂が都護に任命されて赴任していたとされています。しかし、その唐も907年には滅亡し、宋が建国されます。宋もまたヴェトナムを侵略し、諸勢力と度々戦争を行います。
しかし939年に呉権(ゴーグエン)がコーロア城で即位し、呉朝(~965)を建てると統一の動きが加速します。ホアルー城はこの後に設けられる丁部領(ティンボリン)が開いた丁朝(968~980)の都として機能しました。丁朝に次ぐ前黎朝(980~1009)もまたこの場所を都とし、李朝以後にタンロン(昇龍・ハノイ)に都を遷し以後1788年まで首都として機能します。タンロンについてはまた改めてご紹介することにしましょう。
さて、ホアルー城の所在するニンビン省一帯は海岸に近く、平地部ににょきにょきと飛び出している岩山は本来この地域が海中にあったことを示しているそうです。地盤が隆起したのか自然の沖積作用によるのかは分かりませんが、とにかく平野部一帯に岩山が飛び出ている光景は不思議なものがあります。
さらに驚いたのがこの岩山を利用して城郭が形成されていることです。岩山と岩山の間に土を突き固めた(?)土塁が築かれ、北からの侵入を防ぐ構造になっています。同伴した先生方の意見には綺麗には巡らないが、内城と外城が区別されていたのではという意見が圧倒的でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/4a/9539c6841042a97c035f127e3dd32721.jpg)
北の川も利用した防御的性格の強い都だったのではないかと思います。
(ホアンロン川がホアルー城の北の限りをなすのだろう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/24/9cf5b63f687853701cb78f23f2b8852d.jpg)
なお内部を流れる小河川に架かる橋には「鄽」(但し旁のオオザトがない)の文字のある石碑がありました。石碑には(碑文自体は新しいもののようですが)、橋と市という関係が見えて大変興味深く感じました。現在もホアルーの中では市が展開する場所だとも伺いました。その市が古代の城壁の外城と内城とを繋ぐような位置にあることも興味深く感じました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/9b/ebb3165ed8fb72b2f1dd5711688ac9dd.jpg)
さて、城壁の内部、内城の中心部には発掘調査によって発見された塼敷きの遺構が覆い屋で覆われて保存されています。残念ながら真っ暗闇で私のカメラでは光量が足りず十分な写真を写すことができませんでしたが、発掘調査を担当したリエンさんのお話によると、塼敷きが広範囲に広がっており、広場のような機能だったのではないかと仰っていました。塼の中には明らかにタンロンから運び込んだものもあるらしく、タンロン遷都後もこの地が利用されたことが分かります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/a7/6ef892df817416842b7a65d678bee2b0.jpg)
内郭の中心部には現在二つの寺院が置かれ、現在も村の各種行事に大きな役割を果たしていることが知られます。寺の前面にはやはり大きな池が設けられており、ヴェトナウの寺院全体に言えることなのかも知れません。寺院の一角が資料展示室として利用されており、これまでの発掘品や復元模型が展示されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/cd/94b5b2af84c39f60a8a8a2fe2a8fa6b3.jpg)
(寺院内部の展示室に飾られたホアルー城の復元模型。なかなかよくできた模型だった。当地に思いを寄せる人々の心意気の伝わる展示室だった。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/94/4f0612ac87559f7705a2150c70d63c36.jpg)
(寺院に保管されている輿、祭りの際に天地の神を乗せるのだという)
寺院の前面には小高い独立した「山の字形」の小丘があり、かつて聖廟が設けられていたところとして現在も崇敬されているという話でした。遠足に来ていた子供達が険しい道を登っているのが見えました。てっぺんに登ればホアルー城内郭が一望できたのですが、時間もなく諦めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b6/fbd8da684066433e72ed30b89c97199c.jpg)
(これは発掘調査地点付近から聖なる山を撮ったものです。この水田地帯のあちこちに塼が散布しています。タンロン王城跡は基本的に礎石建物が塼で覆われています。その原型が既にこの地で準備されていたのでしょう。両都の比較は大変興味深いものがあります。)
城内各所には現在も塼が散乱しており、発掘調査すれば壮大な宮殿跡が出現するものと思われます。
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