yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【最新情報(NEWS)】 ヴェトナム通信-5 ホアルー城と統一前夜

2005-12-28 16:36:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は問題の「10年会」の日です。
賀茂の川原近くの密室での会合がどうなることか・・・。


(2005.11.27~12.09 東アジア宮都研究共同研究・ヴェトナム調査団配布西村昌也氏編集資料集「Thanh Hoa Lu」を転載)

でもその前にまだまだ続くヴェトナム報告です。今回は4~10世紀に統一への道程を歩む「北属期」の歴史です。侵略→抵抗の歴史を繰り返しながら一歩一歩進む、ヴェトナム北部の代表的な遺跡ホアルー城からその一端を再現するものです。本当ならこの間に激しい戦闘の繰り返された歴史があるのですが、まだにわか勉強の私には十分こなすことができませんので、見学したところだけをご紹介いたします。

なお、予めお断りしておきますが、私は決してヴェトナム史の専門家ではありません。聞きかじり、読みかじりの断片的な知識を見学した遺跡の写真で繋いでいるだけです。密かにご覧になっている東アジア史の先生方には山中はこんなことも知らんのか、とお呆れのことと思います。先日の蓮田さんの文字表記の問題もきっとその一つだと思います。どうか間違いはどしどし指摘して下さい。私の勉強にもなりますので。

さて今回はハノイから南へ100㎞、車で2時間ほどのところニンビン省にあるホアルー城です。
ルンケー城の時代からホアルー城の時代の歴史はとても複雑で私にはなかなかスムーズに説明することができません。いうまでもなく唐の時代には安南都護府がハノイに置かれ、768年にはあの阿倍仲麻呂が都護に任命されて赴任していたとされています。しかし、その唐も907年には滅亡し、宋が建国されます。宋もまたヴェトナムを侵略し、諸勢力と度々戦争を行います。
しかし939年に呉権(ゴーグエン)がコーロア城で即位し、呉朝(~965)を建てると統一の動きが加速します。ホアルー城はこの後に設けられる丁部領(ティンボリン)が開いた丁朝(968~980)の都として機能しました。丁朝に次ぐ前黎朝(980~1009)もまたこの場所を都とし、李朝以後にタンロン(昇龍・ハノイ)に都を遷し以後1788年まで首都として機能します。タンロンについてはまた改めてご紹介することにしましょう。

さて、ホアルー城の所在するニンビン省一帯は海岸に近く、平地部ににょきにょきと飛び出している岩山は本来この地域が海中にあったことを示しているそうです。地盤が隆起したのか自然の沖積作用によるのかは分かりませんが、とにかく平野部一帯に岩山が飛び出ている光景は不思議なものがあります。
さらに驚いたのがこの岩山を利用して城郭が形成されていることです。岩山と岩山の間に土を突き固めた(?)土塁が築かれ、北からの侵入を防ぐ構造になっています。同伴した先生方の意見には綺麗には巡らないが、内城と外城が区別されていたのではという意見が圧倒的でした。



北の川も利用した防御的性格の強い都だったのではないかと思います。
(ホアンロン川がホアルー城の北の限りをなすのだろう)


なお内部を流れる小河川に架かる橋には「鄽」(但し旁のオオザトがない)の文字のある石碑がありました。石碑には(碑文自体は新しいもののようですが)、橋と市という関係が見えて大変興味深く感じました。現在もホアルーの中では市が展開する場所だとも伺いました。その市が古代の城壁の外城と内城とを繋ぐような位置にあることも興味深く感じました。



さて、城壁の内部、内城の中心部には発掘調査によって発見された塼敷きの遺構が覆い屋で覆われて保存されています。残念ながら真っ暗闇で私のカメラでは光量が足りず十分な写真を写すことができませんでしたが、発掘調査を担当したリエンさんのお話によると、塼敷きが広範囲に広がっており、広場のような機能だったのではないかと仰っていました。塼の中には明らかにタンロンから運び込んだものもあるらしく、タンロン遷都後もこの地が利用されたことが分かります。



内郭の中心部には現在二つの寺院が置かれ、現在も村の各種行事に大きな役割を果たしていることが知られます。寺の前面にはやはり大きな池が設けられており、ヴェトナウの寺院全体に言えることなのかも知れません。寺院の一角が資料展示室として利用されており、これまでの発掘品や復元模型が展示されていました。



(寺院内部の展示室に飾られたホアルー城の復元模型。なかなかよくできた模型だった。当地に思いを寄せる人々の心意気の伝わる展示室だった。)

(寺院に保管されている輿、祭りの際に天地の神を乗せるのだという)
寺院の前面には小高い独立した「山の字形」の小丘があり、かつて聖廟が設けられていたところとして現在も崇敬されているという話でした。遠足に来ていた子供達が険しい道を登っているのが見えました。てっぺんに登ればホアルー城内郭が一望できたのですが、時間もなく諦めました。



(これは発掘調査地点付近から聖なる山を撮ったものです。この水田地帯のあちこちに塼が散布しています。タンロン王城跡は基本的に礎石建物が塼で覆われています。その原型が既にこの地で準備されていたのでしょう。両都の比較は大変興味深いものがあります。)

城内各所には現在も塼が散乱しており、発掘調査すれば壮大な宮殿跡が出現するものと思われます。

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(接写図面以外はご山中章が撮影したものです。自由にご利用下さい)

ここでちょっとコーヒーブレーク。遼慶州城の白塔

2005-12-26 00:39:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
山田博士もちろん見ましたよ!(当方の不手際がありましたので慶州城の写真は割愛させて頂きました。申し訳ありません)

 ホントに綺麗だった!!但しここの管理人は最低だった!陵まで案内してやるから金を出せだの、それを断ると突然白塔の写真を撮るのにも金を出せだの、・・・これだから文化遺産を観光に使うと金の亡者が出てくるからいけない!と前から言っているのです。

今年の三月のことでした、山大の二人組と珍道中をしました。
とてもスリリングな旅でもありました。北京からシリホトまで飛行機で飛び、その後はタクシーを雇ってまた北京まで帰るという強行軍でした。タクシーを値切りすぎて途中でゴネられて、えらい目に遭いつつ、しかししっかりと草原の大都市上京、中京、上都、そしてご指摘の慶州城やヤリツアボキの祖廟も見ましたよ。

 3月というのはまだまだ寒いのですが、しかしその分草原の草が短くて、遺跡見学には抜群!!
 日頃の行いがいいと天も味方する、とにかくなぜか暖かかったのです。タクシーの運ちゃんも最後は機嫌を直して、帰って行きましたが、とにかく今年の三月は暖かい!と言っていました。
 しかし、暖かいとちって喜んでいられない光景をあちこちで見ました。特の驚いたのは上京の砂漠化でした。あんな都会(地方の小都市)の遺跡が砂で埋まりつつあるのです。もちろん主原因は洪水なのですが、それだけでないことは一目瞭然でした。最近の黄砂のひどさは特に中国で目に余りますが、その原因は内モンゴルの砂漠化にあります。真剣に緑化対策を今の内に取らないと!!

 とにかく白塔は綺麗でした。もっと素敵だったのは塔にかけられた銅馨が見事な澄んだ音を鳴らし遺跡中に響き渡るのです。うっとりでしたね。できれば側に素敵な方でもいれば・・・、残念ながら二人のおじ様ではねー。

 ごゆっくり写真をご覧いただけないのが残念です。その後訪れた遺跡の写真ならあるのでゆっくりご覧下さい。



(ついでに中京や上京の諸塔もご覧下さい。本当に綺麗だった。)


(中京の宮城の前にある塔です。なかなか見事な塔であると共に、中京自体が実によく残っています。)

(上京の南塔。)

(上京南塔の細部)

(上記南塔の拡大。)



(祖陵)


(祖陵奉陵邑の内部にある納棺施設)

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【最新情報(NEWS)】 ヴェトナム通信-4 ルンケ-城と交阯郡治

2005-12-25 21:57:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 国政の世界では、愚鈍な野党の党首が政権に媚びを売るために民族主義をあおり、今や御上に楯突く者は全て敵とでも言わんばかりの風潮、まさに戦前の国民総動員態勢のような様相を呈しているというのに、若者達はのんきに、実に個別的に、そんな政治の世界などまるで他人事のように、ただひたすら日常の「楽しさ」を追求して生きているようにしか見えません。
今日はクリスマス。私はキリスト教徒ではないからこの日に騒ぐ(もちろんキリスト教徒も騒がないはずだが・・・)気には全くならないのだが、世の中の若者達はよほどこの日にデートしなければ損したとでも思うのか、とにかく町は若者で溢れかえっている(とは言っても我が研究室のこの机の向こうには一人の女子学生が朝からずっと卒論に励んでいる。まだ一縷の希望があるのかも知れないが・・・)。



 (ルンケー城内に暮らす牛の赤ちゃん。あまりじろじろと見つめているとお母さん牛が怒って猛然とつっこんできた!牛ですらこの母性愛なのに、今の日本の母はどうなっているんや!情けない!!!この子牛の休んでいる穴も城壁の一部)




(城壁の周りを巡る堀の一部(西側堀))

 さて【ヴェトナム通信】は、第二弾!交阯郡治推定地の一つルンケー城に関する報告である。
 ルンケー城は二世紀に築造された堀と城壁で囲繞された都市遺跡である。もちろんまだ情報が不十分で、きっとどこかから二世紀にベトナムに都市があった等というのは日本の弥生都市論と同じで信じられるものか!という声が飛んで来るに違いない。まだまだ論文を読み始めたばかりの、にわか勉強の私が都市論など展開できる資格のないことは分かっているのだが、西村昌也氏の論考「紅河デルタの城郭遺跡Lung Khe城をめぐる新認識と問題」(『東南アジア歴史と文化』30 2001年)によるルンケー城と紅河デルタ地帯において2~3世紀にルンケー城を拠点に士燮が支配したとき、城内には多様な民族が、海を越えて他種類の物資を持ち込み、生産し、活動していた姿が蘇る。
 ルンケー城は2世紀から6世紀の初め頃まで営まれた城郭遺跡で、周囲の総長1800㍍の城壁に囲われ、周囲にはゾウ河の水流を利用して作られた堀がめぐっている。城壁の幅は20㍍を超し、高さは5㍍残存している。城壁の断ち割り調査によれば城壁築造のための基準溝が掘られていたと言うが、これについては疑問が残る。
 本来城壁の内部にはいるはずの東部には住宅街が広がっている。ルンケー城は後半期に東部が分割されたと言われ、そのことが今日の都市景観を作っているのかも知れない。

 
(ルンケー城の平面図-(2005.11.27~12.09 東アジア宮都研究共同研究・ヴェトナム調査団配布資料所載西村昌也「Lung Khe Citadel and the Red River Plain viewed from the recent archaeological studies」(ヴェトナム語標記のものは記号を省略) から転載)-。城内や城壁の数カ所で発掘調査が行われた。)

 国際都市ルンケーの証拠の一つがチャンパ文化に固有な人面瓦や水差し形土器、中国から伝わった青銅製銅鼓の製作のために用いられた鋳型の出土であろう。ヴェトナム中部や中国大陸などから人々が、水上交通の拠点であるこの地に集まったのであろう。西村氏はこの城跡を龍編条と推定し、一般的に言われている羸僂(こざとへん)城説を否定している。卓見であろう。


(コーロア城の銅鼓 複製品)


(交阯郡にあってまるで独立国家のようにして地域を支配したと伝えられる士燮―ししょう―の廟と伝えられる場所)

 ヴェトナムに仏教が初めて伝わったのもこの時、この場所だと言われ、現在もゾウ寺が遺跡の直ぐ東に所在している。これが事実だとすると、ベトナムへの仏教の伝来は日本より400年近くも早かったことになる。だから、ルンケー城から見つかる中・後期の主要瓦頭文様はいずれも蓮華文様なのである。
 ゾウ寺の伽藍配置はもう一つよく理解できなかったのであるが、正面の広場を挟んで小さな池があり、広場の奥に建つ建物の正面には3基の幢管支柱が確認できた(今はみすぼらしい?あまりしっかりしていていない柱が立てられているだけだが、お祭りの日には旗でもかけられるのだろうか?
 寺の中にはいると中央に塔があり、その奥に仏像が安置されていた。いわゆる金堂であろうか。もしそうだとすると金堂が廊下でつながり、先ほどの正面の施設と一体化している。塔を中心とした伽藍配置とも言えようか。


 
 (城郭外南域に仏教初伝の地にゾウ寺があった。しかしどこの坊主も腐っている。何かあると金を出せと迫ってくる。そんな暇があったら布教活動や慈善事業に精を出せよ!そうすれば自ずと金は集まるもんや!!むかつく!)

 コーロア→ルンケーと回った11月30日の旅は、ヴェトナム初期地域国家の形成と漢帝国の支配のあり方を実見することのできた貴重なものであった。朝鮮半島に所在する楽浪郡、帯方郡、玄兎郡などの漢の郡治については国家事情もあってなかなか実態をつかむことが難しい。しかし、ヴェトナム三郡(交阯郡、九真郡、日南郡)については遺跡が極めて良好に遺存している可能性が高い。考古学からの本格的な調査のメスが入れば、ベトナム国家史だけではなく、広く漢のアジア支配(それはいずれ隋唐のアジア支配)の理解にも大いに役立つものと思われた。一刻も早い本格的なベトナム人自身の精度の高い考古技術による調査体制の確立が求められる。

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(図面以外の写真は転載自由。引用不要。)

【最新情報(NEWS)】 ヴェトナム土産話と生春巻きパーテー

2005-12-25 16:26:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
本当なら一昨日辺りに「ヴェトナム通信-4 ルイケ城と交阯郡治」をアップしなければならなかったのだが、24日の名古屋古代史研究会の発表の準備やら何やらで時間が取られてしまい、果たせなかった。そうこうしている内に以前から決まっていた「ヴェトナム報告in三重」の日となってしまい、ますます遺跡紹介から遠ざかってしまった。その上さらに大雪!そこで今日は悪戦苦闘の雪との戦いとヴェトナム報告会の様子、生春巻きパーテーを実況中継することにする。

 21日夜以来の大雪で三重県北部から愛知県、岐阜県にかけては交通が大混乱。各所で交通が寸断された。にもかかわらず22日は非常勤に行っている鈴鹿国際大学で補講をしろというので、仕方なく車で出かけた。イヤな予感がし始めたのは大学を出て国道23号線の信号にさしかかった頃だ。急に前が真っ白になり、すごい勢いで風と雪が舞いだしたのである。いつもなら鈴鹿の後名古屋まで行かないといけないので電車で行くのだが、その日は鈴鹿だけなので車で行こうと決めていた。既に電車の時刻はとっくに済み、今更車を降りるわけにもいかない。仕方なく車を走らせるのだが、大学に近づくにつれてますます激しくなる。丘の上にある鈴鹿国際大学の駐車場は校舎の下にある。イヤな予感はさらに強まったのだが、仕方がない、雪で真っ白になりつつある敷地を駆け足で走り抜けて教室に入った。案の定学生は一人しかいない(三々五々集まりだして結局10人くらいになった)。今日の授業は鈴鹿最後なので、テーマは「墓」。もう君たちともおさらばだというサインだったのだが、果たしてどれだけ感じてくれたことやら・・・。
 無事最後の授業を終えて帰ろうとすると突然事務の担当者が入ってきて、今すぐ帰れと言う。大雪で車もバスも動かなくなりつつあるというのだ。もう2時限目以降は全部休講にしたからとも言う。「エエッツ」もっと早くしてくれればいいのに!内心不満を抱きながら、しかし今はそれどころではない。果たして車が動くかどうか、これが問題だ。

 真っ白になった駐車場におそるおそる近づき、エンジンをかける。何とか平坦地は動いてくれた。ところがである。坂に入ったとたん全く上がらなくなったのである。一度下まで降りて、エンジンを思い切り吹かせ、ロウやセカンドに切り替えを繰り返しながら、20分ほどかかってわずか数メートルの坂を上がることができた。しかしこれでは終わらない、まだ三重大学までは10数㎞ある。鈴鹿国際大学からの坂を下りるのが至難の業。途中でブレーキを踏むと、タイヤはロックされ、横滑り、アーもうおしまいと思ったその瞬間、車は幸いなことに歩道の路側帯で止まってくれた。それから三重大学までの長かったこと。止まるたびにスリップの恐怖を味わいつつ、いつもなら30分で着くところを2時間近くかかってようやく大学に戻ることができた。その二日前に京都でスタッドレスタイヤを買いに出かけたのだが、間もなく捨てる運命であることが間違いないボロ車のために5万円をはたく勇気が無く諦めたばかりである。アー、やはり買うべきだったか・・・。

 23日はヴェトナム報告会。他のゼミ生(東洋史の人たち)や我が研究室の卒業生がたくさん駆けつけてくれて、総勢25人くらいの観衆が集まった。元々ヴェトナム報告会は前座で、生春巻きパーテーが主目的だから、早く終わればいいものを、雪の関係で開始が遅れたこともあって、終わったのが12時半。きっと皆さん心の中ではブーイングだったのでは・・・。

 生春巻きパーテーは渡越前からの約束。だからホーチミンでは1000枚くらいのライスペーパーを買ってみんなの顰蹙を買った。おまけにベトナム人の友人がくれたお土産の中にもライスペーパーがあって、結局日本に帰って見てみると1500枚以上のライスペーパーの山が出来た。

 具は我が家からも調達し、学生の作ったのも含めてお腹一杯になるほど食べた。結局具が無くなり、ライスペーパーだけがまたまた残った。そのほかライスペーパー巻きのクレープもどきなどいろいろなものを作って楽しんだ。まだ仕事のある私は呑むふりだけして、ひたすら食べていたのだが、さあすがにそれではあまり食べられない。動くのが面倒なほど腹一杯食って第一次宴会は17時頃終了。
おまけは12月の学生のための誕生パーテー。
最後の打ち止めは百人一首大会。今時の学生でもするんだ?と思いながら読み手を務める。
 さらにオオトリはしっぺ付き坊主めくり。一番が叩き役、一番少ないものが掌の山の頂上に置き、一番がたたくという奴。盛り上がりましたなーー!残念なら私は後一歩のところで一番からビリに、でもしっぺは何とかくぐり抜けて誰かがたたかれる羽目に。私の手の下に博士の手があったらどれだけ楽しかったことか!

 そんなこんなの10時間。あっという間に過ぎて、それから翌朝まで名古屋古代史研究会の発表資料作り。
昨日は14時から16時半までじっくり「聖武東国行幸と朝明頓宮~久留倍遺跡第Ⅱ期遺構の評価をめぐって~」と題して報告。主な発表主旨は①第Ⅱ期遺構は4段に造成された各段毎に機能を違えて施設を配置した特異な遺構群であること、②特異な遺構配置と衛禁律行宮条の規定とが一致するのではないか、③これまでに全国で発見されている頓宮や離宮の調査事例は極めて少ないが、各遺構の断片的な資料を付き合わせるとこれらもまた、衛禁律や宮衛令の規定と合致するのではないか、④同様にして、宮都内部で発見される内郭構造を持つ施設群が離宮と推定された背景にはこうした律の規定が反映していたのではないか、等というものである。もちろんまだ正式な調査事実の報告もない中で結論を急ぐつもりはないのだが、その一方で、久留倍遺跡を単なる朝明郡衙・正倉として評価し、道路工事と折り合いを付けて保身を図ろうとする輩だけは許せないので、この遺跡が頓宮の可能性が高い(となるとこれまでに発見されたことのない世界で初めての遺構であることになる)ことを論証し、遺跡のさらなる評価と保存方法の変更(トンネル化)を求めてやった報告であった。内容の評価は分からないが、その後のこじんまりとした忘年会が楽しかったことだけは間違いない!?。

 AK大のMY先生、名古屋大の院生やODの皆さんなど6人で若者溢れる!!(ホント、地下鉄栄の駅が若者で溢れかえっていたのです)栄の町で呑んだのであります。
 MY先生とは初めてお酒を飲み、懇意に話をさせて頂いたのですが、実に楽しい方でした。聞くところによると前日も同じチェーン店の店で学生達と呑んだとか、とても高校受験の息子さんがいらっしゃるとは思えないエネルギッシュな方で、ヴェトナムに何で行ったのだとか、料理はうまいだろうなどと他愛のない話から、当日の発表の内容まで多様な話をして随分楽しい一時を過ごすことができ、久しぶりにビールの中ジョッキを5杯も飲んでしまいました。

 21時に名古屋駅へ向かったのだが、これまた若者で超満員。若いカップルの間に初老のおっさんが挟まって、お互いにきっと不愉快な思いだったに違いない。
 近鉄名古屋駅に着いた頃にはもうクタクタで、久しぶりに特急に乗って、これまた久しぶりに官舎に帰ってお風呂にはいることに・・・。ところがお風呂がなかなか沸かない。結局お風呂に入ったのは2週続けてゲットしたチャングムを見終わった24時過ぎ。お風呂から上がって、布団に入って、気がついたら朝の10時久しぶりに畳の上で寝た効果があった。今日は清々しい思いで大学へ。

 さてこれからもう一仕事!とパソコンに向かいブログを覗くと久しぶりの上野国住人様からのお便り。もちろん上州の方と同じ人物でないということは知っていたのですが、間違える人もいるんですね。但し、私も上州の方がどなたかは存じませんが・・・。

 なお、上野国の住人様のご心配を吹っ飛ばす朗報??を一つ。
今年に入り激しいバトルを繰り返し、彼の山口組と一志会の抗争に次ぐ今世紀最大の武闘?を繰り返してきた[やまやま博士’s]
(というコンビ名だそうですが・・・)も、組長の手打ちで和解することに。12月28日の夜,,場所は賀茂の川原に近い路地の奥の料亭?。手打ち式を仲介して頂くのはDJ大学のO先生。その立会人が元K新聞のA記者と古代史研究者SM博士(あるいは本年最後のスクープニュースとしてK新聞の一面を飾るかも・・・)。

 手打ちの条件は①たとえ相手が死に至ろうと今後一切お互いの食生活に苦言を呈さないこと、②どんなに素敵な方からドライブに誘われているという最新情報を得ようとも、ブログで暴露しないこと、③主のいない間にショバを荒らされてもショバを離れた当人が悪いのだから文句を言わないこと、④但し主のいるのを知ってショバ荒らしをした時はどんな攻撃を受けても文句は言わないこと、⑤2006年度はさらなる楽しいブログを作って全国の読者を喜ばせること、等々の予定。これから成文化して事前交渉をするつもり。待っててねー山田博士。

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【最新情報(NEWS)】ヴェトナム通信―3

2005-12-19 10:53:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(中塁の観察をする研究者達とこれに参加?する地元の中学生達)


日常が戻ってきてしまいました。川越先生のご葬儀の後、火曜日から金曜日まで働きづめに働いてほぼ24時間ずっと「仕事」に責め立てられ続け今を迎えました。先ほど学生の卒論指導がようやく終わり(とうとう午前様になってしまいました)、1週間が終了しました。長い長い苦しい1週間でした。その間にも次々と次の仕事を指示する電話やファックスが流れてきています。いずれも直ぐに返事をしろとうるさく迫っています。

衢では早くもクリスマスの予備デートとしてコンサートとフレンチの豪華なフルコースに出かけられたカップルもいらっしゃるとか(論文まで1本仕上げられて)・・・・・。大学の研究室の狭いベットに寝起きし、洗面台で頭を洗いながら、書かなければならない論文も書けず、ただただ仕事に追われて1週間を過ごした悲しい私は、少しだけの仮眠を経てこれから再び仕事の席へと出ていかなければなりません。某非常勤のCH大学の補講のため高浜市のかわら美術館に学生を連れて行くのです。その後直ぐに東京に向かい歴博の研究会に備えなければなりません。さすがにこれは一流の研究者の研究会ですから心が安まりますが、肉体的にはそろそろ限界に近づきつつあります。

お陰でくたくたです。その上信じられない寒さ!!ヴェトナムとの温度差30度はこたえます!
 にもかかわらず、その間隙を縫って主のいない伊勢の国を北から南へ荒らし回った奴がいるとは!なんたること!許せん!?
後一日待ってくれれば私めが博士の下僕として、まさに伊勢にご降臨あそばされた天照大神をご案内する猿田彦のようにご案内の役目を果たさせて頂いたのに・・・、残念。さて支離滅裂なコメントはこのくらいにして、今ほんの短い無仕事時間。こんな時こそ論文を書かないといけないのだが、とてもその気になれないので、ブログを再開することに。お約束のベトナム最新情報。とは言っても一番最近に(恐らく)遺跡を回ったという程度で、さほど新しい発掘調査情報があるわけではありません(それにしてもついこないだまで毎日楽しい遺跡探索をしていた私は何だったんだろうと首を傾げたくなります)。
ここまで書いてまたまたタイムアップ。土日は歴博の共同研究会に参加して日曜日の夜に帰宅したところ。


(中塁付近から見た外城西側の様子)

さて本論のヴェトナム通信ですが、最初は見学順に掲載しようかと思っていたのですが、どうもそれでは時間軸がわかりにくいし、私の頭にも入りにくい。そこで、遺跡の年代順にご紹介することにしました。

まずは日本の弥生時代に相当する紀元前後の遺跡・コーロア城です。次回は紀元後2~3世紀のルイケ城です。


(コーロア城の平面図。中心部は全体の南側に偏って建設されている。(2005.11.27~12.09 東アジア宮都研究共同研究・ヴェトナム調査団配布西村昌也氏編集資料集「Ban Do Khao Co Hoc Hien Nay Khu Co Loa」(ヴェトナム語の記号は省略) を転載))

コーロア城はハノイの中心部から北へ20㎞ほどいったハノイ市の郊外にある遺跡です。内塁、中塁、外塁と3重の城壁で囲われた巨大な遺跡で、外塁は周囲8㎞にも及ぶと言われています。外塁の外側には自然河川を利用した壕がめぐりそれはそれは壮大な遺跡です。道路工事に伴う発掘調査(日本の研究者で現地に住んでヴェトナム研究を進めている西村昌成さんによる発掘調査)も実施され、半径10数メートル深さ2メートル前後の楕円形の穴が一端掘削されて、掘立柱建物を建設した後、丁寧に埋め直した遺構が見つかるなど、ようやくその実像が明らかになりつつあります。


(発掘現場にて)

コーロア城がなぜ注目されるかというと、ヴェトナムで初めての地域国家ができた時の王・安陽王が建設即位したところだと推定されているからです。紀元前3世紀中頃のことと史書は伝えていますが、詳細は不明です。今回の調査には中国や韓国の考古学の専門家も加わりました。彼等の採集土器の鑑定によればどうもヴェトナム側研究者と年代観に開きがあるようです。彼等は中国の状況から出土土器の年代観が古すぎると評しております。せいぜい紀元前1世紀ではないかというのです。これだと安陽王にはつながりません。
もちろんいずれも採集土器片での評価ですからこれからきちんと発掘調査を実施してくめなければいけないことがより鮮明になりました。
次回紹介するルイケ城が前漢の武帝の建設した交阯郡の郡治ではないかと推定されています。ヴェトナムの歴史には中国の影が色濃く反映しています。国際的な共同研究の必要性がこうしたところでも感じられた一瞬でもありました。もしこれが安陽王の建設したものだとすると、日本の弥生時代の典型的な遺跡、大和唐古遺跡や吉野ヶ里遺跡の成立展開した時代と並行します。日本の環濠遺跡にこれだけの巨大な城壁で囲われたものはありません。大陸と地続きの朝鮮半島やインドシナ半島と日本の歴史に大きな違いが生ずる所以でしょうか。比較研究の醍醐味を最初から味わうことになりました。


(外塁の外をめぐる壕の一部。この近くで発掘調査も行われた。)


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【最新情報(NEWS)】 ヒロシマからの訃報

2005-12-11 14:13:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
帰国したら直ぐに山田博士の期待に応えて、山ほど書き込もうと張り切っていたのですが、関西空港に着いて電車に乗ろうとしていたその時、広島から電話があり、川越哲志先生が亡くなったと・・・。

出発の前日に広島で考古学研究室設立40周年記念祝賀会があり、その時、川越先生への退官記念論集を献呈したばかり。私は当日の午後三時まで久居市で講演会があり、出席できなかったことは前に書いた通り。すごく心残りだったのだが、まさかこんなことになろうとは。悔やんでも悔やみきれない!!

あえて川越さんと呼ばせて頂く。
私が学生時代にはまだ助手をなさっていた。まるで相撲取りのような立派な体格で、ひげ混じりの顔から出るしわがれ声は相当の迫力だった。そんな川越さんがやる考古学実習の授業が一番嫌いで、それでなくてもほとんどの授業に行ってなかった私は、もちろんこれもさぼりの対象だった。しかし全く行かないと単位がもらえないので、仕方なく2ヶ月に1回くらい顔を出していた。ある時、写真撮影の授業があったらしいが、もちろんさぼっていた私は授業を受けることはなかった。翌週だったのだろう、顔を出すとぶっきらぼうにこの写真を撮ってこい!と遠賀川式土器を手渡された(もちろん当時の私にはその土器が何であるかも十分には分かっていなかった)。

何だ、写真を撮ればいいのかと、親友の写真好きに手伝ってもらって、撮影し、現像し、焼き付けて意気揚々と持て言った。すると、「何やこの芸術写真は、考古学の写真はなこんなもんじゃ使い物にならんのだ!」と一喝され、やり直しを命じられた。もちろんどこがどのように悪いのかなど教えてくれるはずもない。こちらも意地でも聞くもんかと再挑戦することにした。今から考えるとあの写真は授業では確か乾板で撮ったはずである。しかし私は友達のキャノンか何かを借りて撮ったもので、そこから間違っていた。二度目の提出時には何にも言われなかった。要するに単位だけが欲しい私の魂胆など見え見えだったので、どうでもよかったに違いない。

今、大学にいると似たような学生に出会う。かつての我が身を忘れて怒鳴りつけ、説教を繰り返すのだが、きっと川越さんもそう思っていたに違いない。時々「どついたろか!」と言いたくなる奴もいる。
そんな川越さんと卒業後にお話しすることになろうとは想像だにできなかった。
1996年、いろいろな経過を経て、学位論文を出すことになった。先の経緯もあるので、私はかなりためらったのである。しかし、T大学のI先生の「まずは自分の大学に出すのが筋でしょう」というお言葉におされて、おそるおそる川越先生のところへ電話をかけた。もちろん当時の主任教授である。

「学位論文を出したいのですが・・・。」おそるおそる話を切り出した。
「いいよ、直ぐに出しなさい。こちらの学位論文の授与は2月の初旬だから、9月までには最終論文がいります。その前に見てあげるから6月までに下書きを送りなさい。」
まるで予想でもしていたかのような、段取りのいい、丁寧なご説明に、不思議な思いを抱きながら、論文の下書きを送った。実に丁寧に読んで下さって、あちこちに付箋を付けて送り返してもらった。
言葉の言い回しから、漢字の間違い、論旨の不明瞭な点など、心のこもったご指導にかつての自分の姿が恥ずかしくなる思いがこみ上げてきた。

実は学生時代に不良学生だった私は、5年も大学にいながら、発掘現場に行ったのは先に書いた岩田遺跡の一日だけで、ほとんど現場なるものに無縁だった。考古学専攻生と名乗るのも恥ずかしいくらいのお荷物学生だった。その上さらに、卒業時の卒論発表会で川越さんと大口論をしたのだ。

血気盛んな私は、「社会から目をつむって、発掘調査に逃げ込み、天皇陵の発掘調査すらできもしないで、何が古墳時代研究だ!」と。
もちろん、「考古学の「古」の字も知らないで何が考古学だ」と叱られた。いつもは和気あいあいの卒論発表会は殺気立っていた。本当なら不合格にしたかったのだろうが、とにかくこんなお荷物は早く追い出そうという気持ちが優先したに違いない。結局「良」の評価(もちろん、当時はみんな優だった)で卒業させてもらった。

もし私の今の立場でそんな学生が後に学位論文を出してきたらどうするだろうか。きっと不愉快きわまりないに違いない。でも川越さんは違った。1996年の9月に研究室にお邪魔した時には本当に涙を出して喜んでくださった。これが教育者なんだなと思った。

7年間で40人近い卒業生を出した我が研究室だが、昨年初めて卒論を通さなかった。断腸の思いだった。我が身を振り返った時、どうすべきか随分悩んだ。こんな私でも通してくれたのに、その私が学生の未来をだめにすることにはならないだろうか、一体彼と自分とではどこが違うのか。私の選択が正しいのかどうか未だに確信は持てない。しかしあえて言うなら、彼は結局何も自己主張することがなかった。考古学に対しても、卒業という社会的通過儀礼に対しても、どうでもよかったように見えた。



そんないろんな思いの詰まった広島へ悲しいお別れのために出かけた。

葬儀の後、同級生の同H大学の古代史学者N氏と呑み、久しぶりに、もう今は建物も何もない大学の敷地を訪ねた。広島電鉄のかつての「広大前」は、今は「日赤前」と名前を変えていた。多くの喫茶店が無くなり、わずかに懐かしい「平和書房」だけが残っていた。古本屋「エイス書房」にも足を運び、懐かしい本棚から本を買うことができた。90歳というのにまだ店に出ていた親父さんは、知ってか知らずか『広島県史考古編』や、篠川賢さんの『日本古代国造制の研究』、南部昇さんの『日本古代戸籍の研究』等7冊もの日本古代史関係の書籍をわずか6000円で分けてくれた。でも今年で店は閉めてしまうと言う。寂しい。

たった二日前の朝にヴェトナムから帰ったとは思えないくらい強行日程で、さらに実につらい旅であったが、これで一区切り着いたような気もした。さらばヒロシマ。次に訪れる時には新しい思いを込めて。



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【超最新情報(NEWS)】 ヴェトナム通信-2

2005-12-04 12:51:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
本当は画像も送るつもりだったのですが、やはりインターネット環境があまりよくなく、やっと繋がったと思ったらフエへの飛行機の時間となりました。
昨日までハノイ郊外のルイロウ城、コーロア城、藍京跡、胡朝城址など素晴らしい遺跡群を見て回り堪能し尽くしています!!

ホンと、山田博士に見せてあげたい!!

でも暑い!!乾期で涼しいなんて大嘘!!

体調も必ずしも万全ではないがあと少し頑張って吸収してきます。画像入りの報告は帰国後にします。ごめんなさい。

では博士本当に暫く見ませんから好き放題お書き下さい。

【超!!最新情報(NEWS)】ヴェトナム通信-1

2005-12-02 09:00:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
山田博士!ご油断召されるな!!私はちゃんとあなたの動向をベトナムからでも監視してマスからね。

世界は狭くなりました!
ナナナントベトナムの普通のビジネスホテルからこうやってインターネットにアクセスできるのです!ちょっとこましなホテルですがちゃんとデスクにはランケーブルが配されているのです。

でも明日はハノイ郊外の町手と丸野で書き込みも読むこともできません。よってとにかく私が二週間全くブログを見れないと思って油断している方に警告を発するために書き込みをすることにしました。

もちろん恐らくインターネットに接続できるのはあと一回ですからとりあえず今日までのベトナム通信をここにアップします。

残りはもちろん帰国後に。

11月27日日曜日 大阪関西国際空港発ハノイ行きにて出発18:55
同22時丁度にハノイ着。日本とベトナムとでは2時間の時差がある。

もちろん入国手続きやらホテルのチェックインやらで結局落ち着いたのが午前2時だった。翌朝はハノイ市内の見学である。前回のベトナム訪問時には全く訪れることができなかった地上に残る文化遺産を訪ね歩いた。

とここまで書いたところで激しい睡魔に襲われて、ダウン。今朝12月2日はこれからハノイの南郊外に一泊二日の遺跡探査の旅に出なければならず(朝6時起床、7時出発)、山田博士をちょっぴり脅かすだけでまた明日の晩までさようなら!

ちゃんと見てますからね!!