yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

備後国を訪ねて-3 品治駅家はなぜ彼の地に設置されたのかの条

2009-06-27 00:35:06 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 今日26日(もう明日になってしまった)は歴博での研究会出席のために東京にやってきた。

お茶大の皆さん、懐かしいな-と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 夕方懐かしいメンバーと会うためだ。
今から17年前(にもうなってしまったらしい)、木簡学会の会場手前の休憩用ソファーのところで、佐原真さんに呼び止められた。

「山中さん、学生さん要らない?」

これが彼女たち、お茶大考古学研究会の連中との付き合いの始まりだった。その懐かしいメンバー5人が集まって、東京駅近くの居酒屋でワイワイやった。一人を除きみんな独身というのが今時のインテリ女性の傾向と見事に一致する。来れなかったメンバーの消息なども聞くことができとても楽しい会を二次会も含めて23時近くまで過ごした。

  
 さて、備後国訪問の旅の最終回である。実は一昨日原稿を書いてアップする直前に用事が入って、しばらくして部屋に戻り、手直ししてから・・、と思って操作したとたんに原稿が消えてしまった。ショックで、なかなかそのままの原稿が思い出せない。仕方ないので、今東京のホテルで写真だけでもとにかくアップしておこうと思って始めている。

 品治駅家は現在の広島県福山市駅家にある。先にも書いたとおり、JR駅家というそのままの駅名まで残っている。長くその所在地は不明だったが、近年の発掘調査でその一部が明らかになってきた最明寺跡南遺跡がそれではないかという。



(道路拡幅工事に伴って推定地の一角が調査された。しかし残念なことに道路建設が優先され、遺跡は破壊されてしまった。)





(南に伸びる丘陵の先端部を切った切り通しがあり、これが山陽道に推定されている。駅家はその直ぐ北にあったらしい。)



(出土瓦には平城宮系のものや備後国府系の瓦が大量にある。)



(中にはこの様な重圈文鬼瓦も含まれており、山陽道駅家の特徴と合致する点も多い)



(現在も瓦が採集できるらしく、遺跡の一角に設けられた祠にはこの様に奈良時代の瓦が置かれていた。)



(以上の航空写真や遺物の写真は福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財調査団編『最明寺跡南遺跡』より)



(破壊された遺跡の壁に遺された説明板。)

 実はこの前に訪れた葦田駅家跡の途中で突然デジカメの電池が無くなったのである。勿論予備はいつも持って歩いているから予めポケットに忍ばせておいたものと交換した。、ところがである。

「バッテリーを交換して下さい」と出るのである。

「???今替えたジャン!」

 なぜかその交換用電池ももう切れていたのである。充電し忘れたのか、はたまた放電したのか、えらいことになってしまった。やむなく同行した学生にデジカメを貸してもらいながら、時々自分の携帯で写真を撮りながら進むことになった。



(その携帯(iphone)で撮ったあまりよくない画像。備後国品治郡の全景。佐賀田城から。)

それにしてもよく判らないのが品治駅家の立地である。確かに山陽道の切り通しのあるところにあり、播磨国の野磨駅家との共通点ともとれるが、切り通しの直ぐ北にあり少し雰囲気が異なるようにも感じられる。野磨駅のような大規模な築地によって囲繞された空間があるのか否かも問題だが、直ぐ近くには交差する道もなさそうである(唯一北、服部郷方面から備後北部へ抜ける交通路に近い点が注意されるが)。


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山田博士の再主張に接しての条

2009-06-24 02:05:20 | yaasan随想
 日本考古学協会での「歴博」の発表をめぐる報道のあり方、発表者のあり方について、先に山田博士のブログにかみついたところ、先ごろ博士から再批判、再主張が掲載された。

 14C AMS法も問題、年輪年代も怪しい、となると弥生時代の年代の基準は何処にあるんやと思うのですが・・・そう思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 追伸 このブログをアップして直ぐに、友人からいろいろな詳しい意見や情報を頂いた。それを読ませていただくと「なるほど山田博士が感情的になるのもわからんではないな!」と思いました。もしそうだとすると「大問題」です。たまたま今週末に全く別の研究会で歴博に行きます。きっと資料はあるでしょうから、もらってくることにします。その上で自分なりに、これだけの厳しい批判のある「資料」がいかなるものなのかきちんと把握して再度見解をまとめることにしようと思います。ただそうであればある程、思うことは、関係者が今回の件について学術雑誌で全面批判するべきではないかと思うのです。博士、是非『古代文化』で緊急特集を組んで問題点を明らかにして下さい。2009年6月24日11時12分追記

 
 今回の件については私はかなり冷静なので、新たな博士の主張についても、感情的になることは何もない。そして、博士が仰りたいであろうことは基本的に予想することができていた。一言!! 冷静に!冷静に!

 ただ誤解の無いようにして欲しいのは、私は協会に出席したわけでも、問題になっている弥生時代の年代観についての研究をしているわけでもないので、内容に立ち入って議論する資格はほとんど無いということである(そのことについては先にも述べた)。だから、「14Cが平均値」で示されたことも知らないし、どの様な測定経緯があるかについても全く関知しない。いずれ論文という形で公表されると思っている。だからその時点で私にも少しだけ議論に参加する資格が出ると思う。

 私が気にしているのは、どうもこの問題については両当事者共にえらく感情的なことだ。まさかそこに山田博士が参入してくるとは思ってもいなかったので、珍しく私の方が「少し冷静に!!」と諫めたに過ぎない。

 今回の新たな主張の展開にしても、相変わらず、「邪心」だの、「前期旧石器遺跡捏造事件」だの、ちょっと博士にしては感情的な言葉が乱舞しているところが気になる(どうもいつもの博士と私の立場が逆転しているようにも思える(笑))。これではお互いに感情的になって冷静な批判、反批判が展開できず、結局空しさ、徒労だけが残ることになってしまうように思うのである。

 特に、「前期旧石器遺跡捏造事件」まで例に出してこの問題を批判すると、なんだかこの報道をした新聞社が「捏造」に与しているかの如き印象を与え、きっと当事者はとても不愉快な気持ちになっているに違いないのである。私は関西版の記事しかみておらず、聞くところによると関東地方の記事はそうではなかったらしいので、それぞれの受け止め方は異なるのであろうが、自分が見た関西版の記事に関する限り、様々な異なる意見を同じスペースを割いて紹介しており、それほど一方的に意見を伝えていたとは思えないのである。
 ましてや、「捏造事件」を例に出すと、彼らの研究が「捏造」に近いと聞こえてくるし、博士の新たな批判でも、「平均」で出すのは恣意的であると書かれているから、少しそんな雰囲気も読み取れる。そしてそれを真っ先に伝えた新聞社はかの「捏造事件」と同じように「偽情報」に踊らされて一般の方々に誤解を与えている、と聞こえてくる。これはちょっと言いすぎではないだろうか。

 「平均」で示したことが問題であるならば、それこそ本質に迫る問題なのだから、会場にいらっしゃった博士(同じ意見を持つ人々)が堂々とその点を批判するべきだったと思うのである。その上で、彼らの「平均」がやはり恣意的だと考えざるを得ないのであれば、その様に批判し、撤回を迫り、平均でなければどの様な数値なのかを確かめ「得られた数値から言えることはこうだ!」と主張すべきなのではないだろうか。そうすればマスコミもその主張の正しさを理解し、反論のあることを記事にしたのではないだろうか。それをなさらないのに、終わってから「ああでもない、こうでもない」と言うのはちょっと??なのである。
 仮に考古学協会がそう言う雰囲気がないとするとそれはもう学問論争の場ではないということにもなる。
 事実に沿って、冷静に、論理的に追究するのが学問の道なのだから。
 
 勿論「邪心」の塊のような、揚げ足をとるだけの「説」を唱えている者がいることは事実だと思う。私もそうした者に気分を害されている一人である。こういう者に反撃を加えるのはとても難しい。なぜなら、反撃を加えれば加えるほど自分が惨めになるからである。だからどうしても感情的になる。感情的になると向こうの思う壺である。しかしそんな「言動」は放置できない!「どうしよう?」となるのである。
 せめて自分だけは「邪心」などなく研究するんだと言い聞かせるのだが、思い出す度にむかついてくる。何となくそんな博士の胸の内が判らないではないのだが、門外漢の私がいうのは適切ではないが、もう少し冷静に、客観的に、論理的に論破することを望みたい。

 私もいつか「邪心」の塊に冷静に鉄槌を下したいと思っているので。

 最後に老婆心ながらもう一言。やはり「前期旧石器遺跡捏造事件」を例に出すのはちょっと言いすぎではないですか。謝罪した方がいいと思いますよ。

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 山田博士の主張に接したので「備後国を訪ねて-3」はまた明日。

備後国を訪ねて-2 葦田駅・前原遺跡探査の条

2009-06-23 12:22:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 葦田郡から御調郡へ入って直ぐのところにあるのが樋ノ口古墳群である。その現地説明会の後、葦田駅、品治駅の現地探査に向かった。


 葦田駅面白そうだな、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 葦田駅は高橋美久二さんが推定される前原遺跡である。



(前原遺跡近くまで近世には船が上がってきたという)

 一般的にはその立地が他と異なる点を懸念するらしい。しかし、現地を見て直ぐにそうした批判がナンセンスであることを実感した。



(遺跡を南北に貫くJR福塩線)

 まずもって、山陽道はこの地を除いて通りようがないのである。




『延喜式』によれば山陽道はこの後、安芸国に入り、真良(しんら) 20疋 三原市高坂町真良か?梨葉(なしわ)20疋 都宇・津宇(つう) 20疋 鹿附(かむつき) 20疋(以上沼田郡)木綿(ゆう)20疋 大山20疋(以上賀茂郡)荒山 20疋 安芸20疋(下岡田遺跡 以上安芸郡)伴部 20疋 大町20疋 種篦(へら)20疋 濃唹(のお・おおの)20疋 遠管(おくだ)20疋(以上佐伯郡)と進む。『延喜式』では葦田駅の後真良駅まで駅がないことになるが、これ以前には者度駅家他一駅があったとされる。者度駅家は現在の御調町市付近に推定され、近世には石見銀山の銀を尾道の港まで運んだ石州街道との交差点に位置する。者度駅家を経て名称不明の一駅を鋏んで安芸国沼田郡の真良駅家へ至ったのであろう。(『倭名抄』に今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇とあり、沼田郡の中でも北寄りにこれら駅名と一致する郷名があり、御調郡を東西に横断してそのまま安芸国沼田郡へ入ったのであろう。)

 

(前原遺跡の平面図である。右が北。図の上を左右(南北)に葦田川が流れている。その川の大きく蛇行した東側の段丘崖を利用して葦田駅家が設けられたのであろう。方形に囲われた北東隅には大型の南北棟の礎石建ち建物がある。これは正殿というより倉庫なのでは無かろうか。武器庫或いは米蔵であろうか。上辺(西築地)中央に門が推定されているが、するとこの前を山陽道が通っていたのだろうか。)



(真ん中の看板の辺りが遺跡である)

 さて、葦田駅推定地の前原遺跡であるが、現地に来て驚いたことは、まるで関所のような立地をしていることであった。昨年12月に陝西省西安東郊外に位置する武関を再訪した。その武関の立地とそっくりだった。

 武関は、北西から流れてきた武関川が大きく蛇行した一角にあり、陸路ではその位置しか通過できない地点を塞いで配置されていた。武関は中国秦漢代以降の関所であり、前原遺跡は駅家であるという違いはあるが、交通管理の施設としてみるならばとてもよくにている。前原遺跡を駅としていいのなら、前原遺跡が関所のような防御的・軍事的機能を持っていたと見ることができる。




(武関のほんの少しだけ残る東側城壁の一部。文化大革命によって大半が破壊されたらしい。)



 (武関川の流れは東へ向かいやがて揚子江流域の武漢に至る.秦の始皇帝は最後の旅をこの関を越えて出かけたという。)



(武関城の南の城壁があったはずの場所を南の川岸から見たところ。鈴鹿川の流れととてもよく似ているのは偶然だろうか)


 先に訪れた播磨の大市、布勢、高田、野磨の駅の第一の特徴が官道とこれから枝分かれし、郡(国)内の関連施設(郡衙、港、正倉等々)へと至る道との分かれ道にあって、両交通路を監視できる位置に設置されていたこと(布勢駅家は山陽道と室津への道が分岐するまさにその交点に設置されていたし、大市もまた但馬への分岐点にあった)、第二に官道に敢えて切り通しを掘削し、その一方に駅を配置し、防御的機能を果たしうる地形を人工的に作り出していることであった(野磨駅家はその典型であろうし、高田駅家もこれに匹敵する)。

 前原遺跡は後者に酷似する立地を採る。品治駅家が軍事的機能を強固に有した駅であることがこれで判る。

 前原遺跡に行ってみたいな!と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

「葦田駅 汗ばむうなじに 川風が」
「前原を 守りし民に 初夏の風」
 企良
 




備後国を訪ねて-1 高橋美久二さんの墓前に誓う条

2009-06-21 18:11:08 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 昨日の土曜日には久しぶりに研究者らしい目的に沿った旅をすることができた。朝早くに新幹線に乗って、福山経由府中に向かった。
 山陽道駅家葦田・品治・安那駅を探訪しつつ駅家や関などの立地と景観との関係を調べ、その新たな視点構築のための調査であった。

 福塩線に乗ってみようかなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 以前、播磨国内の野磨駅、布勢駅、高田駅などを回ったことは既に報告したことがある。

 今回はその続きで、学生の出身地である広島県福山市駅家から府中へと山陽道をたどることにした。
 


(これがJR福塩線駅家駅である。山陽道備後国2番目の駅、品治駅に由来する。)

 山陽道が備後国へ入ると、国府に至るまでの間、安那駅、品治駅、国府を経てから葦田駅の3つの駅を通過したと考えられている。他に2駅あったが廃止されたらしい。
 現在の都市で言えば、広島県福山市から府中市へ向かう道沿いに展開している。何と品治駅推定地には「駅家」というJRの駅まである。

 前回同様、府中市の谷重さんに御案内いただいた。そして、谷重さんのお蔭で、とても素晴らしいところへ御案内いただいた!!

 高橋美久二さんのお墓である。



もし高橋さんが生きておられたらきっと喜んで御案内下さったに違いない、駅家から三重大学へ進学してきた学生が、山陽道駅家の研究をしたいというのである。

 途中、道ばたに咲いていたお花を摘んでお参りをした。高橋さんのとっても喜んでおられる声が聞こえてきたような気がした。
 そして、とてもとても足下にも及ばないのだが、大胆不敵にも高橋さんの山陽道の研究に挑戦しようという学生を伴っていたから、いろんなアドバイスを下さったと思う。


(決してお化けではありません!!あしからず。本人の希望により、お見せするほどの顔ではないということで?隠してあります。まるで高橋さんの亡霊みたい?何、高橋さんが怖がっているって?!(笑))

 有り難うございました。

 さて見学は先ず府中市歴史民俗資料館から始まった。ちょうど盈進学園 盈進中学高等学校の生徒さん達が土曜日の現地学習?とやらで見学に来られていた。谷重さんの立て板に水の説明に笑いあり、驚きあり、皆さん感動して聞き入っていた。さすが!そして驚きのセレモニーが。



 何と、昔々市役所のイベントで使った古代衣装がでてきたのでそれを子どもたちに着せているのだという。昨年は、修学旅行で奈良へ行った子どもたちに持って行かせ、薬師寺の前で着せて、記念写真を撮ったのだという。周りにいた外人さん達が大喜びで、みんな一躍大スターになったとか。




(こちらぼかしが入っております。失礼)

 とても柔軟な発想だ!!

 これぞ子どもで賑わう博物館!!

 今年は東大寺だけではなく、ナナナント、平城宮の東院庭園で着るんだそうな。楽しい!!こういう学芸員さんが全国にいるといいのにね。(それにしても子どもたちが東院庭園で古代衣装を着て写真を撮ってもいいか?と国に問い合わせると「ちょっと待って!」と即答してもらえなかったらしい。信じられん!!!そんなお役所仕事しかでけへん役人共が「学芸員課程の充実」なんて言うたって誰が信じるもんか!)


(この拓本、資料館へ体験学習に来た小学生が採ったのだという。どこぞの学生さん!ようみときや!!)


 さて遺跡見学だが、先ず備後国府推定地から歩き始めた。
 まだ残念ながら確定はしていないのだが、総社の眼下に広がる平地がそれらしい。総社の丘に登って驚いた、同行していた学生EYの妹が走り出したのである。


(今は小さくなってしまった備後総社の祠.宮司さんが後給さん。)


(眼下に広がる国府遺跡)

 ?? 一同不審に見ていると、帰ってきて一言、

 「ここは親しい先輩の家じゃ!」
 「後給さんちゅうんじゃ」

 「エエッツ!そうなんじゃ、世間は狭いな―」

といつもの言葉が出てきて一同大笑い。

 その後府中最古の寺院と言われる伝吉田寺跡(現金龍寺にはその心礎と言われる礎石が一基)をはじめ、市街地の中に点々と残る国府関連施設の調査現場を丹念に回っていただいて、二度目であった私にはとてもよく理解することができた。
 大規模な礎石建物の発見された正殿推定地がスパーに貸されている話し、国衙の境界に推定できる築地塀の跡、道路の交差点跡や、条里の余剰帯から推定できる道路跡、国府移転説の根拠となっている市役所裏の推定地等等を伺いながら、次々と遺跡を回る。

 昼ご飯は府中名物「お好み焼き」
 うまかった!!

 その後、前回の探訪の後、谷重さんから頂いた焼酎「駅家の女」を買いに酒屋さんに立ち寄り、

(ここしか売ってないらしい。1本1100円)
たまたま行われていた樋ノ口2号墳(後期古墳)の現地説明会へ。





(御調郡域に展開する樋ノ口古墳群の一部)

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この続きは明日ね。

(バックは高橋美久二さんの眠る備後府中常福寺の本堂)

「紫陽花の 花一輪を 備後にて」
「駅家訪う 学徒の背なに オオムラサキ」
「佐賀田城 オオムラサキや 国府の跡」
  企良

大極殿院朝庭南東隅の発掘調査見学の条

2009-06-19 04:35:41 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 6月17日には奈良文化財研究所であったとある委員会のついでに現在進行中の平城宮大極殿院朝庭の発掘調査現場を見学させていただいた。

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 明日の土曜日に現地説明会もあるので、是非ご覧に!!と言いたいところだが、一般の方にはちょっとマニアックな現場だった。勿論、宮都研究のプロなら必見なのだが、・・・。
 これが説明会の予定されている現場です。



右下の赤く塗ってあるところが発掘調査地です。

 たまたま見学に来られていた奈文研で研修中の皆さんとご一緒に説明を伺うことができました。





 久しぶりなので、現場に行くまで周辺をきょろきょろしていると驚いたのは復原中の大極殿の覆いが少しはがされ、その姿が何となく判るようになっていたことです。きっと間もなく一般公開されるのかも知れませんね(韓国ならどんどん公開してくれるんですが、ちょっとその辺が・・・。)。

 もちろん言うまでもなく今回の現場はこの大極殿の前に広がる広大な朝庭の一角でした。大極殿の復原に合わせて大極殿院一帯も整備されるとかで、これまで掘っていなかったこの部分を急遽発掘することになったのだそうです。これで大極殿院の東半分はほぼ完璧に発掘が済んだのだそうです。

 さてその成果なのですが、これがその説明図です。



 言うまでもなく第一次(中央区)大極殿院は平城京建設当時に造られた国家儀式の中心的施設で、前後の都にはみられない高い土壇の上に設けられた大極殿とその前に広がる広大な朝庭とからなる空間です。正月の元正朝賀の儀式をはじめとする重要儀式がここで行われ、中国のように周りに殿舎はなく、官僚全員が朝庭に烈立して儀式の進行を見守ったものと推測される。

 その朝庭には礫が敷かれ、玉砂利の空間だったことが判っているが、今回もその創立当初の礫敷きと、改修後のものが出ている(上層礫敷きと下層礫敷きがそれである)。


(上層礫敷き)


(下層礫敷き.微妙に礫の大きさが異なるようだ。)

 この上層礫敷きを切って長方形(東西22m、南北17m)の大きな土壙があるという。過去に行われた西側の432次調査でもほぼ対称位置によく似た土壙の一部が出ており、どうも左右対称にこの大きな土壙が掘られたらしい。説明によるとその機能がもう一つよく判らないのだ、可能性としてこの位置にたまる水によって条件のよくなくなった空間の土地改良の結果ではないかという。



(溝と土壙と大極殿。)



(向こうに小さく見えるのが朱雀門)

 確かにこの朝庭は広い石敷き空間であることに意味があるので、その場所が水溜まりでは困るのである。何でも穴を掘って直ぐに埋め戻し、再び石を敷いているとか。何で長方形なの?と聞きたくなるが、よほど几帳面な工事担当者だったのだろうか、きちんと工事をして埋め戻したらしい。その土壙の南に平行して東西に走る一本の溝がある。これが本来この空間の排水機能を果たした溝だという。たとえ南端とはいえ、石囲いもないえらくシンプルな溝があるものだな、と思いつつ眺めた。現場はその他にこの土壙や溝の周辺に広がる中層の礫敷きを確認しただけで、他に施設は機能不明の小規模な東西方向の塀が調査区北寄りにあるだけだという。

 遺物は南側を中心に軒瓦などが出ているが、基本的に少ないという。

 復原中の大極殿や南の朱雀門が見通せるので、平城京当初の中枢部の景観を確認するには絶好の場所でもある。改めて周辺を歩きたくなった次第だが、会議も迫っているので諦めて失礼した。

 御案内有り難うございました。感謝!!

 久しぶりに平城宮内を歩いてみるか!とお思いの方は是非お出かけ下さい.ついでにこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

「朝庭の 石敷きに落つ 汗の影」
「宮人の 居並ぶ列に 夏日差し」
「姿見す 大極殿に 初夏の陽」
  企良


すわ!激論!!大バトル開始か!?・・・・の条

2009-06-17 22:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今朝方、メールを開くと山田邦和という名が光った!
 
 やった!、博士からの本格的反論か!

と、恐る恐るメールを開くと、何のことはない、下記のような案内だった。相変わらずのご多忙な博士のご活躍を知ることになったのである。
 
 近代京都までご研究とは恐れ入るばかりなのだが、7月12日、我が愛する京都の研究である、さらに久しぶりの研究集会である、何とか顔を覗かせたいものだが・・・・。

ご都合のつく方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへとよろしくね。


皆様

平安京・京都研究集会事務局です。
いつも、平安京・京都研究集会にご理解と御助力をたまわり、ありがとうございます。
下記のとおり、第18回の平安京・京都研究集会を開催いたします。
今回は、平安京・京都研究集会としては初めて、近代の京都にとりくみます。
こぞっての御参加をお待ち申し上げております。

===========================================
第18回 平安京・京都研究集会

「京都の歴史イメージはどのようにつくられたか―公共の歴史学のために―」

「建都千二百年」から十数年、京都学や各種検定の盛行など、京都の歴史に対する関心は空前の高まりを見せている。その一方、歴史学をはじめとする人文学はその存在意義が問われているともいう。私たちはこの機会に、歴史学が社会とどのように関わってきたのかをそれぞれの時代の現場に即して検証したい。京都における歴史認識のあり方を、史学史としてたどるとき、私たちが直面している課題に対しても何らかのヒントが得られるのではないだろうか。

日 時 2009年7月12日(日)
シンポジウム  午前11時~午後5時

  場所 機関誌会館5階大会議室
     (京都市上京区新町通丸太町上ル東側、市バス府庁前下車すぐ、または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ徒歩5分)
  報告 入山洋子氏(元京都市市政史編さん助手・近代史)「西田直二郎の『京都市史』をめぐって」
     秋元せき氏(京都市歴史資料館・地方自治論)「大正期京都の都市計画展覧会の歴史的意義について―都市計画をめぐる歴史意識―」
     福家崇洋氏(京都外国語大学講師・近代日本思想史)「川島元次郎と海外発展史研究」
     高木博志氏(京都大学・日本近代史)「公教育と京都像」
  討論 司会:小林丈広氏(京都市歴史資料館・日本近世・近代史)

主 催  平安京・京都研究集会
後 援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
問い合わせは、「平安京・京都研究集会」事務局(山田方)090-9697-8052、電子メール<FZK06736@nifty.ne.jp>
===========================================
このメールは転送自由です。お近くでこうした会に御興味のある方がおられましたらぜひ転送してください。
なお、この案内がご不要の場合は、ご連絡ください。配信を中止させていただきます。

もう一つ情報を。同じくいつも連絡をもらうOI大学のNHさんからの展示会の転送案内である。


 滋賀県立安土城考古博物館館に寄託され、昨年7月に滋賀県指定文化財になった滋賀県近江八幡市の長命寺文書ですが、承保元年(1074)の寄進状を最古に、中世文書303通を含む膨大な史料群でありますが、これまでなかなか公開されることがありませんでした。
 今週明け9日より、7月20日まで、当館の第2常設展示室の7m程のケース
を用いテーマ展「新指定 長命寺文書展」を開催しています。
 長命寺文書のうち当館のテーマである佐々木六角氏と信長を中心に資料を選定
して12点を展示しております。
(内容は下記参照)
ご興味のある方は、ぜひご来館下さい。
 お手数をおかけしますが、研究者の皆さまにご案内の程、よろしくお願いいた
します。
 
★★★テーマ展 「新指定 長命寺文書展」★★★

◆趣旨・内容:長命寺は近江八幡市長命寺町に所在する古刹で、現在も西国観
音巡礼の第31番目の札所として多くの参拝者が訪れる単立寺院です。寺伝によ
れば、武内宿禰が開山で聖徳太子の創建と言われています。多くの古文書が伝
えられていましたが、その全貌は長い間明らかにされていませんでした。平成
12年度から14年度にかけて滋賀県教育委員会が行った詳細調査で、中世文書
303点を含む5,475点が確認され、これを受けて平成20年(2008年)7月23日、
「長命寺文書」として滋賀県指定文化財に指定されました。現在、長命寺文書
は滋賀県立安土城考古博物館に寄託されていますが、指定を記念し、その中の
12点をテーマ展示にて披露いたします。
 平成20年の新指定品全体は、同年8月9日から29日までの間、長浜市長浜城
歴史博物館で「滋賀県新指定文化財展」として公開されましたが、本テーマ展
では、長浜で公開された以外の、初公開6点を含む12点を展示します。長命寺
文書中で最も古い年紀を持つ承保元年(1074)の寄進状や、鎌倉・室町・安土
桃山時代に、長命寺が近江守護の佐々木氏や織田信長の家臣たちやりとりした
文書を中心に、長命寺文書を紹介します。
 また、長命寺文書の他、長命寺所蔵の釈迦三尊像・弥勒菩薩像・山越阿弥陀
像各1幅(ともに近江八幡市指定文化財)と、参考資料として長命寺文書の差
出人である徳川家康や織田信忠の画像(ともに館蔵)も展示します。

◆展示のみどころ:これまでほとんど公開されることの無かった長命寺文書の
中で、当館のテーマである、佐々木六角氏および織田信長関係の古文書を選ん
で展示します。信長の家臣の中でも文書残存数の少ない家臣(中川重政・坂井
政尚)や信長の嫡男・信忠の書状案なども初公開となり、注目できます。ま
た、承保元年(1081)の寄進状は、県内でも数少ない平安時代の古文書です。

◆期  間 平成21年6月9日(火)~7月20日(日)

◆会  場 滋賀県立安土城考古博物館第2常設展示室

◆開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)

◆休 館 日 月曜日

◆入 館 料 大人400円(320円)、高大生250円(200円)
       ※ただし7月18日(金)~20日(日)は、企画展料金となり大人
450円(360円)となります。
     ※( )は20人以上の団体料金です。 ※信長の館との共通券
もあります

◆主な展示資料(長命寺文書、□は滋賀県指定文化財)
          ※所蔵者は館蔵の肖像画二幅以外、すべて長命寺です
     □奥島庄司土師助正畠地寄進状:長命寺の近くにある奥島庄の庄司
である土師助正が、亡父の遺志により船木郷にある先祖伝来の畠地を長命寺に
寄進したことが記されています。11世紀後半の、非常に古い古文書です。初公
開。
     □長命寺由緒書:大永6年(1526)に延暦寺西塔の快重という僧が記
した長命寺の由緒。長命寺が聖徳太子の創建で観音菩薩の霊場であることなど
の由緒が記されています。初公開。
     □佐々木泰綱袖判下文:佐々木氏の中で、鎌倉時代に初めて六角氏
を名乗った泰綱(?~1276)の花押が据えられた命令書。長命寺と大島神社神
主との相論の裁定を下した内容です。
     □佐々木頼綱書下:泰綱の二男の頼綱(1242~1310)の命令書で
す。琵琶湖の網人と長命寺の漁場をめぐる訴訟に対して指示を行っています。
     □佐々木時信奉加状:鎌倉幕府滅亡時の六角氏当主である時信
(1306~1346)が、長命寺に馬一疋を奉納することを記した文書です。
     □佐々木定頼書状:室町時代末期の佐々木六角氏当主である定頼
(1495~1552)が、長命寺浜に滞在していたとき贈られた銭に対して礼を述べ
た手紙です。初公開。
     □天文四年十月結解米下用状断簡:長命寺が支出した銭や米の額と
用途を記入した出納帳。本資料は天文4年(1535)のものですが、長命寺にはこ
の前後の下用状が多く残されています。法要や寺の出費の他、佐々木六角氏の
依頼で輸送や軍事に船を出した際の出納なども記されていて注目されます。
     □丹羽長秀・村井貞勝連署書状:永禄11年(1568)年の秋、信長が近
江に侵攻した直後の11月24日に、家臣の丹羽・村井を通じて長命寺の領地を保
障したもの。
     □織田信忠書状案:織田信長の嫡男・信忠が信長家臣の丹羽長秀に
宛てた書状の写。長命寺をこれまで同様に保護するように気に掛け、柴田勝家
にも伝えるよう記されています。初公開。
     □坂井政尚・柴田勝家連署書状:信長の家臣である坂井・柴田の二
人が連署して長命寺に出した書状。信忠の指示により、長命寺に無理難題を持
ちかける事を禁じ、長命寺を保護しています。年代が記されていませんが、坂
井が元亀元年(1570)11月に戦死するので、それ以前のものです。初公開。
     □中川重政書状:中川重政は、元亀元年に信長によって安土に置か
れ、柴田勝家とともに蒲生郡を任された家臣です。その後、柴田との所領争い
となり没落してしまいます。この書状は、長命寺が納めた税金について柴田と
中川の間で行き違いがあった際のやりとりを示すものです。初公開。
     □徳川家康禁制:慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に対し、家康が長
命寺を保護するように命じたものです。

◆関連行事 *ギャラリートーク
        日  時:6月14日(日) 午前11時~11時30分
             7月12日(日) 午後1時30分~2時
        場  所:当館第2常設展示室
               ※参加は無料ですが、入館料が必要です。
◆問い合わせ先 滋賀県立安土城考古博物館 
          〒521-1311 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦6678
          Tel 0748-46-2424   Fax 0748-46-6140
E-mail:gakugei@azuchi-museum.or.jp
URL http://www.azuchi-museum.or.jp/


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山田邦和博士の意見に対する疑問の条

2009-06-16 12:00:00 | yaasan随想
山田博士の発言どう思います?ご意見のある方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 私は日頃から山田邦和博士の行動力には深い敬意を表している。よくぞあれだけフットワーク軽やかにあちこちに出没し、会議をこなし、講演をし、そして山ほどの御高論をモノされるものだとと感心するのである。

 今回も東の考古学協会総会に出たかと思うと、翌週には「文全協」の記念集会をこなす。よくぞ持つものだと、10歳の年齢差を越えて感心しきりなのである。

 ただ、先日の考古学協会前の歴博の研究成果報道にはよほどカチンと来られたらしく、その行為を「自分の学説の既成事実化をたくらんだ」とか、彼らには「「前科」がある」等と博士にしてはえらく冷静さを欠いたお言葉が並んだのである。
 以下はその抜粋である。

「 もうひとつ、総会では執行部と実行委員会にお願いをした。それは、29日金曜日の朝日新聞朝刊を見て仰天したからである。そこには、「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」の大見出しが踊っていた。これはマズいことになった。こういうことは、学会で発表して相互に議論した後にマスコミに出すのが本来である。事前にマスコミに流すというのでは、マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない。以前にも、この研究グループの弥生時代の開始年代をめぐる放射性炭素年代測定法の成果発表の際、前日にマスコミに報道されたという「前科」があった。その結果どうなったかというと、日本考古学協会の研究発表会の会場は超満員になってしまった。おそらくそこには、考古学協会員以外の人々がかなり参加していたはずである。もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない。しかし、考古学協会の研究発表会の意義は第一義的には協会員同士の討論というところにあるのであり、したがって私たち協会員は研究発表を聞く権利を有しているはずである。その権利が侵害されることではいけないはずである。今回もそのような危惧があったので、円滑に研究発表会がおこなわれるようにお願いをしたわけである。」


 確か、歴博の研究は歴博の独自予算で展開されているもので、日本考古学協会の補助金をもらっている(そんなものがあるのかも知りませんが)とか、何か紐付きの制約があるものではないと思います。である以上、何処でどの様に発表するかはその研究者の勝手だと思います。自説を多くの人に聞いて欲しいのは誰でも同じであり、それを一部のマスコミと結託してパフォーマンスしたかの如き言動はちょっと差し控えるべきではないでしょうか。

 以前に申しましたように私は考古学協会員ではないので、総会の実態を知らないのですが、「学会」が必ずしも議論の場として機能しているわけではないという「噂」を聞いたことがあります。不正確なことで申すべきではありませんので、その「噂」を前提にはしませんが、学会として本当に「高度な学問レベル」で議論をなさるのなら、その議論の場に非会員を入れなければいいのではないでしょうか(あの、お断りしておきますが、私はそうせいと言うているのではないのですよ。そんなに一般の人が来て困るというのなら、閉め出したらと言っているだけですよ。私は一般の人がそんなに来てくれるなんて羨ましく思いますが。)。

 もちろん開かれた学会を標榜なさるのだからそんなことはできない!と仰るのかも知れませんが、それならそれで、別に場を設ければいいのではないでしょうか。 
 専門的議論にマスコミを入れる必要もないでしょう。そこで議論された結果を判りやすく報告すればいいのではないでしょうか。市民に対しても同じです。

 考古学の発掘現場を市民に開放するために「現地説明会」をするのと同じです。専門家にはそれぞれ別の機会に現場を開放しているはずですから。しかし、これとて、マスコミの「スッパ抜き」に困惑することは多々あります。時には二度とこんな新聞社・放送局には見せてやるもんか!等と感情的になることもあります。しかし、それも所詮マスコミを「利用」していることと大して変わりません。

 今回歴博が事前に朝日新聞にリーク(したのかどうかも私は知りませんが、博士の書きようはその様にも読めます)したとしても、それを私たちが非難する権利は何処にもないと思います。それこそ、学会を通した大本営発表でないとけしからん!!ということになれば私たちは自由な研究などできないからです。実は、私はこれが嫌で考古学協会には入らないのです。今の協会がそうだというのではありませんよ。でもかってそうなりかけたことがありました。だから入らないのです。

 私は弥生時代や古墳時代前半期の研究はしていませんので、軽はずみな意見は申せませんが、「考古学概論」という授業を通して、考古学の年代論を講義致します。その立場から少しだけ意見申しあげますと、
「当該期以前の絶対年代、つまり「西暦何年の頃の遺跡とか、今から何年前の遺物」という表現の根拠には、①数少ない文字資料との接点(例えば今回の場合ですと『魏志倭人伝』が絶対年代を基に描く歴史叙述の原点になっています)があります(もちろん縄文時代以前はほとんど文字資料との接点を持つことはありません)。そして遺構や遺物の年代については②14Cや年輪年代学(より古くなればフィッショントラック法等も)によって導きだされる年代データーを目安にします(古くなればなるほど、誤差は大きくなりますが、これらにしか今のところ絶対年代を与えてくれる資料はありません)。その上でその年代が③型式学によって導きだされた様々な同時代資料の組み合わせと矛盾しないか検討します。こういう3つのクロスチェックでもって初めて標記のような表現ができるのです。」と説明します。

 悲しいかな、今回用いられた土器も含めて、そのものが「○○年」とは教えてくれません。しかし長年の諸遺物の型式変化を基礎にした編年によって、かなり「○○年」に近づきつつあります。ただしあくまで近づきつつあるに過ぎず、型式学による編年に与えられる絶対年代は研究者によって相当異なります。そんな中で出されたAMS法という最新の分析結果です。
 私もよく知っている歴博の研究者が、近世から縄文時代に渡る幅広い資料を何度も実験し、分析した結果だと聞いています。随分「更正」されて、進化した分析法になったと聞きます。これを参考にせずして何が使えるというのでしょうか。別にそんなに目くじら立てなくてもいいではないですか。博士のいつもの穏やかな包容力で、

「嗚呼そうか、そう言う年代を示す分析結果もあるのか。ならばその仮説を基にもう一度これまでの編年を見直してみようか」

こう捉えたらいけないのですか。
 「研究成果、分析結果としてこの資料はこんなデーターを出した」その事実を冷静に受け止めてさらなる型式学よるクロスチェックをすればいいのではないでしょうか。歴博がパフォーマンスをし過ぎだとか、売名行為だとか(そこまでは言ってないか、ゴメン)言うのは一般の方の感覚ならいざ知らず、研究者としては冷静さを欠くように思います。

 ついでに申しておきますと、昨年の木簡学会が始まる直前に、木簡学会の会長の栄原永遠男先生は、紫香楽木簡の過去の資料を再検討したところ、紀貫之によって、『古今和歌集』の仮名序に歌の父母として紹介されている『萬葉集』に掲載されている「安積山の歌」と掲載はされていないが当時誰もが知っている歌として指摘されていた「難波津」の歌を表裏に記載した木簡が確認出来たと大々的に発表しました。その内容は数週間後の木簡学会の主要研究発表内容でした。或いはこれも、『萬葉集』を研究なさっている国文学の方には結構不評のようでした。なにせ、定説が覆る可能性を持った内容ですからね。

 これなども博士流に言いますと「たくらみ」ということになります。今回のものと全く変わりません。しかし学会は別に大混乱も停滞もしませんでした。マスコミの参加も、一般の方の聴講ももともと一切認めていませんので。唯一、『萬葉集』研究者の会員外参加を認め、希望者に開放し、議論への参加を依頼しました。異論を大いに聞こうという姿勢です。
 だからといって、学会を閉鎖しているわけではありません。研究会の成果は学会終了後マスコミに記者会見して報告され、そのことも後日報道され、国民の広く知るところとなりました。

 私はこうした一連の動向を「前科」とか「たくらみ」と言う気には全くなりません。基本的に情報はどんどん公開されるべきだと思います。はっきり言って、学会で精査されたものだけが出されるとろくなことはありません。どっちかというと木簡学会より考古学協会の方法の方が私は正しいと思います。だからといって、その学会の運営に差し障りがあるから「困る」というのは言い過ぎではないでしょうか。

 どんどん情報を出しましょう!!どんどん公開しましょう!研究者も一般の人も自由に発言すればいいではないですか。そうすることによって裾野が広がります。その意味からももっともっと考古学の専門家のブログが増えて欲しいのです。そして情報を流し、いろんな議論をしようではありませんか。

 どんどん自由に発言すればいいと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 「箸墓の 主を知るかと 蛙聞く」
 「春学会 集まる人に 力なし」
   企良 




『朧谷寿先生古希記念論集』原稿を書き終えての条

2009-06-15 00:16:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 朧谷先生ごめんなさい!
 山田博士怒らないでね!!!
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 ここのところ少し元気になってきた。なぜならば、標記の通り、最後の最後に突然筆が止まってしまい、一度はもう諦めようかと思った原稿を先月末にやっと書き終えることができたからである。胸のつかえが下りたかのように他の仕事もスムースに進み出した。

 6月に入ってからほぼ2週間、その間に授業以外にやったことといえばこんなにある。
 6月1日 大森俊輔追悼文集の印刷について協議
 6月2日 文部科学省へ学芸員課程教科改定について講習会
 6月3日 大学内重要案件のための会議
 6月4日 『大森俊輔追悼文集羽化登仙』入稿
 6月6日 第1回宮都探訪会長岡京見学会
 6月8日 『延喜式』研究会での報告(大舎人寮式前半)
 6月9日 大学内重要案件のための会議2件
 6月10日 教授会と重要案件のための資料作り『羽化登仙』校正
 6月13日 第1回久留倍遺跡と大矢知出張セミナー講師
 6月14・15日 重要書類審査

 忙しいのは性分なので仕方ないとして、我ながら、ようこんだけ種類の違う仕事を次から次へとやるわ!と思う。
 この中で楽しかったのは『延喜式』研究会(といっても東京のあの本マモンとは違いまっせ、身内のささやかな研究会。この前は五人だった)での報告。『大舎人寮式』いつももうちょっと勉強しておけばと後悔ばかりなのだが、それでも新たな資料(発想のための史料)を得ることができた。正月元正の儀式と威儀具についてである。今度の東京の本マモンの『延喜式』研究会は7月4日(土)國學院大學学術メデアセンター一階常磐松ホール12:30かららしい。
 ① 黒澤舞「伊勢神宮五節舞成立に関する一考察―祭祀と芸能について―」
 ② 佐藤雄一「古代諏訪信仰の始まりとその変質」
 ③ 稲葉蓉子「『延喜諸陵式』の成立に関する一考察」
だそうだ。
 なかなか難しそうだが少し興味のある報告だ。こっそり行ってみたいのだが・・・。
そんな心のゆとりもできつつある。

 さて、駄文はというと・・・。

 朧谷寿先生とはもう二十年近くも公私ともに親しくさせていただいている。特にここ十年くらいは先生、私、SM博士、山田邦和博士、そしてAEさんの五人で年に一二回豪華な宴会を楽しんできた。
 先ず私個人では絶対に行くことのない祇園界隈のお店に連れてってもらったり、鴨川の床を初めて体験させてもらったり、京都市内のあちこちの穴場の豪華な京料理に誘っていただいたりと、その会ごとの会話の楽しさも含めて至極の楽しみを教えてもらった。

 その先生が今年の3月28日に無事古希をお迎えになり、本当ならその日に本を献呈するはずだったのだが、予想通りというか、情けないことに約束が守れず、本を献呈するどころか、原稿さえお見せ出来ず、やっとこんなことになったのである。

 題して(というほど大した論文ではないのですが・・・ごめんなさい朧谷先生、本当に情けない原稿で、先生の顔に泥を塗るようなものになってしまって。先生の古希をお祝いする会の代表世話人として先に謝っておきます。)「古代王権の伊勢支配~布勢内親王所領の伝領過程から~」という、本来なら平安時代のことを主題とせねばならないのに、最後の最後に無理矢理平安時代最初の斎王布勢内親王とひっつけただけの論文となってしまった。

 以前にも書いた拙文
① 「伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国荘」(三重大学考古学・歴史研究室『三重大史学』第2号 1-14頁 2002年)
② 「伊勢国一志郡における古代地域支配の形成過程」(『三重県久居市上野遺跡に関する総合研究』75-83頁 2002年)
③ 「伊勢国北部における大安寺墾田地成立の背景」(三重大学歴史研究会『ふびと』第54号 1-25頁 2002年)

中でも①にまとめたことをさらに広げて、なぜ飯野郡・多気郡に天武・聖武・桓武王権が広大な土地を確保し得たのかについて分析した。私にとって、結論はそんなに新しいものでもないので、満足感が少ないのだが、駄文を書く途中で様々な面白い資料に行き当たった。これは今後の論考に是非活かしていきたいと思った。
 
 それにしてもなぜ飯野郡・多気郡にあれだけ広大な土地(駄文での分析により400町は超えることが判った)を王権が相当前から(6世紀初め頃)直轄支配していたかがようやく見えてきた。この素材は再来週から始まる歴博での広瀬和雄さん主宰の「新しい古代国家像のための基礎的研究」に大いに役立ちそうである。

 本当に朧谷先生に献呈する論文としてはどうしようもないものなのだが、何とか終えられたことだけが今の私の心身を自由にしてくれている。事務局長・山田邦和博士様、本当にごめんなさい。そして出版して下さる思文閣の皆々様、お許しを!



(これがその駄文での結論的図面。)

刊行の暁には是非買って下さいね!!私の書いたページ分くらいは差し引いて安くお分けしますから。

『朧谷寿先生古希記念論集』(思文閣出版)買ってみよう、と思われる方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

よろしくね。

「 朧月 過ぎたる先に 針の光 」
「 夏来たり 牛歩でさえも 有り難き 」
「 615 知る若者もなく 手を合わす 」 
 企良

第1回久留倍遺跡セミナー「久留倍前夜」講演の条

2009-06-14 15:41:45 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 昨日は「あなたの町で楽しい歴史文化のミニ教室開催! 久留倍遺跡と大矢知 第1回出張セミナー「と題した講演会で話しをさせていただいた。

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(第1回は久留倍遺跡を調査担当されている服部芳人さんとの共演であった。)

 今回を皮切りに久留倍遺跡周辺の旧村に設けられた市民センターを会場に講師を替えながら開催し、市民に地域に対する理解を深めてもらおうという企画である。

 ただし、驚く事なかれ、これ全て市民の皆さん、「久留倍遺跡を考える会」の皆さんが企画立案されたものである。私はある日突然こんなことするから第1回目の講師を引き受けて欲しい、第2回、3回の講師を捜して欲しい、といわれただけである。

 全て手作り!

 そしてまさに地域に根ざした、地域住民の、地域住民による企画である。

 それでこれだけ、百人が参加された。びっくり仰天である。



 内心は少し心配していたのである。定員百人!とチラシに銘打ってある。そんなに来られるんだろうか?もうそろそろ皆さん久留倍については熟知されているから、・・・ましてや僕の名前なんぞはもう何十回も出ているから、聞き飽きた!!
ところがこれである。会場一杯の聴衆を前に、今回は趣向を変えて、大学の講義風に、黒板を使い、パワーポイントを補助として話しをした。




 もちろん断るわけがないから直ぐに第2回の講師交渉に当たった。予定していた先生のご都合が付かず、日程もあれこれ変更しながらやっと決まったのが次のようなものだった。

第1回 久留倍遺跡と大矢知
   日時 2009年6月13日(土)
   会場 大矢知地区市民センター
   講師 「久留倍遺跡の全貌」 服部芳人(四日市市教育委員会)
      「久留倍遺跡前夜」 山中 章 

第2回 久留倍遺跡と八郷
   日時 2009年10月24日(土)
   会場 八郷地区市民センター0539-65-0259
   
   講師 「伊勢・志摩と木簡」 清水みき(三重大学非常勤講師)
      葛山拓也(四日市市教育委員会)

第3回 久留倍遺跡と朝日
   日時 2010年1月9日(土)会場 朝日町歴史博物館
   
(TEL 059-377-6111)
   講師 「久留倍遺跡と縄生廃寺」岡田 登(皇學館大学教授)
      四日市市教育委員会職員 

 今回の私の話は「なぜ久留倍遺跡へ大海人皇子や聖武天皇は来たのか」?そもそも伊勢と大和王権とはどの様な関係にあったのか?というのがテーマだった。

 壬申の乱において美濃の湯沐を利用したことはよく主張されるのだが、なぜ伊勢に入り、桑名に拠点を置いたのかについてはあまり検討されてこなかった。その背景を次のように考えてお話しした。
 ① 井田川茶臼山古墳の築造によって、古墳時代後期の継体(男大迹王)王権は伊勢支配の拠点を後に東海道と呼ばれた東への重要交通路上に確保したこと。
 ② その後、東海道だけではなく、後に鈴鹿関と不破関を最短距離で結ぶ「伊勢道」と呼ばれた道を確保し、大和から東国を支配する上で欠かせない交通路の確保を果たしたこと。
 ③ その証拠として知られるのが、大安寺に施入された広大な土地であり、その土地の推定地に残されていた古墳から見付かる脚付短頸壺だったこと。

もちろん既にこうしたことについては先に刊行した『久留倍官衙遺跡と朝明郡』と題する冊子で紹介しているところだが、それを一般の人に判りやすくお話しした。
 
 最後に質疑に入ったところ、1人の若者から意外な質問を受けた。

 「先生は考古学のプロフェッショナルをどの様にお考えですか?」

一瞬何を問われているのか判らず口ごもってしまったが、ようやく例の『プロフェッショナル』というNHKの番組とかけて問われていると思い、次のように答えた。

 「考古学者のプロフェッショナリズムとは、考古学に欠かせない遺跡の保護、保存に全力を傾けること、これに尽きる」と。

 質問者に後で話しをすると、とても素晴らしく、よく判ったと言ってくれてホッとした。

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『大森俊輔追悼文集  羽化登仙 』間もなく刊行の条

2009-06-09 23:00:50 | yaasan随想
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(題字は言葉もデザインもご両親の手になるものです)

 大森俊輔君が交通事故に遭い、2週間の闘いもならず、旅立ってから間もなく一年が経とうとしている。もう一年か?、まだ一年か?不思議な感覚に襲われるのだが、現実は彼がここにはいないということだ。

 そんな彼の二〇年を形に残したいと思った。
 昨年の秋、ご自宅へお伺いし、ご両親に少しこのお話をした。とても喜んで下さった。それから半年あまり、同級生や後輩、先輩や彼に講義をした先生方、一緒にベトナムへ行った仲間達が一文を寄せた。

 特に嬉しかったのはご両親から、毎年の年賀状に認めてきた文章と写真を自ら編集して下さってお送り頂いたことだった。こんな風にお子さんの記録をきちんと残していらっしゃることにも感動した。だからあの素敵な個性が形成されたのだと理解した。それだけにその個性が亡くなったことに改めてショックを覚えた。

 追悼文集の書名もお願いしたところ

 『羽化登仙』





 と下さった。さすが!!と思わず手を打った。題字のデザインも自らなさって下さった。それがこれだ。
 もし希望者がいらっしゃったら少しはお分けすることができると思う。私の研究室またはこのブログのコメント欄、或いは私のメールまで、お名前、ご住所を書いて申し込んで下さい。送料込みで1000円くらいが実費の予定です。

 以下は私の拙い「編集後記」です。
 
『羽化登仙』を編み終えて 
山中章

 何から書き始めればいいのだろうか。
 そんなことを思いながら月日がどんどん過ぎていった。間もなく一年である。早いのか遅いのか、よく判らないが「まだ一年しか経っていないのか」、というのが実感だ。はるか昔のことのように、今の僕には思える。
 大森が事故に遭い、皆さんに激励の要請をし、折り鶴をお願いし、いろいろな方とお会いする中で少しずつ大森の素顔が見えてきた。僕が知っている大森とは全く違う顔もあった。思いがけない人の繋がりも知ることとなった。この短い人生を何とか形に残してやらねば、と思った。四九日が過ぎて、ご自宅へお伺いしたとき、そのことをご両親にお話しした。とても喜んで下さった。
 その帰路、お父様が駅まで送って下さった。何気ない世間話をする中で、意外なことが判った。
僕の大学時代の親友とお父様が同じ研究室だったというのだ。その上、卒業が少し遅れた親友と一緒に大学での歌謡コンテストに出て優勝し、ビールを一ケースゲットし、大盛り上がりしたことがあったという。後日、北海道にいる友人に会った際、その話をすると、もちろん彼もよく覚えていて、ビールゲットの主役はお父様の美しい歌声だったという。
そしてその友人宅でもう一つの繋がりが。
 大森の就職先は津和野の三松堂さんだった。二〇〇八年の正月明けの頃、大学で会った彼は珍しくスーツを着ていた。
「どうしたんや?」「就活です」「何処受けるんや」「食品関係です」「フーン?何でや?」「食べ物を作ることに興味があって・・・」「・・・、!お前、お菓子作る気あるか?和菓子。」「ええ。」「あんな、僕の友人の懇意にしている和菓子屋さんが島根県の津和野にあるんや。そこのお店な、面白いお菓子を一杯作っているんや。もっと面白いのはそこの社長さん。ホームページを見るととてもユニークなんや。一回覗いてみいひんか?」「ハイ、判りました」

こんな会話を数分間したと思う。数日後、彼に会うと「面接に行くことにしました。来週行ってきます。」という。その素早い行動にはびっくりした。その面接の様子は、本文中の小林智太郎(三松堂社長)さん、石井進(工場長)さんお二人の文章で甦っている。もちろん直ぐに報告があって、「内定をもらいました!!」と、とても嬉しそうに報告してくれた。しかし決まってみると不安なもので、「ご両親は、津和野なんていう田舎(失礼!いいところですよ、もちろん)に就職して何とも言わはらへんかったか?」と聞いた。「エエ、うちは兄は東京、妹は北海道、そして今度僕は島根ですから、「老後にあっちこっち旅行に行けるから嬉しい!」と言うてました。」とあっけらかんとしていた。ホッとした。
 その三松堂のお菓子のパッケージに北海道の友人の家で会ったのだ。「???(そんなに有名なのかな?―失礼!!)・・・これどうしたん?」「わしの奥さんの実家の近くで、小学校の先生をしていたお母さんの代から懇意で、よく買うんじゃ。」「この前言うた、あんたのご学友の息子、ここへ就職することになってたんや。」「世間は狭いな―・・・」
『大森俊輔追悼文集』は、こうして大森の同級生であった大竹孝平を中心にして、二〇〇八年の秋頃から本格的な編集作業に入った。研究室に残る写真を集め、先輩や後輩に想い出を書いてくれるように依頼することから始まった。しかし、その後編集がぴたっと止まってしまった。遅々として進まない作業に業を煮やした僕は「今まで出来たものを持って大森の家に行って、ご両親にいろいろ相談してみようやないか」と、編集を引き継いだ三年生に発破をかけた。
ちょうどその頃、また新たな意外な事実が伝わってきた。
私たちの所属する人文学部文化学科中世史ゼミの卒業生が結婚することになったという。彼女は一年生の頃から進路を歴史と決めていて、とても熱心に勉強していた学生で、その卒業論文は「中世後期における比丘尼御所の存在形態」という熊野信仰に関わる興味深いものだった。考古学にも興味を持っていたので僕もとてもよく知っている。ナナナント、その彼女が大森の従兄弟と結婚されるというのである。本当に世間は狭い!!のである。その大森準さんからも一文を頂くことが出来た。
そんなこんなで、四月に入ってようやく作業が進み出した。特にご両親に原稿をお願いしたところ、第Ⅰ部という形でとても素敵な文章や写真を、きちんと編集した上で送って下さった。お尻に火が付いた編集作業はその後一気に進み、最後に、ご両親からはとても素敵な書名題字をデザインまでして頂いた。

「羽化登仙」 

僕も間もなくそちらへ行くことになろう。その時楽しく自由に彼岸を飛び回っている大森に会えることを楽しみにしている。

二〇〇九年六月一一日
三重大学人文学部考古学研究室にて、伊勢湾を眺めながら   山中 章
(三重大学人文学部教授)



(雪の壬申の乱ウオーク!第10回は大雪だった。)

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よろいくね。

第1回古代宮都探訪会 長岡京巡り①の条

2009-06-07 12:20:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日は古代宮都探訪会の記念すべき第1回見学会の日であった。
 
「古代宮都探訪会」て何や?

てですか。いい御質問です。はいこの度私が勝手にでっち上げました。
会員0、決まりなし。目的曖昧。予定、不明。とにかくaboutなのである。

 ただ、前から何となくこんなことをして市民の皆さんや研究者とあちこちを歩きたいなと思っていたので、そのきっかけに、何となく企画した長岡京巡りを組み込んだのである。

 その長岡京巡りはこのブログでもご紹介した。
きっかけは三重大学の授業でやっている長岡京の考古学を現場で触れてもらいたかったからなのである。ところが、どうしたわけか、授業を受けている学生は二年生の男子が二人(この二人は授業でもとても熱心で、いつも書かせる感想や意見がとっても面白い。)来ただけで、考古学研究室の学生は15人いるのに0。アー情けない、悲しい。その分卒論や演習に頑張っているのならまだ許せるのだが、果たして、来週の発表が 楽 し み である。

 ところが、期待通り!!先日やった放送大学の受講生はわざわざ東海地方各所から10人もやってきてくれたのである。嬉しかったのはこうした催し物始まって以来の中学生がお祖母ちゃんに連れられてやってきたのである。それも、考古学大好き少女らしく、熱心に半日の難コースを踏破したのである。えらい!!○○ちゃん、名前聞くのを忘れました。残念。また来てね。

 JR向日町駅に集まった総勢17人の学生さん達を私とSM博士とで御案内申しあげたのである。前日は大変な雨で、天気予報も雨!ところが誰の行いがいいのかハレー!!適度に風も吹いて、とても心地いいのである。放送だいがくの学生さんはとても熱心で、歩きながら、説明しながら、ひっきりなしに質問攻めなのである。だから予定よりちょっと時間もかかったのだが、ほぼ計画したところは全部回ることが出来た。

 先ず向日町駅から東向日駅へほぼ北京極想定地を東から西へ。東向町駅で関大の社会人学生の方と合流。サテイーの前で禁野について説明。その後つい先日の慶應女子高校の学生の時はやっていた現場に寄るがもう既に工事が始まっていた.宮内道路の側溝や官衙の入口かと思われる門跡が出たが、この頃は発掘調査が制限されていて、遺構が出ても拡張できないらしい。

 その後宝菩提院跡付近を通って向日市文化資料館へ。
 今は私の後輩のNN君がいるので、いろいろ頼みやすく、資料の追加を依頼して配布。説明は博士に頼んで私は一服。それにしても相変わらずの古文書館。真っ白けでふんぞり返っている「学芸員」??(私はこんなのを学芸員とは認めたくない!!)が、学者気取りで古文書研究会をなさっていらっしゃる。ごくごく一部の市民のために自己満足のこんな会をやる人間に給料を払う必要があるのだろうか?先日の三重県での講演会で言いたかったのもこのこと。

 そして今回の文科省の学芸員資格科目の強化のとんちんかんなことは既に指摘済み。奢れる平氏がいつまで権力を持ち続けられるのか?所詮定年過ぎれば終わり!!

 そんな嫌な思いを振り切るようにして元稲荷古墳→向日神社へ。 


(長岡京右京域を見た後、元稲荷古墳に向かって歩く。)



 晴れたのでベンチでお昼ご飯。3世紀末の前方後方墳の上で食べるにぎりめしは格別!!うまかった。ナナナントそこへ、この三月に三重大学の近世史を出たKT君が顔を覗かせた。何でも今は地元京都の高校で歴史を教えているとか。まだ嘱託だが、近頃我が人文学部で「教員資格廃止」という愚かな議論があったが、彼などもしそんなことがあったら絶対に三重大学を受けることはなかった学生。何とか文化学科は継続することで意思一致できたが、法律経済学科は来年から止めるとか。ホント信じられない。

 こんなことしてて来年、さらに応募者が減るのは確実!!自分で自分の首を絞めるというのはこのこと。何考えとんにゃ!とどやしたくなるが、同じ学部でありながら、学科が違うので「ほっといて!!」だって。ま、いずれ、学芸員も、司書も法律経済学科の教員は「専門教育に無駄」だからという理由で廃止するんでしょうね。あの学科からどんな専門家が生まれるのか?楽しみではあるが・・・。

 とにかくそんな馬鹿な教員が文化学科にいなかったことだけは少し救われた気分。久しぶりに文化学科がまとまった珍しい会議でもあった。



 向日神社の説明後いつもの通り長岡の先から天王山、石清水の丘そして、長岡京域全体を見る。晴れていてとてもよく見え、皆さん感動の声。



 神社の参道から大極殿へ。大極殿の看板が替わっていて、説明が増えたのはいいが、なんだかフィルムを貼り付けたらしく既に破れていてちょっと残念。


(いつものように大極殿の碑の前で記念撮影)

 皆さん宝幢には感激のご様子。朝堂院を縦断して門闕跡へ。整備が終わって綺麗になっていたが、まだ中には入れず残念。



(お金のない向日市としてはとてもよく頑張っているんだけれどね。大体何処でもそうだが、お金が付くのは最初だけ。直ぐに雑草だらけになる。)



(追加指定された閤門跡)

 西向日駅の地下から築地跡へ。宝幢があんなに綺麗なのに、築地は草ボウボウ!!ホントどうしてこうなんかね。所詮エエカッコするための整備ではこうなるわな。市民不在の資料館、史跡整備。橋下みたいなんが市長になったらたちまち中止、廃館じゃないかと心配でたまらない。



 内裏から春宮坊跡へ。そろそろ皆さんの足がくたびれてきたようなんで、時間もいいところで旧東院跡で説明は終わり。新東院のあの醜いビルを横目に睨み、早く日本電産があの場所から退散することを祈りつつ解散。

 皆さんとお別れして私は直ぐに京都市内での全く別の市民運動の会議へ。

 さすがに疲れました!!

 市民と一緒に長岡京を守ることができたらいいのにね。
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川西遺跡情報第2弾の条

2009-06-04 15:32:40 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
こんな案内が来ました。私はあいにく当日三重で講演会があっていけないのですが、川西遺跡!!すごいですよj、是非行ってみて下さい。

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関係各位
   財団法人徳島県埋蔵文化財センター
            理事長福家清司

   川西遺跡遺構検討会の開催について

 時下,ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 この度,当センターでは,徳島南環状道路改築事業に伴う埋蔵文化財発掘調
査で確認された川西遺跡について,遺構検討会を開催することとなりました。
当遺跡では,園瀬川(徳島市)の旧河道に面して,13世紀から15世紀に
かけて修復・拡張を繰り返しながら構築されたと考えられる石積護岸遺構を検
出いたしました。遺構の性格・機能等は,極めて類例の少ないものであること
から,なお検討が必要です。

 つきましては,関係各分野の方々にお集まりいただき,それぞれの専門分野
からの御意見,御指導を賜りますようよろしくお願いします。


            記

日時  2009年6月13日(土) 午後1時30分から午後4時まで
場所  徳島市上八万町川西(別紙地図参照)

・徳島市バス「しらさぎ台」行き,「一宮」行き乗車
「西光寺」下車(徒歩10分)

・駐車場:発掘調査現場駐車場をご利用ください。

【連絡先】財団法人徳島県埋蔵文化財センター事業課
石井伸夫・藤川智之

TEL:088-672-4545
FAX:088-672-4550
メール:ishii@tokushima-maibun.


行った人は報告して下さいね。
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「改正学芸員養成科目に関する説明会(東日本)」のために文部科学省に行ってきたの条

2009-06-02 21:13:38 | yaasan随想
 学芸員、大変だな―と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



 今日は朝京都駅から新幹線に乗って、東京へ、久しぶりに丸ノ内線に乗って霞ヶ関駅へ。

 昔は一年に一二回は行っていたが、ここのところとんとご無沙汰である。もちろん私の行くのは文化庁で、文部科学省の本体に行くのは初めてである。どでかい講堂にえらい沢山の大学関係者が集められての説明会であった。

 受付が始まるというので並んでいると目の前の女性がこちらを向いて笑っている。

 ナナナント愛知K大学のMY先生だった。東海地方にいながら最近は私が名古屋古代史研究会をサボっているもので2年以上お会いしたことがなかった。誰かには会うと思ってはいたが、恐らく考古関係者!!と決め込んでたので、古代史のMYさんには驚いた。

 何でも愛知K大学は名前は一緒だが、今年の4月から大学そのものを設置し直したとか。3年以上にわたって、設置審の手続きで大変だったらしい。それも落ち着いたと思ったら、この学芸員、司書養成科目の改訂で、また新たな体制を組まないといけないとか、でも、そのお顔は自信に満ちあふれていた。

 愛知K大学は大学再編で文学部が日本文化学部になったとか。その中に国語国文学科と、歴史文化学科ができたという。それもそれぞれ10人と9人、学部がたったの19人だという。

 エエッツ!!??そんなのでも学部として認められるんだ!!

 僕らが学科改組の時に、新しい学科として地域創生学科を立ち上げると行った時、4人や5人じゃ駄目だ!といわれたが、あれはウソだったのだ。
 できるんじゃない!!学部ですらたったの19人なんだって。こじんまりしていて、和気藹々としていて、とってもいい雰囲気だという。今年度には教育GPに応募し、僕らが目指したような地域貢献型の教育プランをひっさげて文科省に行くんだという。目が輝いていた!

 人の足を引っ張ることばかり考えていたどこぞの学科とは大違いだ。羨ましい。

 そんな話が盛り上がったところで説明会が始まる。
 みんな真剣に法律の運用の仕方、実際の想定問答で具体的な質問が次々と飛ぶ。しかしこの改訂、どう見ても片手落ちだ。

 もちろん僕だって、今の学芸員資格がいいとはこれっぽっちも思っていない。だから科目を増やして、「いい学芸員」を作るというのは判るのです。でも、それだけのことをして、肝心の博物館には何の規制も設けないんです。
 一応博物館法も少し改正されたんです。でも、中味は骨抜き、相変わらず、博物館と名乗りながら博物館法の規制を受けない施設をザルのように認めておいて、つまり学芸員を置かなくても博物館と名乗れるようなものをどんどん認めておいて、博物館学芸員の取得単位だけ増やしても、誰が真面目にやるもんですか。就職先がないんです。

 訳のわからない漫画喫茶に100億円以上をつぎ込むのなら、博物館法を改正して、全国の「博物館」を全て登録させ、新規学芸員資格を取得した「専門的知識や技術を取得した」学芸員を必ず雇用しなければならないという風にすればいいんじゃないですか。そのために国は一人当たり人件費の二分の一を保障するとすれば、あの100億円余で、数百人の学芸員を配置することができ、当然学芸員資格を与えることのできる大学は新たな就職先を学生達に提供することができるのです。そのために資格科目を増やし(今回8科目12単位が、9科目19単位に増えるんです。大変です)専門的学芸員を育てるというのなら理解できるんです。

だから一応、意見も言っておきました。

「出口の保障をしないで、資格科目だけを厳しくしてもいい学芸員は育ちません。博物館法を改正する気はないんですか?」と。

もちろん文科省のお役人さんはそんな意見に耳を貸すことはありませんでしたが。

 ま、そんな虚しい会議に出かけて、大嫌いな東京ですから、私は終わると直ぐに(文化庁にも寄らずに)津に戻ってきました。新幹線の車中、いつもなら飲むビールも飲まず、ただひたすら明日までにしなければならない大事な仕事を一心不乱にし、さっき戻ってきたところなんです。

 それにしても、愛知K大学、いいですね。

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なお、改正によって、これまでの資格科目は次のようになるそうです。ちなみに対象は2012年4月1日入学生以降だそうです。

現行             改正後    
①生涯学習概論 1単位 → 2単位
②博物館概論  2単位 → 2単位 
③博物館経営論 1単位 → 2単位
④博物館資料論 2単位 → 2単位
⑤博物館資料保存論   → 新規2単位
⑥博物館展示論     → 新規2単位
⑦博物館情報論 1単位      → 統合して博物館情報・メディア論2単位
 視聴覚教育・メディア論 1単位
⑧教育学概論 1単位  → 新規博物館教育論2単位
⑨博物館実習 3単位  → 博物館実習3単位

8科目12単位        9科目19単位

誰がどうお教えるんか知らないが、みんな頑張ってね!!?ただし、就職の保障はございません!!

私なら、博物館法を改正して、全ての博物館相当施設(全部登録させて)に対し、新規学芸員資格を持つも者を2名以上置くものとする。としますがね。その代わり、学芸員採用に必要な人件費の二分の一を国が補償すると明記しますね。

ランキングなんて本当は止めたいのだけれど・・・の条

2009-06-01 11:56:36 | yaasan随想
先日見慣れないメールが届きました。

読んでも意味がよく判らないのですが、何でも「お前のブログのランキングの設定の仕方が間違っているから変えろ」ということのようです。

何を今更??と思ったのですが、そうしないとアップできなくなりそうな勢いだったから仕方がありません。

でもその方法がまたよく判らない。そんなこんなにまた時間を取られ、嫌な思いをしていたので原稿も進まなかったのですが、昨夜苦しみ抜いた山田博士事務局長の論文がようやくできたのです。それをお送りした後、いろいろな試行錯誤を繰り返して、何とか修正したのです。

も一つようわからんのですが、このバナーを使わないといけないみたいなんです。
これね。
人気ブログランキングへ

実は元々ランキングなんてどうでもよかったのです。本当はこんな面倒なことやりたくないのです。ただ、このランキングたら言うのをみてゾッとするんです。あまりに同じ傾向の記事がゾロゾロ並んでいて、それもトップテンに多くて。

もちろん言論の自由なんだから何を書こうが、何を主張しようがいいんです。でもあまりに別の立場の主張、情報発信が少なすぎるのです。考古学の情報なんて山ほどあるのですが、あんまりこのランキングには参加されていないみたいで、・・・。

歴史・地理系で1人気を吐いてらっしゃるのが「歴史と地理な日々(新版)」の中村さんだけなんです。

そもそもこの道に引きずり込んだ親友山田邦和さんのブログ「平安京閑話」も最近はご多忙のせいかあまり更新されず、かつてはトップテン常駐であったのにこの頃は滅多にみられない。

そこで仕方なく、自分の情報を伝えつつ、時にはランキング上位の皆さんとは違った考え方もあるんですよという主張のために、参加しているんです。
でもそれにイチャモンが付いて(どこから付いたのかこれまた不思議な気もするのですが・・・、きっとやっかみもあるんでしょうね)、もうブログそのものから止めようかと悩んでもみたのですが、先に述べた気持ちが棄てきれず、またまた復帰した次第です。

ネットは武器にもなりますが、武器は凶器にもなります。そのことを常に忘れずに、これからも考古学のいい情報をなるべく早く、自分の意見を交えつつ、ボチボチやっていこうと思いいます。あまり使いたくないバナーですが、ご命令ですので入れておきます。気が向けばポチッと押して下さい。

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そんなこんなで続けて書こうと思っていた屋島報告が遅れてしまいました。その間にまたまた大変な仕事が舞い込んできて、中旬までなかなか思うように時間が取れません。ボチボチになることお許し下さい。

yaasann