久しぶりです!順調なはずがあれからまたまた原稿責めにあっております。
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先週の日曜日は大垣市教育委員会の歴史講演会に招かれて久しぶりに美濃国分寺跡に建つ資料館へ行った。
同教育委員会のNさんのご案内で、講演の前に新しく大垣市に編入された上石津町にある西高木家陣屋跡を訪ねた。石垣が崩れているので見てほしいというのである。近世の城郭など私にはさっぱり分からないのだが、せっかくの機会なので拝見させていただくことにした。
(西高木家埋門-手前の石垣がその一部-。奥に見える斜面の上端にも立派な石垣が連なる。)
まず最初に驚いたのは、大垣市が三重県と県境を接し、その向こうに3月まで分布調査をしていたいなべ市があるということだった。
「「上石津」という地名、どこかで聞いたことがあるな・・・」車中でずっと考えていた。
「この道・365号線を行くと三重県の旧藤原町、現いなべ市ですよ」と言われて自分がどこにいるのかがやっと了解できた。
そういえば、分布調査中に毎日のように見た看板、365号線との交差点に来ると、右「上石津」と書いてあった!その「上石津」と向かっているところが同じだとようやく気づいたのである。
実は旧大安町の宇賀新田古墳群の調査をしていた頃から、藤原町を越えて岐阜県不破郡関ヶ原町に行ってみたいと思っていた。行こうと思う時に限って、大雪であったり、大雪の心配があったりで、なかなか峠越えに挑戦する勇気が出なかったのである。上石津とはまさに藤原町を越えて岐阜県に入った最初の町だったのである。それがこんな形で実現しようとは思いも寄らなかった。
地図(ここをクリックすると地図が出ます。西高木家陣屋跡は「宮」というところにあります。ちなみに「宮」とは延喜式内社大神神社のことでしょう。)でも分かる通り、藤原町を越えて上石津町に入ると国道365号線はほぼ一直線に北上し、途中上石津トンネルを抜け、関ヶ原インターチェンジの横を通って、関ヶ原町役場の西で国道(旧道)21号線と交差する。これが旧の中山道で、交差点を左にとると直ぐのところが不破関司推定地で、資料館のあるところである。
さて、三重県側から行くと県境を越えて直ぐのところが「時」、次いで「多良」で、いずれも伊勢神宮の御厨の置かれたところだという。さもありなん!である。そしてこの多良にあるのが西高木家陣屋跡である。私は近世の城に関しては全くの門外漢なので、以下のHP等の解説を参照してみるとおおよそ次のような武士団であったことがわかる。
(陣屋に至る階段や周りの石垣もとてもきれいである。周囲には東高木家の蔵なども残っている。)
西高木家陣屋跡は、牧田(まきた)川(の支流中谷川)と加龍谷川に囲まれた高台に築かれていた。高台の真ん中を伊勢街道が通り、街道沿いには延喜式内社大神(おおみわ)神社が所在する(この神社がいつからこの地にあるのかは問題だが、杉の大木立、立地などから見て原形をとどめているように思える。)。神社をさらに先に進むと陣屋跡である。
陣屋というから普通の屋敷かと思っていたが、大違いで、周囲は数㍍に及ぶ高い石垣に覆われ、要塞の趣をなしていた。れっきとした城郭である。西高木家陣屋に至る石階段の登り口付近に埋門が設けられており、石垣はよく残っていたのだが、近年その一部が崩壊し、緊急修理が加えられることになったのである。高木家は現存する西高木家が本家で(2300石)、ほかに東高木家(1000石)、北高木家(1000石)があり高木三家と呼ばれていた旗本であるという。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いまでは関一政が3万石を領していたが、戦いの後、伊勢亀山に移封になり、替わって高木貞利が関ヶ原の戦いの戦功により入封したことに始まる。明治維新まで一族3家で隔年に参勤交代した。旗本でありながら大名格を与えられ、普請奉行として活躍し、特に木曽三川改修の宝暦治水工事の監督として有名な家だという。
石垣だが、いつ構築したのかについての詳細は知らないが、亀山市教育委員会のKさんのご教示によると、関氏の多良城をそのまま受け継いでいるらしい。ちなみにKさんの言によると石垣の積み方は決してうまくないらしい(これは移封後の亀山城の石垣を見ているとよく分かるという。納得!)。もちろん途中で修復が加えられているとは思うが、今回崩れた埋門は400余年を経て崩れたことになるのであろうか(積み方がうまくなくてもこれだけ持つのだから近代建築とは大違いである)。現地を見るとあちこちに孕みが見られており、早急な対策が不可欠であろう。
(陣屋の裏には大規模な歴代当主の墓域が整然とした姿で遺っている。しかし浸食の進む崖によって川に近い方は崩落の危機に瀕している。)
さて現地には歴史民俗資料館が設けられており、多数の絵図面や古文書が展示してあり、現場とあわせてみるととてもわかりやすい。一帯に西高木家の屋敷跡が遺り(内部はかなり痛んできているらしい。)、各種絵図で辿ることのできる施設もほぼそのままに遺構として確認できるようである。圧巻は屋敷の裏手にある墓地群である。実は墓地群にも危機が迫っており、裏を流れる川の浸食作用によって、基底部が抉られ、最奥部にあった墓地がとうとう崩落の危機に瀕しているのである。既に崖面はかなり墓地側に大きく抉りとられており、早急な対策が必要である。とはいっても20m近い崖面である。中途半端な擁壁工事ではとても持たないように見える。川に近い最基底部には擁壁が不可欠であろうが、そこから墓地までの斜面は盛り土をし、植樹で対処するのが景観的にもいいように思うのだが・・・。
大垣市はこれをどのように活用すべきかと問われて思いついたのがこの間の持論である広域ネットワークであった。
(中山道:国道21号線) 大垣城→垂井宿→不破郡衙跡→不破関→伊勢街道(国道356号線)→西高木家陣屋跡→(国道306号線)大仁田城→宇賀新田古墳群→額田廃寺→東海道(国道1号線)→伊勢国分寺→伊勢国府→井田川茶臼山古墳→関宿→鈴鹿関→旧東海道(国道25号線)→笹ヶ平古墳→奥弁天4号墳→御墓山古墳→伊賀国府→伊賀国分寺→伊賀上野城→石山古墳→(国道165号線)夏見廃寺→長谷寺→飛鳥(もちろんこれはあくまで今分かっているものを例示しただけなのだが)というように網の目状に旧道を中心に遺跡や史跡、歴史遺産をつなぎ合わせ、遊歩道を整備して散策道で辿ることを可能にすべきではないかと思っている。
それはさておき、私がこの西高木家陣屋跡を見学して感動したのはこうした石垣の見事さ、よく遺存した施設群だけではなかった。その立地にであった。そんなことは既に当陣屋を研究なさっている方々には常識なのかもしれないが、若干の感想を記しておこう。
治水奉行でありながら、なぜ伊勢街道に陣屋を構えているのだろうか?
なぜ幕府は伊勢-美濃を結ぶ水陸の両交通路を旗本である高木家に掌握させたのか?
こんな疑問を発すると、高木家の役割の重さがひしひしと伝わってくるのである。そして問題は、このルートが江戸時代にのみ重要な道ではなかったことである。
(牧田古墳群二又支群。46年も前に発掘調査された古墳からは6世紀前半代の一級品が出土している。左上方が不破関方面、右下方向が伊勢東街道、左下が高木家陣屋のある伊勢西街道である。郷土資料館の展示パネルより)
(大量の副葬品を出した横穴式石室。図は閉塞石が残った状態でとられているらしい。)
まず、考古資料で確実にたどれるのは高木家陣屋をさらに関ヶ原側に北上した国道沿いにある牧田古墳群の中の二又支群である。古墳の位置はまさに伊勢西街道と東街道の分岐点をにらむ地点である。同古墳群には右片袖の横穴式石室に、TK10型式前後の須恵器と共にf字形鏡板他の金銅製馬具や武具類が副葬されているものがある。西濃地域に古墳時代後期の新しい社会の到来を告げる古墳である。なぜこのような「前衛的」な古墳が上石津町にあるのだろうか?!
(二又支群から出土した副葬品類)
言うまでもない!この道こそ伊勢と美濃を結ぶ最も重要な交通路だったからである。ついでに言うと、国道365号線は北国街道として敦賀に至る道である。もちろん古墳時代にこんなに立派な道はなかったが、その原型は形成されていたに違いない。その先は大迹王(おほどおう)のふるさと越前三国である。そして、伊勢に入って同時期の最初の古墳こそが、亀山市所在の井田川茶臼山古墳である。越前から一直線でこの地にまで至る最短コースこそ、伊勢街道、今日の国道365・306号線なのである!!
以後、この道は大王権によって掌握され続ける。その証拠の品が宇賀新田はじめ、このルート沿いの後期古墳(6世紀後半から末)のに副葬される脚付短頸壺なのである。残念ながら上石津町の分布調査は十分には行われていないので遺跡の実体が不明であるが、丹念に歩けばまだまだ多くの古墳群が発見されるのでは無かろうか。発見された群集墳を調査すれば脚付短頸壺の一つや二つ出てくるかもしれないと大いに期待している。
次いで、文献史料などから推定されるのが、壬申の乱、聖武天皇東国行幸時における進軍、群行コースである。
壬申の乱において吉野→名張→伊賀→柘植→加太→鈴鹿→三重→朝明→桑名と辿ったコースはあまりに有名で、近年の鈴鹿関周辺の新しい発見によってますますそのコースが限定されつつあるが、桑名から不破に至るコースもかなり限定できるのではないかと考えるのである。その第一のコースが一般的に言われている伊勢東街道に相当する桑名→多度→養老→牧田→不破コースである。そしてもう一つのコースが、伊勢西街道に相当する桑名→時→多良→牧田→不破コースである。前者はやや遠回りであるが平坦であり、後者は最短ではあるが「歩徒峠(後の勝時峠)」という難所を越えなければならない。前者に分があるのだが、後者への援軍はその後の伊勢神宮御厨の設定である。後者もまた古くから開発されていた可能性が高いのである。あるいは、大海人皇子は西を、聖武天皇は東を通ったのであろうか。
西高木家がこの地の監視を命ぜられる1000年以上昔から大和王権にとってこのルートは極めて重要な陸上交通路だったのである。そしてその交通路上に鈴鹿・不破・愛発関という後世の三関が設けられるのは偶然であろうか。この続きは次回にすることにしよう。
それにしても山田博士の涙ぐましい??ダイエット。要するに大根教をやめて大根を毎日食べればいいんですよ!!
最近の私は65㌔!!少しダイエットにもの申す資格?がある。( 驚くなかれ先日なんかとうとう64㌔前半を記録したんですよ!!理想は後5㌔、60㌔なんですがね・・・、でもあんまり痩せて「山中は癌かもしれん」なんて噂が飛んで皆さんを空喜びさせるのもネ・・・。)一刻も早く大根教から脱退させなければ!日本考古学会の貴族を肥満病で失うのはもったいない!!
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先週の日曜日は大垣市教育委員会の歴史講演会に招かれて久しぶりに美濃国分寺跡に建つ資料館へ行った。
同教育委員会のNさんのご案内で、講演の前に新しく大垣市に編入された上石津町にある西高木家陣屋跡を訪ねた。石垣が崩れているので見てほしいというのである。近世の城郭など私にはさっぱり分からないのだが、せっかくの機会なので拝見させていただくことにした。
(西高木家埋門-手前の石垣がその一部-。奥に見える斜面の上端にも立派な石垣が連なる。)
まず最初に驚いたのは、大垣市が三重県と県境を接し、その向こうに3月まで分布調査をしていたいなべ市があるということだった。
「「上石津」という地名、どこかで聞いたことがあるな・・・」車中でずっと考えていた。
「この道・365号線を行くと三重県の旧藤原町、現いなべ市ですよ」と言われて自分がどこにいるのかがやっと了解できた。
そういえば、分布調査中に毎日のように見た看板、365号線との交差点に来ると、右「上石津」と書いてあった!その「上石津」と向かっているところが同じだとようやく気づいたのである。
実は旧大安町の宇賀新田古墳群の調査をしていた頃から、藤原町を越えて岐阜県不破郡関ヶ原町に行ってみたいと思っていた。行こうと思う時に限って、大雪であったり、大雪の心配があったりで、なかなか峠越えに挑戦する勇気が出なかったのである。上石津とはまさに藤原町を越えて岐阜県に入った最初の町だったのである。それがこんな形で実現しようとは思いも寄らなかった。
地図(ここをクリックすると地図が出ます。西高木家陣屋跡は「宮」というところにあります。ちなみに「宮」とは延喜式内社大神神社のことでしょう。)でも分かる通り、藤原町を越えて上石津町に入ると国道365号線はほぼ一直線に北上し、途中上石津トンネルを抜け、関ヶ原インターチェンジの横を通って、関ヶ原町役場の西で国道(旧道)21号線と交差する。これが旧の中山道で、交差点を左にとると直ぐのところが不破関司推定地で、資料館のあるところである。
さて、三重県側から行くと県境を越えて直ぐのところが「時」、次いで「多良」で、いずれも伊勢神宮の御厨の置かれたところだという。さもありなん!である。そしてこの多良にあるのが西高木家陣屋跡である。私は近世の城に関しては全くの門外漢なので、以下のHP等の解説を参照してみるとおおよそ次のような武士団であったことがわかる。
(陣屋に至る階段や周りの石垣もとてもきれいである。周囲には東高木家の蔵なども残っている。)
西高木家陣屋跡は、牧田(まきた)川(の支流中谷川)と加龍谷川に囲まれた高台に築かれていた。高台の真ん中を伊勢街道が通り、街道沿いには延喜式内社大神(おおみわ)神社が所在する(この神社がいつからこの地にあるのかは問題だが、杉の大木立、立地などから見て原形をとどめているように思える。)。神社をさらに先に進むと陣屋跡である。
陣屋というから普通の屋敷かと思っていたが、大違いで、周囲は数㍍に及ぶ高い石垣に覆われ、要塞の趣をなしていた。れっきとした城郭である。西高木家陣屋に至る石階段の登り口付近に埋門が設けられており、石垣はよく残っていたのだが、近年その一部が崩壊し、緊急修理が加えられることになったのである。高木家は現存する西高木家が本家で(2300石)、ほかに東高木家(1000石)、北高木家(1000石)があり高木三家と呼ばれていた旗本であるという。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いまでは関一政が3万石を領していたが、戦いの後、伊勢亀山に移封になり、替わって高木貞利が関ヶ原の戦いの戦功により入封したことに始まる。明治維新まで一族3家で隔年に参勤交代した。旗本でありながら大名格を与えられ、普請奉行として活躍し、特に木曽三川改修の宝暦治水工事の監督として有名な家だという。
石垣だが、いつ構築したのかについての詳細は知らないが、亀山市教育委員会のKさんのご教示によると、関氏の多良城をそのまま受け継いでいるらしい。ちなみにKさんの言によると石垣の積み方は決してうまくないらしい(これは移封後の亀山城の石垣を見ているとよく分かるという。納得!)。もちろん途中で修復が加えられているとは思うが、今回崩れた埋門は400余年を経て崩れたことになるのであろうか(積み方がうまくなくてもこれだけ持つのだから近代建築とは大違いである)。現地を見るとあちこちに孕みが見られており、早急な対策が不可欠であろう。
(陣屋の裏には大規模な歴代当主の墓域が整然とした姿で遺っている。しかし浸食の進む崖によって川に近い方は崩落の危機に瀕している。)
さて現地には歴史民俗資料館が設けられており、多数の絵図面や古文書が展示してあり、現場とあわせてみるととてもわかりやすい。一帯に西高木家の屋敷跡が遺り(内部はかなり痛んできているらしい。)、各種絵図で辿ることのできる施設もほぼそのままに遺構として確認できるようである。圧巻は屋敷の裏手にある墓地群である。実は墓地群にも危機が迫っており、裏を流れる川の浸食作用によって、基底部が抉られ、最奥部にあった墓地がとうとう崩落の危機に瀕しているのである。既に崖面はかなり墓地側に大きく抉りとられており、早急な対策が必要である。とはいっても20m近い崖面である。中途半端な擁壁工事ではとても持たないように見える。川に近い最基底部には擁壁が不可欠であろうが、そこから墓地までの斜面は盛り土をし、植樹で対処するのが景観的にもいいように思うのだが・・・。
大垣市はこれをどのように活用すべきかと問われて思いついたのがこの間の持論である広域ネットワークであった。
(中山道:国道21号線) 大垣城→垂井宿→不破郡衙跡→不破関→伊勢街道(国道356号線)→西高木家陣屋跡→(国道306号線)大仁田城→宇賀新田古墳群→額田廃寺→東海道(国道1号線)→伊勢国分寺→伊勢国府→井田川茶臼山古墳→関宿→鈴鹿関→旧東海道(国道25号線)→笹ヶ平古墳→奥弁天4号墳→御墓山古墳→伊賀国府→伊賀国分寺→伊賀上野城→石山古墳→(国道165号線)夏見廃寺→長谷寺→飛鳥(もちろんこれはあくまで今分かっているものを例示しただけなのだが)というように網の目状に旧道を中心に遺跡や史跡、歴史遺産をつなぎ合わせ、遊歩道を整備して散策道で辿ることを可能にすべきではないかと思っている。
それはさておき、私がこの西高木家陣屋跡を見学して感動したのはこうした石垣の見事さ、よく遺存した施設群だけではなかった。その立地にであった。そんなことは既に当陣屋を研究なさっている方々には常識なのかもしれないが、若干の感想を記しておこう。
治水奉行でありながら、なぜ伊勢街道に陣屋を構えているのだろうか?
なぜ幕府は伊勢-美濃を結ぶ水陸の両交通路を旗本である高木家に掌握させたのか?
こんな疑問を発すると、高木家の役割の重さがひしひしと伝わってくるのである。そして問題は、このルートが江戸時代にのみ重要な道ではなかったことである。
(牧田古墳群二又支群。46年も前に発掘調査された古墳からは6世紀前半代の一級品が出土している。左上方が不破関方面、右下方向が伊勢東街道、左下が高木家陣屋のある伊勢西街道である。郷土資料館の展示パネルより)
(大量の副葬品を出した横穴式石室。図は閉塞石が残った状態でとられているらしい。)
まず、考古資料で確実にたどれるのは高木家陣屋をさらに関ヶ原側に北上した国道沿いにある牧田古墳群の中の二又支群である。古墳の位置はまさに伊勢西街道と東街道の分岐点をにらむ地点である。同古墳群には右片袖の横穴式石室に、TK10型式前後の須恵器と共にf字形鏡板他の金銅製馬具や武具類が副葬されているものがある。西濃地域に古墳時代後期の新しい社会の到来を告げる古墳である。なぜこのような「前衛的」な古墳が上石津町にあるのだろうか?!
(二又支群から出土した副葬品類)
言うまでもない!この道こそ伊勢と美濃を結ぶ最も重要な交通路だったからである。ついでに言うと、国道365号線は北国街道として敦賀に至る道である。もちろん古墳時代にこんなに立派な道はなかったが、その原型は形成されていたに違いない。その先は大迹王(おほどおう)のふるさと越前三国である。そして、伊勢に入って同時期の最初の古墳こそが、亀山市所在の井田川茶臼山古墳である。越前から一直線でこの地にまで至る最短コースこそ、伊勢街道、今日の国道365・306号線なのである!!
以後、この道は大王権によって掌握され続ける。その証拠の品が宇賀新田はじめ、このルート沿いの後期古墳(6世紀後半から末)のに副葬される脚付短頸壺なのである。残念ながら上石津町の分布調査は十分には行われていないので遺跡の実体が不明であるが、丹念に歩けばまだまだ多くの古墳群が発見されるのでは無かろうか。発見された群集墳を調査すれば脚付短頸壺の一つや二つ出てくるかもしれないと大いに期待している。
次いで、文献史料などから推定されるのが、壬申の乱、聖武天皇東国行幸時における進軍、群行コースである。
壬申の乱において吉野→名張→伊賀→柘植→加太→鈴鹿→三重→朝明→桑名と辿ったコースはあまりに有名で、近年の鈴鹿関周辺の新しい発見によってますますそのコースが限定されつつあるが、桑名から不破に至るコースもかなり限定できるのではないかと考えるのである。その第一のコースが一般的に言われている伊勢東街道に相当する桑名→多度→養老→牧田→不破コースである。そしてもう一つのコースが、伊勢西街道に相当する桑名→時→多良→牧田→不破コースである。前者はやや遠回りであるが平坦であり、後者は最短ではあるが「歩徒峠(後の勝時峠)」という難所を越えなければならない。前者に分があるのだが、後者への援軍はその後の伊勢神宮御厨の設定である。後者もまた古くから開発されていた可能性が高いのである。あるいは、大海人皇子は西を、聖武天皇は東を通ったのであろうか。
西高木家がこの地の監視を命ぜられる1000年以上昔から大和王権にとってこのルートは極めて重要な陸上交通路だったのである。そしてその交通路上に鈴鹿・不破・愛発関という後世の三関が設けられるのは偶然であろうか。この続きは次回にすることにしよう。
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