yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

研究余録  大垣市「上石津町」西高木家陣屋跡探訪の条

2006-06-30 23:47:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久しぶりです!順調なはずがあれからまたまた原稿責めにあっております。
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 先週の日曜日は大垣市教育委員会の歴史講演会に招かれて久しぶりに美濃国分寺跡に建つ資料館へ行った。
 同教育委員会のNさんのご案内で、講演の前に新しく大垣市に編入された上石津町にある西高木家陣屋跡を訪ねた。石垣が崩れているので見てほしいというのである。近世の城郭など私にはさっぱり分からないのだが、せっかくの機会なので拝見させていただくことにした。


(西高木家埋門-手前の石垣がその一部-。奥に見える斜面の上端にも立派な石垣が連なる。)

 まず最初に驚いたのは、大垣市が三重県と県境を接し、その向こうに3月まで分布調査をしていたいなべ市があるということだった。
 「「上石津」という地名、どこかで聞いたことがあるな・・・」車中でずっと考えていた。
 「この道・365号線を行くと三重県の旧藤原町、現いなべ市ですよ」と言われて自分がどこにいるのかがやっと了解できた。
 そういえば、分布調査中に毎日のように見た看板、365号線との交差点に来ると、右「上石津」と書いてあった!その「上石津」と向かっているところが同じだとようやく気づいたのである。
 実は旧大安町の宇賀新田古墳群の調査をしていた頃から、藤原町を越えて岐阜県不破郡関ヶ原町に行ってみたいと思っていた。行こうと思う時に限って、大雪であったり、大雪の心配があったりで、なかなか峠越えに挑戦する勇気が出なかったのである。上石津とはまさに藤原町を越えて岐阜県に入った最初の町だったのである。それがこんな形で実現しようとは思いも寄らなかった。
 地図(ここをクリックすると地図が出ます。西高木家陣屋跡は「宮」というところにあります。ちなみに「宮」とは延喜式内社大神神社のことでしょう。)でも分かる通り、藤原町を越えて上石津町に入ると国道365号線はほぼ一直線に北上し、途中上石津トンネルを抜け、関ヶ原インターチェンジの横を通って、関ヶ原町役場の西で国道(旧道)21号線と交差する。これが旧の中山道で、交差点を左にとると直ぐのところが不破関司推定地で、資料館のあるところである。

 さて、三重県側から行くと県境を越えて直ぐのところが「時」、次いで「多良」で、いずれも伊勢神宮の御厨の置かれたところだという。さもありなん!である。そしてこの多良にあるのが西高木家陣屋跡である。私は近世の城に関しては全くの門外漢なので、以下のHP等の解説を参照してみるとおおよそ次のような武士団であったことがわかる。


(陣屋に至る階段や周りの石垣もとてもきれいである。周囲には東高木家の蔵なども残っている。)

 西高木家陣屋跡は、牧田(まきた)川(の支流中谷川)と加龍谷川に囲まれた高台に築かれていた。高台の真ん中を伊勢街道が通り、街道沿いには延喜式内社大神(おおみわ)神社が所在する(この神社がいつからこの地にあるのかは問題だが、杉の大木立、立地などから見て原形をとどめているように思える。)。神社をさらに先に進むと陣屋跡である。
 陣屋というから普通の屋敷かと思っていたが、大違いで、周囲は数㍍に及ぶ高い石垣に覆われ、要塞の趣をなしていた。れっきとした城郭である。西高木家陣屋に至る石階段の登り口付近に埋門が設けられており、石垣はよく残っていたのだが、近年その一部が崩壊し、緊急修理が加えられることになったのである。高木家は現存する西高木家が本家で(2300石)、ほかに東高木家(1000石)、北高木家(1000石)があり高木三家と呼ばれていた旗本であるという。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いまでは関一政が3万石を領していたが、戦いの後、伊勢亀山に移封になり、替わって高木貞利が関ヶ原の戦いの戦功により入封したことに始まる。明治維新まで一族3家で隔年に参勤交代した。旗本でありながら大名格を与えられ、普請奉行として活躍し、特に木曽三川改修の宝暦治水工事の監督として有名な家だという。 
 
 石垣だが、いつ構築したのかについての詳細は知らないが、亀山市教育委員会のKさんのご教示によると、関氏の多良城をそのまま受け継いでいるらしい。ちなみにKさんの言によると石垣の積み方は決してうまくないらしい(これは移封後の亀山城の石垣を見ているとよく分かるという。納得!)。もちろん途中で修復が加えられているとは思うが、今回崩れた埋門は400余年を経て崩れたことになるのであろうか(積み方がうまくなくてもこれだけ持つのだから近代建築とは大違いである)。現地を見るとあちこちに孕みが見られており、早急な対策が不可欠であろう。

(陣屋の裏には大規模な歴代当主の墓域が整然とした姿で遺っている。しかし浸食の進む崖によって川に近い方は崩落の危機に瀕している。)

 さて現地には歴史民俗資料館が設けられており、多数の絵図面や古文書が展示してあり、現場とあわせてみるととてもわかりやすい。一帯に西高木家の屋敷跡が遺り(内部はかなり痛んできているらしい。)、各種絵図で辿ることのできる施設もほぼそのままに遺構として確認できるようである。圧巻は屋敷の裏手にある墓地群である。実は墓地群にも危機が迫っており、裏を流れる川の浸食作用によって、基底部が抉られ、最奥部にあった墓地がとうとう崩落の危機に瀕しているのである。既に崖面はかなり墓地側に大きく抉りとられており、早急な対策が必要である。とはいっても20m近い崖面である。中途半端な擁壁工事ではとても持たないように見える。川に近い最基底部には擁壁が不可欠であろうが、そこから墓地までの斜面は盛り土をし、植樹で対処するのが景観的にもいいように思うのだが・・・。

 大垣市はこれをどのように活用すべきかと問われて思いついたのがこの間の持論である広域ネットワークであった。
 
 (中山道:国道21号線) 大垣城→垂井宿→不破郡衙跡→不破関→伊勢街道(国道356号線)→西高木家陣屋跡→(国道306号線)大仁田城→宇賀新田古墳群→額田廃寺→東海道(国道1号線)→伊勢国分寺→伊勢国府→井田川茶臼山古墳→関宿→鈴鹿関→旧東海道(国道25号線)→笹ヶ平古墳→奥弁天4号墳→御墓山古墳→伊賀国府→伊賀国分寺→伊賀上野城→石山古墳→(国道165号線)夏見廃寺→長谷寺→飛鳥(もちろんこれはあくまで今分かっているものを例示しただけなのだが)というように網の目状に旧道を中心に遺跡や史跡、歴史遺産をつなぎ合わせ、遊歩道を整備して散策道で辿ることを可能にすべきではないかと思っている。

 それはさておき、私がこの西高木家陣屋跡を見学して感動したのはこうした石垣の見事さ、よく遺存した施設群だけではなかった。その立地にであった。そんなことは既に当陣屋を研究なさっている方々には常識なのかもしれないが、若干の感想を記しておこう。

 治水奉行でありながら、なぜ伊勢街道に陣屋を構えているのだろうか?
 なぜ幕府は伊勢-美濃を結ぶ水陸の両交通路を旗本である高木家に掌握させたのか?
 こんな疑問を発すると、高木家の役割の重さがひしひしと伝わってくるのである。そして問題は、このルートが江戸時代にのみ重要な道ではなかったことである。


(牧田古墳群二又支群。46年も前に発掘調査された古墳からは6世紀前半代の一級品が出土している。左上方が不破関方面、右下方向が伊勢東街道、左下が高木家陣屋のある伊勢西街道である。郷土資料館の展示パネルより)

(大量の副葬品を出した横穴式石室。図は閉塞石が残った状態でとられているらしい。)

 まず、考古資料で確実にたどれるのは高木家陣屋をさらに関ヶ原側に北上した国道沿いにある牧田古墳群の中の二又支群である。古墳の位置はまさに伊勢西街道と東街道の分岐点をにらむ地点である。同古墳群には右片袖の横穴式石室に、TK10型式前後の須恵器と共にf字形鏡板他の金銅製馬具や武具類が副葬されているものがある。西濃地域に古墳時代後期の新しい社会の到来を告げる古墳である。なぜこのような「前衛的」な古墳が上石津町にあるのだろうか?!


(二又支群から出土した副葬品類)

 言うまでもない!この道こそ伊勢と美濃を結ぶ最も重要な交通路だったからである。ついでに言うと、国道365号線は北国街道として敦賀に至る道である。もちろん古墳時代にこんなに立派な道はなかったが、その原型は形成されていたに違いない。その先は大迹王(おほどおう)のふるさと越前三国である。そして、伊勢に入って同時期の最初の古墳こそが、亀山市所在の井田川茶臼山古墳である。越前から一直線でこの地にまで至る最短コースこそ、伊勢街道、今日の国道365・306号線なのである!!
 以後、この道は大王権によって掌握され続ける。その証拠の品が宇賀新田はじめ、このルート沿いの後期古墳(6世紀後半から末)のに副葬される脚付短頸壺なのである。残念ながら上石津町の分布調査は十分には行われていないので遺跡の実体が不明であるが、丹念に歩けばまだまだ多くの古墳群が発見されるのでは無かろうか。発見された群集墳を調査すれば脚付短頸壺の一つや二つ出てくるかもしれないと大いに期待している。

 次いで、文献史料などから推定されるのが、壬申の乱、聖武天皇東国行幸時における進軍、群行コースである。
 壬申の乱において吉野→名張→伊賀→柘植→加太→鈴鹿→三重→朝明→桑名と辿ったコースはあまりに有名で、近年の鈴鹿関周辺の新しい発見によってますますそのコースが限定されつつあるが、桑名から不破に至るコースもかなり限定できるのではないかと考えるのである。その第一のコースが一般的に言われている伊勢東街道に相当する桑名→多度→養老→牧田→不破コースである。そしてもう一つのコースが、伊勢西街道に相当する桑名→時→多良→牧田→不破コースである。前者はやや遠回りであるが平坦であり、後者は最短ではあるが「歩徒峠(後の勝時峠)」という難所を越えなければならない。前者に分があるのだが、後者への援軍はその後の伊勢神宮御厨の設定である。後者もまた古くから開発されていた可能性が高いのである。あるいは、大海人皇子は西を、聖武天皇は東を通ったのであろうか。

 西高木家がこの地の監視を命ぜられる1000年以上昔から大和王権にとってこのルートは極めて重要な陸上交通路だったのである。そしてその交通路上に鈴鹿・不破・愛発関という後世の三関が設けられるのは偶然であろうか。この続きは次回にすることにしよう。

 それにしても山田博士の涙ぐましい??ダイエット。要するに大根教をやめて大根を毎日食べればいいんですよ!!
 最近の私は65㌔!!少しダイエットにもの申す資格?がある。( 驚くなかれ先日なんかとうとう64㌔前半を記録したんですよ!!理想は後5㌔、60㌔なんですがね・・・、でもあんまり痩せて「山中は癌かもしれん」なんて噂が飛んで皆さんを空喜びさせるのもネ・・・。)一刻も早く大根教から脱退させなければ!日本考古学会の貴族を肥満病で失うのはもったいない!!

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近況報告(後編の続き)  yaaさん特製焼きそばの条

2006-06-17 11:00:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
心のゆとりは大事ですね。ちょっとしばらく書けるような雰囲気!

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 なんと昨夜はお風呂に入ってしまった。
 誰かさんが美食三昧で通風の道をまっしぐらに走っているのに対して、私は粗食に耐えて毎日細々とした食生活を送っている。今日は不健康きわまりない山田博士の健康を気遣って、私の食生活をご紹介することにしよう。博士必見の条!!


(博物館の問題の鋤の展示)
 私の食事は昼から始まる。元々朝ご飯を食べない習慣だから、いつも昼頃になるとようやくお腹が空いてくるのである。しかし、大学のお昼は生協食堂が超満員(三重大学て、近くに食堂がほとんど無いんですよ!!だから生協が一番)で、あれに並ぶのが苦痛でつい食事を遅らせてしまう。私がよく行く食堂は学生の集中する食堂の二階にあって「パセオ」という。少しだけ値段が高いので、以前はあまり学生がいなかったのだが、この頃は結構多い(みんな裕福になったんだろうなー)。やはりこれも13時前にならないと空かない。ここのお昼がいいところは、「おすすめ」と言って、1食580円(コーヒーを付けても685円)まるで単身赴任者を意識したかのようなとてもバランスのいい食事を提供してくれることである。私はだいたいあまり酸っぱいものが得意ではないので、つい、塩分の多いものを食べてしまう。ところがここで食べると毎回いろんな種類の酢の物が出るのである。それも決して多くもなく。

 ところが、これが結構人気らしく、13時前後には完売されてしまうのである。だから、学生が居なくなるのと、「おすすめ」が無くならない微妙な時間帯に行かないとはずしてしまうことになるのである。これをはずすと悲劇が襲う!?何せここは東海地方である。かつては三重県は近畿地方と習ったのだが、この頃は明らかに伊賀を除いて東海地方である。
 それがどうしたかって?
 つまりここは味噌カツ文化圏なのである。私はこの味噌カツという食べ物がおそらくこれまで食べたものの中で一番まずいと思うのである(ごめんね!東海地方の方々!私は基本的に好き嫌いがない方なんですが・・・)。あの気持ちの悪い甘ったるさ、せっかくのカツのパリパリ感を失わせるドロッとした味噌の不快感、アー思い出すだけで吐き気がする(ちょっとオーバーかな・・・)。要するに「おすすめ」が無くなるとこの手の店屋物が幅をきかせていて、メニューが限定されるのである。結局塩分の高いうどんやそばになる( 聞いて!この麺類の出汁がめちゃくちゃ塩っ辛いのである) 。それがいやで、ついつい昼も抜いてしまうことがある。

 昨日は一昨日襲ってきた卒論学生が昼頃大学に来ると言うから、大学前のパン屋さんに寄ってパンを買ってきてもらう約束をしていたので、昼食の心配はなかった(はず)なのである。ところが待てど暮らせど学生は現われない!!(きっときっとベッカムを見過ぎて朝が起きれなかったに違いない!-これ正解でした-)とうとう13時を過ぎてしまった。アー、もう「おすすめ」が無くなる時間や!エイッツ、パンは晩食べよう、こう決心?して食堂へ小走りに、セーフ!!(これがアウトだったらきっと今頃大文句垂れていたに違いない。私の後の先生で終わりだった。ラッキー)
結局学生は現れず、夜になってメールをチェックすると昼前に「今日はいけません」というメールが入っていたのに気づいた。もちろん頼み事だから裏切られても仕方はないのだが・・・・。

 そんな食戦争?を克服するために最近凝っている???のが焼きそば!!
 3玉100円のゆでそばを買ってきて(これがまた中途半端に残るんです)キャベツともやしと豚肉を炒めて「お好み焼き用おたふくソース」をかけて終わり。実に簡単!!お味もグー!!野菜もあるし、豚肉も豊か。これに豆腐のみそ汁だから、本当は少し酢の物がいるのだが、残念ながら私には酢の物を作るほどの調理能力はない。これでだいたい、250円くらいかな。短時間に、安くて旨くてたくさん食べられる最高の食べ物がこれ。何てったって、我が叔母は昔は朝までやっていて、おいしくて、量が多いと京都で超有名なお好み焼き屋「ふくい」の主だもんね。焼きそば、お好み焼きには目がないんです。

 もちろん昨夜はこれを食べながらついついアルゼンチン対セルビアモンテネグロ戦を見ていたのだが、いけなかったのはその後、珍しくお風呂に入り(お風呂を沸かしすぎで熱すぎた!だから、人間はお風呂にはいるとろくなことがないんですよ!)、つい、ビールを一缶(350cc)飲んでしまった。そして、オランダ対コートジュボアール戦まで見てしまった。試合終了とともに「馬鹿!あほ!・・・」後悔!後悔!!後悔!!!結局原稿は一行も書けず。新しいソフトをインストールして終わり。


(さすがに殿様の道楽地は美しかった?花畑だそうな、これが・・)

 サー、これから頑張るぞ!!???角川さん、吉川さん、もうちょっとの辛抱を!

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近況報告(後編)  へとへとの遺跡巡りの条

2006-06-16 17:43:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(鈴鹿関西築地に登る!!)

何とか関駅へ戻って先着隊と合流。まずみんなの荷物を宿舎へ。とは言っても関駅から車で10分はかかる旧東海道の坂下。行ったことがないので途中人に道を聞き聞きようやくたどり着く。なかなか雰囲気のある小学校跡である。旧校庭には朝礼台も残してある。管理人のおじさんに案内してもらって中へ。これも予想以上に広く、「グー!」皆さん!今年の夏はお盆明けから亀山市の教育委員会と合同で鈴鹿関を発掘します。きっとこの素敵な宿所で自炊しながらの合宿調査です。一緒にしませんか?!!

感慨に浸る暇はない。学生たちが関宿を自由見学してそろそろ戻っている頃である。大急ぎで再び関駅へ。さて、ここからが本番である。先にも紹介した最近発見されたばかりの鈴鹿関西側築地跡、新道岩陰遺跡の見学である。
 関宿の中心、地蔵院を西へ、宿の雰囲気を十二分に味わいながら、西の追分まで歩く。そこから少し北側に回り込んだところが築地跡である。学生の半分は崖上の遺跡まで駆け上ったのだが、残りは既にダウン!下から眺めている。どうもあまり遺跡には興味がないらしい。これでは先が思いやられる。だってこれから行くところはブッシュの中!!大丈夫やろか?

 そうこうするうちに発見者のMさんが案内にきてくれる。学生に紹介するがどうもあまり感激がない。Mさんも一緒に岩陰遺跡まで案内してくれるという。ありがたいことだ。歩くこと15分。岩陰遺跡に至る道は旧東海道の跡である。竹林の中が何となく幅3㍍ばかり平らになっていて、それなりに道だと解る。この道を大海人皇子も通ったんだよと言うと、少し食いついてくる学生も。

さてここからが大変。雑木林のブッシュをかき分けながら悲鳴を上げながら歩く、歩く。ようやく鈴鹿川の川岸に辿り着く。新道岩陰遺跡は1700年近く人々から忘れ去られていた祭場である。そそり立つ岩盤、内部に入るには狭いトンネル状になった岩の間をくぐり抜けなければならない。ブッシュを歩かされてぶつぶつ言っていた学生の声が止まる。静まりかえった岩陰から時々雨水がぽたりと背中に落ちる。報告書のコピーは事前に配ったのだが、それを下に説明をするとようやくこの遺跡のすごさが解ってきたらしい。いつか大規模な調査団を組んで総合調査を実施したいのだが・・・。


(神秘の遺跡新道岩陰遺跡)

予定ではこの後例の笹ヶ片古墳に回ることにしていたのだが、いろいろなトラブルでタイムオーバー、翌朝に変更して本日の見学はおしまい!汗と疲労で声も出さずに黙々と関駅まで約30分の道のりを歩いて戻る。
さてここからがまたまた大問題で、宿屋には風呂がないので、学生を二班に分けて亀山市経営の福祉施設にある温泉まで送らねばならない。宿舎、風呂を何往復したことだろう。それでも天然温泉に入る頃には、学生の疲労もとれたようで、次第に元気が戻ってくる。夕食後のミーティングは大いに盛り上がり、結局寝たのは夜中の二時。

 日曜日の朝から次の授業で伊賀上野まで行かないといけない学生がいるので6時起床。アー眠い!飯を食わせて関駅まで乗せていく。何でここまで・・・、とぼやいてはいけない。これも大事な学生教育。学生様は神様の時代ですから・・・。フーッ・・・!
 
 マ、そんなこんなで愚痴ばかりこぼしている「不満分子」の週末は終わっていったのでした。もちろん、その後笹ヶ片古墳にも上りましたよ!ところがどうも笹ヶ片古墳は鬼門ですな。何回行っても場所を間違える。あがりすぎたかな、と迷って、一度降りてまた登る。へんな雑木に足をとられてケガをするわ(もちろんかすりきず) 
踏んだり蹴ったりの山登りでしたが、無事古墳にたどり着くとそれなりの感動。


(笹ヶ平古墳登頂成功!!)

 この中から一人でも二人でも考古学に目覚める子供が出てくれることを祈って、大学への帰路を急ぐ。何せ昼からもう一仕事あるもので・・・。

 かくして地獄の二週間の前半が終了。後半はひたすら原稿!でも昨夜一応の完成を見て万歳(ただし小さな万歳)。だってまだまだ大物が残っているもの。

ところが、ところが、そんな私を自由にしておかないのが我が研究室の学生。ちょっと息抜きをしているな、と見るや、恐怖の卒論演習指導!ソウ、一昨日は恐怖の演習前日水曜日。今回の学生は「都市環境」をテーマにしている。
側溝を中心にした平城京などの都市の排水状況、排水管理状況から都市環境を復原しようという試み。まずは手始めに長屋王邸周辺の排水管理状況の変遷を探らせる。興味深かったのは長屋王邸の東を画する東二坊坊間小路西側溝の埋没状況。西側溝は当初幅3㍍、深さ1.2㍍もあるのだ。二条大路側溝よりもしっかりしている。だから当然最下層は清水が流れたことを示す細砂が堆積している。学生によると、長屋王が住むことが解っていたので、きちんと排水計画を立てたのではないかという。さもありなん!

ところが土地利用の変遷に応じるかのごとく溝が埋まりだし、水が流れなくなる。最後に住むのは仕丁達だが、そのころには西側溝は完全に埋まってしまっている。労働者の健康など考慮されなかったのだというのが彼女の解釈なのだが、果たしてそうなのか?これからの資料の収集と分析に負うところが大だ。無事演習も終わった昨夜、これで終わりかと思いきや、来週発表の学生が襲ってくる。アー一体いつ私は自分の勉強をすればいいのですかね?

そんなこんなで、6月末絶対!の原稿を今からスタート。今日もお風呂へは入れません?かね!


(なぜか C58 が亀山城公園に)

がんばれ中田英寿!明後日は応援できないかもしれないが、中田の白いシューズが思い切り振り抜かれ、ゴールする瞬間を夢見て、これからがんばることにしよう。支離滅裂な私でした。

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近況報告(前編)  地獄からの脱出?!の条

2006-06-16 17:15:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
久しぶりです。

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 丁度二週間ぶりのブログである。せっかくの1周年も何となく過ぎ、せめて一度1年を振り返って等という企画も考えようかと思っていたのだが、とんでもない状況に陥ってしまっていた。
もちろん私が悪いのだが、とにかく溜まりに溜まった原稿の山を少しずつ掘り崩し、ようやくその先に仄かな光が見えつつあるところである。さらに光をはっきりさせつつあるのがパソコンのリニューアルである。何しろこの間今まで使っていたノート型パソコンのハードデスクには泣かされ続けてきた。せっかく整理したデーターは飛んでしまうわ、フォルダーをきれいにまとめたとたんに壊れるわ、今打ち終えたばかりの原稿が消えるわ・・・!この3年間、とにかく泣かされ続けてきたパソコンとようやくおさらばできたのである。まだ新しいものに慣れてはいないが、快調である。もっともこれで原稿がどんどん書ければ言うことはないのだが・・・。


(亀山市歴史博物館に復原されている井田川茶臼山古墳の横穴式石室。古墳班の印象は?)
 もちろん原稿ばかり書いていたわけでもない。1年生の学生たちとの楽しい?!合宿研修会も無事済ますことができた。今回は亀山市の教育委員会にお世話になって、「坂下亀山自然の家」を使って合宿させていただいた。元小学校を改装して教室を板の間や和室、ベッドルームに改造し、キャンプ場としたものである。2部屋を借りて23000円だから20人の学生の負担はおよそ1200円である。食事と風呂のないのが難点で、仕方がないから家族に事前にカレーライスを仕込んでおいてもらい、送迎も手伝ってもらって、大騒ぎしながらの合宿であった。なぜこんな苦労をしないといけないのか、自分でも少し学生にサービスし過ぎではないかとは思うのだが、弱小「国立大学」である。みんなに金がないといわれるととにかく安いところを探さざるを得ない。
 日頃親しくしていただいている亀山市教育委員会のKさんに紹介してもらって、この施設を探り当てたのである。もちろんいろいろなハプニングがあった。しかし1週間が経つとそれも楽しい思い出と変わりつつある。やはり若いと言うことはすばらしい!!これが今の大きな印象である。


(亀山城の城壁の一部がこのように見事に復原されている)

 何のために合宿するのか?て。この頃の大学生はなかなか人とうまく付き合えないから、その付き合い方も含めて集団生活に少しなじませるためにやる(と私は思っている)。

 とはいっても学問とまったく無関係ではない。この学生たちは例の「Open!三重大学考古資料館」に挑戦中の学生たちである。今は3班に分かれて活動中で、弥生班、古墳班、古代班がそれぞれテーマに沿って、展示計画を展開中である。

 だから、それぞれの班と関係のある場所を選んで合宿することにしたのである。最近様々な活動を通じて密接な関係を持って活動している亀山市に白羽の矢?が当たり、市内の様々な遺跡、博物館、歴史遺産を巡ることにしたのである。

 初日は亀山市歴史博物館の見学からスタートである。直前にお願いしたにもかかわらず、貧乏学生のために入館料を免除していただき、おまけに素敵な?!説明員も付けてくださった。ところがここでまず第1のハプニング。約独り寝号して遅れるというメール。本当に博物館の方には申し訳なかった。恥ずかしい限りである(ごめんなさい!教育が足りなくて。でもこんな教育まで私がせんといかんのやろか?と少し内心は不満。)。

 じっくり博物館を見ることなどない学生たちにまず入って直ぐに質問攻め。入り口に置いてあった牛耕用の鋤。もちろん今の学生はこんな物見たことがない。だから説明を読んでも解らない。ところが展示品には短いキャプションが付いているだけで図解などなにもない。そこで彼らに一言、君たちが展示する時にもどうすれば見る人がその展示品を理解することができるかこんなことで解るだろう。

 こんな最初の展示のおかげで学生たちは次々と展示方法を検証していった。おそらくこれまでこのような視点で見ることがなかったのだろう。次々と質問にくる。それにしてもどうして民俗学や近世古文書学をやっている人たちはこれほどまでに不親切なのだろう(いや、全部とは言いませんよ!あくまでこの博物館のことですから、誤解のないように・・・)。一枚図を添えるだけで、使用中の写真を展示するだけで学生たちはは理解できたろうに!と残念でならない。
 とはいっても近代の民具類の展示である。それなりに直感的に理解できる物が所狭しと置いてあり、学生たちは結構楽しんでいた。


(土曜日というのに関宿一体はほとんど人通りがなかった。)

 そうこうするうちに遅刻した学生も合流し(何せローカル路線である。一度遅れると1時間近く電車がないのが普通なのである)、資料館の直ぐ横にある亀山城跡を見学することになる。引き続き亀山城を発掘した教育委員会の調査担当者の方が案内してくれる。実は何度もこの地を訪れながら、じっくり見学するのは調査後初めてなのである。大いに楽しみである。

 資料館のある丘を横切っていくとあちこちに遊戯設備がある。員弁の公園にもあった長い滑り台もある。さらに行くとなぜか蒸気機関車が置いてある。我が家の現在の主役息子の息子(まだ1歳9ヶ月)の一番のお気に入りがこれ!!もちろん一杯写真を撮っておく。学生たちは少し怪訝そうな顔。
「先生鉄道マニアなん?!!」
「いや?どうして」などととぼけてその場は過ごす。

そうこうするうちに真正面にこのすばらしい白壁の塀が出現。亀山城北側の曲輪の外壁である。崖下から優に10㍍はあろうか、学生たちも感動して!と思いきや、ナナナント、向けられた関心は、
「いいなーこの小学校!きれいで」
「お前ら、見るとこが違うやろ、あれ、あれ、こっち違うねん!!」
アーこれでは先が思いやられる。説明してくれる調査員にも失礼この上ない。どないしょ!


(築山に見立てて置かれた出土瓦、礎石もここに置いてある)

曲輪の内側に回るために一度外堀の縁まで降り、崖を登って、埋門跡へ。殿様のお花畑の説明に関心が移ったのかようやく遺跡に興味を持つ学生がちらほら。ありがとうFさん!!(実は我が大学の社会人大学院生。今年は修論、ダヨネ)

さてこれからJR亀山駅まで戻って、関駅まで汽車で移動である。時間がない。学生を追い立てていくのだがみんなおっとりしたもの。なかなか進まない。仕方がないから先発隊を車に乗せて切符をまとめ買いさせる。直ぐに車をとって返し、途中まで歩いている学生を積み込んでまた駅へ。3往復してアーやれやれ、私は車を関駅へ移動。ととところが、途中で激しい電話の音。なんやろ?車を止めて電話に出ると受話器の向こうで学生の悲壮な声。
「先生、電車が往ってしまった!」
「ハ?」
「最後の学生が間に合わなかったんです。」
「エエッツ!」(絶句)
「ツ次の電車は?」
「それが3時なんです」
「・・・・・・」

再び亀山駅へとって返し、学生を車に詰め込んで関駅へ・・・。アー、先が思いやられる。(続く)
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朗報!!  永井路子さん和島誠一賞受賞の条

2006-06-02 12:18:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(東院跡の調査をご覧になる永井さん。残念ながらこの素晴らしい遺跡は、心ない人々の妨害やプライドによって破壊されてしまった。かわいそうな「遺跡」である。悔しいことに私の家から真正面にいつも見える。永井さんは最後の最後まで強く保存を求めて下さった。)

 昨日永井路子さんからお便りを頂いた。久しぶりのことでなんだろう?とワクワクしながら読んでみると嬉しいニュースであった。文化財保存全国協議会が全国の文化遺産の保存・保全に努めた方(団体)を表彰する和島誠一賞に選ばれたというのである。これまでにも直木孝次郎先生、佐原真さん、門脇禎二先生など蒼々たるメンバーが受賞されている。小説家では初めての受賞という。

 やった!当然!!  う! れ! し! い!!




(真夏の久留倍遺跡にて。永井さんご夫妻をご案内する。)

 その受賞理由に長岡京東院の保存運動、そして最近の久留倍遺跡の保存のための御活動も入っているという。もちろんそうでしょう。だってあれだけ精力的に、本当に、手弁当で、何回も長岡京や四日市においで下さったんですもの!それもいつもご主人の黒板伸夫先生とお二人で。手弁当どころか、保存のための活動にカンパまで下さって、こんなに真剣に遺跡の保存のために尽力下さった作家の方にお会いしたことがない(とは言っても、私の知っている作家の先生は永井さんだけなんですが・・・)。


(第1回久留倍遺跡シンポジウムでのご講演)

 長岡京東院(勿論旧東院ですよ!)の時には朝日新聞に書いて下さった東院の持つ意味、その保存の必要性を訴えて下さった文章が当時の市長や教育長の心を動かし、中枢部を残してもらうことになったのです。
 そして新東院の調査の時も、直ぐに駆けつけて下さって、保存を訴えて下さり、東京でのシンポジウムにも出て下さって、いろんな形で保存を訴えて下さったんです。
 でもこっちの方は、名前を書くのもむかつく「○×電産」の無理解、心ない調査員の保存運動への妨害、そして地元教育委員会教育長の無理解と小心によって、無惨にも破壊されてしまったのです。永井さんも東院の破壊には本当に心を痛めておられました。文字資料まで出て延暦12年に桓武が遷った東院がそこだというのに、・・・。

 だから、久留倍遺跡の保存問題が起こった時に、永井さんに講演をまたお願いするのが心苦しくて、どうしようかと随分悩んだものです。でも思い切ってお便りすると、二つ返事でお引き受け頂き、現地を見たいからと、ご講演の前の月に事前に、真夏の炎天下の遺跡に足を運んでいただいたのです。勿論その頃はまだ遺跡がどうなるかも分からず、「また破壊されたらどうしよう・・」、等と内心ヤキモキしていたのです。

 その後の講演会では会場が満員で座る余地もないほどの盛況、でも、一言
 「山中さんにはつい騙されて、こうして引っ張り出されるんですよ・・・・。」
 これは堪えた。「なんとか久留倍遺跡を遺さねば・・・、朝明頓宮の証拠品を出さねば・・・。」しかし一つはなんとかクリアーしたものの、朝明頓宮説には未だに決定打がなく、永井さんにお応えできていない。まだ出ないんですよ、木簡!すみません(こんなところで謝っても仕方ないか、永井さんがブログ見るわけも無し)。

 でも、今回の受賞で、少しは許して頂けるかも・・・。

 とにかく、久留倍遺跡の国史跡指定の報よりも、もっともっと嬉しいニュースだった。

 心から

「おめでとうございます!」

と申し上げたい。そして永井さんのお陰で遺った2カ所の遺跡、旧東院と久留倍遺跡にかわって厚く厚く御礼申し上げたい。表彰式は6月11日(日)千葉市市民会館で行われるという。残念ながら私は当日学生を連れて合宿研修をしなければならず、駆けつけることができない。いずれ、朧谷先生と相談して、10年会で東京に押しかけて「勝手祝賀会」をしようと思う。ネ、いいでしょう、皆さん。


(志デ(氏の下に横棒)神社にて、ご夫妻、朧谷先生と)

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柏原陵研究1  桓武天皇柏原陵再挑戦の条

2006-06-02 04:35:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 桓武天皇柏原陵が我が家の直ぐ近くの丘にあるとする私の予断に充ち満ちた仮説については、以前にも紹介したことがある。山田博士の精緻な桃山御陵説には勝てそうにはないのであるが、桃山御陵には入れない以上、本当に他説はあり得ないのか、せめて生きている間にその確信を持ちたくて、探求を再開することにした。恐らく結論は出ないのだろうが、我が家の裏庭みたいな所である、毎日、毎日少しずつ情報を集められるという利点がある。その利点を最大限に利用して、足腰の立つうちは稲荷山一帯の主となれるよう歩き回ってみようという実に非学問的な、肉体派的検証行動である。勿論、棺桶に入る直前に「桓武天皇陵発見!!」の大ニュースを打ち立て、それを持ってあの世に逝くというのが私の理想的コースなのだが・・・(山田博士ゴメンナサイ、神聖なる皇帝陵治定の研究を茶化して)。

(真宗院の墓所のある丘。周りに畑が展開する長閑な風景である。これでも京都市内である。老後に毎日散歩するにはいいかもしれませんね。)

 さて、今回は、我が家の強力な密偵からの最新情報に基づく調査である。

 「隣のおじさん(ホントの叔父)の話では、真宗院の裏の方で地主さんが畑を耕したはったら、大きな石が出たて言うたはったわ!」
 「エエッ、それはすごいな!それどこや!?」
 「私の同級生の畑らしいわ!」
 「その石どうなったんや?」
 「面倒になるからいうて直ぐそのまま埋めたらしいわ」
 「友達の畑やったら知ってるの?!ほなら直ぐ行けるんやろ、今度帰ってきたら犬の散歩がてら連れてって」

 というわけで先日久しぶりに早朝犬散歩となったのである。
 犬のお散歩グッズの小さな鞄を腰に出発!である。真宗院は浄土宗のお寺で、我が家の近くにあるお寺の中では日蓮宗の宝塔寺(重要文化財)に次いで比較的大きなお寺である。ご存じの方も多いかもしれないが、我が家は深草僧坊町という地番表示である。周りには坊町や極楽寺町、瓦町等々お寺や寺の建物に関する地名が一杯ある。各寺院関連町にはそれぞれ○○山町という地名が山側にある。極楽寺に極楽寺山町、宝塔寺に宝塔寺山町といった感じである。とにかく稲荷山から南は寺だらけなのである。
 何故こんなに多くの寺が集まることになったのか。
 嘉祥寺、貞観寺、極楽寺という平安時代に藤原北家の威勢を確立した二人の人物・藤原良房と基経親子の建立になる3寺が建てられたからであると考えている。現在にまで地名をとどめる極楽寺が旧長岡京域にもその名を残していることは以前に触れた。貞観寺もまた長岡京郊外に瓦窯をもっていた。藤原冬嗣の時代に旧長岡京域を与えられた藤原北家は3寺の経済基盤をここに置いて経営に当たったのである。そのうちの一つ貞観寺の伽藍の中心が我が家辺りにあるらしい。

(採集布目瓦。精良な粘土を用いた須恵質に焼かれた平瓦の断片。凸面に若干の離れ砂が認められる。)

 散歩の前に少し向かいの畑の畦を探す内に拾ったのがこの須恵質の布目瓦である。我が家の四周を親戚の畑が取り囲んでいるが、布目瓦はいくらでも拾える。時々須恵器や土師器も採集され、畑仕事で拾った中から「これ何?」と持ってくる。畑の下に伽藍が眠っていることは間違いなさそうである。

(真宗院開祖円空上人の立派な墓所は丘の頂上に立ちこのように廟を形成している。中に入ることができないのが残念だが、この建物からは恐らく長岡京・平安京・そして天智天皇山科陵が見えるのではなかろうか)
 
 今回探索の対象は嘉祥寺の北に位置する真宗院の裏山墓地である。以前にも北側から風景を撮ったことがあるのだが、その時は反対側にこんなに大規模な墓地があるとことは全く知らなかった。驚くのは墓域が大きく見ると二段に分かれていることだ。その高い円形の段の中心に建つのが開祖円空立信上人の墓所である。13世紀中頃の創建と伝えられ、後深草天皇から寺名を与えられたのが由来と伝える。後深草天皇とは南北朝の動乱の当事者、持明院統の始めである。
 御詠歌の一つに
 「くもりなき ひとの世ねがう ふかくさの おかよりのぞむ 西山の空」
というのがあるらしいが、実はこの開祖の墓所から見晴らす光景はそのものズバリであった。

(正面に見える大きなビルが、あの長岡京東院を破壊して建てられた○○電産のビル。悔しいことにあのビル、よう見えるんですわ!深草から。手前の屋根が真宗院である。)

 石材が出た畑が具体的のどれなのかは「同級生のお父さん」に伺わないと正確には判明しないのだが、発見の経緯を考えると少し根回しが必要そうだ。焦らず、この人脈をたどって、ゆっくり特定することにしよう。
 それにしてもこのように「深草山」からは長岡京域が真正面にはっきりと見えるのである。少なくとも桓武天皇が葬られたとされる地は、長岡京と深い関係にあることだけは紛れもない事実のようだ。ちなみに山田博士説桃山城跡はこのように真宗院の墓所からはっきり見ることができる。

(正面に見える天守閣が廃園になった桃山ランドの跡。この直ぐ裏(南)が桃山城である。そして一番手前に白壁を見せている大きな建物が嘉祥寺の礎石を残す善福寺の本堂である。)


 ところで、もし桓武天皇陵がこの地で破壊されたらどんな「遺物」が散乱することになるのだろうか。石室があったとすると、地下から発見されたという「大きな石」は、その有力な証拠品となる(勿論この地に後期群集墳があったとするとその石材の可能性は十分あるのだが・・・)。遺体は夾紵棺に入れられたのだろうか、それとも石棺か。勿論副葬品は相当なものが入れられたのであろう。葬儀に際し行われたであろう祭祀には緑釉陶器が当然用いられたのであろう。そうすると地表面に軟質の緑釉陶器が散乱している可能性もある・・・・。まだまだ地表面を丹念に歩く分布調査はできていない。慎重に畑を特定し、なにげなく「分布」をやりながら可能性を絞っていこうと思う。
 来週の「散歩」が楽しみである。

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