yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

秋は講演会ラッシュの条

2010-09-29 14:26:24 | yaasan随想
 夏の厳しい調査がようやく終わってホッとしたと思っていたらもう10月である。

 エエッツ??ウソ~~ 明後日10月1日?

 ということは・・・えらいこっちゃ!!!2日に二つの講演をせなあかんやないか。そしてその6日後と7日後にも二つ・・・。と思案しているところへ電話。

 「2日の資料を印刷しますので至急お送り頂けませんか。これまで無かったことなんですが、104人も申し込みがあって・・・」、上野高校の教頭先生からであった。

 たくさんの申し込みがあるのは嬉しいのだが、まだ資料はできていない。大慌てで資料作りを開始する。そういえば他にもそろそろあったよな~、とスケジュール表を見ると、どうも一つ書いていないのがある。

 恐る恐る電話する。

 「アノー済みません。私、確か秋に講演を頼まれていましたよね、済みません、メモするのを忘れておりまして、いつでしたっけ?」

 相手方は苦笑いしながら、11月5日の金曜日ですよ。10時からお願いします。

 「済みません、何を話すことにしてましたっけ??」

 いやはやここまで忘れていると自分でも恥ずかしくなる。「・・・。。。。ですよ」と丁寧に教えてくれた。そういえばこのテーマで既にレジュメの最初は書いたようなきがする。慌ててパソコンを開くとちゃんとレジュメができているではないか。何と準備のいい。でも、こういうのに限って忘れるんですよね。(笑)

 そうなんです。この頃直ぐに忘れるので、聞いた直後にレジュメの最初は作るようにしているのです。ところが、その作ったことを忘れるのです。スケジュール表に全てを集約しているので、そこに書き忘れるとこういう恥ずかしい事態になるのです。まだ1ヶ月先のことだったからよかったものの、他とブッキングしてたりしたら・・・大事でした!!

 そこで改めて予定表を確認するとこんな調子で、一体私はいつ休めばいいのか、ということに。でも呼んで下さる内が華だし。ま、頑張るかということで秋のいろいろな行事、以下の通りです。お近くの方はどうぞお出で下さい。いずれも無料ですよ。飛び込みでも、山中に来いと言われたといえば入れてくれますから。

① 10月2日(土)  10:00~12:00 三重大学人文学部公開ゼミ「日本古代の情報伝達システム~三関及び駅路と「伝路」~」三重大学人文学部二IT講義室
 ②10月9日、③16日各土曜日まで三回連続講義。場所時間は同じ。
→ 主に東海道を中心とした古代交通路の復原と交通路成立の歴史的背景を話す予定。

④ 10月2日(土) 14:30~16:00 伊賀市・三重県立上野高等学校同窓か講演会「壬申の乱と東海道」上野高等学校 
→古代における伊賀の位置づけを主に交通路の視点から見る。

⑤ 10月8日(金) 10:00~11:40 関ヶ原町ふるさと歴史講座「」不破関の再検討~三関の共通性~」 関ヶ原町ふれあいセンター2階視聴覚室。
→ 30年前の発掘調査で確定したかにみえる不破関だが、実は近年の鈴鹿関の調査成果からより大規模な施設であった可能性が指摘できるのではないかということを指摘する予定。

⑥ 10月22日(金) 13:00~15:00 名張市教育委員会講演会「東大寺と聖武天皇~赤目と古代王権~」名張市赤目公民館
→ 伊賀の南の入口赤目の歴史と奈良時代の王権について話す予定。

⑦ 10月25日(月) 18:00~21:00 『延喜式』研究会 内蔵寮式報告 長岡京市生涯学習センター

⑧ 10月28日(木) 18:30~20:30 伊勢湾・熊野地域研究センター報告「伊勢斎宮と離宮院の変遷」伊勢湾・熊野地域研究センター室(三重大学共通教育校舎4号館5階)

⑨ 11月5日(金) 10:00~11:30 京都アスニー講演会「斎王がやってこなかった斎宮~古代王権と伊勢太神宮~」京都アスニー(京都市・丸太町七本松)
→ 斎宮制度の再検討成果の話しをする予定。斎王が定期的に行くようになるのは桓武朝以後!!という話し。

⑩ 11月13日(土) 10:00~12:00 久留倍まつり第19回壬申の乱ウオーク案内

⑪ 11月13日(土) 13:00~16:00 久留倍まつり講演会森浩一先生・馬場基先生のご講演の前座。「伊勢斎王の悲劇」四日市市あさけプラザ(近鉄富田下車徒歩15分)
→ 斎王制度は決して天照大神を奉祭するための聖なる行為ではなかった。極めて政治的に女性を利用、翻弄した制度であった。大来皇女、井上内親王、酒人内親王、朝原内親王、布勢内親王・・・・一体どれだけの女性が犠牲になったことか。

⑫ 11月20日(土) 10:00~15:00 三重大学・京都府立大学・奈良女子大学合同研究会

⑬ 11月25日(木) 13:00~14:30 河野美代子先生講演会 三重大学共通教育講演会

フーッ!!まだまだあるが、書くだけで疲れた。年末には広島大学で集中講義が入っている。これはもっと難題。

ということで,もし暇でお近くの方は遠慮無くご参加下さいね。だって、この前の愛知県の講演会はあまりに少なくて申し訳なかった。もちろん僕の演題に魅力がなかったのだろうけれど、陶磁資料館というあの遠い遠い施設に来てもらうのはなかなか難しい。ということもあったので自ら宣伝マンもする羽目に。

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 秋風と 共に学ぼう 歴史の香
 


『延喜式』研究会内蔵寮式の条

2010-09-28 00:48:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今夜は『延喜式』研究会の日であった。
 
 毎月第二第四月曜日にやっている。前回は突然の発表者のトラブルで報告は無し。この夏の暑さを忘れようという納涼宴会だけやった。

 今回は無事トラブルもなく内蔵寮式の今食条からの報告であった。

 私が興味を抱いたのは

 「平城法華寺大神神子二人春秋装束料絹六疋五丈八尺。襪料調布八尺沓四両。」

という条文だった。 

 「平城法華寺大神」これ何や?
 
 ウ~ンどっかで聞いた覚えがあるなー・・・・・。そうや!!一度MT 先生を御案内して見に行ったことがある。法華寺の門前に石碑が建っていた妙な神社。あれではないのか?

 ウ~ン・・・地図を見ると法華寺神社とある。

 「天皇宮法華寺神社」だった。

 宇奈多理神社の横を通って法華寺前の道を東へ曲がったところにあり、たしか、MT先生は宇奈多理神社-平城法華寺大神-春日神社(法華寺の北東にある)これらの神社が一直線に並ぶことに注目されていた。

 あの神ではないのだろうか。それがなぜこんな条文に出てくるのか。内蔵寮がなぜこの神子の装束の料を用意するのか。もう一度先生の説を勉強し直さなければ・・・。

 他にも十陵七墓に給う雑料などがあるがなぜその班給料が大して変わらないのか、等々、相変わらず興味深い問題が出た一日だった。

 そして次回は私の発表の番。しっかり準備しなければ、という思いを新たにした日だった。

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久しぶりの十年会~山田博士ネタ一挙掲載~の条

2010-09-27 14:45:59 | yaasan随想
 昨日は久しぶりの十年会だった。

 『平安京とその時代』が刊行できて、一度は集まったのだが、朧谷先生の奥様が,急なご病気で入院中。みんなで案じながらの会であった。
 その後みなさんの祈りも虚しく、残念な結果に終わり、私達の会でも後日お花を送ったり、していたのだが、やはり100か日も終わり、お盆、彼岸と過ぎてそろそろ先生にお元気になってもらわねばということで、近くまでお出で頂いてささやかな宴を催すことにしたのである。

 

 お店は「〆屋」さん。横の亡霊は気にせずに、のれんに注目。

堀川蛸薬師を東に入って暫く歩いた北側のお店。もちろん我が十年会の京都のことなら何でも知っているYEさんのご紹介。そして朧谷先生ももう何年も前からご懇意なお店らしい。何でも元は酒屋さんだったとかで、とにかく日本酒の品揃えがすごい。そしてどれも美味しい!いつもなら日本酒はほとんど飲まない私だが,珍しく杯が進んで、今日は少々二日酔い気味。

 昨日は特別ゲスト、我がアイドルAEさんのお連れあいも久しぶりに参加。お忙しい中この後の二次会までお付き合い下さった。

 さて話題に事欠かないこの会の中でひときわ異彩を放ったのが、この人。



 「大根嫌い教」ながら一度裏切った事のある教祖様。YK博士様。
 その教祖様が二度の裏切り、すわ教壇解体か!という一大スクープ写真を入手。刺身のつまに箸を出し、今にも喰わんとしている姿。

 この写真提供者には何でも賞金が出るとか。

 ところがその後修正情報が入り、これは大根のように見えるが、海藻から作られた大根風つまだとか。残念!!

 しかし次のネタがまたおかしい!!

 何でも最近博士の家では自動掃除ロボットを買ったとか。うん万円もしたらしい。これはなかなか便利だとご推奨なのである。もっとも床に動きやすい物(例えば犬の水入れとか、餌入れ)などは片付けないといけないらしいのだが、結構よく働いてくれるという。ただし階段や段のある部屋は駄目、とか。要するに博士のような大豪邸にしか向かない機器のようだ。

 さらなるご推奨品が、自動食器洗い器!!だという。これは絶対に必要だとか。様々な「自動」物に手を付けているらしい博士であるが、たまには失敗品もあるらしい。自動お風呂洗い器がそれらしい。何でも使用後のお風呂にこれを入れると四方八方に石けん水を飛ばして洗ってくれるらしい。ところが、水がある内はいいのだが、少なくなってくると動かなくなるという。結局お風呂の底は自分で洗わねばならなかったという。5000円という値段に引かれて買ったがこれは止めた方がいい!とのこと。

 最後に原稿自動生産器を開発中ということで、みなさんの爪の垢を収集中とか。これがうまくいけば私も100円で買うからと頼んでおいた。

 なお、棚上げになっている『平安京とその時代』の筆者全員による地上げを12月初旬の木簡学会終了後の夕方12月5日(日)18時くらいからやろうという提案が。いずれ執筆者には御案内がいくと思いますので、今から空けておいて下さいね。

 ということであっと言う間に三時間余が過ぎ、お開きに。先生がお元気であったということでとてもいい会になったと一同大満足。先生は流石にここでお帰りになったが、我々若者は二次会へ。AEさんの若かりし頃の思い出の場所セサミ、三条河原町まで繰り出した。

 たまたまこの日セサミはジャズライブの日だった。ピアノとソロシンガーの公演があった。シンガーの片山さん、なかなかいい声で暫く聞き惚れたのだった。

 

 久しぶりのジャズに酔い、日本酒の酔いも回って、気がつけば午前様。大慌てで解散。ナナナント京都は都会。まだ電車があるではないか。それも終電の一台前に飛び乗って、帰宅。駅から歩いたのは間違いないが、どうやって帰って来たかはよく覚えていない。にもかかわらず、FengFaという犬の散歩をさせて寝たというから偉い!!

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早くも授業開始?の条

2010-09-26 15:53:27 | yaasan随想
 本当の授業は10月1日開始なのですが、一足早く大学院の授業が始まりました。
とはいってもこの授業は通年制(一年間の授業)なので夏休み中に行っただけなのです。
 授業担当の先生方お二人は学生と一緒に「合宿」。泊まり泊まりがけでやるのだそうです。大変です。私たち院生の指導教官は参加不参加は自由なのですが、私のようにできの悪い学生を二人もお願いしている立場ではそうもいきません。貴重な時間なので本心は不参加だったのですが、この様な事情で参加しました。

 場所は伊勢神宮外宮の直ぐ近く。

 たまたま当日は伊勢まつりとかいう訳のわからないお祭りをやっていたので、道はあちこちで通行止め。タクシーは遠回りをして会場となる旅館へ。

 考古の院生は二人なのだが、一人は全く準備しておらずアウト!
 なめんなよ!といいたくなるが、気力のない人間は指導のしようもない。
 行きたくても大学院に行けない学生はいくらでもいるというのに、悲しいことです。この頃の子供は直ぐ「引きこもり」だとか行って逃げるが、単なる怠け癖をその言葉に託しているだけにしか思えないのだが、間違っているのだろうか。ま、反省して奮い立ってくれることを待つしかないのかも知れない。

 もう一人は夏休み中積極的に資料を見て回り、遺跡に行き、何度も相談に来ていたのでとても面白かった。
 火葬の起源、火葬の要因を様々な地方に残る資料から探ろうとするとてもユニークな研究なのだが、今回も興味深い成果を出してくれた。地道に、丹念に、コツコツと資料を分析し、少しづつ知識を蓄積し、丁寧に分析をする。その事でもって何かが前進すると楽しい、学問の本質だろう。もう一人の院生が直ぐに結果を求めるのと大きな違いである。結果を求め、答えが出ないと逃げてしまう。これでは凡人の研究くらいで進むはずがない。そもそもが、己が凡人だと自覚できているかどうか。

 古墳時代後期には、数はとても少ないのだが、横穴式木室というとても変わった墓が特定の地域に築造される。実は伊勢もその地域の一つなのである。大きな目で見ると、遠江、播磨、和泉、伊勢になぜかこの葬法が取り入れられている。始めたのはどうも遠江のようなのだが、その理由も判ってはいない。

 伊勢に来るのは六世紀末なのだが、この葬法をとる人達は半分くらいが「火化」と言ってある時にお墓に火を放って墓室を焼いてしまうのだという。

 なぜ??誰もが思う疑問である。

 「火葬のため」というのが有力なのだが、それなら造ったときにそうすればいいのに、どうも直ぐには火を放たないらしい。もちろん全く火を付けない古墳もたくさんあるという。

 なんじゃこれ?

 直ぐには収拾がつきそうもない難問なのである。これに果敢に挑戦した彼女は少しづつそのもつれた糸をほぐしつつある。

 まだ完全には解きほぐされていないのだが、もう時間の問題のような気がする。こういう学生の研究はとても面白いし、指導のしがいがある。一言いうと直ぐに反応するし、反応できないときはさらに調べる、このボールのやりとりが実に楽しいのである。そして本人もその楽しさが判って来てどんどん調べ、考えていく。この楽しさに気付くかどうかはほんのちょっとしたきっかけなので、もう一人の学生が、やる気を出してくれると有り難いのだが(元々どうして気力を無くしたのか、ようわからんところもあるのだが)。

 ま、そんな感じで、他の二人の専攻の異なる院生の報告も聞いた一日だった。彼らは四月時点では明らかに内の院生より劣っていたのだが、今回の報告を聞いて、怠けていた内の院生は完全に追い抜かれた。

 まさにウサギとカメの競争だ。兎が発憤するか、このまま逃げるか、あと二ヶ月で勝負は決まる。もちろん私は発憤してくれて、11月にこんな見事な報告が出来たとここで報告がしたいのだが・・・。

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聖武天皇東国行幸前半のコースを案内の条

2010-09-23 12:48:56 | yaasan随想
 一昨日21日は奈良文化財同好会という市民の方々が結成された歴史好きな、熱心な会の皆さんを伊勢路へと御案内した。

 会員は150人もいらっしゃるそうで毎月のように著名な先生方を呼んでこられてご講演を聴いたり遺跡巡りをなさっているという。

 会員はほとんどが60歳以上の方で、中には90歳近い方も随分いらっしゃるらしい。その上、こうした会の方の一般的傾向でもあるが、かなりの方々が元大学教官だとか、元学校教員だとか相当なインテリの方々なのである。その上、あちこちに何度も足を運ばれていて、今回のコースの一部も既に訪れたことがあるというのである。驚いたことに、鈴鹿関の発掘現場も調査直後に訪れたと聞いた。


水分神社


 今回のコースは奈良平城京外京の一郭である奈良県庁前を出発して天理から西名阪に入り、都祁・針のインターチェンジで降りて都祁 水分神社周辺に想定されている堀越頓宮から始まった。残念ながら頓宮そのものはまだ明らかになってはいないが、いずれどこかから大きな建物跡が見付かるに違いない。都祁と言えば都祁氷室が著名で、長屋王家木簡でその実態が明確になった地域である。天理の福住から東一帯には多くの氷室或いは氷池の跡が指摘されている。仁徳記には著名な氷室伝説が記されており、当該地域が大和王権と氷室を通してつながっていたことが判る。その後「都祁山道開削」の記事が『続日本紀』に認められ、これを巡っては氷室からの氷搬出ルートの確立説と、伊賀への交通路の開削説の二説あるが、長屋王家木簡の存在(和銅5年-712年-)などから見てもやはりこれは平城京からの新東海道の新設或いは拡幅と見るべきであろう。



  水分神社境内



 46人の大行列

 バスは西名阪をそのまま伊賀上野に入ってここから南へ阿保まで南下した。途中本当は山添村の毛原廃寺に行きたかったのだが、事前のバス会社との下見で大型バスは困難という判断で諦めざるを得なかった。ところが当日の運転手の言によれば通れるとのこと。かつては公共バスも通っていたところで問題はないのではないか、とのこと。とても残念だった。

 阿保に入って阿保頓宮跡をめざした。その地は一応阿保親王墓と通称される垂仁天皇息速別命陵に治定されている陵墓前だとされる。立派な石碑も建っているのだが、どうも怪しい。
 ところで阿保親王というと平城天皇の皇子、在原業平の父を想定しがちであるが、その親王ではなく伝説上の皇子がこの地に縁があるということから治定された六世紀代の古墳を陵墓としているのである。阿保親王とは俗称だと言うことだ。本当の??阿保親王の陵墓はなぜか芦屋にある(これも怪しいのだが)。


 
 垂仁天皇皇子息速別命墓



 阿保親王墓前の丘の「ジャングル」。これではとても近づけません。もっともここが頓宮という証拠はどこにもありません。今回困ったのはこういう碑があちこちに建っていることです。



 久しぶりの白山町河口頓宮の風景。この稲穂のあちこちに騎馬がい、役人達がいたのだろうか。


 そもそもが聖武が阿保に泊まったのは、急な大雨により行軍が厳しくなったための緊急事態とされている。何かの施設を臨時に使ったものと思われるが、何かとは何かとなると、思いつくのは斎王の阿保頓宮くらいである。或いは無関係に皇室との関係をもつ何かがあったのかも知れない。

 ここから国道165号を東進して河口頓宮跡へ入る。もちろんこれも中枢部はまだ判っていないが、私たちの大学での発掘調査によって、そのおおよそのエリアが確定し、500m四方もの広大な範囲に行幸の大部隊が駐屯したことが判っている。この事実はその後の頓宮研究に大きなヒントを与えてくれた。
 白山中学校辺りから全体を見回しながらみなさんに往時を偲んで頂いたのだが、いかんせん説明板も何もないのでなかなかぴんと来ないのである。このあたりの不親切さが合併の弊害であろう。最近合併したばかりで津市の対応も十分には行き届かないのかも知れないが、逆に言うと白山町のままだったらとっくに建っていたような気もする。残念!!

 白山中学校の重圈文軒丸瓦出土地から医王寺の関宮跡に移動する途中で急に大雨が降ってきて雨宿り。誰かさんに見られていたら、「ほらやっぱり雨男!!」と言われるところだったが、数分で通り過ぎ、事なきを得た。
 医王寺はその手前でパスして一路一志頓宮へ。



 一志頓宮推定地の中谷廃寺の一角。この写真は9月18日に案内頂いた時のもの。

 ここで役に立ったのが先日松阪市教育委員会のWKさんに御案内頂いた事前踏査。もちろんこれがあったので頼んだのだが、二回目となると全体がよく見えてきた。私にとってもとても有意義な行程でもあった。中谷廃寺が一志頓宮かどうかについては未だに確信が持てないが、いずれにしろこの辺りに泊まらないと次へ進めないのだから当たらずとも遠からずというところか。時間がおしていたので、バスは降りずに車窓から竹藪を見て頂いて次なる目的地鈴鹿の赤坂頓宮へ。



 現在の西城壁



 北西城壁の一部(この写真は8月に國學院の方を御案内した時のもの)

 もちろん鈴鹿関址を丁寧に御案内して斜面の上まで上がって頂いたが、何せお年寄りが多いので、これは少々厳しかったかも。ごめんなさい。

 時間があれば関宿を歩き、関明神まで行けばその全体像がみえてくるのだが、やむを得ない。予定の椿大神社の狛犬は飛ばして朝明頓宮へ。

 久留倍遺跡の草ぼうぼうを見て一同ため息が。そしてみえるはずの伊勢湾がバイパスの高架によって遮られ、全く見えず、何とかその目印である四日市港のタワーを下に説明。早く整備して欲しいものである。

 再来月にはここで久留倍まつりの写真撮影会をするのだが、どうなる事やら。

 私はここでお別れしみなさんは一路奈良へお戻りになった。本当にお疲れ様でした。
 
 その後の連絡によれば結構みなさんご満足頂いたとのこと。一安心である。それにしても今夏は先に國學院大學のみなさんを案内して養老から桑名、朝明、鈴鹿を経て伊賀、名張、そして一志、津と周り、この度は奈良から朝明までである。何と聖武全行程の半分以上を歩いたことになる。これだけまとめて一気に回ると様々な新しいことが見えてくる。
 一番確信を持ったことは、明らかにこの行幸は計画的だった!!であった。そして、久留倍遺跡が朝明頓宮であることをさらに確信した夏でもあった。

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 中秋の 伊勢路を歩く 大和人
 
 稲穂垂る 先にぽつんと 基壇跡

堀越の 稲穂の先に 水分社 



 これで今夏休みの調査、踏査、測量、講演、史跡案内などは全て終わった。やっと集中できる。頑張ろうっと!


近世古文書解読!??の条

2010-09-20 02:53:58 | yaasan随想
 モンブランを使うと不思議なことが起こるのかも知れない。
 
 つい先日、学生時代の親友から変な依頼が来た。

 「この添付写真の古文書を読め!」というのである。

 もっとも彼も私の能力を知っているから。私が読まなくとも誰かに読ませてもらってくれと言ってきたのである。
 だからといって、今は夏休み中、近世史の院生はどこにもいないし、中世史の院生あまり古文書は得意でないし、もちろん考古の人間は全く駄目だし・・・。

 困ったな~

 しゃあない!断られたらその時、一度大先生に頼んでみることにしようか。
 と言うことで、恐る恐る同僚の近世史の大先生に、小さくなりながら、事情を説明して頼んだのである。

 なななんと、「OK!」と言うではないか。
 姑息にも、先日レバノンから買って帰ったオリーブ石鹸一個でお願いしますという手を使ったのである。実は先生には既に一個渡してあったので、あまり効果はないこと間違いないのだが、他に渡す物もないし・・・。

 もちろんそんな賄賂で動く人ではないのだが、とても快く?引き受けて下さり、直ぐに釈文をよこしてくださった。

 何でも、享保四(1719)年に西本願寺の宗主住如に地元のお寺の僧侶?或いは依頼主のご先祖様?が木造仏一体を願い出た文書と判った。

 依頼主は私の友人の友人、私も一度お会いしたことがあるのだが、広島県の山間部吉田の方である。さすが安芸門徒!熱心な信徒達である。もちろんその時頂いた仏様はちゃんとお仏壇にいらっしゃるという。

 我が家なんか、古い物はみんな散逸してしまって、ある物はせいぜい両親の子供の頃の写真くらいである。それが何と300年も前のものが普通に出てくるところが素晴らしい!

 これもきっとモンブラン様の御利益であろうと、勝手に思い込んで久しぶりに爽快な気分を味わったのであった。

 TA先生本当に有り難うございました。これが元で伏せったりなさいませんように。

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 秋晴れに ミミズ文字読め いい気分 

62×365+15=22645×86400=1956528000の条

2010-09-19 11:04:37 | yaasan随想
 あと12時間あまりで私の心臓はおおよそ1956528000回鼓動を打ったことになる。もちろん走れば鼓動は早くなるし、寝てれば遅くなるからあくまでおおよその回数である。私は普通にしていると便利な心臓で、大体1分間に60回打つ。つまり毎秒鼓動が打たれたとすると、生まれてこの方これだけの数心臓が動いたことになるらしい。ちなみに20億回打つためにはあと503.148148日、1年と138日12800秒(約三時間33分)必要ということになる。これはおおよそ本来の定年の歳である2012年度末に近い数字である。定年というのはうまく決められているのだな-と感心するのだが、一般的に定年はまちまちだからこれが全てに通じるわけではない。

 それにしても人間の心臓は止まるまでに20億回も働いてくれているということらしい。もちろんこれが長寿の方なら30億回くらいは打つのかも知れない。あっぱれ心臓!である。

 何を暇なことを!と思いに違いない。折角生活のリズムを取り戻せると思ったのに、結局元の木阿弥。先のブログを書いて直ぐに寝たが、九時半には目が覚めて、結局3時間余の睡眠。今日は61歳最後の日なので馬鹿げた計算をした次第である。全く関係ないが、昨日お世話になったWKさんの誕生日も同じ明日だとか。これで我が業界には3人同じ日に生まれた人物がいると判明。なおそのうちの一人はもう定年でお辞めになったK府教育委員会のKTさんで、彼とは生年まで同じという奇遇である。KTさん、お元気ですか~

 こんな感傷に浸っている暇はないのでこれからねじを巻き直してひたすら原稿を書き続けるのである。

 ア、そうそう先日来の海外出張で、台湾で現地通貨に換えすぎたのをこれ幸いにと、以前から欲しかった万年筆を買ったのであります。もちろん万年筆はモンブラン!!と決めてますから、憧れのモンブラン!!実は以前に友人からもらったことがあるのですが、ナナナント不埒にもこれを落としてしまった(ごめんなさい!!)。その後別の機会になんかのお礼にと、パーカーの万年筆をもらったのですが、これが不調で直ぐにインクが無くなる。そのうちどこかへやってしまって、長く万年筆がなかったのである。

 もっとも最近はワープロを使うので、万年筆を使う機会が少なくなっているのだが、それでも親しい友人から万年筆で書いた手紙や年賀状をもらうと「感激!」やはり直筆でなければ!と前々から思っていたのである。その念願叶っってのモンブランだったのです。

 私にとってはちょっと高めでしたが、モンブランならピンキリ、自分に合っているかどうかが大事なポイント。で先日知り合ったばかりの素敵な研究者へのお礼のお便りに使ってみた。

 ばっちり!!

 書きやすいのなんのって、最高!

 みなさんご存じの方はよくご存じですが、私の「古文書字体」。我が同僚のTA先生に言わせれば「山中の字が読めれば古文書は読める!!」というお墨付き??の悪筆なのです。自分でも読むのに窮する訳のわからない字なので、最近は直筆はよほどでないと使わなかったのです。

 ところがどうでしょう、やはりモンブランですね、いつもと違って読めるではないですか(と、勝手に自己満足しているだけかも(笑))。

 ま、読めるかどうかは別にして、とにかく書きやすい。とても気に入ったのであります。原稿は今や直筆では使ってくれないのでワープロにならざるを得ないのですが、これからはできるだけモンブランを使うことにしようと思った次第であります。

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 初秋の候 しみいる先に モンブラン


 

原稿が進まないのに忙しくて・・・袋小路の条

2010-09-19 05:00:03 | yaasan随想
 ここのところ断続的にしかブログが書けません。
 原稿が進まないのも、レバノンでの過酷な調査が未だに体調に大きな影響を与えているからのようです。でも何とか、久しぶりに少し書いておきます(書くことは山ほどあるのですが・・・)

 レバノンでの1週間が生活のリズムをすっかり狂わせてしまったようです。時差ぼけというのでしょうか。ここのところ妙な時間に眠くなったり目が覚めたり、いつ寝ていつ起きているのかさっぱり判りません。

企画展ポスター


 昨日は松阪市で講演を依頼されていたのですが、その資料がなかなかできなくて、ぐずぐずしている内に朝が来て、何とかで来た資料をホッチキスにかけて・・・結局ほぼ徹夜状態で松阪に向かいました。ただそれもどうも時差ぼけのおかげで、大して眠くもなく、講演の方も結構予定通り、割とスムーズにやや難しい話を話すことができて、自己満足に浸ることができたのです。

 終わった後の会場の雰囲気もとてもよくて、自己評価が間違っていないのかな、と言う感じでした。

 講演は、はにわ資料館の企画展「仏教開花~花開く仏教文化~」に伴うもので、「天武・持統の寺から聖武・称徳の寺へ」という題で話しました。

 講演の骨子は、
 (1) 伊勢国最古の寺は北勢(桑名)額田廃寺(天智の寺)であることから、第一のテーマは、なぜ桑名に川原寺同笵瓦を用いた寺が建立されたのかを考えること。
 (2) 白鳳寺院(天武・持統の寺)密集地帯の中勢と空白地帯の南勢と言う図式があることから、第二のテーマは、なぜ中勢(一志郡)に白鳳寺院が集中するのかを考えること。
 (3) 松阪市一帯の中勢南部では全国に例を見ない八世紀後半の寺院が、伊勢神宮寺(称徳の寺)を筆頭に建立される。第三のテーマ:なぜ八世紀後半の寺が中勢南部(飯高郡・飯野郡・多気郡)に集中するのかを検討することであった。

 まず最初にこの地域を中心とした古代寺院を確認し、その瓦の移動関係を紹介した。
 1 古代伊勢国中部・南部の寺院
(1)飯高郡の古代寺院(アルファベットは寺の略号。←→の記号は両者の寺院の間に何らかの関係が想定できることを示す。
・伊勢寺廃寺(ID)←→(TG)(HT)(NU)(例えばこの伊勢寺廃寺(ID)は、天花寺廃寺(TG)八田廃寺(HT)丹生寺廃寺(NU)と同笵関係や紋様の関連性の指摘できる瓦を持っているという意味である)
・ヒタキ廃寺(HK)←→(伊勢国分寺?)
・丹生寺廃寺(NU)←→(DR)(ID)
・御麻生薗廃寺(MZ)←→(DR)(平城宮)(保良宮)
(2)多気郡の古代寺院
・逢鹿瀬廃寺(OG)←→(SK)
・四神田廃寺(SK)←→(OG)
・大雷寺廃寺(DR)←→(MZ)(TG)(NU)(西方廃寺)(斎宮)(伊勢国分寺)(志摩国分寺)
・伊勢太神宮と古代寺院

2 天智の寺~なぜ桑名に川原寺同笵瓦を用いた寺が建立されたのか~  
(1)川原寺同笵瓦(外縁削除)の特徴を確認
(2)桑名郡成立の背景に「ミヤケ」の存在を想定できるのではないかと指摘。
(3)額田廃寺建立後壬申の乱が起こり、乱終了後、縄生廃寺が建立される。ここには関連性があると想定。
 
3 天武・持統の寺 ~なぜ中勢(一志郡)に白鳳寺院が集中するのか~
(1)一志郡の古代寺院
(2)郷毎に展開する白鳳寺院
・八田郷:八田廃寺(HT)←→(ID)
・日置郷:高寺廃寺(TD)
・須賀郷:上野廃寺(UN)嬉野廃寺(US)須賀廃寺(SG)
・小川郷:天花寺廃寺(TG)←→(DR)(ID)一志廃寺(IS)中谷廃寺(NT)
(3)畿内型後期古墳群の形成と白鳳寺院
(4)壬申の乱と無関係な一志郡

4 聖武・称徳の寺 ~なぜ八世紀後半の寺が中勢南部(飯高郡・飯野郡・多気郡)に集中するのか~
(1)伊勢大神宮寺の成立
・『続日本紀』文武天皇二(698)年12月29日条「多気大神宮(寺)を度会郡に遷す」
・同天平神護二(766)年7月23日条「使 いを遣して丈六仏像を伊勢大神宮寺に造らしむ」
・神護景雲元 (767)年10月12日条 「朝廷から伊勢国逢鹿瀬 寺をもって永く大神宮寺とすべき宣旨」

(2)伊勢寺廃寺と馬場南遺跡で三彩須弥山が出土していることに大いに注目すべき事を指摘。
(3)御麻生薗廃寺から保良宮推定地から出土する平城宮式6235B型式瓦が出土する事実はとても大事であること。
(4)これらは766年の伊勢太神宮寺設置の時点から展開する称徳王権の伊勢太神宮への関与の印であることを指摘。
(5)伊勢太神宮寺である逢鹿瀬廃寺が四神田廃寺へと移転させられるのは王権と太神宮との関係の変化を示すことを指摘。           
(6)岡田登氏の研究により大雷寺廃寺の建立は、こうした称徳王権において、中央では神祇のトップにあった大中臣氏が大きな役割を果たしたことが知られているが、飯高郡内の諸寺建立の背景にも同氏の存在が大きな役割を果たしたに違いないことを指摘。

おわりに
・伊勢太神宮と古代王権の関係は決して平坦なものではなく、中央での政争が直接的に彼の地にも影響を与えたこと。

 等々を話した。 

 この後展示をみなさんと見学したが、次から次へと質問が飛び。驚いた。展示見学も終えて、当初の予定通り、中谷廃寺の場所を松阪市教育委員会のWKさんに御案内頂いて、その立地を確認することができた。

 中谷廃寺=一志頓宮説が成り立つのかどうか。なかなか厳しいかとも感じた。

 そんなこんなで夕方5時頃江戸橋まで戻り、この日初めての食事。大してお腹も減っていなかったのであるが、いつもの食堂で朝、昼、夜兼用の食事。流石にこの頃になると眠たかったので「寝る!!」と決めて久しぶりにビールを一本買って飲んでバタンキュー!!ところが悲しいかな途中で目が覚めてやむなくこのブログで眠気が来るのを待っているところ。

 それにしても伊勢寺廃寺の三彩須弥山は素晴らしかった。今月の26日まで展示していますからみなさんお見逃し無く!!

伊勢寺廃寺の三彩須弥山



天花寺廃寺の菱形塼仏


中谷廃寺の重圈文軒丸瓦



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レバノン第二次調査-1 本当のアルバスサイトの姿の条

2010-09-06 00:14:23 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
レバノンへ調査にきています。
アルバスサイト、シティーサイト、ラマリサイトを精度の高いGPS,で測っています.既に1500点取りました!測量するとなると慎重に観察します.
その結果、新しい事実が、次々と判明してきます。

まず第一が、復元の問題です.
かなり整備に携わったものの主観が入り、創作されています.この部分を慎重に取り除かないと時期の混在した、本来あるはずの無いものを測ることになります。
そんな作業を繰り返しながら、わかってきたことの一つが、ローマ時代水道橋の配置の規格性などです。これだけの大都市を建設するのですから、設計図があったことは当然です.測量によってその一端が明らかになりつつあります.

第二に、様々な施設の細部が判明してきました!例えば、今日は、戦車競技のチームであるブルーチームの控え室の構造の一端を知ることができました.中央にある八角形の施設は、風呂の炊口と連動し、全体が、風呂として使われていたことがよくわかりました.

ネット環境が良くないので、細かいことは帰国後にしますが、とにかく面白いです。

ただしクタクタです。木陰は涼しいのですが、ひなたの暑さはなみではありません!

あといちにち最後の力を振り絞って、最高の成果とともに、帰ります.
とにかく面白い!

またね!

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