yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

亀山城散策の条

2008-05-24 22:20:28 | yaasan随想
亀山城がこんなによく残っていたとは、感激!!と思ったらよろしくお願いします。


昨日は朝からほぼ一日亀山三昧であった。

10:30から15:00まで亀山市史の編さん及び推進委員会。

その後1時間ほど久留倍遺跡を考える会の方と亀山市役所で打ち合わせ。そしてその後、亀山市史での亀山城の3次元復原の為の基礎調査として亀山城の全域を歩くことになった。

まず亀山市歴史博物館で開かれた亀山市史の会議では、原稿やIT関係プログラムの進む民俗部会からの具体的な作業状況の紹介があった。

とてもよく進んでいるので聞きながら焦りを覚え、途中から発表そっちのけで我が部会の構想を練り出す始末であった。

昼休みを挟んで午後から役所のえらいさんがたの出席する推進委員会なのだが、そこで一息、博物館で開催中の「子供の書いた文字、大人の書いた文字展」を見学した。


(いつも思うのだが、どうもこの博物館の学芸員の構成があまりに近世文書に偏りすぎているように思う。だから何回見てもここの企画展は真っ白けの世界なのだ。何とかして欲しい!!これでは見学に来る人は少なかろう!!!あまりに文字に頼り過ぎなのである。)

言い訳程度に導入部に墨書土器が置かれていたが、そもそもこれが大人が書いた文字なのか、子供が書いた文字なのかそれが解る工夫が全くなかった。きっと大人が書いたのは当然と言いたいのだろう?! 僕なら本物を借りることは予算上難しいのなら、せめて写真を掲示して、大人が書いたが、子供が書いたのではないかと思ってしまうほど稚拙な関東の9世紀の墨書土器を示す!!!

そこから文字の普及を考えてみることができるからだ。その上で江戸時代以降の文字の展開を示せば、いかに江戸時代の教育が日本の識字率を高めるのに役立ったかが判るはずだ。 ま、しかし、ちょっと頭の堅いみなさんには難しい課題かもね。

13時30分から始まった会議は僕たちの出番無し、僕たちは飾り。そんなこんなでかなり疲れた。


(市役所会議室から見た亀山城本丸跡にある亀山西小学校の校庭)
でも定刻15時に終わるところはさすが!

その後11月1日開催予定の久留倍祭りと聖武天皇東国行幸サミットの打ち合わせ。途中某俳優さんと出演交渉。さて、うまく行くことやら・・・。

16時予定が16時30分と少しスタートが遅れたがいよいよ本日のメインエベント。


(多聞櫓の載る石垣は一部先の地震で崩れたらしい。その石垣の直ぐ内側に移築されたのが明治天皇が泊まったという建物。)

亀山市教育委員会のFさんの案内で亀山神社をスタートして、

多聞櫓、
(櫓の東端から南を見る.なかなかの景色でした!)

その大石垣、


今は埋め立てられてしまった外堀、



西出丸跡、北側の土塁想定地、


北の外堀、


二の丸帯曲輪跡、神戸門跡、



東外堀・江ヶ室門、




そして大手門から東海道に出て、東海道の町並みを散策した。


東海道では町々の玄関に掛けれた江戸時代の資料に基づく屋号を記した札が目に付いた。


その後、遍照寺では元二の丸の玄関にあった建物を移築したという本殿を見学し、東海道を下って、JR亀山駅まで、約1時間半のコースとなった。


(誓昌寺はもう夕方で門が閉まっていました。どちらも亀山城の載る独立丘陵の南斜面上にあり、外からはよく見える位置に建設されています。まるで双子のお寺のように立地も建物の方向も似ています。)


(東海道を降りきったところに市長さんのお宅があります。元の坂下本陣に残っていた建物を移築したものだそうで、とても立派な「東海道」を彷彿とさせる建物でした。)
亀山城、亀山駅からゆっくり歩いて2時間、とても健康にいいコースですよよろしくね


都江堰の写真が戻ってきたとき・・・の条

2008-05-16 07:53:53 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
都江堰は残り、学校は崩壊した!子供達のことを思うと・・・経済主義、効率主義の現実です。


(2000年もの昔にこれだけの事業を智恵を集め、人を集めて行った同じ人間が、今、老朽化した学校を直すこともできず、未来ある子供達を無残にもあちらへ追いやった。でもそれは他人事ではない。経済主義の名の下に日本の学校の改築も進まず、放置されたまま。我が職場も、四川地震と同じ規模の地震が起これば、砂上の楼閣!!きっと無残にもこの世から消え去るに違いない。誰のための「効率」なのか四川地震は見事にそれを示してくれている。)


(都江堰の解説図.これらの管理施設が被害を受けたと聞く。)
2004年8月28日、私たち三人は成都郊外にある三星堆の青銅器文化を見学した後、都江堰に向かった。

都江堰はBC256年、戦国時代の秦が遣わした蜀郡の長官李氷が建設したものと伝えられる。暴れ川だった岷江を鎮めるために堤や堀を築いて(掘削して)岷江の流れを分け、治水と利水に使ったものだ。


(岷江の水量を避けながらこれだけのものを作った智恵と技術力に感服する。堰き止めるダムではなく堤で分水するという智恵!)
訪れたとき、その壮大さに目を奪われ、政を行う人間の知恵の深さに感銘を受けたが、今、その知恵の結集が四川地震によって危機に瀕しているという。

都江堰自身も地震によって大きな被害を受けたが、さらに周りに人間が造ったダムが地震の被害を受け、崩壊の危機にあるというのだ。これらが決壊すると、一気に水が流れ込み、都江堰が破壊される危険があるというのである。



近・現代の浅はかな土木工事が、今になって大きなしっぺ返しを受けているのである。

かつて田中康夫長野県知事は「脱ダム宣言」を発して公共事業のムダを減らし、自然を活かした治水・利水の方法を探った。しかし、公共工事の減った土木建設業の強力な「援助」を受けた現知事が就任し、再び税金の無駄遣いと自然破壊が特定業種のために費やされようとしている。

もし日本に四川と同じ規模の地震が襲ったらどうなるのか?きっと土木やさんは言うに違いない

「想定外」

こんな無責任な工事で自然が破壊され、そして地震が来たときにはこれが災いをもたらす。今自分達が懐を肥やせればそれでいい。後、子孫達がどうなろうと知ったものではない。2000年以上もの昔、李氷が取った考え方とは全く逆の為政者達が日本中を食い物にしている。


(都江堰を造った李氷親子を祀った二王廟には今もひっきりなしに人々が訪れる。こんな尊敬の念をもって迎えられる「土木屋」さんが日本にいるのだろうか?この二王廟も完全に倒壊したというから悲しくなる。)

例の道路財源然り!!閣議決定などという、この間どれだけ反故にされてきたか知っているくせに、そんなまやかしで矛を収めてしまうどこぞの「若手??議員」。彼らに聞いてみたいものだ。


(灘を深く掘って、堤は低く造る!のだそうです。)

「あなた方に2000年後の人々が手を合わせて感謝してくれる道路が造れますか?」と。

それにしても悲しくなるのは、2000年前の都江堰は無事であるにもかかわらず、未来を担う子供達の学ぶ学校が900人もの若い命を呑み込んで崩落してしまったということだ。人間は2000年間一体何をしてきたのだろうか。歴史学を学ぶ者にとってこれだけ悲しい事態はない。

所詮、進歩や発展は極一部の者が享受するものであって、地球上の人類に行き渡るものではないことを改めて教えてくれたような気がする。

改めて私たちの足下を見直したとき、建物の外壁だけを綺麗にお化粧し直して、見かけだけをよく見せる工事が進んでいる。受験生もまた、そんな施設の学部には行くが、汚れた校舎の学部は敬遠されるという。とても悲しい事態だ。


(都江堰を記念して造られた図。)

耐震構造のためと言って、今あちこちで壁に筋交いを渡した工事が進められている。しかしそのどの工事をみても、基礎を岩盤にまで補強した工事は見受けられない。きっとお金がないからだろう。上屋は補強されても土台はそのままなのである。こんな工事で、「東海地震」に耐えられるのだろうか?仮に四川地震のようなものが起こったら、きっと工事屋さん達は言うに違いない!

「想定外」

でも今語られることは

「問題ない!」

要するに2000年後を見据えた工事など誰も考えていないと言うことだ。悲しい、呆れた「技術」力だ。地震国日本なればこそ、他山の石をもって、今こそ2000年後が見据えられる技術力を再構築し、その英知でもって「工事」すべきではなかろうか。


(この橋を渡ったときの感動がまた甦ってくるのだが・・・)

都江堰を訪れた際の写真を保存していたハードデスクが壊れ、最近修復したばかりだ。まさかその日に、見学した都江堰周辺があれだけの大被害にあうとは想像もしていなかった。写真を改めて見れば見るほど悲しくなってくる。

都江堰を作った李氷を見倣いたいねと思ったらよろしく。


第11回壬申の乱ウオーク伊勢国分寺を歩くの条

2008-05-11 08:24:06 | 久留倍遺跡を考える会
鸕野讃良皇女のように三重郡衙を焼いて暖をとればよかった!と思われる方、よろしくお願いします。



雨中の84人采女坂を大行進。

大感謝!!お風邪を召されませんように!(実は鸕野讃良皇女がどうして夏の雨に打たれて「疲れた、寒い」ということで三重郡衙の一部を焼いてまで暖をとらねばならなかったのか、よく判らなかったのです。夏なら丁度いいシャワーじゃないかと・・・。よく判りました!実感しました。ずぶ濡れになって寒くて仕方がありませんでした。帰宅して直ぐにお風呂に入りました。マー珍しい!!)


(采女坂を最高齢80余歳の方も含めてお元気で、杖も衝かずに歩いて頂きました。私は足に身が入ってしまいました(笑))



今日は次のような予定で大海人皇子6月26日の条を歩きました。
昨日はとてもいい天気だったので、まさか雨が降るとはみじんの考えていませんでした。朝5時半に目を覚ますと、外でなにやら不吉な音がする。どうも雨らしい。そっとシャッターを上げるとやはり。


(鈴鹿市考古博物館に9時集合、中森館長、岡田・吉田・榎本学芸員からご挨拶、解説を受ける。有り難うございました。)
それも結構な雨脚である。勿論壬申の乱ウオークは雨が降ろうが、槍が降ろうが、そして大雪で滑ろうが、やる!!


(前回第10回、大雪の大津京ウオーク)

これがモットーであります。

ところが今日のコースは雨が降るととても厳しい!
坂もそうだがなんといっても見るものがあまりないのである。どうしよう?


(だからといって、展示だけにするのはもったいない。思いきって行こう!ということに。)


本日のコース
鈴鹿市考古博物館(JR河曲駅徒歩35分)9:00集合 

鈴鹿市考古博物館展示案内 → 


(丁度今、「速報展 発掘された鈴鹿2007」と題した特別展をやっていました。鈴鹿市考古博物館というのは厳しい予算の中で、とても学芸員の方々が頑張って運営されている博物館なのです。大阪府の知事のように何でもやめればいいというものではないはずです。こうして工夫してやることがいかに大切かを鈴鹿の方々は示してくれています。ちょっと交通の便が悪いのですが、四日市から三交バスも出ています。7番乗り場から平田町行き、国分で降りて徒歩10分です。JRなら、河曲(かわの)駅から徒歩35分です。みんなで行って、博物館を支えましょう!!)

9:45 伊勢国分寺見学 → 


(丁度お花を刈ってしまったところなので、残念ながら遺構の表示は確認できませんでしたが、ずぶ濡れになりながら岡田さんから丁寧な解説をいただきました。雨の中を有り難うございました。)

10:15 菅原神社 → 

地元国分町にも菅原神社があります。この辺り一帯は古墳群のあるところとしても知られており、早くから地域のまとまりが知られているところでもあります。菅原神社がなぜこの地に勧進されたのかはよく判りませんが、国分寺・国分尼寺の造営など、王権を支えた大鹿氏の存在は見逃せないでしょう。


(最近は若い女性の方も参加されるようになって、我が研究室の男子学生も張り切っています??!菅原神社でのスナップ)

11:00 (旧東海道) 采女坂→

実はこの場所については以前からとても気になっていたのです。
『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に聖武天皇が施入した土地として

「三重郡采女郷十四町
 開二町五段 未開田代十二町五段 四至/東公田 南高山 西百姓宅 北三重河之限」

とある。実際にこの地において地形をみるとこの表記の通りであると判る。東海道の通る杖衝坂なある山が南の高山、北の三重河とは内部河に他ならない。

ところで、どうしてこの様な少ない土地が(他の所はたいてい何十、何百町単位なのです)施入されたのか、不思議だったのですが、この地こそ、河曲郡郡から三重郡へ入っていく陸上交通の要所だったのです。納得しました。

 この地はまた、『古事記』や『日本書紀』に出てくる 日本武尊伝承の杖衝坂の候補地でもあるのです。伊吹山を意識朦朧としておりた武が傷ついた身でこの坂を上り、能褒野の地で亡くなるというのです。杖衝坂から能褒野(亀山市)は目と鼻の先です(来年の2月14日には第13回壬申の乱ウオークで歩きます)。記紀の記載が事実かどうかは別にして、また、杖衝坂が当地かどうかも判然とはしないのだが、聖武が大安寺という国家寺院のために土地を寄進した背景には、この地が古墳時代の昔から大王権と強く結び付いていた場所であったことと深く関係しているのではなかろうか。
 当然、私には大海人皇子が進んだ河曲郡の坂本もこの付近であると思われるが、これについては異論も多いようだ。


(まさにこの風景こそ、かつて王権が交通の要所として確保してきた土地であることを説明してくれています。)


(途中内部の町並み資料館の館長様が飛び入り解説。とても丁寧に地元の歴史をお話し頂きました。有り難うございました。)


(芭蕉の句碑も建つ)


(大正時代の杖衝き坂を写した写真。館長様にお借りしました。)

12:00 近鉄内部線内部駅解散


(お疲れ様でした)


配付参考資料引用原典
1 『日本書紀 下』(中央公論社1987年)「天智即位前紀~壬申の乱」記事
2 『新修国分寺の研究 第二巻 畿内と東海道』(吉川弘文館 1991年)
3 『鈴鹿市史 第一巻』(鈴鹿市 1980年)
4 『伊勢国分寺跡5』(鈴鹿市考古博物館 2005年)
5 『三重県鈴鹿市 伊勢国分寺跡』(鈴鹿市教育委員会1992年)
6 鈴鹿市考古博物館資料

本日の見所
・ 国分寺造営を担った人々は?
・ なぜ鈴鹿郡に国分寺や国府が置かれたのか
・ 大海人皇子の通ったコースは?


次回(第12回)予定 2008年11月1日(土)「久留倍遺跡を歩く-③」
8月の第二土曜日は今回お休みにさせて頂きます。その代わり


11月1日に「聖武天皇東国行幸サミット」


と題して四日市市市政111周年記念行事に協賛して大規模な「お祭りウオーク」を行います。ご期待下さい。※このウオークでは車いすの方の参加もできるようお世話しようと思っています。ボランテアでお手伝い頂ける方の参加をお待ちしております。



(いつも資料集を作ります。参加のみなさんはとても熱心なので、歩くところに関するいろいろな資料をコピーしておきます。なかなか個人では手に入らない資料などが大学にありますので、そんなのをコピーしていきますと自ずと資料集は100頁を超えてしまいます。学生さんに印刷を頼んでいますが、これが直前の夜ということで、大変です。いつもごめんなさいね。100頁300部、気の遠くなる印刷作業です。)


(一番下で小さくなっているのが私たちの資料。その他は博物館や町並み資料館の館長さんの資料)
鈴鹿考古博→菅原神社→采女坂→内部駅歩いてみようかなと思ったら、よろしくね!

原稿の大山が長岡に変じて?;・・・の条

2008-05-07 09:32:53 | 久留倍遺跡を考える会
後一息頑張れ!死ぬ前に書き上げろよと思ったらよろしくお願いします。

 宣言通り、5本の原稿を終了しました!

 となればいいのですが・・・、当然そんなの不可能!!

 何とか3本半を終えて、これから半本を完成させ、残り1本は月曜日まで待ってもらうことにしました(勝手に)。

 勿論一から書いていたのではないのでこんなことができるのですが、それにしてもきつかった。途中急に酷い頭痛に悩まされて半日ダウン。何十年ぶりかという偏頭痛!ひょっとして・・・!?なんて考えなかったわけでもなく、とにかく布団にくるまってじっとしていました。未だに原因はわからないのですが、とにかく半日寝ていたお陰でなんとか頭痛は去ってくれました。ラッキー!!

 しかし!そのために当然原稿は予定を大幅に遅れました。

 その上さらに、参考論文が一本届いていないことが判明。ナナナント、随分前に図書館に来ているのに、この頃の図書館は複写依頼したものを届けてくれないらしい。その上、休日は正規職員がいないから渡せない!とつれないご返事。

 バイトの学生に文句を言っても仕方がないのでスゴスゴと引き上げ。これで鬼教授の締め切りは完全に遅れることに(実にいい口実ができました。ホッツ)。ごめんなさいT先生。

 ついで、T大のWebb先生にほんの少し原稿を待ってもらうようにお願いのメールをして、これで完璧!!???何が

 実は今日七日も私にとっては連休の名残なのです。なぜか?このごろの大学というのはほんとうに馬鹿で(あ、ごめん、こんな表現はいけませんね、愚かで?智恵がなくて?小心者で!)、ある曜日に休みが集中すると不公平になるので、学期途中に授業の振り替えをするんです。

 例えばこのデビルウイークでは、月・火に休日が集中するので、今日水曜日は月曜日、明日木曜日は火曜日の授業なんです。それで・・・今日月曜日はいつも別の大学へ非常勤に行っているので・・・(とここに来て急に心配になった!まさか、非常勤の大学も振り替えなんてことが・・・??急いで電話をかけた。 そうそうそうなんです。こんな馬鹿げたことを考えるのは○○大学法人のお役人だけなんです。勿論普通授業でした。ホッ)、今日も休み?!ということでこれからもう一日を最大限に利用して1.5本に挑むのであります。

 それにしても悲しい2週間であります。息子夫婦と息子の息子達3人は何とこれから上海に行くとか、息子の息子に

 [何しに行くんですか?]と聞くと

 [上海へ一杯一杯美味しいものを食べに行くんだ」と電話の向こうで大声で言ってました。

 ところがこっちは、実は、今秋の土曜日にも行事があって、恒例の

壬申の乱ウオーク

 今回は鈴鹿考古博に9時に集合して、博物館を見学した後、隣接する伊勢国分寺を案内して菅原神社から采女坂を経て内部駅までの約6キロ!というコース。

 本当はこの日に車いすの方も参加できるようにしたかったのですが、準備が間に合わず、11月1日にやる次回

「聖武天皇東国行幸サミット!!」では必ず実行しますのでね。お許し下さい。

 土曜日の資料がまだ出来ていないんです。目の前に材料は積んであるんですがね。誰か手伝ってーーー!

第11回壬申の乱ウオークもよろしくね。

伊達公子復活の条

2008-05-05 18:22:28 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
伊達公子優勝・準優勝おめでとう!!と思ったらよろしくお願いします。

 原稿で忙しいはずの者がいきなりなんじゃ?!とお思いでしょうが、お許し下さい。

 やっと1本終わり、次の2本目も目途が立ってきて、ちょっとばかり休憩です。

 そう、この間やきもきしたのが伊達のカンガルーカップです(こんなんあるのすら知らなかった)。とは言っても時々見るインターネットのニュースが日々大きくなるのに、ワクワクしていただけなんですが。

 何でおじさんが?とお思いでしょう。さもありなん。

 私テニスなんぞラケットを握ったこともない。もちろん試合を見に行ったこともない。そんなテニス音痴(イヤそもそもがスポーツなるもの野球以外、バトミントンを高校時代にほんの少しやっただけというスポーツ音痴)がなんで?どうせ、37歳復活に驚いて「頑張ろう!」なんて書こうとしてるんでしょう。

 そんな暇を惜しんで書くのが原稿!!そんな暇を惜しんで書くのが原稿!!

 あたり!!図星!

 いえいえ、もちろんそうした感慨はありますよ。でもね、伊達は(こんな呼び捨てするほど親しくないことは言うまでもない すみません)昔からちょっぴり違うんです。

 彼女が頭角を現すきっかけになたのが、

 四ノ宮テニスクラブ

 京都市山科区の北東の山の中にある。「sky」というキャッチフレーズがぴったりのとても静かなところだ。それもそのはず、元々ここはサナトリウムだった。このクラブのオーナーだった竹内さんは元々お医者さん。僕も昔オーナーのご兄妹である女医さんが開いておられた近くの竹内医院がかかりつけのお医者さんだった。もちろんその頃はテニスクラブをやるなんて想像もしてなかった。

 そんなこんなで親しみがある?

それも一つだけれど・・・

 実はこのクラブのヘッドコーチ(今はオーナーなのかもしれないが)を務める竹内博は僕の小学校の同級生。色白で、すらっとしていて、とてもスポーツ選手になるとは思ってもいなかった優しい男。それが、僕の担任でもあった櫻井先生と出会ってがらっと変わった。先生はおそらく学校を出られたばかりの新米先生。はつらつとした方で、みんなの憧れの的だった。こんな先生になりたい!!みんながそう思ったに違いない。

 その櫻井先生の特技が当時ではとても珍しい硬式テニス。

「重いラケットを振るから僕の手はほら、こんなに右手が長いんだよ」

といって見せて下さったことをよく覚えている。その櫻井先生に手ほどきを受けたのが竹内なのです。小学校を卒業し、中学校あたりからめきめき強くなったらしいのだが、その頃日本のテニスはみんな軟式!! だから彼が学校ですることはなかったし、そんなに強いとは誰も知らなかった。そしていつしかテニスクラブのコーチに。

 ところがある日新聞にニュースが載った。

 伊達公子が通った四ノ宮テニスクラブ!!

エエッツ!?これ、竹内んところジャン。彼女のコーチ役は彼の弟・映二さん(現在のデ杯監督・元全日本チャンピオン)だったそうだが、もちろん彼も手ほどきをしたらしい。数年前にした小学校の同窓会に出てきた竹内はとても同い年とは思えないかっこよさ!!もちろん話題は「伊達」。そう、僕の同級生竹内と櫻井先生がいなかったら世界の伊達は出てこなかったかも知れない!!

そんなわけで、テニスも、伊達公子も直接は何にも知らないのだけれど、彼女の名前を聞くと自動的にアドレナリンが上がる私なのであります。

頑張れ、伊達!!今度は単複優勝してね!!

ほら、あんたも原稿頑張らんと!!原稿に歳は関係ないのじゃけんね。(突然広島弁)

ハイハイ、では再び三度、3本目の原稿にかかりまする。

四ノ宮テニスクラブもよろしくねオーナー代理代行無関係

原稿の大山に追われて・・・デビルウイークの条

2008-05-04 08:44:01 | yaasan随想
デビルウイークだと思う人一票!!よろしくお願いします。

 ゴールデンウイークというのは誰が付けた名称なんでしょうか?

 私にとってはこの週間は生まれてこの方、

「デビルウイーク」

でしかありません!!

 子供の頃は友人達が遊園地などへ連れて行ってもらうのを羨ましく眺め、学生時代は正月同様店屋が閉まり、食糧調達に苦労し、役人時代は期限の迫る発掘調査に追われ、そして今は山のように積まれた原稿の催促に怯え、籠城して研究室で寝食を忘れてパソコンに向かう有様!!

 これがどうして

「ゴールデン」

なんですか!?

一刻も早くこんな週間はやめるべき! イヤ、そうではなく、この週間に原稿を書くことを禁止すべきではないでしょうか。

正月、5月連休、盆に仕事をすることを禁止する法案を超党派で提出すべきではないでしょうか。

そんなこんなで、連休前半は仕事に追われ、後半は原稿の大山に追われてどこにも行かず研究室で、ただひたすら本とパソコンに向かっているyaasanであります。

ところがであります。こう言うときに限って部屋を片付けたくなり、日頃しない掃除がしたくなり、ブログの化粧直しが気になり出すのであります。

ホントに情けない!!

だからこの5日間で5本(アッツ、違う、そういえばこの前もう一つ忘れていた原稿の催促が某鬼教授~いえいえ、違いますよ、要するにずぼらな私がいけないんです。鬼だなんて失礼な! ネ ~から厳しくあったのだ!! 6本! 不可能!!)の原稿を仕上げないといけないにもかかわらず、既に三日目を迎え、やっと1本目が終わろうとしているに過ぎないのである。

その上、こう言うときに限って体調が思わしくなくなってきたのだ。どうせ連休中に医者に行ってもろくな奴はいないし、自分でなんとかせんといかんのですが、・・・。そういえば、昨年6月4日に入院したのも、実はこの連休中の大無理が祟ってのこと。

ウーン!再入院もありかも・・・(笑) 笑っている場合じゃない。なんとかせんと。

そう思えば思うほど逃避したくなるのが私の悪い癖。


ブログなんぞ書いている暇があったら論文の原稿書けよ!!

ハイ、ごめんなさい。

ではこれからまた原稿に復帰致します。

でもちょっとだけ、見といて下さい。ブログの表紙をマイナーチェンジし、カテゴリーを分類しました(まだ未完成。分類途中)。本当は全体のバックに写真を入れるつもりじゃなかったのですが、いろいろなぶる内にこんなになってしまいました。

誰かタイトルの背後に入れる方法,あるいは、タイトルの横にカット風に入れる方法、知りません?もちろん連休が終わってからでいいですよ。

アーしんどい!! これから1本目を完成させて、久しぶりに風呂に入りに帰ってきます。綺麗な身体で2本目を午後から開始します。KF大学のH先生、T大のWebb先生、某雑誌の編集者様、そして我が大学の鬼教授様(失礼!)今しばらくのご猶予を。

エッツ! 俺が入ってないって・・・・ゴメンゴメン、5月末には何とかするから!!?
ええい、やけくそじゃ!

そんじゃしばらくバイバイ!!



(デビルだから思い出したんじゃないですよ。とっても嬉しかったんです。そう、こんな人なんです。いつもこうして笑っていればいいのに・・でも結構僕たちの前では笑ってましたよ。―朝日新聞関西版5月2日夕刊3版6頁小滝ちひろ記者記事―)

もう一つ忘れてた!
5月2日の朝日新聞の追悼コーナー読みました?
金子裕之さんのにこやかな顔!!
よかった!遺稿集の準備も進んでいるとか、本当によかった!!
金子さん、怒っちゃ駄目ですよ!! 取材してくれた小滝記者に拍手!

感謝


生きてたら連休明けにねよろしく

母の遺品の条

2008-05-02 06:44:03 | yaasan随想
鈴の音を聞きに資料館へも寄ってねよろしくお願いします。

 四十九日が過ぎ、仏壇の前のたくさんの花や飾りも取り払われ、いよいよこの人はいなくなったのだな、と実感のわく今日この頃。
 葬儀へのご厚情にお礼の品をお送りするとあちこちから母を偲ぶお便りが届く。 数日前にも、呉女学校の同級生だったという方からお便りをいただいた。変わった名字の方なので、時々お電話があったことを覚えている。
 母はいつの頃からか、かつて住んだ広島の呉の友人と交友を深めるようになった。特に同級生の方が結構お元気で、その方々とあちこち旅行するのをとても楽しみにしていた。入院する直後にも確かどこかへ出かける予定だった。その連絡をお友達の一人にしたが、その折には、まさかこんなことになろうとは、本人も私たちも思っていなかったので、「また本人から連絡させます」と言って電話を切った覚えがある。
  お便りにも 「もう「山中です」と言ってかかってくることはないんだなと思うと・・・。」と寂しい思いが綴られていた。
 寂しさを胸に秘めながら、部屋を片付けているといろいろなものが出てくる。とにかく母は何でも残すたちだったから、いつも部屋の中は天井まで品物の詰まった箱で一杯だった。海外旅行に行ったときにホテルや飛行機の中で出てくるスリッパや砂糖、塩までもが彼女の「コレクション」だったことはよく知っている。 時々「供出」してもらい、料理や手洗いなどに使っていたのだが、流石にここのところ海外に出かけなくなって、そうした品物は余り残っていなかった。

  「整理してたら出てきたよ」
と何気なく手渡されたのが、私が大昔、元の職場の頃にライオンズクラブの方々にお世話になって作った三冊の冊子『長岡京物語』に挟まれた新聞記事だった。
  京都新聞1984年3月3日の文化欄の連載記事だ。 (この鈴は今も向日市文化資料館の玄関を入ったジオラマのスイッチを押すとまず最初にその静かな音色を聞かせてくれる)

 「音さまざま 34 長岡京の鈴」と題した文章は、蓮川記者の手になるものだ。京都新聞の記者の方とはたくさん知り合って、今も(他社へ移られた方も含めて)年賀状のやりとりをするくらい親しい方が多い。たいていが洛西支局(今は総局)の方だが、時々こうやって本社の文化部の方がやってきて記事を書いて下さる。その後余りお会いすることもなかったのか、残念ながらよく覚えていない。

 鈴は、長岡京左京四条二坊の宅地の中から見付かった。担当者は現在橿原考古学研究所に勤務するMさんだった。大学の後輩にもなる彼はとても熱心な、仕事が丁寧な調査員で、とにかくほおっておいたら何日でも土にまみれて掘っている。だから彼の服はいつもドロドロ。手は真っ黒!!顔も・・・(笑)。
 そんな彼がその「汚い」手に鮮やかな緑青を吹いた鈴を掌に載せて事務所に入ってきたときのことを今もよく覚えている。

「山中さん、こんなん出ましたワ」

独特の低い声の訛った関西弁で報告に来たのだ。 完形の青銅製の鈴だ。振ってみると綺麗な音がする 「チリンチリン」ではなく、「コロンコロン」ととても親しみのある音がする。

「ヘー珍しいもんやなーいつの時代の遺構から出たんや?」
「長岡京の建物がある直ぐ横やからその時代やと思うんですワ」

 早速新聞社に電話をして「長岡京初の鈴発見!!」と大ニュースになって全国を駆け巡ったのだ。 丁度その頃標記のようなシリーズをやっていたらしく、すぐさま蓮川記者が飛んでこられたというわけだ。
 しかし、今読み返してもこんな記事が出たことすら忘れてしまっていた。1984年と言えば、長岡京遷都1200年のさまざまな行事が行われた年。これに合わせて私たちは文化資料館の設立準備に奔走していた。この鈴が資料館の来館者を迎える「音」に選ばれたのもそうした状況だったからだ。
 この頃は予算も確定し、展示業者もようやく決まって、いよいよ具体的な展示品の確定やら借用やらでてんてこ舞いしていた頃だ。家にもほとんど帰らずに資料館の床で寝たこともしばしばだった。そんな息子の忙しい毎日をこんな新聞記事で確認していたのだろうか。大事にしまわれていた。

 大事な大事な遺品として、今は私のフォルダーの中に収まっている。あちらの世界が、こんな綺麗な音色に囲まれた楽しい世界であることを願って。

ありがとう


とつぶやいた。

とても楽しかった卒業生との宴の条

2008-05-01 08:03:36 | 三重大学考古学研究室情報
懐かしい「友」との一杯!いいね、と思ったらよろしくお願いします。 一昨日、夕刻、名古屋駅の時計台の前に怪しげな集団が出現した。 ビンラデンそっくりなひげ男、丸坊主に緑のジャージのお兄ちゃん、そうかと思うとスーツに身を固めた中年のおっさん、そしてこぎれいなワンピースの若いお嬢さん達!! どう見てもこれらに統一性があるとは思えないのだが、なにやら和気藹々とお喋りしながらエスカレーターを上がって12階へと消えた。 (ハハ、それなりにみんな貫禄ができたよね。僕だけが歳とったかな?!) 我が卒業生の久しぶりに集まりである。 これまでにも時々、卒論発表会などに集まってくれて、呑むこともあったのだが、彼ら自身のある目的を持って集まるのは初めてかも知れない。 就職祝い?だ。 何今頃? そうなんです。我が業界もようやく氷河期を脱して嘱託やら非常勤やらで働いていた者達が続々と正職員になっていっているのです。本当なら去年の今頃やらなければならなかったのですが、なかなか都合が合わなくてアッと言う間に一年が過ぎてしまったのです。 最年長のM君は長く宮崎県で嘱託をしていたのですが、目出度く昨年春に地元に近い三重県I市に採用されたのです。その後の活躍はこのブログでも何回かお知らせしたところですが、ようやくその再就職祝いが開催できたのです。 この次の学年からは3人も駆けつけてくれました。岐阜県で教員をしているN君、富山県から滋賀県に移って調査員をしているN君、三重県で嘱託をしていたのだが、採用の見込みがないので発掘会社に勤務することになったH君、その次の学年が、共に中国で発掘調査に汗を流したY君とSさん、Y君は岐阜県のM市で、Sさんは中国語を活かした仕事をしている。 その次が今年N市に採用されたAさん。彼女とは長く『延喜式』研究会で一緒だったので2ヶ月ぶりの再開だった。そして、一昨年卒業したOさんとYさん。二人とも民間企業で働くが、いつもメールが飛び込んできて近況は手に取るように知っている。 他にコンサートがあるのでと、待ち合わせ場所にだけ顔を出してくれたMさん。 幹事がいいかげんな坊主なので、予定の人数より増えたのだが、それはそれで嬉しい悲鳴だった。 呑み、喋ること3時間。本当は2時間で追い出されるところだったのだが、こちらのパワーに負けたのか、いつの間にか時間が過ぎてしまった。 そんな会話の中で次々と卒業生の近況も明らかになった。 M君と同級生のIさんは愛知県庁に再就職したと言うし、結婚したが職場に復帰したNさんは、その経歴を見込まれて現在三重県のM市で文化財担当だという。 さらに嬉しかったのは、いろいろな事情で卒業を1年遅らせ、折角の公務員への就職を棒に振ってしばらくフリーター状態だったO君が無事Y市の職員になったと聞いたことだ。彼ならいずれそうなるだろうと思っていたが、これを聞いて大いに胸をなで下ろしたところだ。 そしてもう一つのおめでた。Aさんの同級生の旧姓Tさんが二人目を授かり、昨日無事生まれたとのこと。もう二児の母か!素晴らしい!!これで、ご主人と4人で無事離島医療に出かけることができるに違いない。 彼らと話していて必ず出てくるのが、共に過ごした発掘調査や分布調査で行った合宿生活。苦しいが、共に過ごした宿舎や周辺のお店、お風呂、等々。どれも今となってはとても楽しい毎日に思えてくるから不思議なものだ。 本当にもっともっと話していたかったが、それぞれ仕事を持つ身、残念な思いを抱きながら、またの再開を願って別れた。久しぶりにとてもいい気分で学生達(もちろんみんな元)と呑むことができた。この間の嫌なことを一気に忘れることができた。発掘調査というのはこんな空間なんだよね。 合宿してまた発掘に行こうね、と思ったらもよろしくね