yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

春は研究会・講演会・イベントが、そして酔っぱらいが目白押しの条

2009-04-18 20:00:00 | yaasan随想
神様助けてあげて!と思ったら同情の一票を!(笑) 
 相変わらず忙しいのである。

 ここのところ家に帰ってないので○○○○のである。

 にもかかわらずその合間を縫って「事件」まで起こるのである。だから益々忙しく、我が研究室のソファーから放れられないのである。もちろん昨夜も帰れなかった!にもかかわらず仕事が終わらないのである。次々とメールや電話で仕事が増え続けるのである。悲しい。この超不況の世の中、にもかかわらず考古学会はおかしいのではないかと思うのである。

 4月以降の土日祝日の我が動向は
4月5日 法事 11日 鈴鹿関案内 19日久留倍遺跡を考える会総会・ミニ講演 25・26日 考古学研究会大会・委員会 29日 考古学研究室飛鳥巡り

5月1~3日 徳島県埋蔵文化財センター講演会及び現地見学 9日 壬申の乱ウオーク(養老町) 10日 飛鳥巡り第二弾 15日 三重県埋蔵文化財センター講演「子どもが集まる博物館・史跡をめざして」 16・17日 放送大学面接授業(終日) 30日 海外調査研究会 

6月13日 久留倍遺跡を考える会セミナー講演

自分の時間が持てないのである。頼むからこれを見て同情して、もうこれ以上お仕事は増やさないよう協力して下さいね(もっとも、これを見てない人が仕事を持ってくるに違いない。アーア)。

とはいっても仕事ばかりしているわけではない!!一昨日は考古学・歴史学新ゼミ生合同歓迎会で宴会だった。総勢40人の大所帯である。久しぶりに憂さ晴らしにカラオケでも行くか!と言うことになり、珍しく予約までさせておいた。朝まで大いに歌うつもりだったのである。

 とととと・・・・ところが、神は私に安息すら与えてくれないのである。

 宴会が終わり、みんなでカラオケ屋に向かったのである。津は田舎なのでカラオケ屋まで歩いて15分もかかるのである。やっと着いて、ドリンクバーの珈琲を飲んでさー歌うぞ!と吉田拓郎の「夏休み」を入れたところへ電話。

「酔っぱらった学生が途中で動けなくなった!!救急車を呼びました」
「エッツ!」(そんなに簡単に救急車呼ぶのはいかんのちゃうんかい!?)

しばらくして・・・

「救急車が向かう病院が無くて困ってます」(当たり前じゃろ。酔っぱらいの相手ばっかりしてたらこの時期何台救急車があっても足らんわい)

 またしばらくして・・・

「見付かりました。榊原温泉の病院だそうです。」
「ハアッツ??(榊原温泉、さかきばらおんせん、サカキバラオンセン・・・・と い う と 、あの山奥の・・・・)」
「先生にも来てほしいと言うてます」
「(エエッ、これから榊原温泉までどないしていくんじゃ)判った。とりあえずそこまで行くわ」
 (介抱してくれている学生も迷惑なものだ。宴会場を出るときはまだよかったから、気楽な気持ちで送っていってくれたに違いない。ところが途中で、歩いたためか酔いがさらに回って、ダウン!途方に暮れて救急車となったわけだから彼らに文句を言う訳にはいかない。むしろ感謝しなければ!)

 陽気に歌っている学生の1人に、
「ちょっと出てくるわ。帰らへんかったらこれで払ろといて」とお金を渡し、そそくさと退室。(アー、何のためのカラオケやったんや!もう二度とこんぞ!!)恨みを胸に学生の待つ現場へ。

 その後の実況中継はもう省略!!

 深夜23時に榊原温泉までタクシーで行き、様態を確認。本人はすやすやお休み中。付き添ってくれた学生が両親に電話したらしいのでご両親が飛んでこられて、平身低頭!ホントお気の毒。穴があったら入りたい心境だったに違いない。

 ま、とにかく大事には至らず、病院も、「何でこんな酔っぱらいを連れてくるんや?」と言った感じで、点滴一本打ったら酔っぱらいを起こして帰れ!と言う。病院に泊まるより仕方ないと思っていった私は拍子抜け。夜中にどないして帰るんや?と思っていたら、ご両親が送りますとのこと。申し訳ないが山奥のこと、学生と一緒に大学まで送ってもらう。

・・・・・・・ま、これが久しぶりの「事件」の顛末。ウーンなかなか休ませてはくれませんわ。


「花見酒 夢の中だけ 美しき」
「新歓に 若き日の我 重なりて」
もう一度これほどまで飲んでみたいものだ!
 


新学期が始まったの条

2009-04-16 12:00:00 | yaasan随想
 
「新学期 気持ちも新た 後三年」
「病押し 友が来て飲む 春のお茶」
 


 大学の新年度が一昨日から始まった。
私自身の授業は昨日が最初で、これから8月まで毎日次のパターンで繰り返すことになる。

月曜日 京都で非常勤
火曜日 ②日本考古学実技演習 ③大学院日本考古学特講 ⑤日本考古学演習
水曜日 ①日本史Ⅰ(PBLセミナーA-1) ⑤ (PBLセミナーA-2)
木曜日 ①考古学・文化財学概論 ②日本考古学特講 ⑤日本歴史総合演習 ⑥大学院日本考古学史料論特講
金曜日 研究室研究会
  ※ 丸数字は開講時限

だから平日はほとんど一日中授業ということになる。でもこれは一般社会では当たり前のことなので、仕方がないということらしい.要するに大学は今や高校並ということだ。

 さて昨日はいきなり困ったことが起こった。
 日本考古学実技演習というのは考古学の専門に行く学生対象の授業なのだが、なぜか昨年から急に他の専門や他の学科の学生が受講しだした。昔なら断れば済んだのだが、「幅広い教養」を謳っている??というこの学部では真面目な先生は断れないのだ。

 昨年は仕方がないので、少しレベルを下げて、一つの技術をじっくり教えた。不足分は、専門の学生には別に課外演習を組んで実践させることにした。
 ところが始めてみると意外な反応が返ってきた。

 半期毎の授業なので、面白くなければ前期で止めてもいい授業なのだが、なぜか全員一年間真面目に授業に出てきたのである。その上、最後に書かせた感想文では(お世辞もあるのだろうが)結構みんなの反応がよくて、中には涙が出そうなのもあった。

「私は学科が違うが、元々歴史が好きで取りました。取って、いろいろなことが経験できてとても楽しかったです。将来子供ができたら博物館に連れて行って、「この展示品の展示までには大変な準備が必要なんだよ。私も学生時代にその一端を勉強したんだよ」、と自慢してやります。」

と言うのである。元々こうした反応は一二年生の授業に期待していたのだが、3年生の中にも考古学を理解してくれる学生が増えたことはとても嬉しかった。

 と言うことで今年はどうなることやらと思っていたら、案の定25人もの学生が押し寄せた。覚悟はしていたが、今回は昨年の経験を活かして、できるだけ動く授業、いろいろな実験をする授業にする予定を立てていた。初日は雨の中を校内を歩いた。地形を理解してもらうためだ。来週から早速地図造りを始める。地図を持って歩いて、恐らく初めてこの大学がどんな地形にあるか感じたはずだ。それを自分の手で地図にするわけだ。要するに測量の授業である。

 ま、こんな調子で新たな一年が始まる。

 ただ今年からは少し気持ちが違う。

 元々地方公務員だった私は本来ならこの三月で定年退職のはずだった。しかし大学に転職したためにその命が3年延びた。言い方は悪いがおまけの時間である。

 だから、その三年間を思う存分、自分のやり残してきたことを仕上げるつもりで集中してやろうと決心している。別にこの間手抜きをしてきたつもりはないし、これからも特別何かするわけでもないが、何となく人生の総精算をするような気分になっている。以前は最後の三年は気が抜けるのではないかと心配していたのだが、たまたま今熱心な研究室の学生がいてくれることもあって、持っているものを全部彼らに伝えて去ろうという気分になっている。

 今日は新一年生が大半の授業をした。彼らとは長くても3年生までしか付き合えない。だから、あまり考古学に引きずり込んでもその後の保障がない今の大学の現状では、梯子を外しかねないので、あまり熱心にやらないでおこうかとも思っていたが、今は逆の心境で、とにかく全力でぶつかって、後は学生個人の力で進んでもらおうと決めた。

 ちょっぴり久しぶりにすがすがしい気分の新学期である。果たして一年後どんな感想が書けるのか、ちょっぴり不安で、大いに楽しみだ。

 
「初々しい 一年生と 学ぶ日に」
「満室の 教室に満つ 光る貌」
「学生で 溢れる学舎 いつまでや」
 




故郷山科で講演の条

2009-04-14 00:00:00 | yaasan随想
山科で桓武天皇を語る 


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 四月八日はお釈迦様のお誕生日。真言宗東寺の末寺である神泉苑の幼稚園に通っていた頃には、毎年甘酒・甘茶?を振る舞われ、桜の下を走り回ったものだ。亡くなった父がよく言っていた。

「俺は、お釈迦様より一日早く生まれた。だからもっと賢いんだ」と(笑)。

 その言葉のお蔭で?父の誕生日は忘れることができない。生きていたら八九歳。もう亡くなって40年が経つ。早いものである。

 そのお釈迦様の誕生日に京都アスニー山科で講演をしてきた。前日資料を届けにアスニーへ行ったついてに、息子に頼んで山科界隈を見て回った。ゆっくり歩くのは40数年ぶりであった。



(参加者の半分以上が山科の方だということで、演題に「山科」が付くと参加者が増えるとか。この日も定員をはるかに超える300人の方が聞いて下さった)

 とにかく第一印象が
 
”すっかり変わって、当時の面影が全くない!"であった。

 山科にも京都アスニーというのができている。とても立派な施設だ。市営地下鉄東西線の山科駅の地下改札口を出て、そのまま南に5分足らず歩いたところにある。便利なことに改札から地下道を歩いて地下一階野エレベーターから2階の施設に入ることができるのだ。昨年亡くなった母がよく山科アスニーの手芸教室に通っていたが、納得できた。

 節約家?ケチ?!!な彼女はどこに行くにも市バスか市営地下鉄を利用した。京都市では70歳以上の老人はただだからである。なにせ我が家の目の前にバス停がある。但し1時間に一本しか走らない。時間はたっぷりあるからその時刻に合わせて行動する。大回りをして市営地下鉄の駅へ行き、そこから地下鉄で山科に行っていたのだ。雨が降ろうが槍が降ろうが、ほとんど屋外に出ることはない!!
 建物に上がって判ったことだが、そこはかつて直ぐ向かいに山科公設市場があったところだ。何と、今は大丸になっていた。信じられん!!



(アスニー前から駅方面の変貌)


 一番変わったのが京阪と国鉄(JR)が接する山科駅周辺だった。かつて通った京阪山科駅はこぎれいになって、その前にあった児童公園は駅前広場と変わり、タクシーなどの待つ空間となっていた。かつては、駅の横、踏切の側には朝日新聞の販売所があった。浪人時代にはそこから次の駅の四ノ宮の端まで毎朝、新聞配達をしたものだが、それも今はない。新聞販売所の向かいの有名な?今川焼きやさんがあったがそれもなかった。唯一残っていたのが駅前の交番。もちろん交番は綺麗になっていた。昔は何度か10円拾ったといって届けたものだが・・・。そして交番の前の公園は格好の遊び場だった。小学生の頃私はそろばん塾に通わされていた。塾は交替制なので、自分の時間が始まるまで待っていなければならない。そこで流行ったのがビー玉であった。真ん中、左右、上下にこぶし大くらいの穴を掘って順番にビー玉を入れていく遊びだ。かつて家にはそのビー玉が缶に一杯あったのだが・・・。遊びすぎたせいか結局6年生までで2級を取ってそれで終わった。

 実はその場所こそが山田邦和博士のご研究では藤原順子の妹、藤原古子の墓・安朱古墓の跡だったと言うから驚きである。我々は毎日毎日お墓の上に穴を掘ってビー玉に興じていたと言うことになる。そしてその場所を南限付近として我が母校洛東高等学校を含む広大な敷地が安祥寺下寺、さらに毘沙門堂のある裏山を奥に入った山中が上寺で、いずれも藤原順子ゆかりの地だというから不思議な縁を感じる。


(我が母校のぼろぼろの建物はすっかり綺麗になっていたが、その配置は変わらない.母校の前の疎水端の櫻も綺麗だった。高校生の頃バトミントンの基礎体力練習で毎日毎日この疎水道を走らされた。)





(一年生の時学んだ校舎が、今はもう無い西の角にあった木造校舎。その直ぐ横が安祥寺。学校の中から普通にいけたのだが最近は駄目みたい。)

 順子が嫁いだ仁明天皇の墓は今私が住む深草僧坊町の直ぐ南に宮内庁管理地があり、本来の墓は家から数分の山裾だと山田博士はいう。その陵を守るために仁明の子(つまり順子の子)文天皇によって建立されたのが嘉祥寺なのです。当時の伽藍を彷彿とさせる礎石が、我が家から歩いて5分ほどのところにある善福寺に残っている。ネット検索にかけると現在嘉祥寺を名乗るお寺の紹介が出るが、これはかつての伽藍とは無関係なところにある。
 その嘉祥寺の西院として設けられたのが後の貞観寺で、今我が家はその伽藍の真っ直中にある。

 演題は「桓武天皇と山科」

 ネタの大半は上原真人さん編集になる『皇太后の山寺』(柳原書店)。吉川真司さんと山田博士の御高論を紹介したもので、独自のものは私の昔話だけだった。そんな話しに定員200名のところ300人も来て頂いて、熱心に聞いて頂くことができた。
 第一のテーマが山科と天智天皇・中臣鎌足。なぜこの地に彼らの縁の施設があるのか?近江京との関係は?等々、前史の紹介である。それにしても改めて母校の周辺の遺跡を見てみるとなんと古代関係のものが多いことか!!あの頃これらに気付いていたらもっと賢くなれたのに・・・、等と「反省」??する次第。山田博士の考察によれば私が学んだ校舎辺りが藤原順子(冬嗣娘・仁明天皇皇后・文天皇母)の陵墓のあったところだという。安祥寺といえば高校の直ぐ西隣にひっそりとたたずむ今は小さなお寺。高校時代は毎日毎日この前を流れる疎水端を走らされていたから余計に印象が深い。



(西野山古墓を知らせる石碑。周りは錆びたポールだのゴミなどでとても見るに堪えない状況だった。残念!但しこの石碑の位置はどうもおかしい。これでは東に睨みをきかせ「立ったまま葬られた」という田村麻呂の伝説に合わない。恐らくもう少し上の竹藪の上段辺りに違いない。)



(古墓付近から見た山科盆地。向こうの山が近江との国境の音羽山。山の左裾辺りが逢坂関。かつて私はこの関を少し京都側に下った追分という京津線の駅近くに住んでいた。そこから30分以上もかかって徒歩や自転車で小中高と山科の学校に通った。往時は田んぼばかりで、京都市内育ちの私には野山を駆け回るのが新鮮で、病弱な身体が一挙に強くなった。今はこの通り家ばかりだ。)

 第二のテーマが吉川真司さんの研究で確定した西野山古墓=坂上田村麻呂墓説。前日、次男に車に乗せてもらって、それこそ45年ぶりに西野から滑り石に登り、太閤担のゴルフ場から山科盆地を眺め、西野山古墓を探した。今は綺麗な道がついているが私たちが中学生の時に毎冬マラソンで走らされた道はこんなに広くなかったような気がするのだが・・・。ゴルフ場を出て、山科側へ下ると最初に大きなヘアピンカーブが出てくる。カーブの頂点付近の北側に古墓の位置を示す石碑が建っていた。古墓は道で削られてしまったのだろうか?石碑の場所からは到底盆地は眺められない。
 この田村麻呂墓と天智天皇陵、そして私が推定する稲荷山の桓武天皇陵を結ぶと一直線に並ぶ。まさに東山の表と裏に両雄が眠っていることになるのである。

 第三のテーマが安祥寺と藤原順子。但し前振りが長すぎて、この話は中途半端で終わってしまった。申し訳ありませんでした。
 『皇太后の山寺』では見事に安祥寺の歴史が再現されている。是非お読み頂きたい。


(現在宮内庁は毘沙門堂の北西方向に陵墓を決めて管理している。後山階陵がこれだが、山田博士の研究では我が母校の校舎辺りだという。)


(今は綺麗になった校舎.この裏に崖があって、かつて高校ができる前は高かったことが判る。60年前のことだから誰も注意をせずに工事で壊してしまったのだろう。残念!)
 
 かつて通い慣れた土地で、地元の歴史について、自分の専門と重ねて話しをするというのはけっこう緊張するものだ。今回は時間がオーバーしたのでゆっくり質問を聞くことがなかったが、きっと中にはかつての同級生や先生がいたに違いない。90分の講演、山科の歴史をうまく感じていただけたかは判らないが、40余年前の自分の青春時代を振り返る自己陶酔の半日であった。


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「櫻舞う 安祥寺の跡 静まりて」
「櫻咲く ビー玉の坑 古子が命」



(安祥寺門前の櫻)


山陽道駅跡探訪の旅の条

2009-04-12 23:36:12 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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「野磨駅 山桜の先 築地跡」
「小犬丸 訪ねし畠に 蓮華草」
「邑智駅 筍の側に 求む瓦」
 


(出発点は播磨国西端の駅野磨駅(落地遺跡))

 三月末の月曜日に新四年生の卒論テーマである「山陽道駅の立地と景観」(仮題)を調べるために山陽道の駅(うまや)の調査に行ってきました。山陽道の駅を訪ねて歩くのは実質的に初めてなので多くの収穫を得ることができました。やはり現場を歩かないと駄目ですね。


(野磨駅第Ⅱ期遺構群)

 学生は広島県福山市駅家の出身。JR福塩線に同名の駅があるというそのものズバリの土地出身者だ。福山というのは古代でいえば備後の国、備後国内には安那-品治-葦田の三駅が置かれたことが知られている。その内の一つ、品治駅(ほんじのうまや)の所在地だったから1913年に周辺の村々が合併したときに付けた名前だそうだ。三年生の時の演習のテーマがそのまま卒論に結び付いた。

 三月の初めにも我が親友広島大学のNM先生と、今回もお世話になったF市のTTさんに御案内頂いて府中市内の山陽道や駅家跡を訪ね歩いたと聞く。この頃の学生にしては珍しく積極的に野外に出かけて何かを見つけてこようとする。いい論文になればいいのだが・・・。





(布勢駅の南には室津への「道」が延びている。)
 当日はF市のTTさんにわざわざ車を出して頂き,上郡駅に集合して西から東へと山陽道の五駅を見て(通って)来ました。


(大市では親切なおじさまが瓦を見せてくれました)


 これまで高橋美久二さんのご研究で論文は山ほど読んでいたのですが、現地を本格的に歩いたのはこれが初めてと言ってもいいくらいでした。図上では判らなかった土地の起伏や視角が手に取るように判りました。高橋さん達の先学の研究で最早言い尽くされた感のあった山陽道ですが、少しは新しいことが言えそうな感じで帰ってきました。

 新たな視点は学生がうまくまとめてくれることを祈ることにして、ここでは
見学した駅周辺の景観をスライドショーでご紹介しておくことにします。



 「櫻舞う 切り通しにも 古の香」 


29.9℃の鈴鹿関案内の条

2009-04-12 07:08:40 | yaasan随想
二週間ほどのご無沙汰でした。
とにかく忙しいのは同じなのですが、どうも気力が沸かなくて、ここのところ、何もかもがあまりうまく進みません。
役所勤めをしていたらこの4月から「自由人」の身だったはず!と思ったのがいけないのでしょうか(笑)。後3年!頑張らねば!と奮い立たせるのですが・・・・。

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ猛暑の鈴鹿関、櫻は既に葉桜へ・・・果たして満足頂けただろうか? 


(関の櫻)

昨日は、以前からの約束で、古代山城研究会の皆さんを鈴鹿関の第二次調査の現場と周辺を御案内した。とても暑かった!それもそのはず家に帰ってニュースを見ると、案内していた亀山市が29.9℃の真夏日だったとか、ホント地球はもう狂っていますね。

亀山市にお願いして、現場を開けて頂き、最新の調査地を見学した。もちろん三月に見たところであるが、その後さらに一部の断ち割が行われ、若干状況も変わっていた。西城壁が二時期ある可能性があるというのだが、果たして本当にそうなのか、現状では判断が難しい。結論は今後の調査に負うところが多いというのが正直なところだろう。

既に櫻は葉桜になろうとしていたが、これもまた風情があっていいものだった。現場を案内しながら、櫻ばかり撮っていた。

昼はK大学の東北古代史御専門のSTさんのたっての願いで関宿の一角にある「萌へ井」というお蕎麦やさんで蕎麦!

このお店へは何度も行ったことがあるのだが、昨日は8人という大所帯と言うこともあって、始めて玄関先の大きな掘りごたつ式のテーブルへ。

なかなかこれもいい感じ!STさん有り難う。


(城山と櫻)

その後皆さんは亀山市歴史博物館→鈴鹿市考古博物館とSTさんのご案内で移動。私は亀山でご無礼して、京都へ帰宅。ところが、ナナナント、またまたJRは土曜日の亀山柘植間の電車をネグレクト!!!

お前らやる気あんのか!と怒鳴りたくなる。一番いい季節の土曜日、関町にしてみれば観光客のドル箱シーズン。その午後の運転を「線路の保線のため」という大嘘をついてサボる。片方でJR東海は大儲けをして、自分でリニアを走らせる等とほざいている。一方で一両しか走っていない亀山柘植間の電車(それも午後数本しか走らない電車)をさらに削る。バブル後の民営化路線がいかにこの国を歪ませているのか、どうして国民はこの馬鹿さ加減に気付かないのだろうか!またまた腹が立ってきた。

でも、優しい教え子が、わざわざ柘植までドライブしてくれて、無事帰宅。珍しくNHKが野球をしていたので久しぶりにテレビ観戦。昼間には広島の新球場(マツダスタジアム)で広島が勝ったという嬉しいニュースもあったので、ゆとりの巨人阪神戦だった(でもそんな暇はないので終わると直ぐに机の前へ。明日中に送れと言われている五月の徳島での講演の資料作り・・・のはずが、うたた寝。風邪を引きそうになって布団へ。アー、またもや今日も何もしなかった!と言う自己嫌悪で寝たためか、変な夢で目が覚めて、・・・原稿が進むはずがこんなことでブログに逃げて,またまた自己嫌悪。)。

報告したいことは山ほどあるのだが、とにかく生きていることだけをお伝えして、資料作りに励むことに・・・。


(研究会の方々と現場で))


 
「葉桜の 影落とす 鈴鹿関」
「城壁の 断面に舞う 花吹雪」
「春の関 蕎麦を味わい こっくりと」