yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第2回講座長岡京歴史よもやま話「長岡京の風呂と世界の風呂」開催の条

2015-10-26 17:03:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  第1回 講座長岡京歴史よもやま話は「トイ」がテーマでしたが、今回のテーマは「風呂」です。

 風呂もトイレも現代人には欠かせない生活必需施設ですが、その起原や変遷については意外と知られていません。ところが長岡京跡からは現状で日本最古の風呂遺構が発見されているのです。向日市寺戸町に所在する宝菩提院廃寺の発掘調査で発見された遺構です。宝菩提院廃寺は壬申の乱後、山背地域を代表する白鳳寺院として王権によって建設されました。この寺域の東辺部から発見されたのが日本最古の風呂跡です。見事な石敷きを伴う遺構はなぜか史跡に指定されることもなく開発が行われ、の大半は失われてしまいました。某国家機関担当者の無責任な一言「こんなもんどこにでもある」という発言が決め手になり処理されてしまったものです。国私は、長屋王邸の破壊、長岡京東院の破壊と並ぶ日本古代宮都関連遺跡の破壊だと考えています。今でもその悔しさは忘れられません。

 もっとも、その責任は某担当者一人だけにあるのではなく、日本の歴史考古学研究者、担当者の実力の結果だとも思っています。その点についてはいずれ別にお話しするとして、今回の「よもやま話」の概要をご紹介し、31日の講座へのお誘いを申し上げたく思います。

 実は私は、この遺構を見て直ぐに「なんと素敵な風呂が日本古代にあるものだ」と感激した一人です。残念ながらその後の本遺構の分析はなぜか建築史学の研究者に委ねられ、特定の解釈が与えられて今日に至っています。どうして遺跡を検出した考古学の発言がほとんど無いのか、不思議なのですが、ま、そこには私の力の及ばない特殊な事情があるのでしょう。そこでより広い視点から長岡京跡発見の風呂遺構を分析、評価するために諸外国の遺構を収集、分析することに致しました。

 その結果、世界の風呂文化には四種類あり、長岡京のそれは日本独自の「風呂観」に基づく極めて特異な構造、文化に基づくものであることに気づきました。今回の講座の主要テーマはこれです。

 風呂の歴史は、自然に湧く温泉を除くと、今のところ、フェニキア人の手になるケルクアンの風呂が最古の例のようです。フェニキア人の風呂は現代日本の風呂に酷似しています。人一人が入れる浴槽を設け、内部には腰掛け用の段差も設けられていました。おそらくお湯を溜め、浴槽に入って身体を温めたり洗浄したのでしょう。ケルクアンには各家に一基程度この設備が設けられていたようです。集団用のものもあり、それらは家に風呂のない人々が使用シアノかも知れません。なぜこの風呂構造がローマに受け継がれなかったのか、とても興味深いテーマです。

 フェニキア(カルタゴはその一部)を制圧したローマ人も新しいローマ時代のカルタゴに大規模な風呂を造ります。しかしその構造は、首都ローマで開発された「サウナ式」のものでした。密閉された室内に供給された高温の湯から発生する蒸気によって部屋を暖め、発汗させる構造で、現代のサウナ風呂そっくりでした。風呂好きなローマ人は征服した各地の支配拠点にも必ず風呂を建設し給水のための水道施設と共にローマの象徴となりました。近年はヤマザキマリさんの「テルマエロマエ」という漫画が大流行し、その存在は広く知れ渡ることになりました。しかし、日本を良く検討してみると風呂遺構は少なく、奈良・平安時代では宝菩提院廃寺のものが唯一です。その上、遺構を詳細に検討すると、当該風呂は湯を浴びるスタイルのもので、ローマのそれや近世に発展する岩風呂でもありませんでした。極めて独自性の高い風呂文化が宝菩提院廃寺の風呂遺構によって初めて確認でき、世界の風呂と比較することが可能になったのです。
今回の「よもやま話」では、こうした風呂文化を比較し、日本の風呂文化の変遷についてもご紹介します。

 なお、開催場所は、第6向陽小学校へ行く途中に桓武天皇皇后藤原乙牟漏高畠陵がありますが、その東隣に所在する「寿恵更紗ミュージアム」です。添付の地図などを参考においで下さい。


 第2回長岡京歴史よもやま話~長岡京の風呂と世界の風呂~ご案内

 仲秋の候、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。第2回よもやま話を「風呂」をテーマに開催します。長岡京跡では、現在のところ日本最古の風呂跡が宝菩提院廃寺の一角から発見されています。見事な石敷きの湯浴み場を供えた例を見ない施設です。なぜ宝菩提院廃寺からなのか、風呂好きと言われる日本人ですが、世界の民族の風呂はどんな施設なのか。比較して考えてみたいと思います。修了後宝菩提院廃寺風呂跡の現地を見学します。



日時 2015年10月31日(土)13:00~15:00

集合 寿恵更紗ミュージアム(TEL 075-934-6395 第六向陽小、桓武天皇皇后陵の東) 阪急東向日駅徒歩15分或いは阪急バス東山バス停から徒歩5分.阪急東向日発66系統善峰寺行き12:42→東山12:50着)

【次回行事案内】「中山修一先生生誕100年記念特別講演会」2015年11月22日(日)長岡京市中央公民館3階市民ホール 

  長岡京歴史散策の会075-934-1684



寿恵更紗ミュージアム地図
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.94873900&lon=135.69829550&ac=26208&az=&z=13&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E5%90%91%E6%97%A5%E5%B8%82

地図中の「NPO法人日本燦クラブ」=寿恵更紗ミュージアム


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第2回長岡京歴史散歩報告の条

2015-10-07 00:47:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  2015年9月26日(土)晴れ。何とか雨の予報を振り切って暑くもなく、寒くもない絶好の散歩日和となった第2回長岡京歴史散歩。

 見学コースは 西山天王山駅→長岡京右京造酒関係遺跡→恵解山古墳→トイレ休憩(勝竜寺城跡)→長岡京西市・西市町跡→塚本古墳群・開田遺跡→阪急電車長岡天神駅 で実施しました。

 広報が十分ではなく、参加者の数を心配しましたが、前回とほぼ変わらない、41人の参加を得ました。
 
 ここでは見学の様子を写真で報告いたします。その気になって「歩いて」見て下さい。

 阪急電車西山天王山駅改札口集合。事前に下見をしたにもかかわらず、私の思い込みで、改札口が2箇所あることを知らず、何人かの方から御指摘を受けました。申し訳ありませんでした。これも18年ぶりの乙訓と言うことでしょうか。

 

 少しバタバタしましたが、一応予定通り、13時には本日のコース説明を始めることができました。

 

 旧西国街道を北に向かって歩きました。少しこの辺りの説明資料が必要だったかなと反省材料です。

 

 最初の見学地は、現在立命館中・高等学校の敷地となっている長岡京右京八条二坊七町で発見された造酒関係遺構の宅地です。
 説明板が歩道に面して置かれているので、これだけの数だとなかなか説明板の前にはこれません。

  

 予め長岡京市史資料編一から写した資料を配布しましたのでこれを見て頂きながら説明しました。

 


 同校校門付近は西二坊坊間小路が通る計画だったと考えられています。その両側溝の位置が復元的に表示されていました。

 

 たまたま当日は同校の文化祭で一般に公開されていましたので、建物の中に入ることができました。中庭には近世の濠の跡が保存され、その説明が建物内部に記されていました。
 

 

 学校の前の道を数分東へ歩くとJR東海道線を跨ぐ歩道橋があり、ここから次の見学地、恵解山古墳が見渡せます。

 

 後円部の西北からの全景です。

 

 恵解山古墳では、たまたま参加されていた発掘担当者からの生の説明を伺うことができました。前方部西側の造り出しを前に説明です。西造り出しと東造り出しとでは規模も形も埴輪の配置方法や種類も全く異なると言うことでした。

 

 西造りだしはこのように方形で円筒埴輪や朝顔形埴輪が整然と並んでいます。
 

 

 階段を昇って墳頂部へ上がると、そこには武器埋納坑が復元されていました。発見当時何度も見学に訪れましたが、中でもこの写真をお撮りになった京都大学の技官・故高橋猪之介さんの写真の技術には感嘆したものでした。

 

 こうした恵解山古墳が大和王権とどのような関係にあった人物のものなのかという点についても詳しい説明がありました。墳形の相似形から佐紀盾烈古墳群の一つコナベ古墳との関係が検討されているらしい。コナベ古墳は5世紀前半に位置付けられる古墳で恵解山古墳もほぼこの時期に相当Uるのではないかということです。

 

 恵解山古墳は長岡京の造営とも深く関わっている。ほぼ墳丘の中心が七条大路と西一坊大路の交差点に相当するのです。このことを以て長岡京がこの地に及んでいなかったとする見解もあるらしいのですが、古代日本都城内には複数の巨大前方後円墳があることが知られています。また、あるものは宮城の造営に障害があるため破壊されたり(神明野古墳)一部削平され(市庭古墳)ています。長岡京内でも破壊されたものと破壊されなかったものがあり、その基準は明確ではありませんが、それぞれの時期にそれなりの基準があったように思えます。
 恵解山古墳は大路の交差点でありながら破壊されなかったのは、或いは当該こふんについての何らかの「資料」があったのかも知れません。コナベ古墳との相似形はそうした課題を解く鍵になることでしょう。

 
 
 前方部から東側へ回り込み、東造り出しを経て次の目的地へ向かった。

 

 予定では勝竜寺城を少し見学することにしていましたが、時間が逼迫していましたので、トイレ休憩だけして次に向かいました。

 

 大きく西へ方向を変え、西市の可能性を初めて知らせてくれた「自司進・・・」木簡の出土した乙訓高等学校の北側のマンション建設地に回りました。

 

 左頁右下の木簡がそれです。裏に「三年十二」とありますので、延暦三年十二月、即ち遷都直後の木簡である可能性が高いものです。
 

 さらに北へ進んで、西市の周辺に展開した工房の一つ、桜の樺を大量に出土した地点を見学しました。私はこの地点が西市で販売する曲物を大量生産していた官営工房の跡だと考えています。

 

 最後に現在発掘調査中の現場を見学して解散しました。奇跡的に予定した時間通りに終了しました。
 参加の皆様お疲れ様でした。

 
 
 〈次期行事予告〉

 ○ 第2回長岡京歴史よもやま話「長岡京の風呂と世界の風呂~風呂の構造と習慣~」2015年10月31日(土)13時~15時 会場 向日市寺戸町寺山12-1寿恵更紗ミュージアム(TEL  075-934-6395) 

長岡京歴史散策の会075-934-1684
 ○ 中山修一先生生誕100年記念特別講演会 「中山修一先生と長岡京研究」
 2015年11月22日(日) 12:30受け付け開始 17:00終了予定
 長岡京市中央公民館3F市民ホール
 講演 中山忠彦「家族がみた中山修一の世界」
    山中 章「長岡京研究の過去・現在・未来」
    山田邦和「長岡京から平安京へ」

 ○ 第3回長岡京歴史散歩「桓武天皇のルーツを探る-1 百済王氏と山部親王」
   2016年3月26日(土)12時45分京阪電車 交野線宮之阪駅集合16時解散
  〈主な予定コース〉 百済王神社→百済寺跡→禁野本町遺跡


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