yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

南京・鳳陽・開封報告-8 明中都鼓楼・皇陵・円丘を歩くの条

2009-09-30 11:15:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 本当に鳳陽って面白いねと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 鳳陽はとても充実していたので、19日の午後についても紹介することにする。
中都を予定通り縦断した後、午後からは周辺の施設を見学することにした。
南東部に鼓楼がありよく残っている。南西部に鐘楼があったのだがこれは残念なことに同じ事情で破壊された。鼓楼は鳳陽県の現在の町の中心部に所在し、その広場は市民の憩いの場となっている。鼓楼に昇ると市内を一望することができる。一説にはこの鼓楼を中心にして坊墻のような区画があるかに記されているが、今回はそれらを探索するゆとりはなかった。


 鼓楼から車で20分ほど、さらに南、外城の外に父母の墓である皇陵がある。先の祖陵が高祖以来曾祖父祖父母を祀ったのに対し、ここでは両親達を祀ることになる。朱元璋は8人兄妹の末っ子であったようだが、両親も兄姉の多くも病気や飢えで亡くしたと伝えられている。皇陵碑によれば、父母や兄を葬るにも棺桶を買う金もなく、やむなく次兄と遺骸を山中に運んだとされている。もちろん正確な墓など分かりはしないのだろうが、朱元璋が明帝国を興し、皇帝になってからこの地に陵として建設したのである。皇帝陵自体は参道に石像を置く全国のそれと大差はないのだが、貧民から身を起こし皇帝にまでなった人物の祖先への思いを読み取るに相応しい大規模な陵墓であった。


 この後、期待の円丘へ。その遺存度の高さにびっくり!!
 円丘は直径238mの巨大な土壇で、周りには堀が掘られている。この土を壇に用いたのであろうか。村人達の話しによれば壇上には大きな石が埋没しているらしく、開墾時に発見して掘り起こそうとしたが、大きすぎて起こせずそのままにしたという。壇上の施設に関する礎石であろうか。
 壇には正確に東西南北に4本の陸橋が設けられており、これを用いて儀式の出入り用通路としたことが推測できる。この様な素晴らしい遺跡が調査もされず放置されていることがとても残念で、日本で調査できないものか?と団長に詰め寄られたが、今の中国政府は、外国の調査を基本的に認めていないので、無理だと説明した。せめて測量調査でもさせてくれれば役に立つ→と思ったのだ・・・・。




 大龍興寺:中都建設断念の後その建物の一部を利用して立てられた寺だという。ただしその位置もかつてとは変わっているという説もある。



 大龍興寺の現在の本殿。もちろんここでもお線香を上げさせて頂き、朧谷先生、、安藤さん、山田博士夫人のご快癒を願った!!



 再建中の塔



 鼓楼の正面観




 鼓楼の現在の建物




 鼓楼上から町の中心部を眺める。ここの広場は鳳陽の人々の休日のたまり場のようだ。



 鼓楼の建物は資料室になっていて、ちゃんと解説員もいる。その一角には玉座があり、服装を着けて座ることもできる(有料)。



 そしてこんな若い解説員がいて、ナナナント日本語を話す。南京ならいざ知らず、鳳陽に来る日本人はよほどの専門家くらいであろう。もちろんM先生は直ぐにツーショットをおねだりする。彼女の名字が変わっていて、「章」と言うから驚きである。



 ついで明皇陵へ。もちろんここでも60歳以上は半額!!





 朱元璋系図

 そしてここでは有料の解説員が付いてきたので、もちろんツーショットしたのだが、M先生、少々ご不満のようなのでカット!



 今回の調査で気付いたことはとても花が少ないということです。公園などに人工的に置いてあるのは別にして、自然に咲く花の少ないこと!!何故なんですかね。ところでこの花何の花?久しぶりなので撮っては見たものの・・・。



 皇陵の墳丘



 ついで中都外郭城の南南東に所在する円丘へ。とにかくその遺存度の高いことに驚きました。建設中止後も円丘ではお祀りを度々したというので、大事にされていたのでしょうか、この後に訪ねた方丘と共にとてもよく遺構として残っている。



 図面を見た時はほんまかいな?と疑っていたのだが、実際に歩いてみてびっくり!!どうも以前に来た連中もここまでは気付かなかったらしい。大収穫であった。それにしてもこの堀を利用して稲を栽培しているところが鳳陽らしいところであろうか。



 円丘周囲の堀を利用して栽培されている稲。



 図面に見える陸橋部。



 一部は堀のままになっていて、家鴨や鴨が泳いでいる。



 突然の闖入者に大騒ぎの村人達。とても親しみ深く、この遺跡が大切にされているその背景がよく判った。

円丘、行ってみたいなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

南京・鳳陽・開封報告-7 明中都を歩き、圧倒されるの条

2009-09-29 20:23:46 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 中都研究、とても大事だよ、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


20090919は、

 初めての鳳陽である。日本の研究者仲間に言っても「それどこ?」と大抵不思議な反応が返ってくる。かくいう私もつい最近までよく知らなかった。今回の団長の黒衣であるHさんに以前、一緒に行こう!と誘われたことがあるのだが、その時は都合が合わず行けなかった。ところが今回はそんな噂を聞きつけた私がお願いして連れて行ってもらったものだ。


 


 だがしかし、着くまではどんなところなのかからきし想像も付かなかった。

 鳳陽の第一歩は禁垣(きんえん)の西城門・西安門跡とその外堀跡だった。この禁垣というのが鳳陽独特の言い回しであって、なかなか一般的な禁苑(きんえん)と紛らわしくて混乱してしまう。同行した仲間でさえ度々頭が混乱してしばらくはよく判らないまま遺跡の見学を進めていた。一般的な使い方からするとどうも皇城の城壁をこう言うらしい。禁垣の城壁は文化大革命までは良好に残っていたらしいが、完全に撤去されてしまい、今は道路と化している。禁垣の西側(外側)には大きな堀が南北に掘られているが、西側だけで終わっているという。これもわずか6年ほどで建設の断念が決められた中都の特徴なのであろう。



 
 禁垣外の堀跡



 破壊されてしまった城壁跡(禁垣)の道路

 この後宮城(大内と書く史料もある)の西門である西華門へ向かった。これはとてもよく残っていて、その上に上がることも可能であった。3本の門道もよく遺されており、前面には南北に幅80m、深さ6mという大規模な護城河が設けられている。城壁の高さは10m近くあり基底幅もそれに近い大規模なものである。全て磚で出来ているとの説明もあったが、俄には信じ難い。城壁に登ると城内が一望でき特に宮城の中軸線上に設けられた自然の山を利用して軸線に合わせて積み上げられたという万歳山をよく眺望することができた。風水思想に添って様々な施設が人工的に配置された可能性を実感させた。



 西華門から北に延びる城壁と護城河




 

 西華門



 西華門内から西華門から北に延びる城壁を見る



 向こうの山が万歳山



 西華門上から東に向かって城内に延びる道路を見る



 西華門から北に延びる城壁

 西華門上から南に城壁を歩くことになり、南西隅の角楼から午門付近まで辿った。たった6年で造られたとは思えない程大規模な城壁と護城河を眼下に見ながら秋の涼しい風に吹かれて城壁を進んだ。特に角角に設けられた角楼は、文革前の写真によれば南唐隅の角楼にあったという6層の塔を設けるに相応しい大規模なものであった。




 人間が米粒くらいに見える大きな角楼



 角楼コーナー部の堀の曲がり方



 羊もお散歩



 はるか向こうに午門が・・・

 午門近くまで進んでこの後はいろいろ問題があるらしいので省略。午門を遠目に眺めてもとにかく壮大!!それも650年程前のものがそのまま残っているのだから驚きである。



 午門中央門道



 午門の壮大な規模



 午門の前を現在の農道が真っ直ぐ北に延びている。その農道を200mほど進むと急に道が坂になってくる。これが奉天門跡だという。その頂点に立つと然り!!東西にその高まりが延びているのである。

 再び坂を下って300mほど進むと大きな土台が眼前に迫ってくる。奉天殿跡である。日本で言えば大極殿跡と言うべきところである。雑草が生えていて全景をうまく治めることはできないが、現地を歩くとその広大な基壇の跡を確認することができる。



 奉天殿跡

 さらに北に進むと途中に井戸跡があり、日本で言うところの内裏の中の井戸とでも言うべきものであろうか。井戸から100mほど北に進むとそこが宮城の北門玄武門跡である。両側に8m程の大きな土壇が残っている。今回は歩かなかったが、先の西華門から北に進み北西の角楼から東に折れればここに来るはずである。これも文革で破壊されたのであろうか。玄武門の直ぐ外側(北側)には西華門から続く護城河が雄大にその跡を遺している。とにかくこれだけの遺跡がつい最近までほぼ完全に残っていただけに文革での愚行が悲しくてならない。太平洋戦争の愚行によって全国に遺されていた近世城郭の大半を消失させてしまったのと全く同じである。



 玄武門跡



 北城壁に添った護城河



 龍模様の浮き彫りされた礎石





 東華門跡に立つ文物碑。ここはつい40年程前まで完璧に残っていたという。残念!!



 今はなき東華門を通行する村民

 中都の中枢部を堪能し尽くして午後の調査地に向かった。中都研究なくして宮都研究なしと言えるほど素晴らしい遺跡であった。必ずもう一度戻ってきたいものである。その頃にはいろいろな制約がなくなっていることを願い、世界中の知恵でこの遺跡を調査、保護したいものだと強く思った。



 後に誕生パーテーの会場となる鴨屋さん。

必ず、中都・鳳陽に戻ってくるぞと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

そして

 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!今こそ世界平和の道を!!

南京・鳳陽・開封報告-6 南京から鳳陽へ、途中祖陵を訪ねての条

2009-09-28 19:51:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 鳳陽楽しみだな、と思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ 



 わざわざ運転手の提案で7時出発としたのに来ない!!皆さん苛苛!!

 南京から鳳陽へは車で4時間ほどの道のりだ。ただし予定にはなかった明祖陵を訪れることにしたので、かなり時間を取られることになり、またまた車の会社との間でトラブルが。8月といい、9月といい、やはり現代中国の人間との間の「契約」は文書にしてきちんとしておかないといけないことを実感した。これまでのような「人間関係」はもう通用しない社会になってしまったようだ。これも経済大国の悪しき影響であろうか。またまたM先生の登場で何とか調整を済ませ祖陵へ。彼なくして今回の調査はあり得なかった!感謝感謝!!



 淮河を渡るといよいよ黄河流域へと近づいていく。、中国北部となる。



 ようやく見つけた祖陵の入口。

 祖陵の博物館について珍騒動が!!

 60歳以上の「老人」は入場料が半額になるというのである。結構高額の入場料だったので、皆さんには感謝されたのだが、私としては複雑な心境であった。(この後拝観料を取られる施設に行くたびにパスポートを出す羽目に!それにしても日本ではこんな制度はないような気がするが・・・政権交代したことだし、お願いしてみるかな!)



 上が一般の入場券、下がおじいさん用の特別チケット!アー悲し-。

 さて祖陵は余り知られていない。鳳陽の南にある皇陵はそれなりに知られているらしい(何も知らない今回の運転手も知っていた)のだが、祖陵はほとんど知る人もいないらしい。これもトラブルの一因だった。朱元璋の曾祖父や祖父母他の一族の遺品を集めて陵としたものである。1680年の黄河の大洪水によって一度水没したのだがその後六十年ほどして再び地上に姿を現したという。



祖陵の説明



 祖陵附属資料館の正面観。最近の中国の博物館はとても綺麗で、いろいろな工夫をするようになってきた。これもオリンピック効果であろうか。かつての日本の変化が東京オリンピックにあったことは間違いないが、ここ中国でもそれを実感できる。






菱の実はあっさりしたリンゴのような味がした。



 櫛の使い方実演!

 その参道を歩く途中にお土産物やさんがあった。ま、どこにでもあるものなのだが、なにせ参観者など全くいない施設。こんな所で店を出していてどうすんの?という感じだった。その一角でおばあさんが菱の実を置いていた。珍しいので覗くと、売りつけるわけでもなく食べろという。なかなかあっさりした美味しいものだった。ついでに土産物屋さんを覗くとこんな田舎にしては結構整った顔立ちの若い女性が店をやっていた。櫛が山積みされていたのでいくらだというと結構安い。それで学生の土産にしようということになり、まとめ買いをした。



 もちろん、M先生が見逃すはずがない。すかざすツーショット。



祖陵の石像群



修理中の金水橋。今時アーチはこの様に造ると判った。



水面に少し顔を出しているアーチ部が玄室の入口。

そんな寄り道をしていたもので、陵の方は駆け足で見て回った。一度は水没したものの、明代には壮大な規模の陵墓だったという。貧民出身の朱元璋にしてみれば、自分を生んでくれたご先祖様がいかに大切だったかがよく判る。そんなこんなで祖陵を見学していよいよ鳳陽へ向かう。

ナナナント、鳳陽の名物は日本から持ち込まれた??ザリガニだという。
実は4年程前に来た時に南京で知らずに食べた。大してうまいとは思わなかったので今回は全く手を付けなかったが、聞くところによると南京から週末には沢山の人が食べに来るとか・・・。物好きな・・・!



かなり唐辛子と油で煮詰めてあるので、病気の心配はないのだが、・・・前回のこともあり、遠慮した。

祖陵も面白そうだねと思ったら、一度訪ねられることをお奨めします。こいつをポチッと押して下さいね→

人気ブログランキングへ
現実味を帯びてきた!! オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!
そして核兵器廃絶の第一歩を踏み出そう。

南京・鳳陽・開封報告-5 南唐二陵から繍県石像、そして総統府跡への条

2009-09-26 17:05:43 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 昨夜無事に帰って参りました!!
 とても充実した12日間でした。大した体調の変化もなくとても快適でした。途中ネットのできない大学のホテルにいたもので、アップが途絶えてしまいましたので、その間の調査状況をこれからしばらくお伝えしていくことにします。

 雨の南京もまたおつなもだねと思ったら?こいつをポチッと押して下さいね→
人気ブログランキングへ

 20090917 南京最後の日でした。 





 欽陵の入口

 大昔、受験勉強に励んでいた頃には日本史と世界史は得意中の得意(というか、これしか点数を稼げるものがなかったので)だったので、覚えていたはずの南北長や五胡十六国、五代十国の国名や興亡の年月。皇帝の名前。そのいずれもすっかり忘れてしまっていたことがこの日の調査で判明。
「ナントウニリョウ」
この音を聞いて直ぐに「南唐二陵」と文字変換できる人はすごい!
その南唐が937年から975年までの40年弱存在し、太祖が李昪であったと知っている人がいたら、それは もう受験勉強真っ最中の若者か、専門家であろう。その南唐二陵は南京郊外の村にひっそりとたたずんでいた。
二代の皇帝夫妻の墓は横穴式の磚積み墓室で、初代李昪の墓が欽陵、二代李夫妻の墓が順陵である。興味深いのは順陵の前に転がっている沢山の板石である。羨道部には二つの副室が設けられ、両側に耳室を持つが、その副室の両側に二対の方形の穴が穿たれている。特に上の一対は穴が垂直には穿たれず、斜め下方向を向いている。



 欽陵の耳室



 玄室部分



 順陵の棺台



 順陵の副室の壁に開けられた穴。こんな方形の穴が二個ずつ上下に空いている。

「???」
外に出て了解した。恐らく木製の梁の様なものを筋交いにわたし、これに板石をもたせかけて閉塞するための施設だったのではなかろうか。こんなささやかな方法で閉塞するのだから皇帝権力の強さが判ろうというものだ。




 閉塞石

その後、付近の水田中に点在し、本来なら陵墓の前に置かれるべき獅子石刻像を見学に行った。


最初の石刻獅子像は1基しかなく、経塔もまた1基しか残っていない。獅子像の直ぐ横では陵苑を探索するためのトレンチがあけられていたが既に調査も終了しているのか雨のために水没していた。



 覆い屋もなくかなり傷みつつ水田の中に立っていた。



トレンチ



経塔



ついで車で五分ほどのところに3基の獅子像がおかれ、付近には碑文も遺されていた。には碑文も保護されていた。これら獅子像はM先生によれば東西に雌雄一基づつ置くのが普通のはずだが、どうもうまく対応していない、付近に陵墓らしい地形も認められず、石刻像そのものがどこかから持ち込まれたのではないかとの疑問が出ることとなった。



移動してここに置かれたのだろうか?


その後さらに小学校の入口付近に移動されていた石像群を見学した。





もう終わりかと帰りかけると、もう一対あるという。雨の中大急ぎで専門学校の校庭の一角に柵で護られた獅子像を見つけて見学させて頂く。
それにしてもどうしてこの地域にはこれほどの獅子像があちこちにあるのか、そもそもその陵墓はどうなっているのか?疑問だらけなのだが、よく判らなかった。




午後からは二人の先生方が南京大学でご講演をなさるというので大急ぎで市内へ引き返す。残った者達で市内の著名な遺跡を回ることに。とは言っても土砂降りの雨になって、靴はずくずく、服はびしょ濡れ、早くホテルに帰りたかった、というのが正直なところ。
それでも初めて訪れた総統府は、孫文が中華民国の臨時政府と打ち立てたところだという。その前には太平天国の乱において都の中心部が置かれたところでもあったらしい。中華民国時代の施設が綺麗に整備し直され、博物館になっているのだが、なかなか期待以上のものがあった。



太平天国時代の都の中枢部の復元模型。天壇まがいのものもあり、キリスト教の影響を受けたとはいえ、伝統の根強さに驚かされる。

この後さらに雨が激しくなる中3回目となる江南貢院(科挙の舞台)へと移動した。受験生?の部屋が1畳一間で、ベット兼椅子と壁の両側に桟を打ち付け、その間に板を渡しただけの机の部屋で勉強していたのだという。以前にも見たはずなのだが、ようやくこの施設のイメージを持つことができた。



 江南貢院の復原模型

その後夜は南京大学の偉い様方との宴会。皆さん相変わらずの白酒の乾杯であったが、今回の私は「付録」なのでその被害に遭わずに助かった。これで南京は終わり。明日(18日)は次の訪問地鳳陽への移動である。 


 鳩山の国連演説で現実味をましてきましたね。理想ばかり掲げていてどうするんだという声がとても虚しく、情けなく聞こえてきます。理想を掲げなくてどんな世界ができるというのでしょうか。もっとも、核兵器廃絶なんて当たり前の人間としての声なんですが・・・。

  オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

 力強く、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

南京・鳳陽・開封報告-番外編2  ネットのできない世界からやっと都会に?戻ってきての条

2009-09-24 23:29:36 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 長らくご無沙汰致しておりました。この3日間ネットの繋がらない原始的なホテルに宿泊していたもので折角のブログが更新できませんでした。明日帰国します。今北京の中心街王府井大街に面したホテルにいます。もっともこのホテルも国家が管理するホテルのはずなんですが、ネットの繋がりが悪く直ぐに切れたりなかなか繋がらなかったりで悪戦苦闘中です。そこでとにかくこの間読み溜めた駄句を一挙掲載することにします。本当は写真付きにしたいのですが、大変時間がかかるので帰国後に補うことにします。



 国慶節一色の北京です。北京もいいなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


10  大行宮 秋雨の路 今はなく
 (だいあんぐう あきさめのみち いまはなく)
20090915 張学鋒先生に案内いただいた図書館の地下に「遺された」南京城の中軸線上から見付かった道路の跡に思いを馳せながら。

11  秋雨に 碩学の案内 南京城
 (あきさめに せきがくのあない なんきんじょう)
20090915 張学鋒先生の案内で南京市街中心部を歩く。

12  秦淮河 黒泥の中 工力の汗
 (しんわいが くろつちのなか くうりのあせ)
20090915 発掘調査中の南京城の護城河の一角。河の変遷を探るために設けられたトレンチの中で働く労働者の姿にかつて動員されたであろう大量の明の民の姿を重ねながら。

13  黒き汗 淮河の底に 溢れ落ち
 (くろきあせ わいがのそこに あふれおち)
20090915 秦淮河の調査に汗する人々の姿を見ながら。

14  護城河 黒泥にまみれ 護岸跡
 (ごじょうがわ こくでにまみれ ごがんあと)
20090915 秦淮河、即ち南京内城の周囲をめぐる運河の規模を確認するための発掘調査で発見された護岸の跡を見ながら。

15  新米の 山積み溢る 呉の津
 (しんまいの やまづみあふる ごのみなと)
20090915 南京市博物館に展示されていた木簡には米25石を送ることが記されていた。荷札木簡が棄てられていたところは今から1800年前の呉の時代の港の一角だという。かつての賑わいを思い起こしながら。

16  白磁壺 秋雨の底 西水関
 (しろきつぼ あきさめのそこ せいすいかん)
20090915 同博物館には大量の完形品の白磁の注口壺が展示されていた。御案内いただいた張学鋒先生のご説明によれば、これらは西水関に運ばれてきた品だが、恐らく沈没してしまった船に積まれていた積み荷だったのではないかという。

17  秋雨に 煙し先の 東水関 
 (あきさめにけむりしさきに とうすいかん)
20090916 今回の南京はあいにく連日の雨だった、少し肌寒い九月の雨の中、訪れた東水関の姿はどこかうら悲しかった。しかし雨に煙る東水関の姿にはとても威厳があった。

18  明船の 行き交う夢に 秋の雨
 (みんせんの ゆきかうゆめに あきのあめ)
20090916 東水関には多くの明船が揚子江から荷を積んで上がってきたに違いない。その喧噪を思い浮かべながら。

19  玄武湖に 棹さす公望 秋の夕
 (げんぶこに さおさすこうぼう あきのゆう)
20090916 劉国慶先生に御案内いただいた玄武湖の辺の墻中墻近くでは沢山の太公望達が棹さす姿が見られた。

20  墻中墻 文字磚に吹く 秋の風
(しょうちゅうしょう もじせんにふく あきのかぜ)
20090916 元あった城壁を包み込むようにしてできた新たな城壁にはその変遷を示す年号の刻まれた磚があるという。今回も各所で見つけた明代を中心とした文字磚。同じ頃ベトナムのタンロンでも大量の文字磚が用いられていた。中国文化の広がりの強さを実感させる材料でもある。



古い方の壁にあることが判った文字磚。

21  御道街 黄色い声と 秋の虫
 (ごどうがい きいろいこえと あきのむし)
20090916 南京故宮の中軸線を午門から真っ直ぐ南に延びるみちが御道街である。これに添って御道街小学校がある。私の母校(入学時の小学校)朱雀第三小学校は平安京の朱雀大路に近い右京五条にあった。何となく親しみを感じつつ子どもたちの元気な姿に触発されて。

22  秋の陽に 午門破壊の 跡悲し  
 (あきのひに ごもんはかいの あとかなり)
20090916 南京城故宮正面の午門に昇り、その両翼の闕などが日本軍によって破壊されたと聞き、ここにも軍国主義の爪痕が残ることを知り愕然とする。

23  秋雨に 寄り添う二陵 南唐王 
 (あきさめに よりそうにりょう なんとうおう)
20090917 唐滅亡後、中国は再び分裂状態となり、五代十国の時代を迎える。唐の跡をついだとする南唐の李昪は南京(金陵)に都を置く。しかしわずか三代で王朝は絶え、その太祖達の墓が南京郊外にひっそりとたたずむ。

24  二王にて 絶えたる南唐 陵の虫 
(におうにて たえたるなんとう りょうのむし)
20090917 南唐二陵はこれまで見学したいずれの皇帝の陵墓よりも小さく、田舎にあって、ひっそりと苔むして残っていた。

25  一人座す 繍県が獅子 秋の雨 
 (ひとりざす しゅうけんがしし あきのあめ)
200909 繍県には点々と陵前に置かれたはずの石造彫刻が遺されている。そのひとつは、本来つがいで置かれていたはずにもかかわらず一体しかなく、付近に陵墓の痕跡も認められない。水田にポツンと遺された石造に秋雨がしとど降り注ぐ光景はとてもうら悲しい。

26  獅子たちの 群れ添う先に 稲穂垂る
(ししたちの むれそうさきに いなほたる)
20090917 南唐二陵を少し行った水田の中に一基の獅子像が遺る。直ぐ横では陵苑を探すためというトレンチが水没して遺されていた。さらに進むと三基の獅子像が立派な公園の中に保存されていたが、皆さんの説によるとこの地に移動してきた時に置き方を間違えたのではないかという。

27  秋雨の 降り注ぎたる 獅子夫婦 
(あきさめの ふりそそぎたる ししみょうと)
20090917 繍県の専門学校の校庭にも一対の石造獅子が遺されている。これもまた陵墓から切り離されたのであろうか。

28  秋雨の 太平天国 今悲し
(あきさめの たいへいてんごく いまかなし)
20090917 清末19世紀中頃に起こった太平天国の乱は一気に勢力を拡大し、南京の州政府を攻略して都とし、天京と名乗った。キリスト教の影響を受けたとされながら、中国の伝統的儀礼をも則って都造りをしたらしく、政治の中枢部のすぐ前には天壇を模した円丘が設けられたという。その後中華民国の総統府が置かれ、現代も博物館として公開されている。雨の中沢山の観光客の訪れ写真に納めている姿を見ると、中国の人々の大事な歴史遺産であることが判る。

29  秋桜に 似たる櫛売り 祖陵嬢
(こすもすに にたるくしうり そりょうじょう)
20090918 南京から鳳陽へ向かう途中、朱元璋の祖先達を祀った祖陵に寄ることになる。ほとんど観光客の訪れることもないこの地にも土産物屋さんが店を出している。一帯どの様にして喰っているのだろうかと心配になるのだが、菱の実を売るおばあさんに吸い寄せられて品物を見ると素敵なお嬢さんが櫛を売っていた。学生の土産にまとめ買いをする。



なかなか色っぽいね!

30  朱元璋 逝きし祖先を 送る虫 
(しゅげんしょう ゆきしそせんを おくるむし)
20090917 朱元璋は貧農の生まれであった。両親も、兄妹の多くも病気や飢えで亡くしたという。寺に預けられ、農民一揆委の仲間に加わる中で頭角を現し、中国を漢民族の手によって再統一をするわけだが、それだけに自らの祖先に対する思い入れは深かったのであろう。祖父や祖母、曾祖父母達の霊をまとめてこの祖陵に祀ったという。

31 円丘の 稲穂の間に間に 家鴨母子
(えんきゅうの いなほのまにまに あひるぼし)

20090919 朱元璋が理想の都として故郷の一角に造らせようとしたのが鳳陽の中都であった。初めて訪れた中都の壮大な構造、現代中国にあっては奇跡的に保存状態のよい都の跡に感嘆の声ばかりを上げていたのだが、ここ円丘(天壇)を訪れてその驚きは倍増することになる。円丘の周りに堀が巡るのだが、その堀を利用した水田が見事にその形を伝えてくれる。村人達も天川だと称してとても大事に遺跡を守っている。このままの姿を遺して欲しいものである。



円丘の周りには堀が回るが、現在は水田となっている。


32  城薔に 夏草食んで 山羊親子
 (じょうしょうに なつくさはんで やぎおやこ)
20090919 中都西華門跡(宮城西門)から城薔の上に登ると中都中枢部全体を見渡すことができる。西門から南へ進むと山羊の親子達に遭遇する。十頭余りの子山羊達を引き連れた母山羊は、私たちを見つけると用心深く子山羊達を先に進め、後ろからじっとその姿を確認してから最後に隊列に加わる。何とも愛情溢れた、母親らしい姿であることだろう。どこぞの国の若い母親達が自らの腹を痛めた子どもを虐待し、パチンコに熱中する余り死に追いやり、まるでゴミのように捨て置く姿を重ねると日本の今の暗い未来が見えてしまう。



33  秋雨に ぬかるみ午門 悠然と
(あきさめに ぬかるみごもん ゆうぜんと)
20090919 連日の雨によって周囲はぬかるみだらけ、泥泥になりながら訪れた午門の跡は想像を絶する規模で悠然とその姿を現した。

34  破壊受け 虫の合奏 東華門
 (はかいうけ むしのがっそう とうかもん)
20090919 文化大革命によって大きく破壊されたという東華門は今はなく、村人達が自転車で通る大きな穴となって残る。

35  方丘を 壊ちた水に 稲穂映ゆ
 (ほうきゅうを こぼちたみずに いなほはゆ)
20090920 現在の中国を象徴する経済主義一辺倒の姿があちこちで遺跡の破壊を進めている。ここ方丘もわずか20年程前までは完全な姿で残っていたのに、煉瓦工場の土取りのために南半分が大きく抉られ、あちこちにできた大きな水溜まりに稲穂が影を落として。

36  蟋蟀の 鼓楼玉座に 納まりて 
 (こおろぎの ころうぎょくざに おさまりて)
20090920 中都の鼓楼に展示された玉座の模型を見ながらラスト延歩エラーのシーンと重ねながら。



37  中秋に 浮かぶ独山 観星台
 (ちゅうしゅうに うかぶどくざん かんせいだい)
20090920 間もなく中秋の名月である。独山に置かれた観星台に満月がかかる姿はどれほど美しいことだろうか。



鼓楼には新米だが、とても熱心な説明ガイドさんがいた。とても綺麗な日本語を喋る。



観星台にて

38  敬老の 祝いの蝋燭 六十一
 (けいろうの いわいのろうそく むとせひとつ)
20090920 誕生日のお祝いにケーキを頂いて。



 頂いたケーキに蝋燭を立てて乾杯!!

39  白酒を 重ねし貌に 秋の愁い
 (ばいちゅうを かさねしかおに あきのうれい)
20090920 誕生日を祝ってくれ、白酒の乾杯の嵐の中にもどこか憂いの潜む陳懐仁さんの姿に寂しさを感じつつ



40  秋雨の 愁いに沈む 五龍橋  
 (あきさめの うれいにしずむ ごりゅうきょう)
20090920 中都にて発掘されたという午門前の橋の跡を地中に思い描きながら

41  淮河過ぎ モロコシの絨毯 広がりて 
(わいがすぎ もろこしのじゅうたん ひろがりて) 
20090921 淮河を過ぎると突然車窓の風景が変わる。それまでの水田からトウモロコシ畑へと大きく変わるのである。江南の富が北の王権を支えるという、現代の地球の縮図がここにある。

42  車窓から モロコシ畑 開封へ
(しゃそうから もろこしばたけ かいほうへ)
20090921 果たして揚子江流域の開封は?

43  蟋蟀と 即興麺に 舌鼓
 (こおろぎと そっきょうめんに したづつみ)

20090921 開封への移動の途中、時間がないのでサービスエリアで食事をすることになる。カップ麺を買って食べたのだが・・・。

44  開封の 夜市に煙る モロコシの香
 (かいほうの よいちにけむる もろこしのか)
20090921 
45  地底深し 都の眠る 秋開封
(つちふかし みやこのねむる あきかいふう)
20090921

46  馬道跡 黄河氾濫 今はなく
(ばとうあと こうがはんらん いまはなく)
20090922

47  開封へ 秋風と共に ユダヤ人
 (かいふへ あきかぜとともに ゆだやびと)
20090922

48  ユダヤ人 放浪の跡 秋開封
(ゆだやびと ほうろうのあと あきかいふう)
20090922

49  楊家湖を 渡る秋風 龍邸に 
 (ようかこを わたるあきかぜ りゅうていに)
20090923

50  金明池 浮かぶ開封 秋の月
(きんめいち うかぶかいふう あきのつき)
20090923 開封最後の晩餐は、超高級ホテル開封開元城大酒店であった。5星だというホテルは確かにこれまでのどんな食事処より美しかったのだが・・・。その部屋からは池を望むことができ、池には三日月が映り、とても幻想的な光景だった。

51  栗の実を ほおばり懐かし 開封の夜
 (くりのみを ほおばりなつかし かいふうのよ)
20090923

52  繁塔を 立ち退き命に 秋寒し
(はんとうを たちのきめいに あきさむし)
20090923 繁塔の周りは大規模に建物の解体工事が進む最中であった。その一角にまだ立ち退かない家が数軒あった。彼らは段ボールにマジックで立ち退きの違法を訴えていた。いずこの世界も国家権力と市民との軋轢を押さえきることはできないことを知る。それにしてもその原因が文化遺産の整備に伴うとわかると余計複雑であった。

53  繁塔を 見上げし先に 鰯雲
 (はんとうを みあげしさきに いわしぐも)
20090923 

54  菊の香に 誘われ二人 鉄塔へ 
 (きくのかに さそわれふたり てっとうへ)
20090923 河南大学の校庭の端に開宝寺(鉄塔)への入口が接している。十三階の階段を昇り終えて出てくると、新入生の若いカップルが記念撮影をしている。撮ってあげようかというととても嬉しそうに返事をする。そして「Where from?」 と英語で尋ねられた。とても人なつこい女子学生は一緒に写真を撮ろうと言う。



 いつまでも仲良くしてね!!

55  十三階 昇りし汗に 秋の風
(じゅうさんかい のぼりしあせに あきのかぜ)
20090923 中国ではあちこちの施設が60歳以上半額であった。今回はその特典を大いに活かさせていただいた。ここ鉄塔もそうなのだが、鉄塔に昇るのは別料金で、60歳の区別もない。そんな中、冷やかされながら、上がったのだが、さすがに降りてきた時には膝が笑って、しばらくまともに歩けなかった。

56  国慶節 控えし公園 我らのみ 
 (こっけいせつ ひかえしこうえん われらのみ)
20090923 開封市内に最近できたばかりのテーマパーク??入場料80元(約千円)という高額の施設はまさに作り物の世界だった。休みには賑わうらしいが、この日は平日。がらんとしていて、作り物を独占できはしたのだが・・・。今度来る時には既に倒産しているのではないかと、みんなで笑った。

57  鉄塔と 中秋近し 汗のひき
(てっとうと ちゅうしゅうのあき あせのひき)
20090923 鉄塔に昇るともう中秋が近いことを実感させてくれる涼しい風があっという間に噴き出した汗をひいてくれる。

                           企良



 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

 間もなく中秋。皆さんも是非一句!と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 国慶節 準備の進む 景山に

南京・鳳陽・開封報告-番外編  61歳の誕生日を鳳陽で祝っていただくの条

2009-09-21 09:42:38 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 61にもなってとお思いの方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 昨日は私の61歳の誕生日だった。たまたま一緒に行動しているある先生が忘れ物をしたのでホテルまで取りに戻らなければならないということになり、何か罰金として取り立てようと思いついた。そこでケ-キという話しになり、そう言えば今日は私の誕生日だからちょうどいいから買って!と言ったものだから誕生日がばれてしまった。

 その後ケーキの話しはそのまま立ち消えになってしまった。と、思っていたのだが、・・・。今日が最後の鳳陽見学、その案内役の陳先生を囲んで最後の宴会をなじみの店ですることになり、18時に集まった。先生はわざわざ好みの白酒を持参下さり、セレモニーの後乾杯!!次々とついではおちょこにつがれた白酒を一気に飲み干す。こんな感じだから直ぐに1本の白酒がなくなった。



 もっとも私は初めてだが、以前の先生はもっと飲みっぷりがよくって、今日は誰が「犠牲」になるか、が始まる前の話題を独占していた。

 ところが最近先生もお歳のせいか(私より4歳上だという。ならばそんなお歳でもない!ヨネ。)あまり飲まれない。そのお蔭?で皆さんもマイペースでのみ進む。

 宴も半ばにさしかかった頃、突然団長のY大学のA先生が口上を述べだした。私の誕生日をこれからお祝いするという。爆竹代わりの拍手喝采の中、しずしず運ばれてきたのが丸い箱に入ったケーキ。何でも陳先生がわざわざ買ってきて下さったのだという。とても可愛らしいケーキに6本の蝋燭を立ててセレモニー。こう言ってはなんだが、中国のケーキなんぞ美味しくもないに違いない!ましてや鳳陽という地方でまともなケーキなどあるはずがない!と思っていた。
 とんでもなかった!スポンジ部分もとてもふわふわ柔らかく焼き上げられ、クリームも、鋏んである果物も、そして上に乗っている飾りのチョコも全て満点!!とても美味しかった。こんな素敵な誕生会は生まれて初めて!それも異国の地で都城研究の仲間と楽しんだことは生涯の想い出になることだろう。

 有り難うございました!

 企画して下さった団長さんと馬先生!そしてわざわざ異国の民のために素敵なケーキを買って下さった陳先生、そしてそして一緒に祝って下さった仲間の皆さん、本当に本当に素敵なお祝いを有り難うございました。

 ということで誕生会の写真をアップして終わろうと思ったのだが、私は当事者だったので写真はなし。みんなからもらおうかなと思ったのだが恥ずかしいから頼めず。やむなく誰かが僕のデジカメで撮ってくれていたビデオから写真を取り込もうとしたのだがうまく行かず。結局ケーキも皆さんの姿もなし!ごめんなさい。



観星台を抱く独山
 仕方がないので今日見学した独山の上の観星台の写真を少しアップしておきます。それにしても朱元璋というのは地獄を見て育っただけにやることなすこと全てのスケールが違う。中国再統一を果たした第二の始皇帝とも言える人物のようだ。

 都城の基本構造やその規模など、全てを風水に従い、伝統的な資料に基づいて再建したとは言え、そのスケールの大きさには驚かざるを得なかった。

 どうしてこれが今まであまり注目されてこなかったのか、不思議でならないが、その大きな原因が開始からわずか6年で建設が放棄されたことにあろうか。つまり、世の人々は「たった」6年で大したものはできていなかったに違いない、そんな思いがあったのではなかろうか。
 長岡京に対する偏見と同じである(誕生会のお礼の言葉でもそのことを強調しておいた。)古代王権の持つ権力の大きさは今思う総理大臣の権力の大きさとは比べものにならないくらい大きかったのである。そして城壁や門を含む相当が建設されつつあったにもかかわらず、放棄されてしまうのである。ただし興味深いのはその後の歴代の皇帝もまた、中都を太祖の故郷として記憶し、度々訪れていることである。長岡旧京が寵臣や皇族に下賜され、長く公有地として維持されてきた姿とどこか共通するように思えてならなかった。これも大きな成果である。

 今日はこれから次の調査地、宋の都開封に向かう。25年程前に岸俊男先生達と訪れて以来の二度目の開封であるが、その当時の問題意識とは大きく異なる今、どんな新しい視点が得られるか、とても楽しみである。

 鳳陽の報告もたくさんあるのだが、とにかくありすぎてなかなかアップできない。もうしばらくお時間を下さい。

 今回の鳳陽での見学で最も印象深いのが、陳先生の次の言葉であった。

 「科学に国境はないのだから、世界中の人が一緒に中都の研究をしてくれることを望む。」

 これまで数多くの日本や中国の学者、文化財関係者に会ったが、この様な問題意識を示した人は一人もいない。それも日本で言えばかつての私のような行政の文化財担当者である陳先生の言葉だけに、そして、実際に遺跡の保護に奔走されているだけにその重みをずしりと受け止めることができた。ただし、そうした思いを国家が受け止められないところに日中共に変わらぬ権力者の文化に対する理解の無さに悲しい思いを抱かざるを得なかった。鳳陽はまだまだ開発の遅れている地域である。それだけに、都全体が歴史遺産として全面的に保存され、世界中の人々が訪れ、その歴史を学ぶ空間として、活用されることを望まざるを得なかった。何とかそんな中都の関係者のお力になりたいのだが、今の中国政府はかたくなに外国、特に日本の調査・協力を嫌っている。悲しいことだ。

 鉄砲でなく、札びらでなく、文化での交流こそ身のある関係となるはずなのに。


 そして最後に オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

鳳陽、行ってみたいなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


「昼顔の 中都午門に 添えて咲く」
「朝霞 観星台の 我抱き」
「円丘に 実り少なき 稲穂垂れ」
「奉天殿 今はモロコシ に包まれて」
「円丘を 天の恵みと 残す民」
「方丘を 己が財と 壊す民」
「西華門 見渡す宮に 稲穂垂れ」
「長月に 六十一歳 異国にて」
「中秋の あかりに浮かぶ 午門かな」   企良
 久しぶりの一句

南京。鳳陽・開封報告-4 東水関の威容に圧倒されるの条

2009-09-20 00:45:06 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 16日の午後からは東華門、東水関を雨の中歩いた。とにかく南京は雨ばかり!!ズボンの替えを持ってこなかったのが後悔される。
 それにしても東水関!とても興味深い遺跡だ。見に行くことができなかったが、西には西水関があるという。これもまたいつか見に行きたいな、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



 秦淮河を堰き止めて水の管理をすると共に水上交通も管理もした東水関全景。



 橋脚の基礎はこの様な舟形をなしている。これまで見てきた中国や朝鮮半島、日本の瀬田唐橋などと共通する基本構造である。



 蔵兵庫の全景。本来ならこの上にアーチ形の屋根が付いていたのだが、今は壊れて1基しか残っていない。



唯一残っている蔵兵庫を横から見たところ。この中に10人くらいの兵士が配されたのであろうか。



 これは二段目の部分。陸上交通用の橋として機能した。アーチ部分は店や役所が置かれたのだろうか?或いはここにも兵士が隠れていたのかも知れない。
 最下段は水面下にあり、巨大な金属製の板を上げ下げして水や舟の管理をしたと思われるが、見ることはできなかった。



 東水関の正面観。この背後にこれまで見てきたようなアーチが隠されている。



 東水関の上から見た岸辺の様子。かつてはこの辺りは水陸を行き交う人々でごった返したことだろう。或いは様々な店や役所の施設が並んで厳しいチェックも行われたのかも知れない。



 護城河だと思われる宮城内から流れてきた(或いは宮城内へ行くための)水路との接点に設けられていて、その交通を管理していたことが判る。

 
 
 東水関の最上部に設けられた蔵兵庫アーチ形をした奥行き5mくらいの空間が11個並んでいる。この中に兵士を常駐させ、警備に当たっていた。水関ではあるが、関における軍事的機能が明瞭に示された例である。これまでにも鈴鹿関の調査において述べてきたように、日本の陸上の関にも大量の兵士が常駐していた。今回の南京の東水関の実態から大いに興味を抱いたのは水上交通が発達した宋代以降の都における「水上交通管理のための関の配置とその管理」というテーマである。秦淮河に置かれた東水関には揚子江との水位の調節というもう一つの重要な機能があり、これは日本にでは全く考えられない機能であるが、それ以外の水陸交通の管理・調整と警備、(水)陸上交通の円滑化といった点は日本の関と大いに関係がある。特にこの間明らかになったことは三関における河川との位置関係である。三関共に陸路に沿うようにして川が並走しており、この管理のために、水関とまではいかなくともそれなりの管理・警備体制を想定することも必要なのではないかと発想した。
 先に紹介した西水関における沈没船、或いは秦淮河河畔で発見された木簡群に見られる水上交通と流通の問題など、「南京」だけではなく揚子江流域の都市の水上交通についてもう少し勉強しなければと思った。


 とにかくワクワクする遺跡である。早くもう一度じっくり見に来たな!!と思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 昨日は中都の内部をじっくり見学した後、円丘(天壇)に行った。地元民の案内で直径200mの天壇をじっくり見ることができた。最高!!
 中都は想像を絶する巨大な宮城の諸施設が見事に残っていた。早くその紹介もしたいのだが、伝えることが多すぎてなかなか到達しない。今しばらくのご辛抱を!!


 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!


南京・鳳陽・開封報告-3 やっと南京城が見えてきましたの条

2009-09-19 00:16:46 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 これまで2回も来たのにとんと六朝時代建康城・明代南京城のイメージを頭に浮かべることができていなかったのですが、今日の探訪でやっと見えてきました。
 もう一度じっくり自分の足で歩いてみたいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 9月16日は日本では新政権誕生の日でもあった。時々iphoneでニュースを見ながら遺跡の探訪を続けた。午前中は明代の南京城の城壁を回り、午後から各所に残る門跡を探訪した。



 この赤い星印が出発点の城壁(南京城には宮城-皇城-内城-外郭城の4つの城壁がある。その外から二番目の内城の城壁である。)北辺(故宮の北方の城壁)である。ここで南京市の楊さんに会い御案内いただいた。もちろんここも三回目なのだが、今回ようやく自分がどこをどう歩いているかきちんと認識することができた。ホント、いいかげんな記憶力である。
 
今日の御案内役は南京市の楊さんである。どちらかが楊さんでどちらかが馬さんなのだが・・・?? 前から撮るのも失礼かと思い、後ろから撮らせて頂いたらよく判らなくなってしまった。ごめんなさいね。





 この城壁は北へ延びるもので、楊さんの説は光武19年に拡張したものだという。彼によればこの拡張部といわれる地区に残る北西-南東方向の流路を根拠に本来この方向に延びていた城壁が撤去されて今の形になったのだという。
 ちなみにこの



 北に延びる城壁を北から結合部に向かって撮ったところ。



南京城の復元模型。東側にあった池を埋め立てて故宮を造営したという。風水に従ったものだ。



故宮を南から見たところ。



城壁の向こうには玄武湖が広がる。玄武湖の南辺に沿って故宮北側の城壁が東西に、西辺に沿って。北拡張部(この北側の地域には軍隊が駐留したという)の城壁が南北に設けられている。



昼食の後、故宮を歩くことにする。宮城の南端には護城河が流れている。



河に沿って南の城壁が平行して設けられ、中軸線上には正陽門が建設されていた。ていた。



ここから北に向かって御道街を歩く。





宮城の門である午門の前に置かれた外五龍橋である。



御道街小学校で遊ぶ子どもたち。私の小学校入学時の学校は朱雀第三小学校。親戚のような学校である。とても親しみを感じながらさらに御道街を北上した。この校庭の南側辺りから南にかけて社稷壇が設けられていた。





午門である。真ん中の3つの門道と両側の二つの門道の外側には本来闕が付いていたが破壊されてしまった。



中央門道の敷石。とても大きな石が見事に並べられている。両側に轍が掘り込まれている。



内五龍橋である。悲しいかなこの橋の架かる堀は全く浚渫されておらず、臭くて臭くて仕方がなかった。必要もないのに中心道路の舗装をやり直す金があるなら、もっとちゃんと掃除しろよ!南京市。



その後付いた轍。誰が、どの様にしてこの轍を刻んだのかが議論になったがよく判らなかった。



午門から御道街を見る。左手が太廟、右手が社稷壇(御道街小学校の南辺りから始まるという)。



午門の復元整備図。なぜか闕は復元されなかった。残念。



午門の上部の現状。



午門門闕の跡に残された右の門闕の門跡の方立てと軸受け。





いよいよ中枢部へと入っていきます。奉天門の跡から奉天殿を経て内部へ。



この後に後宮が展開した。


まだまだ続くのです。本当は、スライドショーをすればいいのですが、その仕方を忘れてしまったのでとにかく写真をどんどんアップしていきますが時間がかかるのでとりあえず今日はこの辺で。何とか行程の3分の1を終え、今日から安徽省鳳陽です。ここは朱元璋の出身地でもあり、明の中都が置かれたことでも知られています。明日は朝早くから市内見学です。この続きはまた明日。

オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


南京・鳳陽・開封報告-2 南京を歩くの条

2009-09-18 07:38:11 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 南京も面白そうだなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 

 南京市内を踏査。北辺の堀跡付近にて。



大行宮という地名付近のビル
では工事に際し遺物や遺構が出たが、残念なことに発掘調査はできなかった。そこで南京市が図書館の増設を計画した時に本格的な発掘調査を実施して素晴らしい遺跡を発見した。



図書館の裏の入口に表示された遺跡



耐圧ガラスで保護?されて市民は自由に歩き回ることができるのだが・・・



下に置いてあるのはこの様な復元模型である。これこそ地上に展示ケースでも置いてみせればいいのに・・・・・?



展示施設の壁に貼られたかつての南京調査の状況。



南京博物院の正面建物



南京市博物館の入口



修理中の収蔵庫に葺かれる予定の緑釉瓦

以下しばらく興味ある展示品のいくつかをご紹介します。もちろんあくまで私の興味の対象です。



瑠璃碗 日本にも入っているカットグラスの一つである。



中国の資料館・博物館にはなぜか硯の展示が極めて少ない。日本の硯の変遷を調べている私には大いなる不満である。南京市では唯一展示があった青磁の三足硯である。



図書館増設時に発見された磚敷き道路遺構の本物である。このコーナー付近にも公開展示と同じようなパネルが並んでいた。もう少し工夫すれば違いが出せるのにな、と思ったが、とにかく南京市ではかなり新しい趣向で挑戦しているように思える。頑張って欲しい。



秦淮河の一角で見付かった木簡である。米25石の搬送に関するものらしい。三国時代の呉の国の港の施設ではないかと聞いてみたが明確な返事はなかった。恐らくそうだろう。都市機能を考えるとても重要な資料だ。



封緘木簡



西水関の一角で発見された注口土器である。張先生によれば沈没船の資料ではないかという。まとまって完形品の土器群が発見されているらしい。とても興味深い資料であり、東水関とあわせてこれからも追究していきたい遺跡である。



門扉の軸受け(上下)である。鉄製の資料である。先般大野城で発見されたものとは構造が異なる。韓国と中国の違いであろうか。

この他、南京市が調査中のマンション予定地での事前調査。秦淮河の規模を確認するためにあちこちにトレンチを設けているという現場を見学しその変遷をつぶさに観察することができた。川幅を確認するという困難な調査に挑んでいる担当者に大いに敬意を払いたい。現地見学はこれで終わり。この後地下鉄に乗って大学に戻ることに。





地下鉄のホームの掲示



なかなか見やすく、日本的でスマートだった。



今日も団長さん(右)、裏の団長さん(左)、その黒衣(中)の皆様お疲れ様でした。しっかり飲んで休んで下さいね。

※ これからまだまだ南京の踏査地はあるのですが、時間が来ましたのでこの続きは明日以降に。これから次の訪問地鳳陽に向かいます。南京はこの間ずっと雨で沓もズボンもずぶ濡れ。さて鳳陽ではネットに繋がるかどうかよく判りません。

 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

 南京城も面白そうだなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

南京・鳳陽・開封報告-1 上海から新幹線に乗って南京への条

2009-09-16 00:42:09 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 中国新幹線(といっても本物の新幹線はまだ建設中)に乗ってみたいな、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 9月14日から25日まで、南部、揚子江流域の宋代以降の都城を中心に踏査に出かけることになった。関空に集まったのはこんなメンバーである。



もちろん、上海や南京で他のメンバーと合流する。



飛行機は中国航空のあまり大きくないボーイングである。確かこの前もこの飛行機で北京から帰ってきたような気がする。



上海駅前は大変な混雑だった。日本から手配したチケットやらを何とかそのカウンターに辿り着いて受け取った。驚くべきことに、今回は旅行社に予約を依頼したので、たった110元(1500円)のチケットが7000円もした。旅行社の暴利である。

さて、今回の初日の注目点は、上海から南京まで走っている「新幹線」である。ただし、これは本物ではなく、在来線に日本の技術を密かに利用して製造された「特急」の車両を、走らせるもので、最高時速は210キロ程度である。



左側が「新幹線」右側が在来の特急である。



連結部は東北新幹線そっくりである。



各車両にある電光掲示板には繰り返し繰り返し、車両の名前や時速が表示される。ニュースでも流せばいいのに!!



トイレも日本の構想とほとんど同じであった。



南京駅でタクシーに乗り、宿泊予定の南京大学附属賓館に向かった。



南京大学のキャンパスもとても広く、ここは広州路に接した南院の南門であった。
この正面に見えるのが、ナナナント・・・・・、大学校内に設けられた女子寮だという!!聞くところによると東アジア最大の女子寮だという。それにしても門の真正面に女子寮を配置する大学も大学だが、その5階建ての建物の内外に堂々と洗濯物を干す学生も学生だ。
日本では絶対に見ることのできない光景だった。

そんなこんなで何とかホテルについてチェックイン。直ぐに食事に出かけて今回の南京での見学の段取りをして下さった南京大学の張学鋒先生と歓談の時間を持つ。
ホテルに入ると直ぐにパソコンとにらめっこ。みなさんねっとにつながるかどうかがとりあえずの最重要課題となった。

食後には翌日の朝ご飯代わりのパンやジュースを大学の校内にある生協へ買いに出かける。15日は南京市内に残るいくつかの推定地等を張先生と一緒に回る予定である。

それでは皆さん、これから12日間にわたって展開するYHM主宰??の珍道中を紹介していきますのでしっかりご覧下さいね。しばらく留守にします。

 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!
 


土曜日の夜と日曜日の昼の久しぶりにのんびりした一時の条

2009-09-13 16:59:46 | yaasan随想
 昨夜は久しぶりに朧谷寿先生とお会いすることができた。春に体調を崩されたと伺っていたのだが、その後のご療養中はこちらから連絡もせず、失礼をしていた。

 昨夜は先生の「古希記念論集」(シーッ・・・!これはここだけのネーミングですよ!この名前は使うな!使ったら俺は降りる!と厳命されているので、公式には使えないのです。この私の私的なブログでなら勝手に使っても問題ないだろうと言うことで書いておきます.でも本当はそうなんですよ。)最終編集の会議ということで、思文閣出版に集まって打ち合わせをしたのである。
 お出でになるかどうか判らなかったのだが、お元気な姿を拝見してホッとした。さすがに少し(6キロ)お痩せになっていたが相変わらずの朧谷節は快調で、それを聞いて少し安心した。

 『平安京とその時代』思文閣出版買うぞ!とお思いの方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ私に言っていただければさらにお安く。

 朧谷壽編『平安京とその時代』思文閣出版2009年12月刊行予定

執筆者は平安時代を中心にした古代史・考古学・歴史地理学の研究者が20人ほど寄稿した。専門の論文集としては異例だが、朧谷先生のお二人の秘蔵っ子中の秘蔵っ子・教え子お二人が先生の人となりを巻末に書いていただいている。読み物としても素敵な本になった。

私と山田博士、そしてSM博士が編集を担ったのであるが、実際は山田博士一人が奔走して、悪戦苦闘して大先生方の論文を集めた。とても残念だったのはK大学のYS先生が他との関係で時間がなく、書いていただけなかったことだが、ほぼ予定通り平安時代、平安京研究の第一線の方々の論文を集めることができた。全て山田大大博士のご尽力のお蔭だ。

 会議の後、「食事」に出かけるという。

 (「エエッツ大丈夫なのかな-・・・」と内心思っていたのだが、)相変わらずの早業で祇園白川新橋の天ぷらやさん「おおざわ」を予約したからと仰る。

 先にタクシーで思文閣の編集者の方と行かれたので私と山田大大博士がタクシーで追っかける。付近に到着して、聞いていた場所を探すのだがどこにあるか判らない。白川新橋なんて、櫻のシーズンなら知っている。4月初めのこの辺りの夜は夜桜見物の観光客で超満員だ。そんな光景は何となく知っているが、実際にこんな所で食事をしたこと等一度もない私たちは、おたおたしながらその場所を捜す。どうしても見付からない!

 「アッ、あんな所や」と博士の声。
判らないはずだ。白川に店の玄関に向かって架かる橋の向こうに「おおざわ」とある。私たちは一生懸命川のこちら側の道路沿いのお店を探していたのである。

 伝統的建造物群に指定されているお店はいかにもいかにもという古風なたたずまいだった。




いいですね・・・こんな天井!!



そして床の間


 「東京にはあらへんわな」

朧谷先生の第一声である。

 このお店で編集会議の続き?
 思文閣の皆さんとても高学歴で、Hさんは私の同僚YY怨霊博士の1年下の後輩だとか。そしていつも編集の関係でメールを下さっていたNYさんはO大学の大学院で美学を研究していた才女。こんなお二人を私の原稿が遅れて功労させていたかと思うと益々申し訳なく。先生の奢りのお酒をせっせとついで名誉回復を!??(笑)。それにしても宮崎出身というNYさん、お酒も強くてとても魅力的な若者。いつまでも思文閣でいい本を出すお仕事をして頂けると有り難い。そのためにもこの本を完売しなければ!!
 皆さん、買って下さいね。2割引で7500円くらいですからね(買わへんかったら絶交するから!!そりゃ嬉しいて・・・あちゃー)。



先生は1階のカウンターで揚げたてを食べるのが大好きとかだったが、あいにく当日はもう一組のおなじみさんが来られているとかで2階の和室へ。でももちろんこれがとても素敵!!



天ぷらももちろん上品で、添えてある岩塩がまた美味しくて!
あまりに上品すぎて私の口はただただ呆然としていました(笑)。



外人さん向けのメニューもちゃんと用意されてました。このお店は調理人さんも、お店の方もみんな女性だとか。特にご主人は仏を彫られるとか。粋ですね。ありがたやありがたや。



9時頃先生はお帰りになるとかで、私たちはここでお別れ。

あまりに上品すぎて飲み足りないので私と博士は二次会へ。編集者の方もお誘いしたが残念ながら断られ、二人で近くの居酒屋へ。

久しぶりなので長々とお喋りしていると24時に。

「アチャー電車がなくなってしまった!」ということで午前様でタクシーにて帰宅。もちろんみんな寝静まっていて私は一人でバタン!途中寒くて目が覚めて、よく見ると布団を敷かずに布団の横で眠っていた。

「アリャー、・・・」明後日からまた中国なのにここで風邪をひいては大変!!大慌てで布団を敷いて、温かくして再び眠りに。


 珍しくゆったりと寝て、昼頃ネットを開き、友人のブログを覗くとこんな楽しい企画が。





 岡林信康コンサート  10月11日(日)17:30開場 山口県周南市市民館大ホール チケット 3000円
 (友人がこのチラシのキャッチをただで書いたとか。それを頼んだ奴ももちろん友人。周南新聞を主宰するN氏。何でも周南新聞創刊25周年イベントらしい。)

 行ってみようかなと思う広島・山口の人はこいつをポチッと押して下さいね→<人気ブログランキングへ

なお、元気になってしまったので、明日から南京・鳳陽・開封での宋・明代の都城の踏査に出かけます。インフルエンザだけが心配なのでマスクを大量に買い込みました。今度は元気に帰ってくるつもりで最善の注意を払います。今度はネットができるかどうか判らないので、しばらくおさらばかも知れません。

残暑厳しき折からご自愛下さい。

 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!
オバマよ、保守派なんかに負けるな!!
世界中で支えていこう!

泉津(上津遺跡)第9次発掘調査での運搬用漆壺出土の条

2009-09-11 22:36:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
泉津面白そうだな、と思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
 
2009年9月7日、木津川市のNさんのご案内で泉津(上津遺跡)で調査中の現場と出土遺物を拝見した。当日は橘大学名誉教授のI先生もお出でになるとかで、大学へ出勤途中にとても緊張しながら高の原の駅に出向いた。

 私はどうも偉い先生が苦手で、そもそもあまり個人的付き合いがない。先生方とお会いしても少し挨拶する程度で話すことはほとんど無い。だから今回もどうしようかとシュミレーションしながら駅に出向いたのである。



I先生の独特の話し方はご健在だった。横でお話を伺いながら現場を見せてもらった。

 現場は小さなマンションの計画地でそんなに広くないところに東西にトレンチが設けられていた。現場に着くと驚いたことにミニヘリによる撮影準備が進んでおり、その担当者から挨拶された。

 

 木津川が大きく北へ方向を変える少し東側の、これまでの泉津の調査地ではかなり東の方に位置するらしい。

「こんにちは、○○です。お久しぶりです」
「??・・・アー、お元気ですか?」

 もう20年近く前になるだろうか、彼が初めてこうした機械を使って売り込み始めた頃、私がやっていた長岡京(旧)東院の現場にやってきて、是非撮影させてくれと言うのである。その現場は市民プールの建設予定地で、珍しく広い現場でお金も少しゆとりがあったので久しぶりに空撮することにしたのである。

 こんな業界は浮き沈みが激しいのでこうして元気にやっているところを見るととても嬉しくなる。



調査トレンチを西から見たところ

 現場は、木津川の南岸、その土手の直ぐ南側に当たる。東西方向に沢山の柱列が並び、そのやや西側に井戸のような形の堀方がある、そこを中心にして須恵器の長頸壺の頸を落としたものが20数個体出たというのである。遺跡が遺跡だけに担当者のNさんは舟で運ばれてきた漆が泉津で陸揚げされ、小分けされて平城京に持ち込まれた、或いは泉津にある機関に分けられたのではないかという。



この方形の堀方の上面から沢山の須恵器の長頸壺が出たらしい。

 なかなか面白い解釈なのでとても興味深かった。一緒に焼き塩壺なども出土し、官衙的様相を呈するのはこれまでの成果と変わりはない。

 現場で発見された施設はトレンチが狭いために規模や機能が判らない状況で今後の進展を待つ以外に仕方がなかったのだが、私が現場で気になったのは古代の遺構を覆う中世の土層の上面が一定の間隔で盛り上がっていることだった。畠か、水田の畔のように見える。狭い間隔のものと、広い間隔のものがあって、かつて乙訓郡域で考えた、条里地割りの1坪内を一定の間隔で区切る畔との共通点だった。

 調査は珍しく調査会社に委託されていたので、現場担当者に間隔などを聞いたのだが、あまり興味がないのか、正確な情報は得られなかった。木津川に近いところなので、条里地割りなど残っていないのだろうが、地下にこうした遺構が残っているとなると、往時の土地利用が再現できるのでとても大事だと思ったのだが、全国を飛び回っている調査会社の担当者ではそこまでの興味や関心を持つのは難しいのかも知れない。残念だった。



この焦げ茶色の土の盛り上がり私は畔だと考えた。左が広い間隔(西端は写っていない)右の二基が狭い間隔の畔である。

 現場を見た後、別のところにある整理室で出土遺物を見せてもらった。
 少し意外だったのは壺の内面に着いている漆がえらくわずかなのである。もちろん私はこれまでに漆壺の工房での現物を掘ったことがないのでどの様に出土するものなのか、報告書の記述でしか知らないのであるが、奈文研の資料室に展示してあるものなどは相当ベッタリ付いているので、そんなイメージで見に行ったから余計に驚いたに過ぎない。

 

 漆壺の頸をはねたにしては頸の部分に付着していることが多い、漆の痕跡がえらく少なく、これまでの印象とは異なるものを抱いた。供伴したという焼き塩壺も少なく、調査が進展すれば想定通りのなるのかなと思った。


 日本に帰ってきて早速、それも体調の回復を見ていたかのようにNさんに声をかけていただいたことに感謝して再び津に向かった。

 やはり日本の現場はいいですよね。なんと言っても現場が管理されていて、調査担当者がきちんと説明してくれますもんね。

 有り難うございました皆さん。そして頑張って下さいねラジコンヘリの
Yさん!!

 現地説明会が来週の土曜日だったかな?皆さん、木津川市が面白いですよ。是非見に行って下さいね。面白いなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね。→人気ブログランキングへ

 そして実現するまで言い続けますよ!
  オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

ご心配おかけしましたが、体調回復しましたの条

2009-09-11 02:09:32 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
久留倍遺跡の精細な調査及び情報公開には頭が下がります。学問の原則は正確な情報の共有です。これを実践している四日市市の姿勢を高く評価します。同意していただける方はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 世間では新型インフルエンザの予防、ワクチン問題が大きなニュースになっていますが、私の方はと二かく二三日前に下痢が治り、あっという間に元気になりました。そんなわけで、治らなければサボろうと思っていた教授会にも出ることになり、あまりのつまらない議論にもならない議事の進行に、内職もはかどらず、無駄な時間を4時間も過ごしました。悲しい!!

 それにしても新政権の誕生で、これから益々研究環境、特に財政状況は厳しくなること間違いないのに、我が人文学部の暢気なこと!!ほとんど絵に描いた餅に過ぎない「研究」プランを自画自賛するばかりで、その失敗した時の付けがどんなに大変か全く判っていない人々のいいかげんさに、言葉も出ませんでした。

 唯一の清涼飲料のような爽やかな発言が、学生アンケートを切って捨てた法律経済学科のM先生からありました。とてもあっさりなさっているこの先生とは偶然いろんなところでご一緒するのですが、その感覚のまともなこと、少し救われた気がしました。それ以外は全滅、幻滅。

 こんな愚痴が出るくらいですから私の元気さが判ってもらえると思います。


 さて、久しぶりに考古学ネタを紹介します。
 元気になるまですっかり忘れていた久留倍遺跡の現地検討委員会が8日にありました。前回ご紹介した初期の官衙建物(東向き「コ」字形配置の施設群)の背後(西側)に並立する総柱建物の堀方の精査が課題でした。


調査区全景


 前回指摘したように教育委員会が示した遺構の解釈はやはり間違っており、2棟ある総柱建物は建て替えられておらず、柱は、建物解体時に大きく抜き取られていることが確定しました。この抜き取りの方法などはまるで平城宮の建物のそれかと見まごうほどの共通点を持っていました。なので、私の妄想は一挙に膨らみ、この建物を解体したのは平城京から派遣された工人グループではないのか、つまり、造伊勢行宮使の仕事だったのではないかと考えたのです。


断ち割られた柱跡の断面図



底の部分がやや凹んでいる。


今回は2棟の建物の四隅と内部の柱を各2箇所ずつ確認した。

 その柱こそ第Ⅱ期の建物に転用された!!

 その妄想はさておき、今回も現場から新しい情報を得ることができました。

 柱抜き取り痕の微細な埋土のあり方から柱位置が特定できるのではないかという情報です。これは、掘立柱建物の抜き取りを沢山経験していればそれとなく見抜けるものなのですが、柱のあったところが一段深く掘り下げられていることです。これは実際に柱を抜き取る風景を想像してみても理解できることなのです。
 一般的に掘立柱建物の柱は建物の重さによって、堀方の底に強く食い込んでいます。これを抜くためには柱底にスコップ(鋤)の先を入れなければなりません。当然柱のないところの堀方より深く穴が開けられることになります。その微妙な凹みが断ち割った堀方の各所で観察できたのです。この結果、建物の柱位置を正確に押さえることができます。事前の資料では抜き取りの中心付近を中心に線で結び、建物の柱間を記していましたが、むしろこの柱位置から求め直した方がいいように思います。ひょっとしたら2棟並立する総柱建物は同じ規模だった可能性も出てきます。

 さて、委員会では話題になりませんでしたが(話題にしずらかったというのが実態かもしれませんが)、こうした二棟の総柱建物を正殿の背後に並立させる施設とはなんなんでしょうか?これが南を正面にしていれば即座に「郡衙」と答えるのですが、そうはいきません。以前も述べましたが、私はこの施設が建物の方向から朝明駅家だと考えています。駅家だとするとこの総柱建物はどの様な機能を持った施設なのでしょうか。

 3間3間とか4間4間なら楼閣状施設も考えられるのですが、2棟は東西3間、南北4間のやや南北に長い建物なのです。となると倉庫以外には考えにくいでしょう。駅家の倉庫では何を保管するのか?私は駅使がもたらす重要文書の一時的な保管施設が必要だったのではないかと思います。他に駅家によっては武器の保管施設もあったのではないでしょうか。

 それにしてもこの掘立柱総柱建物は地方官衙の倉庫としてはかなり頑丈な施設と言えそうです。

 ただ何回行っても残念なのは、ドンドンできていく橋脚です。とうとう向こうが何も見えなくなりました。悲しい!!




 どんどんできあがるバイパス。


 
 すっかり閉ざされた遺跡

 10月にはいよいよ、報告書作成に向けた遺物等も含めた総合的な検討会が予定されています。遺物の少ないのが難点ですが、今回の初期建物の評価もいろいろ議論を呼びそうで、大変楽しみです。


  オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!人気ブログランキングへ


洛陽・鄭州・鄴城-6  体調不良でぶっ倒れていますの条

2009-09-03 17:21:04 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 31日に無事帰国しました。今回は幸いにも私のジンクスが活きず、どこの飛行機も墜ちませんでした。敢えて言えば日本の政治に大地殻変動が起こり、自民党が崩壊直前まで落ち込んだのが大きな変化でしょうか。こんな変化なら毎回起こってくれてもいい訳なので、私の家族が外国に行くと飛行機が墜ちるというジンクスがやっといい方向に動き出した感もあります。

 ところがです!私自身に変調が起こりました。
 後半の踏査で体調を崩したことは先にお伝えしましたが、その後も体調が戻らず、帰国後直ぐに病院へ直行しました。
 激しい下痢と頭痛で布団で横になる生活です。今ちょっと落ち着いてので久しぶりにこれを書きましたが、いつ復活できるやら・・・。書きたいことは山ほどあるのですが、しばらくお休みが続くかも知れません。

 それにしても期待が高まるのはオバマ氏のヒロシマ・ナガサキ訪問です!!

 昨日早速オバマ氏から電話がかかったとか、どこぞの総理大臣がB大統領から野球道具をもらって浮かれていたのとは大違い。英語が喋れるとかいいながらまともな単語を知らないA前総理とも違い、通訳無しで言いたいことが言える総理大臣は初めてのことですから、益々期待が高まります。是非今度会ったら要請して欲しいものです。

 そのためにもさらに声を上げ続けなければなりません。

  オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

 実は中国へ飛び立つ直前に私の友人から手紙が参りました。お母様が92歳でお亡くなりになったと。彼女がヒロシマで原爆にあったのが28歳の時。爆心地から500mほどしか離れていない家で、たまたま爆風によって倒れてきた戸板の影で助かったとか。戸板から出てみると周りは黒こげの何もない世界。

 その悲惨さを伝えるために彼女は精力的に「語り部」として歩いたという。もちろん原爆記念日にもヒロシマに参列した。その様な人々の集まりを「全国から集められた左翼の集会だ!」と公言してはばからない愚かな元自衛隊トップがいる。恥ずかしいことだ。そしてそれ以上にこれを大声で叫び人々に恐怖を与えて洗脳しようとする集団が形成されている。その集団の中心に元総理大臣が、元○○大臣がいると思うとゾッとする。彼らの愚かさを証明してくれる貴重な真の人間がまた一人消えた。残念でならない。

 どうぞ、あちらで原爆のない平和な暮らしを享受して下さい。お疲れ様でした。

 原爆のない世界を!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ