yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

聖武天皇東国行幸都市サミット-3 伊勢行幸開始河口頓宮の条

2008-10-31 08:03:50 | 久留倍遺跡を考える会
 河口の頓宮へ行ってみたいと思ったら・・・・ 

 第2弾は聖武第一の目的である伊勢行幸の出発点、河口頓宮です。今は津市になってしまいましたが、かつては白山町と呼ばれていた町のど真ん中にその推定地はありました。ご執筆頂いた熊崎司さんは古墳時代から奈良時代を中心に研究をされており、白山町では文化財全般を担当されていました。



 河口頓宮     津市教育委員会 熊崎 司

 『続日本紀』によると、天平十二(740)年一〇月二九日、平城京を出発した聖武天皇の一行は、山辺郡竹谿郡堀越、伊賀国名張郡を通り、伊賀郡安保頓宮を経て、十一月二日に伊勢国壱志郡河口頓宮に到着したことが記されています。これは現在の津市白山町川口地区に比定されており、早くは江戸時代の『三国地誌』などのなかで、その位置をめぐって検討がなされています。ここでは、これまでの研究と資料を整理し、河口頓宮の手がかりをさぐってみたいと思います。

〔1〕文献資料
 河口頓宮を考えるうえで注目されるのは、『続日本紀』の記事の豊富さです。天平十二年の聖武天皇の行幸では、11月2日の記事として

 ○乙酉、伊勢国壱志郡河口頓宮に到る。これを関宮謂ふ。

とあり、河口頓宮=関宮(せきのみや)という言葉がみられます。翌、3日の記事には、

 ○丙戌、少納言従五位下大井王并せて中臣・忌部らを遣わして、幣帛を大神宮に奉る。車駕、関宮に停り御しますこと十箇日。

とあり、伊勢神宮に奉幣使を派遣したことがわかります。同日、藤原広嗣が捕らえられたという報告が届き、翌4日は和遅野で狩りをし、伊勢国の租を一年間免除
したことがみられます。
 そして5日、広嗣らを刑に処したとの報が届き、12日に

○乙未、河口より発ちて壱志郡に到りて宿る。

と記されています。河口頓宮での滞在は十日間に及び、その後の赤坂頓宮での滞在(九日間)と並び、注目されます。河口頓宮滞在二日目にして広嗣を捕縛したとの知らせを聞いていることから、この長期滞在が当初から意図されたものか、乱の終結を聞いたことによるものかは判然としませんが、①伊勢国に入り、伊勢神宮に奉幣使をだしていること、②和遅野で狩りをしていることなど、河口において政治性を帯びた行事がとりおこなわれ、また河口頓宮には400人といわれる一行が長期滞在することが可能であったことがわかります。
 文字資料として、もうひとつ注目されるのは、昭和三八(1963)年の平城宮跡第13次調査SK820で出土した木簡にみえる「謹解 川口関務所 本土返罷夫人事 伊勢国」の記事です。この木簡は、文字の練習にも使われており、全体の文書は不明ですが、伊勢国以東から徴発された人夫が、川口関務所を通過して郷土に帰ったことを示しています。このことから、川口には「関務所」が設けられており、往来にあたってははこのような文書木簡により事務手続きが行われていたことがうかがわれます。
 以上のように、文献資料からは他の頓宮とは異なり、「河口頓宮」は「関宮」とも呼ばれていたこと、また「川口関務所」という行政機関があったことがうかがわれます。


(図3 川口地区西部の航空写真と推定地)
 〔2〕文学的資料
 川口頓宮のあり方や存続時期をうかがう上で、参考になるものに和歌があります。直接的に聖武天皇の行幸に関係するものは、『万葉集』の巻六に大伴家持が詠んだ歌があります。

 十二年庚辰冬十月、太宰少弐藤原朝臣廣嗣が反謀けむとして軍を発せるに、伊勢国に幸せる時、河口の行宮にて内舎人大伴宿禰家持がよめる歌一首

  河口の 野辺にいほりて 夜のふれば
    いもがたもとし 思ほゆるかも

このほか、河口頓宮に関係する歌として、

  曇りなく 月漏れとてや 河口の
    関のあらか き間遠なるらむ
       (新後選和歌集 巻第五)

  川口の 関のあら垣 いかなれば
    夜の通ひを 許さざるらん
       (新千載和歌集巻第十三)

  川口の 関のあら垣 あふ事は
    まとほなりとも 心へたつな
       (新続古今和歌集巻第十三)

などがあり、いずれも河口が「関」として詠まれています。
 

(図1 大角地内採取重圈文軒丸瓦と平瓦)
〔3〕考古資料
 河口頓宮を考える上で注目される考古資料として、津市白山郷土資料館で展示されている重圏文軒丸瓦と、平瓦の破片があります。
 この重圏文軒丸瓦は、聖武天皇によって整備された後期難波宮の瓦として採用された文様で、津市内における出土例はこの一点のみです。津市白山町川口の大角地区において酒井聖氏が採取されたもので、昭和八年発行の鈴木敏雄氏の著書『三重県古瓦図録』に紹介されたことで、広く知られるようになりました。瓦の裏面には「大角廃寺」の注記があり、当初は寺院に伴うものと考えられていたようです。この瓦については、新田剛氏が詳細な観察に基づいて伊勢国府の瓦と比較され、考察をされています。(新田剛「伊勢国府跡と大角遺跡における重圏文軒丸瓦」『考古学雑誌』第90巻3号 2006年)
 新田氏が指摘されたように、詳細な出土状況が判然とせず、大角地内やその隣接地におけるこれまでの発掘調査においても奈良時代の瓦の出土はみられませんでした。現時点においては、瓦葺き建物があったと想定できる状況ではなく、この瓦が何らかの事情によって川口に搬入されたものである可能性もあります。
 平成十四年、平成十五年には三重大学考古学研究室により学術調査が実施され、奈良時代の土器などが発見されていますが、考古学的な河口頓宮の調査はまだ始まったばかりといえます。

〔4〕河口頓宮の位置をめぐって
 これまで簡単にまとめてきましたが、河口には他の頓宮と異なり、「関」「関宮」としての性格があり、畿内と東国とを隔てる「河口関」として、重要な意味をもっていた時期があったこと、そして聖武天皇の伊勢行幸にあたり、河口頓宮での滞在と狩りの実施には確かな関係がありそうです。
 河口頓宮の位置をめぐっては、江戸時代の地誌類に川口村の御城地区にある医王寺周辺と、大角地区の白山中学校周辺がとりあげられています。医王寺には土塁が残ることも指摘され、昭和六年には三重県により「聖武天皇関宮宮跡」の顕彰碑も建てられました。近年はこの土塁が中世期の城館跡であることがわかっていますが、南北40メートル、東西15メートルの高台は「関」の候補地のひとつです。
 しかし、400人もの車駕が滞在することは空間的に不可能で、やはり「川口頓宮」「関宮」は川口地区の平地に求められそうです。田阪仁氏は、「宮の前」などの小字に注目され、旧白山消防署周辺を関宮の比定地として新たに指摘されました。(田阪仁「聖武天皇の伊勢国行幸と関宮跡について」(上)(下)『斎宮歴史博物館研究紀要』10・11,2001・2002年)
 伊賀国と伊勢国の間には、布引山系と呼ばれる山々が連なり、阿保頓宮から伊勢に向かった聖武天皇一行が、青山峠や布引峠・塩見峠などのいずれの地点を越え、雲出川をどこで渡ったのか、これまで知られている資料からはうかがえません。解明されるべき問題は多数残っていますが、伊勢国に入った聖武天皇の一行にとって、広嗣の乱の終結まで「関宮」に滞在したことは、大きな政治的な意味があったものと思われます。


 川口関の調査も必要だねと思ったら・・・ 

聖武天皇東国行幸都市サミット-2 平城京脱出の条

2008-10-30 13:06:30 | 久留倍遺跡を考える会
 聖武天皇東国行幸都市サミット平城廃都の理由も面白そうだな-と思ったら・・・ 

 今回のパネラーは私も含めて八人いらっしゃいます。それぞれの先生方から玉稿をいただいていますので順次ご紹介していくことにしようと思います。第1回目は奈良文化財研究所の馬場基さんです。


(冊子の裏表紙です)

 聖武と平城京   奈良文化財研究所 馬場 基

 はじめに

 聖武天皇にとって平城京とはどのような存在だったのか、少し想像をふくらませてみたいと思います。キーワードは「ビスタ」です。
 ビスタとは、人々の視線・視界のことです。権力者は、人々の視線を操り、利用して権威と求心性を表現しました。たとえば、近世の城下町と天守閣の関係をイメージしてください。都市や空間がどのように設計・演出されていたかを読み解くための考え方です。
 平城京にはどのような「ビスタ」が隠されており、聖武の心中をどのように察することができるのでしょうか。

〔1〕 平城京のビスタ
 古代都城は、天皇を頂点とする古代国家の偉大さや支配の正当性を演出するための舞台装置です。これにふさわしいビスタが用意されていました。
 平城京の正門・羅城門から、平城宮正面入り口である朱雀門までの道路が、京内最大の道路「朱雀大路」です。その幅約百m。両側には高さ五mの築地塀がのびます。視界は徹底的に遮られ、人々の視線は朱雀門、その奧にそびえる大極殿に集中します。羅城門-朱雀大路-朱雀門-第一次大極殿という中心的儀礼空間にビスタが集中する、高度に計画された中心性をもった空間でした。
 実は平城京にはもう一つのビスタが隠されています。それは興福寺へのビスタです。興福寺は藤原氏の氏寺で、平城遷都を推進した藤原不比等の創建です。高台に位置する興福寺からは、眼下に平城宮をはじめ、平城京内を見下ろせ、まさに「京内一望」です。興福寺は平城京を見守る場所にそびえていました。不比等が平城京を造営したのは、持統・文武から託された首皇子=聖武の為です。興福寺は、聖武やその家族を見守り、天皇家そのものと、天皇家と緊密な関係を築きつつあった藤原氏を守護する寺院でした。
 一方、他の氏族や勢力にとっては、興福寺は威圧的です。非常に象徴的なのが、羅城門基壇からの光景です。羅城門基壇から、東北の方向をみると、手前に大安寺、その上に覆い被さるように興福寺が望めたはずです。最も格式が高い大安寺さえ威圧し、覆ってしまうような迫力。これが、「ビスタ」で読み解く興福寺です。
 平城京には、第一次大極殿に収斂し、王権をそのまま表現する第一のビスタと、王権と密着する藤原氏の存在を暗示する第二のビスタの二つが存在していたのです。



〔2〕 平城脱出と改造
 聖武は即位後、興福寺伽藍の充実に力を注ぎますが、天平二年の東金堂造営を最後に、興福寺の造営は終わります。聖武・光明夫妻の「脱・興福寺」ということができるでしょう。どうもこのころから聖武天皇は「天皇」あるいは「皇帝」としての独自の在り方を模索しだした様に感じられます。その最終的な段階に、聖武はいよいよ平城京から「関東」へと旅立ちます。自分のために祖父であり義父である不比等が用意してくれた都では、自分なりの天皇のあり方が確立できない、と感じたからではないでしょうか。これは「脱平城」であり、「脱不比等」です。聖武の即位が、持統・文武と不比等との約束の延長あることを考えると、あるいは「脱持統」だったかもしれません。
八世紀代、王権の在り方は過渡期的です。外交関係も複雑で、矛盾に満ちたものでした。どのような天皇であるべきか、そういった歴史的課題を聖武は背負っていました。彼なりの到達点が、大仏造営であり、「三宝の奴」という言葉だったと思います。
 結局、彼は平城に戻ります。しかし、ただ黙って戻ったわけではありませんでした。聖武は平城を徹底的に改造します。かつて中心にそびえた第一次大極殿は解体されました。第一次大極殿自体は、すでに恭仁遷都の際に解体されていましたが、それをとりまく大極殿院空間は維持されていました。これが天平勝宝五年ごろに完全に解体されます。
 同じ頃、新たな中心・東大寺大仏殿を建設します。東大寺大仏殿は、羅城門から朱雀門へのビスタと直交し、朱雀門前から真東に抜けます。その先には朱雀門と同規模の東大寺西大門があり、大仏殿がそびえました。羅城門ー朱雀門の距離と朱雀門ー西大門の距離がほぼ同じなのは、偶然とは思えません。第一のビスタは、東大寺へ収斂するように改造されました。
 そして、大仏殿は第二のビスタをも見事に克服しています。今日羅城門跡に立つと、興福寺五重塔を圧するように大仏殿がそびえます。東大寺は、興福寺方式を踏襲し、さらに高い場所にさらに大きな建物を造ることで、新しいビスタを確立しました。
 聖武は、平城京を東大寺を中心とした、新しい都・仏都へと改造したのです。

おわりに
 聖武にとって、自らの王権を確立するためには、平城京は克服すべき存在でした。そして、結局平城京を改造することでその目標を達成したのだと思います。ただし、それが彼にとって本意であったか、妥協の産物だったかは、ちょっとわかりませんが。

(本誌では図や写真を豊富に入れて頂いているのですが、諸般の事情でブログには掲載致しませんでした。)

 これまであまり詳しく研究されてこなかった聖武の恭仁京遷都の背景が少し解けたような気がしますね。 

聖武天皇東国行幸都市サミット-1 東国行幸の謎に迫るの条

2008-10-28 23:35:12 | 久留倍遺跡を考える会
 聖武天皇東国行幸都市サミットに出かけてみようと思ったら・・・ 


(こんな冊子ができました。余分がありませんので当日中になくなると思います。参加できない方のために少し内容をご紹介していきます)

今回のシンポジウムでは近年の発掘調査によって明らかになった河口、赤坂、朝明、石占、禾津の頓宮及びその出発点となった平城京、到着点となった恭仁京の発掘調査に関わる関係教育・研究機関からパネラーをお呼びし、聖武東国行幸の謎に迫ろうと考えています。既にこの様に立派な資料集も刷り上がり開会を待つばかりですが、その内容の一部をご紹介しておきたいと思います。
第1回は私の拙文による全体像の提示です。


(総カラー24頁の資料集です。)

聖武東国行幸の謎に迫る  山中 章

天平十二(740)年十月二十九日、聖武天皇は突然、「我関東に行かんとす」という謎めいたことばを残して平城京を後にしました。
人はこれを、“九州で 勃発した藤原広嗣の乱に恐れおののいた天皇が、乱を避けるために東へ逃げたのだ”と評しました。この評価こそ聖武を「ひ弱な天皇」とするイメージを植え付けた元凶だったように思われます。本当にそうなのでしょうか?
本サミットは、この行幸の際に聖武が宿泊したと推定される七箇所の頓宮の所在地で調査研究にあたっておられる研究者の方々にお集まりいただき、その当否を探ろうとするものです。
個別の頓宮の実態を探る前に、まず初めに「東国行幸」全体について私の考えを述べておこうと思います。もちろん各地の先生方の意見とは必ずしも一致しませんのでご注意下さい。私が検討する材料は『続日本紀』と発掘調査成果です。

〔1〕『続日本紀』の表現方法
 聖武天皇の東国行幸を伝える『続日本紀』の記事の表現方法には三つのパターンが認められます。それぞれ宿泊した施設と深く関係していたものと推定しています。

【頓宮型】:造伊勢行宮司が造営した長期滞在型の施設です。
・ 十一月一日     伊賀国伊賀郡安保頓宮宿
・ 十一月二~十一日  伊勢国一志郡河口頓宮
・ 十一月十四~二十二日 鈴鹿郡赤坂頓宮
・ 十二月一~五日    不破郡不破頓宮
安保頓宮を除き十日から五日の長期滞在型です。但し安保頓宮への宿泊は大雨による臨時避難的なものであったと考えられまず。斎王帰京時に用いられる頓宮に宿泊したのではないでしょうか。これ以外の他の三頓宮がいずれも関所在地である点は注目すべき点です。

【頓宿型】:造伊勢国行宮司が、短期宿泊用に郡関連施設を改修・建設した宿泊所です。
・十月二十九日      山辺郡竹谿村堀越頓宿
・十一月二十五日     桑名郡石占頓宿
・十二月六日       坂田郡横川頓宿
 ・十二月十一~十三日   志賀郡禾津頓(宿)
・十二月十四日      山背国相楽郡玉井頓宿

【郡到型】:郡衙の所在する郡の中枢部の施設を転用・改築した宿泊所です。
・十月三十日       到伊賀国名張郡
・十一月十二・十三日   到一志郡宿
・十一月二十三・二十四日 到朝明郡
・十一月二十六~二十九日 到美濃国当伎郡
・十二月七・八日     到犬上(郡)頓
・十二月九日       到蒲生郡宿
・十二月十日       到野洲(郡)頓宿
 特に頓宮型に注目しますと、頓宮滞在中に各行幸の性格を示すような特別な行動(行為)をとっています。頓宮が関の一角に設けられたことも大きな特徴で、長期滞在にふさわしいしっかりした施設が設けられていたのではないでしょうか。

 〔2〕平城京放棄の決意
 聖武天皇の東国行幸は、藤原広嗣の乱によると言われます。乱の起こったのが天平十二(740)年九月三日、同年十月二十三日に大野東人によって捕らえられ、処刑されて事件は終わります。ところが、既に戦況も明かな十月十九日、造伊勢国行宮司(伊勢の国に行宮を造るための臨時の役人と機構)が任命・制定されています。さらに二十四日には次第司(行幸を管理・警備する役人)が配置され、従四位上塩焼王を御前長官。従四位下石川王を御後長官。正五位下藤原朝臣仲麻呂を前騎兵大将軍、正五位下紀朝臣麻路を後騎兵大将軍が任命されます。これによって徴発された騎兵は東西の史部と秦忌寸等からなる総勢四百人の大部隊となりました。
 これだけの計画が「乱に驚いた」人物にできるでしょうか。造伊勢国行宮司が造作を担当した可能性のある施設は五箇所に上ります。不可解に思ったのは敵地で闘っていた大野東人であって、聖武はこの時だからこそ行幸に出発したのではないかと思われます。
 十月二十六日、有名な「朕縁有所意今月末、暫往関東」という詔を発し、二十九日に伊勢国に向かって出発します。平城京には留守役として鈴鹿王と藤原豊成が残されます。そして、光明皇后も、先の天皇・元正太上天皇も随行しませんでした。ここにも聖武の行幸の意図を読み解くヒントが隠されています。既に平城京廃都の意思は硬かったのではないでしょうか。
 同日、大和国山辺郡竹谿(つげ)村堀越に、三十日名張郡、十一月朔日伊賀郡安保頓宮に宿泊します。


 〔3〕伊勢・美濃行幸の二つの目的
(1) 伊勢神宮奉幣行幸 (十一月二日~十三日)
 行幸の隊列は二日にいよいよ伊勢国に入り、一志郡河口頓宮に至ります。翌三日、伊勢大神宮へ大井王の引率の下、中臣・忌部の両神事に携わる氏族を率いて幣帛が奉られます。関宮とも呼ばれた河口頓宮には十日間もの長きにわたり滞在し、滞在中に藤原広嗣の処刑を確認し、聖武天皇としては珍しく遊猟も行いました。この後、雲出川沿いに下って、一志郡に入るまでが前半の行幸でした。
 ところで、聖武は都祁から名張に入った後、安保から伊勢に至ります。伊賀を縦断した大海人皇子とは別ルートを採りました。ここにも河口へ入った明確な意図が読み取れます。出発した十月二十九日を記録した『続日本紀』は、わざわざ「行幸伊勢国」と明記しています。聖武の第一の目的は伊勢つまり伊勢大神宮への奉幣だったのです。
 なお、『万葉集』の記述から大伴家持が内舎人として陪従していたことが知られています。

 河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも

 河口頓宮で詠んだこの歌からは、新婚早々に伊勢国に陪従させられた若き家持の悶々たる心情が伺えます。家持は一連の歌の最後に新京恭仁京をめでる歌を残していますので、おそらく最後まで聖武に従ったものと思われます。
(2) 壬申の乱追体験行幸 (十一月十四日~二十五日)
 ところが一志を経った後、十一月十四日には伊勢湾岸から踵を返すように北へ方向を転じ、鈴鹿郡赤坂頓宮に入ります。その後の行幸行程は、壬申の乱において大海人皇子の進んだコースとほとんど一致します。伊賀国の行程を省き伊勢国以降を追走したのです。
 赤坂頓宮では十一月十四日から二十二日までの九日間もの長きにわたり滞在し、行幸に陪従した橘諸兄を筆頭に関係官人に叙位しています。さらに、二十三・二十四日には朝明郡に宿泊しますが、次の桑名石占頓宿地とは目と鼻の先です。壬申の乱において大海人皇子は朝明郡との境・迹太川で天照大神を望拝し、戦勝を祈願します。大海人皇子と伊勢神宮こそ聖武が拠って立つ大きな柱だったのです。久留倍遺跡の丘に立つと、真南に伊勢神宮を臨むことができます。発掘調査された遺構群は頓宮に相応しい構造をしています。偉大な曾祖父の事績を整然とした隊列でもって辿り、祖先神を抱く伊勢国で自らの偉大な姿を示すことによって、聖武の存在感はいよいよ増したに違いありません。
 
 御食国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ

 家持が狭残行宮で詠んだというこの歌からも、伊勢・志摩への熱い思いを知ることができます。
(3) 美濃行幸と不破関 (十一月二十六日~十二月五日)
 二十六日に美濃国当伎郡の養老に至り美濃行幸が開始されます。十二月朔日には壬申の乱で陣頭指揮をとった地、不破郡不破頓宮に入り、五日まで滞在します。この間、二日には宮処寺(みやこでら)と曳常泉(ひきつねのいずみ)を訪れ往時を偲んでいます。宮処寺に比定されているのが岐阜県不破郡垂井町に所在する宮代廃寺です。三重塔に復原可能な塔心礎が残り、壬申の乱に功績のあった宮勝木実の氏寺であったとされます。大海人皇子一行が拠点とした桑名の地が縄生廃寺でよいとしますと同じ塔であったといえます。
 四日には、それまで随行してきた騎兵司の任務を解いて平城京へ帰還させます。軍事パレードとしての伊勢・美濃行幸の目的が達成されたことを意味します。
 
 〔4〕恭仁遷都行幸 (十二月六日~十五日)
 六日に不破を出て近江国坂田郡横川に宿泊すると、右大臣橘諸兄を山背国相楽郡恭仁(くに)郷へ派遣します。遷都のためです。琵琶湖沿岸を七日犬上郡、九日蒲生郡、十日野洲郡、十一日志賀郡と足早に進み、禾津(あわづ)に宿泊すると目指す地は直ぐそこでした。十四日に山背国玉井へ入ると、翌十五日には恭仁京遷都が宣せられ、平城京に留まっていた光明皇后と元正太上天皇が新京に呼び寄せられるのでした。翌天平十三年正月朝賀の儀式は宮垣の何もない中帳を張った急ごしらえのものでした。周囲の目を欺く電光石火の早業でした。十五日には藤原不比等に与えられていた封戸五千戸が返され,内三千戸は国分寺の仏像造立費用として全国に分与されます。既に聖武の新政策は煮詰まっていたのです。


 その時歴史は動くはずだった?!しかし聖武の思惑は外れてしまったのか!・・・ 

聖武天皇東国行幸都市サミット開催の条

2008-10-26 21:55:37 | 久留倍遺跡を考える会
 2008年11月1日 三重県四日市市大矢知に全員集合!! 

Ⅰ 天武天皇壬申の乱ウオーク

(第12回を迎える壬申の乱ウオーク。今回は成安造形大学の学生さん達が準備してくれた衣装を三重大学の学生が身につけて歩きます。)

 ◎ 11月1日 近鉄富田駅乗り換え(名古屋方面行きホームと同じホームに黄色と赤のツートンカラーの電車が来ます。富田駅始発です。)三岐鉄道大矢知駅(富田の次の駅)8:30集合。

 ◎ コース
 8:30 大矢知駅 開催セレモニー → 陣屋まち → 大矢知そうめんの里 → 天武天皇迹太川御遙拝所跡 → 久留倍遺跡 → 長倉神社(解散11:30)

 ◎ 壬申の乱の当時の服装を身にまとった市民、学生達が大矢知駅から遺跡までを「行幸」します。

 ◎ 俳優の苅谷俊介さんと一緒に語らいながら遊んでみませんか。

 ◎ 当日、現在発掘調査中の現場も公開されます。

Ⅱ 聖武天皇東国行幸都市交流サミット


(錚々たるメンバ^と共に聖武天皇が行幸した土地を紹介する。さらに、その行幸の目的についてそれぞれの立場から議論を重ねる。以下がサミットの報告者です。)



(こんな素敵なポスターもできあがりました。)



充実した内容のサミット用の冊子もできあがりました。
ご多忙とは存じますが是非ご参加下さい。

 皆さん11月1日は三岐鉄道にのって大矢知へ 

今日は雨の中、三重大学の学生さん達と正倉院展に行ってきました。展覧会の後、正倉院にも行きましたが、4時で閉まってしまっていました。残念。詳しくはまた明日御報告します。

飛鳥遺跡探訪-1 坂田寺から稲淵へ

2008-10-19 14:16:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 秋は奈良・飛鳥巡りの絶好のシーズン!!10月26日にはみんなで正倉院展に行きますよ!! 


(栢森と稲淵の綱掛の奇祭)



(こちらが稲淵の男根を縄で示したところだが既に朽ち果ててなかった!)

 藤原宮大極殿を見学した後坂田寺に足を伸ばしました。その先は一昨年見学に回った稲淵・芋峠です。合わせて御案内しましょう。
 坂田寺跡の最近の調査情報を伝える明日香村のHPのによりますと次のような情報が記されています。

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(前略)
坂田寺は『扶桑略記』によると、継体16(522)年に渡来した司馬達止が造った高市郡坂田原の草堂に由来します。
また『日本書紀』には用明天皇2(587)年に鞍作多須奈が天皇の為に発願した丈六仏と寺、推古天皇14(606)年に鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建てられたのが金剛寺であるなど諸説ありますが概ね、鞍作寺の氏寺として建立された飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられています。

『日本書紀』朱鳥元(686)年には天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。
さらに奈良時代には坂田寺の信勝尼が天平9(737)年に経典を内裏に進上したことや天平勝寳元(749)年には東大寺大仏殿の東脇侍を献納したことも知られています。

これらの文献資料に記された時期に相当する伽藍がこれまでの調査で確認されています。

平安時代以降の坂田寺については明らかではありませんが、伽藍は10世紀後半に土砂崩れにあい、崩壊しています。
その後の坂田寺については承安2(1172)年に多武峯の末寺になっていることが知られています。

今回の調査は現在の県道に下水道管を埋設する工事に先立って行った調査で基壇建物と回廊を検出しました。
基壇建物は平成10年度の調査で基壇の一部を確認しており、今回はその延長部分を確認することができました。
基壇部分は凝灰岩の切石を使用したもので羽目石が立った状態で出土し、上面には葛石が造営された当時の姿で確認されました。
基壇の裾部分には人頭大の川原石を敷き詰め犬走しりとし、そして周囲は幅約50㎝の雨落ち溝となっています。
そこから回廊までの約2.5mの間はバラス敷や瓦敷となっており改修されている可能性もあります。

回廊については仏堂から続く南回廊の西端部分で回廊基壇と礎石を検出しています。
基壇は縁石に川原石を立ち並べ、裾部には人頭大の川原石を使用して雨落ち溝としています。
礎石は直径80㎝の石英閃緑石で一石分確認しています。

今回の調査は限られた範囲ではありましたが坂田寺の中枢部の様相が明らかとなり、今後奈良時代の坂田寺を考える上で重要な資料となるでしょう。

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またまた土ものスライドショー 坂田寺から稲淵・芋峠を探訪



(マラ石は有名だが、坂田寺というと通じないタクシーの運転手もいる!)



 秋の奈良はいいよね!あちこちで発掘もやってるよ。 


《背景は稲淵の都塚古墳石室内部です。》

藤原宮の幢立て跡-1 :久しぶりに宮都らしい話題を書きました

2008-10-12 23:59:33 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 宮都研究も怠る事なかれ!! 

先月末に奈良文化財研究所が発掘調査している大極殿前の状況を見学に行ってきました。事前に見学をお願いしていたので、研究所のTさんにとても丁寧にご解説頂きました。有り難うございました。





(新聞にもこんな感じで二度にわたって掲載されました。上が幡立て施設を伝える記事です。下が運河跡発見の記事です。)

しばらく悪戦苦闘していた原稿が先週末で完了し、少しゆとりができたので久しぶりに宮都の話題をご紹介します。残念ながら現地説明会には行けませんでしたので、パンフレットはご紹介できませんが、奈良文化財研究所のホームページに掲載されているのでそちらから入手して下さい。

以下にスライドショウーをセットしておきます。全体の流れはこれで見て下さい。まだスライドショーの扱いに慣れていないので各写真の解説がうまくできません。追々加えていきますのでしばらくご辛抱下さい。

藤原宮大極殿南門前から発見された幢立ての跡と運河跡を見に行ってきました。
スライドショウーを見て下さい。←ここをクリックするとスライドショーが始まります。




(藤原宮の中心施設の現地案内板です。真ん中の細長く太い線で囲われているところがいわゆる大極殿と朝堂院です。今で言うところの国会議事堂みたいなところです。上の区画が大極殿でその正面の門を出たところで掘っていました。)


(幡立て遺構はこの様な可愛らしいものでした。)



(奈良文化財研究所のHP に掲載されている遺構の変遷図です。解説によれば次のような変遷だそうです。)
 藤原宮造営期、
 ① 周辺一帯の整地を行い、先行朱雀大路を造る。
 ② 藤原宮造営の資材を運ぶための運河・斜行溝Aを掘削する。
 ③ 運河・斜行溝Aを埋め、斜行溝Bを掘削する。南門周辺は、朝庭より一段高く造成し排水溝として南北溝2を掘る。
 ④ 朝庭一帯の整地を行い、東西暗渠・南北暗渠の排水施設を設置する。その後、礫を朝庭全面に敷く。南北溝1を造り、通路状施設を設ける。
 藤原宮期
 ⑤ 幡などの朝庭で行われる儀式用の諸施設を設置する。

一番気になったのがもちろん南門の前から発見された幡立て用の穴です。図の⑤の時期に設けられるもので、新聞記事では大宝律令に記載のある藤原宮での宝幢の設置記事と合うとありますが、現地ではそれについては懐疑的でした。後の宝幢遺構(平城宮や長岡宮の実例が確認されている)が7基で構成され、遺構の規模が長辺3m短辺1m深さ1m前後の巨大な柱堀方で構成されているのとあまりに違いすぎるからです。

 特に、柱堀方の深さがとても浅いこと、大小の柱堀方が一対で構成されるらしいことはこれまでのものと違いすぎます。この深さではとても高い幡は立てられません。日本の律令国家で初めて行われた儀礼上の装飾施設ですからあまりに小規模なものですから当然こうした疑問がわくわけです。柱の間隔、その推定される数(13基か)、どれをとっても後世のものと離れすぎています。

 それよりもむしろこの遺構と前後して設けられている暗渠遺構が気になります。大極殿南門の前の朝庭に設けられた溝と言えば直ぐ脳裡に浮かぶのは大嘗祭の跡です。幡立ての遺構も含めて朝庭で行われた即位儀式に関連する施設なのではないでしょうか。


(運河です。)
 これについては全くの思いつきなのですが、溝の位置や規模、構造がとても気になります。今後継続される朝庭の調査が益々期待できます。

(運河については次ブログーその2ーで考えるところを述べます。)

 何回行っても飛鳥・藤原はいいな- 

KANREKI 感激 !!

2008-10-07 01:38:52 | 三重大学考古学研究室情報
 とても楽しかった! 涙が出るくらい嬉しかった 有り難うみんな 


(こんなケーキを食べる日とは思いもよりませんでした!(笑)))

10月4日夕刻、宴会をしたいので空けておいて欲しいと卒業生の一人から2ヶ月ほど前に電話をもらった。

卒業生と言っても彼は学科も違うしもちろん私のゼミ生でもない。そんな彼が1ヶ月ほど前に何となく開いた卒業生との飲み会に行けなかったので今度は僕も入れてやって欲しいという電話だった。彼は現在三重県庁に勤めるとても粘り強い、芯のある男だ。なぜ僕と縁があるかというと、趣味で山城をやっているというので、学生時代から僕のところの学生ととても親しく、何かあるといつもやってきてくれていたのだ。

てっきりその言葉を真に受けて、「ええよ、10月の初めやったら空いてると思うわ」と答えた。

しかし、それから、何の音沙汰もなく、どんどん4日が近付いてくる。いよいよその前日になってもどこに行けばいいのかがわからない。たまりかねて何気なく4年生につぶやくと、ナナナント彼は知っているではないか、その上、彼も出るという。

「おかしいな・・・」
「確か卒業生の集まりと言ってたはずだが・・・」

そこで卒業生の中でも近くにいるM 君に他の用事もあったので電話をしてみた。

「あの、お前のところのCHIMAはもう子供は生まれたんか?」
「ええ、6月に、女の子が」
「何と、あいつも冷たいやっちゃな・・・、言うてくれたらええのに!」

「明日CHIMAさんも来ますよ!」
「ハッツ?」

ここまで来てどうもなにやら彼らが企んでいることにようやく気付いた。
ひょっとしたら・・・・?

そんな思いで指定された場所に行った。
入口になにやら男共がたむろっている。
「どうしたんや?」
「お待ちしてました」
そこに一人見慣れない顔が立っている。どう見ても考古学の優男ではない。
「この人誰?」とつい側にいたM君に尋ねた。
「T先輩ですよ!先生忘れたんですか?御奉行ですよ!」
「・・・・・エエッツ!何でTが・・・・」
そして会場に入ると何と20人ばかりの集団が座っている。
「和歌山のKMさん、東京にいるはずのAMさん、そしていつも何かあると必ず来てくれる今は滋賀県にいるNM君や、岐阜県のNY君、さらにこの前の宴会にも来てくれていた今は鈴鹿にいるSYさん、これまた考古学ゼミ生ではないのだが在学時代から僕のところにいろいろ手伝いに来てくれたMMさん、名古屋のAMさん、YMさん、YNさん、OYさん、OEさん、さらに在校生が4人、もちろん幹事役のいなべ市のMN君と声を掛けてくれたTS君、とてもとても懐かしい顔ばかりだ。そして、少し遅れて僕の隣に来たのが6月に出産したばかりのCHIMAちゃん。

入口で迎えてくれた御奉行ことT君は実に10年ぶりだ。今は合併したので愛知県の西部の有力都市I市の職員だという。彼はCHIMAと共に僕が最初に教えた学生だからとても懐かしい(その顔を忘れたのはとんでもなく失礼なのだが、後から来た同級生のCHIMAも「あの人誰?」と言うくらい変身していた!(笑))。卒論はフラスコ形土器をやった。本当は専門に行って欲しかったのだが、民間に就職してしまった。ところが直ぐに転職し地元の役場に入り、今は市職員だという。
「是非博物館に希望を出して頑張れよ!」と言っておいた。

もうどの顔も懐かしい物ばかりで話が弾み、あっと言う間に時間が過ぎた。

還暦とは暦が還るのだから僕は今年からまた暦をスタートさせる。言ってみれば赤ん坊に戻ったとも言える。その再スタートを教え子が祝ってくれるほど嬉しいことはない。

一通りの挨拶が過ぎ
「ただ今から、サプライズゲストによる花束の贈呈をします」という。
「誰??」
暗くてよく見えない・・・・・
「エエッツ!??!! さやか?!」
「・・・・」
「それで珍しく今朝美容院に行くと言うたんか!」
その日の朝自宅で別れてきたばかりの娘が登場してびっくりした。ほとんど化粧らしい化粧もしない娘が美容院とは、おかしいな、と思っていたのだが、まさか!!

と言うような、本当に驚いたサプライズがあって、花束をもらって、楽しい夜だった。

もっともっと書きたいことはあるのだが、とにかくそんな嬉しい夜だったことをひとまず御報告しておくことにした。

久しぶりに楽しい、我を忘れて話すことのできた日だった。


(最長老のCHIMAは結婚して長女が生まれ、現在休職中。東京から来てくれたAMは、5月に3年間暮らした中国から帰ってきたばかり。和歌山のKMは彼氏ができて間もなく結婚するとか・・・若いって、いいなーーーー)
そうそう、二次会にはわざわざ友人の結婚式で遅れたと言って、岐阜県のYM君も駆けつけてくれた。

 有り難う!!みんな、とてもとても楽しかったよ