yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

武末純一先生の御高論に感動の条

2015-01-30 23:46:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先日、福岡大学の武末純一先生から「地域をデザインする遺跡、地域からデザインされる遺跡」(日本遺跡学会誌『遺跡学研究』第11号2014年)及び『よみがえれ古墳人東国文化発信事業 国際シンポジウム(群馬)「金井東裏遺跡の時代と東アジア」』(よみがえれ古墳人東国文化発信事業実行委員会2014年)という抜き刷りと報告資料集を頂いた。先生はご承知の通り弥生時代・古墳時代の御高名な研究者であり、日中韓の交流史にもお詳しい。私との接点があるはずがないのだが、今から五年前、先生からのご依頼で都城をテーマに福岡大学で集中講義をさせていただいたことがあります。

 以来、毎年卒論発表会のご案内を頂くのだが、たいていその頃は自分の大学でも同じようなことがあって忙しく、お伺いすることができず、失礼ばかりしていた。そんなところへ先生からの御高論の拝受でした。何と御礼申し上げていいのやら、一瞬固まってしまった。おそるおそる封筒を空けてみてこの御高論が直ぐに目に入った。

 地域の遺跡デザインに関しては、在職中からいくつかの遺跡の保護、保存、活用に関係してきた。しかしいずれも行政による一方向からの「デザイン」に関与しただけで、「地域からデザインされた遺跡」を産み出すことはできなかった。
 例えば船形埴輪を検出し、大きな注目を見た松阪市の宝塚古墳群の調査・整備の一端を担ったが、整備された遺跡の今にかつての賑わいはない。ひっそりと丘の上に孤立してたたずんでいる。少し離れたところには市の設立した「はにわ館」があり、出土した埴輪の代表的なものが展示、公開されている。併設されている埋文センターの職員の方々の努力で、埴輪作りなどの事業が実施されていると聞く。しかし、残念ながら遺跡のある宝塚地区の人々が大事にし、遺跡保存の意義を語り継ぐ活動をなさっているとは聞いたことがない。地域からは孤立したままなのです。

 発掘調査以来15年余になる国史跡久留部官衙遺跡については、現在、整備検討委員会が定期的に開かれ、ガイダンス施設の展示が具体化しつつある。委員会には複数の地域代表の方が入り、意見を陳べられるが、委員の選考は行政が行ったものであり、武末先生が指摘されるような「地域からデザインされる」遺跡としての整備に向かっているかというとまだまだ課題は多い。

 久留部官衙遺跡は八世紀初めから九世紀前半まで伊勢国朝明郡に所在した官衙・朝明郡衙または駅家及び聖武天皇行幸時の噸宿地、朝明郡正倉別院に推定される当該地域随一の遺跡です。「地域」としては実に適切な空間である古代伊勢国朝明郡の一角に位置しているわけで、デザインするにとても相応しい遺跡なのです。
 しかし、どのように整備し、活用される史跡にするのかについてはまだ明確の方向性が出せているわけではありません。委員会でも、随分頭を悩ませております。
 このブログでも度々紹介しているように、本遺跡については保存を求める段階から地元の方々が様々な活動を展開されています。講演会、遺跡ウオーキング(壬申の乱ウオーク)、久留倍遺跡を考える会の諸活動、久留倍遺跡運営委員会の諸活動など、充実した地域との密接な活動が展開されていることは事実です。しかし、常に脳裏を横切る不安が、「遺跡の将来」でした。
 全国の史跡が、指定当初は盛り上がり、様々なイベントも行われて多くの人が訪れるのですが、十年も経たないうちに閑古鳥が鳴き、整備地に雑草が生え、保護施設の老朽化が始まります。宝塚古墳は今その危機に瀕しています。これをいかに防ぎ、長く地域の人々に親しまれるにはいかなる方法があるのか、古くて新しい課題です。

 それを防ぐために、史跡指定前から上記のような地元密着型の活動が進んできたのですが、未だに展望は開けていません。一番の問題が事業参加者の高齢化です。これまで活動を支えてきて下さった方々の年齢が、今年六十七歳になる私より高齢なのです。
 もちろん、子供達に関心を持って頂こうと、子供向けの様々な体験事業を地域の方々がやって下さっていますが、中心になって活動して頂いている方々の高齢化が進み、新たな担い手もなかなか生み出せないのです。深刻な問題です。

 そんな時に武末先生から御高論を拝受し、鋭い御指摘に感銘を受けたのです。
 「水族館の水塊」「アマチュア考古学」「住民参画」というキーワードをいかに具体的に実現していくのか、真剣に考えなければならないと思いました。
 「水族館の水塊」というのは水族館プロデユーサー中村元の言葉で、「水の圧倒的な存在感がもたらす潤い、清涼感、浮遊感」を「水塊」と呼ぶのだそうです。水族館が「水塊」によって人々を魅了するとすると、遺跡における「水塊」は何か、というのが先生の問いかけなのです。その答えは「遺跡」そのものではないかという。遺跡は必ずどこかの地域に所在する。地域に暮らす人々も同じ土の上に家を建て、培われてきた伝統に安らぎを得、時にはそこから新しい文化も産み出す。遺跡とは地域の一角そのものだと指摘されているように読めます。だから遺跡が姿を現す「発掘調査」を地域の人々がやるべきだというのです。地面の下に2000年前の村がある。それらと共に彼らが使った農具や工具、狩猟具がみつかる。地域の祖先の姿が実感できる瞬間だというのでしょう。その体験をすれば人々はその遺跡を大切に思おうとしないはずがないというのです。

 私はこれまでに二百余回の発掘調査を実施してきました。その一回一回を鮮明に覚えています。プロ棋士が対局を整然と並べるのと同じように。それだけ発掘体験は偉大なのです。おそらく、碁や将棋をコンピューターとやる人は、勝負の楽しみはあっても、将棋や碁を打ちながらする会話や合間に飲む飲み物のうまさは感じないでしょう。遺跡も、触れあって初めて愛着が湧くというのです。それこそが遺跡にとっての「水塊」だというのです。

 なるほど!!と思いました。

その発掘調査を今は「プロ」が行い、「プロ」が遺跡の意味を考え、「プロ」が遺跡の活用方法を提案しています。それでは遺跡を大事にしようと思う気持ちを自然なものにすることは難しいのです。プロが発掘することは発掘技術のレベルという点では当然不可欠です。しかし、現実にそうであるように、調査の指導はプロがやりますが、現場で掘るのは、土木会社に雇われた「作業員」の方であったり、募集に集まった主婦なのです。私の妻も、某埋文センターで長く整理員をしていました。私が見ても実測図や拓本、土器の復元などはなかなかものでした。妻ができることを地域の人ができないはずがないのです。かつてそうだったように、「アマチュア考古学」を再現すべきだと仰るのです。そうして地域の人々が参画する遺跡の保護、活用を提案し、実行すべきだろうというのです。

 全く異議ありません!!

今からでも遅くはないと思います。久留倍遺跡もそうした地域住民の参画型で整備し、活用のための具体的な提案を地域の方々から受けるべきだと痛感しました。

 
 武末純一「地域をデザインする遺跡、地域からデザインされる遺跡」(日本遺跡学会誌『遺跡学研究』第11号2014年)是非読んで下さい。手に入らない方はお申し出下さい。スキャンしてメールでお送りします。6頁に内容が濃く詰まった御高論です。

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金子裕之著春成秀爾編『古代都城と律令祭祀』柳原出版2014年の刊行の条

2015-01-26 15:09:24 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先日分厚い書籍が届いた。贈り主は金子康子さんという。何となく思い当たって明けてみると、やはりそうだった。故・金子裕之さんの奥様からだった。

 金子裕之著春成秀爾編『古代都城と律令祭祀』柳原出版2014年(税込17,280円)B5版564頁



大著である。もうお亡くなりになって5年近くが経つ。噂には聞いていた金子さんの遺稿集である。金子さんの著書をなぜ春成さんが編集なさったのか。縄文時代や弥生時代の研究者である春成さんである。事情は編集後記に詳しく書いてあった。本当なら私たちがやらなければならないことだったと思う。春成さんに感謝である。

 あれは、2005年5月のことだったと思う。
 「奈良県山辺郡山添村・大西塚ノ本遺跡で奈良時代の鍛冶工房跡。「中宮」墨書土器。山添村教育委員会3/30発表。山添村歴史民俗資料館で4/3-5/31出土遺物公開。[読売新聞]」こんな記事が目に入った。ある研究会の後、参加者と出たばかりの墨書土器が展示されているという歴史民俗資料館を訪ねた。そこでばったり出会ったのが金子さんご夫妻だった。奥様には初めてお会いした。1時間ほど展示を見学しながら、少し墨書土器の意味についてお話を伺ったような記憶がある。

 帰ろうとすると、
「毛原廃寺に行ったことがあるか?」という。
「いえ,是非行きたいのですが、行き方がわかりません。教えて頂けますか?」
「ややこしい所なので案内してあげよう」

という。金子さんの車に乗せて頂いて急遽毛原廃寺を見学することになった。

 確かに案内して頂かないととても行けそうな道ではなかった。民家の庭先に様々な状態で遺る礎石。礎石群は崖際にまで点在している。1時間ほど現地を見学して資料館まで送って頂いてお別れした。

 金子さんと親しくお話ししたのはこれが最後だった。
 それから3年後、2008年3月17日、金子さんは闘病生活を経て63歳でお亡くなりになった。金子さんは1945年のお生まれだから私より3歳年上の先輩である。お元気なら今年70歳の古稀をお迎えになるはずだった。
 著書は第Ⅰ部古代都城の構造、第Ⅱ部苑池と園林、第Ⅲ部都城と律令祭祀の三部構成で、金子さんの都城と律令祭祀に関するほぼ全ての論文が掲載されている。手元にない論文が3割ほどあり、不便だったが、これで本書を下に研究を進めることが可能になった。お元気であったなら、まだまだお書きになりたかったことがあったのだと思うが、これでも勉強のしがいのある論文集である。

 金子さんは奈文研では極めて辛口のお方で、先ず会えば「この前のあれは何だ!」「長岡京は副都に決まっているじゃないか。まだ諦めないの?」等々と長ければ30分くらい、短くとも15分くらいは「お説教」から始まる。聞くところによるとこの「説教」がいやで多くの奈文研の方は金子さんのことをよくは言わない。私が奈文研を訪ねて、金子さんの所に行く、というと多くの方が怪訝そうな顔をなさる。私も「説教」があるからそれなりに構えていかなければその力に圧倒される。「説教」に絶える心構えをしていくのである。それさえしておけば、その後の金子さんはとても優しい、いろいろ配慮下さるいいお兄さんに変身される。

 時にはとても手に入らない報告書や情報を教えて下さり、現場を案内下さることもある。奈文研の方々には信じられない光景らしい。でも、いろいろ聞いてみると、地方の調査担当者には大体同じ対応だと知った。国や都道府県の調査担当者には市町村の担当者を上から目線で見て、偉そうにされる方が結構多い。金子さんも最初の30分はそのように思えるのだが、それさえ我慢すればとても優しくなるのである。そこが違う!!

 あるとき、当時同志社女子大学におられた朧谷壽先生から平城京の松林苑を見たいのだがどうすればいいかな?というご相談を受けた。直ぐに金子さんに電話をしてご相談したところ、「いつがいいの?」という。日程を説明するととにかく来て下さいという。当日またあの「説教」が朧谷先生の前で始まったらどうしよう?と少々不安に思いながらうかがうと、複数の自転車を用意して待っておられた。

 「エッツ?!

 「自転車乗れるよね」

ということで、自ら自転車の先頭に立って、半日余り松林苑を案内下さった。一度発掘現場に行ったことはあったがそれ以外はないので、地図を見ながら行こうかと思っていたのだが、実にスムーズに回ることができ松林苑の全体像を頭にたたき込むことができた。その後、学生を連れて回ることがあったが、全てこの時のご案内のお蔭だった。

 つい最近、中国の漢讀研究の第一人者籾山明・佐藤信両先生の編集になる研究報告書『文研と遺物の境界Ⅱー中国出土漢讀史料の生態的研究ー』東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所 2014年 が出版された。漢牘の調査のために台湾の中央研究所で実物を調査したとき、たくさんの三角柱状に木片を削ってそこに人面を描いた資料を目にすることがあった。その研究成果は同書に清水みき「漢代辺境の人形ー日本の人形の源流を求めてー」にまとめられているが、現物調査をする中で「金子さんがおられたらどんなご意見をお持ちでしょうかね」などと話したことが思い出される。

 私は、現在ある論文を書いているが、その主要テーマは「苑池」である。これもまた今回出された第Ⅱ部にまとめられているが、その主要内容は金子さんの出された科研での詳細な報告書に掲載されていた。論文を書くに当たって座右に置いて平城京などの苑池について確認した基本論文であった。書き上げたものを金子さんに見せたらきっと「まだ長岡京が正都だと思って書いてるの?」と「説教」されたことと思う。

 でももうそのやや甲高く、朗々としたお声を聞くこともない。とても寂しいが、こうして刊行された御著書があるお蔭で、そこから金子さんの厳しい批判の声を思い起こしながら、これからはこの書を座右に置いて少しでも「説教」されないような論文が書ければと思っている。

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「65回目」の朔旦冬至の条

2015-01-21 23:53:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨年末、2014年12月22日は、冬至でした。
現代では余り注目されることのない冬至。本来冬至を祝う儀式であったはずのクリスマスがキリストの生誕日にすり替えられ、日本では特に、冬至など意識せずに大はしゃぎしています。そんな冬至は世界中でかつては暦の始まりとしてとても大切にされてきた日でした。では、日本で初めて冬至を意識したのはいつのことなのでしょう。
 残念ながら日本列島には暦と関連する遺跡は確認できませんので、文献史料から探らざるを得ません。『日本書紀』以降の六国史他の文字しっりょうから冬至という記載を探すと一番古い記載は斉明天皇五年(659)の「十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。」であることが判ります。
 これは、この年の七月三日、難波の三津港から経った遣唐使が中国の都(この時は東都・洛陽)で体験した冬至の会の記録でした。詳しいことは不明ですが、記録上はこれが初めてですから、ヤマトの王権は初めて冬至を祝うこと(あるいは冬至の祝い方)を知ったのではないでしょうか。但し、おそらく遣唐使からの報告があったにも関わらず、その後も冬至を奉祭した形跡はありません。次に史料に出てくるのは聖武天皇の初期、即位の二年後、神亀二年(725)「天皇御大安殿。受冬至賀辞。」のことでした。

ところで2014年12月22日は冬至であると共に、旧暦の11月朔日だということでした。もしそれでいいとなると、昨年の冬至は、「朔旦冬至」であったことになります。現在、旧暦は国立天文台が明治5年12月2日まで使用された「天保暦」の暦法に従って引き続き作成しているようで、これによって12月22日が旧暦の11月1日と判るわけです。
朔旦冬至とは、旧暦(中国から伝わった太陰太陽暦)で、11月1日(朔日)が、冬至と重なる日を指します。唐代の暦では冬至の入る月が11月と決められており、冬至の二ヶ月後(正月)が年の初めとされていました。その冬至が11月1日(朔日)に当たるのが、朔旦冬至で、(およそ)19年に一回巡って来る珍しい日に当たります。
 このため中国では古くからこの珍しい日を奉祭してきたのです。
 六国史には様々な祝賀儀式(奉賀、賜禄、賞賜)が行われたことが知られます。しかし、先に見たように冬至のお祝いは聖武朝に何とか定着するようですが、朔旦冬至は実行されなかったようです。その証拠に、計算上は斉明五年の遣唐使が帰ってから、670,689,708,727,746,765年と6回の朔旦冬至があったはずですが、記録上は一度も記されていません。おそらく奈良時代の王権は朔旦冬至を祝うことをほとんど意識していなかったようなのです。

 この珍しい暦の巡り合わせに初めて着目したのが桓武天皇です。

 桓武天皇は暦の制度、造暦の作法について相当詳しかったようで、事ある毎に中国で採用されていた暦の変換点を巧みに利用したことが知られています(清水みき「桓武朝における遷都の論理」思文閣出版門脇禎二編『日本古代国家の展開』上巻1995年)。

 桓武天皇は父光仁天皇の譲位を受けて、天応元年(781)4月3日に即位します。光仁天皇はその年の12月23日に亡くなります。数年前から度々病気が伝えられていた光仁天皇ですので、譲位が決められたのだと思われます。この譲位の年を巡って巧妙な操作の行われたことが先の清水先生の論考によって明らかにされました。

 『続日本紀』を見ますと、天応元年という年は辛酉の年です。中国古来から讖緯(しんい)思想(辛酉の年には世の中が大転換するという思想)に適う年です。その上、『続日本紀』によると、暦では正月朔日が辛酉の日なのです。辛酉の年の正月朔日が辛酉の日という希有な日に桓武天皇は即位することになったのです。出自に課題を抱えていた(母方の祖父が渡来系、祖母が身分の低い土師氏であったこと)桓武天皇にとって暦法上、これほどいい日はありませんでした。

 「吾こそは天の命によって撰ばれた天皇である!!」と高らかに宣言したかったのではないでしょうか。

しかしそこには巧妙なからくりがありました。

 実は正当な暦法によれば天応元年正月朔日は「辛酉」の一つ手前の「庚申」の日でした。つまり正式には宝亀12年12月29日己未→天応元年正月朔日庚申→2日辛酉だったのです。当時の暦では大の月が30日、小の月が29日で作成されていました。これでは一年365日に足りませんので、凡そ二年半に一度閏月というのを入れて季節感を調整していたのです。もちろん基本的には中国の暦を利用して陰陽寮の暦博士がそれを下に作成していたのです。今のように大小の月が決まっていませんでしたので、その配置には技術がいったようです。その議論の過程が『日本三代実録』巻四貞観二年(860)閏十月廿三日己巳条に遺されています。実はこの年も朔旦冬至だったのですが、暦博士によれば冬至の日が11月2日になるというのです。そこで議論が始まり、中国の事例まで出して、「大大大小小小」はダメだが、「大大大小小」は事例があるから問題ないとなったのです。そこで前月の(閏)10月賀正の月であったのを大の月にして1日繰り上げて朔日が冬至になるように操作したというのです。
 
 この同じ論法を使って桓武天皇は天応元年正月を前月に1日回して小の月にし辛酉の日を朔日にしてしまったのでした。桓武天皇の治世はこの最初の年を除いて「延暦」でした。「天応(天にかなう)」という元号は父光仁天皇の在世中の元号です。年末に天皇が亡くなりますから元号を変えないと行けません。そこで「暦を延長する」という意味から「延暦」が撰ばれたのだと清水先生は指摘します。

 桓武天皇は暦にとても詳しかったのです。その知識を利用したのが朔旦冬至でした。天皇は長岡京へ遷都する月を朔旦冬至の日に撰んだのでした。以後、近世に至るまで歴代の王権はほぼ正確に朔旦冬至を祝ってきたことが知られています。

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平安宮城中枢部を歩くの条

2015-01-20 01:17:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 1月18日は非常勤で行っている大学の現地見学授業であった。
 
 京都の大学に通っていながら、なかなか学生達は京都を歩こうとはしない。せいぜいデートで四条河原町に出かけたり、飲み会で木屋町界隈を飲みあるく程度のようだ。もったいない。

 そこで、というわけではないのですが、前後期を通じて毎年一回は京都や大学周辺の遺跡を歩くことにしている。

 今年は都の比較研究がテーマだったので、平安宮城の中枢部を歩くことにした。事前に宮城の様子を話した上で、JR円町駅に集合して出発した。但し大きな課題があった。授業には足の不自由な学生がいて、車いすで通っている。前期にはたまたま彼の自宅近所にあった東寺ー羅城門ー西寺が見学コースだったので問題はなかったのだが、今回はどうしてもJRに乗らなければならない。前任校ではたまたまそうした学生が周辺にいなかったので、そういう経験をしなかったのだが、今回実施するに当たって、数多くの問題があることを実感した。

 先ず車いすで京都駅から遺跡まで移動が可能かどうかが課題として出た。事前に駅などに問い合わせるとエレベーターは完備されているので、駅に入ることは可能と判った。ではどのように電車に乗るのか。これまでなら学生に○時に△△駅改札に集合!!都通知しておけばよかった。しかし、今回は乗る電車を決め、乗降駅にその旨伝え、乗車のための補助板の用意を頼まなければならない。その上、駅の改札口までの補助がいないので、初めて車いすを押すことになった(今更ながら、もっとこうした経験はしておくべきだと改めて痛感した。)宮都駅前の交通頻繁なところから車椅子で道を横断し、エレベーターを探し、先客がいれば次まで待ち、中二階まで上がって乗換、やっと改札のある自由通路まで上がる。そこで切符を買うのだが、学生は身障者手帳を持っているので、それを駅員に見せると親切にも付いてきてくれ、切符を買ってくれる。介助の私も半額になった。
 改札を入って予約の時間まで早かったので暫く待つと、担当の駅員さんが来てくれて、親切にも誘導しながら歩いてくれる。ところが日曜日10時頃の京都駅である。ものすごい人混み。車椅子を押すにも人に当たらないかとヒヤヒヤしながら進む。押していて判ったのだが、健常者は車椅子など見向きもしない。平気で車椅子の前を横切る。何とか電車の乗車口まで着くと、降車駅の円町駅でのエレベータの位置を考慮して下さって、その号車まで進み板を渡し乗せてくれる。
 電車の中も満員で、車椅子は肩身が狭い。わずか三駅をとても緊張しながら乗って、やっと円町駅に着くと、連絡がいっていて、駅員さんが降車のための板を渡して降りる補助をしてくれる。すぐ前がエレベーター。一緒に旅行者が大きな旅行カバンを持って乗ろうとする。次にしてくれたらいいのに、ぎゅうぎゅう詰めて乗ってくる。
「あー.これも健常者のエゴだな・・・」などと思いながら降りる。約束の時間にやっと円町駅の改札口に着いたのだが、この後補助をしてくれるはずの学生が来ていない。「???」「遅刻?欠席??」暫くして「京都駅で「事件」に巻き込まれ、遅れる」とのこと。仕方ないので、別の学生に頼んで先に出発。目指すは京都創成館のある京都生涯学習センター「京都アスニー」。途中丸太町通り(平安京の中御門大路にほぼ相当する)道を西から東へ進むので、平安京条坊図を片手に
 「今○○小路の位置」などと説明しながら進む。この円町の地は小学校3年生の2・3学期を過ごした朱雀第四小学校の近くである。そんな感慨に浸りながら歩くこと10分ほど。直ぐに京都アスニーに着いた。






長宗さんの丁寧な説明に聞き入る学生達

 さ、説明を、と準備にかかると目の前に元京都市埋蔵文化財研究所の長宗繁一さんが立っておられるではないか。事前のお話しでは日曜日は出勤しないということで諦めていたのだが、何でも急に臨時での出勤を求められてきたのだという。お願いすると快く説明を引き受けて頂いた。急なお願いにも関わらずほぼ一時間余り、平安京の復元模型から、創成館の展示まで様々なエピソードを交えながらお話し頂いた。本当にありがたかった。


伝址の遺跡復元・整備





北側の整備も進んでいる。



千本丸太町の交差点には各辻に説明板が置かれている。今は道路の下なので掘ることもできないが、交差点には大極殿が眠っている。





これら看板には随所に京都市考古博物館長の梶川さんの復元図が入れられて理解しやすくなっている。素晴らしい!!


 ちょうどお昼になったのだが、学生にはもう少し食事は我慢して!とお願いしてそのまま豊楽院跡、大極殿・朝堂院跡、内裏跡、中務省・太政官・民部省跡などを回り、二条駅に着いた。13時半。少々遅れたが学生も我慢して付いてきてくれた。ここで一時解散。実は三重大からも希望者が来ていたので、昼食後ももう少し歩くことに。

 二条駅前の最新の発掘調査成果を紹介したとさらに東へ。我が母校(母園)神泉苑へ。そして地下鉄の二条城の駅にある出土遺物の展示コーナーへ。何せ、平安宮城を歩くといっても本物はほとんど遺っていないので、看板やらこうした展示品で何とか想像するしかない。もちろん事前に授業で説明をしておいたのだが、果たしてどれだけ覚えていたか??

 何とか説明し終わったのが15時半。目の前が二条城なので、希望者は見学。私はここで終了。帰宅したらもう17時だった。

 杖を突きながらの一日遺跡巡りはさすがに疲れた。お風呂に入って、食事をしてバタンキュウ!!

 平安宮見学、最近はあちこちに看板が立ちとても歩きやすくなったのだが、もう少し遺跡が遺されているといいんだがなーとも思う。でも一回歩いてみようと思う人は京都市埋文研の案内パンフがネットにある(http://www.kyoto-arc.or.jp/heiankyu.pdf)のでこれを片手に歩くといいですよ。春にでも歩こうかなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ





「今年はめでたいことから始まりました」の条

2015-01-13 02:14:48 | yaasan随想
 一昨日1月10日は次男の結婚式でした。
 お相手が福岡の方なので、息子が気を利かして博多で結婚式をしました。
 そのため、息子の関係者はほとんどが関西ですから、一族郎党皆博多へ集結しました。もっとも義兄・義弟夫妻や長男のご両親などはこれを機会に九州旅行に行かれたそうで、それなりに孝行したことにはなります。

 お嫁さんは福岡県の南端、みやま市の出身で、実家の直ぐ近くに石神山古墳があります。同市には女山神護石も所在しており、6~7世紀のヤマト王権と筑紫の勢力との関係を考える上で欠かせない遺跡が展開しています。そんな著名な遺跡群のあるところに親戚ができるということで昨秋ある会議に出る前に思い切って踏査に行ってきました。

 

 石神山古墳は彼女の実家の直ぐ近くにあった。今回は夕方で暗かったので全景が撮れなかった。これを機会にまた行って今度こそ全景を撮ろうと思う。

 

 何とか保護されている石神をカメラに納めた。

 

 みやま市教育委員会にお願いして女山神護石をご案内いただいた。

 

 

 公園展望台から見る光景はなぜこの神護石がこの地に置かれたのかを考えるによく理解できるものだった。







 この後裾部の谷部に設置された水門をいくつかご案内いただいた。長谷水門と横尾谷水門。

 こんな貴重な機会を得られたのも新婦のおい蔭なのです。感謝!!今年はいいことがあるに違いないのだ!

 ということで、1月10日に結婚式を挙げることになりました。







 私を悩ませたのは最後の両家からの代表挨拶。悩ませたと言っても中身ではなくて、いかに短く(5分以内厳守!!)的確に話すようにという『厳命』でありました。
 やむなく、正月早々原稿を用意し、タイムを計り、家族のチェックを受けて何度も練習して暗唱し、当日を迎えたのであります。移動中の新幹線の中でも、会場の食事の最中も、うにゃうにゃとそらんじていたら、娘が『なんでそんな難しい顔してるの??』と非難する始末。



 そしてついにその最後のシーンが・・・。

 原稿はこれ。(実際は少しアドリブで変えてしまったが、ほぼこんな感じ。)

 「 新郎の父でございます。
 本日はお忙しい中、遠路、お祝いの席に駆けつけていただきまして、本当にありがとうございました。
 また、ただいまはご友人、同僚の皆様方から温かいお言葉を頂戴し、厚く御礼申し上げます。
 こうして実際に二人の晴れ姿を見ておりますと、親として感激もひとしおでございます。

 振り返ってみますと次男は体重わずか2000グラムの未熟児として生まれました。体力はなくても頭のいい子に育って欲しいと、私の学生時代の愛読書?赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』の弟・はじめちゃんにちなんで、次男なのに『創』と名付けました。
 しかし、その願いは見事に裏切られ、、小学生の頃は九九がなかなか覚えられず、風呂で毎日のように特訓したものでした。にもかかわらず、いつも6×7でつまります。短気な私は、できるまでやらせたものですから、とうとうのぼせ、倒れたこともありました。
 そんな子が、願いとは逆に、中学3年生の時、たまたま出た京都の水泳大会で優勝し、スカウトされて学科無試験?で高校へ進学することができました。ホッとしたものでした。一芸は身を助けると言いますが、水泳が彼を助けてくれました。大学も推薦で進み、就職もまた、水泳の得意な者がいいと言うことで○○消防にはいることができました。親の願いとは全く逆の人生を歩んだことになります。

 その上、この度、私が若かったら代わって欲しいくらいに美しく、スタイルよく、聡明なお嬢様を迎えることができました。山中家としては最高のご縁を頂くことができたわけで、本当に嬉しく思っております。
 既に数回新婦とはお会いし、お話しをさせていただきましたが、少々おっちょこちょいで、気分屋の息子にはもったいないお嬢様だと知ることができました。

 とは言いましても、これからの人生を夫婦二人で手を取り合って歩んで行くわけでございますが、皆様方のお力を頂戴しなければ困難かと存じます。なにぶん、若く頼りない二人でございます。これからもご指導を仰ぐことが多いかと存じますが、どうか末永くお引き立ての程をよろしくお願い申し上げます。
 宴を閉じるに当たり、両家を代表いたしまして御礼とお願い申し上げた次第でございます。本日はまことにありがとうございました。

  2015年正月10日 」

 もうこりごりですが、残されたのは娘なので、もう最後の挨拶はないので一安心です。

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「新年明けましておめでとうございます」の条

2015-01-01 23:40:16 | yaasan随想
 2015年が明けました。
 早いですね、一年は。恒例の年賀状をアップすればいいのですが、正式には昨年が喪中だったので、2種類の年賀状と挨拶文を造りました。まずは年末に出したご挨拶分を。

 2014年末のご挨拶

 本年の私は一年間を通して悲しみで一杯でした。例年のように新年を寿ぐ気持ちにはなれません。年末のご挨拶とさせていただいた所以です。2014年の正月は大晦日に届いた今泉隆雄さんの死の報せと共に始まりました。通夜・葬儀と想像もしなかった仙台での年初は、辛い辛い日々でした。私にとって師であり、兄であり、友であった今泉さんの突然の死は未だに受け入れることができません。その涙も乾かぬ2月3日、後輩であり、友であった西畑俊昭君が逝ってしまいました。5月には義弟が、8月には元職場の同僚が、12月には西畑君と共に広大後半の数年間を遊んだ安藤利次君がいずれも孤独に逝ってしまいました。皆、私より年下の親しい友ばかりでした。寂しくてなりません。私自身は3月で三重大学での16年間に終止符を打ちました。4月からゆっくりするつもりでしたが、体調を崩し、暫く薬を手放せなさそうです。でも、命に支障を来す病ではないので、そろそろ立ち直らねば!と思っています。年末には新しい論文を書き上げました。私自身の「終結」準備もそろそろ必要なようです。やり残している宮都のこと、未だなしえていない伊勢・伊賀・志摩のことを形にしなければと思っています。  2014年12月大晦日

 次いで恒例の年賀状です。但し、昨年はほとんど海外にもどこにも行きませんでしたので、家族の現況紹介でした。

 謹賀新年 

 新年を無事お迎えになられたこととお慶び申し上げます。皆様にとって新年がよき年であることをお祈り申し上げます。
 さて、章は3月で無事三重大学での教員生活16年を終え、4月からは年金生活。とはいっても今の年金では食べるのがやっと。週二日ほど三重や宇治で非常勤講師をする日々となりました。道代は章と共にボケが本格化しそうな雰囲気ですが、毎日、保育園児みのりと小学4年生ひなたが帰りに寄ってくれるのでその世話で進行は遅れているようです。長女は転職し、中国語を活かした病院事務に挑戦中です。契約社員中の日赤では早速活躍しているようでホッとしています。早く正職になるか結婚して欲しいものです(笑)。

 次男が1月10日に博多で結婚します。間もなく家族が増えることになります。長身のすらっとした現代的な美人です。なぜ息子達には美人の奥さんが来るのか不思議です。長男夫婦は2馬力で頑張っています。孫の面倒を見たお礼にと、8月には韓国ソウルへ三泊四日の旅に連れてくれました。中央博物館と水源を堪能しました。但し私たちの主任務は孫の面倒(笑)。今年も宜しく。 

   2015年正月朔日

 ということで、新年早々めでたいことがあります。今年が我が家にも、皆様方にも幸多き年でありますことをお祈り申し上げます。
 まるでそれを祝うかのごとく、新年の京都は白銀の世界となりました。



 (私の書斎のある二階から西を望む)

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