yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

イタリア比較都市研究-7 チボリ探索の条

2011-04-22 16:06:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


さらにバスで15分ほど山を登る。



 ここでやっと昼飯。サンドイッチとコーヒーを頼む。



 桜が咲いていた。



 建物の中は撮影禁止!残念。



 建物のベランダからローマ方面を望む



 この光景にはびっくりしましたね。あちこちで噴水が吹き上がっている。

 4日目の午後はチボリの丘に上がりエステ家の別荘の内部の壁画や噴水を見学することとなった。



 獅子の口から吹き出る噴水



 鷲と矢が家紋らしい。



 テベレ川に浮かぶ船





 かつてオルガンの音が奏でられていた滝



 それを逆方向から見る。

 16世紀半ばにエステ家の枢機卿イッポーリト2世が政争に敗れ、ティヴォリでの隠匿生活を決めることとなった。イッポーリト2世は、ベネディクト会の修道院だった建物を住居として、その周囲に大規模な庭園を作らせることにし、ピーロ・リゴーリオに依頼した。彼は、1563年から1565年に斜面をならし、アニオ川から地下水道を別荘内に引き込む大工事を行った。その後本格的な建築物の工事を開始し、この壮大な水の芸術を作り上げようとしたが、残念ながら完成しなかったらしい。その後所有者が変わる中様々な試みがなされたが完成することはなく、次第に荒れ放題となり放置された。20世紀に入り保存整備が試みられたものの、第二次大戦の爆撃で再び荒廃し、結局戦後の整備まで待たなければならなかったようである。



 しばし見惚れましたね。



 多乳女神の噴水



 ローマ方面を眺める。

 現在はオルガンの滝など、かつて、技術の粋を尽くした作品は再興されないままであるが、100頭の動物(獅子)の口から水が吹き出すという噴水や、噴水で造ったテベレ川に浮かぶ石の船、今は音を奏でることはなくなったが、大きな滝となって流れ落ちる様などはかつての偉容を彷彿とさせてくれる。


 
 しばし水の芸術に見惚れて、再びローマへと帰路についた。

 たまには普通の観光も心が安まるものであった。噴水庭園、なかなか面白いなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

イタリア比較都市研究-6 チボリ・ハドリアヌスの別荘の条

2011-04-19 10:24:27 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 4日目、2011年3月22日(火)にはローマ郊外約30キロの所にあるハドリアヌスの別荘とチボリの丘にある噴水のある別荘を訪れた。今回はその前半のハドリアヌスの別荘をご紹介する。
 ハドリアヌスと言えば大半を国外で過ごし、現在の西ヨーロッパの範囲を定めたと言ってもいい皇帝である。かつて3回にわたってイギリスの城壁探査を行ったがその最初の二回を費やしたThe Hadrian's Wallの築造者でもある。そんな彼が別荘でゆっくりすることなどあったのだろうかと思ったら、やはりそうだったらしく、この別荘を使用したのは数年に過ぎなかったという。

 この日はガイドのKNさんがいてくれたので安心であった。バス(160番)に乗って約20分、地下鉄Ponte Mammolo駅へ。そこで長距離バスに乗り換えて10時前に別荘跡に着いた。AD118年に着工され、完成したのは133年であったというハドリアヌス皇帝の別荘である。日本人は余り見かけなかったが、2~3組の元気そうな若者達のグループにあった。入館料はどこも高く日本円にすると1000円近くする。



 遺跡を入って直ぐのところに模型を展示した部屋がある。これである程度のイメージを抱いて遺跡を見学することができる。



 「玄関」と和訳した施設の入り口をに入ると、細い長方形の池が眼前に広がる。これ自身は復元らしいが、この場所からローマが一望できるという。



 釣り堀も兼ねていたというこの池のある空間の奥に広がるのが競技場らしい。



 こんな円形劇場もあるらしいのだが、時間の都合で見ることはできなかった。それにしてもローマ人というのは本当に円形劇場と風呂が好きだな!!と今回も再認識した。





 競技場の横の神殿跡。



 正面にクローバーのように半円を三つ並べた変わった形の神殿の正面である。



 ここが玄関そのものだというのだが、も一つピンとこなかった。



 やはりあった!!大きな浴場跡!大きな方が男性用、小さな方が女性用というのだが、どこが堺かよく判らなかった。ここは後でじっくり見学した。

 ちょっと長くなりそうなのでトイレへ。



 とにかくイタリアは落書きが酷く、その上ゴミをそこら中に散らかすので汚い限りなのだが、トイレは比較的きれいなのである。そして驚くことに男性用とありながら小便器のないところが圧倒的に多いのである。



 皇帝の夏の食堂と呼ばれる施設である。細長い池が真ん中にあり、両側には大理石の柱に囲まれた様々なデザインの彫刻が置かれている。







 池のつきあたりに位置する2-3階とおもわれる建物の横から上まで登ることができ、この美しい施設を上から見ることができる。



 これを進むと軍団兵士の宿舎を横目に見て、再び浴場(の裏)にでる。







 想定復原図である。イタリアのほとんどの遺跡でこうした復原図と現状写真を重ねて示す図録が売られている。1000円くらいである。

 大浴場の温浴場や冷浴場である(最も豪華で室内の両側に浴槽が置かれていた)



 ついでその隣に運動場があり、釣り堀もあったらしくまわりには地下通路まで設けられていた。



 さらに冬の宮殿跡を訪れ、黄金の広場(PIAZZA D’ORD)へ。



 桜花形の建物遺跡からはティヴォリ(山の中腹にある町)を見渡すことができる。とても景色のいい空間である。

 さらに進むと、皇帝の私的に使用していた浴場(床暖房室や図書室も附属していた)。







「海の劇場」という、建築構造は劇場型を呈したは皇帝個人が思索に耽るときに使うという空間である。

 となりには「哲学の間(sala dei filosofi)」が附属している。

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イタリア比較都市研究-6 南部城壁を踏破する-2の条

2011-04-14 14:14:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 南条壁踏査の続きである。

なんと言っても我々の踏査の一番の特徴はよく歩くということ、そして寝食を忘れるということである。この日も実は昼飯抜きであった。もちろん手頃な店がなかったということもある。いかに英語が通じるとはいえ、できるだけイタリア語の店には入りたくないという心理も働くのだが・・・。万歩計でも持っていけば一日いくらくらい歩くのかよくわかるのだが・・・。おそらくこの日も15㌔は歩いただろう。ヘトヘトだった。

 さて、一応午後の部である。

 9.南城壁の西端



 この前に地下鉄のピラミデ駅がある。その入口を入って左側にトイレがある。慌てていたので写真を残せなかったのが残念である。

 ピラミデからさらに城壁を辿って西へ西へと向かった。10m余の城壁が1キロ余り続き、テヴェリ川の川岸に近いと思われる清掃会社の敷地でたどれなくなった。そこで再びピラミデまで戻り南城壁を東、東、そして北へ北へと進むことになった。

 もう今日は昼抜きと判ったのでここで腹を据えて、歩こうとすると尿意を催した。直ぐそこがピラミデ駅である。日本なら必ずある公衆トイレだが、果たして・・・。ナナナントあった!!ただし有料のコイン式!お金を入れても戻ってくる、漏れそうなのにどうもうまくいかない。困っているところへイタリア人?がやってきた。親切に教えてくれる。我々は一生懸命1ユーロコインを入れていたのである。お釣りでも出るかと思い。ところがやはり流石にそこまで丁寧ではない。50セント硬貨がいるのだ。ところがそんなコインを持っていない!するとどうだろう、そのイタリア人が両替してくれたのである。

 もちろんイタリア人に先に済ませてもらって、大急ぎで私が中へ。

 これで一安心。夕方まで思い切り歩くことができた。



 説明看板に最近用いられるようになったQRコードが印刷してある。試しては見なかったが、きっと説明が出てくるのであろう。



 再び城壁が東へと進み始める。





 ピラミデ駅から少し歩くと城壁に階段がついている。なんだろうと思って登っていくとその上には平坦地が広がり、自動車が行き交い、住宅が建っている。丘の南斜面を利用して城壁をカモフラージュしていたのである。しかしこの平坦面もしばらく歩くとまた坂になって下りだし、外側のレベルとほぼ同じになる。どうも、南北に延びる丘の先端部を利用して城壁にしていたのである。



 ピラミデ駅の直ぐ正面にある城壁には説明板もついている。これを起点に東へ東へと進むのである。基本的に外側を歩いたのだが、時々内側も歩くことができた。面白いことにどの城壁にも低い所と高い所、あるいは真ん中辺りに「矢狭間」が開いている。それもかなりの数。



 そしてHY先生の話によるとこの城壁を造るときに周辺のいろいろな資材を寄せ集めて造ったというのである。それにしても基底部付近は大抵一辺60~80cmくらいの直方体の石が使われているのである。こうした石材を用いたものは基本的に古い施設だという。あるいはこの城壁、元々あったローマの城壁を利用したのかもしれない。


 
 しばらく歩くと、城壁が直角に南?へ曲がっていた。おまけにその角に二人の銃を持つ兵士が立って談笑しているのである。レバノンならいざ知らず、なぜイタリアで兵士が立っているのだろうか?と不思議に思った。あるいは国際情勢、特にリビア情勢が緊迫し、テロの恐れでもあったのだろうか。



 流石に兵士に向かってレンズは向けられなかったのでその横のジープを何気なく。



 これを越えてアルデアティーナ門に至ると再び城壁は以前の偉容を取り戻し、さらに東へと伸びていく。






 
 この様な甕城の様な構造物も見受けられる。 



 この辺りがカラカラ浴場の裏に当たるらしい。


  10.サン・セバスティアーノ門
 この門をくぐるとアッピア街道だという。片側車1台がようやくすれ違える程度のとても狭い街道である。アッピア街道については二日後にここだけを踏破する予定があったので、少し写真を撮っただけで済ませ、さらに東へ進む。





 この道を公共バスも通るのである。



 アッピア街道の大渋滞



 ここにも神話の彫像が。



 アッピア街道を後にしてさらに東へ東へ踏査は続く。



 こんなよく判らない門も出るのだが大半は、HY先生が出てくる門跡を直ぐに○○門と教えてくれる。それをまたMB先生が克明に記録しておいてくれたのでこうしてスラスラとその門名を示しながら説明することができる。有り難いことである。

  11.ラティーナ門(単門)



 これがそれかな?

 修復中のようである。足場が組まれ、我々が眺めている間に関係者であろう、現場の中に姿を消し、あっという間に城壁の上まで登っていった。



 現場の技師であろうか。すたすたと中へ入っていった。



 閑静な住宅街が広がる。

 続いてボルタ・メトロニア門と広場であるが、ここから城壁はテニス学校の中に取り込まれ、激しく破壊され、見えなくなってる。

 





 近くに大聖堂も見えてきた。



 サン・ジュハンニ門(ここの一Z段の城壁はラテラィナ大聖堂の外壁となっている)さらに歩くこと10分ほど、サンタ・クローチェ・イン・シェルサレンメ門→アッジョーレ門と歩いた所が路面電車のターミナル駅であったらしく、あちこちから電車が集まってくる。電車の線路があることは判っていたが、まさかこれほど頻繁に走っているとは思わず、何度も電車の線路に入り写真を撮っていた。後から思うとゾッとするような電車の来方に遭遇することもあった。この電車があちこちからやってくるのだが、それらが付近に少なくとも四基はある門跡をくぐってくるのである。何とも不思議な光景であった。流石に疲れたのでこの駅付近でタクシーを拾い、一度ホテルに戻って休憩し、夕食に出かけることにする。











 この電車に轢かれそうになったのである



 

 途中ちょっと道を間違えて水道橋らしき遺構を追いかけてしまった。

 何せイタリアのレストランは大半が19時半過ぎでないと開かないのである。踏査の終わるのが日の暮れる18時前後、どうしても食事まで1時間余の時間が生まれるのである。



 昼食抜きで腹ぺこの私達は予め前日ガイドさんから聞いていたパンティオン付近の、日本語メニューのあるレストランでパスタを食べる。これはなかなか美味しかった。



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イタリア比較都市研究-5-2 南部城壁を踏破する改訂版-1の条

2011-04-13 06:58:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第3日目3月21日(月)は、ローマ市内に残る南部城壁の調査であった。
 調査費用の関係でこの日はガイド無しでの調査である。出発前からとても不安であった日の一つである。おそらく日本人の一般観光客はほとんど歩いたことのない遺跡群の探索である。幾つもの見所と、説明しなければならないことがあるので、二回に分けて紹介することにする。実際、この日、日本人に会うことはほとんどなかった!!


ホテルの中は新しいのだが、外見は古そうである。こんなのが一杯ある。

 もちろんホテルからのスタートである。ホテル周辺、というより目の前に二つもの神殿があるのである。同行者のY大学のMB・HY両先生は既に朝から周辺を歩いたり、事前に調査をし尽くしてそれなりの土地勘を持っておられる。地図を見ながらすいすいと歩いて行かれる。素晴らしい!!私はお二人に後ろからついていくだけなのだが、方角も、地図のどの辺りなのかもさっぱりわからない。遺跡を見て、写真を撮るのが精一杯であった。



 ホルトウナ神殿

 以下のこの日の遺跡の探索記録はMB先生がお作りになった記録を元に再現している。

 1.戸籍庁旧址(年代不明)
 後で判ったことなのだが、我々が泊まった47ホテルというのは実にいいところに立地していたのである。偶然と言えば偶然なのだが、これも事前に今回の調査の計画を何度も旅行社(イタリア旅行社:私の友人のTSさんの友人を通して紹介してもらった小さな?-大きかったらごめん!-旅行社なのだが、とても親切で、いろいろなこちらの難題を実に真剣に聞いて下さった。現地のガイドさんも素晴らしく、なんのトラブルもなかった。ほぼパーフェクトであった。感謝!!是非皆さんも、イタリアへ行かれるときにはこちらを利用されるといいですよ。〒104-0061東京都中央区銀座1-14-14銀座中公ビル4FTel:03-3562-2505 Fax03-3562-2506 臨時営業マンでした)と打ち合わせ、計画して下さったHY先生のご尽力によるところがとても大きい。ホテルはまだ新しく、とてもきれいで、お値段の相場は知らないが、日本で言えばビジネスホテルのちょっとましなクラスというところだろうか。朝食(だけ付けてもらっている)もなかなかよく、私にとってよかったのはコーヒーがとても美味しかったことだ。余り大きな声では言えないが、ポットに入ってくるコーヒーを余らせて棄てるのももったいないから(ということにして)ペットボトルに入れて踏査中に適宜呑んだ。これがまたよかった!!

 遺跡の話しを忘れていました。ホテルのすぐ前が戸関庁(私は古蹟だと思っていました(笑))なにやら壁の一部は古そうな石が使われているのですが、詳細は不明。なお、道の横断は中国式!イタリア人の後ろ(今回は中国人のMB先生の)についていけば、信号のない道も、たくさんの車も怖くない。その上、信号のない横断歩道でも渡っていると向こうの車はきちんと止まってくれるのです。さらについでに言うとイタリア人はとても親切なのです。電車やバスの中はスリで一杯!!なのでとても注意が必要なのですが、大半は外国人だとか。つんつんしているお隣の国とは大違い。下手くそな私達の英語でもそれなりに通じる。その上、イタリア語自身が英語の単語とよく似ているので、書いてあることが少しずつ判ってくる。これもいいところなのです。

 2.ホルトウナ神殿
 南面の修復中で正面はよく見えないが、横から柱の装飾やら何やらがよく見える。それにしてもイタリアはよく修復している。それも原形をできるだけ活かして!どこぞの東アジアの国のように直ぐ立派に造ってしまうのとは大違い!!見習うべきであろう。

 3.ヴェスタ神殿

 直ぐ隣にあるのが円柱状をしたこの神殿。総じて言えることなのだが、ローマ人は円形が大好きなようだ。コロッセオ(ただしコロッセオは楕円)然り、各地の円形劇場然り、カラカラ浴場のCaldarium等々。この神殿は修復が終わっているようだが未公開のようだ。ローマ時代の遺跡を見て思うことだが、ほとんどが現在の地面から1.5m前後下にあることである。京都・平安京がそうであるように、2000年以上人々が住み続け、様々な「事件」を抱えて現在に至っているわけだから次世代は必然的に全世代の施設を埋めて使うからこうなるのであろう。ただし、ローマは煉瓦と石の文化なのだが、それにしては埋没量が意外と少なく感じるのはなぜだろう。この答えはまた後ほど。




   


 ヴェスタ神殿の基底部。古い所はこの様な方形の各礫を使用している。もちろん当時はこの上を大理石の板で覆っていたのである。大理石はモルタルで貼られていたらしい。

 4.ジァーノ門
 ホテルを出て道を渡らずに直ぐ左(南東方向へ歩くと柵で囲われた門跡に至る。四世紀に建てられた四面に通路の開く特殊な門である。門の前で小さなトレンチを開けて発掘調査中だったので柵越しに見ることにする。ただしまだ朝9時過ぎだというのにチンタラチンタラ作業している。どうもローマ時代の路面を出しているようだ。二人の作業員?と二人の調査員?がいるが皆さんゆったりしている。羨ましい限りだ。



 ジアーノ門の偉容。



 調査中の現場には必ずこうした説明板がかけてある。



小さなトレンチが開けられ、門の前の石敷き道路が調査されているようだった。



 洋の東西を問わず発掘道具はほとんど変わらないのである。



 十字路に建てられた門なので、この様二門の中で道が交差している。

 直ぐ横に建てられているのがアルジェターリのアーチである。



 5.「眞実の口」
 次ぎに訪れたのがのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の回廊の奥に置かれている真実の口と称される彫像である。偽りの心があるとこの口に手を入れると抜けなくなるという言い伝えのある石像物である。元々は下水道の蓋であったとされる。皆さんと同じように口に手を入れてはいポーズと相成った。



  6.チルコ・マッシモ</stron g>
 真実の口を出て少し歩くとパラティーノの丘の南、アヴェンテイーノの丘の北に東西600m×200m余の長大な空間が出現する。戦車競技場として使用された大競技場跡である。以前レバノンのTyreで紹介したヒッポロドームを一回りほど大きくした施設である。現在は観客席の部分は土で覆われ、Tyre程の臨場感はないが、西端で行われている発掘調査が終われば、その偉容の一部が再現されるのかも知れない。





中央から北西をみた所



 直ぐ北がパラテイーノの丘の宮殿群である。



 発掘調査および整備工事中の南東端の様子である。フェンスの隙間から撮ることができた。次ぎ来ることがあったら整備されていることだろう。地下鉄チルコマッシモ駅のすぐ前である。



調査中の現場のフェンスに掲げられた説明板の中の絵画。もちろんこの様にカラーである。どこぞの現場途中の説明とは大違いである。この辺も文化への金のかけ方が違うのである。



 レバノンテイールのヒッポロドーム。チルコマッシモにはこの数倍の観客席が取り巻いていたに違いない。それにしても昨年、一昨年とレバノンを調査した経験がとても今回役だった。

  7.南城壁-1
 これを縦断して、我々は本日の一番の目的であるローマ時代の南城壁の探索に足を伸ばした。



この銅像、メモを取り忘れたので誰のものかわかりません。誰か知っている人がいたら教えて。



マンションの中に保存された城壁。



えらく苦労して、でもなんとか保存していますね。完璧とは行かないが、日本ではこれすらできない。



 こんな階段の下に当時の基底部がある。基底部からの高さ5m余が残っていることになる。驚きである。

 アヴェンティーノ通りを進むと公園の中に銅像が出現した。その付近をキョロキョロしていると目の前に城壁らしき高まりが住宅街の中に認められた。辿っていくと高まりの途中が刳り抜かれ、鉄骨で支えられていた。その奥は個人マンションのようであるが、人影もないので入っていくと、階段の下に基底部が認められた。明らかに城壁が保存されているのである。遺跡との両立を図った苦肉の策であろう。そのお蔭?で私達は城壁の内部を観察することができた。この城壁がいつの時代のどこを巡るものか、残念ながら我々の持っている資料では明らかにできなかった。この城壁の道を挟んだ直ぐ東側に資料に載っているアヴェンテイーノの丘を横断する城壁の一部を確認することができた。基底部は直方体の切石を積み上げたもので、その上にもやや大きさを減ずるが同様の石材が積み上げられていた。ローマ時代の城壁であろう。



 このマンションの前に既存の地図にも記載されている城壁がある。この後これの延長部を探索することになる。



 ロンドンもそうだが、この様にローマも、ビル街、住宅街にできるだけ当時の遺跡を残そうとする工夫が施されているのである。



 いりもしない道を付けて、遺跡をどんどん破壊する日本とは大違いである。



 これを伝ってその延長部を追究したが、残念ながらどこまで続くのかよく判らなかった。これ以上の探求は諦めて城壁の南西端を目指し、まずピラミデに向かった。

 8.ピラミデ
 ピラミデはBC12年にローマ行政官ガイウス・ケスティウスの墓として造られたもので、南城壁はこれに接続してさらに西へ延びている。ピラミデから凡そ1㌔、延々と高さ10m余の城壁が東西に延びるが、ティヴェレ川に突き当たる辺りで清掃会社の敷地となりこれ以上の追究はできなくなった。西端を確認したところで再び東へととって返し、ピラミデからさらに東へ城壁を追究することになった。



 ピラミデにはこの様に城壁が取り付いている。その前後関係がこれでよく判る。



 さらに西へ進んでいく。この城壁は周辺部の資材を寄せ集めて造ったのだとされる。しかし辿っていくと基底部はずっと自然石を切った立方体に近い石材が用いられている。あるいは一定程度古い城壁を利用しているのではないだろうか。



 途中2箇所に門が開いている。時代は不明である。





 清掃工場の先は鉄路である。その先は地図によるとテベレ川らしい。

 まだまだ城壁は続くが、長くなるので一端ここで中断する。



 城壁の内部。

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イタリア比較都市研究-4-2 カラカラ浴場跡に圧倒される補足版の条

2011-04-10 10:10:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 この記事は一度不十分なままにアップしましたが、資料を調べ直して大幅に修正しアップし直します。



 全景の鳥瞰写真である。南西上空からの写真である。

 3月20日、オステアへ行った後の午後後半にはローマにとって返し、著名なカラカラ浴場跡を訪れた。
 カラカラ浴場はその名の通りカラカラ帝がAD216年に建設した浴場である。規模においてはトラヤヌス帝の造った浴場(この地も今回探索したが夕刻迫った中だったのでいい写真を撮ることができなかった)に劣るが、その壮麗さでは一番であったと言われる。





 カラカラ浴場は北(正確には北東)を正面に置く施設で、単なる「風呂」ではなく、社交場、ジム、図書館などの教養施設が複合した文化施設であったとされる。周囲は30mを越す高い塀(A)に囲われ、皇帝から奴隷まで低価格で入ることのできた人気の高い浴場であったという。

 現状の復元で入り口がどこなのかよく判らないのであるが、切符売り場を入るとその正面に見えるのが北面する入口部分であろう。この中央にNatatioと称されたプールが置かれ、その両側に前庭(Vestibulum Q)を挟んで脱衣場であるApadyterium(M)が展開するらしい。



 

 見学のルートではNatatioのプールはよく判らなかった。直ぐにFgiridalium*冷浴室に入る。風呂の入り方としてはこれが最後になろうか。



 正面に見えるのが暖浴室と繋がる通路部分である。



 余りに広くて、その上よく似ているので混乱しがちであるが、これがFrigidalium:冷浴室である。見学者は右奥の方から入ってくる。



 壁のあちこちに梁の跡が見えるのだが、対応した壁には見受けられないので、部分的な回廊状になり、その上が二階として使用されていたのだろうか。



 冷浴室の推定復原図である。


 ここからは奥のCaldarium:高温浴室のある方から説明していくことにしよう。
 正面奥に置かれた半円形の平面を持つCaldariumと呼ばれた高温浴室(スチームバスの一種か)を中心に、基本的に左右対称の構造で建築されていた。


Caldariumを内側からみた所。

 

 Caldariumを裏(南)からみた所。この広場は裏庭で、夏にはオペラが上演され、日本人に人気のスポットだという。



 Caldarium裏の西側部分である。



 同じくその反対側東側の壁である。



 Caldarumの内部である。ここが浴場の中枢部である。





 この正面先がTepidarium(P):温浴場である。

 ここで暖まり、汗を流した人々はこの手前のTepidarium(P):温浴場で少し冷まし、左右に広がるLaconicumで汗を乾かした。



 Tepidarium(P):温浴場には様々なデザインのモザイクが床を飾っていたらしい。魚や鳥が見られる。



 

 Laconicumの床は美しいモザイクで飾られていた。



 その内部はさらに幾つもの部屋に区切られているらしい。



 さらに進んで、最初に入ってきたFrigidalium:冷浴室で身体を冷やすのである。



 この床にも見事なモザイクが残る。

 黄昏時の図書館(少し暗くてごめんなさい)。図書館附属の浴場だとも言われる。





 壁を横目に見ながら帰路に就いた。

 これまでにも浴場遺跡にはとても興味があり、レバノン・ベイルートの浴場、Tyre・シテイーサイトの浴場、中国唐代華清池の浴場、そして長岡京宝菩提院廃寺の浴場等々、いろいろ見てきましたが、10m近い外壁に護られた浴場はまるでお城のようでした。Tyreの浴場など、今ひとつ構造が判りませんでしたが、このパンフレットを丹念に読み、いろいろ調べる内にようやく判って来ました。いずれ東西アジアの風呂比較をものにしたく思います。





 初日の見学はひとまずこれだけでしたが、この日だけでも既に10kmは歩き、時差ぼけもあってクタクタでした。夕食はホテル近くの川向こうの市中に出かけ、ガイドさんお勧めのピザやさんでピザとパスタとワインも頂きました。


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IT市史亀山市史公開の条

2011-04-09 09:59:58 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 昨年末から年初にかけて産みの苦しみに耐えた亀山市史(ここをクリックして下さい)が完成し、公開に至りました。

 本当に亀山市の皆さんにはご迷惑をお掛けしました。しかしなんとか年度内に完成することができ責任の一端を担った者としてホッとしています。様々なサポートをして下さった皆様に感謝申しあげます。とりわけ亀山歴史博物館の館長である亀山隆さんには本当にご苦労をお掛け致しました。どこかで祝賀会をせねばなりませんね。

 http://kameyamarekihaku.jp/sisi/koukoHP/index.html

 上記亀山市史考古編のURLを登録下さい。左側に「映像を見る」(ここをクリックすると直接映像をみるへ飛びます)という項目があります。これが四年間の科研費を用いて作成し成果の一部、「鈴鹿関の3D復元」です。



 3Dの一部分です。科研ではより詳細な復元3Dを作成し、間もなく関係者の皆様方にはそのDVDをお送りできると思います。

 お金がないので、音声はあまりいいソフトを用いたものではありませんが、3Dは自信作です(もちろん細部にはまだまだ問題がありますが)。



 こうした復元画像を内包したパソコンを持って遺跡をウオークスルーできるように間もなくなります。ご期待下さい。

 IT市史の一番のセールスポイントは何か?とマスコミの方によく聞かれます。そのたびに答えているのが次の点です。

 ① 映像、音声をふんだんに使用でき、市民に多角的な情報をお伝えすることができること。


 ② 映像世代の若者達に親しんでもらえる立体的で、カラフルな市史であること。




 イラストレーターを駆使して亀山さんがきれいに整えてくれたカラー版久留倍遺跡「聖武天皇朝明頓宮」推定根拠の図面です。この様にどんな図面もカラフルになりました。

 ③ 特に考古編で作成した「鈴鹿関3D 復元」は、ヴァーチャルリアリテーの21世紀の市史としてこれまでになかった初めてのものとなったこと。


 ④ 紙ベースの出版事業だと直ぐに情報が古くなっても改訂することがほとんど不可能であるが、ITならば臨機応変に改訂、増補をすることができ、常に最新の「市史」を送り続けることができること。


 ⑤ 膨大なデーターを「アーカイブス」として保管公開し、映像を中心とした大量の情報を世界に発信することができたこと。



 これまでの市史であれば白黒写真がほんの一部使用されただけですが、この様な細部写真もたくさん「アーカイブス」として公開できました。

 ⑥ 市史刊行のための財政負担が従来の市史の半分以下で済んだこと。

等々です。



 鈴鹿関第一次発掘調査の写真です。

 さらにこれからの次の様な対応によって世界に発信することが可能となったことを上げることができます。
 ① 各国語に翻訳することによって世界中に「亀山」を知らせることができること。
 ② 「鈴鹿関3D復元」を遺跡発掘調査のGPSデーターと結合することによって、調査が終了し、埋め戻された遺跡を現地にパソコンを持ち込むことによって画面上で確認しながら歩くことが可能となったこと。

 これからも適宜更新される度にお知らせしますが、まずは公開ホヤホヤの市史をお楽しみ下さい。そしていろいろなご意見(イチャモン、批判、因縁なんでも結構です!!)をお寄せ下さい。これに関するコメントは直ぐにアップします!

 亀山市史なかなか面白いジャン!と思えば、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 

 阿須波道の復原



 伊勢国・志摩国と古代交通路

臨時ニュース「ずっとウソだった」 斉藤和義 の条

2011-04-08 20:39:09 | yaasan随想
 「ずっと好きだった」を歌った斉藤和義さんが「ずっとウソだった」という替え歌を自らcoverしてUーTubeに投稿しました。残念ながらなぜか元のアップは直ぐに消去されてしまったようですが、誰かがコピーして配信してくれています。

 日本にまだこんな芯のある歌手がいたんだと、嬉しくなりました。

 とても悲しい、情けない歌ですが、しかし事実はこの通りでしょう。みんなで歌って反原発の歌として広めていこうではありませんか。

 http://www.youtube.com/watch?v=lSCd52-UpTg

 
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京都桜情報の条

2011-04-07 07:11:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 まだまだ時差ぼけが直らないのである。やむなく徹夜をして研究会に行った。疲れていたが、京都にいるというだけでゆったりした気分になった。そこで一昨日、研究会の前後に少し会場の周辺を歩いてみた。今週末に学生達が三重で花見をしたいというから、その下見?も兼ねてである。


 京都の桜といえばなんといっても醍醐寺の桜であるが、流石にそこまで足は伸ばせないので、神泉苑と円山公園・賀茂川周辺によってみた。

 まだ満開とは行かないが、その分緑も混ざって却って風情があってよかった。




 

 白桜が 神の泉に かすかな輪




 

 老桜の 凛として立つ 八坂の夜






 

 鴨の水に 白き桜の 映えて春




 イタリアの遺跡もいいが、やはり京都だ、と実感した日でもあった。おそらく今週末の京都東山一帯は多くの人出で賑わうことであろう。
 いかに東電や政府・役人共が隠そうとしても原発の深刻な事態は見え見えである。風評が問題なのではなく、放射能で日本列島が汚染され、未来を担う子供達に危機が迫っていることが問題なのである。そんな時だからこそ、少しはホッとしたい気分を求めることを許してもらいたい。

 
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イタリア比較都市研究-3 オステア・アッチカ遺跡図面の条

2011-04-06 22:09:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 オステアローマ時代港湾都市遺跡の平面略図がありますのでこれをアップしておきます。



左端の遺跡切符売り場から入りしばらく南に展開する共同墓地群を見ながら真っ直ぐ石畳を南西方向へ進みます。しばらく行くとロマーナ門に着きます。



 円形劇場付近です。



今回はほとんど行くことができなかった海岸部の遺構群です。こちらの遺構群の軸線となる道路はそれまでの遺構が北東南西方向の道路を軸線としていたのに対し、南北方向軸へと大きく変わっています。時期が異なるのでしょうか。

 軸線が大きく変わる変換点の所を北へ進めばテイベレ川の川岸です。





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イタリア比較都市研究-2 ローマの港オステア・アンテイカ遺跡を歩くの条

2011-04-04 06:44:37 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 
 20日(日)からいよいよ遺跡踏査です。初日は案内の日本人の方にお願いしてローマ近郊のオステイアにあるローマ時代の港湾遺跡を見学しました。世界帝国となったローマにはこの港へ物資が集中したようです。残念ながら港そのものはまだ発掘調査されておらず、詳細は不明だそうですが、陸揚げされた物資を保管する倉庫群や商人達の町、浴場、神殿などが所狭しと並んでいる様子は圧巻でした。ローマがなぜあれだけの大帝国になったのか、その秘密を探るヒントがこの遺跡に隠されています。

 

 ローマ郊外のオステアまで電車を乗り継いで約30分。



 オステアとローマ時代の立地



通路の両側には早速大規模な倉庫群が登場する。



 道には見事な轍跡が認められた。



 ローマ人と浴場は切っても切れない関係にある。



 実はこの遺跡も15m以上の砂で埋まっていたのである。だからとても残りがよい。

 

 サウナ風呂?



 レバノンTyreでの踏査の経験がとても役に立った。比較すると実に興味深い!!

 





 地下に張り巡らされた水道管(鉛管だそうだ)。



 浴場の階段



 

 半円形の円形劇場も備わっている。



 



 大規模なパンやさんもある。



この先が港である。



 店屋の並ぶ道路沿いには一階が店、二階が住居となったところもある。





3時頃までオステアで過ごした後、ローマ市内に戻り、著名なカラッカラ浴場を見学しました。

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イタリア比較都市研究-1ローマ・テヴェレ川の辺へ着くの条

2011-04-03 03:15:14 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 新年度が始まっても東北地方の惨状を見ているととても新たな気持ち、というわけにも行かない今日この頃である。久しぶりの書き込みなのだが、この間の行動をまとめてアップしていくことにする。

 それも、人が苦しんでいるときのイタリア旅行記である。お許し下さい。

 実は、下記のような日程でイタリアへ都市比較研究のための踏査に行って来たのです。震災直後で、息子も福島へ派遣され、あまりいい気分ではありませんでした。辞退も考え、相談したのですが、直接の被害がない状態で辞退をすると、年度末ですので、予算執行に問題が生じ、主催者にご迷惑がかかるということで、ぎりぎりの18日に決断し、行くことにしました。

 そんなことですので、ブログの更新も、予告もせずに行っておりました。到着当初はネット環境もよかったのですが、その後不通になり現地からレポートすることができませんでした。このため、あちこちからメールや電話が入り、いろいろご迷惑をおかけいたしました.深くお詫び申しあげます。 
 東北で苦しんでおられる方々には申し訳ないのでが、とても充実した13日間でした。おおよその旅程は以下の通りです。

 19日(土) 関西空港発14時10分のアリタリア航空AZ793便にてローマフィウミチーノレオナルドダビンチ空港に向け出発。時差8時間のため到着は当日の19時05分予定。約13時間の長旅である。
 20日(日) カラカラ浴場&オスティア遺跡
 21日(月) ローマ市内に点在する主に南部の城壁跡を踏査。
 22日(火) ティボリに所在するハドリアヌスの別荘跡と1550年にイッボリト・デステ枢機卿が修道院を改築して別荘とした庭を見学。建築家ビッリ・リゴリオが、テイボリ川の水を引き込んで造ったという噴水庭園を踏査。
 23日(水) ローマ市内の著名な遺跡、コロッセオ、フォロ・ロマーノとパラティーノの丘、パンテオン、フォロ・トライアーノ、マッシモ宮博物館等踏査。
 24日(木) アッピア街道・カタコンベを踏査
 25日(金) ローマ市内の北部に残る城壁を踏査。ほぼ城壁を一周する。
 26日(土) ローマ市内の補足踏査。フォロロマーノ、ローマ時代の市場跡、コロッセオ外周を踏査。
 27日(日) 11時のユーロスターでナポリへ移動。約1時間の列車の旅。午後 エルコラーノ(ヘルクラネウム)遺跡踏査。
 28日(月) ナポリ市内地下ローマ遺跡の踏査。午後 ナポリ考古博物館の遺物調査。
 29日(火) ポンペイ遺跡を終日踏査。(10時~16時)
 30日 (水)  11時発ナポリ空港から国内線を乗り継いでローマフェウミチーノ空港へ。14時55分発関西空港行きのAZ792便にて帰国。
 31日(木)  9時30分到着予定。

 おおよそこんな予定での出発であった。直前まで科研費の報告書作りや様々な書類作成やらで、結局いつもの通り、なんの事前勉強もせずのぶっつけ本番の旅となった。折角大量の資料をスキャンし、ダウンロードできるようにして頂いていたY大学のHY先生には本当に申し訳ない次第であった。メンバーはいつもの通りのHY先生に加えて同大学のMP先生の三人であった。当初は東北地方のY大学のAM先生もご参加の予定であったが、直接の被害はなかったものの、流石に東北途方からは参加しにくいとのことで、直前のキャンセルとなった。

 19日(土)出発時の関西空港は大変な人出でした。特に中国行きの飛行機は中国人で超満員の様子でした。アリタリア航空の飛行機で約13時間。イタリアとの時差は8時間です(ただし、3月27日からは夏時間が始まるということで少々混乱もしました)。同じ19日の夕刻に無事到着し、迎えのアシスタントの案内でホテルへ。47ホテルという比較的新しい、遺跡にとても近い近代的なホテルでした。夕食も採らずに、9時過ぎには就寝しました。



 ホテルの部屋のベランダから



 ホテルから見えるヴェスタ神殿



 ホテル前の古跡庁



 とっても素敵な町並みの中に溶け込んだホテルでした。


 しばらくこのシリーズを続けます。

 ただし、明日は名古屋古代史部会での我が学生二人を含む中部地方の学生の卒論発表会なので、お休みします。あしからず。

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