第3日目3月21日(月)は、ローマ市内に残る南部城壁の調査であった。
調査費用の関係でこの日はガイド無しでの調査である。出発前からとても不安であった日の一つである。おそらく日本人の一般観光客はほとんど歩いたことのない遺跡群の探索である。幾つもの見所と、説明しなければならないことがあるので、二回に分けて紹介することにする。実際、この日、日本人に会うことはほとんどなかった!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/c1/4a0ec6541b776ed826fd65d9bb826317.jpg)
ホテルの中は新しいのだが、外見は古そうである。こんなのが一杯ある。
もちろんホテルからのスタートである。ホテル周辺、というより目の前に二つもの神殿があるのである。同行者のY大学のMB・HY両先生は既に朝から周辺を歩いたり、事前に調査をし尽くしてそれなりの土地勘を持っておられる。地図を見ながらすいすいと歩いて行かれる。素晴らしい!!私はお二人に後ろからついていくだけなのだが、方角も、地図のどの辺りなのかもさっぱりわからない。遺跡を見て、写真を撮るのが精一杯であった。
ホルトウナ神殿
以下のこの日の遺跡の探索記録はMB先生がお作りになった記録を元に再現している。
1.戸籍庁旧址(年代不明)
後で判ったことなのだが、我々が泊まった47ホテルというのは実にいいところに立地していたのである。偶然と言えば偶然なのだが、これも事前に今回の調査の計画を何度も旅行社(イタリア旅行社:私の友人のTSさんの友人を通して紹介してもらった小さな?-大きかったらごめん!-旅行社なのだが、とても親切で、いろいろなこちらの難題を実に真剣に聞いて下さった。現地のガイドさんも素晴らしく、なんのトラブルもなかった。ほぼパーフェクトであった。感謝!!是非皆さんも、イタリアへ行かれるときにはこちらを利用されるといいですよ。〒104-0061東京都中央区銀座1-14-14銀座中公ビル4FTel:03-3562-2505 Fax03-3562-2506 臨時営業マンでした)と打ち合わせ、計画して下さったHY先生のご尽力によるところがとても大きい。ホテルはまだ新しく、とてもきれいで、お値段の相場は知らないが、日本で言えばビジネスホテルのちょっとましなクラスというところだろうか。朝食(だけ付けてもらっている)もなかなかよく、私にとってよかったのはコーヒーがとても美味しかったことだ。余り大きな声では言えないが、ポットに入ってくるコーヒーを余らせて棄てるのももったいないから(ということにして)ペットボトルに入れて踏査中に適宜呑んだ。これがまたよかった!!
遺跡の話しを忘れていました。ホテルのすぐ前が戸関庁(私は古蹟だと思っていました(笑))なにやら壁の一部は古そうな石が使われているのですが、詳細は不明。なお、道の横断は中国式!イタリア人の後ろ(今回は中国人のMB先生の)についていけば、信号のない道も、たくさんの車も怖くない。その上、信号のない横断歩道でも渡っていると向こうの車はきちんと止まってくれるのです。さらについでに言うとイタリア人はとても親切なのです。電車やバスの中はスリで一杯!!なのでとても注意が必要なのですが、大半は外国人だとか。つんつんしているお隣の国とは大違い。下手くそな私達の英語でもそれなりに通じる。その上、イタリア語自身が英語の単語とよく似ているので、書いてあることが少しずつ判ってくる。これもいいところなのです。
2.ホルトウナ神殿
南面の修復中で正面はよく見えないが、横から柱の装飾やら何やらがよく見える。それにしてもイタリアはよく修復している。それも原形をできるだけ活かして!どこぞの東アジアの国のように直ぐ立派に造ってしまうのとは大違い!!見習うべきであろう。
3.ヴェスタ神殿
直ぐ隣にあるのが円柱状をしたこの神殿。総じて言えることなのだが、ローマ人は円形が大好きなようだ。コロッセオ(ただしコロッセオは楕円)然り、各地の円形劇場然り、カラカラ浴場のCaldarium等々。この神殿は修復が終わっているようだが未公開のようだ。ローマ時代の遺跡を見て思うことだが、ほとんどが現在の地面から1.5m前後下にあることである。京都・平安京がそうであるように、2000年以上人々が住み続け、様々な「事件」を抱えて現在に至っているわけだから次世代は必然的に全世代の施設を埋めて使うからこうなるのであろう。ただし、ローマは煉瓦と石の文化なのだが、それにしては埋没量が意外と少なく感じるのはなぜだろう。この答えはまた後ほど。
ヴェスタ神殿の基底部。古い所はこの様な方形の各礫を使用している。もちろん当時はこの上を大理石の板で覆っていたのである。大理石はモルタルで貼られていたらしい。
4.ジァーノ門
ホテルを出て道を渡らずに直ぐ左(南東方向へ歩くと柵で囲われた門跡に至る。四世紀に建てられた四面に通路の開く特殊な門である。門の前で小さなトレンチを開けて発掘調査中だったので柵越しに見ることにする。ただしまだ朝9時過ぎだというのにチンタラチンタラ作業している。どうもローマ時代の路面を出しているようだ。二人の作業員?と二人の調査員?がいるが皆さんゆったりしている。羨ましい限りだ。
ジアーノ門の偉容。
調査中の現場には必ずこうした説明板がかけてある。
小さなトレンチが開けられ、門の前の石敷き道路が調査されているようだった。
洋の東西を問わず発掘道具はほとんど変わらないのである。
十字路に建てられた門なので、この様二門の中で道が交差している。
直ぐ横に建てられているのがアルジェターリのアーチである。
5.「眞実の口」
次ぎに訪れたのがのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の回廊の奥に置かれている真実の口と称される彫像である。偽りの心があるとこの口に手を入れると抜けなくなるという言い伝えのある石像物である。元々は下水道の蓋であったとされる。皆さんと同じように口に手を入れてはいポーズと相成った。
6.チルコ・マッシモ</stron g>
真実の口を出て少し歩くとパラティーノの丘の南、アヴェンテイーノの丘の北に東西600m×200m余の長大な空間が出現する。戦車競技場として使用された大競技場跡である。以前レバノンのTyreで紹介したヒッポロドームを一回りほど大きくした施設である。現在は観客席の部分は土で覆われ、Tyre程の臨場感はないが、西端で行われている発掘調査が終われば、その偉容の一部が再現されるのかも知れない。
中央から北西をみた所
直ぐ北がパラテイーノの丘の宮殿群である。
発掘調査および整備工事中の南東端の様子である。フェンスの隙間から撮ることができた。次ぎ来ることがあったら整備されていることだろう。地下鉄チルコマッシモ駅のすぐ前である。
調査中の現場のフェンスに掲げられた説明板の中の絵画。もちろんこの様にカラーである。どこぞの現場途中の説明とは大違いである。この辺も文化への金のかけ方が違うのである。
レバノンテイールのヒッポロドーム。チルコマッシモにはこの数倍の観客席が取り巻いていたに違いない。それにしても昨年、一昨年とレバノンを調査した経験がとても今回役だった。
7.南城壁-1
これを縦断して、我々は本日の一番の目的であるローマ時代の南城壁の探索に足を伸ばした。
この銅像、メモを取り忘れたので誰のものかわかりません。誰か知っている人がいたら教えて。
マンションの中に保存された城壁。
えらく苦労して、でもなんとか保存していますね。完璧とは行かないが、日本ではこれすらできない。
こんな階段の下に当時の基底部がある。基底部からの高さ5m余が残っていることになる。驚きである。
アヴェンティーノ通りを進むと公園の中に銅像が出現した。その付近をキョロキョロしていると目の前に城壁らしき高まりが住宅街の中に認められた。辿っていくと高まりの途中が刳り抜かれ、鉄骨で支えられていた。その奥は個人マンションのようであるが、人影もないので入っていくと、階段の下に基底部が認められた。明らかに城壁が保存されているのである。遺跡との両立を図った苦肉の策であろう。そのお蔭?で私達は城壁の内部を観察することができた。この城壁がいつの時代のどこを巡るものか、残念ながら我々の持っている資料では明らかにできなかった。この城壁の道を挟んだ直ぐ東側に資料に載っているアヴェンテイーノの丘を横断する城壁の一部を確認することができた。基底部は直方体の切石を積み上げたもので、その上にもやや大きさを減ずるが同様の石材が積み上げられていた。ローマ時代の城壁であろう。
このマンションの前に既存の地図にも記載されている城壁がある。この後これの延長部を探索することになる。
ロンドンもそうだが、この様にローマも、ビル街、住宅街にできるだけ当時の遺跡を残そうとする工夫が施されているのである。
いりもしない道を付けて、遺跡をどんどん破壊する日本とは大違いである。
これを伝ってその延長部を追究したが、残念ながらどこまで続くのかよく判らなかった。これ以上の探求は諦めて城壁の南西端を目指し、まずピラミデに向かった。
8.ピラミデ
ピラミデはBC12年にローマ行政官ガイウス・ケスティウスの墓として造られたもので、南城壁はこれに接続してさらに西へ延びている。ピラミデから凡そ1㌔、延々と高さ10m余の城壁が東西に延びるが、ティヴェレ川に突き当たる辺りで清掃会社の敷地となりこれ以上の追究はできなくなった。西端を確認したところで再び東へととって返し、ピラミデからさらに東へ城壁を追究することになった。
ピラミデにはこの様に城壁が取り付いている。その前後関係がこれでよく判る。
さらに西へ進んでいく。この城壁は周辺部の資材を寄せ集めて造ったのだとされる。しかし辿っていくと基底部はずっと自然石を切った立方体に近い石材が用いられている。あるいは一定程度古い城壁を利用しているのではないだろうか。
途中2箇所に門が開いている。時代は不明である。
清掃工場の先は鉄路である。その先は地図によるとテベレ川らしい。
まだまだ城壁は続くが、長くなるので一端ここで中断する。
城壁の内部。
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