yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

GPS研修の条

2009-03-31 11:40:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
「卒業式が終わってホッとしたのもつかの間、寒風の中での研修でした。
「寒戻り 震える声で 衛星探し」

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 卒業式が終わり、本来なら4年生は新しい場へと旅立ち、後は3年生以下が入学式を待つだけなのだが、4月から南山大学へ進学する大竹君には最後にもう一踏ん張りしてもらった。この間大森君と一緒に大学のGPS機器の操作を一手に引き受けてやってきてくれた彼らに下級生への伝授をお願いすることだ。二人でやってもらえればよかったのだが、どちらかというとこの機器に精通していた大森がいないのでやむを得ない、一人でやってもらった。



(春休みの大学校内はひっそりとしている!そこへ異様な集団現る!・・・・)

 その上この日はとても寒く、10人ほどになった下級生達はブルブル震えながらの測量であった。

 まず研究室で測量が何故必要なのかの概略を話、それから外に出かけた。午前中は光波測距機(トータルステーション)の操作方法の研修である。授業でもやったし、現場でもやったのだが、最上級生として下級生にも教えられるようにきちんと操作を覚えてもらうのが目的だ。

 それにしてもこの日はまさに寒の戻り!!寒くて寒くて、ホカロンを潜ませる者、コートを着ても震えるもの等々、とにかく寒かった。

 研修は大学校内に設けた基準点を用いて行った。人工衛星がいかに多いかを実感したり、先頃の教育学部の改修工事のために飛んでしまったピンを復元するための基礎作業を行ったり。10時から始めて結局17時までかかった。

 皆さんお疲れ様でした。この技術をレバノンでも活かしてね!!

1 固定局の設置





(操作方法を忘れないようにビデオで記録もした。)


2 移動局の設置

 固定式の移動局と簡易型の移動局の設置があるが、もちろんその両方を行った。



(これは簡易型移動局設置のための装置一式。やはりこの方法だと数ミリの誤差はやむを得ないかも・・・)


(誤差設定はもちろん1ミリなのだが、そうするとなかなかその範囲にまで精度が上がらない。この日はとにかく寒いので、10ミリ程度で打ち切った。)

3 4ー11ポイントの復原

 けしからんことに教育学部の耐震工事を請け負った業者が私たちの貴重な測量基準点を飛ばしてしまった。聞くところによるとその業者は建物の位置を図面上で押さえるためにこのポイントを用いたというではないか!なんたる縦割り情報!ホント、日本は行政も民間企業も縦割りですね。

 最終的には工事業者が復原するらしいのだが、我々も研修を利用しておおよその位置を調べてみた。



(とりあえず10㎝の誤差でこの辺りと判った。)

 番外編 相撲部?剣道部??

 たまたま復原をしていた場所が、教育学部の工事で不要になった机などの大型ゴミを出すところだった(まだまだ使えるゴミが一杯あったのでその内の一つを拝借した。考古学研究室は別名「大型ゴミ収集室」ともいう(笑))。その中に棄てられていた剣道の胴着。紐が切れたので棄てるとか?!聞くところによると安くても10万円はするらしい。今時の学生さんは金持ちですな-・・・信じられん!!


(我が研究室一の力持ち!!HH君の胴着姿、彼なら紐が無くても付けられた!??)


 これで大竹君の継承事業は一応終わり。お疲れ様でした。

2008年度卒業式が終わっての条

2009-03-27 01:11:05 | yaasan随想
 昨日2008年度の卒業式が終わりました。
[巣立ち行く 若人と飲む 酒寂し」 

 

(全員で撮るのをすっかり忘れてました。二次会の後で・・・)
 毎年3月25日が三重大学の卒業式と決まっているので,式が終わってから私の官舎に集まって研究室だけのささやかな宴を催すのですが、ここ数年は海外出張が重なって、卒業式に集まることはありませんでした。ところが今年は海外に行けない校務が当たってしまったので、三月はほぼおとなしく日本にいました。

 そこで、久しぶりに我が家での宴会となりました。

 いつもは友人の紹介で送ってもらう伊勢の海産物を食べるのですが、今年はいろいろな手料理となりました。京都から料理人(妻)に来てもらって、学生好みの料理を作ることに。
 
 昨日の献立(そう言えば献立の写真を撮るのをすっかり忘れてました)

 揚げたて串カツ、オレンジの生ハム撒きキュウリ添え、巻き寿司、鶏の二種スパイス炒め、ワカサギの酢の物、焼きうどん、水キムチ、・・・・後は酔っぱらって何が出たかよく覚えていませんでした。済みません。

 今年はご存知のように学部生が2人、修士が1人,合計3人しか卒業生がいなくて少し寂しいのですが、新四年生が10人、新3年生が5人もいるので、狭い官舎はいつも通り溢れかえりました。いろんな都合で結局我が家に集まったのは15人でしたが、13時から準備を始めて主人公達の来訪が遅れたので結局始まったのは17時。

 腹が減りまくったところでの開催だったので、皆さん美味しい、美味しいと言って料理を食べてくれていました。

 本当は18時から学生主催の謝恩会の様なものがあるのですが、この頃は全く盛り上がらず、恐らく学生に感謝などされていないのでしょうね、酷いときには学生より先生の方が多かったりして、その上、会費不足で先生が大金をはたいたりと、どっちが主役なのか判らない状態が続いています。今年もあったらしいのですが、結局そちらへは顔を出すこともありませんでした。

 某女子大学の京都有名ホテルでの豪華な謝恩会とは随分違います(もちろん某山田博士のようにデレーとした風景などみじんもありません(笑))。

 17時頃から始まった宴は22時頃に第一陣が帰る(自宅生は電車がなくなりますので)一次会?その後24時過ぎに下宿生の第一陣が帰る二次会?そしてそのあとゲームをしたり、DVDを見たりで結局朝方の4時頃までワイワイガヤガヤ。主人公1人も含めて結局5人が我が家居泊まりました。

 アー。お疲れ様!!本当に楽しかった!新三年生とも随分楽しい交流ができて。途中で帰ってきた娘も合流して(なにせ、娘は就職するまでは三重大の発掘現場やら分布調査、そしてベトナム・中国での調査に参加してくれていたので卒業生達とは顔なじみでした。)楽しい夜更けまでの大宴会でした。

 後三回しかこんな楽しいことができないのかと思うとちょっと寂しいのですが、ま、仕方ありません。

 もちろんこの場に大森が居てくれたらどんなに楽しかったことか!でも昨日だけはその言葉は封印させてもらいました。ゴメンね。

 今朝大学に来てみると去年の卒業生から今年の卒業生に向けたプレゼントが二個届きました。有り難いと共にもう1個の受け手の居ないことをあらためて思い知らされました。

 明後日はその大森の追悼文集の編集で久しぶりにご自宅をお訪ねします。卒業式報告です。

 間もなく新学期。今朝の大学は静まりかえって不気味なくらいでした。4月になれば新一年生が入ってきます。でもその学生達と四年間過ごすことはもうありません。いよいよ終わりに向かってラストラン、第四コーナーを回ることになりました。3年かけて大学での研究成果をじっくりまとめていこうと思っています。

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 有り難う大竹君!そして大森君!!藤岡さん!井上君ちょっぴりセンチメンタルな今日の私でした。
「卒業の 響きと共に 思い出し」

大森俊輔君追悼文集の条

2009-03-21 02:18:57 | yaasan随想

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 山田博士は卒業式で美女に囲まれて鼻の下をナガークしているのだが、私は連日の本当に虚しい会議に疲れ切っているのである!!大学解体!やはり日本の大学は根本からガラガラポンしないと駄目なんじゃないかしら・・・・ 

 (山田博士のデレー写真はここ)
 自分で選んだ道です。今更愚痴を言っても己の馬鹿さ加減をさらけ出すに過ぎないのは判っているつもりなのです。要するに己に能力がないからこんな事態を招いたのです。泥船の船長だけではなく大半の乗客も乗っている舟が泥船だとは誰も疑っていないのです。きっと沈んだとしてもそれが泥船だったとは絶対に認めないでしょう。

 そんな大学を出ない方がよかったのかも知れませんが、しかし、彼には彼のやりたいことがあったのです。そしてたった20年の人生を閉じてしまいました。実は今日から三重大学三翠ホール(講堂)ロビーで「生命のメッセージ展」をやっているそうです。いろいろな死を事故や犯罪によって迎えた人々の生前の姿を紹介し、命の尊さを訴える企画だそうです。

 全国を巡回している企画だそうです。その三重大学での展示だそうです。そのこと自体はとても意味あることだと思います。


 ただ、少し残念なのは、もっと身近に私たち自身の周囲に、悲しい死があることを実行委員会の皆さんがどれだけ知っているのだろうか、と言うことです。

 借り物の展示ではなく、自分達で手作りの企画、展示ができなかったのだろうか、そこが少しだけ残念です。

 私たちは昨年6月に突然訪れた考古学研究室ゼミ生・大森俊輔の死を受け入れざるを得ませんでした。その悲しみをどう伝えればいいのか、彼の無念をどう後輩に伝えることができるのか(伝える必要があるのか?),自問してきました。

 分布調査のこと、GPS測量のこと、ベトナムでのDVのこと、度々差し入れてくれた手作りのケーキのこと、就職先の津和野三松堂さんのこと、そして私たちが全く知らない大学入学以前のこと、ご家族との20年、・・・・

 それを小さな冊子にまとめることにしました。

 その取材や情報収集の過程で様々な人間の出会いを見ることもできました。

 俗に言う「世間は狭い」を実感しました。イヤ、大森俊輔が導いてくれました。

 1ヶ月前、レバノンにいる頃、日本から不思議なメールが届きました。差出人は我が同僚山田雄司先生です。

 「卒業生の○○さんが大森君の従兄弟さんと結婚したよ」と。

 驚きました。彼女は卒業論文は中世史でしたが、一年生の頃から歴史の授業を一杯取っていて、私の考古学の授業にも出ていました。イヤ、ある頃までは考古学にも随分興味を持っていたように思います。しかし山田先生の魅力にかっさらわれて行きました(笑)。そんな学生ですからとってもよく覚えています。

 その子が大森の従兄弟と結婚した!? なんじゃこれ?と一瞬意味がよく理解できませんでした。


 1ヶ月ほどして日本に帰り、山田先生と再会し、再びその話題に。

 ナナナント、その従兄弟さんは「大森」といい、私を取材したことがあるというのです。

 「????」
 「誰?」
 「判らん?」

急いで名刺を探しました。直ぐにそれは出てきました。なんと会ったのはつい最近のことでした。11月1日に行われた四日市市市制111周年記念事業の一環として私たちが行った久留倍まつりの衣装取材の時でした。

 もちろん彼は大森俊輔の葬儀の時も私を見たそうです。でも話しかけはしなかったと。そして11月の取材の時も。

 でも私の方からお便りしました。

 「大森俊輔追悼文集を出すから書いてもらえませんか」と。

 叱られるかと思いましたが、直ぐに暖かい文章を頂くことができました。さすがは文章を仕事とする方だ!と感心するくらい心のこもった素晴らしいものでした。

 本当に思います

 「世間は狭い!!」と。そして人間の絆というのがこんな小さな試みから大きく、太くなるんだと。人間らしく、一人一人の学生の人生を尊ぶために、子供をレールに乗せて淡々と出していくのではなく、心を込めて、人間として育てていくためには、自分達の利害だけを主張し、自分達が楽をするためだけを考えてまるで政治家のような策を弄して組織を動かしていたのでは、学生に信頼される教育も、研究指導もできないのではないかと,しみじみと思うのです。

 気に食わない奴が「頑張っている」と評価されるのは悔しいから、「頑張っていないように見せかける」「頑張れないように落とす」これはとても「HUMAN」を教える人のやることではないと思います。

 そんな大学の卒業証書をもらわなかった大森は、ひょっとしたら幸せだったかも知れません。その代わりになるように『追悼文集』編集の追い込みをしています。

 大森を知る人がいらっしゃったら,ご一報下さい。

 レバノンから帰ってきて大学の後輩達と飲みました。会社が倒産して失業したんだそうです。驚きました。でも彼女の顔は活き活きとしていました。何故だろう? 志を共にした人間同士の飲む酒がうまかったからだと思っています。 

 


 





百済調査―2 百済駄句集の条

2009-03-10 20:00:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-3 その他

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百済の印象を駄句にまとめました 


141 百済女 凍錦江へ 消えた日を
(くだらびと こおりきんこうへ きえたひを)
20090226-03041週間韓国の百済を中心に遺跡調査にいってきました。後半の二日間は氷点下の日もあり、雪まで降るというなかなかの風情でしたが、その中で生まれた句集です。この句は百済滅亡のその時、敵軍からの辱めを避けて、身を投げたといわれる百済女官達の思いを偲び、現地で詠んだものです。


142 武寧王 栄華の跡に 枯れ葉舞う
(ぶねいおう えいがのあとに かれはまう)
20090228 武寧王陵には寒風が吹いていました。博物館には武寧王陵の様々な復元品が陵内の様子を伝えていた。



143 弥勒寺に 春日輝く 黄金舎利
(みろくじに はるひかがやく こがねしゃり)
20090227 弥勒寺からは今年の正月に塔心礎から黄金の舎利容器などが出土したそうです。とても珍しく、貴重な石塔の由来を記した金板も見付かり、古代史を書き換える大発見となりました。これは公開施設の二階から見ることのできる石塔初層と心礎の様子です。





144 春休み 弥勒寺を見る 声元気
(はるやすみ みろくじをみる こえげんき)
20090227 前回もそうだったが、韓国の遺跡には子供達の声が響き渡っている。今回も解体中の石塔が公開されており、沢山の親子連れが訪れていた。



 弥勒寺の直ぐ近く、王宮里遺跡の石塔からも貴重な舎利が発見されている。

145 凍り付く 南江へ入りし 妓生を
(こおりつく なんこうへいりし きいせんを)
20090227 晋州城にて、壬辰倭乱の秘話を聞いて。秀吉による文禄・慶長の役―韓国では壬申の倭乱―では日本の武将達と闘うために老若男女を問わず多くの人々が秘策を練った。ここ晋州城では、論介という妓生が武将達を酒に酔わせ、指揮官を魅惑して自らの命を道ずれに南江に身を投げたという。

                                          


146  論介が 入りし水は 今凍り
(のんげが いりしみずは いまこおり)
20090227 妓生論介が晋州城を陥落させた武将と主に南郊へ身を投じた秘話



147  壬辰の 倭乱に散った 妓生に
(じんしんの わらんにちった きーせんに)
20090227 秀吉による朝鮮侵略は多くの悲劇を生みました。いつの時代も、異民族の侵攻が多くの死を生みだし、悲劇となります。本当に無益なことです。レバノンでもそうでした。 


148  石塁の 続く岩間に ツクシの芽
(せきるいの つづくいわまに つくしのめ)
20090227 蛟龍山城を訪れて



149  南原の 邑城が屋根に 春風が
(なんげんの ゆうじょうがやねに しゅんぷうが)
20090227 南原邑城・新羅五京の跡を見学して




(東固城に残る長大な東西棟の建物)


150   寒風に 宴の酔いが 吹く扶餘夜
(かんぷうに うたげのよいが ふくふよや)
20090228 朴淳発先生の開いて下さった宴は深夜2時過ぎにまで及んだ。足下をふらつかせながら扶餘の市場をコートの襟を立てながら歩いた。



151  陵山窯 斜面の先に 新芽見て
(りょうざんよう しゃめんのさきに しんめみて)
20090301 発掘途中の陵山寺西斜面柱より発見された窯を見て


152  雪かむる 公山城の 今静か
(ゆきかむる こうさんじょうの いましずか)
20090302 前日からの雪で真っ白になった熊津時代の百済の都・公山城をみて



153  清州が 復原炉に 小雪舞う 
 (せいしゅうが ふくげんろに こゆきまう)
20090303 清州国立博物館の裏庭に復原された精錬炉を見学したときに炉跡には残雪が舞っていた。



154 風納の 土城を包む 風緩く
 (ふうのうの どじょうをつつむ かぜぬるく)
20090304 ソウル漢城時代の王宮跡?風納土城にて


155  海苔一杯 卒業旅行は ヴィトンらし
(のりいっぱい そつぎょうりょこうは う゛ぃとんらし)
20090304 ソウルインチョン空港にて出会った日本の女子学生と私。海苔を抱えてうろちょろする私の姿は彼女らにはとても滑稽に見えたに違いありません。でも、ヴィトンの鞄に一体彼女たちは何を詰めて帰るのでしょうかね?ま、単なる年寄りのひがみかも知れませんがね。




156  中央博 圧倒の展示 学生は
 (ちゅうおうはく あっとうのてんじ がくせいは)
20090304 韓国国立中央博物館の素晴らしい展示だが、訪れる人に日本の学生が見当たらず少し寂しくなりました。




 日本人で遺跡に行くのは老人達、でも韓国の子供は元気いっぱいに遺跡を走り回りメモをとる。これでは文化力で勝てません!! 

百済調査-1 百済都城跡及び関連遺跡の調査の条

2009-03-05 12:59:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-3 その他
長かった3週間がやっと終わりました。疲れました!!「武寧王 栄華の跡に 枯れ葉舞う」 
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 次のような日程で百済を中心に韓国の西側を釜山から北上してソウルまで調査の旅に出かけてきました。しばらくダイジェストをご紹介します。

 2月26日(木) 関空朝9時→釜山11時
 釜山空港→陝川双冊(玉田古墳群・城山土城)→晋州(慶尚大学校博物館)

 


(玉田古墳群と城山土城は隣同士にあります。古墳群からは土城がとてもよく見えます。一説によれば朝鮮半島南部にあった「多羅」の中心部ではないかと言うことです。まだまだ実体は不明ですが、今後の研究の進展が待たれます。)

 2月27日(金)
 晋州→南原(南原邑城・蛟龍山城)→任実(全北文化財研究院)→全州(国立全州博物館)



(豊臣秀吉の朝鮮侵略時に抵抗の場となった晋州城の南門です)



(南原邑城は新羅の「複都制」である五京「小京」の一つだとされています。北城壁の一部が残されているだけで「京内」については全く手が付けられていません。残念です。)

 2月28日(土)
 全州→益山(王宮里遺跡・帝釈寺址・弥勒寺址・弥勒寺址遺物展示館)→扶餘


(王宮里遺跡東城壁。翌日の朴先生との懇談でその構造が判明した。)



(弥勒寺からは今年の1月に西塔の心礎から大量の舎利具が発見され、金製の舎利容器や舎利埋納者や塔建立者に関する情報が詰まっていることが判明し、史実を書き換えることになったそうです。その速報写真展が附属博物館で開催されていました。素晴らしい逸品でした!!)



(相変わらず子供達で一杯の弥勒寺石塔解体修理現場の公開施設。韓国の情報公開のすばらしさを日本も見倣いたいものだ。)


 3月1日(日)
 扶餘(宮南池・軍守里寺址・扶蘇山城・定林寺址一定林寺址展示館・国立扶餘博物館・陵山里古墳群・陵寺一東羅城)


(扶餘王宮の東羅城の整備状況)




(前日弥勒寺で段差を踏み違えて転倒し右足膝を強打しました。そのため扶蘇山城に上るのはとても厳しかったのですが、皆さんの足を引っ張る訳にもいきませんので頑張って歩きました。その後に訪れた陵寺古墳群の西側から見付かった陵寺の?瓦の窯跡はなかなか興味深い構造や立地をしていました。)


 3月2日(月)レ
 扶餘(王興寺址・扶餘文化財研究所)→公州(公州大学校百済文化研究所・宋山里古墳群・武寧王陵)



(王興寺址は調査中断中でシートに覆われていました。残念!) 
 

 (武寧王陵の発掘時の写真)
 3月3日(火)
 公州(大通寺址・公山城・附属山城・国立公州博物館)→清州(午岩山城一国
 立清州博物館)

(昨夜来の雪で真っ白になった大通寺や公山城の一角を歩きました。少々疲れました!!)

 3月4日(水)
 清州→ソウル(風納土城・夢村土城・国立中央博物館)→仁川空港→関空20時

(前回の時にはまだ中央博物館は宮殿の直ぐ横にありました。今回新設なった博物館を初めて訪れました。巨大な空間に圧倒されました。時間が余りに少なくて、古代のほんの一部しか見ることができませんでした。)


 「弥勒寺に 春日輝く 黄金舎利」今回は冬場だったため残されている遺跡はよく見えたのですが、逆に発掘現場は3月半ばまで寒さのために中断中。よってあまり現場が見られなかったことが残念でした。
 


※ ところで海外調査中にこんなコメントが入っていました。私は基本的に匿名のこうしたものにはお答えしない方針なのですが、事実誤認があるようなのでその点だけは指摘しておきます。

 素朴な疑問さんからのコメント

 鈴鹿の関はまだ発掘調査の途中だと聞いてます。
正式に一般の人が見られるようになるにはまだまだ整備が必要だといわれたことがあります。
先生は調査のときに自分で撮った写真をこのブログで公開していますが 一般人の私達ではない公務員の大学の先生が特別に許可されて撮った写真を このようにブログにのせることは守秘義務に反していないのでしょうか?
私達一般人でも そこに行けば撮影できるのですか?
 調査研究に使う写真と個人のブログで公開できる写真は区別しなくてもいいものなのでしょうか?
 このコメントはきっと反映されないとおもいますが疑問に感じたので書きました

 私の考え方
 ①まず私は公務員ではありません。仮に公務員でも問題は限られていると思っていますが、事実は違います。
 ②私は基本的に現場の担当者に写真の撮影が可能か確認してからとっています。またブログに載せる可能性のあることも断ります。
 ③鈴鹿関の今回の調査についても同様です。もちろんこの情報がこのまま公表されないのであれば、私は駄目だと言われても公表したかも知れません。紹介されないで埋められることこそ大問題だからです。
 ④もし上記の様なご意見が通ることになれば貴重な発掘調査情報は行政によって管理され、都合のいいときだけ表に出されることになります。これは情報公開の原則からして問題です。特に発掘調査の場合は現場が埋められてしまえば、情報の多くが失われてしまいます。発掘現場の公開は、特に今回のように「学術調査」と称してなされる場合には不可欠です。もちろん正式な学術成果は調査担当者が決まりに従ってきちんと出せばいいことです。私たち研究者はそれを下に研究するだけです。しかし国民に現場を公開しなければ恐らくほとんどの国民は、自らの負担の一部が使われているにも関わらず、その様な調査がなされたことすら知らずに終わってしまいます。
 ⑤現場は公開するのが原則ですから、国民に見せることは当然です。もちろん国民が現場に行かれれば説明し、資料の一部を与えることは義務だと思っています。但し、調査の事情や対応の時間もあるでしょうから、近年では「現地説明会」の開催でまとめて公表することが当たり前になっています。今回はその開催も危ぶまれたので紹介しました。
 ⑥そもそも私はこのブログでできるだけ多くの私個人が得た情報を丁寧に紹介し、情報公開の一端を担うことを目的にしています。だから研究のために訪れた調査地や遺跡の紹介をしています。もちろん海外でも撮影については許可を得てから撮っています。海外でも、国内でも撮影後の紹介が問題の場合は、「公表は差し控えて下さい」と言われます。それに従っています。
 ⑦ご意見のような考えが認められると、新聞などの報道機関が現場情報を流すことも問題になりかねません。時々一部の新聞では「スッパ抜き」なるものが行われます。現場をやっている場合、この対応には苦慮します。しかし最終的には拒否できないと思っています。
 ⑧なお、最新のレバノンや百済の情報でも、「公表を遠慮下さい」と言われたものや言われなくともそうせざるを得ないと思ったものについては残念ですが公表していません。

 公務員とか民間人とか、そうした区別ではなく、こうした文化的情報はどんどん公表すべきというのが私の基本的考え方です。それに従ってできるだけ迅速に、多くの情報をこれからもお伝えしていこうと思っていますので,ご理解の程よろしくお願いします。  なお、こうしたご意見は間接的でも結構ですので、非匿名でお願い致します。


レバノンレポート-4 Ramale Site の調査と考古総局の条

2009-03-01 00:00:00 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
ラマリの墓地群から見下ろすTyr市内は絶景でした。恐らくこの地に墓地を選んだ人々もこの景観が大いに影響したものと思われます。

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(Tyr市内はこの右手丘の下に広がっています。比高100mくらいでしょうか?なかなかの景色に沢山の墓地が設けられていました。)

 今回の発掘調査はK大学の科研によるもので、このラマリの地から発見されている墓地群の一つを調査することでした。残念なことに最初目指したものは墓地でないことが分かり、次いで調査対象としたものが、盗掘は受けていますが、墓の一部だと判ったものでした。



(既に発掘調査がなされ、保存措置が講じられている墓の状況です。壁画が残っていました)

 私は今回次年度以降にレバノンの地で測量可能な状況かどうかを確認するために参ったものですが、私が到着したときには発掘調査自体は終了しており、その詳細はよく判りませんでした。ただし、来年度の私たちの測量調査計画がどの様に実施可能なのか、何ができるのかなどを探るために現地を確認しました。



(こうしたいくつもの墓室が穿たれ、家族墓として利用されたそうです。これは日本の技術協力によって保存されたものだそうです。)

 その結果、これまでにみてきたTyrのローマ時代を中心とした都市遺跡とこの墓地群が大いに関係していることが分かり、その意義が判明しました。特に私自身が興味を抱いたのは、RamaleSiteが石材の切り出し場でもあることでした。ところがこれまでは残念なことにそのルートは全く分析されていませんでした。



(この様な石棺が納められる場合もありました。)



 CitySiteの道路遺構の測量と共にとても興味深い問題が手つかずのままに残っていることが判ったのです。こうした点を追求すれば東アジアと西アジアの「都市」空間の形成という大きなテーマに一定のヒントを与えてくれるように思います。これからしばらく準備をして実行に移せるか否か考えていきたく思っております。



(高速道路の建設計画の中で周辺遺跡の調査を行いこのお墓が見付かったそうです。道路は計画を変更して遺跡外に再検討中です。どこかの国とは大違いですね。悲しい!!)


(この先のビル群が現在の市内です)
百済の地に入って今日で4日目。ちょうど真ん中です。この記事は日本を出る前に予約投稿しておきました。またインターネットが不通になるといやなので・・・。百済情報はまた後日。 

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