yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

三重大学人文学部2012年度公開ゼミ「地震考古学事始め」第1回の条

2012-09-29 17:27:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 本年度の人文学部公開ゼミが始まっている。

 既に9月11日に一番バッターの赤岩隆先生の「アガサ・クリスティの自伝を読む」でスタートしているのだが、私の第1回が今日あった。

 今年は11人(組)の先生方しか登録しておられず、とても寂しい限りなのだが、それぞれの中身はとても濃いものばかりである。既に募集は終わっているのだが、開講日の5日前までなら定員に達していなければ受け付けてくれるという。全て

 無料!!

私はこの制度が始まって以来毎年エントリーし多くの市民の方に聞きに来てもらっているのだが、80人近くもいる教員のたった11人とは情けない限りだ。聴講無料だから、もちろん講師料も出ないのだが、それが理由なのだろうか。この頃の大学は学期期間中が余りに忙しいから休みまでつぶして「奉仕」する気になられないのかもしれない。ま、私のように「暇人」が協力すれば済むことなのだろうと自覚し、毎年開講しているのだが、ちょっと寂しい気がする。

 さて、今回は本年3月末に刊行した『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』の成果を基に表記のようなタイトルで「地震考古学」の話をすることにした。この冊子は中日新聞で取り上げて頂き、少し残部があるので希望者はどうぞ、と書いていただくと申し込みが殺到し、あっという間になくなった。

 申し込まれた方には申し訳ない気がしたもので、罪滅ぼしに冊子を全部コピーして資料に使おうと思って事務の方に印刷をお願いしたところ、コピーするのが大変だからと、あっさり増刷することになった。ただしカラーではないところがちょっと残念だが、ま、元の冊子もカラーは一部なので遜色はない。

 もちろんそんなことは誰にも言っていないのだが、なんと申し込みが殺到して、85人もの希望者が出た。大体「ゼミ」なので、少人数の「講義」が売りなので、余り多いのはいかがなものか?と主催者側から若干の疑問も呈されたのだが、お断りするわけにもいかないので、希望者は全員受け入れて下さい!とお願いするとこうなったのである。私は多くても少なくてもどっちでもいいのだが、多いに越したことはないと思っているので悪い気はしなかった。その上、冊子の増刷が可能になったものだから、内心とっても嬉しかったのである。

 第1回の今日は「地震考古学とは?」ということで、余り聞き慣れない地震と考古学がどの様に結びつくのかをお話しした。特にこの話のきっかけとなった三重大学構内から発見された鬼が塩屋遺跡の中で話をさせていただくもので、きっかけになった遺跡をご案内することから始めた。皆さんとても熱心で、短い距離の歩く間もひっきりなしに質問が浴びせ帰られた。

 遺跡見学の後は教室へ戻ってスライドを用いて頭書のテーマについていろいろ話をさせていただいた。

 とにかく三重大学全体がとても大きな地震に見舞われていることを判っていただいただけでも大きな成果ではなかったかと思っている。その中でも先日のブログで紹介した高槻市の今城塚古墳の地震痕跡の最新情報も交えて話せたのはよかったのでは?と自己満足しているところである。

 次回は来週の土曜日10月6日10時半から人文学部の大会議室(3階)でやる予定である。

 次回(第2回 10月6日(土))のテーマは「天平地震・貞観地震の記録を探る~東アジア規模の大災害の実態と復旧~」次々回(第3回 10月20日(土))は「明応地震と安濃津の崩壊~海に沈んだ大港~」の予定である。特に第3回目はたまたま昨年度の発掘調査地の直ぐ南をまた発掘しなければならず、うまくいけばその現場も見ていただくことができるのではないかと思っている。なかなか生の地震履歴は見られないので参加者には印象深いものになると思っている。

 実は、たまたまこれと並行して中日文化センターでもう少し内容を膨らませて6回のカルチャーをやる予定だったのだが、こちらは有料なもので、ひょっとしたら三重大のものが無料ということがどこかから伝わって希望者がたったの7人となり、開講できなくなってしまった。ちょっと残念な気がするが、「無料」には勝てないかも。中日文化センターの担当者の方、申し訳ありませんでした。

 なお、第2回では、これも既にブログで紹介した734年の河西回廊を襲った大地震とその2ヶ月後に日本列島を襲った天平大地震との関係も少し考えてみようと思っている。

(余り大きな声で言えないのですが、もしよかったらこっそりおいでいただいてもいいですよ(笑))



鬼が塩屋遺跡から大量に発見される土錘。これらは1800年ほど前、大学一帯で網による魚取りが盛んに行われていたことを示す。


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河西回廊踏査-9 標高3000m馬梯寺石窟参観の条 

2012-09-28 16:08:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第7日 8月19日(日) 張棭・馬蹄山石窟

 馬蹄寺石窟群を目指す。途中、雪をいただく祁連山を見て一同大感動!しばらくシャッターの音がやりやまなかった。

 1時間半ほどかかって馬蹄寺石窟群に到着。しかしここから2km余り先が目指す石窟であるとわかる。


馬梯寺石窟(北寺)全景


北寺は大半が元代以降のものでかなりその後の手が入っていると判る。

 案内人を待ち、まず北寺へ向かう。案内人は裕固族の若い女性の格桑美朶さん。ガイドの資格を取るために夏はアルバイトで馬梯寺石窟の案内人として働き、冬は出身地である張棭市粛南裕固族自治県皇城鎮に帰って猛勉強するということが後で判った。


案内してくれた裕固族の格さん









北寺はほどほどに千仏洞へ向かう。時間が惜しいので土産物屋でパンと懐かしい魚肉ソーセージを買ってバスの車中で食べながらの移動であった。

 まず、北寺を見学する。内部は本当なら撮影禁止だが、僧侶に見つからなければいいですよ!ということで撮影するのだが、大半が明清以降のもので、私たちの研究の対象とする時期とはかなり離れるので、比較的見学時間も早くに済む。

 中心区は千仏洞だということでこれを見学。さらに、千仏洞から離れている特窟1~4号窟を一人100元で見学し、写真撮影を行う。金塔寺は未開放ながら、案内人の格桑さんが交渉してくれて許可が下りる。しかし、ここからが苦難の道。なにせ、GPSが指し示す高度が半端じゃない!!2900mである。



























 エッツ、これって、信州の南アルプス?!

 金塔寺文物管理所に到着するまでガタガタ道をのらりくらりと進む。文物管理所の管理人とともに金塔寺へ向かうことになる。管理人と案内人はバイクでさっさと行ってしまうが、我々はそのまま徒歩で進む事になる。標高3000m近いところを1.5km、まるで登山である。

 修理中の金塔寺東西両窟を見学。なんとか修理用の足場を用いて石窟に登る。それがなければかなり危険であった。事実私などは何度も転びそうになりながら、やっとの思いで登った。

 案内人の格桑さんが管理人と交渉し、「特別に」写真撮影を許可していただいた。6月に訪れた日本人の研究者は管理人ともめ、写真もとらずに返されたとか。格桑さんに感謝感謝!!そんなこんなで写真を思う存分撮って17時頃下山。お別れの車中で、案内人の格桑さんが突然歌を歌い出す。裕固族とチベット族の歌を披露してくれる。一同拍手喝采であった。もちろんビデオに収めたので、掲載方法が判れば後日報告する。

 「3000mの登山」に一同疲労困憊してホテルに着いた時にはもちろんビール!!


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今城塚古墳・今城塚古代歴史観探訪-2 明確なコンセプトのある歴史館の条

2012-09-28 12:17:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 古墳整備の状況を見学した後、今城塚古代歴史館を見学させてもらった。

 古墳の直ぐ横に併設されており、学芸員が4名ほどで。年二回の特別展、二回の企画展をやるという。

 入館料は無料。館内の写真は常設展に関しては原則可能。





とてもゆったりとした施設配置だ。駐車場も無料。




今城塚前史が最初のコーナー







 もちろん展示のテーマは今城塚古墳

 一番感心したのは、専門家向けの展示解説と一般市民向け、それも子供向けの展示解説がとてもうまく併存していることだった。



 前者を立てれば後者が立たず、後者を立てれば前者が物足りなくなるのが常である。その大きな差を実にうまく様々な展示グッズや装置を挟み込んで何気なく埋めているところが素晴らしい。

 事実、私たちが伺ったのは日曜日で、たくさんの子供や大人が見学していたのだが、どちらもが一生懸命見ている姿にあちこちで出会った。

 子供は子供で、どうも自然とその判るところを進んでいくことができるようなのだ。そして私たちもその子供が見ている装置を時々見に行っても違和感がないのである。



この右側の髭おじさん、名前を忘れたのですが、関西弁でなかなか話し方がうまい!!


 おそらく、設計段階で、

 A 子供向け導線
 B 中学・高校生向け導線
 C 大人向け導線

古墳築造のジオラマ



わずかしかない副葬品



珍しい牛形埴輪



鷹匠

 D 研究者向け導線


微笑ましい光景を見た!この耐圧ガラスで展示されている石組みを見て、2歳くらいの女の子が泣いて渡ろうとしないのだ。ご両親がどんなに大丈夫と言っても渡らない。そこでお母さんが見本を示すとやっと納得!!えらい!この子は将来大物になる。(笑)



もっと安心させるため?私もその横を何気なく通って見せた。それにしても子供というのはすごい情報量を持っているのだなーと感心した。

この4つの導線が各展示コーナーにきちんと仕組まれたのではないだろうか。







 例えば墳丘に再現されていた内堤部分の祭祀空間の展示は,もちろん現物の埴輪でもって示されているのだが、その埴輪祭祀空間の直ぐ上には大きく弧を描いたスクリーンが展開し、アニメ風の斎場が展開しているのである。おそらくこのスクリーンは中学生以上が楽しめる空間だろう。



上記埴輪展示コーナーの直ぐ上に長大なスクリーンがあり、動画?が流されていた。

 視線を埴輪に移すと、全体のキャラクターである髭おじさんがなにやら話しかけてくれる。研究者向けには埴輪列の背後にも通路が設けられ、四方八方から物を見ることができるのだ。エリア内に頭を出すと注意のメッセージが流れるのが少々うっとおしいが、ま、露出展示だからやむを得まい。

 じっくり解説を聞きたければNPO法人に登録し、研修に研修を重ねたセミプロの解説員が飛んできて説明してくれる。これがまた、実にわかりやすく、正確だ。とかく「解説員」は自分の知識や説をひけらかすのが多く、少々耳障りなものだが、ここの解説員は極めて正確で、わかりやすく話してくれる。



阿武山の藤原鎌足墓の解説をしてくれた解説員は実にてきぱきとし、正確に話してくださった。解説の方はとかく自己陶酔しがちなのだが、ここの方は流石訓練を受けておられる!!

 是非一度行ってみて下さい。そのすばらしさに感動するはずです。

埴輪列の前に何となく掲示されている埴輪列復元の全体像


一番奥の斎の宮?

斎場の復元




宮外の行列



個人的に少し気になったのは、3基あるという石棺の復元。その根拠はこの3種類の石材なのだが、少なくとも展示されている物は石棺材料にしては薄いな、という感じ。
例えば物集女車塚の石棺に載せられていた棚状の施設などの可能性はないのだろうか?

ま、これから森田さん達が正報告書を作られるそうなので、その成果に期待しよう。

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今城塚古墳・今城塚古代歴史観探訪-1の条

2012-09-27 01:45:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 9月23日(日)学生のたっての願いだった今城塚古墳とそれに併設されている古代歴史館を見学した。

 予め、館長さんである森田さんにお電話しておいて伺うことにした。何でも土日は出勤日だそうで、この日も日常勤務として出勤しているからどうぞ、ということだった。

 今城塚古墳そのものはこれまでにも何回も来ているのだが、整備されてからは初めてである。何でも昨年の4月に完成したそうである。


各所にこの全体図が配置されていて今どこにいるのかが一目でわかるようになっている。


前方部と水をたたえた内堀





各所に調査の内容をわかりやすく説明する解説板が置かれている


 とにかく大王墓が整備さえる初めての例であるからどこを見ても壮麗である。また高槻市を除いてこんなことはできないだろう。それは財力の問題ではなく、「森田克行」という人間がいたからこそできた整備だと思う。

 遺跡整備の主旨が明確なのである。市民に親しまれる憩いの場!これが第一だという。ある朝早く起きて公園に来て数えたら、数十人の人が歩いておられたという。何せ古墳公園は24時間開放されている。サッカーをしようが、歌を歌おうが程度をわきまえてやってもらう分にはご自由にと言うことだ。

 素晴らしい!! 

 とかく役人というのは「管理」「管理」と自分の責任になることを避けるために、様々な理由を付けて規則を作り、市民が自由に使うことを妨害するものである。大体市民を信用していないから、直ぐに悪いことばかり予想するのである。それに輪をかけてダメなのが日本のマスコミ!!ちょっとした事故や問題を針小棒大に、感情的に伝えて何でも行政のせいにする。


もがりの様子を再現した?古墳の祭りの場を示す埴輪列





 その批判の根拠は「市民の声」だという。ファックスや電話、メールがいくらあったかで「市民の声」を判断し、騒ぎ立てる。だから役人は縮み上がり、できるだけ自らに害の及ぶことは避けようとする。

 そんなことはお構いなし!!基本は市民が喜ぶ文化財、文化施設としようとする発想である。何十万人もいれば、時には訳のわからないことをする「市民」も出てくる。そんなのに一々構っているから行政が縮み上がるのである。

 実はこの古墳には二つの堤が設けられていた。その内側の一変にはお祭りの様子を再現した埴輪が並べられていたことが判っている。これを現地に原寸大で復元したのである。森田さんの言によれば、子供が馬形埴輪に乗っても壊れないように作ってあるし、どうぞ乗って遊んで下さいという。壊れたらまた直せばいい!そこで遊んだことが子供のの心に残ればきっとその子供は大きくなってこの古墳のことを思い出し、だいじにしてくれるだろう。そこが大事なんだ!と力説する。

 全く異議なし!!だ。



一度は行かないと損である!!


 そんな素敵な古墳公園!是非一度お訪ね下さい。JR富田駅からバス(210円)で今城塚古墳公園前下車.約10分。

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河西回廊踏査-8 明代の長城と遭遇の条

2012-09-25 18:12:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第6日 8月18日(土) 明代長城・大仏寺

 第6日目は武威から張棭への移動途中道路横を通っている明代の長城を見学し、張棭への途中山丹の大仏寺を参観し、張棭市内の諸寺を訪れることとなった。


平原に突然現れた長城


国道を横断するところで車を止めてじっくり観察




延々と続いている。

 市内では西夏国寺の横臥の状態の大仏、万寿寺木塔、明代の瓜州城の城墻を見学した。 万寿寺木塔には最上階まで上がることができそこから市内を一望した。


山丹の大仏寺



その横から最上階に通ずる位置まで上がることができ、その位置から周辺を見渡すことができる。


かつての寺の偉容を彷彿とさせてくれる眺めだ。それにしても40年前の破壊が悲しい。

 山丹に残る長城は高さ5m近く残り、車を止めて見学した部分では長さ100m以上にわたって残存していた。明代の長城は大半が平地を走っており、漢代のものとは明らかに立地や機能が異なっていたと判る。

 山丹の大仏寺は文化大革命時に完全に破壊されたものをその後地元の有志の手によって見事に再現されたものである。もし文化大革命がなかったら・・・、と思うと残念でならない。これまでも全国各所で文化革命時の文化財の破壊の跡を見て心を痛めたものであるが、ここ、河西回廊でも同様の事態が起こっていたことを思い知らされた。「宗教はアヘンだ」というそのお膝元で、まるでアヘンのように無批判に伝統の破壊に走った紅衛兵達。時が来れば総理大臣を狙おうかという難波の首長が「文楽は古くさい」と言って伝統を否定し、補助金を打ち切って文化を破壊しようとする姿と重なって仕方がない。

もちろん大仏も破壊され、これは再建されたものだが、なかなか言いシチュエーションである。

 「智恵」のない生き物に政治を任せるとろくなことにならないことは横山ノックの無残な姿で懲りているはずの大阪府民なのだが、今度はスチュワーデスのコスプレお宅に国を任せようとでも言うのだろうか。悲しい姿を大仏寺を見ながら思いやった。


鎮遠楼


西夏国寺へ


西夏国寺大仏殿の建物


その門に施された特異な雨壺


横臥した大仏


その内陣の様子




建物の部材もとても興味深かった。




避雷針の工事をしていたので少し立会調査!?(笑)





万寿寺木塔

この辺りまで階段をあえぎあえぎ登ったのです。

最上階からの張棭市内


瓜州城の城壁址。瓜州城の北東の角付近


北面は大変よく残っている。ひょっとしたら現在の道路はかつての堀址かもしれない。



市内の中心部に鼓楼が残されていた。西安とよく似ているが、鐘楼はない。



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64歳になりましたの条

2012-09-20 14:45:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日は私の64回目の誕生日です。この頃はFacebook等があるので、思いがけないところからお誕生日お祝いメールをいただいた。ありがとうございました。

 いつもなら別に誕生日だからと言ってことさらに記事を書くこともないのですが、今年は少し気分が違っています。

 以前お知らせしたように5月30日に生年月日が全て同じ久保哲正さんが亡くなったからです。お元気なら、二人で『お兄さん!』と言いながら祝えるからです。

 同じ月の記事にも認めたように、今年はろくな年ではないのです。20歳違いですが、親友の安藤栄里子さんが4月12日に亡くなるし、5月30日が久保さん、そして、山田さんの危機一髪。

 実は、私の尊敬する先輩・広瀬和雄さんの奥様も今年のお正月にお亡くなりになったのです。奥様も私より二つお若いのです。京都の家同士が近くで、車で15分ほどのところなのです。だからお元気な頃は何度かお家へお邪魔したことがあり、その気さくなお人柄に心を慰めていただいたのです。

 これだけ立て続けに私より若いかおない歳の方が亡くなると自分自身のこの先も見えてこなくなるのです。

 以前にも書いたことがあるのですが、私の親兄弟で残っているのは下の妹だけです。叔父、叔母も父方、母方問わず全部亡くなってしまったのです。生きているのは一部の従兄弟だけとなりました。「次は誰の葬式の時かね?」等と不謹慎なことを言わざるを得ないほど、死は身近に迫ってきました。

 もっとも、今の世の中見ていると、余り長生きしない方がいいのかもしれません。領土、領土と騒ぎ立て、戦争をしたがる政治家共、原発をなくすなんてとんでもない!と、稼働し続けて原子爆弾を作りたがる政治家共、一体我が子や孫達に明るい未来などあるのでしょうか。世界中の国々が、人々が妙にイライラし、感情をぶつけ合い、一触即発の雰囲気が漂っています。みんなが戦争に向かってシフトを切りそうな雰囲気なのです。 

 こんな状況下で研究をすることにどんな意味があるのか?100年後に地球が、地球上の人間がいなくなるとしたら、歴史学をやる意味がどこにあるのだろうか?等と考えてしまう今日この頃なのです。もちろんそうならないよう願って勉強し続けようとは思うのですが・・・・。

 さて、64歳になって何か目標を!ということなのですが、ここのところ原稿を書くスピードが極端に遅くなって、なかなか予定通りに出稿できない日々が続いているのです。特に集中しなければならない時期なのに、この二日ほとんど進んでいないのです。困ったものです。ここ2週間ほどずっと血圧が高くて(いつもは理想的な血圧(120-60ね)なのです。それが190-90なんて日があり、びっくりしてしまいました。ひょっとしたらこのストレスが原因ではないか?という人もいるのですが、いずれにしろ、71歳までは壬申の乱ウオークをやらねばならないので、後七年は頑張ります。

 もう少し宜しくね。


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山田邦和博士無事復帰祝福の条

2012-09-19 20:19:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今年に入って初めてのめでたいお知らせである。

 山田邦和博士が無事同志社女子大学での勤務に復帰あそばされたのである。

 http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/

 私はまだ焦らずともゆっくりでいいんじゃないですか?!と申し上げたのだが、律儀な博士はどうしても復帰するんだと言って聞かなかったのである。

 もっとも私もかつて突然血液の病で入院させられた時に、一刻も早い退院を主治医におねだりし続け、渋々認めてもらうと、直ぐに授業に復帰したものである。職業病と言っても言い、悲しい性である。

 今から思うと、あの時もう少しゆっくりしてもよかったのでは・・・、と時々後悔することがある。

 博士には、一級の障害が認定されるという尋常ではない病なのだから、やはり余り無理はしてほしくないのだが・・・。

 少なくともこれを機会に、1 外食は止めること! 2 ラーメンは絶対に食べないこと、3 お酒も飲まないこと!・・・「ガラシャstop!」を命ずることにしよう(高橋さんの真似をしました)。(笑)

 とにかく少しホッとしました。



外国の仏様は特に御利益があるみたい!!



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河西回廊踏査-7 武威・天梯山石窟・大雲寺鐘楼の条

2012-09-18 19:19:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第5日 8月17日(木) 天梯山石窟・武威市内見学

当初は16日の午後に天梯山を参観する予定だったのだが、先に紹介したとおり、柄霊寺が想像以上に遠く、交通の便も悪いので1日費やすことになり、その分17日は朝早く起きて出発し、天梯山を大急ぎで見た後、市内に戻ることとなった。1日とても慌ただしい日となった。



ダムの建設によって水没の危機が訪れ、防波堤を造って保護したもののその後これを超えて水が入り大仏の1/4は壊れてしまったらしい。だから現在の姿はその後の補修によるもので、かなり様相が異なっている。この辺りをもう少し丁寧に示してくれればいいのだが・・・。


天梯山石窟大仏


水没して大きく崩れ、その後修復された下半身。


以前の写真に比べると顔もかなり変わっているように見えるのだが・・・。






大急ぎで引き返して雷台へ。
その前にお昼ご飯を!何でも有名なシュウマイやさんらしいが、売り切れ!仕方なく早いというラーメンを頼むが、これがめちゃくちゃ遅い!!


急いで雷台へ





中国はこうした模型を作るのは大得意である。.


残念ながら写真はダメなので、入り口だけ。



西夏をテーマにした博物館に入るが、何とも中途半端な展示であった。



羅汁寺でもお祈り


修理中の塔

 


 武威市内に残る名刹大雲寺の鐘楼



アインシュタインの定理を確認する??







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閑話休題  第25回壬申の乱ウオーク勢多唐橋の条

2012-09-17 10:28:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 l5日は第25回の壬申の乱ウオークだった。

 朝8時に四日市市駅近くに集合してバス二台で瀬田に向かった。

 ところが朝宿舎を出た途端大雨が降って来た。当初は江戸橋まで歩く予定だったのだが、大きな荷物もあり、そのカバーも持っていないので、カバンがずぶ濡れになる。仕方ないので、バスで津駅まで行くことにした。

 何とかぎりぎり間に合って、集合場所へ。参加予定の学生達も無事集合してくれた。相変わらずの盛況で、90人の定員がぎっしり埋まった。

「おはようございます」の明るい声があちこちから聞こえてくる。皆さんには雨など屁とも思わないらしい。この日の四日市は大雨洪水警報発令中だったのにだ。

 ところが、バスが走り始めて5分も経たないうちに空が明るくなってきた。

 何せ、前回の大津京探索の時には何十年ぶりかという大雪!!そして今回は中心気圧900ヘクトパスカルというとんでもない規模の台風が来るというのである。だから晴れてきた時は皆さんホッと一息つかれたのであった。

 今日の見学コースは

 大津市歴史博物館→粟津頓宮跡→膳所城跡→近江国府跡→建部神社→勢多唐橋跡

壬申の乱はこの年六七二年七月二二日、最終局面を迎えようとしていた。七月初旬には近江朝廷側が戦況を有利に展開していたのだが、追い詰められた大海人側の大伴吹負の機転に満ちた作戦が功を奏し、徐々に大海人側に有利になっていった。琵琶湖東岸を南下する大海人側は七月に入ると攻勢を加える。


膳所高等学校の玄関に発掘調査の成果を示して残る粟津頓宮跡。こうして事前にお願いしておけば、バスでその跡まで入ることができる。


頓宮の建物跡に立つ参加者。


この遺跡は正式には膳所城下町遺跡で、これを粟津頓宮とするについては異論もある。しかし、研究者の論争の細かなことを書いているとわかりにくくなるので、すっきりと「粟津頓宮跡」と明示して解説している。久留倍遺跡もこうあってほしいものだ。


徳川家康が最初に認めた城だと言われる。水城建設の第一人者藤堂高虎の設計になるらしい。明治に破脚され、今は近くの神社などにかつての門などが移築されているだけで、ほとんどその姿を偲ぶものはない。


Y氏の名解説に来いる参加者


かつて湖に突き出していたことを示す湖岸の状況


近江一宮の建部神社へ。


重文の灯籠


 『日本書紀』の伝える戦況は以下の通りである。

○ 七月丙申《七日》。(村国)男依等與近江軍戰息長横河破之。斬其將境部連藥。
○ 七月戊戌《九日》。男依等討近江將秦友足於鳥篭山斬之。
  是日東道將軍紀臣阿閇麻呂等。聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗。則分軍以遣置始連菟。率千餘騎而急馳倭京。
○ 七月壬寅《十三日》。男依等戰于安河濱大破。則獲社戸臣大口。土師連千嶋。
○ 七月丙午《十七日》。討栗太軍追之。

こうして勢多唐橋攻防戦が始まるのである。
○ 七月辛亥《廿二日》。男依等到瀬田。 

今回の案内には強力な助っ人が参加下さった。O市教委のYさんである。当日は貴重なお休みの日にもかかわらず、博物館の案内から各コースの案内、バスで移動中の説明まで引き受けて下さって、私がいつも二台のバスをはしごするのを助けtくださった。

ごめんなさい、後ろ姿しか写真がなくて・・・。


現在使われている近世の勢多唐橋


特に私の苦手な近世の城について、訪ねた膳所城の遺構について現地を丁寧にご案内下さり、往時の姿を彷彿とさせて下さった。感謝!!である。

 このようにして第25回の壬申の乱ウオークは無事終了することができた。

 この企画は今から7年前に、地元の熱心な方々に声をかけて始まったもので、目標!50回!!!として3ヶ月に一回開催することで始めた。直後に「久留倍遺跡を考える会」ができ、地元の皆さんが世話係をかって下さって、毎回必ず下見をして下さり、訪問する市町村に出向いて頂き、関係担当者と綿密な打ち合わせをして案内を出して下さる。特に今回のようにバスで行く場合には、地元の観光バス会社と値段の交渉から行程の打ち合わせまでして下さり、実に緻密な計画の下に実行されているのである。全てもちろんボランテアで、皆さん地元の方ばかりなのである。もう七年もこの活動が続いているわけで、これほど長く続く市民運動は全国見渡しても珍しいのではないだろうか。

 そんな企画が、とうとう今回で25回、目標の半分に達し、当初は冗談交じりに言っていた目標が現実味を帯びてきた日でもあった。あと七年経つと私は71歳だが、考える会の役をやって下さっている方はいずれも私よりご高齢。、しんどい!等と言っていては罰が当たるのである。さあ、50回に向けて頑張るぞ!!

 次回は事情があって、12月8日(土)。午前中は四日市市富田周辺に展開する聖武天皇社などの神社仏閣を回りながら壬申の乱だけではなく、聖武天皇伊勢行幸の跡を訪ねて歩くことにしている。午後からは恒例の講演会で、「伊勢湾と交通路」をメインテーマに、古代(山中)、中世(山田雄司先生)、近世(塚本明先生)三人の三重大学の教官による講演会を予定している。山田雄司先生は中世熊野古道研究の第一人者であるし、塚本先生は近世熊野古道はもちろんのこと伊勢参宮街道研究の最も著名な先生である。これに、予算の関係で余り遠くから先生を呼べないので、私が前座を務めるという企画になった。場所はいつものあさけプラザ(近鉄富田駅下車西へ徒歩15分)である。是非是非参加いただきたい。


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河西回廊踏査-6 中国一番の博物館甘粛省博物館参観の条

2012-09-15 21:06:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第4日 8月16日(木)蘭州・甘粛省博物館から武威へ

8:20 出発.甘粛省考古研究所へ。2008年 に天水張家川木河郷桃園村馬家塬から出土した戦国期の大型貴族墓の遺体のうち3体を実見した。子安貝ではないかと思われるが、大量の貝が遺体に蒔かれていた。王所長によると、秦人統治下の犬戎(西戎)の貴族ではないかという。車両や装身具等の多数の随葬品も出土しており、スキタイ文化の影響を受けているとのこと。秦の発祥地域での発見であることから大きなニュースとなり、秦の国家形成 についての新たな知見を提供するものとされている(妹尾氏に依れば、詳細は、甘粛省文物考古研究所・張家川回族自治県博物館(周広済・方志軍・謝言・馬明遠執筆) 「2006年度甘粛張家川回族自治県馬家塬戦国墓地発掘簡報」『文物』2008年第9期、4-28頁などに紹介されているという。)。写真は無

11:00 甘粛省博物館参観
 今回の踏査ではたくさんの博物館を見学したのですが、その中で、展示品の質はもちろんのこと、展示方法、展示者の意図などあらゆる点で素晴らしかったのがこの甘粛省博物館でした。


車馬坑の復元模型


甲渠候官復元模型


扁水金関復元模型






陶器製楼閣

漢代の生活風景を描いた塼





 展示を企画した方の顔が浮かんでくるような、明確な意図が読み取れる博物館でした。
1 遺物の展示には必ず型式変化が追えるように並べられ、必ずといっていいほどそのものの型式変化を示した図が展示され、時にはその物の分布図が組み合わされ、時間軸、空間軸がきちんと追えるように展示しあったのです。

2 さらに遺跡の紹介では多くの空間を割いて巨大なジオラマが置かれ、全体像が写真や図だけではなく模型を通して示してあったのです。もちろんこのような展示は今や世界中の博物館の主流ですから、そう大して驚くことではないのですが、、その配置、見学者の見る方向、遺跡の写真との組み合わせ等々、実にうまく置かれていたのです。そしてそのジオラマの一つ一つの精度の高さ、これは十分に日本の博物館に持ち込んでも耐えられる優れものでした。

 是非一度この展示を企画し、実施した設計者や展示者にお会いしたものだと思いました。

3 以前にも書きましたが、私は博物館の展示を見る時にメリハリを付けてみます。
 まず、自分が調査したことのある「物」があるかないかチェックします。

 1硯、2はさみ、3鈎 4文字史料、5靴 6弩 7建築部材 8船 

今回は6の展示が目立ちました。1時間余りの参観だったため余りゆっくり見学することはできませんでしたが、印象に残る博物館でした。

13:20 昼食。蘭州ラーメン店(占国牛肉拉麺)。

14:00 蘭州から武威へ移動。標高2900mの烏鞘嶺を越えていく。
《妹尾氏解説》
 烏鞘嶺は、河西回廊の入り口であるとともにユーラシア大陸の地形・自然環境・軍事・交通の境域をなしている。烏鞘嶺(および河西回廊)の東方には黄土高原地区が太行山脈に至るまで広がり、反対の西方にはアフリカ大陸まで1万キロ以上にわたり延々と沙漠とオアシスの世界が続き、北方は 草原遊牧民の世界に連なり、南方はチベット高原の遊牧地域とインド亜大陸と結ばれているのである。烏鞘嶺の地で漢代と明代の長城が交わり、古来この場所を 幹線交通路が突き抜けるのは当然といえよう。

18:50 武威の陽光暇日大酒店に到着。
 《妹尾氏の武威の解説》
 武威は唐代の凉州であり、都城の長安に一番近いこ ともあって河西四郡の雄として繁栄し唐末には河西節度使が置かれた。ただし、河西回廊の中核都市は、元明期には凉州から甘粛省の地名の由来をなす張掖(甘州)と酒泉(粛州)に移り、最終的に蘭州が甘粛省の省都になって現在にいたる。この変遷の理由は、ユーラシア大陸東部の幹線都市網が、長安を中核とする都市網から西夏・興慶府を中核とする都市網へと移り、さらに、大都(北京)を中核とする都市網へと転換するからだろう。大都を中核とする元の都市網は、中国大陸西北部では西夏の都市網をそのまま活用したと考えられ、おそらく、西夏の時に張掖(甘州)が河西回廊の拠点都市として台頭すると思われる。

19:15 鍋料理の夕食。


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河西回廊踏査-5 黄河を遡上し柄霊寺を堪能するの条

2012-09-13 19:26:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 第3日 8月15日(水) 蘭州・柄霊寺見学

8:15 前日の甘粛省考古研究所の王所長のアドバイスで、朝早く出発した。

10:30 劉家峡港(1964年に着工された黄河有数のダム-劉家峡ダムの波止場)から船に乗ることになる。その前に今夏の渇水で久しぶりに放水を始めた現場を見学。轟音を響かせて放水される様は豪快そのものだった。

 劉家峡ダムの放水


 劉家峡ダムにはこれだけの落差がある。水しぶきでカメラも濡れてしまう。

10:50 劉家峡ダムの波止場から小型のボートで約一時間半黄河を遡上。途中、黄河北岸の小積石山が林のようにつらなる奇観を車で見て回る。まだ整備されたばかりなのか、人はまばらだった。

 こんなかわいらしいボートで一時間半の旅である。時々ボートが飛び上がり、水面にたたきつけられる度にヒヤヒヤしながら乗っていた。黄河を船で航行するなんて夢にも思わなかった。9人の船賃がいろいろトラブルもあって最終的には1200元(15000円一人1600円余り)。ま、リーズナブルでしょう。


一般的には大型の船でこのコースを遊覧する。


黄河を遡上


なかなかの風景だった。


途中の小積石山で一旦下りて奇岩の風景を無理矢理見させられる。


向日は観音様だというが??


何万年もかけて黄河が刻みだした風景である。化石の宝庫でもあるらしい。


再び黄河へ

13:00 炳霊寺へ到着。土産物売りのおばちゃん軍団に攻め続けられる。そのおばちゃんのやる店で簡単な昼食。



柄霊寺到着


おばちゃんパワーの店で高い麺を食べる。一人10元というからぼったくりである。

14:00 炳霊寺参観。
《以下、妹尾達彦さんの解説》
 炳霊寺は、臨夏回族自治州永靖県の南方約40キロの玉台村の黄河の渡し場にある。かつて炳霊寺に至るには、蘭州からバ スや馬を乗り継ぎ3日がかりだったというが(山口修・五味充子・鈴木敬造編『中国の歴史散歩』山川出版社、1995年)、われわれは、蘭州から車と快速艇 を乗り継ぎ約3時間で到着できた。このように炳霊寺は、近代になって省都の蘭州から離れた交通不便な場所となったが、前近代にチベット高原に強力な政権の 存在した時代は、炳霊寺石窟は内中国と外中国の都市を連結する交通の要衝に位置したことを忘れてはならない。当時の炳霊寺は、「山結」(秦嶺を始めとする 複数の山脈が合流)、「川結」(黄河とその支流が合流)、「路結」(複数の路が交差)の「三結」と称され、自然環境の境域であるがゆえに交通の要地となる 場所だった(李并成・馬燕雲「炳霊寺石窟与絲綢之路東段五条幹道」『敦煌研究』2010年第2期、75-80頁参照)。唐代では長安とラサを結ぶ幹線路 (いわゆる唐蕃古道)の上にあり、唐王朝が吐蕃に派遣した外交使節がこの炳霊寺の前を通過している。

 「山結」「川結」「路結」の「三結」という表現には感心する。近年勉強している日本の古代官道に置かれた駅家がまさにこの三結に当たろうか。納得!!

 炳霊寺を代表する169窟・172 窟・126窟・128窟・132窟の特別参観には高額な見学料がいるが、特別に安くしていただいて見学。ただし写真は禁止なので、詳細はいずれ。
 今回の踏査では妹尾氏の立案で、都市と墓葬地と石窟寺院が密接に関連する一つの文化集合体であるという発想の下、この3つの関連に焦点を合わせ、各都市と対となるかたちで立地する著名な石窟寺院を見学した。
 麦積山→炳霊寺→天梯山→馬蹄山→文殊山→安西楡林→敦煌莫高窟


柄霊寺入り口付近と黄河








オープンな石窟はそんなにうるさく写真が規制されないの・・・。


このようにペンキで大胆に石窟に番号が振られている。日本では考えられない公開方法。


石窟側から見た入り口付近


麦積山石窟と同じように壁面に梁が打ち込まれて見学通路が作られている。ここはまだ木製のまま。


急な階段をゆっくり上る




こんなに高いところにもある。


唐代の木芯塑像


今回は修理中のために見学できなかった大仏


下から望遠でやっとこんな感じ


時間が来たので大急ぎで出口へ


出口付近に仏殿が・・・。もちろん山田博士のご無事を祈って。(やっとここでお線香を上げることができた。それにしても今夏になって急におつむが薄くなりましたな-!もう限界を超してますね.(笑))


再び黄河を下って蘭州へ。
17:30 炳霊寺石窟の入り口で記念撮影した後ボートで劉家峡ダムの波止場にもどる(18:20)。

18:20 劉家峡ダムからホテルへバスで移動。

20:30 ホテル着

20:30 ホテル近くで夕食。敦煌研究院研究院の研究員で『敦煌研究』の主編者である趙声良氏に来て頂き歓談。

今日も厳しい移動ではあったが、黄河をモーターボートで移動するという滅多にない体験をして素晴らしい柄霊寺の石窟を見ることができた。感動!!もう来れないかな?


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河西回廊踏査-4 天水市内を見るの条

2012-09-11 11:13:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

第2日 8月14(火) 天水から蘭州へ

 6:00 起床
 7:30 朝食(華天電子賓館の朝食はヨーロッパ風バイキングで充実)
 8:00 出発(天水市内の名所を見学して蘭州へ向かう)
 8:30 南郭寺見学。759年に杜甫が立ち寄った折に残した詩
    山頭南郭寺 水号北流泉 老樹空庭得 清渠一邑伝 秋花危石底 晚景卧鐘辺 俯仰悲身世 溪風為颯然
で著名な寺院である。境内の各所に杜甫のこの詩の書や碑文が置かれていた。また地域一というのを始め、たくさんの柏の老樹が大切に守られていた。.同様の光景は市内各所で見られ、この後訪れた玉泉観にも樹齢千年を超えるという巨大な柏が保護されていた。


杜甫が立ち寄ったという南郭寺の山門


南郭寺の偉容を偲ばせるかつての伽藍


かつて塔のあった場所


市内至る所に柏の樹が


境内各所に杜甫の詩が


 9:35 前漢の英雄李廣の墓(記念館)を見学。

李廣墓へ


マウンドまで造られていた


そして市内から集めてきた石造も


李廣に関する『史記』の一節が展示室には


度々活躍?する老人??60歳以上半額の入場料
同行者はこのお蔭で毎日ビールがたらふく飲めたというのに、誰からも感謝の言葉がなかった。特に私は数えで65歳ということで、常に半額になったのである!!

李廣は匈奴からは飛将軍と恐れられるほどの軍功を挙げながら、武帝からは必ずしも評価されず、不遇の中、匈奴との戦いに敗れた後自害したと伝えられる人物だ。その遺体の埋葬場所は不明だが、出身地が現天水市だということで、彼の軍功と人徳を偲んで設けられたのがこの施設だという。内部には墓を示すマウンドまで設けられていた。


 10:20 中国古代神話に登場する随一の帝王・伏義を祀った大規模な廟を訪れ、その一角にある天水市博物館を参観した。

単なる伝説の人物なのだが、まことしやかに巨大な廟のできるところが中国らしい。


講演では看護婦さんの大会??が盛大に行われていたが・・・。


たくさんの遺物が所狭しと並べられているオーソドックスな展示施設であった、伏義廟の広場ではイベントが行われ、たくさんの人が訪れていたが、博物館の訪問者はほんの数人であった。悲しい現実である。 日本はもちろんのこと、この後訪問するたくさんの博物館、資料館にも共通する課題であろうか。


同敷地内にある博物館は閑古鳥!馬、これは日本と同じ


でも、昔と違うのは、結構きれいになってきたこと。



こんなジオラマや通路を使った写真展示など、工夫が凝らされるようになっていた。


でも展示はオーソドックス!!

 12:00 13世紀末に建立されたと伝える道鏡寺院・玉泉観を見学。各所で修復中であった。天水市の北に位置する天靖山」の麓に建ち、市内の地形を見るのに絶好の場所であった。清代を中心とした「碑林」も置かれている。玉泉そのものは涸れてしまったのか、今は水道が代用している。




ここにも柏の大きな木が・・・。

玉泉観の最高所から天水市内を眺める。

 12:50 民俗博物園(南宅子)見学 
 13:30 昼食(牛肉ラーメン)
14:00 天水出発、蘭州へ向かう。
15:35 鴛鴦パーキングエリア?にてトイレ休憩。ガソリン補給を試みるもガソリンがなく、失敗。
16:45 トイレ休憩・給油。烽火台跡2カ所を確認。山に木がないので直ぐにそれと判るのだが、付近の古老の話では、毛沢東時代に山林の農地化が進み、樹木が伐採されたせいだという。若木を植樹して山林の復旧に努めているという。ある意味、中国での農村人口の減少、都市化を象徴する事態でもあろうか。経済成長優先なのか、地球温暖化阻止なのか、日本にも問われている共通する課題であろう。
 19:15 錦江陽光酒店(ホテル)到着
 19:50 甘粛省考古研究所所長王氏と崆峒山酒楼にて情報交換会
    その話しぶりや立ち居振る舞いがかつての陝西省考古研究所の憔所長とそっくりで驚く。
    所長から15日のコースについてアドバイスがあり、柄霊寺へは船で移動し、丸1日かけることとする。
 22:50 白酒による乾杯の嵐に皆さんお疲れ気味かと思いきや、二次会に出かける方々も・・・・。

 ① 中国の博物館事情


 今回の踏査では多くの博物館を見学した。その中で、天水市博物館はオーソドックスな展示施設であった。かつての中国の博物館と異なるのは、照明が明るく、埃もなく、管理がきちんとなされ、監視員も(暇そうではあるが)一応配置され、遺物の管理に当たっていた点であろうか。展示物にもキャプションが付され、名称、時期、出土地、調査時期等が判るようになっていた。さらに、オーソドックスではあるが、関連遺物の編年図や、分布図が掲示され、見る人の理解の補助となるよう工夫されていた。導線のルート上には関連遺跡や寺院の大型カラー写真が掲示され、見る者を飽きさせない工夫も十分凝らされていた。カラー写真そのものも鮮明になりつつあり、北京オリンピックを境になされた博物館のリニューアルは全国で成功しているように思えた。もっともリニューアル(または新築)されてまだ4年である。今後これらの施設がどの様に管理されていくのかも、日本の実情からして大変興味深いところである。

 今回の踏査では学芸員相当職の館員に会うことがなかった。展示解説の女性がそれなのか、或いはどこかの執務室に勤務しているのか、ヨーロッパの博物館では散見される学芸員の影が見えなかったことが気になったところである。そもそも展示計画はどの様に立案され、決定されるのか、展示業者と学芸員との関係は?等知りたいことは山ほどあったが、踏査の趣旨とは異なるので今後の課題として残った。 

 ② 天水博物館と上海博物館

 上海博物館が北京オリンピックを前に大改装されたことは聞いていたし、3度もその玄関口まで行ったことがったのだが、実は中に入ったことがなかったのである。そこで今回は他の皆さんが本を漁っている間にほんの少しだけ(一階のごく一部)見学することができた。

 よくわからなかったのだが、仏像の企画展示のようなことをやっていて、3世紀頃の初期仏教に関連するものから五胡十六国、南北朝、隋唐代の仏像群が置かれていた。私のお目当ては8世紀後半の唐後半期の仏像群だったのだが、ほとんど展示されていなかった。
 その理由は、桓武が招いた仏師によって作られたと覆われる宝菩提院廃寺の半跏像との比較だったのだが、中国にこの時代のものが残っていないのか、展示者の意向がそこになかったのか、残念ながら系譜を追えるものはなかった。

 上海博物館へは1983年に岸俊男先生を団長とする調査団と一緒に初めて中国に行った時訪れたことがあったのである。そのときもあまり時間がなかったが、5階くらいまであったろうか展示室を一応上から下まで見たのであった。ただしそのときの写真はデジカメではなく、スライドで、その大半は元の職場に置いてきたので手元にはない。その上、当時の展示ケースは薄暗く、なおかつ埃だらけで、とてもいい感じではなかった。とにかく所狭しと青銅製品が並んでいたように思う。

 だから今回は少し期待して行ったのだが、ケースはもちろんきれいになっていたものの、展示方法はほとんど変わらず、少々がっかりした。結局天水の博物館とどこが違うかというと、展示物の質が高いのと、ケースが現代風であるということだけだったのである。まだまだ中国の博物館は、せっかくのいい資料を生かし切れていない!というのが率直な感想であった。この後も数多くの博物館を訪ねたが、私の目に叶う博物館は残念ながら少なかった。その点で、感動したのは天水市民俗博物館と称して保存されていた豪商の邸宅跡であった。中国にしては珍しく、ほとんどそのまま残され、大きな補修の手も加えられないまま(中華民国時代まで使っていたので手を加える必要がないからだろう)公開されていた。残念だったのは各施設に配属されていた「職員」の態度で、全く施設には興味がないのか、いろいろ尋ねても素っ気もなかった。ここにも中国博物館の学芸員問題の根の深さが見受けられた。この施設だけで一度ブログを書きたいくらいに中身の濃い移設であった。


四合院がいくつも連なり合ったような構造に見えた。何せあまりに廣くて全体像がつかめなかったのである。若干の資料を持ち帰ったので、いずれじっくり検討してみたい。




展示されていた牛車

 ③ 烽火台跡


泰安駅の近くから見上げた烽火台跡

 鴛鴦PAでたまたま見つけた烽火台跡。山の木々が伐採されたお蔭?でその位置を実によく見ることができた。かつて東龍山の漢墓調査にいったときその山山の頂が平坦化されていて、それが烽火台の跡だと聞かされたことがある。陝西省は緑が豊かでこのように施設まで伺うことはできなかったが、当時案内下さった王さんの話では、頂上にはその遺跡をよく見ることができると言うことだった。今回も次の山の頂に同様のものが見え、おそらく尾根伝いに連絡網が形成されていたのだろうと皆で推定した。とても印象的な遺跡でもあった。


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河西回廊踏査-3 河西回廊の寺院と祈りの条

2012-09-10 01:27:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 平安京研究の第一人者山田邦和同志社女子大学教授が4月に倒れられ、生死の境をさまよわれたことは私のブログ(7月3日付け)でもお知らせし、山田さんのブログ『平安京閑話』(http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/)でも、奥様が適宜ご報告なさりご存じの方も多いことだろう。

 一時は本当に生死の境をさまよわれ、後から聞くとぞっとするような厳しい状況を、まさに「奇跡」としか言いようがないほんの少しの命の可能性を切り抜けて無事帰られたことは私たち宮都研究を行っているものにとっては本当によかったと思う。その山田さんのその後の病状もブログで、最近はご本人が更新されて書かれているので、少しは話せるかな?と思い、メールしてみたところ、直ぐに返事があり、元気だが退屈なので遊びに来いという。

 ならばということで、9月5日にシルクロード土産話もあるのでご自宅へ伺ってきました。結論的にはとても死にかけたとは思えないくらい元気でした。ほとんど以前と変わらないくらいです。

 でもその後の「リハビリ?」での手術を聞くとまたまたゾッ!!

 心臓の大動脈との間の弁を人工(金属)に取り替えたらしいのですが、その手術でまたまた死にかけたとか。二度も奇跡を起こすなんて、今や考古学のスーパーマン、キリスト以上!!!なのですが、とにかく大変だったみたいです。1時間ほど話をして帰りましたが、少し肩の荷が下りたという感じでした。

 とにかく今年は、4月14日に安藤栄里子さんが亡くなり、4月に山田さんが倒れ、5月30日に久保哲正さんが亡くなりと、この春は最悪でした。ですから、今回の調査では予め決めていたのです。あちこちのお寺で二人の冥福を祈ると共に、一刻も早い山田さんの完全回復を祈ろうと。

 

 ここ大雲寺でも山田邦和さんの回復を祈って、お線香を上げさせていただいた。

 麦積山石窟、南郭寺、柄霊寺石窟、山丹大仏寺、腸液大仏寺、馬蹄寺石窟、大雲寺・・・。あちこちでお線香を上げるもので、一緒に行った団員の方々は「山中がこんなに信心深かったかな?」と大いに疑問に思われたに違いありません。

 もちろん私は信心などありません。ただし、以前にもご報告したことがありますように、安藤さんが病気になってから、訪れる寺院、神社でことごとくお祈りし、お札をもらい、線香を上げてきたのです。その甲斐あって安藤さんは8年近くも生き延びたと私は勝手に思っています。

 だから、今回も山田さんのために、そして亡くなってしまったがあちらの世界で楽しく生きられることを願って、お線香を上げてきたのです。

 山田さんの奇跡の一部は私の祈りがあったとこれまた勝手に思い込んでいます。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・

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河西回廊踏査-2 感動の麦積山石窟地震履歴の条

2012-09-09 11:57:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 踏査中にアップしようと思っていたのですが、回線が遅く写真が送れないことが判ると途端に気力が失せて、毎日の強行日程と、連日の「宴会」に体力がついていけないのと合わせて、宣言だけして結局踏査中は一度も更新できませんでした.申し訳ありません。

 ま、いつものことですが、朝から晩まで歩き続け、ヘトヘトになってホテルに帰ると、つい、「ビール」ということに。一口で止めときゃいいのに、つい口が卑しくて、飲み出すと何杯でも行きだして・・・。部屋に帰るとパソコンに向かう気力がなく、お風呂に入り、選択をするとダウン!もっとも部屋に入る時間がたいてい22時過ぎ。朝は6時には起きないといけないので(ほとんど毎日8時出発)、洗濯などしているとたいてい寝るのは午前1時過ぎ。ま、昼間は移動が多いのでバスで寝られるので何とか体力は持っていたのですが・・・、等と一杯言い訳をして、少しだけ踏査の様子を報告しますね。

 第1日(8月13日月) 西安から天水・麦積山石窟へ 

6:10 モーニングコール。(12日に西安到着後、西安賓館に宿泊。)
6:45 チェックアウト及び荷物の搬入、朝食。
7:30 出発予定であったが少し遅れ気味も問題なく出発。ところが昨夜大問題が発生していた。一人の団員の荷物が西安の咸陽空港に届かなかったというのだ。中国踏査に欠かせないM氏は昨夜からてんてこ舞い。夕方には何とか問題が解決したものの、予定変更もあり得る大事件であった。そんな話題を載せながらバスは小雨が路面を濡らすあいにくの天気の中、猛スピードで天水を目指した。本日の見学地は天水市にある麦積山石窟。
10:30 宝鶏パーキングエリア?にて休憩
13:10 昼食休憩


麦積山石窟西崖磨崖大仏方向から見た全景

14:20 麦積山石窟のゲートをくぐる。西安から6時間30分余というなかなかの強行軍であった。入館料は70元(約1000円)とえらく高額であったが、ここで貢献したのがいつも「足手まとい??」と揶揄される還暦を過ぎた「老人」3人であった。なんと、半額(合計105元の貢献)になったのである。時間がないので構内自動車に乗って石窟の直ぐ近くまで移動。解説員の女性に従って石窟に登る。
 北魏時代の5世紀初頭に開かれた石窟といわれる。その後清代まで断続的ではあるが次々と石造、塑像、石胎塑像などが作られた。唐代の大地震により南面中央が崩落し、東崖と西崖に別れている。現存の石窟と摩崖仏は東西で194を数え、窟内には仏像や壁画、天井画が残っている。東崖では、第1号涅槃窟、第3号千仏廊、第4号散花楼上の七仏閣、第5号牛児堂洞、第13号摩崖大仏など、西崖では、第98号摩崖大仏、第133号万仏堂(ばんぶつどう)洞、第135号天堂洞など主なものを解説員の詳細な説明で見学して回った。
 その仏像群のすばらしさは後掲の写真により確認いただければと思うが、ここでは遺跡の保護と活用、地震と遺跡について少し考えを述べておこう。


東崖の磨崖大仏


大仏の脚

 麦積山石窟はよく麦わら帽子のような独立した山塊と言われる。確かに写真で見るように現状はこの形容にぴったりな形をしている。ただし、各種説明によると唐代(734年)に大規模な地震により中央部が一部崩落し、西崖と東崖に分断されたとのことである。特にこの時大きな被害を受けたのが、唐代の建物を再現し、仏像を配置した第4号窟だという。つまりこの部分はさらに南に張り出していたということであろう。それ故。石窟の形態はもう少し中央部が突出していたものと思われる。
18:05 麦積山石窟出発。ホテルへ向かう。
18:50 天水のホテル華天電子賓館到着。宿泊。直ぐにホテルのレストランにて食事。
21:30 14日の予定を確認して解散。
    
 ① 麦積山石窟734年地震と『続日本紀』天平6年地震履歴について 


734年の地震により第3窟千仏廊の崩壊



崩壊した前面と残された第4窟


天井部の壁画も一部だけ残った。


このような柱が浮き彫りされていた

 麦積山石窟を襲ったと同じ年、天平6年4月に日本全国に多大な被害を与えた地震が起きている。
清水みき「文献史料からみた古代の東海・東南海地震履歴」(山中 章編『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』
2012年)によれば同年日本では次の様な地震が発生し、大きな被害を全国規模で引きおこしている。偶然の一致な
のか、それとも地質学的に連動の可能性もあるのか、今のところはっきりはしないが、帰国して大急ぎで『旧唐書』『新唐書』の「五行志」記載の地震記録を検索してみると、734年(開元22年)二月に4000人もの人々が亡くなる大地震が起こっていたことが判った。


地震で崩落した第4窟の一部か?


木芯塑像の造り方が判る西磨崖大仏


狭い通路

果たしてこれはいつまで持つのだろうか

 麦積山石窟を襲った地震のわずか二ヶ月後、日本全土を揺るがす大地震が起こっていたのだ。河西回廊で起こる地震の地質学的なメカニズムについては全く知識を持ち合わせていないが、何でもヒマラヤの造山運動を始め、この地域はアジア大陸を大きう動かす地震のメッカらしい。その大きな力が東アジアの端の太平洋プレートに載る日本に影響が及んでも不思議ではない。日本だけでなく、アジア全体で(或いは世界規模で)地震履歴を研究しなければならないのかもしれない。少なくとも麦積山石窟を訪れたお蔭で、東アジア規模での地震履歴の研究が不可欠であることを強く感じた。

 なお、清水氏の論考に示された天平6年の記録は以下の通りである(文章構成を一部改変している.原文は山中 章編『伊勢湾岸地震履歴の総合的研究』(2012年3月)を参照されたい。

・ 天平6年(734)4月7日 畿内・七道諸国大地震。家屋倒壊し圧死者多し、山・川被害。〔続日本紀〕
なお、同時代史料ではないが〔熊野年代記〕古写によると「五月大地震 神ノ倉崩ス 嶺ヨリ火ノ玉 東海飛」と伝える
・ この地震に前後した関連史料は以下の通りである。
a) 天平6年4月12日 全国の神社の被災状況を調査
使を畿内・七道の諸国に遣して、地震を被りし神社を検へ看しむ。〔続日本紀〕
b) 天平6年4月16日 出雲国計会帳によると、地震状が太政官符が伯耆国から出雲国へ逓送されている。あるいは、a)の調査命令に関わる文書か。
十六日移太政官下符壹道 地震状〔大日本古文書1-588〕
c) 天平6年4月17日 聖武天皇の詔、山陵の損傷調べ。災害は為政者の不徳によるとして、官人の職務精励を命ず
詔して曰はく、「今月七日の地震は常に殊なり。恐るらくは、山陵を動さんことを。
諸王・真人を遣し、土師宿禰一人を副へて、諱所八処と、功有りし王の墓とを検へ看しむべし。(or前略)また、詔して曰
く、「地震ふる災は、恐るらくは政事に闕けたること有るに由らん。おおよそその庶寮、勉めて職を理め事を理めよ(後略)」とのたまう。〔続日本紀〕
d) 天平6年4月21日 聖武天皇の詔、災害が君主の不徳に由るのではないかとして京畿内で人民の疾苦を調査。
詔して曰く、「このころ、天地の災い、常に異なること有り。思うに、朕が憮育の化、汝百姓に闕失せる所有らんか。今ことさらに使者を発遣、その疾苦を問はしむ。朕が意を知るべし」とのたまう。〔続日本紀〕
e) 天平6年7月12日 聖武天皇詔、天災・地震多発の責あり、よって天下に大赦
  詔して曰く、「(前略)この頃、天しきりに異を見し、地しばしば震動る。まことに朕が訓導の明らかならぬに由りて、民多く罪に入れり。責めは予一に在り。兆庶に関かるに非ず。宥を存して仁寿に登せ、瑕穢を蕩して自ら新にすること許さしむべし。天下に大赦すべし。(中略)」とのたまう。〔続日本紀〕


 ② もう一つの課題が麦積山石窟の保護である。


壁にコンクリートの梁を打ち込んで造られている見学用階段


階段をしたから見ると・・。


 同行の妹尾達彦氏の証言によると、以前(10年ほど前?)訪れた時は危険な木製の階段を登ったという。今回は
頑丈そうに見えるコンクリート製の階段で各石窟を回ることができた。訪れた時も数百人の観光客でごった返し、
階段はまるでラッシュの駅のようであった。この強度も問題だが、これが遺跡にどれだけの負担をかけているのか、考慮されているのだろうか、大いに気になるところであった。
 それよりもさらに問題なのは、かつて石窟の一部を崩壊させた地震から約1300年、そろそろ次の地震の危険性が高まっているように思うのだが、どこまでそれが考慮されているのだろうか。後日訪れた莫高窟は崩落していた前面を補修した上で、遺跡の壁面に近似した素材を使ってコンクリートの階段や通路を建てている。麦積山石窟が石窟の壁面に穴を開けて階段や通路の支えとしているのとは大きな違いである。石窟の仏像の大半が木芯塑像である点も考慮すれば早急にその保護対策が取られなければならないのではなかろうか。

 文化遺産の保護と公開は国際的な大きな問題である。公開し、市民に開放しなければ巨額の経費を使って保存することの理解が得にくいといわれる。しかし、公開することによって遺跡の破壊が進むとすればこれこそ大問題である。高松塚のように公開もしないのにあのような惨状を呈した事実もある今日この頃である。そもそも調査することそのことから考えなければならないのだが、日本や中国のように開発に伴う場合は調査は不可欠だろう。いわゆる学術的調査と保護の問題は極めて難しい判断が伴う。

 私は基本的に調査の明確な目的、調査体制の明示、調査後の資料公開などあらゆる情報の開示を前提に国際的な共通認識の下に調査すべきと考えている。その上で、市民への公開と専門家への公開を区別すべきではなかろうか。今日のようにコンピューターを使用した3Dバーチャルリアリティーの表現が可能な時代であれば、一般への公開方法はできるだけ生の資料は避けてこうした最新のコンピューター技術を用いた公開を主軸にしたものとし、専門家には現物資料を積極的に全面公開すべきなのではないかと考えている。
 麦積山石窟は様々な課題を私たちに与えてくれた。

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