yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

連載・桓武考古-6   平安京をご破算に

2005-08-31 21:42:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 決して山田博士にけんかを売るつもりはないのだが、先の「平城京十条」をめぐる様々な議論(昨日からは外京の性格についての議論や北辺坊についての議論に展開しつつあるが)でも解る通り、一度平安京をご破算にする必要があると考えるのである。そうでないと私には桓武考古を書き続けることができないのである。

 コメントで繰り返される日本古代宮都研究最前線の第一人者同士の議論には、ものすごい緊張感が感じられ、論争はこうでなければ!と思うのだが、そこでもう一声、提案したいのである。

 山田博士の平城京外京や北辺坊の議論を見ていると、やはり平安京研究者だけあって、発想の根本が平安京に固定されているように見える。南北に長い長方形の都こそ日本古代宮都の基本形であるというのが博士のお考えのようである。そしてこれまでの宮都研究者の多くがこれを基本に発想してきた。しかし、先の平城京にしてもしかり、もちろん「藤原京」は誰もが認める通りである。南北に長い長方形から日本の古代宮都は条坊制を始めていないのである。歴史というのは基本的に古いものの影響を受けて新しいものができると考えるのが普通である。もちろんいつも、いつもスムーズに流れていくのではなく、時には急激に、時には徐々に変化していく。逆転現象もあってもいいのだが、しかしそう解釈する時はそれ相応の理屈がなければならない。

 このような基本的思考方法を採ると、どう見ても平安京は最後の都なのである。日本の古代王権は、平安京を改造することはあっても、新たな宮都を造ることはしなかった。どう見ても平安京は宮都の型式変化かからみれば再末期の型式なのである。たまたま最後の型式でなおかつ、その枠組みを長く王権が利用し続けたために様々な文字史料が残されたから、解ったような気になっているに過ぎないのである。一体考古学から平安京はどれだけ解っているというのだろうか??
 文字情報を無理に削除せよとはいわないが、もう少し冷静に、とりあえず一度、考古資料だけで平安京までの宮都を研究する必要があると思うのである。

 よく考えてみると「北辺坊」なる用語を長岡京以前に用いるのも問題なのである(もちろん解りやすくするためにこの用語を私自身も使っているが)。平城京の北辺坊を山田博士のように解釈する思考回路ももちろん否定するつもりはないが、一度平安京のことを忘れてこの北部の条坊を分析してみると、上記の指摘が真実味を帯びてくると思うのだが・・・。

 ①「藤原京」は(どの説を採っても)宮城が北京極に接しない構造で建設される(これを誰も「北辺坊」とは呼ばない)→②平城京の宮城が北京極に接して建設される→③ところがその後、平城京の右京にそれまでの北京極の北に瘤のように方格地割が形成される→④長岡京では当初その瘤は忘れられているようで、平城京の基本形に戻される→⑤しかし長岡京後半期の本格的な造営事業になると右京どころか京域全体が拡大(厳密には宮城のみを南へ拡大し南北に長い宮城を形成し、その上で京極の北に条坊を付加した特殊空間を造成するのである)される→⑥このような改造による理念と形式の混乱を避けるために平安京では最初から「北辺坊」として京域を二町分付加した京域を形成するのである。

 このような宮都の型式変化に目もくれず、後世の文献史料だけで平安京拡大説を出したのが瀧浪貞子氏なのである。考古学がこの説を認められないのはいうまでもない。

 平安京が前代までの宮都の型式変化の延長戦上に形成されてきたことは本連載を通じて追々丁寧にご紹介するつもりだが、この他にも最近話題にしたもので言えば、宮城の外に広がる宮外官衙町の形成がある。最近私がこれを「諸司厨町」と呼ばないのは、言うまでもなく平安京以前からその基本型式が成立し、平安京はその型式変化の最後の姿だからである。
 このブログでもしばしば登場する東院もまた、その成立・展開・解体を見ると、明らかに平城京で形成され、長岡京に継承され、変化し、平安京に受け継がれるものの、その理念は早くに忘れ去られているのである。一町の内部が細分化され、最終的に四行八門制となる姿もしかりである。例を挙げれば枚挙に遑がないのである。にもかかわらずどうして平安京を基準に発想するのですか?

 もちろん平安京はまさに今週の土曜日から始まる中世都市研究の素材とされるように、京都として再出発する。その境目がどこかはこれまた膨大な研究史が必要だが、いずれにしろ、古代宮都とは異なる理念で都市の建設が行われるのである。しかしそうだからと言って、前代の平安京の型式を全く無視した新しいものを造るわけではない。古典的名著、秋山國三・中村研『京都「町」の研究』は実にそうした宮都から京都への変遷を見事に表現している。

 私たち宮都研究に関与するものは、今少し視野を広げて、古代宮都から京都への変化を分析すべき時期にきていると思う。もちろん山田博士がその第一人者であることは言うまでもない。しかし博士自身が認めておられるように、博士の研究はどちらかというと後者に重点が置かれ、私は前者にウエイトを置いている。未だに(個人的友情とは別に)二人の間には深い溝が横たわっているように思える。

 私が万難を排して今回の中世都市研究会に参加する気になれないのは(もちろん別に必要な研究会があるから岡山に行くのだが)、どうして宮都-京都研究が分断されるのか、その点に理解が及ばないからである。考古学をやっている人々も、どうも古代と中世とでは深い溝があるのである。この溝を埋めるための研究会をこそやるべきではないだろうか。平気で罵りあえ、懇親会では和気あいあいと酒が飲める、そんな研究会ができることを夢想している。

 そのためにも考古学によるきちんとした宮都研究は不可欠である。でないと中世の膨大な文献史料に考古学は飲み込まれてしまう。

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斎宮「授業」報告-6  公開講座で掘る!!

2005-08-31 21:38:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 

(初めての発掘現場)

 二日間の公開講座が終わった。余りに参加者が少ないので拍子抜けだったが、来られた方々は熱心な方ばかりで、こちらの方が恐縮してしまった。斎宮の最高の現場で最高のスタッフに解説いただきながらの発掘体験は、相当よかったらしく、皆さん満足してお帰りいただいた。また是非機会を作ってほしいとの要望もあり、冬の我が研究室での発掘調査(久留倍遺跡)を紹介しておいた。発掘調査では現代の攪乱土壙から大量の土器が出土し、それなりに満足いただいたようだ。

 午前中は学生2人と基準点測量の再測を行った。学生には教えながらの調査なので、どうしてもミスが出て効率が悪い。今回のミスも余りにのんきな、無責任によるミスなので、つい大声が出てしまう。今年は特に最上級生の質に問題があり、気が抜けなくて精神的な負担も大きい。学生の育成というのは本当に難しいが、今年は特に問題児なのでなおさらだ。そんな思いをしている時三重県埋蔵文化財センターで休憩していると花園大学出身で現在嘱託をしている山田博士の教え子さんAさんに会い、須恵器研究の抜き刷りをもらった。次々と論文を書く彼の姿勢には当然山田博士の血が注ぎ込まれているのだろうが、我が教え子と比べてその差に愕然とさせられる。

 愚痴はこれくらいにして、調査の成果だが、黒色土に切り込んだ遺構の検出が難しいということで、結局第二層の淡褐色土層まで一気に下げて調査することになったようだ。但しここまで下げるといろんな時期のものが重複して検出されてしまい、どの遺構が先なのかがわかりにくく、少し惜しい気もするが、仕方ない。

 第二層を切り込んだ遺構は色の見分けが簡単で、早くも多くのピットや溝が確認されている。土器も完形に近い8世紀代の土師器皿などが顔を出しつつあり、大いに期待できそうである。しかしまだまだ大量の土砂があり、少し遅れ気味であろうか。明日からまた三重大学の学生が参加させてもらうので、土器の出土には細心の注意を払わなければならない。アーまた明日からしんどくなるなー。



(現場近くを流れる今の祓え川)

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斎宮「授業」報告-5  公開講座

2005-08-30 20:35:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 今日は絶対に雨が降るというんで仕方なく公開講座の発掘体験コーナーを明日予定の斎宮遺跡見学を前倒しにして振り替えた。ところがどうしたことか、ほんの数ミリちらちらと降っただけで道路すら濡れなかった。アーこんなことならやっておけばよかった!と後悔しても後の祭り。今日だけ参加の人もいて、大変申し訳なく思う。

 そもそも今回の公開講座、どうなっているのか連絡体制が全くわからない。突然今日になって人が増えて、右往左往していると、本人はちゃんと事前に申し込んでいて、領収書までもっている。「エッ」と絶句しても仕方がない。急遽余分があったのでそれを回して事なきを得たが受講者は気分のよいはずがない。

 大体今回の講座どのようにして知ったのかと受講者に聞くと、大学の広報とHPだけのようだ。これでは人が集まるはずがない。一方で講座を開け開けと言っておきながら、これでは開く方が疲れてしまう。そもそもどうしていつも有料なのか?これも大いに疑問だ。有料にして得たお金はどこに消えるのか?財務省の一般予算だとしたらこんな馬鹿げたことはないし、事務方に吸収されるのならこれまた馬鹿らしい。

 本当に大学の独立法人化で何が変わったか?

 一番変わったのは事務所が綺麗になったこと!そして教官の研究室がみすぼらしくなったこと!この二点に尽きる。本末転倒もいいところである。今の事務員が在職中はそれでいいのかも知れないが、退職後、残された職員に果たして未来はあるんだろうか。まともな教官のいない大学で一体どんな事務をするつもりなのだろうか?

 公開講座のいい加減さから益々感じる矛盾である。

 それはさておき、午前中調査地周辺を少し歩き回ってみた。現在の祓川と伊勢参宮街道(428号線)との交点には「はらいがわばし」という橋が架かっている。西から橋を渡ったところに道標があり外宮まで3里とある。しばらく平坦地が続いた後、急に道が坂になって数十メートル上る。丁度この上り坂が発掘調査地を形成している段丘崖である。西から見ると祓え川以東の最も高低差の目立つ地点である。

 さて、発掘調査の方はようやく現代攪乱の掘削にかかったが、これが実に多く、場所によっては攪乱の方が広い面積を取っているのである。調査地の基本層序は、①耕作土②黒色土③褐色土④黄褐色小礫混じり土、であった。攪乱の掘り上がった地点に潜って断面観察を行うと、第3層の褐色土を切り込んだピットが認められ、少なくとも第二層上面まで掘り下げれば遺構の出ることは分かった。精査中にも小ピット一基を見つけることができた。かなりの破壊は覚悟しなければならないが、黒色土の下まで下げて調査せざるを得ないだろう。

 アー、ここまで書いて疲れでばたん!昨日遅かったので今日はこんなところでおしまい。明日いよいよ発掘、乞うご期待!!??

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〈授業版-5〉 修論指導

2005-08-30 03:42:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 文化財速報-1「平城京の十条」は大変な議論になってしまった。とうとう井上さん、山田さん、小澤さんと3人の研究者勢揃いのコメントである。有り難いことであるが、私のブログごときにお手を煩わせ本当に申し訳なく思っている。
 そちらを書くのにてんやわんやで、本体がおろそかになってしまったが、井上さんが書かれているように、結局まだ調査中で正確な事実がきちんと出されていないようなので、一応議論は少し置いておいて、また正確な情報が手に入ればバトルを再開したく思います。

 沢山の方がこれを真剣に読んでらっしゃることが分かり、最近は少し緊張気味です。論文のように内容を吟味して推敲に推敲を重ねて書かないといけない!という思いと、きちんと書くと書き込むペースが落ち、日記的要素がなくなるし・・・、等と悩んでしまう。
 でもこれだけのシビアーな反応がある以上、これからは少しペースを落として、きちんとした内容のものと軽い日記を織り交ぜながら書き込みを続けることにします。

 さてそういうわけで今日は授業版です。エ?もう授業やってんの?と驚かれるかも知れませんが、9月修了の院生の修士論文審査があったのです。日本近世史の院生二人の修士論文です。
 A君は大の阪神ファンで、最近はニコニコしています(でもそろそろ中日の足音も聞こえてきて・・・・、アー人ごとのように書かなければならないところが辛い!!)。「駿州愛鷹山馬牧に関する一考察-牧士身分の存在形態-」という地元静岡に拘ったなかなかの力作です。指導教官の塚本明先生も太鼓判の、すぐにでも『地方史研究』に載せられる!という論文です。
 N君は某大学から我が大学院にやってきた元気者で、捕鯨に魅せられた男です。修論もやはり「紀州藩の捕鯨政策と地域社会」という、捕鯨に拘ったもので、これもなかなかの力作でした。
 もちろん私は近世史の細かなことは判断できませんが、駿州や紀州というまさに東海地方・地元を素材にした、読んでいてつい引き込まれてしまう楽しい論文でした。同じ元気でも空元気、空威張りのどこかの院生に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいような出来でした。拍手!!これも指導の先生の熱意でしょうか、私にも爪の垢が必要かも知れません。

 さて、実は以前にも少しお話ししましたが、私たちは長く『延喜式』の輪読会をしています。ついこないだ左右馬寮式の条を担当して発表したばかりなので、A君の論文は大変勉強になりました(聞くところによるとお二人ともお馬さんが大好きだとか・・・、まだ職にも就かないのに、余りJRAに寄付してはいけませんよ!!)。駿州愛鷹馬牧というのは現在の沼津市にある標高1500m程の山に展開した野馬を、寛政年間(18世紀末)に幕府が直轄の牧として取り込んだ重要な牧の一つだそうです。牧になるに当たっては地元愛鷹神社神主との間で激しい争いがあったようですが、強引に4つ目の直営牧(他に小金・佐倉・峯岡-いずれも千葉県-)に取り込み、牧経営の実質的責任者として有力名主層を牧士に任命して管理させたそうです。帯刀、乗馬を許された特殊な身分としての牧士に彼は注目したのです。

 その身分の評価はともかくとして、私が驚き大変興味を抱いたのは、①愛鷹山馬牧が野馬(野生の馬・野生化した馬)を管理していること、②18世紀末という時期になって幕府が新しい牧の経営に乗り出したこと、③駿河には古代に岡野牧、蘇弥奈牧が所在したことです。

 ①については古代の牧が繁殖、貢納、調教、を管理し、一定のノルマを与えて必要量を確保していたのに対して、意外にも江戸幕府の牧が野馬を自然の繁殖に任せて原野で管理していたことの違いです。古代では御牧で生産された馬は必要に応じて都(周辺)に送られ、近都牧や(主・左右)馬寮の厩舎で飼育、調教されたのですが、近世の馬管理が意外と自然任せであったということです。もちろん、A君も幕府の馬管理、調教を論じたのではないので、生産後の馬がどのように飼育、調教され、実戦に供されたのかは分からないと言っていましたが、その一端が垣間見られた気がしました。
 ②については、ヒョッとして、この頃から再び軍事的緊張感が幕府内部にあったのではないかという疑問です。古代の馬が軍事的に極めて重要な役割をしたために、馬制は内乱や政権の交代時に度々変更されることが知られています。桓武朝に左右馬寮が廃止されて主馬寮になるのもその実例だと考えています。半世紀後のぺりーの来航、尊皇攘夷運動は既に幕僚に見えていたのではないのか、だからこそ新たな牧の経営に強硬に乗り出した・・、などとまったくの門外漢が想像したわけです。
 ③そして最後に最も興味深かったのが、岡野牧や蘇弥奈牧との関係です。まだ何も調べていないのですが、その後これらの牧は岡宮や比売と名を変えて今日に至るとか、すると、愛鷹山野馬牧はその伝統の延長線上にある可能性があるのではないかという疑問です。実は古代の牧も平安時代に入り次第に変形し、その経営も変化するようです。牧は牧監が管理するようになり、その下に牧長、牧帳、牧子をおいて実務に当たらせます。私にはこの牧監と牧士が重なって見えるのですが妄想でしょうか。

 N君は「紀州藩が経済的メリットも少ないのに何故捕鯨を藩営化したのか」について問題提議をしました。結論に至る論証が資料に欠け難しいところが今後の課題のようですが、捕鯨が軍事と結合し、これまた幕末近くになって、紀州藩が捕鯨に関心を寄せるところが実に興味深い研究でした。 
 大変刺激的な論文を読ませていただき、たまにはこうした時代の違う論文を読んで頭をリフレッシュする必要性を改めて感じた次第です。二人の院生の皆さん有り難うございました。この研究成果が生かせる職が一刻も早く見つかることを祈らずにはいられません。



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《準日記版-12》 関西同窓会の宴

2005-08-29 00:12:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 昨夜は山田博士張りのイタリア料理フルコース?であった。関西に住む大学の同級生夫妻が4組揃っての会食であった。共にヒロシマの地で過ごしたのはもう37年も前のことになる。出会ってからの方が長くなってしまった。学生時代から夫婦共に知っている者や関西に移り住んで結婚してから知り合った者などいろいろだが、それももう30年近くになるので、夫婦共に親友ということになろうか。我が嫁の快気内祝いを兼ねた宴会であった。イタリア料理屋のことをイタメシやというなんて知ってました??私はそれはてっきり「めしや」のことだと思っていたのです。行ってびっくり見てびっくり、中之島公会堂と川を挟んで直ぐ向、川面を眺めながらのイタリア料理はなかなかのもので、ワインを4本も開けてしまった。

 若かったあの頃とはすっかり変わってしまって、最近は会えば病気の話ばかりである。昨日の会食でも結局はどんな死に方がいいのかが話題になった。
 私は以前から癌派であるが、事故派、老衰派等、結構様々な意見であった。
私がなぜ癌派かといえば、まだ何となく人生に未練があるからだろうと思う。もうやり残したことはないとなれば、自殺でも事故死でも何でもいいのだろうが、できるかどうか全くわからないのに、あれもこれも・・・、とまだ未練たらしく思っている。 そうなるとせめて数ヶ月のゆとりをもらえれば、本の1冊くらいできるかも知れないからである。

最近は癌治療も進み、余り痛くないらしい。必ず肺ガンにしてやるというのならたばこでも吸おうかしらとまで思う。いずれにしろ、死は間近に迫りつつある。どんなに長生きしてもきちんとした意識で行動できるのは後20年もないだろう。大学を辞める時は本をどうするのか、残された学生のケアーは、その後の人生設計は等々考えているところである。唯一決まっていることは、いつまでもいろんな委員会に首をつっこんで、「委員長」などとして偉そうな態度だけは取らないでおこうということだ。そうした意味で僕は田中琢さんの生き様は素晴らしいと思っている(もちろん私は田中さんほどの大物ではないから、そんなに大きな変化はないのだが・・・)。

 さて今日は昼から卒業生二人が我が家に来てくれた。一人は一緒に中国でも発掘調査し、一年間中国語の勉強をし、中国で働いていたSさん、もう一人は現在京都大学大学院に所属するAさんである。二人の希望で、ナナナント一銭焼きと焼きうどんという何とも粗末な昼飯で歓待??した。これからの中国語関係での就職のこと、大学院卒業後の進路のこと、今の学生生活のこと等々とりとめもない話をする内に夕方になり、何と山田博士説の桓武天皇陵を見学に行き、結局粗末な夕食も一緒にして夜8時に別れた。わが子も参加して語る彼らの将来は本当に困難きわまりない世界である。

 無責任に改革、改革、郵政、郵政と連呼する政治家、日本の借金は1000兆円だという。一体誰がこの借金を返すというのだろうか。人から集めた金だから実に身勝手に使っている。いらない道路しかり、どんな文化的な刺激になるのかさっぱり理解できない万博しかり、公務員削減といい、己以外の公務員は平気で非公務員にし、給料を下げて、大いばりしながら、己の道だけはしっかりと確保するキャリア達、まるで俳優気取りでテレビに出ることが当選の条件であるかのごとき錯覚に陥っている人々。最近はほとんど話題にならないが、数百億円をかけて何の役にも立たない自衛隊を派遣し続ける国家。そんな国家を憂う数少ない学生と話すとほんの少しだけ勇気がわいてくる。もっと真剣に今の政治を考えてみたいものだ。

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文化財速報-1  平城京の十条

2005-08-27 15:38:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 実はこの写真が発見された十条の現場で撮ったものだったのです。今泉さん達がご覧になっているのが条坊の側溝です。確か十条坊間路の南側溝だったと思います。もうあれから3週間ほどになりますね。久しぶりに朝日新聞の一面でカラーの文化財記事を見てうれしく思いました。

 あの時は山川さんに休みの土曜日だったにもかかわらずご案内いただいて、実に充実した半日でした。お礼を言う機会を逸しておりました。本当に有り難うございました。そして、久しぶりに山川節を聞くことができて元気をもらいました。きっと山川さんにしてみたら、条里との関係をきちんとお話しになりたかったに違いないのですが、マスコミは所詮話題ばかりを追いかけています。あまり先走って情報を出してはいけないと思い、発表を待っていました。おそらく山川さんが仰ったのでしょう、私のところにも電話取材がありました。

 やはりあの時今泉さんがすぐに指摘されたように十二条ある可能性が高まったのではないでしょうか。これなら職員令に規定された左右京職の坊令の数(12人)とも合います。岸先生が生きておられたら真っ先に飛んでいかれたに違いありません。そしてこれもまたあのときお話したことですが、以前から平城京の朱雀大路の南、つまり下つ道の一角で大規模な祭祀の跡が見つかっています。稗田遺跡です。この位置もまた、十二条だとちょうど京の南端に一致するのです。いずれ再検討が必要になるでしょう。



(十条条間と東二坊坊間の交差点)

 今回の発表ではなぜか千田さんの意見が前面に出ていました(というより別にたいしたことは仰っていないように思いますが・・・、そのほかの課空間Aにいたってはあまりに現実からかけ離れているように思います。どうしてもっと柔軟な発想ができないのでしょうかね。)。今後の調査を待たねばならないことは事実ですが、結果が出る前に最善の推測をし意見を申し述べるのが私達の責務のように思います(どうでもいいことですがどうして巨人の監督候補に星野なんかの名前が出るんですかね??まさに末期症状ですね。どこかの国とよく似ている。)。



(十条条間北小路の南側溝)

 さて初期平城京が十条以上あったことになるといろんな問題を再検討しなければならなくなります。私はこの何でもかんでも平安京を基準にして物事を考えてきたこの間の都城研究に問題を投げかけてきたつもりですので、今回の発見には大変勇気付けられています。山田博士には申し訳ないが、所詮平安京は日本古代宮都の成れの果てです。『延喜式』などと言う文献があるものだから「考古学者」までがこれを理想のモデルとして考えすぎなのです。あそこに書いてあるのは所詮ほとんど機能しなくなった、建設当時の姿などよく分からなくなった時点でまとめられたものに過ぎないのです。

 何度も申し上げているように平安京の姿を知ろうと思えば長岡京の考古資料を真剣に、詳細に、分析する以外にないのです。今回の発掘調査成果はこのことを見事に教えてくれました。それも常識にとらわれない山川均という研究者の手になったからではないでしょうか。

 さてこの新資料をどうとらえるかはまさに学者冥利に尽きることです。これから報告される新しい資料から目が離せません。まだ資料の調わない段階で申し上げるのは軽率の誹りを免れませんが、そこがこのブログのいいところ、少し自由に思いつきを述べておくことにします。お断りしておきますが、あくまで現状での可能性ですから・・・。

 まず第一に十二条まである可能性が出てきたことです。そうだとすると、当然先に申し上げた令の規定を再検討しなければならなくなります。藤原京を十二条と解釈したと同じように(私は中村太一さんや小澤毅さんが仰るような十条十坊説は採りません。特に彼らの言う坊令十二人を実に適当にとるやり方は法律をなめています。)、平城京を十二条とし、各条毎に坊令が一人ずつ配されていたと考えていいのではないでしょうか。それももちろん平城京造営当初の姿としてです。平城京は藤原不比等の設計によると言うのが定説ですから、そうするとこれもまた不比等の発想でしょう。そもそも平城京は発掘調査によって、平安京と似て非なるものであることは皆さんうすうす感じていたはずです。だって、平安京にはない東院が瘤のようにあり、さらに京域にも外京がまた瘤のようにくっついている。こんなのどこが平安京に似てるんですか?何度も繰り返しますが、平安京は日本古代宮都の設計者達がいろいろ苦労して、工夫して、なんとか日本的宮都を造ろうとしてきたことをご破算にして、実にシンプルな都として造った結果に過ぎないのです。

 次の問題はいつ誰がこれを九条に変えたかです。
 今のところ比較的早く埋め立てられたらしいとしか分かりません。だから労働者の飯場説のようなものが出るのです。これは、労働者の飯場が目の前にあるにもかかわらず「市」だと言った発掘屋さんと共通する発言です。あの現場で出ていた建物は確かに立派ではありませんが、飯場ではありません。飯場はもっと同じ建物が同じ規模で並んでいるのです。
 平城京改造のチャンスは二回あります。一回目が不比等政権崩壊後の長屋王政権下です。もう一回が聖武天皇の恭仁京からの還都後です。もちろん時期がもっと遅いということになれば光仁だの、桓武もあり得ますが、そこまでは行かないでしょう。
私は長屋王政権説に傾きつつあります。もう一度長屋王の政策を再検討すべきなのではないか、と思っています。ではなぜ九条なのか?それこそ『周礼』の記述が関係するのかも知れません。藤原京を十条十坊にした皆さんもその説の矛盾に気づいておられます。『周礼』は九条九里と書いているからです。もちろんこれまで『周礼』の日本への導入の契機について疑問を呈してきた私ですから、余り『周礼』は持ち出したくありません。ただ長屋王と『周礼』との出会いの可能性について少し調べてみる必要はあると思っています。

 さらに第三に問題となるのが近年主張されている平城京の羅城です。私は羅城が平城京の前面に回っていたとは考えておりませんので、今回の資料が出ても影響はしません。おそらく十二条大路に羅城門があったのではないでしょうか。その点で問題なのが、八条から九条の条坊の振れです。これも条坊縮小の問題を解く鍵になるでしょうね。



(羅条から東へ延びる城壁にとりつく施設と言われているが・・・?)

 とにかく目が離せなくなりました。もう一度真剣に日本古代宮都の条坊を考え直してみたく思っています。もう一冊本を書こうかしら?!いずれにしろ、山川さん頑張って下さい。遺跡の保護・保存、これからの周辺での調査問題などいくらでも応援しますから。あの交差点、残しましょう!!


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斎宮「授業」報告-4  子供発掘体験と測量

2005-08-27 09:30:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  (この中から未来の斎宮研究者が出てくれるといいのだが・・・。)

 台風一過の蒸し暑い斎宮の現場で朝から我が研究室の精鋭?部隊が揃って、基準点測量を行った。まだ座標計算が終わってないのだが、初めて、斎宮跡調査の地区割の詳細を知ることができた。今後の研究に大いに役立ちそうだ。



 (大伯皇女の森?から見た旧竹神社所在地の森)

 140㌶という広大な史跡である、全体をきちんと把握しておかないと資料の整理にとんでもないことが起こる。長岡京の発掘調査で平城京に次いで直ぐに国土座標の測量体制を敷いたのは先にも紹介した高橋美久二さんである。そのお陰で私たちは長岡京の調査を実に合理的に進めることができた。同じように斎宮でも最近国土座標がきちんと入れられて相互の位置関係が極めて正確に即座に分かる体制になっている。素晴らしいことだ。

 斎宮では指定地全域が100m方眼に区切られ、西から東へアルファベット大文字、北から南へ数字で地区番号が決められ、さらにその中が4m方眼に区画され(100m四方を4mに分割するから25区画できる。この中もアルファベットの小文字と数字で地区名を呼ぶ)、現場での遺物の取り上げ、略図の作成などに使われているのだ。
 もちろん地区割番号を知るだけで即座に国土座標を出すことができ、発掘現場で直ぐに以前の調査での関連遺構の位置関係が導き出せるのである。私たちの学生はそのお手伝いをしたのだが、できることならもう少ししっかりした地区杭を設けて、たとえ略図でもきちんとしたポイントから測量した方がいいように思うのだが・・・、ま、それも各組織の事情があるから何でもかんでも正確にと言うのは私たちの勝手かも知れない。



 (大伯皇女斎宮跡を壊して通る近鉄特急。アーもったいない。)

 昨日はさらに平板図の作成にも取りかかった。近年の発掘調査では余り作らないらしい。精度が悪いからだ。しかし、私は平板で周辺地形を測量することは遺跡の立地、周辺部に潜む遺存知割、細かな等高線の変化を知る上では欠かせないと思っている。精度が若干悪くなるのは当たり前で、それはそれで割り切ればいい。精度に欠けるが今でも瓦の実測図に拓本を載せるのは拓本でなければ分からない凹凸の変化を示すためだ。何でもかんでも細かく正確にと言うのは時には全体像を見落とすことにもなる。木を見て森をみずである。

 平板図を作りながら感じたのは、一昨日の水準測量と同様、この地が円形または角丸方形の壇上に高まっていることだ。約100~120mの標高14m前後の平坦地の存在である。現地責任者の竹内さんが指摘されているように、確かにこの平坦地を境にして急激に周辺部が下がっている。
 もう一つ感じたことは(ほとんどどうでも好いことなのだが・・・)、この調査地と北に広がる旧竹神社所在地だけが杉林として残っていることだ。実は京都から三重に自動車で通う時いつも通るのが斎王の宿泊所垂水頓宮跡である。旧東海道沿いのこの推定地と土山神社の境内地だけが杉林なのである。今は分からない地元での共有する情報があったのではなかろうか。だから開墾されずに今に残った!と私は思いたいのだが・・・。

 昼からは子供歴史教室で多くの子供達が発掘体験をした(もちろんこれは博物館の事業である)。たくさんの土器を出して喜ぶ子供、全然出なくてふてる子供、相変わらずの風景である。よく聞くとうちの学生も実は子供の頃この博物館の事業に参加し、それがきっかけで考古学をやり、今も大学院で学ぶことになったのだという。嬉しいことだ。是非この中から将来の斎宮研究の第一人者が出てくることを祈らずにはいられない。

 暑い、暑い一日を終え(学生と「暑い」と言ったらアイスクリームをおごるという賭をして結局私だけが一人で4回も言って、おごる羽目になった。アー、馬鹿げた賭をするんじゃなかった!)、着替えもせずに近鉄電車に飛び乗り(きっと隣の人は汗くさくて迷惑だったろう)、京都に着いた時にはもう9時半であった。60を前にしての現場は堪える。風呂に入って我が手を見ると肘から下だけが真っ黒。今朝もヒリヒリしてたまらない。来週は我が大学主催の公開講座で社会人を対象に発掘体験講座をしなければならない。結構お歳の方もいらっしゃるのだが、大丈夫かしら?



(子供達の「調査」する予定の攪乱土壙。それでも結構いろんな土器は出ていた。大いに期待できる現場である。)

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連載・桓武考古-5  第一章 ④遣唐使と宝菩提院廃寺半跏像

2005-08-26 23:56:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 久しぶりの桓武考古である。
 今回は遷都前の代表的な動きとして知られる宝亀8年の遣唐使に着目してみよう。長岡京への遷都直前に新たな文化的、宗教的変革が起こったと考えている。

 
 
 (写真は日本最古の風呂跡。しかし無惨にも破壊されてしまった。宝菩提院廃寺の性格を正確に見抜けなかったからだと私は思っている。向日市埋蔵文化財センターの資料から転載)

 長岡宮城の北西部に接するようにして法起寺式の伽藍配置を取る白鳳期創建の寺院がある。今日の遺跡台帳では宝菩提院廃寺と呼称されているが、願徳寺と呼ばれていたらしい。当寺に所蔵されていた半跏像は、天平仏とは明らかに異なる新しい様式で、平安初期の仏像群の原型をなしたと考えられ、国宝に指定されている。
 半跏像がどういう来歴で当寺に入れられたのか、そもそも同仏は誰が、いつ作ったのかについては全くわかっていない。ところが1979年以後断続的になされてきた発掘調査などから、宝菩提院廃寺が、律令政府と深い関係にあることが明らかになってきた。新しい資料の発見である。

 同寺は従来の条坊復原では長岡京右京北一条二坊に位置したが、近年の北部の各種遺構検出状況から、「北苑」に所在した可能性が高くなりつつある。出土した墨書土器を分析した清水みき氏は、「大膳」と記した土器に着目し、同寺が、大膳職から食料を供給される特別な位置づけの寺院であったことを明らかにした。大膳職は官人の食料を弁備すると共に、内膳司へも食材他を供給したことが知られる。大膳職→内膳司→宝菩提院廃寺の流れを仮定すると、その立地や半跏像所蔵の経緯もおぼろげながら見えてくることになる。

 既に指摘されているように、桓武天皇は平城京内に所在した有力豪族の寺院の新京への移建を認めなかった。しかし仏教の崇拝を禁止したわけではなく、長岡京では遷都以前から所在した寺院を修造して使用したことが知られる。後に皇太子安殿親王の病気平癒を願って読経させた「京下の七寺」がそれである。その一つが宝菩提院廃寺であり、早良皇太子幽閉の地である乙訓寺であると推定している。
 ところで、東野治之氏は宝亀八(777)年の遣唐使の派遣の意義を、山部皇太子主導の中国文化、思想の集取にあるとする。特に大学寮の伊予部家守を派遣した目的は明白で、まず第一に、王権の正当性を強化するために『春秋』穀梁伝と公羊伝を入手し学ぶこと、第二に、『切韻』を入手し中国語の発音を学ぶことにあったという。日本文化の中国化政策の具体策の一つである。従来の遣唐使派遣目的の大転換であった。
 
 このような明確な意図をもって派遣された遣唐使が身近にあるとすると、宝菩提院廃寺に所蔵されている半跏像がこの時に生来されたか、同船によって来日した仏師によって製作されたと仮定することも十分可能となる。
 ではなぜこれほどまでの仏像が宝菩提院廃寺という一地方寺院に所蔵されていたのであろうか。その確実なところは不明であるが、先の墨書土器の発見と合わせて考えると、王権との関係を想定することはあながち突拍子もない発想ではなかろう。山部親王が新しい王権を形制するにあたり、新しい仏教、仏像の生来を宝亀八年の遣唐使に求め、得られた仏像を王権の寺院に施入したと考えたい。
 となると、宝菩提院廃寺は創建時は当該地の有力氏族(田邊氏か)の手になる寺院であったが、長岡京遷都後には王権の寺院となったと考えることも可能ではなかろうか。

 日本の古代王権は、舒明天皇の百済大寺、天智天皇の川原寺建立以来国家寺院と天皇の寺院を併設してきた。平安京においても東西二寺はそれぞれ両寺院に位置づけられたものと考えられる。では長岡京の両寺院はどこにあるのだろうか。有力な寺院が宝菩提院廃寺と乙訓寺である。両寺はいずれも右京にあり、前代の寺院とは異なるが、早良親王が幽閉されたのが乙訓寺であることからするとこちらが国家寺院として機能したのかも知れない。すると、宝菩提院廃寺は天皇家の寺院ということになる。桓武天皇にとって、新しい仏教こそ新都に相応しいものであった。

 ついでに忘れてはならないのが宝菩提院廃寺出土の風呂跡である。
 現地説明会などの資料によるとこの風呂跡は9世紀後半のものだとされているが、本当だろうか?
 そもそもこれほどまでの風呂跡はどこを探しても見ることができない日本一の風呂である。なぜこのような立派な風呂がこの寺院に設けられたのか。当然先に述べた王権との関係以外にないと思われる。天皇家の寺院であるからこそこれほどの風呂が設けられたものだと私なら直ぐに発想する。
 
 (にもかかわらずこの石敷きの発見当初多くの「発掘調査員」がこれを「土器焼成土壙」だと言って平気だった。私は即座に否定し、移建を申し上げた。「宝菩提院ほどの最高級の寺院の内部にどうして「土器焼成土壙」が必要なのか?これは日本でも珍しい「風呂跡」ではないか」と。その後全国の「発掘調査員」のトップに立つ文化庁の調査官がこの遺跡を見に来て「こんなもんどこにでもある」とのたもうてお帰りあそばされたという。その結果、日本最古でかつ日本一の風呂跡はあっけなく破壊されてしまった。権力だけを振りかざして、己の無知を自覚もせずに「指導」する今日の文化財行政の典型的な姿である。そしてその権力に頼って保存の労苦を行わず、形式的な言い逃れ的な講演会をして破壊は己のせいではないと、言い訳の行事を行って平気なのが「発掘調査員」である。遺跡は残してなんぼである!!あらゆる努力をして保存に奔走する、この「魂」なくして遺跡は残らない、と思った瞬間である。)

 当時の最高級の風呂を持つ寺院は長岡京期に天皇家の寺院として位置づけられたからこそ、その後も維持され続け、地名-向日市寺戸-にまでその威厳を残したのである。(なお、私はこの風呂は長岡京期に設けられたものだと思っている。9世紀後半建設の根拠は必ずしも明確ではない。この風呂の直ぐ西側の一段高い位置から1979年に大規模な井戸が発見され、中から「大膳」他の墨書土器が出ているのである。位置的にも長岡京期の風呂である可能性は極めて高いと思っている。)宝菩提院廃寺は並の寺ではない!!



(現地説明会資料より。平面図)

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斎宮「授業」報告-3  台風の斎宮

2005-08-25 11:25:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 眼下に広がる伊勢湾はどんよりと曇った空のせいか薄暗く、白い小波が一面に立っています。台風の直撃は免れそうですが、それでも台風銀座の伊勢湾、風は相当な強さになりつつあります。今日の実習は中止せざるを得ないのですが、昨日、「十時時点で大雨暴風警報がでたら」などと条件を付けたものですから、天気予報に釘付け状態。とこがなかなか警報が出ず、いろいろ探ってみると十時にはどうも情報が更新されないらしいことが分かった。困ってしまい、仕方なく電話番号を調べて学生一人一人に電話をかける始末。とても現場などやってられる状態ではないのです。こんなことならあっさり「明日は休み」といっておけばよかった。

 ということで本日は新しい情報は何も無し。済みません。

 そこで、最近、桓武天皇が何故斎宮に方格地割を作ったのかについて若干の構想を述べたことがあるのでそれを紹介しておこう。

 光仁天皇は斎王として井上皇后(聖武天皇の娘で元斎王)との間に生まれた酒人内親王をト定する。その後の経緯から見てこれが酒人の皇室周辺からの排除であることは明白であろう。周辺の有力皇族との間に男の子でももうけられた日には、光仁即位を画策した藤原百川達にとっては目も当てられない。そこで予め彼女を斎宮へ「避難」させて、謀略の実行に障害にならないよう策略を練った結果であったと思われる。その後、おそらく、母・井上皇后、弟・他戸皇太子の死(暗殺)によって都へ呼び戻されたのであろう。残酷なことに母弟を排除した山部皇太子に嫁がされ、女の子をもうけるのである。それが次の斎王・朝原内親王であった。

 近年の発掘調査で酒人斎王が入った斎宮の地が明らかになりつつある。現在の竹神社の北東部から発見された広大な空間がそれである。二重の柵によって囲繞された壮麗な宮殿跡で、周辺部から出土した遺物の状況から、これが朝原斎王のために建設された方格地割形成の直前の遺構であることが判明した。おそらく酒人斎王の斎宮であろう。この頃まで斎宮は一代ごとの斎王に応じて宮殿を建設した模様である。なぜ酒人斎王の斎宮がこの地に建設されたのかは明らかではないが、いわゆる「奈良古道」の南に接して建設されている。現時点で、検出遺構と斎王を特定できる最も古い斎宮跡である。特に注目さえるのは宮殿が二重の柵によって囲繞されている点である。宮都及びその周辺部の離宮の構造と変わらない点は大事なことである。斎王は天皇の名代であり、斎王の用いる施設は天皇クラスでなければならない。そう考えれば、離宮と同じ構造を取るのも頷ける。

 次いで斎王となるのが桓武と酒人との間に生まれた朝原内親王である。桓武天皇は朝原のために斎宮の大改造に取りかかる。元酒人斎王の宮殿を核にした方格地割を形成したのである。東西に5区画(後に西にさらに2区画増築して7区画)約680m、南北に4区画約550mの方形の区画が形成され、元酒人斎王の宮殿跡が改修されて朝原斎王の新宮殿とされ、これ中心にして四方に斎宮を維持するための役所・斎宮寮の諸官衙が設けられた。その様はまるで都の宮城を見るような壮大さであった。斎宮内院と斎宮寮の固定化を図るためであろう。この後数代の斎王は9世紀前半に離宮院の地に斎宮が移転するまでほぼこの時の基本構造を継承して使用した。

 この方格地割がなぜこの位置に設けられたかについて諸説があるが、最近三重県埋蔵文化財センターの伊藤裕偉氏は多気郡条理との関係を指摘されているが、私は違うと思う。伊藤さんが根拠とされている基準点が余りに偶然的に方格地割と重なる地点に設定されているからだ。私の斎宮の方格地割の復原を批判された井上和人氏の考察と合わせていずれ本格的に批判したいが、一言で言えば余りに数字のマジックに頼りすぎだということだ。権力者がそれまでとは異なる新しい理念で大規模な施設改造に取り組む時、適当な地点を起点に適当に建設することはあり得ないと私は仮定する。特に理念の全く異なる斎王の宮殿の基準を条里という生産に関する施設にするほど古代王権はいい加減ではないと考えるのである。過去の宮都研究でも、初期の段階ではこうした歴史地理学的手法を使った研究が多用された。しかし、今日のような発掘調査の進んだ遺跡では、おおよそでしか復原できない条里型地割とミリ単位で検出されている遺構を同列にして比較して分析するのはいかにもアンバランスである。

 ではなぜこの地にこのような形で朝原斎王の宮殿は建設されたのか?

 先にも触れた通り、朝原の母酒人の宮殿を核にしたからだと考えれば理解しやすいのではないだろうか。幼少の朝原の不安を解消し、桓武の伊勢神宮祭祀への並々ならぬ決意を示すために宮城並の斎宮が建設されたのである。事実、酒人斎王の宮殿跡の遺構群とその後改装された遺構群とは方向性に於いてほとんど変わらないくらい同一の方向性を取っている。可能性として、酒人の段階から方格地割は構想されていたのではないかと思いたくなるくらい一致しているのである。

 ではなぜ桓武天皇は斎宮の荘厳化と固定化を図ったのであろうか。

 答えは簡単である。血統に不安を残す桓武にとって、中国の権威を借りるだけでは不十分であり、王権の正当性を保証する皇祖神、伊勢神宮の天照大神を祭祀することこそ、反対勢力の気勢を削ぐ絶大なる効果があると考えたからに違いない。天武天皇が伊勢神宮祭祀を積極的に取り込んだのと同じ発想であろう。

 桓武はこのほか、宗教面では国家寺院である大安寺は平安京では東寺として、天皇家の寺院である薬師寺は西寺として継承した。長岡京でそれぞれに相当する寺院がどれかを検討する資料は極めて限られている。宝亀八(777)年の遣唐使によってもたらされた仏師(或いは仏像そのもの)によって製作されたとする半跏像を持つ宝菩提院廃寺は、大膳職からの食料の供給を意味する「大膳」と記した墨書土器を有する点等、天皇家の有力寺院である。また、藤原種継暗殺事件に際し、早良親王が幽閉された乙訓寺は、国家寺院であった可能性もある。同寺に空海が別当として配されたことも無関係ではなかろう。

 桓武天皇はあらゆる手段を尽くして、己の正当性を主張したのである。それ故、古代王権の正当性のシンボル斎宮は室町時代まで維持され続けるのである。平安京が実態を失ってもその枠組みを維持し続けたのとどこか共通している。

 折角の台風の恵みの一日、たくさんの課題の一部解消に利用しよう!!

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斎宮「授業」報告-2  久しぶりのレベルと大伯皇女の斎宮

2005-08-24 20:43:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


今日は台風の余波で雨が降ったり止んだりの妙な天候。そんな中で「考古学演習」の授業として受講している学生に斎宮の現場へレベルを入れる作業を行わせる。何せ今年はどういう訳か2年生の受講がやたらと多く、それもこれまで余り見たこともない(ということは僕の授業を受けたこともない)学生が多く、困っていたのだが、その学生達を相手に斎宮で実習する羽目になったのである。

もちろん密かに考古学を目指す学生もいるかも知れないので、余り冷たくもできず、かといって、興味本位でこんなマニアックな授業を受けられても困るのだが、真意を確かめられないまま夏休みに突入してしまい、今日を迎えた次第である。

レベルの器具の説明に始まり、機器の設置の仕方、スタッフの立て方、数字の読み方等々、久しぶりの実習はなかなか楽しくもある。学生もさほど難しくないレベルセットに次第に興味を示し始め、1往復した頃には十分スムーズに機械を操作することができるようになっていた。

始めた頃は少し曇っていた空も、なぜか次第に晴れてきて、結局作業時間中雨にはたたられず、最後まで終えることができた。室内に帰ってきて、計算方法と結果を講義し、測量の無事を伝えて本日の授業を終えた。誤差もなく、やれやれだった。

明日は紀伊半島に上陸する可能性が強まった台風11号のためにおそらく休講せざるを得まい。こんな事態を予想していなかったのでこの斑は1日授業時間が減るが、仕方あるまい。それにしてもさすがに紀伊半島は台風がよく来る。今年もこれで台風騒ぎは3回目だ。

ところで今日レベルを測って分かったことは、今回の調査地が斎宮の中では一番高いところにあるという事実だ。標高14.2mが今回調査する予定の第146次調査地の現場付近の高さであるが、昨日基準点測量を実施した8世紀末から9世紀前半の斎宮の中心部・内院地区の標高が10m前後であるからいかに高いかがよく分かるだろう。特に本調査地だけが際だって高くなっており、もし最初に斎宮をこの地に設けるとしたらなるほどいい所だと実感させる。

祓川を渡って直ぐの段丘状に設けられた宮殿で初めての斎王・大伯皇女がどんな思いでこの地に至ったのか、そんなことを考えてもいいような予感がにわかに高まった一日でもあった。考古学はこのような単純な水準測量作業からでもこんなことを考えられるから止められない(尤も世間ではこれを山中の妄想だというが・・・)。

きっと1ヶ月後には新聞紙上をにぎわすに違いない。

「大伯斎王の斎宮跡発見!!」のニュースが全国を駆けめぐることを確信した一日でもあった。

(ついでに申し上げると先日山田博士が訪れられた長岡京市の発掘した長岡京駅前で発見された同一規模の建物が軒を並べる遺構群は発見当時から私は申し上げているのだが、長岡京建設に動員された諸国農民の飯場だと思っている。最近これを「市」だとぬかす大馬鹿な調査員がどこぞのセンターにはいらっしゃるが(そしてまたこれを公衆の面前で堂々とお話しになった-その上この発言が京都新聞発行の冊子に載っているという悲劇!アー長岡京の将来が思いやられる!!)―)、こんな思いつきと考古学の資料からの発言は質が違うということを読者諸氏はお忘れなきように。あの建物群こそ、人間を入れる倉庫、即ち肉体労働者を詰め込んで僅かな飯を与えてこき使った飯場の址であることは間違いない!と思っている。もちろん大博士もご理解頂けると思うが、・・・。)

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斎宮「授業」報告-1  初日の斎宮

2005-08-23 19:37:58 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  (基準点測量の一コマ)

 今日から斎宮での「授業」が始まった。三重県立斎宮歴史 博物館が実施する発掘調査を授業の一環に組み込み、調査・研究の実践にしようという初めての試みである。
 「授業」ということなので、考古学研究室の専門学生の授業もあれば、博物館学の学生の授業もあり、大学院の学生の授業もあるということで内容は多種多彩である。

 さらに9月末から10月始めには斎宮歴史博物館での初めての試みで、「インターンシップ」も実施される。学生の就職希望先での事前実践研修とでもいう事業である。今年から特別に博物館で実施されることになり、我が研究室からは3年生の4人が参加希望を出した。
 一般企業では最近ようやく実績を上げつつあるが、博物館関係では全国でも希な例ではないかと思われる。但し、残念ながら博物館できちんと求人があるわけではなく、とりあえず今年は極めて形式的なものになっている。しかしこのような取り組みをやって頂けることは地元大学としては極めて有り難いので、学芸員希望の学生を直ぐに参加させた。どれほど生まれ変わって帰ってくるか、楽しみである。



(写真は第148次調査予定地の現状。仮称主神司の置かれたところだとされている。もちろん私はそうは思わないのだが・・・。直ぐ南は斎王の宮殿・内院の所在地である。今年の発掘調査は内院と「主神司」の間を通る東西道路と「主神司」の東側の道路との交差点付近で行われる。木簡でも出ないかなー!!)

今回「授業」で参加させて頂く発掘調査現場は一つが前にもご紹介した初期斎宮の遺構検出が期待される第146次調査である。既に表土から飛鳥時代の土器が出ているという。まだ表土を除去しつつあるだけで、明日から測量に入る現場なので詳細は分からないが、期待通りの成果が出そうである。
もう一つの現場が、第148次調査で、史跡南東部に広がる方格地割の中心部での調査である。いわゆる内院とその北に広がる仮称主神司の役所が残る地域の発掘調査である。両施設間に残る道路交差点の一郭や、さらにこれら方格地割の基準点になったのではないかという仮説のある奈良古道との交差点付近での発掘調査である。

今日の作業は基準点から調査地の中へ調査基準杭を設定する作業で、初めての学生もいて、教えながらの測量であったため、なかなか進まなかった。測量の実地研修の後、博物館に戻って、座標計算の方法の講義である。もちろん今は便利なソフトが公開されているので、本当はこんな面倒な計算など機械に任せておけばいいのだが、計算に挑戦することが斎宮の研究の進展になるということも教え込むため、関数電卓を駆使して、三角関数とは何かから始まって放すことになったのである。

正弦定理、余弦定理、ピタゴラスの定理等々は測量には不可欠の公式である。かつて30年あまり昔、その当時京都府の技師であった、現滋賀県立大学教授の高橋美久二さんから、初めての長岡宮跡の現場で方眼紙に図を書きながら懇切丁寧に教えてもらったことを思い出す。その頃はまさか自分がそれを学生に教えることになろうとは思いもしなかったのだが・・・。

なんとか測量から計算までを終えて、今日は帰路松阪市(旧嬉野町)の上野垣内遺跡の発掘現場に立ち寄った。小さな現場でかなり削平を受けているが、7~9世紀の遺物がかなり多く出土していた。開発全体はかなりの面積あるのだが、最近の文化庁の指導では破壊の進む道路部分しか掘らないということで、おそらく大きな成果は得られないだろうとのことであった。旧嬉野町から一志町にかけての地域は7世紀代の遺跡の集中するところで、後期古墳も畿内型の横穴式石室が集中するおもしろい地域である。もっときちんとした調査ができればいいのになーと歎きつつ大学へ戻った。

 今日は、朝の5時に起きて京都を出発し、7時半には津に着き斎宮へ向かい、今まで、いろんなことをしたので大変疲れてしまった。明日はどうも雨らしいが、雨でも「授業」はやるといった手前、博物館施設を利用して発掘と資料の公開をテーマに「実践」してみようと思う。本当に今年の夏休みは「仕事」ばかりだ。



(上野垣内遺跡にて説明を聞く学生達。目の前の遺構は住居址??ゴミ捨て穴?)

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東国見聞記-5 遺跡整備と活用

2005-08-22 08:27:41 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 (写真は整備のための確認調査の進む二子山古墳の調査風景)

20/21両日、国立歴史民俗博物館での共同研究「古代社会における生業と権力とイデオロギー」に出席した。
渡辺信一郎さんの「古代中国における帝国の形成-龍山~漢代の集落研究から-」
仁藤敦史さんの「古代王権とミヤケ制」
水林彪さんの「天皇制の本質とその起源―律令天皇制の形成・構造・展開―」
3本の極めて高度な古代国家論に頭がいっぱいになってしまった。国家、帝国、共同体、共同態、ミヤケとは何かについて中国史、日本史、法制史からの報告であった。概念規定のずれからじゃっかん議論のかみあわない点もあったが、各研究の最前線を知ることのできた貴重な研究会であった。その内容についてはいずれまたこの誌上で東国見聞記の続きとして整理して報告することにするが、改めて考古学から古代社会を抽象化して叙述することの難しさを痛感させられた(もちろん私個人の能力の問題である)。

さて、かみつけのさと博物館で感じたもう一つの事柄は、古墳整備である。
三寺Ⅰ遺跡に隣接する保渡田古墳群は3基の前方後円墳からなる5世紀後半から6世紀初頭にかけての首長墳である。特に著名なのは人物埴輪・動物埴輪群であり、彩色を施した埴輪は多種多様で、「王権」の継承儀礼を模した埴輪区画の存在や周堤の上に配された盾持ち人など埴輪研究はもちろん、古墳時代の儀礼研究に欠かせない古墳である。その古墳の内容は別にして、取り上げたいのは古墳の整備、管理、運営方法である。

3基ある古墳は三様の方法で保存整備されようとしている。二子山古墳は部分的に発揮鬱調査後芝張りなどでの現状保存整備、八幡塚古墳は前面発掘調査後に造営当初の姿に復原、薬師塚古墳は部分的な調査の後現状のまま保存である。僅か30年あまりの間に3基の古墳が集中して築かれたという好条件はあるものの、3様の整備によって我々は自ずと往時の古墳の変化を目の当たりにすることができる。

破壊の激しかった八幡塚古墳は築造寺の姿に復原され、墳丘及び周濠内の4基の中島もすべて葺石や埴輪が再現され、往時の姿に復原されている。復原整備に用いられた埴輪は子供達を中心とした町の人々の手になるもので、埴輪の内側には制作者の名前が記されている。これではさすがの「悪者」も手は下せまい。現に、整備後数年を経た今も壊された形跡は余り無い。主体部にも入ることができ、舟形石棺がオープン展示されている。

保存整備は学者の自己満足では維持できない。市民の協力があって初めて長く守ることができるし、守られてきたのである。高崎市という大きな都市と合併するとそうした意識の共有が難しくなるかも知れないが、今のスタイルを貫けば問題なかろう。二子山の整備が終わる二年後が大変楽しみである。

きっと保渡田古墳群写生大会やたこ揚げ大会、保渡田-榛名山健康マラソンなどが計画されていることだろうが、大いに市民の自覚が高まることを祈りたい。聞くところによると北谷遺跡が保存整備されるという。三寺Ⅰ遺跡は残念ながら新幹線の高架下であるが、これらも再現した三寺と緑地公園としての北谷遺跡などのように対比的に整備され、保渡田古墳群との関係が分かるように一体全体が遺跡保存地区として見渡せるようになれば素晴らしいと思う。

お金と根気のいる仕事だが、やりがいもあるだろう。今後に大いに期待のできる整備、活用状況だった。

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東国見聞記-4  魂のこもった展示

2005-08-20 08:52:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(保渡田古墳群の復元模型)

今回の上野の遺跡見学は「無位上野国住人」Tさんのご案内で果たすことができた。もう20年近く前になろうか、今回の三軒屋遺跡「八面甲倉」発見の立役者前沢和之さんのご案内で山王廃寺などを回って以来の上野国だった。

 大きく変わったのは展示施設や遺跡整備のあり方であろう。その中でもひときわ注目したのが「かみつけの里博物館」であった。どこも閑古鳥が鳴く今日の博物館事情の中で、たくさんの人であふれかえっていた。もちろん夏休みということもあるのだろうが、その「魂」が素晴らしかった。

 ちょうど企画展も行われていたが、常設展、子供歴史教室、そして野外の保渡田古墳群の整備と発掘調査、すべてが一体化した博物館構成は実に豊かな発想によって高い戦略意識の下に設計されているように見えた。何よりも学芸員の目が輝いており、共に働くスタッフも少人数で多忙にもかかわらず生き生きとしていた。

 400㎡だから決して広くはない常設展示室は入り口から全体が見渡せる開放的な空間で、見学者は瞬時に見学の段取りを組み立てることができる。全体が濃淡のある緑を貴重にして配色されており、落ち着いて雰囲気がある。中央に博物館のメインテーマである保渡田古墳群と三ツ寺Ⅰ遺跡の模型があり、模型の周りに現地形が貼り付けてあり現代人の地理感覚にも考慮しておある。

 展示ケースがほとんどないのも特徴で、露出展示はさわろうと思えばいくらでもさわれる高さと位置にある。復元模型に用いられる人形なども触ることができるので傷む危険性もあるのだが、余り気にはしていない。模型と現物をうまく組み合わせた展示である。惜しむらくは展示室全体が暗く、私のように目の悪い人間には少々見づらい気がした。そして当博物館だけではなく全国の博物館に言えることだが、写真撮影禁止の条件である。私は許可をもらって一部を写させて頂いたが、どうして撮影がいけないのか私には理解できない。

 かのルーブルでも大英博物館でもフラッシュは禁止されているが撮影は可能だ。とくに考古関係の博物館なら撮影によって展示物が劣化する危険性もなくれ、ましてや所詮素人がスナップ程度に写すことをどうして禁止するのだろうかと思うのである。どうしても気になることがあるのなら、改ざんや悪用の禁止、商業主義的に使用することを禁止、許可制にすればいいように思うのである。今やデジカメの時代仲間に即座に情報を発信する時代である。どんどん写してもらって宣伝してもらえばいいじゃないかと思うのだが・・・。

 それはさておき、企画展示もおもしろかった。担当者にお会いできなかったのは残念だが、「釜」の話が分かりやすく展示されていた。特に鉄羽釜から土器羽釜ができたという話は大変分かりやすく適切な展示で素人にも一瞬にして理解できる展示であった。東毛型や吉井型などの名称は学術用語なのだろうが、もう少し地元の人にわかりやすい名前を別に付けてその個性を地域の文化と比較しながら説明するのもおもしろいかなと思った。最後が私もよく手伝わされた鉄釜であったが、やはりもう少し踏み込んで現代の電気釜も置けば(羽釜ではないが)よかったと思う。

 ついでに注文を付けるとすると、日本の、世界の羽釜の歴史を少し最初とか最後に入れてもらうと群馬県の位置付けがもっと鮮明になったような気がする。地域は地域として孤立しているのではなく日本列島の文化の推移と必ず連動していると思うからである。同じ意味でアジアの釜文化との比較もおもしろいと思う。特に竈の数の変化は中国のそれと比較しても親しみが持てるように思えた。

 展示場を出ると外にはビーズ玉造りの子供や親子連れで大賑わいだった。スタッフの方がてんてこまいなのは予算とかの関係で仕方ないのだろうが、少し気の毒にも思えた。こんなに生き生きとした博物館は久しぶりだった。思わず博物館グッズをたくさん買ってしまった。グッズの品揃えも素晴らしく、ここにも学芸員の魂が吹き込まれていた。高崎市と合併後もこの調子で頑張ってほしいと思った。


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東国見聞記-3  三十三間堂遺跡の未来

2005-08-19 22:54:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
  (写真は三十三間堂遺跡の政庁南西コーナー柵列)

18日の午後お疲れの今泉さんの車でさらに南を目指した。名取川を越え、阿武隈川を越えて、石城・石背の国に入った。亘理郡の郡衙正倉院と政庁の跡である三十三間堂遺跡を見学するためだ。わざわざ私たちのためにシートをはずして見せて頂けた。有り難いことだ。この遺跡は全く初めてだったので、大変印象に残った。

教育委員会の鈴木さんがいろんな資料を用意してくれていて懇切丁寧にお話ししてくれた。これまでにも城柵官衙遺跡検討会で何度もこの遺跡の報告を聞いたはずなのだが、不覚にも私は遺跡を勘違いしていた。この遺跡は9世紀以降の亘理郡衙跡なのだという。3~4時期の時期変遷を取り、最後に礎石建物になるという。それだけでも驚きだった。郡衙の終わりの頃じゃないか?どうして?

さらに現地で驚いたのは、随分激しい傾斜地に余りきちんと造成もせずに郡衙建物を建設していることだった。もちろん土取り跡がいっぱいあって、その土を造成に使ったのだというのだが、なぜ傾斜地を選んだのだろうと首を傾げたくなる。もちろん阿武隈川を眺める絶好の土地であることは言うまでもないが、それが9世紀以降というところがどうも・・・・。

おそらく8世紀代(或いはそれ以前)の郡衙施設はもっと他にあるのだろうが、今のところ見つかっていないという。今泉さんの話によると、亘理は当然阿武隈川を渡ると言うところから付いた郡名で、曰理(wetsuri)が亘理(watari)に転じたのだという。渡った先の名取郡には玉前剗がある。阿武隈川の水運と東山道と浜通との結節点である。剗と関の違いなど車中でもいろんな話を聞くことができたが、それはなたいずれ鈴鹿関でも掘った時にお話しすることにしよう。

政庁跡を見学した後、直ぐ南に残る正倉院を見に行った。実にたくさんの礎石が現地に残っている。だからこれが「三十三間堂」と呼ばれたのだという。納得してしまう。これらも9世紀以降のものなのだろうか。もしそうだとすると正倉が維持できなくなる頃のものである。ひょっとして正倉院は古いのかも知れないなー、等と勝手に思って帰ってきた。三軒屋遺跡と三十三間堂遺跡、東国の代表的な二つの正倉院を見てただただ感動したが、この成果を生かさなければ。先の堀方も含めて宿題ばかりが残った東国見聞だった。



(写真は正倉院の礎石)

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東国見聞記-2  多賀城政庁脇殿調査の変遷

2005-08-19 17:30:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

17日、高崎-大宮間で止まってしまった新幹線を避けて、快速で1時間20分もかかって大宮に辿り着き、何とか新幹線に飛び乗ることができた。待ち合わせ時間に1時間以上遅れて今泉さんに会い、美味しいお酒と肴に舌鼓をうった。考古学が歴史学になっていないと、ここでも考古学の現状を二人で憂えた。実証主義と資料提示とは違うのだということをほとんどの発掘調査員は分かっていない。印象的だったのは「論理が正しければ間違うことはない。正しい論理をいかに構築するかだよ。」「学問は資料の提示ではない。仮説を立てて、論証ること。仮説が新しい資料によって論理的でなくなれば、新しい資料を下に論理を組み立て直せばいいんだよ。」という言葉だった。一流の学者の言うことには重みがある。

思い切り呑んだにもかかわらず、翌日には再び今泉さんの運転で、久しぶりに多賀城政庁を訪れた。
多賀城政庁の西脇殿の再調査だという。新しい成果が見つかったようだが、それはまた研究所からの発表に待つとして、私が印象的だったのは、遺跡の調査方法であった。といってももちろん現在の調査方法ではない。そして過去の調査方法でもない。調査とは一体何かと言うことである。

最近の発掘調査は大半が開発に伴う事前調査で、記録保存という破壊を前提としている。だから調査担当の大半は破壊されることを覚悟して発掘せざるを得ない。時間とお金に制約されて、何層にもわたる遺構を発掘するとなると、一体どの時点で一般公開するのかも大きな問題となる。もちろんもっと重要な問題は保存すべき遺跡かどうかをどのように判断するかである。すべてを残せればいいのに決まっているが残念ながらそうはいかない。どれを残し、どれを破壊するか、どれを手際よく破壊し、どれを集中的に掘るかも調査員の手腕である。

もっとも99%は破壊されるから、大半の調査員はそんなことを考えているゆとりもないし、その心構えもない。そんな状況だから大学によっては「行政調査」に学生が参加することを嫌うところもある。早くから「悪しき」習慣を付けないようにとの配慮からだ。もっともである。但し私はそんな現実を目を凝らして見るために参加させるが・・・。

破壊が前提だとどうなるか。遺構は完全に掘りあげる。ピットの断面も、溝のあぜも全部掘り尽くす。しかし、学術調査の場合はそうではない。再び誰かがこの遺跡の調査を検討し、報告された内容に疑問を持って、再調査する場合を考えて、必ずあぜを残す。或いは左右対称と考える遺跡なら半分しか掘らない。長岡京旧東院も市の史跡として残すことになったから私はピットは半分しか掘っていない(にもかかわらず、その上に最近建てられた建物の調査を誰もしよう!とは発言せず、いつの間にか破壊し闇へと葬り去ってしまった。信じられない悪行である。)。

残念ながら多賀城の過去の調査はそうではなかったらしい。再調査の必要が生じ、かつて掘られたところを開けてみると、上層にあった基壇は余り重要ではないと考えられたのか、完全に掘り下げられ、その下層から発見された第Ⅰ期のピットも底まで畦を残すことなく掘りあげられていた。今回の調査によって過去に掘られなかったところから新しい成果が出たにもかかわらず、その成果を過去の成果と結びつけて検証できないのだ。
先に紹介した枇杷形をした一対の堀方にしても、残念ながら、失われた第Ⅲ期の遺構との厳密な関係の検証はできない。だからといってもう40年近く前のことを非難するつもりは毛頭ない。今の私たちが考えるべきは、自分たちの技術を過信せず、己の論理を絶対視しないで遺跡をいかに掘ればいいのかである。

己の能力を過信して天狗になる人(私は天狗ぐらいならまだましだと思う)、己のパフォーマンスのために他を排除する人(まるで今の小泉みたいだ)、資料を抱え込んで自分でだけ処理しようとする人(これは最低だ)等々、周りを見ても随分といる(これも考古学の原始的なところ、非学問的なところである)。常に自分の論理(調査での一鍬一鍬も同じ「論理」である)を疑いながら、検証を重ねていく、この姿勢があれば、どれを残すべきか、どこまで掘っていいのか(或いは逆にどこまで掘らなければならないのか)をイメージすることができるはずだ。多賀城の現場で強く思ったことである。


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