yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

笑い転げるくらい本当に楽しかった10年会の条

2009-01-26 19:35:45 | yaasan随想
気が置けない友というのはいいですね。ホント!17時から24時半まで飲んで、食べて、話して、笑って・・・アー疲れた(笑) 



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(伊勢湾直送の新鮮な魚と貝を主菜にした鍋!伊勢エビ、金目鯛、アサリにハマグリ、サザエ。そして新しい仲間のYEsanの手料理の数々!!もう最高!!ところが昨日はカメラを忘れて、携帯でこの写真しか撮れなかった。後はSM博士が珍しく持参したデジカメを借りて撮ったがそれは博士の手元に。またコピーを頂いたらアップしますネ。)





 昨日は伝統の10年会の新年宴会だった。
 朧谷寿先生を中心にわたし、SM博士、山田邦和博士、AEさんの五人が定期的に集まってワイワイガヤガヤとりとめのないことをお喋りするだけの他愛のない会なのだが、これがとてもリラックスできる。新しい刺激をもらって帰れる最上の会なんです。特に今年は朧谷先生が70歳の古希、私たちが60歳の還暦、山田博士が50歳、AEさんが40歳とみんな切りのいい年なんです。
 さらに昨年からもうお一方、女性なので歳は内緒ですが(他の女性はいいんか?(笑))、今回の会場を提供下さったYEさんが加わって益々華やかな会となってきたんです。

 そこで、いつも伊勢湾の新鮮な魚を頼む元三重大生のご家族に依頼して京都へ採れたての魚介類を送っていただいて海鮮鍋となった次第です。

 とにかく美味しかったのなんのって、もうこれだけは言葉では言い表せません。特に最後にやった雑炊!これは最高でした。そりゃそうですもんね、新鮮そのものの魚介類のエキスをしみつくした雑炊なんですもの。

 話した中味は?ウーン、もう忘れた!!

 朧谷先生の古希記念論集の最終出版日をいつにするかとか、山田博士に大根を食べさせるにはどうすればいいかとか、今日のSM博士△のエプロン姿は決まってるとか、そしてそして、何と行っても新メンバーYEさんの手料理、最後には自家製のリンゴシャーベットまで!!のはなし。知らない間に午前様になっていたんです。

 それにしてもYEさんのお家のすごいこと!これはこれでまた後日紹介しますね。

 同じ京都に住んでいて、同じ山中という名前なのに、どうして神はこんなに違いを付けるんや!と恨みました。油屋さんと友禅染やさんとではこんなに違いがあるんですな-。

「伊勢エビと 金目鯛との コラボ鍋」
「伊勢湾の 海幸の湯気 暖かく」
「友と飲む 宴の後の 鍋雑炊」
「京町家 平安宮の 雪の宴]



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次の10年回はいつかって?フフフ朧谷先生古希記念大温泉旅行ですぞ!アー早く来ないかなー 


「武関と鈴鹿関 ~軍事施設としての関の構造に関する比較研究~」報告の条

2009-01-24 16:15:43 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
伊勢湾・熊野地域研究会は同センター主催でほぼ月1回の間隔でセンター所属の先生方から報告頂いています。是非お出で下さい! 


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(いろいろ苦労した航空写真の合成!!武関鎮上空です。)

 廣岡義隆先生から早速研究会の報告を頂きました。
 私がまとめるよりよほど手際よく(ちょっと評価しすぎですが!)御まとめ頂きましたので、以下に転載させて頂きます。


 第7回「伊勢湾熊野研究会」の記録

1)2009年1月22日(木)19時03分~21時00分   於伊勢湾・熊野地域研究センター室

2)参加者  11名 

3)発表  山中章「武関と鈴鹿関 ~軍事施設としての関の構造に関する比較研究~」
  (発表プリントは、A4プリント12枚。他にパワーポイント・プリントA4八枚)
  (配布物;亀山市文化財調査速報Vol.31『鈴鹿関』第3号、A4八頁)

4)大要
   まず最初に、パワーポイントによる中国の長安(西安市)を固める関の情況とその一つである武関の詳細な説明がありました。Google Mapによる航空写真(つなぎ合わせての一枚合成に苦労された由)による解説は説得力がありました。なるほど、武関の地理的位置と亀山市関の地理的位置が何と近似していることかと舌を巻きました。
   ついで、長安と武関の中間地点に位置している東龍山漢墓の発掘調査報告がありました。これは2002年3月~5月における三重大学と中国との共同調査であり、発掘情況と出土品の報告でした。夫婦を二室に収めた地下式墳墓で前漢後期の地方上級官人の墓かというものです。個人的には「弩」(のミニチュア)の出土を面白く思いました。
   次に、城壁築地について、武関・丹鳳・雲夢遺跡などの事例説明がありました。これは鈴鹿関、不破関、川口関などと関連することであり、面白く見ました。
   その後、鈴鹿関の特徴と共に、川口関・不破関との比較、愛発関に関する言及などがありました。
   パワーポイントによる詳細な説明の後、発表レジュメによって、鈴鹿関に視点を置きつつ、中国や朝鮮半島の関と比照しつつ、考察がなされました。目下発掘中の遺跡ながら、その一端が明らかになっているのみであり、多くは不明のことながら、日中及び朝鮮半島の事例と比較しつつ、関の持つ意味と構造から、鈴鹿関の位置付けとその考察はとても面白く有意義なものでありました。
   ご発表は8時20分に終了し、その後、質疑応答に入り、活発な討議がありました。

5)次回
   目下のところ、発表予定がありません。発表してよいという人がいらっしゃいましたら、廣岡義隆までご連絡ください。
以上

 以下、当日のパワーポイントから抜粋してスライドショーをご紹介しておきます。報告をして感じたことは、日本の三関が『養老令』に記載されているようにまさに関剗(関の機能と城の機能)を併せ持つ日本的な施設であることが強く印象づけられたことでした。もちろんこれについては永田英明さんが昨年の考古学研究会東海例会で御報告なさった内容であり、最近、永田英明「奈良時代の王権と三関―三関停廃の歴史的意義―」(『今泉隆雄先生還暦記念論文集杜都古代史論叢』2008年)にまとめられた成果をそのまま頂いただけなのですが、中国の関(武関-新旧-)と比較することによって、中国や朝鮮とも違う独自の関構造であることを実感致しました。中国の場合には極めて強固な軍事的機能として設けられた関がある一方、交通管理施設としての関も古くから同時に別々の構造であるように思います。

 これに対して日本の三関は、まさにそれらを折衷したかのような地形を選地して、重要交通路の山塊から平野部に出る位置に四方を城壁で囲って構築しているようです。残念ながら簫関。散関.隴関の調査がまだなされておらず、函谷関については文化大革命によって破壊された後、復原はされているものの新旧関の比較研究にはまだ手が付けられておらず、精度よく比較できないのが現実です。


(陝西省商洛市所在東龍山遠景)
 いつかどこかの関が発掘調査され、比較できる日が楽しみです。


(東龍山漢墓調査前の儀式。この後線香が据えられ、墓の周りには生きた鶏の首をはねて血が大地に注がれました。さすが犠牲の国中国!!)


(給水塔の上から決死の覚悟で撮った漢墓の全景写真)


(中国では大変珍しく墳丘を解体した調査ができた。その四分の一断面。後ろに給水塔が写っているでしょう。地元の人に頼み込んで、あの上の瘤みたいなところに錆びたバルコニーがあって、そこから撮ったんです。怖かった!でも気持ちよかった!!)


(墳丘を解体し墓坑の堀方が発見された状態。既に二本の墓道が判明していた)


(二基の墓室を発見。夫婦の墓と判明。盗掘されていたが、ミニチュアの明器が200余点出土。)







(発見された弩や五朱銭や壺)



(長安→商洛→丹鳳→武関はほぼ一直線の路で訪れることができる。)


(商鞅封邑遺址の地形図真ん中の斜線部分が関の機能を持った集住地区。その右(東)に城壁があり、これが下(南)の山まで延びていたらしい)


(丹鳳の町に残る城壁や関機能のあったと思われる集住地域)


(いざ武関へ)


(武関城東城壁)


(このはるか向こうが雲夢遺跡。秦始皇帝最期の地。)




(雲夢遺跡から発見された睡虎地竹簡とその出土状態。この人骨は当時この遺跡雲夢
離宮を管理した役人ではないかと考えられています。骨の周りにある細い板が秦の律(刑法)を記した竹簡です。近代刑法を研究する先生ですら驚いた実に合理的な刑法だったそうです。それが今から2200年前に既にできていたというのですから恐ろしい!!)


(雲夢遺跡にはとてもよく四方の城壁が残っています。そしてこの城壁の内部に、以前もご紹介したことがある、侵入者の足跡を確認するための遺構がることも判明しました。)

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「寒風の 武関鎮の先 夢の跡」一度この道を通って雲夢まで行ってみたいものです。 

おまけ


(これなんだと思います? 牛の骨なんです。東龍山漢墓の盗掘坑の中に放り込まれていた牛1頭分の骨なんです。盗掘団が連れてきた牛が死んだので最後に放り込んだのか、はたまた懺悔の気持ちを込めて犠牲にしたのか?未だによく判らない牛投棄の状況なんです。判ったら教えて!)

「鈴鹿関と武関~軍事施設としての関の構造に関する一考察」の条

2009-01-19 23:23:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
伊勢湾・熊野地域研究会での発表1月22日19時から私の研究室横・センター室にて


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昨年末に再訪した陝西省商洛市の東端に位置する武関遺跡を中心にその構造と日本の三関とを比較した報告をこの木曜日にすることになった。


今準備でバタバタしている。

少し年末にも報告したとおり、武関は関中から南(東)へ抜ける古道(少なくとも秦代には確実に存在した)を抑える関所である。古都長安から秦嶺山脈を南に抜けて、商州・丹鳳を経て武関から南東・武漢方面へ抜ける交通路である。

かつて秦の始皇帝最後の行幸に際し通過した関でもある。

既によく知られているように秦漢時代には長安を中心に東西南北に五関が設けられていた。

東が函谷関であることはとてもよく知られている。現在の新安県には文化大革命によって破壊された函谷関の跡が復原されている。この駅の前は何回か通ったことがあるのだが、残念ながら未だに降りたことがない。函谷関から西を関中と呼ぶというのが通説である。

この関を通らなければ東都洛陽にも行く事ができない。

北の関が簫関。現在の慶陽市の西方銅川市の北西方向に推定されている。簫河が経河と合流する付近に所在したらしい。これを越えるとモンゴルへ抜けられる。

西の関は大散関と隴関である。大散関は現在の宝鶏市北の城関鎮付近にあったらしい。現在は渭水の支流千河を堰き止めて大きなダム湖ができているが、まさにその首根っこ付近にあったと推定されている。宝鶏には二度ほど行ったことがあるのだが、いずれの関も訪れたことがない。是非今度は行ってみたいものである。もちろんこれを越えるとシルクロードである。

そして南(東)が武関である。


(かすかに残る武関城の東の城壁)





(武関川の流れは東へ向かいやがて揚子江流域の武漢に至る)



(武関城の南の城壁があったはずの場所を南の川岸から見たところ。鈴鹿川の流れととてもよく似ているのは偶然だろうか)



(武関城の現在はどんどん旧家が壊され、新しくなっていっている。明清時代の関内の様々な施設が消えていっているのである。いいのだろうか)

これらの関の近くを最新の高速道路網が走っているのにも歴史を感じる。

今国分寺が面白い!の条

2009-01-15 02:57:42 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本

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第12回考古学研究会東海例会が開かれます!!多数のご参加を 

第12回考古学研究会東海例会
「東海地方における国分寺の造営」


(東辺の基壇の様子。伊勢国分寺跡講堂ただ今発掘中!)

『新修国分寺の研究』で、各国の調査研究現状が総括されてから10年以上が経ちますが、その間に、とくに東海地方につきましては、尾張・三河・遠江・伊勢で大規模な調査がおこなわれ、また美濃においてもこのたび報告書が刊行されるなど、全国的にみてもめざましい調査所見が得られてきております。これを期に、いちどそれらの所見を総括し、また各国の事例、全国的な研究成果等と付き合わせて検討することで、今後の国分寺の調査研究に大きく資することができると考えております。
本例会では東海地方の国分寺調査の最新成果を総合し、他地域の実例などとも比較しつつ議論を深めることで、国分寺造営の実態に迫り、さらにそれを今後の調査研究にフィードバックしていくことを目的といたします。

 日時 2009年2月7日(土) 13:00~17:30
    名古屋大学大学院文学研究科 237講義室
   (地下鉄名城線 名古屋大学駅下車すぐ)

13:00~13:05 開会挨拶 山中 章氏(三重大学)
   13:05~13:15 趣旨説明 梶原義実(名古屋大学)
   13:15~13:45 尾張:北條献示氏(稲沢市教育委員会)
13:45~14:15 三河:前田清彦氏(豊川市教育委員会)
14:15~14:30 休憩
14:30~15:00 伊勢:藤原秀樹氏(鈴鹿市考古博物館)
15:00~15:30 美濃:高田康成氏(大垣市教育委員会)
15:30~16:00 遠江:安藤寛氏(磐田市教育委員会)
16:00~16:15 休憩
16:15~17:25 シンポジウム
         司会:梶原義実(名古屋大学)
         コメンテーター:山路直充氏(市川市考古博物館)
17:25~17:30 閉会挨拶 中井正幸氏(大垣市教育委員会)

資料代:実費(1000円程度)


懇親会 18:00~ 名古屋大学生協フレンドリィ南部
    会費:3,500円

問い合わせ先:〒464-8601名古屋市千種区不老町
名古屋大学大学院文学研究科 考古学研究室
E-mail: kajiwara@lit.nagoya-u.ac.jp


 今日偶然伊勢国分寺の発掘調査現場を見てきました。
 たまたま別の授業で借用することになった土器を受け取りに鈴鹿市考古博物館にいったのですが、ナナナント広大な面積の発掘調査をやっていたのです。とても興味深い成果も出ています。是非現説には来て下さいね。

 鈴鹿市考古博物館の発掘ニュースより。

 発掘ニュース(1月4日)
伊勢国分寺跡(第35次)
鈴鹿市国分町字堂跡
 講堂基壇の正面(南面)の中央および東の階段の基底部分が確認されました。しかし,中央の階段も幅が1.8mしかありません。講堂基壇の立派さに反して,ちょっと寂しすぎる大きさです。どうやら,最後の基壇修復時に幅を縮めて造り直されたようです。
 新たに開けられた鐘楼・経蔵を求めるためのトレンチでも調査が続けられています。
 現地説明会は1月24日(土)午前10時から開催する予定です。県内で積みや瓦積みの基壇の発掘調査の様子を見ることができる機会はなかなかありませんので,ぜひこの機会にご見学ください。


(北東院の一角から出た小院の鬼瓦だそうです。)
伊勢国分寺(鈴鹿市考古博物館)の場所
URL: http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.90409083&lon=136.56749444&p=%E9%88%B4%E9%B9%BF%E5%B8%82%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&sc=5







(磚を立てた階段部分の磚)



(基壇南東角の様相)



(基壇の西辺)

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1月24日10時から伊勢国分寺の講堂の発掘調査成果が公表されます。多数のご来場を 
※背景は北東院周辺部出土文字刻印瓦

 「三宝の 奴の夢や 霜下の土」 企良

「コートさへ 鈴鹿の風に 苦闘して」の条

2009-01-13 08:47:24 | yaasan随想
「コートさへ 鈴鹿の風に 苦闘して」寒かった!!鈴鹿降ろしの厳しいこと

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(スワ!山田博士の怒りか?とにかく轟音を立てて迫り来る寒さにコートがもう一枚欲しかった!!)

 10・11日と山口に行っていた。
 恒例の山口大学での橋本義則さんの科研費の研究会だ。もうこれで何度山口に行ったことだろう。とても内容の濃い、新しい視点を次々と開かせてくれる素晴らしい会だ。

 今回のテーマは「複都制」。世界中の国が都市の機能を分担している。アメリカの首都がワシントンだということは誰もが知っているが、経済、外交、文化の中心がニューヨークだということもまたよく知られている。

 日本も、首都は東京だといいながら、大阪も依然として大きな力を保っているし、京都の文化力も棄てきれないでいる。名称がどうであれ、実質的に「複都制」が採られているというのである。

 では歴史的にどうなのか?

 これが主テーマである。

 研究会では、朝鮮(高句麗・百済・新羅)古代、渤海、中国明・清、日本古代の「複都制」が文献史学、考古学の両面から分析、議論された。

 とりわけ興味深かったのは田中俊明氏によって紹介された統一新羅の「小京」、小島芳孝・酒寄雅志両氏による渤海の五京制、新宮学氏による明永楽帝による両京制、橋本義則氏による聖武朝での「複都制」、林部均氏による天武朝・聖武朝難波宮の評価であった。
 いずれ研究会の報告書として刊行されるのであるが、その日が待ち遠しい力作揃いであった。近年、うわべだけのシンポジウムのためのシンポジウムの多い宮都の研究状況の中で、これだけ内容の濃い研究会を開くことができるのは橋本さんのお蔭だろう。そんなところに参加できて感謝!

 東アジア(に留まらないが)の宮都の現地に赴き、自ら足を進めて歩き回り、その実態を目と足で確かめ、もちろん研究報告資料を網羅的に収集分析して研究を深化させる。この姿勢に徹して既に3度の科研費が更新されている。間もなくその研究成果の一部が出版される予定だが、現在の古代日本の宮都研究が(形式的にだけ外国の研究者を呼んできて発表をやりとりするだけで、研究の内容が相互に十分理解されていない現状、)「日本」にこだわり続けるためにマンネリ化し、発表者の選択にも汲々している現状を見るに、その違いが歴然としている。

 だからといって、私自身がそれを十分に咀嚼できているかというと実はお恥ずかしい状況で、折角の機会を生かし切れていないことを大いに反省しなければならないのだが・・・。

 私の課題として以前から背負わされいる「副都難波京の正都長岡京への移転」に関しては、今回の研究会の成果を通じて益々確信が深まった。
 第一に、東アジア全体を通じても「複都制」という明確な”制度”はないということ。あるいは「複都制」を十分に、精緻に研究した成果がないこと。漠然と「複都制」を捉えているに過ぎないことが明確になった。
 第二に、それだけに益々日本古代の「複都制」という制度については確認し得ないということ。
 第三に、しかし、実態としての正都・副都は、副都天武朝・聖武朝難波宮(京)-もちろん孝徳朝難波長柄豊碕宮が正都(宮)であることはいうまでもない-との間において確認できること。ただし副都の機能を分析するには史料があまりに少なく、課題が多いこと。
 第四に、ただし、副都難波宮(京)があることによって正都のあるべき姿が鮮明に浮かび上がること。
 等々が確認できた。
 副都の機能などをほとんど解明にし得ない中で(しかし一方で正都の位置付けは益々鮮明になっているにもかかわらず)、形式的、表面的な共通点から(「少なくとも」と最近は断られることも多いが)長岡京前期を副都だという議論(?主張?主義?)が成り立ち得ないということが鮮明になった(誰もきちんとして「長岡京副都論」を文章化しない(できるはずがない!!)にもかかわらず、「水面下」?で公然と、こんな訳のわからない議論が繰り返されているところに日本の古代宮都研究の進まない問題点が内在している)。こんな不毛な課題を我々に突きつける前に、副都難波宮(京)がどれだけの機能を持っていたのかを真剣に追求すべきであろう。 

 そうした意味で、橋本・林部両氏の報告は今後の研究に大きな指針を与えて頂いたし、それに答える文章を示し、些末な「議論」に終止符を打たなければならないと実感した。なお、長岡京遷都によって実態としての副都も,福原京が造営される平安末期まで、なくなったことが再確認できた点も大きな成果であろう。
 その時、なぜ桓武王権が副都難波を廃止したのかが当然説明されなければならないのである(もちろんこれまでに説明してきたつもりだが、きちんとこうした点についても論文化すべきと感じた)。

 昨日は鈴鹿降ろしがとても厳しく、外に出るのをためらわれたが、共通教育の授業の一環で松阪市まで出かけることになった。そのせいで(と他人のせいにして逃げるだけだが)また歩みが止まってしまった。


反省!!反省!!→反省くらい猿でもするわい、という陰の声が・・・あなおそろしや 



 

山田博士のための昼食の条

2009-01-09 12:33:48 | Weblog
パセオのオススメはお勧め!!  

 つい先ほど大学の生協にある「パセオ」という店で昼食を食べた。基本的に昼はこの店のオススメとコーヒーが私の食事パターンだ。この昼の定食は実にバランスのいいものが出される。コーヒーを頼んでも680円だから私にとっては手頃な値段だ。
 もちろん日替わりの定食だが、煮物、揚げ物、焚き物、酢の物、サラダとみそ汁/ご飯。実に毎日いろいろなものが出てくる。飽きないし、味付けも僕には手頃だ(唯一の問題が、一ヶ月に1回くらい出る味噌カツ!!これだけはゴメン!!)。

 最近改装してお店も綺麗で快適。唯一の問題が、最近の学生は裕福になったのか、昼休みになると長蛇の列。1階の生協ももちろん超長蛇なのだが、昔はさほどでもなかったこの店までもが「侵略」(笑)されて、12時過ぎに行くととても座れないのだ。だからといって1時過ぎるとオススメがなくなる。このタイミングがとても難しい!!
 そこでやむなく私は朝を食べないので、朝昼兼用で11時過ぎに行く事にしている。しかし、この時間というのは授業と重なることも多いから、必然、行きそびれることもしばしば。


 ところで今日は私は授業がないので、11時に行こうとしたのだが、学生の相手をしているとあっと言う間に時間が、やっと12時15分前にすべり込み。

 そこで出た今日のメニューがこれ!

 
大根の煮付け
大根と鰹のフレークのサラダ
カレイの煮付けにおろし大根
みそ汁。

 
 ワンダフル!!

 とても美味しかった!!こんな食事をせずに、大酒を飲み、自分の好きなものばかりを外食し、特にしばしばラーメンを食べる。こんな偏食をするから風が吹いただけで痛くなる病気になるのです。

 博士のような貴重な研究者を50で失うわけには行きません。白寿、紀寿までお元気でいてもらうためには、一刻も早く大根嫌い教から脱会し、新たなる宗教、大根大好き教を立ち上げて、世界中の痛風患者を救うために立ち上がるべきです。南無阿弥陀仏。

 ところでNHK教育テレビで「おでんくん」という番組をやっています。これがなかなかの教養番組。大根嫌い!等という奴はだいこん先生が
 「喝!」
お尻ペンペン!!
なのです。山田博士も必ず見るべし。

 「おでんくん だいこん先生 お説教」NHK教育放送で見てね!! 

 ※1 おでんくん:http://www.odenkun.net/ 毎週金曜日午後6時20分から7時(ア、今日だ)

 ※2 大根先生 :http://www.odenkun.net/chara/index.html#

(もちろん、我が息子の息子はこの番組が大好き!!おでんも、大根も大大好き!だからとても元気。もちろん通風とは無縁!!!)

山田博士が危ない!の条

2009-01-09 12:00:00 | yaasan随想
昨夜久しぶりに山田邦和博士様からメールが入った。

****博士からの便り****

  「初詣 祈る心に 風痛し」

 (これは2009年1月3日にアップしたときのタイトルに用いた駄句である。もう忘れてしまっていて、ハテ、山田博士も俳句をお始めかな?等と思ってしまった。(笑))
《博士の言》
   この句は、「初詣に行って祈ると通風が痛くなる」、というふうに読めてしまいました。年末から通風の発作に苦しみ、年初にはノドをやられて声がでなくなった(現在進行形)山田でした・・

 ナナナント、博士は重病らしい。
 風が吹いただけで痛み、声も出ないとはもう駄目なのかも知れない。
 どこに入院なさっているのか?明日にでもお見舞いに行かねば!と思いながら、・・・それにしてはメールが打てるのだからまだ命には別状ないのかも知れない? フムフム、おかしいな!
と、メールの後半を読むと、宴会のお誘い!

 「ハ???」

 そこでよくメールを読み直すと、


 ジャーン!  通 風!

 要するに贅沢病! ええもん食い過ぎ! お酒の飲み過ぎ、偏食,特に大根を食べない!!ここに原因がある。同情して損をした。

 そこで、この博士の惨状を句にすることにした。


 101 痛風に 歪む顔さへ 初詣
  →飲みすぎ!に違いない。

 102 雑煮さへ  貌歪めつつ 食む五十路
(ぞうにさへ かほゆがめつつ はむいそじ)


 103 屠蘇までも 痛みに変はる 己丑春

 (とそまでも いたみにかはる きちゅうはる)


 104 マック等を 引きずり主 梅宮に

  (まっくらを ひきずりあるじ うめみやに)
 かわいそうに、歩けない博士は可愛いマック達を引きずるようにして初詣に出かけたらしい。

 105 五十路春 酒断ち麺断ち 痛み断ち
 
 (いそじはる さけたちめんたち いたみたち)
 20090108 山田博士が年末から痛風に苦しんでることを知り。同情するわけではなく。その日頃の行いの悪さをののしりつつ謡う。

 そうそう忘れるところでした。博士は今年の2月3日に無事五十歳のお誕生日をお迎えになるのです。人生50年とは過去のこと、博士のことですから、百歳までお元気のことでしょうから、やっと人生の半分。ますますお元気であられることをお祈り申しております。南無阿弥陀仏。

こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ「白寿越え 紀寿をも越えよ 博士春」めでたい、めでたい!! 


「その時歴史が動いた」意外な反応の条

2009-01-08 23:59:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
その時歴史が動いた!!もう再放送はないのかな? 

 一昨日の再放送で、一応「その時歴史が動いた」騒動は終了した。
 コメントをお寄せ頂いたはるめさんのように結構多くの方からお便りを頂いた。今年は喪中のため年賀状のやりとりがなかったので、お便りをもらったのは10人程度だが、本当ならもっとあったのだろう。年賀状以外にも電話を頂いたり懐かしい人から連絡をもらったりで、効果抜群だった。

 少し意外だったのは専門的な立場のかなりの人がこの番組をご覧になっていたことだ。
 そして反応にはおおよそ3種類あった。

 ① 長岡京なんてあまり知らなかったのでとても判りやすく面白かった
   →もちろん親戚や一般の方々。

 ② 桓武天皇の衣装や所作がおかしい!!時代考証がなってない!中途半端な内容だった!何でもっと長岡京のことを丁寧にしないんだ!という批判的なもの。

 ③ 山中の顔を久しぶりに見たが、えらく老けた(貫禄が出た・肥えた・背広姿が似合わない?(笑 ほっといて!))・・・その他諸々の個人的感想。

 もちろん私としては折角長期間にわたって様々な形で協力したのだから、もう少し長岡京中心に真面目にやって欲しかった。残念ながら放映されたものはとても中途半端で、タイトルの「平安京誕生」ともずれるし、一番酷かったのは映像だから、大して宣伝する気にもなれなかったのである。

 にもかかわらず、年賀状などで多くの方が「見た!!」と言われるととても複雑な気持ちだった。

 これだけの影響力があるのなら、やはり今度こそ長岡京を主テーマにやって欲しいと思ったものだ。NHKの影響力は大したものだ。なぜ歌手が安いギャラでも紅白に出るのかが判った気がする。

 それにしても一昨年秋に開催した歴博での長岡京展がこういう形で少しずつ広がりを見せてくれているところに、研究会も含めた長期の研究活動の意義を感じる。
 
 折角の盛り上がりなので、停滞している長岡京研究を再構築し、広く市民にも関心をもって頂くために、4月からこの番組の登場者(コメンテーター)で「長岡京ウオーク」を実施しようと思っている。

 詳細は後日発表する。乞うご期待!!

 「その時は 霜月11日 長岡へ」忘るることなかれ 

七草の朝の条

2009-01-07 23:35:43 | yaasan随想
七草の朝に年初の誓いがもう遅れだしていることを知り、唖然とする 

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  94 七草に 齢の重み 御杖の湯

  (ななくさに よわいのおもみ みつえのゆ)
 20090104、伊勢本街道探求の小旅の途中偶然御杖の姫石の湯に遭遇。地元産の野菜売り場には七草が並び、また一つ齢を重ねたことを知る。


  95 七草に 年初の誓い 遅々として 

 (ななくさに ねんしょのちかい ちちとして)
 20090107、七草の朝を迎え、早くも足踏みしている年初の誓い・「一歩一歩着実に」を思い起こし、気を引き締める。


 還暦を前後して、時間の経つのがとても早く感じられ出した。周りからも親しい方々が次々と去られ、寂しさは深まるばかりだ。それだけに毎日の一歩がとても重く、大切に感じられる。駄句を続けるのもそんな切迫感からかも知れない。
 駄句を記録するファイルがある。初句からもう95句にもなった。歳時記でも買おうかな、と少し思い始めている。

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 (さいじきに であうことのは いきいきと)

 

伊勢本街道探求-2 琴平山古墳の選地の条

2009-01-06 14:27:52 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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枯れ葉舞う  赤目の古跡  仁王立ち 

(かれはまう あかめのこせき におうだち)
 20090104 正月休みを終えて伊勢路に帰る途中、息子の運転で勢和から国道368号線を名張赤目まで抜けて待望の琴平山古墳に登る。




 
 (名張市の現説資料より)

 

 (峠村から名張川を下っていきます)


 (伊勢奥津→上・中・下太郎生→長瀬→夏見と下っていきました。この道を一日に2本だけ名張駅からバスが通っているわけです。昨年卒業した学生でここ太郎生から通っている女子学生がいました。大変!!)

  枯れ館 主が睨む 伊勢・大和
  (かれやかた あるじがにらむ いせ・やまと)
  20090104 今は知る人もあまりない多気の北畠館。現代人からしてみれば、 
 
 「どうしてこんな不便なところに?」



(2007年度の北畠館跡の調査で見付かった謎の石組み遺構群)

と首をかしげたくなるこの地こそ、かつて伊賀→大和、伊賀→伊勢北部、→伊勢中南部を一挙に睨むことのできる絶好の地であった。伊勢国司を担った北畠氏の熟慮の末の選地であろう。

 もちろん北畠にとってこの地が古くから王権と伊勢とを結ぶ交通の要衝であったと言う意識は十分にあったに違いない。細々と続いていた伊勢斎王制度は南北朝の頃途絶えてしまうが、平安時代には伊勢と伊賀・大和・山城を結ぶメインルートの一つであったことは間違いない。

木漏れ日に 映ゆる古道 布勢の露
(こもれびに はゆるふるみち ふせのつゆ)
20090104 葉の落ちた木々の間から射す初日に浮かび上がった伊勢路の古道は何となくうら悲しい暖かさを示してくれた。1200年前、布勢内親王は父桓武の死とによって役目を終え、都へ帰ることになる。しかし最早都には彼女を迎える父の姿がないと思うと、涙が溢れてくるのであった。



(壬申の乱ウオークで探訪したときの夏見廃寺。皆さんが座っているところが建物跡)

 大伯皇女の夏見廃寺、布勢内親王の寄進により成立した東寺大国庄、さらに遡ること100年前の天武天皇による「大安寺」への飯野郡中村野の寄進、そして伊勢中部に本格的な後期古墳(時代)の到来を告げる山添2号墳の築造、河田古墳群の形成(脚付短頸壺の配布)と、数多くの考古資料が眠っているのである。
 この道こそ、まさに「王権と伊勢」を結ぶ幹線道だったのである。

 そしてこの道を確実なものにしたのが、名張赤目に伊賀初めての横穴式石室を築いた琴平山古墳(現地説明会資料が公表されている)・丸尾山古墳の築造者であった。



 (前方部の金比羅様.この下に第3石室がある。)


(くびれ部の第2石室の石材。)


(発掘調査された後シートで覆われている後円部中央の第1石室。ここから兜や太刀が出たという。)


(この一帯が横山古墳群・丸尾山古墳群である。)

 いずれも畿内系の右片袖式の横穴式石室を持ち、6世紀初頭の畿内王権と深く繋がった勢力の墓域であろう。両古墳の築造を契機として,南の丘陵頂部には春日宮山古墳、宇陀川対岸に鹿高神社境内古墳が築造され、伊勢へのもう一つの出口である美旗から青山にかけて赤井塚古墳や桐ヶ谷15号墳が築造されるのであった。

 まさに伊賀随一の後期古墳の雄が赤目の地に築かれるところに大きな意味があるのである。そしてその地こそ、宇陀川沿いに伊賀に入り、「伊勢本街道」を用いて伊勢に入る首根っこの場所なのであった。

   金比羅を 覆う枯れ葉に 霊の宿
  (こんぴらを おおうかれはに れいのやど)
 琴平山古墳の前方部にはいつしか金比羅様が祀られている。その下に1基、前方部と後円部の境(くびれ部)に1基、後円部に1基と合計3基の横穴式石室が設けられている。伊賀南部特有の複数の横穴式石室を持つ後期古墳の最初である。


(琴平山古墳を西の平地から見たところ。正面の住宅の向こうに琴平山古墳がある。右手が大和方面、左手が伊勢本街道である。)


(琴平山古墳の南から西北方向を見た眺望)
 
 
 さて、そろそろ仕上げにかからないといかに温厚な山田邦和大博士様でも堪忍袋の緒が切れて怒鳴るに違いない。
 その上、このままだと新年宴会もできない。ごめんなさい、博士様。南無阿弥陀仏。
 
 早く宴会の日取りと場所を決めて下さいね。私は18日(日)が一番いいのだけれど・・・。

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金比羅を 覆う枯れ葉に 霊の宿

 (こんぴらを おおうかれはに れいのやど)
 実に明快!横穴式石室の展開と副葬された須恵器。皆さんも一度歩いてみて下さい。

 お勧めは①近鉄赤目口駅(名張の一つ大阪よりの駅)で降りて琴平山や鹿高神社境内古墳を歩く赤目コース、②名張駅から滅多にない三交バス(1日二本で昼は13時のみ)に乗って適当なところで降り(せめて上太郎生くらいまでは行った方がいいかも)、歩いて伊勢奥津を目指す。伊勢奥津発の名松線の最終は18時54分だからこれに遅れないように!!(もちろんバスにずっと乗って、伊勢奥津まで約一時間、車窓から伊勢本街道を楽しむのが安全かも(笑))もちろん松阪から名松線に乗り換えて伊勢奥津に入る手もある。(名松線の時刻表URL: http://www8.ekitan.com/norikae/Time/0_83-14_1_2.html 三交バスの時刻表URL: http://businfo.sanco.co.jp/)一度散策下さい。壬申の乱と関係ないけれど行ってみようかな?


伊勢本街道探求-1 「峠村 汲む人もなく 落柿の井」の条

2009-01-05 16:11:48 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本

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 「残雪の 伊勢街道に 大伯追い」短い旅をしました 

(ざんせつの いせかいどうに おおくおい)
 20090104 大伯皇女が斎王として初めての務めを終えて大和に帰るその道は,後に伊勢本街道と名付けられた櫛田川沿いの古道であった。その道を辿りながら、大伯の心情を思いやる。

 実は私は2002年に書いた論文の頃から飯野郡の南部、多気郡の一角に至る名張からの道、現在の国道368号線が、原始古代からの重要な古道の一つではないかと考えてきました。間もなく完成の朧谷先生古希記念論集への掲載予定原稿ではこの辺りを骨子にした文章をまとめています。しかし、一度もこの道を歩いたことも通ったこともないのに本当にそう言えるのか、少し気になっていました。本当は元日に行こうと思っていたのですが、あいにく偏頭痛でダウン!!偶然やってきたのが昨日。長男が長女と私を京都から津まで車で送ってやるというのです。

 車中で何気なく、
 「もし時間が許すんやったらちょっとドライブしてくれへんか」と言ってみると、
 「ええよ!!」と快諾。


(最新のカーナビとこの地図を頼りにいざ368へ!大袈裟な。)

急遽津の先の勢和インターまで高速を走って、そこから368号を北西行することに。丹生の交差点から朝柄・桜峠を経て粥見井尻の交差点へ。ここはかの有名な縄文草創期の土偶を出した粥見井尻遺跡の直ぐ横。もちろん現地に行くのはこれが初めて。しかし時間がないので、むしろ興味深かった粥見神社とその向かいにある大和信貴山毘沙門天に上がった。
 

(粥見神社と大和信貴山毘沙門天は向かい合った丘の上にあった。)



(毘沙門天からは眼下に粥見の集落と伊勢本街道、そして吉野へ向かう和歌山街道を見ることができた。)

  粥見路や 枯れ葉に眠る 原始人 
  (かゆみじや かれはにねむる げんしびと)







 木漏れ日に 映ゆる古道 布勢の露 (こもれびに はゆるふるみち ふせのつゆ)
20090104 葉の落ちた木々の間から射す初日に浮かび上がった伊勢路の古道は何となくうら悲しい暖かさを示してくれた。1200年前、布勢内親王は父桓武の死とによって役目を終え、都へ帰ることになる。しかし最早都には彼女を迎える父の姿がないと思うと、涙が溢れてくるのであった。


(仁柿峠へ向かってクネクネ道を行く。途中には櫃坂が・・・)




(仁柿峠にはかつて峠村があった。)

 峠村 汲む人もなく 落柿の井
(とうげむら くむひともなく らくしのい)
20090104 伊勢本街道を多気・粥見と進むと今はなき峠村にさしかかる。古家が取り壊されたのであろう、葉の落ちた柿の木の下に小さな古井戸がぽつんと残されていた。




(集落の裏には分水嶺を越えて、北西へ流れ出した名張川の小さな清流があった。)


(石垣だけがかつての村の繁栄を教えてくれる。)
  

(美杉を目指して北上!)

 昨年末12月28日にアップした北畠館跡の調査。どうしてこんな所に北畠は本拠を置いたのか?以前から大きな疑問だった。しかし、今回の探求でそれは見事に氷解した。この道の先は直ぐ美杉村(現在は津市)多気である。続きは次回。


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北畠の館跡とこうして道が繋がった!北畠がなぜこの地を選んだのか、よく理解できる。 


 ※背景の写真は大和信貴山毘沙門天の参道階段の途中から見た粥見の集落である。

「初詣 祈る心に 風痛し」の条

2009-01-03 23:59:01 | yaasan随想

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「箱根路を 駆けるゼッケン うらめしや」 

 私に信心の気持ちがないことは以前にも書いたことがある。
 
 なぜそうなのか?
 
 恐らくそれは子供の頃からそう躾けられてこなかったからだろうと思う。
 なにせ、両親に連れられて初詣に行った記憶がまるでない。大体正月といえば家でごろごろしている。さすがにそれも退屈だから父親にねだって百人一首をしたり、麻雀をしたりした。2日になると父親は母の兄のところへ年始に行ってしまうからこれもできず、相手を求めて、昨秋亡くなった生駒の伯母のところへ上の妹と出かけ、従姉妹と百人一首やトランプをする。こんな正月だった。

 正月とは「ゲームをする日」なのだ。どう記憶を辿っても神社仏閣へ参った印象がないのである。だから、成人して、人々があちこちの神社に初詣する光景を見てとても奇異に感じていた。

 この寒いのになぜ??その上さらにお賽銭を差し上げ、おみくじをひく!こんな馬鹿げた寄付行為はないではないか!!(きっと皆さんはyaaは何と不遜な人間なのだ!とお思いに違いない。)もちろん初詣以外でも三年前の友人の病魔に倒れたことをきっかけにあちこちの神社仏閣に平癒をお祈りするまでは全くお賽銭なるものをあげたことがない(今でも唯一、彼女の全快が果たせるまでは神社に行くとお祈りをし、お寺に行くとご祈祷のお札を捧げる。先日も中国、西安の大雁塔(大慈恩寺)に行った時、お線香を捧げたし、東寺に研究者仲間と行った時もご祈祷のお札をお願いした)。しかし、それ以外の祈りは一切しない。

 今朝、従兄弟の所に行くのに、ちょっと車で送ってもらおうと京都駅まで頼んだ。うっかり、稲荷大社の方角へ車を向けてしまったために、いつもの2倍以上の時間がかかってしまった。ニュースを見ていると、全国四位の人出だったそうだ。きっと万札が乱れ飛んでいるんだろうな・・・、そんなお金があるのなら、世界中の食べられない人々に差し上げたらいいのに!!と思わざるを得ない。
 また多くの参拝客が吉だの大吉だのと言って大騒ぎしているのだろうなーーーと思うとゾッとする。
 
 そもそもおみくじなんてものはどこの神社が開発した集金方法か知らないが、これほど馬鹿げた行為は世界中を見てもないのではないだろうか。毎朝のテレビで繰り返される「占い」もそうだが、いつから日本人はこんなに物事の判断を神様にお願いするようになったのだろうか。とても悲しい!!(そんなに目くじらたてんでもええやないか!と言う声も聞こえてきそうだが、いろいろな神様が実にいいかげんな「歴史」を作り上げてまことしやかに祭り上げているだけに腹が立つ。)

 お稲荷さんにしたって、渡来人の神様だったものが、一体いつから商売の神様に変身したんや!まさに稲荷大社の商売のために作り上げられたもんやおまへんか!

 朝からたくさんのお稲荷さんへの参拝客で我が村の一角は交通麻痺!コンチクショウめ! 

 それはそうと、予想に反して東洋大学が優勝しましたね!!私は昨日の宣言通り、早稲田がゴールする瞬間が見たくなかったのでテレビは見なかったのですが、ニュースで知って大喜び!!どこぞの野球チームもそうだが、読売の息のかかったスポーツチームというのは有名選手ばっかり集めてきて,結局期待を裏切られる。そんな思いを今日もまた強くしたのでした。
 それにしてもどうして公共放送が、一部の地域の陸上部の選手にしか出場を認めないゲームを白昼堂々と放送するんですかね。今年もまた聞いたこともない大学が出てたけれど、二日間あの名前が叫ばれるだけで、何億という宣伝費が浮くんですものね。関東以外の大学はかわいそう!!

 そんなことはどうでもいいのです。やっと三が日が終わったので、今年はメリハリを付けて明日から原稿に突入します。最初の一歩です。果たして今年は後三六二歩着実に進めるか、皆さん、厳しく監視下さいね。

「還暦を 越えて初日に 学びの誓い 」の条

2009-01-02 18:24:37 | yaasan随想
「寝正月 今年は一歩 確実に」と、大言壮語を吐かず、一歩一歩確実に!が今年の誓いの言葉です 


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 昨年はいろいろありました。近しい人々五人との別れがありました。そんなわけで今年は正月はありませんでした。生まれて初めて京都を離れ、三重の官舎で正月を迎えました。
 年末に喪中のお便りを出しました(先ほど京都大学の山中一郎先生から封書を頂きました。先生も昨年お母様を亡くされたとか。そのお手紙にはとても心がこもっていて、先生の心の優しさがよく伝わってきました。ご冥福をお祈り致します)ので、もちろん年賀状も基本的にはありません。その上、大晦日の除夜の鐘が鳴る直前まで研究室で大掃除に励んでいたのが祟ったのか、元旦の朝は頭がガンガン(癌ではありませんよ)、頭部右側の神経がピリピリ(昔から肋間神経痛の気があるんですが、それが上に上がったのかな?)、やむなくビタミンBとバファリンの大量投与で昼間から夜までぐっすり睡眠!!

 夜になって薬が効いたのか少し落ち着いて晩ご飯。久しぶりにビールを飲むと缶ビールの小さいの二本で酔っぱらってしまってまた睡眠。

 そのお蔭か、今朝は何とか8時にはばっちり目覚め。しかし、することがないので仕方なく駅伝を見ると、むかつくことに大嫌いな早稲田、早稲田・・・(あ、これ、ひょっとして去年も書いたかも)、そうこうするうちに京都へ帰る時間に。ナナナント、昨年末のお願いが通じたのか、津駅でかの怨霊博士山田大先生にばったり遭遇!!これは年初から何とも縁起がいいや。と言うことで駅頭で新年のご挨拶。可愛い逸子ちゃんにもこんにちは!


(名張を出てシャッターチャンスを待ちました。赤目口の東の丘を狙ったのですが・・・)

 正月に出歩くことのない私なので、珍しく昨年末からこの日の特急を予約しておいて大正解。立っている人も出るほどの超満員。お昼過ぎに帰宅してテレビを付けると鉾根の山のデッドヒート!!テレビとは全く逆の「負けろ早稲田!早稲田が負ければどこが勝手もいい!!」の大合唱。その甲斐あってか、一度は山梨学院大がトップに.「万歳万歳万歳」の歓喜。ところが、「エエッツ!なんじゃこれ」オーバーペースで山学が後退!「万事休す!!」かと思いきや、神は見放さず。



(残念ながらうまく撮れませんでした。ちょうどこの写真の間が目的地でした。何でこんなとこを狙ったのか?て。それは、この先にある琴平山古墳と丸尾山古墳が,今書いている朧谷先生の古希記念論集の論理展開に欠かせない、とても大事な古墳だとはっきりしてきたからなんです。まだ書けないで苦しんでいるんですが、 牛 歩 をお許し頂いて、今少しのご勘弁を!山田博士様お願いします。南無阿弥陀仏)
 東洋大学柏原、4分58秒差を追いついて、それもあの箱根の山で追いついて、あっと言う間に追い越して、とうとう一番でゴールイン!!(スポーツ音痴の山田邦和博士はこの喜びようが判らないだろうな,残念!)万歳の声鳴り止まず。私にとってどこが勝とうがどうでもいい、あの憎き早稲田、それも瀬古がまたまた解説している、あの早稲田が目の前で、去年とは逆に惨めに負けたことが嬉しかった。アー、今年は春から縁起がいい!!すっきり!!!(何といっても私は瀬古が原と同じくらい嫌い!!この二人がなぜ嫌いかを語らせたら何時間でも話せるが、要するに肝心の時に打たない、走れない、そのくせ若大将だ等と読売が持ち上げて[スター]に無理矢理した人物。)

 あー、とにかく

 今年は春から縁起がいいや!!

 でも、明日はひょっとすると早稲田が総合優勝するかも知れないから、テレビは見ない!!瀬古-渡辺の嬉しそうな顔なんてクソ食らえ。(なお、誤解のないように申しておきますが、私、正月早々に、大嫌いな読売新聞がギャギャーがなり立てて駅伝をやる上に、早稲田早稲田とエコ贔屓するからイヤなんです。瀬古が出ずに、普通に駅伝の中継をしてくれれば別に早稲田が勝とうが、負けようがどうでもいいんです。所詮箱根駅伝なんて今や私立大学の公共放送を用いたただの宣伝行為なんですから!!)

 と言うことでこれから正月の祝杯!!アー今年は春から縁起がいいや!!山田雄司博士様、本当にお世話になります。

 こんな馬鹿げた[正月]を明日で終えて、明後日から新年を始動します。昨年は大言壮語を年初に掲げ、山田博士に馬鹿にされ(それが本当で、年初の誓いは直ぐに吹っ飛んだ!)、大いに反省した結果です。

 もう人生の終わりに向けてのカウントダウンに入りましたので、いつ終わるか知れない「その時」に向かって、一歩一歩確実に進むことにしました。だから年初の誓いはなし。年末から始まった長距離走をしっかり走ることにします。

 晦日にも 伊勢海(いせみ)の波頭 共にして

 42.195kmの最後の100mかも知れないと思って・・・。

 今年からよろしく。今年からよろしく。

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初原稿 満員特急で 打つ重さ