今日は今頃広島大学考古学研究室創設40周年記念パーテー(何と私はその五期生なんですよね)が終わって、流川界隈で大騒ぎしているところだったのに、三重大学の「公開講座」なるものにひっつかまってしまい、下記のような講演をする羽目になり、残念ながら行けませんでした。悔しい!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/73/42f6aaf7d860e90fb58742444bcc4c5c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/88/67fd18a55dc920ee903c2f91f069b8c9.jpg)
(僕が唯一広島大学の主催する発掘調査に参加させてもらった遺跡・岩田遺跡(縄文晩期のドングリの貯蔵穴が著名)の見取り図が山口県熊毛郡平生町のホームページに載っていました。当時私は平生町史のアルバイトで、明治時代の議会記録の翻刻??をやっていました。この地図で見ると本当に私達の寝泊まりしていた公民館の目と鼻の先に岩田遺跡があったことが分かります。研究室の連中は別のところに泊まって合宿していたようですが私はその場所すら知らないくらいすねていました。それを気にしてか、町史の編纂をやっていた当時日本史研究室の大学院生だったSEさん(現島根大学教授)が私を無理矢理遺跡に連れて行ってくれたのでした。直ぐ横では先輩達が地面に這い蹲ってドングリピットを掘っていたことを鮮明に憶えています。私も黒曜石の石鏃を掘り出し、密かに感動していました(本当は縄文研究者に憧れていたので・・・)。もうあれから35年の歳月が流れてしまいました。)
その上二週間分の仕事を処理し、あちこちに連絡などしていたらあっという間に朝になり、今日もまた完徹!アー眠い!こんなので明日からヴェトナムに行くとはとても思えない。もっともいつものことだけれどね。
帰ってきたらライスペーパーをしこたま買い込んでくるので大生春巻きパーテーを三重大ですることになっている。そちらの方こそ楽しみだ。
ホンじゃ皆さん2週間後までさようなら。しっかり山田博士のブログを応援しておいてね。バイバイ!尚、我が家族が国際線の飛行機に乗ると飛行機が堕ちるか大地震が起きるというジンクスが続いています。呉々もお乗りになる時はご注意のほど!
2005.11.26 13:30~15:00
久居市総合福祉会館
三重大学公開セミナー
上野遺跡をとりまく世界 三重大学人文学部 山中 章
はじめに
(1)私たちの過去と現在
・私たちは今何故三重県に住んでいるのでしょうか?
→ご先祖様の代から住んでいるから?
→お祖父さんが○○から出てきて先生をしていたから?
→親父が転勤族で・・・
・多様な過去を持つ私たちが今この地に住んでいます。そして日本という国を形成しています。
・しかし過去がなければ現在はありません。一つ一つの過去の積み重ねが私達の現在を規定しています。
・人間一人が生まれるのに40代前(約1200年前)まで遡ると何人の人間が関与したか知っていますか?
→1兆人です!!
→私たち人類はその誕生からするととてつもない「人間」の過去を背負っているのです。
→人間という種が絶滅しなかったのは過去の人々のたぐいまれな「智恵」があったからです。
→私達は今本当に「智恵」を働かせているでしょうか?
(2)消えた歴史と自然
・上野遺跡には久居の過去が凝縮していました
→最初にこの地に注目したのは弥生時代の人々でした。小さな村や墓が作られました。
→ついで、古墳時代になると墓域として注目され、6世紀後半には300基ともいわれる大群集墳が築かれ、聖なる場所として用いられたのです。私はこの時代からの歴史が現在にまで直接繋がっていると考えています。
→奈良時代になると律令国家という今の日本の骨格となる国ができました。上野遺跡にも初めて家が建ち、倉が設けられ、本格的な町作りが始まったかに見えます。
→しかし町?は直ぐ消え去り、次に人々が住み始めるのは鎌倉時代になってからです。
→特に室町時代には急に大きな村?ができ、数百人の人々が暮らしたと思われます。
→ところが豊臣秀吉が進出すると、小さな城を築き村を撤去してしまいました。
・自然の宝庫でもありました
→以後、上野の丘に人々が住むことはありませんでした。
→いつしか丘には大きな木が育ち、狸や兎、カブトやゲンジが住み、周りの村を風から守ってくれるようになりました。
→しかし今私たちがそれを失って・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/2b/2f1aacbdafbee0daeb656cdd2385b8a7.jpg)
Ⅰ上野遺跡は農村か都市か
(1)室町時代の上野遺跡
・上野遺跡の中世は鎌倉時代に始まります。
→まず北側から丘に入る道が整備されます。
→道を中心にして南北に建物が建ちはじめ小さな村が形成されます。
・室町時代になると「村」が急激に拡大します。
→屋敷地の周りが溝で囲われ、丘を縦横に走る道路網が形成されます。
→屋敷には大小があり、大きなもので1600㎡、小さなもので400㎡あり、明らかに住人に階層差のあったことが分かります。
→屋敷地の分布にも傾向があり、北西部の一番奥まったところに大きな屋敷が、川沿いに小さな屋敷が展開します。
→さらに最近の調査では西側に大きな広場が広がっていることも確認されました。
(2)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e9/fd969305257f0656432da1538a335f7e.jpg)
(3)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲津川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。
(4)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。
(5)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲出川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
・軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。
(この図は2001年3月24日発行の上野遺跡調査団から公表された図です。従って、今年になって発見された西側の広場の状況などはまだ記されていません。ちなみに、この図面中央下に深い谷が入り込んでいます―第7地区と書いてある左側の等高線―。この谷の両側に小さな屋敷が広がります。)
Ⅱ一志郡の中の上野遺跡
(1)古墳時代の一志郡
・古墳時代前期から中期にかけての一志郡の中心は雲出川右岸、特に中村川右岸の後の民太郷や須可郷の地域にあったと考えられます。
・上野1号墳や庵ノ門1号墳などの前方後円墳や前方後方墳等の首長墓が展開し、伊勢中部の中心的な勢力の存在した地域でした。一志郡を支配したのは一志君と呼ばれる豪族だったようです。
・ところが古墳時代後期の6世紀に入っると、一志郡の中心は現在の一志町の辺りに移動し、後の八田郷を中心に大和との関係の深い右片袖式の横穴式石室を持つ群集墳が展開します。
・特に6世紀中頃以降になると雲出川右岸の丘陵城には多くの群集墳が形成され、あたかも眼下の雲出川とこれに沿って通じる道路を見守るように分布します。
・同じ頃久居市新家に設置さえるのが新家屯倉です。
・当時の最高権力者物部麁鹿火が管理していたことが知られています。
・この時代雲出川流域の支配は主に物部氏が担当していたようです。
・現在の白山町の東端には鬼門塚という小さな古墳がありました。ここからは物部氏との関係を象徴する単龍環頭太刀が発見されています。
・上野遺跡に古墳が造られたのはこの後のことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/01/04affe0e49a36d6b7b6e9f684eafa7b0.jpg)
(三重県からは4例ほどの環頭太刀が発見されていますが、3例までは単龍です。双龍は6世紀後半の四日市市・死人谷横穴から発見されています。)
(2)古代の一志郡
・8世紀になると日本列島は青森県以北と鹿児島県南部を除き律令政府が統治する国になります。
・全国に現在の都道府県に相当する国が置かれ((66カ国)、国の内部には古墳時代に各豪族が支配した地域を単位とする郡が置かれます。
・郡の内部にはさらに郷や里が置かれ、ほぼ今日の行政区画が完成します。
・伊勢国には13郡(桑名、員弁、朝明、鈴鹿、三重、川曲、奄芸、安濃、一志、飯高、飯野、多気、度会)が置かれ、一志郡には10郷(八太、日置、島抜、民太、神部、須可、小川、呉部、宕野、余戸)あったことが平安時代初めの史料から明らかです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/86/11906ad43f103cc4177ac66af75f0c5e.jpg)
・特に一志郡の大きな特徴は天武天皇の頃に建設されたたくさんの寺院が展開していることです。
・さらに天武天皇によって創出された斎王の制度を維持するために一志郡には斎王が宿泊する頓宮が置かれたと考えられています。
・一志頓宮の跡はまだ発見されていませんが、一志町の片野遺跡は有力候補地です。
・上野遺跡の古代に関する遺構は数棟の建物だけです。
・しかし、倉庫などがあり、ひょっとすると小さなお役所があった可能性があります。
・日置郷を治めた郷長・里正の館かも知れません。
・奈良時代の上野遺跡は室町時代の上野遺跡の原型だったのかも知れません。
・残念ながら今の情報ではこれだけしか分かりません。
・いずれにしろ、奈良時代にもこの地は大和と伊勢を結ぶ大事な交通路の一角でした。
おわりに
・私達は上野遺跡を失ってしまいました。
・もう取り戻すことはできません。
・美しい自然も失われてしまいました。
・私達の子孫のために今なすことができることは何でしょう?
・しっかり考えてやらないととんでもないことになるような気がします。
・地球が砂漠化する前に、今こそ私達が文化的な自然景観を考える時ではないでしょうか。
〈参考図〉 右散村の典型的な遺跡・宮田遺跡と集村の典型例・上町遺跡
ランキング登録もよろしくね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/73/42f6aaf7d860e90fb58742444bcc4c5c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/88/67fd18a55dc920ee903c2f91f069b8c9.jpg)
(僕が唯一広島大学の主催する発掘調査に参加させてもらった遺跡・岩田遺跡(縄文晩期のドングリの貯蔵穴が著名)の見取り図が山口県熊毛郡平生町のホームページに載っていました。当時私は平生町史のアルバイトで、明治時代の議会記録の翻刻??をやっていました。この地図で見ると本当に私達の寝泊まりしていた公民館の目と鼻の先に岩田遺跡があったことが分かります。研究室の連中は別のところに泊まって合宿していたようですが私はその場所すら知らないくらいすねていました。それを気にしてか、町史の編纂をやっていた当時日本史研究室の大学院生だったSEさん(現島根大学教授)が私を無理矢理遺跡に連れて行ってくれたのでした。直ぐ横では先輩達が地面に這い蹲ってドングリピットを掘っていたことを鮮明に憶えています。私も黒曜石の石鏃を掘り出し、密かに感動していました(本当は縄文研究者に憧れていたので・・・)。もうあれから35年の歳月が流れてしまいました。)
その上二週間分の仕事を処理し、あちこちに連絡などしていたらあっという間に朝になり、今日もまた完徹!アー眠い!こんなので明日からヴェトナムに行くとはとても思えない。もっともいつものことだけれどね。
帰ってきたらライスペーパーをしこたま買い込んでくるので大生春巻きパーテーを三重大ですることになっている。そちらの方こそ楽しみだ。
ホンじゃ皆さん2週間後までさようなら。しっかり山田博士のブログを応援しておいてね。バイバイ!尚、我が家族が国際線の飛行機に乗ると飛行機が堕ちるか大地震が起きるというジンクスが続いています。呉々もお乗りになる時はご注意のほど!
2005.11.26 13:30~15:00
久居市総合福祉会館
三重大学公開セミナー
上野遺跡をとりまく世界 三重大学人文学部 山中 章
はじめに
(1)私たちの過去と現在
・私たちは今何故三重県に住んでいるのでしょうか?
→ご先祖様の代から住んでいるから?
→お祖父さんが○○から出てきて先生をしていたから?
→親父が転勤族で・・・
・多様な過去を持つ私たちが今この地に住んでいます。そして日本という国を形成しています。
・しかし過去がなければ現在はありません。一つ一つの過去の積み重ねが私達の現在を規定しています。
・人間一人が生まれるのに40代前(約1200年前)まで遡ると何人の人間が関与したか知っていますか?
→1兆人です!!
→私たち人類はその誕生からするととてつもない「人間」の過去を背負っているのです。
→人間という種が絶滅しなかったのは過去の人々のたぐいまれな「智恵」があったからです。
→私達は今本当に「智恵」を働かせているでしょうか?
(2)消えた歴史と自然
・上野遺跡には久居の過去が凝縮していました
→最初にこの地に注目したのは弥生時代の人々でした。小さな村や墓が作られました。
→ついで、古墳時代になると墓域として注目され、6世紀後半には300基ともいわれる大群集墳が築かれ、聖なる場所として用いられたのです。私はこの時代からの歴史が現在にまで直接繋がっていると考えています。
→奈良時代になると律令国家という今の日本の骨格となる国ができました。上野遺跡にも初めて家が建ち、倉が設けられ、本格的な町作りが始まったかに見えます。
→しかし町?は直ぐ消え去り、次に人々が住み始めるのは鎌倉時代になってからです。
→特に室町時代には急に大きな村?ができ、数百人の人々が暮らしたと思われます。
→ところが豊臣秀吉が進出すると、小さな城を築き村を撤去してしまいました。
・自然の宝庫でもありました
→以後、上野の丘に人々が住むことはありませんでした。
→いつしか丘には大きな木が育ち、狸や兎、カブトやゲンジが住み、周りの村を風から守ってくれるようになりました。
→しかし今私たちがそれを失って・・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/2b/2f1aacbdafbee0daeb656cdd2385b8a7.jpg)
Ⅰ上野遺跡は農村か都市か
(1)室町時代の上野遺跡
・上野遺跡の中世は鎌倉時代に始まります。
→まず北側から丘に入る道が整備されます。
→道を中心にして南北に建物が建ちはじめ小さな村が形成されます。
・室町時代になると「村」が急激に拡大します。
→屋敷地の周りが溝で囲われ、丘を縦横に走る道路網が形成されます。
→屋敷には大小があり、大きなもので1600㎡、小さなもので400㎡あり、明らかに住人に階層差のあったことが分かります。
→屋敷地の分布にも傾向があり、北西部の一番奥まったところに大きな屋敷が、川沿いに小さな屋敷が展開します。
→さらに最近の調査では西側に大きな広場が広がっていることも確認されました。
(2)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e9/fd969305257f0656432da1538a335f7e.jpg)
(3)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲津川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。
(4)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。
(5)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲出川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
・軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。
(この図は2001年3月24日発行の上野遺跡調査団から公表された図です。従って、今年になって発見された西側の広場の状況などはまだ記されていません。ちなみに、この図面中央下に深い谷が入り込んでいます―第7地区と書いてある左側の等高線―。この谷の両側に小さな屋敷が広がります。)
Ⅱ一志郡の中の上野遺跡
(1)古墳時代の一志郡
・古墳時代前期から中期にかけての一志郡の中心は雲出川右岸、特に中村川右岸の後の民太郷や須可郷の地域にあったと考えられます。
・上野1号墳や庵ノ門1号墳などの前方後円墳や前方後方墳等の首長墓が展開し、伊勢中部の中心的な勢力の存在した地域でした。一志郡を支配したのは一志君と呼ばれる豪族だったようです。
・ところが古墳時代後期の6世紀に入っると、一志郡の中心は現在の一志町の辺りに移動し、後の八田郷を中心に大和との関係の深い右片袖式の横穴式石室を持つ群集墳が展開します。
・特に6世紀中頃以降になると雲出川右岸の丘陵城には多くの群集墳が形成され、あたかも眼下の雲出川とこれに沿って通じる道路を見守るように分布します。
・同じ頃久居市新家に設置さえるのが新家屯倉です。
・当時の最高権力者物部麁鹿火が管理していたことが知られています。
・この時代雲出川流域の支配は主に物部氏が担当していたようです。
・現在の白山町の東端には鬼門塚という小さな古墳がありました。ここからは物部氏との関係を象徴する単龍環頭太刀が発見されています。
・上野遺跡に古墳が造られたのはこの後のことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/01/04affe0e49a36d6b7b6e9f684eafa7b0.jpg)
(三重県からは4例ほどの環頭太刀が発見されていますが、3例までは単龍です。双龍は6世紀後半の四日市市・死人谷横穴から発見されています。)
(2)古代の一志郡
・8世紀になると日本列島は青森県以北と鹿児島県南部を除き律令政府が統治する国になります。
・全国に現在の都道府県に相当する国が置かれ((66カ国)、国の内部には古墳時代に各豪族が支配した地域を単位とする郡が置かれます。
・郡の内部にはさらに郷や里が置かれ、ほぼ今日の行政区画が完成します。
・伊勢国には13郡(桑名、員弁、朝明、鈴鹿、三重、川曲、奄芸、安濃、一志、飯高、飯野、多気、度会)が置かれ、一志郡には10郷(八太、日置、島抜、民太、神部、須可、小川、呉部、宕野、余戸)あったことが平安時代初めの史料から明らかです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/86/11906ad43f103cc4177ac66af75f0c5e.jpg)
・特に一志郡の大きな特徴は天武天皇の頃に建設されたたくさんの寺院が展開していることです。
・さらに天武天皇によって創出された斎王の制度を維持するために一志郡には斎王が宿泊する頓宮が置かれたと考えられています。
・一志頓宮の跡はまだ発見されていませんが、一志町の片野遺跡は有力候補地です。
・上野遺跡の古代に関する遺構は数棟の建物だけです。
・しかし、倉庫などがあり、ひょっとすると小さなお役所があった可能性があります。
・日置郷を治めた郷長・里正の館かも知れません。
・奈良時代の上野遺跡は室町時代の上野遺跡の原型だったのかも知れません。
・残念ながら今の情報ではこれだけしか分かりません。
・いずれにしろ、奈良時代にもこの地は大和と伊勢を結ぶ大事な交通路の一角でした。
おわりに
・私達は上野遺跡を失ってしまいました。
・もう取り戻すことはできません。
・美しい自然も失われてしまいました。
・私達の子孫のために今なすことができることは何でしょう?
・しっかり考えてやらないととんでもないことになるような気がします。
・地球が砂漠化する前に、今こそ私達が文化的な自然景観を考える時ではないでしょうか。
〈参考図〉 右散村の典型的な遺跡・宮田遺跡と集村の典型例・上町遺跡
ランキング登録もよろしくね