yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

【最新情報(NEWS)】 行ってきまーす!ヴェトナムへ

2005-11-26 23:18:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は今頃広島大学考古学研究室創設40周年記念パーテー(何と私はその五期生なんですよね)が終わって、流川界隈で大騒ぎしているところだったのに、三重大学の「公開講座」なるものにひっつかまってしまい、下記のような講演をする羽目になり、残念ながら行けませんでした。悔しい!!


(僕が唯一広島大学の主催する発掘調査に参加させてもらった遺跡・岩田遺跡(縄文晩期のドングリの貯蔵穴が著名)の見取り図が山口県熊毛郡平生町のホームページに載っていました。当時私は平生町史のアルバイトで、明治時代の議会記録の翻刻??をやっていました。この地図で見ると本当に私達の寝泊まりしていた公民館の目と鼻の先に岩田遺跡があったことが分かります。研究室の連中は別のところに泊まって合宿していたようですが私はその場所すら知らないくらいすねていました。それを気にしてか、町史の編纂をやっていた当時日本史研究室の大学院生だったSEさん(現島根大学教授)が私を無理矢理遺跡に連れて行ってくれたのでした。直ぐ横では先輩達が地面に這い蹲ってドングリピットを掘っていたことを鮮明に憶えています。私も黒曜石の石鏃を掘り出し、密かに感動していました(本当は縄文研究者に憧れていたので・・・)。もうあれから35年の歳月が流れてしまいました。)

その上二週間分の仕事を処理し、あちこちに連絡などしていたらあっという間に朝になり、今日もまた完徹!アー眠い!こんなので明日からヴェトナムに行くとはとても思えない。もっともいつものことだけれどね。

帰ってきたらライスペーパーをしこたま買い込んでくるので大生春巻きパーテーを三重大ですることになっている。そちらの方こそ楽しみだ。

ホンじゃ皆さん2週間後までさようなら。しっかり山田博士のブログを応援しておいてね。バイバイ!尚、我が家族が国際線の飛行機に乗ると飛行機が堕ちるか大地震が起きるというジンクスが続いています。呉々もお乗りになる時はご注意のほど!


2005.11.26 13:30~15:00
久居市総合福祉会館
三重大学公開セミナー

上野遺跡をとりまく世界 三重大学人文学部 山中 章

はじめに

(1)私たちの過去と現在
・私たちは今何故三重県に住んでいるのでしょうか?
→ご先祖様の代から住んでいるから?
→お祖父さんが○○から出てきて先生をしていたから?
→親父が転勤族で・・・
・多様な過去を持つ私たちが今この地に住んでいます。そして日本という国を形成しています。
・しかし過去がなければ現在はありません。一つ一つの過去の積み重ねが私達の現在を規定しています。
・人間一人が生まれるのに40代前(約1200年前)まで遡ると何人の人間が関与したか知っていますか?
→1兆人です!!
→私たち人類はその誕生からするととてつもない「人間」の過去を背負っているのです。
→人間という種が絶滅しなかったのは過去の人々のたぐいまれな「智恵」があったからです。
→私達は今本当に「智恵」を働かせているでしょうか?

(2)消えた歴史と自然
・上野遺跡には久居の過去が凝縮していました
→最初にこの地に注目したのは弥生時代の人々でした。小さな村や墓が作られました。
→ついで、古墳時代になると墓域として注目され、6世紀後半には300基ともいわれる大群集墳が築かれ、聖なる場所として用いられたのです。私はこの時代からの歴史が現在にまで直接繋がっていると考えています。
→奈良時代になると律令国家という今の日本の骨格となる国ができました。上野遺跡にも初めて家が建ち、倉が設けられ、本格的な町作りが始まったかに見えます。
→しかし町?は直ぐ消え去り、次に人々が住み始めるのは鎌倉時代になってからです。
→特に室町時代には急に大きな村?ができ、数百人の人々が暮らしたと思われます。
→ところが豊臣秀吉が進出すると、小さな城を築き村を撤去してしまいました。
・自然の宝庫でもありました
→以後、上野の丘に人々が住むことはありませんでした。
→いつしか丘には大きな木が育ち、狸や兎、カブトやゲンジが住み、周りの村を風から守ってくれるようになりました。
→しかし今私たちがそれを失って・・・・



Ⅰ上野遺跡は農村か都市か

(1)室町時代の上野遺跡
・上野遺跡の中世は鎌倉時代に始まります。
→まず北側から丘に入る道が整備されます。
→道を中心にして南北に建物が建ちはじめ小さな村が形成されます。
・室町時代になると「村」が急激に拡大します。
→屋敷地の周りが溝で囲われ、丘を縦横に走る道路網が形成されます。
→屋敷には大小があり、大きなもので1600㎡、小さなもので400㎡あり、明らかに住人に階層差のあったことが分かります。
→屋敷地の分布にも傾向があり、北西部の一番奥まったところに大きな屋敷が、川沿いに小さな屋敷が展開します。
→さらに最近の調査では西側に大きな広場が広がっていることも確認されました。

(2)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。



(3)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲津川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。

(4)上野遺跡集村説
・広瀬和雄さんの研究によると10世紀後半頃から日本の村は一定の傾向を示すようにあるといいます。
・中世前期(10世紀後半から13世紀頃)の農村は農家が分散し、その周りに各農家が耕作する水田や畑が展開する散村と呼ばれる景観を呈したといいます。
・もちろん農家には大きな家と小さな家があり、階層差が認められました。
・ところが中世後期(13世紀後半から15世紀)になると農村がまとまりはじめ、村の周りを垣で囲った垣内集落や屋敷地の周りを溝で囲った家が集まる村(集村)が出現します。
・広瀬先生は上野遺跡はその典型だと高く評価されています。

(5)上野遺跡港湾都市説
・実は私は広瀬先生と少し違った意見を持っています。
・雲津川を利用した水上交通の拠点・港ではないかと思うのです。
・特に最新調査情報によると、遺跡の西側には雲出川に通ずる道が真っ直ぐ南北に延び、その東側に大規模な広場があるといいます。
・広場からは小さな穴は見つかるのですが、建物はありません。テント小屋程度のものが立ち並ぶ市ではないかと思うのです。
・雲出川の上流には当時の伊勢国を支配した北畠氏の館が認められます。
・少し下流には伊勢湾に沿って南北に走る街道の存在が想定できます。
・軍事的にも、北畠氏にとって、雲出川の平野部への出口に当たるこの地は最も重要な場所でした。
・だからこそこの地には重臣木造氏を配置していたのです。
・軍事・経済・流通の拠点としての上野遺跡、これが私のイメージです。
(この図は2001年3月24日発行の上野遺跡調査団から公表された図です。従って、今年になって発見された西側の広場の状況などはまだ記されていません。ちなみに、この図面中央下に深い谷が入り込んでいます―第7地区と書いてある左側の等高線―。この谷の両側に小さな屋敷が広がります。)

Ⅱ一志郡の中の上野遺跡

(1)古墳時代の一志郡
・古墳時代前期から中期にかけての一志郡の中心は雲出川右岸、特に中村川右岸の後の民太郷や須可郷の地域にあったと考えられます。
・上野1号墳や庵ノ門1号墳などの前方後円墳や前方後方墳等の首長墓が展開し、伊勢中部の中心的な勢力の存在した地域でした。一志郡を支配したのは一志君と呼ばれる豪族だったようです。
・ところが古墳時代後期の6世紀に入っると、一志郡の中心は現在の一志町の辺りに移動し、後の八田郷を中心に大和との関係の深い右片袖式の横穴式石室を持つ群集墳が展開します。
・特に6世紀中頃以降になると雲出川右岸の丘陵城には多くの群集墳が形成され、あたかも眼下の雲出川とこれに沿って通じる道路を見守るように分布します。
・同じ頃久居市新家に設置さえるのが新家屯倉です。
・当時の最高権力者物部麁鹿火が管理していたことが知られています。
・この時代雲出川流域の支配は主に物部氏が担当していたようです。
・現在の白山町の東端には鬼門塚という小さな古墳がありました。ここからは物部氏との関係を象徴する単龍環頭太刀が発見されています。
・上野遺跡に古墳が造られたのはこの後のことです。



(三重県からは4例ほどの環頭太刀が発見されていますが、3例までは単龍です。双龍は6世紀後半の四日市市・死人谷横穴から発見されています。) 

(2)古代の一志郡
・8世紀になると日本列島は青森県以北と鹿児島県南部を除き律令政府が統治する国になります。
・全国に現在の都道府県に相当する国が置かれ((66カ国)、国の内部には古墳時代に各豪族が支配した地域を単位とする郡が置かれます。
・郡の内部にはさらに郷や里が置かれ、ほぼ今日の行政区画が完成します。
・伊勢国には13郡(桑名、員弁、朝明、鈴鹿、三重、川曲、奄芸、安濃、一志、飯高、飯野、多気、度会)が置かれ、一志郡には10郷(八太、日置、島抜、民太、神部、須可、小川、呉部、宕野、余戸)あったことが平安時代初めの史料から明らかです。



・特に一志郡の大きな特徴は天武天皇の頃に建設されたたくさんの寺院が展開していることです。
・さらに天武天皇によって創出された斎王の制度を維持するために一志郡には斎王が宿泊する頓宮が置かれたと考えられています。
・一志頓宮の跡はまだ発見されていませんが、一志町の片野遺跡は有力候補地です。

・上野遺跡の古代に関する遺構は数棟の建物だけです。
・しかし、倉庫などがあり、ひょっとすると小さなお役所があった可能性があります。
・日置郷を治めた郷長・里正の館かも知れません。
・奈良時代の上野遺跡は室町時代の上野遺跡の原型だったのかも知れません。
・残念ながら今の情報ではこれだけしか分かりません。
・いずれにしろ、奈良時代にもこの地は大和と伊勢を結ぶ大事な交通路の一角でした。


おわりに
・私達は上野遺跡を失ってしまいました。
・もう取り戻すことはできません。
・美しい自然も失われてしまいました。
・私達の子孫のために今なすことができることは何でしょう?
・しっかり考えてやらないととんでもないことになるような気がします。
・地球が砂漠化する前に、今こそ私達が文化的な自然景観を考える時ではないでしょうか。


〈参考図〉 右散村の典型的な遺跡・宮田遺跡と集村の典型例・上町遺跡

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【最新情報(NEWS)】 東アジア宮都研究の調査旅行~ヴェトナム宮都研究3~

2005-11-23 14:28:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都




(ハノイの北には紅河が流れている。この流域には数多くの城壁を持った都市が展開しているその遺跡の分布を示した資料である。私達はこの城跡を12月1日に見学する予定です。西村昌也「紅河デルタの城郭遺跡、LungKhe城址をめぐる新認識と問題」(『東南アジア歴史と文化30』2001)より)





原点に立ち返り、このブログの本来の目的である東アジア宮都研究の調査・研究のために以下のような日程でヴェトナムの古代から近世に至る主な都市遺跡を調査・見学に行ってきます。

Y大学のHY教授の科研費による共同研究の一環です。
中国、韓国からも最前線の研究者が参加し日中韓越というおそらくヴェトナムの調査研究始まって依頼の大規模な調査団になると思います。ヴェトナム側も社会科学院考古学研究所が正式に受け入れ、関連遺跡の調査・研究に配慮してくれることになっています。

もちろん帰国(12月9日)後には連続してこの誌上でヴェトナム報告を連載しますので、是非多くの日本の研究者の方々が関心をお寄せ頂きたくお願い申し上げます。以前にもご報告申しました通り、近年ハノイの中心部からはタンロン宮殿跡(以前はヴァーデン皇城遺跡と仮称)が発見され、その下層には阿倍仲麻呂も赴任していたことがある安南都護府跡が発見され、さらにハノイ周辺には漢が設けた九真郡、日南郡、交阯郡が展開し、その遺跡の一部も確認されつつあります。

もちろんまだまだ調査のとについたばかりですので、これからきちんと調査体制を組みながらヴェトナム古代史解明に役立てたく思っていますので多様なご意見を賜りたく思います。



日程と主な見学地
27th, Nov. To Hanoi
28th. Nov. Meeting in Institute of Archaeology, Visiting Van Mieu, Chua MotCot and De La Thanh
29th Nov. Visiting Thang Long citadel site 18 Hoang Dieu site, Doan Mon, BacMon and Hau Lau.
30th Nov. Exchange scientific opinions at the Institute of Archaeology.
Visiting National Historical Museum.
1st Dec. Visiting Co Loa and Luy Lau
2nd Dec. Visiting Hoa Lu in Ninh Binh and Thanh Hoa
3rd Dec. Visiting Lam Kinh and Thanh Nha Ho in Thanh Hoa. To Hanoi
4th Dec. To Hue by Flight. Hue Citadel
5th Dec. Hue Citadel
6th Dec. Hue Citadel. Exchange scientific opinions at the conservation
center of Hue citadel, Visiting Thanh Loi citadel. To Hoi An
7th Dec. Hoi An
8th Dec. My Son, To Ho Chi Minh city by Flight.
9th Dec. To Japan, Korea and China

いろいろな方面をお騒がせ致しましたことを反省し、謹慎の意味も込めて暫くこのように旅に出ます。
静かな日本のブログ世界が訪れますことを祈念して行ってきます。

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【最新情報(NEWS)】 条里制古代都市研究会現地見学会

2005-11-22 00:36:41 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
11月19日は我が妹の誕生日、生きていれば55歳になる。49歳でこの世を去った妹のことを少し思い出しながら、条里制古代都市研究会の現地見学会に参加した。昨年までは主催者の立場だったのだが、今年から立命館大学の高橋先生が実質的世話役なので随分気楽に参加させてもらった。

ところが現地に集まる面々を見てだんだん隅っこの方に小さくなってしまった。まず一番手が木下良先生、二番手が水野柳太郎先生、三番手が岩本次郎先生、四番手が日野尚志先生、そしてナナナント最後が直木孝次郎先生。結局集まったのが15人で私より年下が半分しかいないという有様(どうなってるんかね、若者は!)。



(大先生の後ろ姿です。どれが誰か分かる人はよほどの方!?)


先生方の足下を気遣いながらそろりそろりと平城京「10条」(そう!あの大論争で盛り上がった下三橋遺跡の現場)に向かった。

もちろん主催者側で用意された資料は万全のもの。案内役の立命館大学COE助手の河角龍彦さんの的確な説明で予定通り案内が進む。


(これは案内図にもある通り九条大路と西二坊大路の交差点に当たる現存道路である。)



歩くコースは、近鉄郡山駅から少し北上して九条大路を真っ直ぐ東へ、途中羅城門跡や平城京遺存地割を訪ねながらのものである。


羅城門跡の前の「らいせい墓」なども見ながら約一時間かけて「10条」の現場に着いた。特に驚いたのは(私には見えなかったが)羅城門跡上の橋から朱雀門や現在復原中の大極殿が見えることだった。



(この写真がそうだけれど見えます??)

さて、「10条」の現場では前回同様大和郡山市教育委員会の山川均さんと元興寺文化財研究所の佐藤亜聖さんの適確な説明を受けた後、発掘調査中の最新の現場を案内してもらった。





いやはやとにかくいろんな新しい事実が次々と明らかになっているようでとてもとても嬉しかった。今はまだ秘密!!なので、いずれ公表されてからまた話題を提供し、大論争?が展開されると嬉しいのだけれど、一番嬉しかったことは、東京からわざわざ駆けつけてこられたAO大学のKM先生が「10条まであるのなら当然12条まであるんじゃないの!」とあっさり12条説に賛同されたことだ。

KM先生曰わく「坊令12人という書き方を見ているときちんと書いているんですね!」ほーっら!12条説がとんでもない説ではないことが分かってもらえたでしょう!!通の見方は違うね!



ホンとはもっともっと書きたくてうずうずしているんだけれど、マ、これだけは調査が全て済んでから正々堂々とシンポジウムでもして、決着付けましょう。

てな訳で、肝心の所が隔靴掻痒の感がありますが、終わったのが16時30分。当然みんなで呑みに行くのかと思いきややけに足取りが重い。一人消え二人消え、結局岩本先生と私が嫌がるKK大学のSTさんや今どうしたわけか大阪府の南河内に出向させられているSHさんと郡山駅前で少しだけ呑んだ。だって、その日はうちの奥さんは高校の同窓会だとかで家にいないというから、これ幸いに「仕方ないし外で食べてくるわ」と恩着せがましく家を出ているのだから、これで呑まんと帰ろうものならストレスたまり放題!!でも、ささやかだったよな。あまりの寒さにビールは呑まず、焼酎のお湯割を二杯、ちゃんこ鍋と若干のおつまみをつまんで18時半には解散。

家に帰ってももちろん息子の家族しかおらず、うたた寝してるとまたまた風邪をひいてしまった。教訓!外に出たら山田博士を見習って豪華に呑むべし!中途半端はだめ!!
ゴメンねいつも博士のことを非難ばかりして、これからはどんどんお呑み下さるようお願い致します。


(これも嬉しかった遺構!交差点における溝の掘り方の面白い例!長岡京でもよく似たのがあるんだけれど、平城京10条で出てくれて大満足。水が東から西へ流れるのでしょう。だから路面を横切ってまでやや細めた溝を掘削していることが西側の側溝との幅の違いからよく分かると思います。)



ところで、「不倫疑惑??」僕はそんなこと一言も書いてないのにどうして前回の記事がそうなるのかな?
だって、これを読んだYYさんが今日メールをくれて、楽しいブログを有り難う!!と感謝していたもんね。不倫だったらこんなこと書かないでしょう。不倫をばらした私に今度は「野守」じゃなくて横に座って下さいだって!
だいたい蒲生野のデートが不倫でそれを袖にして、痛い足を引きずりながらもう一人の相手、小山実雅恵さんのところに行ったのならダブル不倫ということになるのであって、これはもう、三行半以外のなにものでもない。にもかかわらず、こちらは正当化するというのはけしからん!!やっぱり鉄槌は必要だ!!(それにしてもK大学のY教授等という平安時代の儀礼研究をなさる高貴なお方までこのブログを読んでらっしゃるのですか?困った困った! )

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【最新情報(NEWS)】 鉄槌二発・・・!!

2005-11-18 01:10:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ノドが痛いと言い残したまま、私の情報網から消えてしまった博士は今頃どうなさっているのか、あるいは今頃異国で放浪の旅に出ておられるのか、はたまた異界で我々下界の喧噪を眺めていらっしゃるのか・・・。

 最近はお互いにブログに疲れたのか、はたまた権力の妨害に密かなる反撃の準備を試みようとしているのか、実に静かな数日です。

 実は博士に対し厳しい鉄槌を下してほしいという切なる要望をNJ大学のYYさんから受け、「よし!厳しい一撃を」と張り切っていたのですが、博士のあまりの消沈ぶりに振り上げた鉄槌をいつ下そうかと躊躇している間にどんどん時間が経ってしまいました。

 しかしYYさんとの約束は果たさねば!とここに女心を踏みにじった山田博士に最期の一撃を打ち込むことにします。

 時は11月3日の祝日(文化の日なんて誰が言うもんか!)、博士は妙齢の女性とドライブに行くことになっていたのであります。彼女はいそいそと愛車(親父の)の助手席を空け、博士のお出ましを心ときめかせ(ホンと!)蒲生の草原で待っていたのです。まさに額田王の心情そのものでありました。野守(山中)が見てるかも知れないと冷や冷やしながら、おなた(山田博士)が袖を振ってくれることを首を長くして待っていたのです。ところがです!あなた様は私をこけにしてナナナント、ピアニストの小山実稚恵さんと浮気していたのです。私に袖を振るどころか、私を袖にしたのです!アー許せない!アー憎らしい!!必ず恨んで出てやる!!!

 以上がYYさんからの熱いメッセージでした。博士もなかなかやるね!!

 さて、実はもう一つ鉄槌を下したいことがあります(この頃怒ってばかりでとても心が落ち着きません)。

 実は先ほどのYYさんも私たちがやっている『延喜式』研究会のメンバーです。前にも少しお話しした通り、私が元職場にいる頃から、都の調査をやる以上『延喜式』くらいは読んでおかないと、ということで始めたものです。もちろん講師は清水さんで、私たちは彼女に導かれながら、関連する考古資料を探して『延喜式』の条文と考古資料との間にどのような関連があるのかを勉強しています。
 ずっと第二・第四月曜日に向日市の埋文センターの会議室でやっていたのです。ところがです、突然教育長から「何で外部の人間が集まって向日市の施設を勝手に使っているんや」と使用中止命令が出たのです。

 もちろんセンターの人間も研究会に参加しています。いえ、中心的メンバーです。発掘調査に欠かせない勉強をセンターでやらなくてどこでやるというのです。辞書、関係報告書、センターには全てが揃っています。もちろん長岡京に関する報告書も次々と出ています。そもそも埋文センターの設立趣意書を読めば明確な通り、センターは発掘調査をすると共に研究することになっています。

 わざわざ三重から出向いて一緒に研究している人間を、それも元その職場の責任者をつかまえて「外部」とはどういうことでしょうかね。鉄槌を下したいもう一つがこれです。研究もしない発掘調査は遺跡の破壊です。公開されない資料も遺跡の破壊と同じです。近年富みに強まっているのが、行政による発掘調査に対するこうした圧力です。
 「おまえ達は行政の指示に従って掘っていればいいのだ。研究などする必要はない。」というのが基本方向です。行政事務処理として発掘調査が進められようとしています。だから遺跡も保存できないのです。だから遺跡の価値も分からないのです。遺跡の価値を理解しない者が行政権力によってその破壊の方針を決める、これが現実です。今回の私たちへの圧力はまさに「長岡宮朝堂院楼閣発見」のニュースの中、出されてきたものです。「外部の者」がいらぬことを言うからいらぬ仕事が増えた。というところでしょうか。

 それにしてもどうして僕たちがずっとやってきた研究会のことを今頃とやかく言うのでしょうかね?私には実はそれがもっと疑問なのです。イヤですね、保身のために人を売るなんて!!私はこの影で動いたお方にこそ大きな大きな鉄槌を下さなければならないと思っています。人間て、表ではニコニコしながら裏でこんな醜い事ができるんですね。アーイヤダイヤだ。

 イヤな話ばかりでは不愉快なまま終わるので、少し研究会での思いつきを一つ。

 今読んでいるのは「兵部省式」です。諸門立儀仗条から府生条までをN君が発表したのです。最新の平城宮兵部省の報告書を用いた丁寧な発表でした。
 その中で少し気になったのは(こんなことは文献の世界では常識なのかも知れませんが・・・)、諸衛府生以上の補任が神亀五(728)年に式部省から兵部省に移された事です。諸衛府生以上とは実働部隊の中心的任務を行う人々だという事ですから、軍や警察機構にとっても最も中心的な存在です。その人事権を兵部省が握るという事は一種の文民統制を破棄し「軍・警察」の思うがままに人事をなす事ができるという事だと思います。

 時の兵部卿は藤原麻呂(藤氏家伝下)で、式部卿は藤原宇合です。いずれも藤原四氏ですから、特に問題はないのかも知れませんが、麻呂は京職の長官も務めており、その後の経歴も軍事・警察関係で通しています。軍事・警察の内部事情に詳しい麻呂に実働部隊の責任者の任命権を与える事によって、翌年に計画されていた「長屋王の変」の体制を整えたと考えるのは読み過ぎでしょうか?

 また、恭仁京からの還都後に東区朝堂院の前にできる兵部省の施設であるが、それ以前はどこに置かれていたのであろうか。少なくとも東区の朝堂が完成するまでは兵部省や式部省はこうした中心施設から離れて建設されていたのです。初期平城宮内の官衙配置を考える上でも貴重な成果を上げている。

 私は軍事・警察権の掌握については長屋王との間で激しいせめぎ合いがあったものと推察する。

 ところで皆さん!メール作戦は実行してくれましたか?長岡宮朝堂前面の門闕がどのようになるか、全く予断を許しません。是非、先に示しましたように、市長に保存要望のメールを送って下さい。お願いします。
市長へのメールは以下の通りです。

kushima@city.muko.kyoto.jp

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【最新情報(NEWS)】 桓武の野望!

2005-11-14 10:34:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(やはり人間は健康でないといけませんね。風邪が治って、急にブログも書く気力が沸いてきました。山田博士が一日も早く贅沢病から解放されてお元気なお姿でブログに登場されることを望んでいます。アーメン?)


(長岡宮の発掘調査も決して簡単ではないんですよ。黄色い大阪層群の地山起源の土が何層も堆積している。それを何度も何度も削りながら、時には水を撒きながら、区別していくんです。少なくとも、史跡級の遺跡はこうした慎重な調査によって初めて進められるべきだと思います。掘りきってしまったら誰が検証するんですか?果たして高齢の先生方で遺跡の「指導」が本当にできるんですかね?困ったものです。)

 十月末の新聞各紙は「長岡宮朝堂の前面から大規模な楼閣が発見された」と伝えた。まるで中国の唐長安の大明宮含元殿の正面を思わせるような、壮大な施設が日本で初めて発見されたのだ。文献史料によれば平安宮朝堂院の南門や龍尾壇の東西に同様のものがあると伝えられるが、残念ながら遺構として遺存している可能性は極めて薄い。となると日本で見ることのできる唯一の遺構だと言うことになる。当然国は史跡として残そうと当該自治体に指示を出すのだが、肝心の市や府の腰が重いらしい。
最近は地方に財源や権限を移す話で持ちきりだが、私は文化行政は国が強い力を持ち続けるべきだと思っている。現在の市町村はもちろんのこと、都道府県においてすら、その文化行政の能力を疑わざるを得ない地方自治体は山ほどあるからだ。能力もないのに権力だけを持つことほど恐ろしいことはない。遺跡の価値も分からない人間がどうして遺跡保存の方向性を決めることができるのであろうか。
それはさておき、桓武天皇はどうして現在の国会議事堂に当たる朝堂の施設に中国の唐長安・洛陽にしかない壮麗な楼閣を建設しようと思ったのだろうか。私は桓武天皇が即位するに当たっての混乱を、中国の様々な権威に頼って解消しようとしたからだと考えている。思想、文化を唐に頼ったことは既にお話ししたことがある。今回の発見は都の正面の施設もこれによったのだということを証明してくれた。
「私が新しく建設する都はアジアにおいては唐を除いてない立派なものなんですよ!」とでも言いたかったのではなかろうか。
同じ心理で建設されたのが斎宮の方格地割であることも書いたことがある。先日の報道によれば、斎宮の第148次調査で今回もまた、しっかりした道路の跡が確認できたという。と同時に、第146次調査では周囲より少し高い斎宮跡の南西の隅から、立派な板塀によって囲われた施設が発見されたという。この三つの報道を見てやはり桓武天皇の自己主張の強さを感じずにはいられなかった。
私は調査次第では第146次調査地は初期斎宮の施設と断定することも可能だったとは思うのだが、残念ながらそうはならなかった。しかし、いずれにしろ、今回の調査でもまた、方格地割ができるまでの斎宮はこうした斎王毎のこじんまりした施設であったことを教えてくれた。つまり桓武天皇が斎宮を壮大な「見せる」施設に造り替えるまでは、斎宮は祓川の辺にひっそりとたたずむ、ささやかな施設だったのである。
桓武天皇は一方で都の施設を中国的なド派手な施設にして自分の権威を示しつつ、他方、斎宮では、天皇の権威のよりどころである祖先神を祭る施設を、目に見える形で整備して、自分が天皇としてふさわしいのだと主張したのである。
 今朝の朝刊には「蘇我入鹿邸?発見!」の記事が踊っている。今年の秋は遺跡報道から目が離せない。


(本当はこの斎宮第146次調査の柱跡はこの面の上40cmくらいの所から発見できたんですがね・・・・。史跡指定地の発掘調査と、開発により破壊されることを前提とした調査は明確に区別されるべきだと私は強く思います。そもそも学術調査の方法論が全国の自治体できちんとできているのでしょうか?余りに破壊することに慣れっこになってはいませんか?)


【最新情報(NEWS)】 大発見の古墳!?と鈴鹿関

2005-11-14 01:37:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

(壬申の乱ウオークは年4回実施することにしました。春秋夏冬の各季節毎に原則第2土曜日に開催します。次回も決まりました。2006年2月12日(日)です。次回は前日の11日に第4回の久留倍遺跡シンポをやりますので連チャンです。歩くコースは朝明郡です。縄生廃寺から志で神社古墳くらいを考えています。岡田説の海蔵川にも行ってみたいですね。)

実は昨日の三大学研究会に間に合わなかった理由がもう一つあるのです。実は半年ほど前に亀山市(旧関町域)で発見された古墳を見に行っていたからなのです。その具体的場所はまだ言えません(既に破壊されている古墳ですが、世の中こんな話を聞くと直ぐ掘りに行くやからがいるから)が、余り期待せずに行ったのですが、行ってびっくり見てびっくり。ナナナント全長10m近くある横穴式石室を持つ円墳なのです。円墳の規模は測ってみないと分かりませんが、おそらく20mはあるでしょう。花崗岩の中型の石を小型の礫をハサミながら構築しているようで、天井石の一部が上端の石に掛かったまま折れている様子がうかがえますから、今見えているのが最上部だと思われます。おそらく石室の高さは3m近くになるのではないでしょうか。破壊されていますが、いつ中に土砂が入ったかによって、遺物の残存が期待されます。

石室は右肩袖で、袖石はかなりしっかりしています。物集女車塚と同じ程度の石室ではないかと思われますので、時期もその頃ではないでしょうか。ご存じのように亀山市には井田川茶臼山という伊勢最初の横穴式石室を持つMT15型式の須恵器の時期の古墳があります。今回の古墳はそれに続く時期の可能性のある古墳で、関地域最古の横穴式石室である可能性が大変高いと思われます。

それがしっかりした右肩袖の横穴式石室ですからさらに興味が湧きます。これまで、井田川に連続する古墳がよく分かっていなかったからです。私はこの古墳が伊勢と王権を直結したキーポイントの人物の墓だと思います。

私は今亀山市史の委員なので、同じく委員の菱田さんと一緒にまず測量しようと思います。来年辺りには発掘もしたいものです。きっと来年の今頃から後、関から目が離せませんよ。実はもう一つ、これは鈴鹿の関がらみで大発見があるのです。これはまだ現在資料を集めているところなので内緒!
やっとやっと鈴鹿関が姿を現しましたよ!もちろん、これも亀山市史で掘りますよ。


(早く掘りたいな!この古墳!!それも三大学のみんなで合宿しながら・・・)


今しばらくは亀山市史の活動から目が離せません。但しお願いがあるのです。鈴鹿関に興味がある方は是非分布調査に参加してほしいのです。余り大したお金は出せませんが、遺跡は一級品ですよ。興味のある学生さん大集合!僕の携帯に電話するか、三重大の電話に留守録しておいて下さい(059-231-9148)。
なお、古墳の方は三大学ジョイント調査にしたく思っています。もちろん他大学できちんと対応してくれるのなら参加は拒みません。この件についてはまたこのブログを通じてご連絡します。

それにしても、病み上がりの徹夜明けの山登りは堪えました。きっとこの疲れもああって、昨夜は酔ったのかも知れません。

あ、そうか、もう一つ要因がありました。実は昨夜懇親会の席で嬉しい学生に会いました。奈良女の院生で、木簡の製作技法をやっているというのです。それも中世の杮経の製作技法だというのです。
エッツ!杮経の製作技法?一瞬耳を疑いました。でも話を聞くとあの薄っぺらい板の製作技法に時期差があるというのです。すごい!!と思わず手を打ちました。早く論文にしなさい!と偉そうに言っておきました。何でも奈良大の東野さん所にいた学生らしく、大学院は奈良女にしたというのです。

奈良女の特に、外から来た学生は個性とパワーがありますね。羨ましい!!うちにレンタルしてくれればいいのに。彼女も『延喜式』に誘おうかな?早く論文になることを祈ってます。それこそ『木簡研究』に書けばいいのに。それでもって、この頃またまた木簡研究が文字に偏っているのを何とか是正しなければ!がんばれがんばれFRさん!

【最新情報(NEWS)】 ヤッター! 治りました!!

2005-11-14 00:01:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
毎日毎日呪いの人形に釘を打ち込んだ成果が出てついに、1週間ぶりに風邪が治りました。

この風邪はきついよ!毎日毎日おかゆと梅干しと大根サラダでこの間溜まった体中の贅沢エキスを洗い流すことが治療の最善方法ですよ。これによって、通風も改善されるに違いありません。

もしそうするとお誓いあそばされれば、人形の釘を少し減らす事にしましょう。

さてさて昨日は久しぶりに飲んだものでどうやって帰ったのかよく覚えていないのです。昨日は毎年やっている奈良女・府立大・三重大のジョイント研究会だったのです。とは言っても私は午前中第1回壬申の乱ウオークの案内で鈴鹿の関を歩いていた(大した宣伝もしなかったのになんと40人も来た!!びっくり)ので、残念ながら研究会そのものには参加できず、懇親会だけの参加だった。それも、徹夜でボーッとした頭で車を運転し、眠い目をこすりこすり(本当に眠かった!やばかった!!)名神をぶっ飛ばして帰ってきたのです(だから本当は学生の発表を聞いてやりたかったのです・・・)。家に車を置いて、車の中で着替えして、電車とタクシーで府立まで駆けつけたのです。その後の懇親会で久しぶりに飲んだもので、徹夜の体には五臓六腑にしみ込んだらしくくるくる回ってしまったのです。


(壬申の乱ウオーク第一回は大成功でした。何せ久留倍遺跡の会の皆さんはパワーがあります!新しく幟まで作って下さったのです。うれしい!!)


研究会そのものはやはり聞けず、討論会の一部を耳にしただけで残念でした。うちの学生は壇上で、他大学の学生の集中砲火を浴びてたじたじ。ま、これも想定内だったので大して驚きはしなかったのですが、たまには勝ってほしいな!と思っているのですが・・・。いつも思うのはどうしてうちの学生は抽象的な議論が苦手なのか・・・、これって、教師の資質に関わるのかもネ。反省!!今年で8年目を迎えるがこれまで二大学に勝ったことがない!とは言っても、今回はうちが三年生、奈良女と府立が修士一年生だから、最初から勝負は目に見えていた。もちろん三年生にしてはよく頑張ったと思うのだが、学問に年齢は無関係!そもそも、研究会への取り組みが、夏休みからのいろいろな事業が重なったために遅れ、本格的にスタートしたのが三週間前。実力もないのに準備不足では結果は明白。

最後の一週間は通いの学生はほとんど家に帰らず。途中で迎えた誕生日が、大学の机で仮眠する羽目に。かなりかわいそうだった。だからできはも一つに違いない(実際の発表を聞かなかったので)が、敢闘賞くらいはあげてもいいかな、と言うところ。

今年の共通テーマは「墓制と儀礼」うちの学生は「七・八世紀の墓制-大和を中心に-」をやった。だから、実はこの三週間、山田博士の論文を学生にどれだけ読ませたことか!!おそらく全国で花園大学の学生に次いで一番読んだのがうちの三年生ではないかと思う。感謝!(山田博士の所に弟子入りすると言わなければいいが・・・、と心配している。もちろん、博士の桓武天皇陵説は「間違っている!」?と言ってはおいたが)。

実際に聞いていないので批評はできないが、発表内容は府立大学のTさんが「古墳時代の殯斂と鎮魂儀礼」、奈良女のMさんが「紀ノ川下流域の横穴式石室-岩橋型を中心として-」でいずれもよくまとまった意欲的な研究成果だと総括をいしてくれた奈良女子大学の宮本香織さんが述べていた。聞けなくて大変残念だった。レジュメを見る限りでは、前者が盾や鏡がどちらを向けて埋納されているかによって、往時の死生観や他界観を探ろうとする意欲的なもので、古墳時代の研究としては大変珍しく、『日本書紀』や『礼記』、『周礼』などをも分析する意欲的なものだったと考えられる。後者は岩橋千塚古墳の分析で、古墳構造の詳細な分析によって、変遷の年代観をより精度の高いものにし、古墳における馬の埋葬を通して紀ノ川流域の特異な儀礼を再現しようとするものであったらしい。岩橋千塚については紀氏と王権との関係を考える中で、近年いろいろと考えるところがあるだけに、聞けなかったのは残念だった。

三重大からは二人が分担して発表した。村居が文献の整理を、大久保が大和の発掘資料の分析を担当した。
事前の構想では文献の規定と実態を村居が天皇陵と高級官人の事例について比較し、これを受けて大久保が下級官人や在地の有力者層の墓制を分析する事によって律令期全体の墓制をモデル化し、分析することになっていたのだが・・・、どうも自爆した嫌いがある。

これまでも三重大学は三年生が報告することが多かったのだが、今回は自分たちできちんと調べたことを自分たちで報告した点が例年と違っていた。逆に言うと今の三重大が三年生が考古学に関しては一番しっかりしていると言うことかも。


【最新情報(NEWS)】 ダウン!!

2005-11-08 12:38:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
私は何も不摂生をしていないというのに、この1週間風邪を引いてダウンしていました。特に昨日は風邪をおしてKF大学に非常勤に行ったら、学生の多くが風邪でダウン!こっちの方こそ休みたかったのに!と歎いても後の祭り、その後大事な会議もあったのでやむなく22時まで外でゴタゴタ。朝五時半に起きて名神をぶっ飛ばして大学へ着いたのが8時半、どうもそれがいけなかったのか着いたとたん冷や汗だらだら、仕方なく急遽授業を止めて、病院へ・・・。アー医者はイヤなのに!みんなが行け行けとうるさいから仕方なく・・・。ところが病院は大混乱。やれ、紹介状をもってこいだの、やれレントゲンをとれだの、で、結局診察は今から2時間後。仕方なくふらふら部屋に戻ってきたところ、電話がかかるまで寝るわけにも行かず。かといって原稿を書く気力はなく、・・・・。ひらめいたのがこれ。

悪行三昧の山田博士に罵られて、このまま黙っていては、万が一僕のBLOGだけが幸運にも後世に残ったとしても、これに反論しておかないと山中はとんでもない嘘つきのように聞こえるんだと言うことを思い出し、ここに一言。

でもしんどい!!

とにかく山田博士は贅沢すぎる。もっと毎日、大根に、芹、ナズナ、はこべに・・・、と自然の草を食べなけれれば!
私なんぞは昨夜の食事は「大根の煮付け、牡蠣フライ、裏庭で採れた菊菜の入った昆布のお清まし」だったのですから!そうそう、寝る前には自分でミキサーを持ち出し、テーブルにあったバナナで自家製バナナジュースも作ったんですよ。こんなに体に優しい毎日を送っている僕が「ウンウン」唸って、山田博士は、一日通風でうなっただけで、それも大したことなかったみたいで、コンサートに出かけて(きっとそのかえりにまたまたフレンチなんぞをくったにちがいないのだ!!図星でしょう!!)、いい思いをする。こんな不公平がどうして許されるのか・・・。

あーしんどい!もうやめよう。

学問的なことをたった一言。
長岡京朝堂に付属した門闕跡は特別史跡級です。しかし保存されるのかどうかが秘密にして処理されようとしています。皆さん!向日市のホームページにアクセスして、市長に(教育長はだめですよ、例の東院をこともなげに破壊して平気な人ですから)保存を訴える意見をどしどしお寄せ下さい。お願いします。

http://www.city.muko.kyoto.jp/の向日市のホームページからアクセスできますし、直接以下のメールへ送ることも可能です。但し住所、氏名、電話番号、メールアドレスをお忘れなくね。匿名はだめですよ。
市長はきちんと説明すれば理解できるいい人ですから。僕もお母さんと共によく知っている人です。
kushima@city.muko.kyoto.jp

この際、兄弟でも姉妹でも何でもいいんです。日本に一つしかないこの遺跡が破壊されないのなら、私は何でもしますよ。皆さん!是非是非応援して下さい。

長岡京なくして平安京はあり得ない!つまり長岡京と平安京は兄弟なんぞではありません。親子です。親なくして子は生まれ得ない!これです。そこが山田博士の認識間違いであることだけは病床から強く申しておきます!!

必ずや一両日中に風邪を治して博士の説を全面批判することをここに誓い、去ります。

もう一つ。山田博士のご指摘のように(但し不正確です)、この発見は、日頃から長岡京のことを真剣に考えていた二人の優れた研究者・Nさん、Sさんの執念によってなしえたものであることを明言しておきます。研究成果を権力によって奪わないで下さいね。




【臨時最新情報(BIG NEWS)】 大変です!山田博士がお倒れです!?

2005-11-02 23:48:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 極秘最新情報です。

 私の全国に張り巡らせた情報網に最新BIG NEWS が飛び込んで参りました。
 かの有名な山田博士がお倒れあそばされたそうなのです。

 通風!!です。

 だから忠告したでしょう、何回も!
 最近のBLOG を見ていても当然の結果だとしか思えません。あれだけ博士の忠実な下僕である私が何度も何度も忠告したのに、意に介せず、京都で呑んだかと思えば東京で、東京の次は福島で、帰ってきてまた京都で、一体この1週間だけでも何回「美食」にふけったというのですか!

 私は博士が憎くて言うんじゃないんですよ。博士のような貴重な研究者を失いたくないから申し上げるんです。

 例えばできの悪い私ですら呑んだのはわずかなのですよ。私のこの1ヶ月の行動と比較してみましょうか。お酒を飲んだのは、10月で4回に過ぎないんです。
 
 一番多く呑んだのが親友と呑んだワインとビールで、後はY大学のH教授と地ビールを4杯程度、大宰府の委員会でビールをコップ3杯、日本酒をお猪口に4杯程度。本当はもっと呑むはずだったのに、長岡京楼閣の報道取材の関係で宴席を抜けてほとんどずっと取材を受け、帰ってみたら「そろそろお開きに・・・」という声、二次会で呑むか!と張り切っていたら、今年はリーダーのK先生が体調不良でダウン、結局博多の町にも打って出られず、ホテルの部屋で缶ビールをしょぼしょぼと飲んだだけ。もちろんおつまみなし。

 最後が3日前に学生と、これまでの各種事業の打ち上げで町に出た時。ところがこの後カラオケに連れて行けと言うことで、結局、宴会場の近くのカラオケ屋に車を置いて、歩いて宴会場へ、しかしたくさん呑むわけにも行かず、ビールを二杯飲んだだけ、再び歩いてカラオケ屋に戻り、直ぐに車に乗る訳にいかず、結局、カラオケ屋でうたた寝をしながら朝までボー。

 これで私が通風になったら僕は絶対に医者に殴り込みに行くが、さすがに神様はよく見てらっしゃる、通風の気もない。

 ネ、分かったでしょう、博士!

 僕の食生活を見習いなさい。朝はコーヒーだけ、昼は少しましな生協のランチ(これが毎日実にいろんな食材をバランスよく出してくれる。余り好きではない酢の物も1週間に一度は出る)、そして夜は半分生協、半分近所の中華、時々スーパーで食材を揃えて自炊。どうも博士はラーメンの食べ過ぎ!もっと奥様におねだりして、お弁当を作ってもらいなさい。もちろんご自分で作ってもいいんですよ。

 忠告、イヤ、命令です。少なくとも年末までは予定されている10年会以外では後3回しか呑んではだめですlそれ以外の宴席はすべてお断りすること!!

 いい研究はいい体調から!分かりましたね!

 アー、スッとした!久しぶりにいい気分。やっぱりたまには思い切り言いたいことをいわにゃね。

 お大事に!三重の地より愛を込めて。