yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

再開!yaaさんの宮都研究の帖~広瀬さんのエッセイに刺激されて

2020-03-06 23:19:02 | yaasan随想
 昨日先輩の広瀬和雄さんからエッセイ集を頂いた。
 何でも暫く書いていなかったのを再開したという。読んでいくとやはり古墳の話しが多い。
 そうなんだ、やはり人間、得手不得手がある。無理して興味のないことを書くより、興味のあることを日々書けばいいか!そして、やはり物書きは毎日少なくとも1000字は書かないとね。

 というわけで、久しぶりにブログを再開することにした。
 するとどうしたことか、直ぐにgooからメールが来た。「6ヶ月以上書き込みがなかったので、乗っ取られた可能性もあるということで連絡をした」そうだ。いつの監視されているらしい。

 本来なら、歴史学や考古学の最新情報をアップするところ、今日はどうしてもそんな気分じゃないので、エッセイ?にする。また皆さん、時々覗いてみて下さいね。

 今日は大学時代の友人の誕生日。71歳だから僕と同じ。同級生。その彼が3日前に急死した。心筋梗塞だったらしい。

 彼は教育学部心理学科の出身。僕は文学部史学科。彼は北海道の出身で、広島大学。僕と同じ二浪。ま・凡人ですね。いつ知り合ったのかは全く覚えていない。おそらく当時の大学の閉鎖空間なのだろう。教育学部は「理性の府」だから、閉鎖空間がなかった。だから仲間を求めて隣りの文学部へ流れてきたのかも知れない。いつしか、もう1人の文学部の仲間と二浪で意気投合してよく話すようになったように思う。とっても変わった話し方をする奴で、相当変わっている。話し出したらいつまででも続く。別に僕はそんなことが気にならないので、ずっと聞いている。彼の話は哲学的で、僕の苦手な分野だから、相づちを打つだけなのだが、彼はひとしきり話せば気が済むのか、適当に帰って行く。

 その年、1969年はいろいろあったので、途中は割愛する。その年の年末、突然父の死の報せがやってきた。胃潰瘍の手術をするとは聞いていたが、大したことないから心配するな、ということで、大阪まで帰ってきて、親戚の従姉妹の所で雑談していた。そこへ母から電話。母も僕がそこにるとは知らずに電話をかけてきたのだが、僕が出てびっくり。突然電話口で怒られた。
「お父さんが大変なのに何してる!」
その時父は既に息を引き取っていた。手術後の処置のミスと後で聞いた。今なら医療ミスで訴訟で勝てた処置のミスだが、当時はそんな事例もなく、泣き寝入りせざるを得なかった。

 直ぐに葬儀となり、周りのみんなから、山中の男子はお前しかいないのだから、お前が喪主で、会葬の挨拶はお前がしろとなった。そんな葬儀の場に彼がいた。というより、後日彼から、もう1人の二浪組の友人と参列したと聞いた。もう一人の友人の家が、偶然、病院の直ぐ近くだったので、父の亡くなった夜、彼の家で朝まで語り明かしたので、どうも彼から連絡がいったらしい。

 そんな葬儀の場に彼等がいたことを聞いたのは45年後のことだった。
 大学時代の「同窓会」があって、その場に彼も来たので再会を喜び合ったその時だった。
何でも彼は自ら公言するに「アスペルガー」だから特定のことはよく覚えているのだという。確かに、彼の描写する葬儀の光景は僕の記憶を蘇らせ、事実と確認できた。

 その後、何度か会い、家にも来て泊まっていった。そんな折り、彼の口から出て来た今の生活は悲惨なものだった。別に彼がぶらぶらしていたとか、借金を抱えているとかそんな話しではなかった。お子さんの一人が自閉症で、外に出られないから、彼が主夫をして、奥様が働くというパターンを選択したらしい。ところが、その奥様が末期癌とわかり、働けなくなったという。大黒柱を欠き、一気に家計が破綻した。当座の生きる資金がいるとのことで仲間とカンパをした。しかしそれは一時的なもの、あちこちをかけずり回ってやっと何とか生活保護を受けられるようになったと電話してきた。みんなのカンパのお蔭で生き延びられたととても喜んでいた。

 ギリギリの生活であることに代わりはないが、何とか生活のリズズムができたらしく、頻繁に来たメールも来なくなった。
 それが突然の死の報せだった。連絡をくれた娘さんの話では、奥様は昨年夏に亡くなったとのこと。その前後から彼自身の心臓が悪くなったらしい。わずか、半年で、奥さんの後を追って逝ってしまった。彼が一番心配していた一人では生活できない子供さんを残して。

 その葬儀が今日だった。でも私が参列することはできなかった。あれだけ義理堅かった彼の恩義を忘れて。子供達のこれからを相談に乗ってやらないといけないのに。
 どうすればいいのか?心が揺れ動いている。

 再開ブログの最初が、悲しい話題とならざるを得なかった。暫く心の底に重く残るだろうな。

 とにかく、悲しい!もどかしい!情けない!

最近の身体事情の条(補足)

2015-02-16 01:09:25 | yaasan随想
 昨日(14日)は一ヶ月に一回ある定期診察の日だった。
 いつもは血液検査をし、医師が「ウ~ン、まだだめやな」とうなって、薬をどうするかの相談なのだが、この日は違っていた。
 先に書いた通り、4週間前から打っている注射がかなり効いている感覚があって、それが数値で出るかどうかが判る日だったからだ。

 医師のニコニコ顔を見て直ぐに理解した。

 「すごいね~!これ見て、一年前から検査を続けてきて、薬を増やしてきて、なかなか数値が改善しなかったんだけれど、0.1やぞ」

「エッツ!! そんなに下がったんですか。」
 「イヤー、よう効くわ!0~0.5が正常値やから、明らかに改善されてるな。やっぱり高いだけあるわ」
 「ホントですね。この1ヶ月ほとんど痛み止め無しで過ごせてるんでそうかな、とは思ってたんですが、そんなに下がったのですか。」

 「リュウマチは治らないと言われていたんだけれど、この薬が出てからそうでないと言われてきた。これだけ劇的だと、やはりこの薬は本物やな。よかった!!」
 「ありがとうございます!!」

 「まだ油断はできんぞ。でもこれでプレドニンとかが減らせるわ」
 「嬉しいです」
 「これからは痛みが出ないか様子を見ながら減らしていこう」

 「ありがとうございます!!」

というわけで、さすがに高い薬だけあって、一気に数値が下がってきた。ここのところ痛みがほとんどないことの理由がはっきりして、昨日から今日にかけて、俄然元気が出てきた。止まってしまっていた原稿も進み、喫緊の課題だった2回分の講演レジュメも一気に進み始めた。

 「病は気から」と言うけれど、やはり具体的な裏付けがないとなかなか「気」も出ないものだ。それだけに今度の気力は本物かも知れない。

 サ~戦闘開始!!

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最近の身体事情の条

2015-02-09 22:06:27 | yaasan随想
 試験も終わり、成績も出し、初めての公務のない2・3月が始まりました。
 とは言っても昨日は早速卒業生の結婚式があり、簡単なスピーチをし、来週は朝日カルチャーで東京に出かけ、再来週は『延喜式』研究会の発表と古代学協会での講演会、月末は仙台で古代城柵官衙遺跡検討会があるので、そんなに暇ではないのですが、この時期大学に勤めていると一杯ある教授会やら、様々な委員会の会議や、学生の卒論諮問や修論諮問など、公務がぎっしりなのです。だから、そうした公務のない初めての春休み(春の無職状態)をどう過ごすのか?まだよくわかりません。

 そんな中、我が膠原病(免疫不全・関節リュウマチの一種らしい)の本格的な治療が始まりました。これまではリュウマチ専用の薬・リューマトレックスとやらを週末に5錠、6錠をプレドニン(ステロイド)と併用して少しずつ増やしながら飲んでいたのですが、一向にリュウマチの血液に出てくるCRPという値が改善されないので、正常ならだいたい0.45~0.5らしいのですが、私は1.0から下がることがなく、最大6にまでなったのです。直近でも3前後を繰り返し、痛みも痛み止め無しでは絶えられない痛さを発するのです。

 そこで、以前から言われていた高額だが、効き目は高いエンブレルという注射を打つことになったのです。いろいろなタイプがあって1ヶ月効く通院して注射するもの、二週間置きに注射するもの、毎週自分で注射するもの、どれかを選択しろと言うことでした。1ヶ月でいずれも5万円余するという代物。最低でも6ヶ月、普通は1年間注射して効き目が安定するという。年間60万円ほどの臨時出費である。正規に勤めているときなら問題はないのだが、年金生活者にはなかなかの負担である。しかし、放置しておくと身体のそこら中が曲がってき、それを元に戻すことは不可能で、いずれ車椅子になるというからそちらの方が問題だ。まだ働けるので、今のうちに薬代くらいは働いて、何とか家族に迷惑をかけない老後としなければ!!

 そんな思いから3週間前から打ち始めた。値段は高いが、結構効き目があり、この3週間、痛み止めが全くいらない。このまま数値が安定することを願うばかりだ。

 死の直前まで元気で、ある日パタンと死ぬとは思っていなかったが、それにしても予想外にいろいろなところにガタが来るものである。ケチのつき始めが緑内障、これは結局治療のミスもあって右目はほとんど見えないまま。後何年もつかさっぱり判らない。運を天に任す以外になさそうである。次が突発性血小板減少性紫斑病(難病指定でこれは治療費がいらなかった)そして今回の膠原病。原因不明だが、先の病気(突然免疫が狂い、血小板がなくなった病気)の影響があるのだろうという。そしてこれと平行して判った前立腺の異常。他の数値はことごとく平均値でいいのに、どうも免疫系だけがフラフラしている。

 もっとも、痛みさえなければ何とかなるので、もう少し、気力が萎えないうちに何とか溜まっている原稿を書き上げたいのだが、・・・・。既に薬の影響か?気力も徐々に衰えている。

 皆さん、病や老いとどう闘っているのですかね。

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「今年はめでたいことから始まりました」の条

2015-01-13 02:14:48 | yaasan随想
 一昨日1月10日は次男の結婚式でした。
 お相手が福岡の方なので、息子が気を利かして博多で結婚式をしました。
 そのため、息子の関係者はほとんどが関西ですから、一族郎党皆博多へ集結しました。もっとも義兄・義弟夫妻や長男のご両親などはこれを機会に九州旅行に行かれたそうで、それなりに孝行したことにはなります。

 お嫁さんは福岡県の南端、みやま市の出身で、実家の直ぐ近くに石神山古墳があります。同市には女山神護石も所在しており、6~7世紀のヤマト王権と筑紫の勢力との関係を考える上で欠かせない遺跡が展開しています。そんな著名な遺跡群のあるところに親戚ができるということで昨秋ある会議に出る前に思い切って踏査に行ってきました。

 

 石神山古墳は彼女の実家の直ぐ近くにあった。今回は夕方で暗かったので全景が撮れなかった。これを機会にまた行って今度こそ全景を撮ろうと思う。

 

 何とか保護されている石神をカメラに納めた。

 

 みやま市教育委員会にお願いして女山神護石をご案内いただいた。

 

 

 公園展望台から見る光景はなぜこの神護石がこの地に置かれたのかを考えるによく理解できるものだった。







 この後裾部の谷部に設置された水門をいくつかご案内いただいた。長谷水門と横尾谷水門。

 こんな貴重な機会を得られたのも新婦のおい蔭なのです。感謝!!今年はいいことがあるに違いないのだ!

 ということで、1月10日に結婚式を挙げることになりました。







 私を悩ませたのは最後の両家からの代表挨拶。悩ませたと言っても中身ではなくて、いかに短く(5分以内厳守!!)的確に話すようにという『厳命』でありました。
 やむなく、正月早々原稿を用意し、タイムを計り、家族のチェックを受けて何度も練習して暗唱し、当日を迎えたのであります。移動中の新幹線の中でも、会場の食事の最中も、うにゃうにゃとそらんじていたら、娘が『なんでそんな難しい顔してるの??』と非難する始末。



 そしてついにその最後のシーンが・・・。

 原稿はこれ。(実際は少しアドリブで変えてしまったが、ほぼこんな感じ。)

 「 新郎の父でございます。
 本日はお忙しい中、遠路、お祝いの席に駆けつけていただきまして、本当にありがとうございました。
 また、ただいまはご友人、同僚の皆様方から温かいお言葉を頂戴し、厚く御礼申し上げます。
 こうして実際に二人の晴れ姿を見ておりますと、親として感激もひとしおでございます。

 振り返ってみますと次男は体重わずか2000グラムの未熟児として生まれました。体力はなくても頭のいい子に育って欲しいと、私の学生時代の愛読書?赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』の弟・はじめちゃんにちなんで、次男なのに『創』と名付けました。
 しかし、その願いは見事に裏切られ、、小学生の頃は九九がなかなか覚えられず、風呂で毎日のように特訓したものでした。にもかかわらず、いつも6×7でつまります。短気な私は、できるまでやらせたものですから、とうとうのぼせ、倒れたこともありました。
 そんな子が、願いとは逆に、中学3年生の時、たまたま出た京都の水泳大会で優勝し、スカウトされて学科無試験?で高校へ進学することができました。ホッとしたものでした。一芸は身を助けると言いますが、水泳が彼を助けてくれました。大学も推薦で進み、就職もまた、水泳の得意な者がいいと言うことで○○消防にはいることができました。親の願いとは全く逆の人生を歩んだことになります。

 その上、この度、私が若かったら代わって欲しいくらいに美しく、スタイルよく、聡明なお嬢様を迎えることができました。山中家としては最高のご縁を頂くことができたわけで、本当に嬉しく思っております。
 既に数回新婦とはお会いし、お話しをさせていただきましたが、少々おっちょこちょいで、気分屋の息子にはもったいないお嬢様だと知ることができました。

 とは言いましても、これからの人生を夫婦二人で手を取り合って歩んで行くわけでございますが、皆様方のお力を頂戴しなければ困難かと存じます。なにぶん、若く頼りない二人でございます。これからもご指導を仰ぐことが多いかと存じますが、どうか末永くお引き立ての程をよろしくお願い申し上げます。
 宴を閉じるに当たり、両家を代表いたしまして御礼とお願い申し上げた次第でございます。本日はまことにありがとうございました。

  2015年正月10日 」

 もうこりごりですが、残されたのは娘なので、もう最後の挨拶はないので一安心です。

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「新年明けましておめでとうございます」の条

2015-01-01 23:40:16 | yaasan随想
 2015年が明けました。
 早いですね、一年は。恒例の年賀状をアップすればいいのですが、正式には昨年が喪中だったので、2種類の年賀状と挨拶文を造りました。まずは年末に出したご挨拶分を。

 2014年末のご挨拶

 本年の私は一年間を通して悲しみで一杯でした。例年のように新年を寿ぐ気持ちにはなれません。年末のご挨拶とさせていただいた所以です。2014年の正月は大晦日に届いた今泉隆雄さんの死の報せと共に始まりました。通夜・葬儀と想像もしなかった仙台での年初は、辛い辛い日々でした。私にとって師であり、兄であり、友であった今泉さんの突然の死は未だに受け入れることができません。その涙も乾かぬ2月3日、後輩であり、友であった西畑俊昭君が逝ってしまいました。5月には義弟が、8月には元職場の同僚が、12月には西畑君と共に広大後半の数年間を遊んだ安藤利次君がいずれも孤独に逝ってしまいました。皆、私より年下の親しい友ばかりでした。寂しくてなりません。私自身は3月で三重大学での16年間に終止符を打ちました。4月からゆっくりするつもりでしたが、体調を崩し、暫く薬を手放せなさそうです。でも、命に支障を来す病ではないので、そろそろ立ち直らねば!と思っています。年末には新しい論文を書き上げました。私自身の「終結」準備もそろそろ必要なようです。やり残している宮都のこと、未だなしえていない伊勢・伊賀・志摩のことを形にしなければと思っています。  2014年12月大晦日

 次いで恒例の年賀状です。但し、昨年はほとんど海外にもどこにも行きませんでしたので、家族の現況紹介でした。

 謹賀新年 

 新年を無事お迎えになられたこととお慶び申し上げます。皆様にとって新年がよき年であることをお祈り申し上げます。
 さて、章は3月で無事三重大学での教員生活16年を終え、4月からは年金生活。とはいっても今の年金では食べるのがやっと。週二日ほど三重や宇治で非常勤講師をする日々となりました。道代は章と共にボケが本格化しそうな雰囲気ですが、毎日、保育園児みのりと小学4年生ひなたが帰りに寄ってくれるのでその世話で進行は遅れているようです。長女は転職し、中国語を活かした病院事務に挑戦中です。契約社員中の日赤では早速活躍しているようでホッとしています。早く正職になるか結婚して欲しいものです(笑)。

 次男が1月10日に博多で結婚します。間もなく家族が増えることになります。長身のすらっとした現代的な美人です。なぜ息子達には美人の奥さんが来るのか不思議です。長男夫婦は2馬力で頑張っています。孫の面倒を見たお礼にと、8月には韓国ソウルへ三泊四日の旅に連れてくれました。中央博物館と水源を堪能しました。但し私たちの主任務は孫の面倒(笑)。今年も宜しく。 

   2015年正月朔日

 ということで、新年早々めでたいことがあります。今年が我が家にも、皆様方にも幸多き年でありますことをお祈り申し上げます。
 まるでそれを祝うかのごとく、新年の京都は白銀の世界となりました。



 (私の書斎のある二階から西を望む)

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月一の診察日の条

2014-11-30 06:58:14 | yaasan随想
 今日は定期診察の日でした。

 大体1ヶ月に一回の間隔で薬の効き具合や病状の変化をチェックしてもらっています。
 ま、直ぐに治るものでもなく、かといって直ぐに悪化してどうなるものでもなく、寿命が先か、病が先かという病気です。きっと前者でしょう。この病が原因で死ぬことは先ずありませんので。

 でも病名が固定できるまではそれなりに不安でした。何せ病院を三軒ははしごしましたから。1軒目の先生は京都でもそれなりの権威のようですが、ほとんど何も説明してくれなくて、この薬を飲めばいい!とただそれだけでした。二軒目は専門医がいないところなので別の医院を紹介して頂くために行ったのですが、これが予想外に親切で、あらゆる可能性を検討してその結果、この病院がいいのではないかと言うことで紹介頂きました。

 ただ、その病院は大病院で、先生がたくさんおられて、私の関係の免疫関係だけで15人くらいおられる。どの先生がいいのかはさっぱり判らない。そんな中で受診するのです.クジみたいなものですね。

 先生曰く、
 「あんたの病気の原因なんかわかるわけがない!!」世の中の病気なんて原因がはっきり判るものはないんだ」と断言する。
 「そもそも病気のほとんどは原因なんかわからないから、いろいろ薬を試して手探りでやるんだ。」という。

 それを聞いて、なんぼこの分野では最先端の病院と言ってもこの先生じゃダメだ!と思ってしまった。余り医者の梯子はしたくなかったので、最初から、以前免疫不全で罹った京都の病院を訪ねたのだが、どうも、最初からボタンの掛け違いだったようだ。少し分野が違うと医者も様々。その結果3軒も訪ねて、これで症状が出てから半年が経った。

 「どうしよう?」と悩んでいる時、いつも行く病院に免疫の専門の先生が臨時できているという、ダメ元で一回行ってみようと言うことで伺った。

 この先生がとっても変わった先生で、いろいろ話を聞いてこられるのです。

 「なんでこんなに病院を代わったんや?」
 「病院は代われば代わるほどそのデータが引き継がれないからまた一から検査することになり患者にとっては損なんじゃ。」
 「だいたいなんでこの病院とこの病院へ行ったんじゃ?先生は誰じゃ?わしは関西のこの関係の医者なら全部しっとるから言うてみー。」

 最初からこんな調子なのです。

 (久しぶりに会話のできるお医者さんに会ったな!これだけ説明してくれる医者はこの間全くいなかった!!これは受診してみる価値が大いにあるな!・・・こんな印象だった。)

 診察が終わってドアーを開けようとすると、

 「あんなー、あんたインターネットするやろう?帰ったらな、わしの名前検索に打ってみ!直ぐに一杯記事が出てくるわ。それ見てから次来るかどうか決めや」

 何とも変わった最後の言葉だった。

 (決めた!!このお医者さんに賭けよう!)

 内心ワクワクしながらネットの画面を眺めた。予想通り、とても素敵な気骨ものだった《失礼!!》

 何でも勤務している大学の理事長と馬が合わないらしく、懲戒免職になり、その裁判中だというのである。何とマー予想以上の気骨ものですなー!(ウフッツ、ついほくそ笑んでしまった。)さらにいろいろ見ていくとこの先生を支援する患者さんやお医者さんの会があって、そのHPには山ほどの先生の患者さんに対する思いやりのある、そして治療効果のある診察の姿が紹介されていた。

 大正解!!

 以来3ヶ月、少しずつ症状が改善されてきている。

 今日も、診察の合間に、
 『あなたは考古学やっていると言うが、何時代の専門?』と聞かれる。
 『奈良、平安時代の都で、平城、長岡、平安京の研究をしてます』と答えると
 『長岡京なんてホンマにあるの?』という。
 『23年間掘ってましたからありますよ』(何なら案内しましょうか?と言おうと思ったところで話題が変わった。残念)

 こんなに医師と考古学の話しをするのは15年ぶりだった。

 ちょうどその頃、私は以前から罹っていた職場に近いところにあった味田医院を家庭医としてお世話になっていた。家族中、いや、周辺の知り合いみんなが尊敬する先生だった。だから日頃から、診察の合間に、今何してる?この前のあれはどうだった?等とたわいのない世間話を一杯していたのです。そんなある日、ある遺跡の保存運動をやることになり、あちこちに署名をお願いしていた。「ひょっとして味田先生に頼んだら協力してくれるかも?」そんな期待の下、話題を振ってみると直ぐに快諾して頂き、署名用紙を手渡すと次週にはあっと言う間に数百名の署名を集めて下さった。それどころか、医院の受付に置いておいて。私が患者さんに署名を頼むから、と仰って下さったのです。次週にはまた数百名の署名を渡して下さいました。本当にあの時は嬉しかったのです。

 そんなある日、噂で悲しい話を聞きました。

 「先生がとても重い病気に罹られていて、人生の最期に自分のしたいことがあるので医院を閉められる。」

 本当に悲しい、悲しい話しでした。その通り、その数日後には医院には閉鎖の張り紙がされていました。

 もう二度とこんなお医者さんには会えないな、と諦めていましたが、今回、その期待を抱かせるとても素敵な先生にお会いすることができました。感謝!です。

 病は気から、と言いますが、薬を出すだけのお医者さんの余りに増えた今日、もう少し人間らしい先生が増えて欲しいな、と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



岡山古窯探索~またまた空白期間!そろそろ再開すべきか、はたまたFACEBOOKかLINEかの条

2014-04-21 14:49:00 | yaasan随想
 一時復活しかかったのですが、退職前の片付けやら、引き継ぎ準備やら、なんやかやの準備であっという間に時間がなくなり、今日になってしまいました。

 あらためてご挨拶申し上げます。

 2014年3月31日をもちまして三重大学人文学部を退職しました(昔は退官と言ったのですが、この頃は事務方と同じ退職と言え!!ということでこう表現しています)。

 3月9日には盛大な退職記念パーテーも開いて頂いて、120人ほどの多くの方にご出席頂きました。特に卒業生が40人近く来てくれて、懐かしい顔、顔で埋まりました。また、久留倍遺跡を考える会を始めとする市民の方々もたくさん参加頂き恐縮した次第です。

 ありがとうございました!!

  お世話になりました!!!


ということで4月1日からブログを再開しようと思っていたのですが、大学から引き上げてきた本や資料の片付けに随分時間がかかり、さらに、授業の準備やら、たまたま当たっていた某研究会の発表やら、昨年末が閉めきりという雑誌の原稿を忘れていて、その矢の催促に追われるやらで、あっと言う間に1週間が過ぎてしまいました。すると次は4月から始まった非常勤講師の授業の準備。限られた年金生活ではお小遣いに困るので、皆さんのご配慮により今年は2コマ余り授業をさせていただくことになった。その資料作りがまた始まってしまったのです。

 皆様にはご挨拶状をお送りしないといけないのですが、それもまだ準備できておりません。失礼の段お許し下さい。

 ようやく先週が2週目で、その非常勤生活にもなれ始め、少しゆとりができたので、ブログでも書いてみようかということに。
 
 この間話題は一杯一杯あるのですが、何から書こうかな?と今度はこれが悩みの種。するとまた筆が鈍り、日曜には書き始めるつもりが今頃になったのであります。

 まずは直近の遺跡見学から書き始めることに。

 4月17日(木曜日)に四日市市垂坂の西部に位置する岡山古窯の現地見学に行ってきました。
 近鉄江戸橋駅から四日市まで行き、湯の山線に乗り換えて20分ほどこの櫻駅で下車します。そこからは院生のHTさんに車を出していただき8人の学生をピストン運転で現地まで運んでいただきました。感謝!!

 
 後で判ったのですが、四日市駅から三交バスが出ていて、赤沢北と言うところから歩けば5分ほどのところに遺跡はありました。
 

 昨年末から三重大学が所蔵する大昔の資料の整理を始めていました。大半が45年近く昔に掘られて林檎箱やら木箱に入って埃だらけのものです。収蔵されているプレハブが年代物で、教育学部の管理下にあるのですが、1階に置かれていた資料は横殴りの雨で直ぐに水浸しに。近年は木箱が腐り始めて触ることもできない状況だったのです。

 仕方ないのでそれらを今時のコンテナに移し替えるのですが、お金がないので大赤字!!退職間際に大借金を残す羽目に。でもいろいろご配慮いただいたお蔭で、何とか被害は最小限に留めることができました。事務の方々に大感謝です。

 何とか木箱はコンテナに移し替えたのですが、入っているラベルも劣化が激しく、読めないものも多数。これではせっかくの「宝物」がただのゴミと化す危険性大。そこで、今年度卒業する学生にこの遺物を資料化してみないかと言うことに。まずは地区別、窯別に遺物を集め、さらに遺物の種類毎に分けて、何がどの程度有るのかを確認する作業から始めた。あるわ、あるわ!奈良平安時代の須恵器、瓦塔、硯、瓦、焼成前線刻土器・・・。

 担当学生を決めて3人で分担して整理することに。もちろん大半が実測もされていないので、実測から始めるのだが、まずは遺跡を知ろうということで、現地踏査と相成ったのであります。これまでの報告類を見ても現地がどこなのかよくわからないのであります。そこで四日市市に尋ねたところ、現地は途中まで開発されたがその後ストップし、何もない!!というのです。目印は県小学校だから、これを目指し、その北北西に独立した丘陵があり、そこが遺跡だというのです。地図を調べると小学校の直ぐ南が県神社。これは由緒のありそうな神社だからここから始めようということで、県神社を目指して行ったのであります。もっtも現地で判ったのですが、この神社はとても新しいもので、周辺の須賀神社や天満宮を合祀した校正のものだそうです。少しがっかりしながら現地の岡を目指しました。

県神社の正面に記された由緒

 


 

 行ってびっくり見てびっくり。現地には「グリーンパーク岡山」なる立派な看板が立っているのであります。その上、この看板によると、四日市市の「市民緑地開設第1号」として2005年にできているのです。

 
 
 
 「????」みんな首をかしげました。おそるおそる中に入っていってみると遊歩道が作られており、陶芸教室用の窯までできているのです。

 
 
 「????」

さらに進むと花壇があり、作業をなさる老人の方々がおられるのです。聞いてみると、

 「アー、窯ならこの向こうの竹藪の中に遺っているよ。今年こんなパンフレットも作ったよ」

と手作りの素敵なパンフレットを下さるのです。その地図を基に現地に入ると、噂に聞くモトクロスのコースに現地は大きく改変され、あちこちに車道ができているのです。おそらく車が掘り起こしたのでしょう、現地には大量の土器が散乱しているのです。

 

 一帯行政は何をしているのでしょう?岡山古窯はそれなりに他府県にも知られた面白い窯跡です。一部は壊されたものの、当時の人々の努力で、遺跡は多くが現地に遺されたのです。そして、地元の方々はその貴重な遺跡を含む里山を大切にしようと、林を整備し、子供達、市民が集える空間を作って大切になさっていうrのです。にもかかわらず文化財行政は知らん顔。

 ホント、ダメですね。行政が文化財保護なんて大きな口をたたけるのは20年前までの話し。気力と能力のない行政にかかれば遺跡なんてひとたまりもありません。その典型は三重大学に所在する鬼が塩屋遺跡でいやというほど思い知らされましたが。

 それはともかく、私たちが早急にしなければならないことは、「岡山古窯の学術的な価値をきちんと世に出すこと」これだと実感しました。一緒に行った学生には大急ぎで、大学にある資料を整理し、まず、岡山古窯とはどんな遺跡なのかをきっちりと紹介しようではないかということにしました。

 

 

 


 私自身にも問題があることはいうまでもありません。16年間、ほとんどこれに手を付けられなかったからです。その罪滅ぼしも兼ねて、今いる学生でできるだけきちんと資料を図化しようと思います。まずは、事実関係の掌握です。外野から矢が何本も飛んで来るという噂ですが、気にしません。mmし興味のある方は是非三重大学に、現地に行ってみて下さい。


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母の7回忌の条

2014-03-01 23:29:56 | yaasan随想
 今日は2008年3月6日に他界した母の7回忌の法要をしました。

 6年前、ヴェトナムで発掘中に亡くなり、急遽ハノイと京都を往復したことを思い出す。

 父の時も最期を看取ることができなかったのだが、母の時も親不孝をした。

 私の檀家寺は三条木屋町の浄土宗西山派の瑞泉寺。豊臣秀次が文禄4年(1595年)切腹を命じられ、その後家族側近らが三条河原で処刑された。放置された遺体を慶長16年(1611年)角倉了以が祀るために建てた寺が瑞泉寺である。

 5年後に父の50回忌があるが、果たしてそこまで元気でいられるかどうか判らないので、それなりに親しい従兄弟に声をかけてお参りしてもらった。

 暫く病気でほとんど外にも出てなかったおない歳の従姉妹賀来てくれたのがとても嬉しかった。

 でも、原稿に追われている身、食事もそこそこに帰宅し少し休んでまた原稿である。ま、自分の身から出た錆だから仕方がない。何が何でも今夜中に書き上げねば。

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なぜこんなに悲しいことばかり

2014-02-04 16:15:34 | yaasan随想
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1437459203155731&id=100006749945162

今朝友人からのメールで知りました。年末の今泉さんに続いてあまりに残酷です。
今、通夜に向かっています。

山中章


山中 章
1時間前
西畑が昨夜亡くなりました。わずか四ヶ月の闘病生活でした。ついこないだ、広島からの帰り、相生を通った時、見舞いによればよかったと、思ったばかりでした。後悔先に立たずです。

年末に見舞った時、これから抗がん剤治療で、少しよくして、あと五年は頑張るんや!と言ってたのに。結局それもできなかったようです。

もう一度見舞うか、迷いました。体力を使うから、手紙にしよう!と、今朝から書き始めたところでした。

彼は、私の一つ年下の後輩です。それも、彼は国史、私は考古。普通なら接点はないのですが、広島大学ではその頃、教養にはクラスがあって、二年間いろいろな接点が設けられていました。なぜか、考古は国史とセットでした。定員が五人なので、どこかと一緒にしないといけなかったのでしょう。

だからと言って後輩との接点は普通ありません。1970年といえばまだ少し大学闘争の火が残っていました。まだ少し元気が残っていた私は、後輩たちを誘って講演会に行きました。そんな中に彼はいました。でも、彼を後輩だとは誰も思いませんでした。珍しく院生がきた!と思いました。すでに今と変わらぬ風貌を彼はしていました。ただし彼も、私と同じく二浪していましたので、他のものより老けているのは仕方ありません。年末に会った彼は、そのときのままでした。

その後の彼は、高校の先生になりました。ちょうど一年前に出した著作のあとがきによると、子供達に親しまれた先生だったようです。そして、とても素敵な同僚と出会ったようです。

著作『近世入浜塩業の研究』のあとがきによると、たくさんの仲間と研究会をし、著作の基礎を作っていたそうです。五年ほど前に、京都で会った時、その構想を熱心に語ってくれました。

広大を石をもて追われた仲間や、お前もちゃんと本を出せ!と、わけのわからない激励?をしたものです。その時一緒だった天理大学教授の谷山さんがずっと出版に向けて援助したと聞きます。その甲斐あってちょうど一年前、著作は完成しました。

近世史など全くわからない私には、その研究史的な評価はできません。でも、字間にほとばしる才気は読むものに鬼気迫る迫力がありました。

そして、私と同じく、広大で学位を取りました。今年の一月末のことです。

学位授与式には出られなかったそうです。ても、嬉しかったに違いありません。

心からおめでとう!と言いたいです。せっかく仲間が増えたのに、私の後輩のくせに、先に逝ってしまいました。悲しいです。悔しいです。

ま、先に逝ったのだから、地上で飲めなかった酒を練習しとけ!私も、そんなに待たせんから!あの世で大宴会しようぜ。
おっさん、さらば

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こうして御用学者が民を扇動し、戦争へと導いていく

2013-09-02 23:33:58 | yaasan随想
 「原子力規制委員会の専門家チームは2日、国内で唯一運転中の関西電力大飯原子力発電所(福井県)の敷地内にある断層(破砕帯)についての評価会合を開き、「活断層ではない」との見解で一致した。規制委が6原発で進める断層調査のうち、活断層の可能性を否定するのは初めて。今後、別の専門家らによる検証を経て、最終的な結論をまとめる。規制委は現在、大飯原発3、4号機の安全審査を保留しているが、活断層を否定する結論が出れば再開する方針だ。」そうだ。(読売新聞)

 きっとあっちこっちから圧力がかかったんでしょうね。ひょっとしたら脅迫、恫喝まがいのものもあったのでは・・・。原発を売り物にする現政権にとっての目の上のたんこぶがこれで取れたわけですから、後は福島の汚染水漏れ隠しの徹底一本に絞ればいい。そしてそれはもう始まっている。

 国家にとって今一番大事な課題は何かと問われた自民党の石破の答えが「集団的自衛権だ!!」といってはばからない。そして電力会社が有力なスポンサーであるマスコミは汚染水漏れに黙して語らない。

 それどころか、「学者」が原発は安全だとお墨付きを与えたものだから、益々黙して語らない。批判する奴がいたらスキャンダルをでっち上げて黙らせるのに協力する(政権に協力するタレントのセクハラは黙認するらしい)。

 もう戦争に向かってまっしぐらだね。戦前と違って、今回たちが悪いのは、同盟国が世界一の軍事国家である点だ。国内の銃規制すらままならない野蛮国家が後ろ盾だから、この坂道は日本人だけが転がって怪我をすればいい、ではすまないだろう。

 地球と心中に向かって人類はただひたすら転げ落ちていくだけのようだ。誰かが止めてくれるかもと幻想を抱いていたが、どうもそれは無理なようだ。西アジアの宗教国家は化学兵器を用いて殺戮しても平気なようだし、その指導者をどの国も止めることができないようだ。

 恐ろしい濃度の放射能で汚染された水はどんどん海に流れ込み、誰もこれを防ぐ術を知らず、国家は「オリンピック招致に影響があるから」とその事実をひた隠し、その間に汚染水は止まるところを知らず海へ海へと流れ込む。きっとオリンピックが招致されたとしたら、ちょうどその頃から悲劇が始まるのでは。もっとも、汚染された水や空気を吸っても直ぐに死ぬわけではないらしいから、目の前の「贅沢」から逃れたくない輩は見て見ぬ振りをする。

 直ぐ動くかどうかは判らないから、100年後に動いて原発が壊れてもその時には誰もこの世にいないから、だから目先の利益、快楽のために「活断層ではない!」と宣言する。これが「学者」の素顔!!

 この調子だと、「神武天皇なんて存在しない」と公言してはばからない私などは、たちまち「朝鮮人殺せ!!」と叫ぶ「憲兵」に拘束されて、密かに始末されるのだろうな。

 結局学問なんて「真実」を追究する行為でもなんでもないんだ!「学者」のお墨付きは政治家が出すものなのだ!学者ほど無責任な存在はないと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

初めての更新講習の条

2012-07-07 18:22:12 | yaasan随想
今日は、教員免許を持っておられる方々に10年に一度講習を行うという自民党政権下で教員を何がなんでも管理しよう!という文教族によって始められた悪政を、醜く、小心者の集団で、ほとんど無能な民主党政権はやめる事もできずズルズルと続け、なんのためにやるのか全くわからなくなっている制度の一端を担わされた仕事の日でした。10年または5年に一度受けなければならず、それも時間1000円を払い、30時間.30000円を払って受ける講習らしいのです。給料はどんどん下がるわ、労働環境は悪化するばかりだわ、まともに休みも取れないわという先生方にとっては最悪の『講習』なのです。お気の毒でなりません。こんな環境で志の高い若者が先生になろうなんて思うはずがありません。

 受ける方はもちろん嫌でしょうが、やる方も嫌なのです。だから誰も進んでやろうとはしません。仮に渋々やってもお互いに暗黙の了解で浅く広く適当やるのが普通らしいのです。その証拠に、うちの学部では非常勤の先生に頼んで「スペイン語」を提供しているのです。意外なことに(失礼!)これが結構人気なのです。どうせ自前で金を出してせっかくの休みをつぶしてくるのだから気楽にやろうというところなのでしょう。

 講習では形式的に試験もやらせ、採点もするというのですが、実態は、白紙で出さない限り全員合格だというのです。要するに形式的な誰も喜ばない講習なのです。

 こんな実態ですから、あえて喜ぶ人を探すとすると、非常勤のバイトで生計を立てている人くらいでしょうか?!以外では全国の教育学部系の大学だけでしょう。少し(しかし全国規模でみればすごいお金)お金が回ってくるからなのです。

 誰も引き受けないので、私のように退職した人間がターゲットになるのです。順番にやってもらっていますので、と言われると逃げられない!

 というわけで、その初めての講義が昨日だったのです。とても緊張しました。ギリギリまで何を素材に使うか悩みました。その結果、1 地震考古学、2 天皇陵問題、3伊勢神宮創建年代論、4 長岡京論で四コマ、六時間を構成する事にしました。けっか、最初と最後は、ま、問題なかったと思うのですが、真ん中の二つは、少し準備した資料が足りずわかりにくかったとおもいます。ゴメンなさい!反省!してます。

 それにしても驚いたのは、三重県ばかりではなく、奈良や滋賀からもこられてた事です。このことも緊張を増す原因でした。さらに驚いたのは、10年前に卒業した学生が、立派に小学校の教師となり、受講していたことでした。終わってから少し話す時間があり、話を聞くと、既にニ児の父だという。写真を見せてくれたが、四歳の女の子はまん丸顏のとても可愛い子だった。彼自身も丸刈りにしていて、かつてのイケメンの面影が消えて、とてもいい顔になっていた。やはり、社会に出、子供ができると人間変わるものだなと、感心したのでした。これからもいい先生になって下さいね。

 もうみんなが帰ったのに一人だけ残っていらっしやるので、何か質問でもあるのかな?と思って構えていると、

 「私は、K考古学研究所のOの妻です。」

とおっしゃる。わざわざ奈良からこられる方がおられるのはわかっていたのですが、間接的とはいえ、意外なところで知り合いに合うことになり、つい話がはずんだ。

 そんなこんなで、今週も本当に目が回るくらい忙しかったのです。

 ま、忙しいくらいがちょうどいいのかもしれません。もう少し大学で頑張らないと仕方ないのでしょうか。(笑)


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センター試験監督が終わったの条

2012-01-15 12:46:52 | yaasan随想
 私の14年に及ぶセンター試験監督の歴史が昨日終わりました。
 万歳!万歳!です。
こんなストレスのたまる仕事は二度とごめんです。
特にリスニングは、命を縮めます。あんな試験はやめるべきです。喜んでるのは、英会話の塾とicプレーヤーの製造業者です。

 そんな中、昨日、私の担当教室で事件が起こらなかったのは奇跡としかいいようがありません。定年まであと二ヶ月のオジンに、なんでこんな仕事をさせるのか?ほとんどいじめです。
私の担当は定員112人という最大規模の部屋!その責任者?!昔なら、どうぞ後ゆっくり退職のご準備でもしてください。というときですよ!せめてリスニングくらいはずしてよ!ほんま、ムカつく!さらにさらに問題が!

 あほな役人が机上で描いた試験シュミレーションなのでしょう。現場で実際にやらされる我々のことなどこれっぽっちも思っていない(あいつらが思うはずがない!!)、机上のプランで実施された社会と理科。時間も実施方法も前年度通りに実に適当に組まれたため、とんでもない混乱が起こり、翻弄された初日でした。

 そもそも受験者の多い、国語、外国語、社会をなんで初日にまとめるのかがわかりません。外国語にはリスニングという難関があります(受験生にとっての難関ではあいりませんよ!監督者にとっての難関です!!)。私は、リスニングが112人もいる大会場の担当!信じられん!!100人もいれば一人くらい「聞こえません」「トイレに行きたい」「気分が悪い」という学生がでるでしょう。そうなれば再会テストだの再試験だのその対応だけでも大変なのです。

 ましてや初日は、今回が初施行である社会。社会と理科は、同一教科内の複数科目受験を可能にしろという、思いつき的試験方法導入で大混乱したのです。現場のことなどどうでもいい役人、そんな奴らが訳のわからんシステムを考えた時点でアウトだったのです。

この選択制の表現がまたまた極めて難しく、この間入試要項の作成のために関係委員会では何度も表現の仕方を修正したのであります。制度そのものがわかりにくいものを実際に実施するとなるとこれまた運営が大変なのであります。そのツケが見事に?昨日噴出しました。

 説明している私もようわからん中でとにかく昨日9時半に始まりました。

 地歴・公民は同じ「教科」です。地歴の中には地理、日本史、世界史(いずれもA/Bの区別あり)の科目があります。たとえば三重大学の人文学部では「地歴・公民」(ようするに社会)から2科目を選択して受験します。これはとてもシンプルです。

 一番シンプルなのは、前年までの方法です。もっとシンプルなのは、昔のように、理科も社会も大学が指定する科目を受けさせればいいのです。
 ところがこちらが受けさせたいと思っていても、高校のカリキュラムで脇に追いやられてしまった科目が社会にはいっぱいあるのです。その代表が日本史です。役人の突然の思いつき~二科目選択をしようにも、高校の段階ですでに、地歴は軽視されているのです。そこから改めてやるのならわかりますよ。あの、わけのわからない、ゆとり教育とやらでぐちゃぐちゃになった教育、その過程で、バカどもが考えたのが世界史必修。日本人なのに日本史を知らない子供が大量生産。だからといって世界史が詳しいかというとぜんぜん!その失敗をごまかすために、二科目を言い出した。

 これまでは、地歴と公民を分けて、その中から各1科目を選択させて2科目の数を社会の点数とするというものでした。ところが「強い意見」が来て、地歴または公民の中だけでも2科目採れるようにしろというのです。
 つまり、日本史と世界史を採って社会の点数としたり(もちろん今やこんなのを採る変人?はいません。点数稼ぐのが大変だもの!)、倫社と現社を採ってみたりということです。

 これを実際の試験に置き換えると、事件が起こるのです。もちろん根本的に変えればできるのですよ!そうしない、そうできないところが問題なのです。どこぞの政党が継ぎ接ぎだらけの方針を出すのとそっくり!一貫性がない!

昨年までだと、地歴で1時間、公民で1時間試験がありましたから、その両方を別々に受ければよかったのであります。もちろん社会が1科目というところがありますから、そのどちらか(どちらも採っていい方を採用する)を受験すれば済んだのであります。

 しかし今年は地歴の中の2科目を採ることも公民の中の2科目を採ることも可能になりましたから、地歴と公民という「教科」の塊を維持する以上、それぞれを二回受けなければならない大学が出てきたわけです(三重大学もそうです。おそらく全国の国立大学がそうです。)。

 ただし、全国の大学がそうならいいのですが、国立の理系などは社会が1科目というところが普通ですし、私立で社会が二科目というのもそうありません。。すると、2科目受けるふりをして、実際には1科目しか必要ないので、1科目目に問題をよく見ておいて、ダメな方を解答して捨て、自分に有利な問題の方を次の試験で選ぶ奴が出てくる。つまり、1科目目は捨てて、2科目目で勝負する奴が出てくる。これはけしからん。ということで、最初に解答する科目の成績を最優先するということになったのであります。

 最初に日本史を宣言すると、1科目であろうが、2科目であろうがまずこの成績が社会の成績に組み込まれるわけです。次の2科目目の試験で公民の中から倫社を選ぼうが、地歴の中から世界史を選ぼうが、どの成績がよくても1科目目が最優先されるわけです。もちろん2科目採る人は2科目目の試験で採った点数と併せて社会の点数になるわけです。

 これも最初は2時間分まとめて地歴と公民の試験をやり、その中から2科目選ばそうとしたらしいのです。ところがいろいろ考えた奴がいて、1科目しか必要でない人間は、2時間分使って1科目を解くことができる(もちろん1科目は捨てるわけです)からおかしいということになって、それじゃ、どうする?

 地歴と公民を1時間ずつで切って、ただし、一旦学生を外に出したら情報が外に漏れたり、参考書を調べられるからそのまま教室に入れておいて、10分間だけ間をおいて、解答回収の作業をし、引き続き2科目目の試験をしようということになったのであります。

 ただし1科目しか必要のない受験生がいますので、その受験生の対応もしなければならない。そこで、1科目だけ受験する学生と2科目受験する学生を予め分けておいて(この場合建物も分けます。でないと移動する学生でうるさいので)1科目だけ受験する学生は1科目目が終わる少し前0に教室に入れて、同じ10:40から受験させようということになったのです。

 私はこの1科目目なし、2科目目から受験という学生の部屋でしたので10:00に教室に入り準備をしました。
 内の大学ではその2科目目に地歴か公民かどちらを受けるかによって予め教室が分けてありました。だからよその大学のように混乱することはありませんでした。教室にはどちらかの問題を持っていき、学生に配るだけですから。これが他の大学のように受験生によって違いを認識して渡していたら、とても30分間で作業をすることはできません(実際、できなかった大学がいっぱいあったのです)。

 更に当日、地歴については問題訂正がありました。いつもなら黒板に書いて済むところが、地図の訂正なので印刷物として配布しなければならなかったのです。更に時間がかかります。単に配るのではなく、配布枚数と残部の確認もしなければなりません。いい加減な教員もいて、うまく配れないのも時々いるのです。だからチェックしなければなりません。これだけで5分はかかります。私の部屋などは112人もの受験生ですから、もっと時間がかかりました。

 おまけに携帯のスイッチが切れない学生が出現したり、今年からわざわざ鞄にしまっていた携帯などを一度机に出させてチェックさせる(去年の京大事件のせいです)ばかげた作業があり、更に時間がなくなります。

 説明し終わるとほぼ同時に「試験はじめ」

 冷や汗ものでした。もちろんこんな事で遅れた大学がいっぱいありました。


 そして予言しておきますが、今日も絶対に起こりますよ!!だって今日の理科も2科目選択があるのですから。ようするに理系文系の逆を今日やるのです。

 もっとも理科を複数採る学生の方が数が少ないのでその分楽ですが・・・。果たしてどうなる事やら、もう私には関係ないので傍観者です。

 間もなく理科1科目目が終わります。

 だいたい、センター試験なんて止めればいいのですよ。害あって益なし。

 でもま、もう私には関係ないのでどっちでもいいですがネ。

 ま、私のセンター試験人生はこれで無事終わったのでよしとしましょう。来年からこれをやらんでだだけ幸せ!

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堀内明博さんの死の条

2012-01-11 02:59:45 | yaasan随想
 今年も正月から余りいいお話ではありません。悲しい、寂しい訃報です。

 元京都市埋蔵文化財研究所の調査員、その後古代学協会へ遷られ、同会解散後は府立大学の特任などを勤められた堀内さんでした。

 まだ六〇歳になられたばかりという「若さ」です。葬儀にはわずか二ヶ月ほど前の講演の声が流されました。ちょうど一年前に秋田県の横手市でお会いした時よりはよほど元気そうな張りのある声でした。

 詳しい原因は存じ上げません。というか、余りに寂しいその死の様子を聞いていると尋ねる気にもなりませんでした。

 弔辞は元滋賀大学教授の小笠原好彦さんが読まれました。小笠原さんが堀内さんと親交を深めたのが1981年の訪中団だったそうです。私はその次の1983年の訪中団で一緒でした。当時は埋文研の堀内と言えば誰もが知っている平安京出土陶磁器のプロでした。私のような小さな町の職員などは足下にも及びませんでした。

 でも現場に行くと、あの朗々と響く声で、親切にしかし時には厳しい言葉で質問され、小さくなりながら現場の説明を聞いたものでした。

 私の初めての海外がこの団で行った中国でした。岸俊男先生を団長とした江南の都城を二週間にわたって訪ね歩くものでした。今から思うとそうそうたるメンバーが参加されていました。上海でもまだ人民服が主流だった時代、公園を散歩する人民軍の幹部候補生でしょうか、凛々しい兵士が若い赤いスカートをはいた女性を連れているとお構いなしに写真を撮ったものでした。もちろん町は自転車だらけ。ぼろぼろのトラックが煙をはいて走っていました。

 印象的だったのは揚州で毎朝6時頃に出かける堀内さんの姿でした。なんであんなに早く起きるの?散歩?穴場でも見に行くの?などと思っていると、後にわかりました。町の風景をスケッチしていたのです。さすが建築史の出ですね。今あのスケッチはどこへ行ったのか、見つかれば展示会でもしてあげればいいのにと思います。

 このたびでとても印象に残ったのが岸俊男先生との個人的な会話でした。もちろん雲の上の先生ですから、私が親しくお話しすることなどなかったのですが、少し前に長岡京で大量の木簡が出た時直ぐに飛んでこられて木簡を読まれたので面識はありました。だから声をかけてくださったのでしょう。眼鏡の奥の優しい目がとても印象的でした。まだ文化大革命が終わって間もない頃でしたから、町のあちこちには毛沢東の肖像画が遺っていました。私はどうして毛沢東の主張が覆されたのか、不思議でならない。毛沢東は13億の民が飢えないための政策を採ったと思う。などと申しますと、何となく懐かしそうに、あの頃(69年大学闘争の頃)の学生はまじめで元気やったな-、とぽつりと仰りました。

 学問の道一筋だったと思っていた先生が、学生運動に関心を持たれていたことを知りとても意外で驚き、と同時にとても暖かなものを感じました。こんな大学者もいるんだ!!

 そんな思い出深い旅を堀内さんとも共有していたわけです。そういえば初めて広瀬和雄さんと会ったのもこの時でした。もっとも旅行中はほとんど話すこともなく、私は「元気な大阪のおっさん達やなー」くらいにしか思っていませんでした。後日、「中国の復習会をするからきいひんか?」と誘われて当時堺に住んでおられたマンションを訪ねてびっくり!!ナナなんと、広瀬さんは私の高校の先輩だったのです。世間は狭い!!以来30年のおつきあいです。

 一年前、東北で会った堀内さんはえらく顔色が悪く、声も元気がなかったのですが、休憩時間につかつかと寄ってきて、「今度自分のとこで研究会するやろ。細かいことわかったら案内状送ってや。わしなー最近官道掘ったことあるねん」「あ、そうですか、それは是非来てください」

 昨年8月に行った東海例会のことであった。

 案内したのだが残念ながらおいでになることはなかった。しかし、その官道のことが知りたかったので、後日レジュメ集を送った。でも返事もなかったので、あれは社交辞令やったんかなーと忘れることにした。しかし、今となってみるともう尋ねることもできない。

 彼とはいろいろあったが、僕より若い人が先に逝かれると寂しい!!

 あっちの世界でいっぱいスケッチしててくださいね。


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 いやなことがあったのでブログを止めようかなと思っていたら、あちこちから「ダメ」という声が届いた。

 思案中である。今週は最後のご奉公??センター試験監督。それが終わるまでは元気が出そうにない。












お久しぶりです。あまりの忙しさに1ヶ月のブランクです。転載です。深刻です!!

2011-10-28 10:34:37 | yaasan随想
 あまりに忙しく、文章を書く余裕がありません。しかし、東北だけではなく東日本全体に放射能の危険が降り注いでいるように思います。そんな中精力的に活動なさっている守田さんからメールを頂きました。ご了解を得て転載します。

 「風評被害」という言葉の暴力が真実を覆い隠し、子供たちの未来を破壊しています。その被害を少しでも少なくするために「行動」が求められているように思います。


「明日に向けて(304)除染するほど、「住めない」と思う・・・放射能除染・回復プロジェクトに参加して(3)」

今回の除染プロジェクトへの参加では、福島の方々に大変、お世話に
なりましたが、その一人に、プロジェクトメンバーとして初めから
除染活動に参加してきた荒木田岳(あらきだたける)さんという方が
おられます。福島大学行政政策学類准教授です。その荒木田さんが、
現在発売中の『週刊朝日』(11月4日号)に表題の投稿をされました。

僕は現地で発売前のゲラをいただいて読んだのですが、とても胸を打
たれたので、「明日に向けて」の転載をお願いしました。『週刊朝日』
にはごめんなさいかもしれませんが、ともあれまずは荒木田さんの
文章をご紹介します。From Fという、福島大学の研究者に「いま福島
で起きていること」を語ってもらう連載の4回目です。

*****************

除染するほど、「住めない」と思う
荒木田岳(あらきだたける)

5月から福島大の同僚や京都精華大などの先生たち、市民の方々と一緒に
福島県内の除染に取り組んでいます。最初は、通学路や子どものいる家
から作業を始めました。

政府は「除染をすれば住めるようになる」と宣伝していますが、それは
実際に除染活動をしたことのない人の、机上の空論です。現場で作業し
ている実感からすれば、除染にかかわるたびに、「こんなところに人が
住んでいていいのか」と思います。

原発から約60キロ離れた福島市内ですら、毎時150マイクロシーベルト
なんて数字が出るところがあります。信じられますか?今日もその道を
子どもたちが通学しているんです。

30マイクロくらいの場所はすぐ見つかります。先日除染した市内の民家
では、毎時2マイクロシーベルトを超えていました。つまり、家の中に
いるだけで年20ミリシーベルト近くを外部被曝する。これに内部被曝も
加味したらどうなるのか。しかもそんな家でも、政府は特定避難推奨
地点に指定していません。

そしてどんなに頑張って除染しても、放射線量はなかなか下がりません。
下がっても雨が降ったら元の木阿弥(もくあみ)です。一回除染して
「はい、きれいになりました」という話じゃないんです。

今、私の妻子は県外に避難していますが、電話するたび子どもたちが
「いつ福島に帰れるの」と聞きます。故郷ですからね。でも私には、今
の福島市での子育てはとても考えられません。

そんな私が除染にかかわっているのは、「今しかできない作業」があり、
それによって50年後、100年後に違いが出てくると思うからです。多くの
人が去った後の福島や、原発なき後の地域政策を想像しつつ、淡々と作業
をしています。歴史家としての自分がそうさせるのでしょう。

結局、福島の実情は、突き詰めると、元気の出ない、先の見えない話に
なってしまいます。でもそれが現実です。人々は絶望の中で、今この瞬間
も被曝し続けながら暮らしています。こうして見殺しにされ、忘れられ
ようとしているわが町・福島の姿を伝えたいのです。そうすれば、まだ
この歴史を変えられるかもしれない。今ならまだ・・・・・。

*****************

みなさま。どのように思われたでしょうか。ちなみに荒木田さんは、
『週刊朝日』の誌面にご自分の写真も載せています。勇気を持って、はっ
きりと自分の素性を表にだして発言されています。しかし僕が「とても胸
を打たれました」とお伝えすると、「福島市内では「風評被害を作って
いるのはあんただ」というような話にされてしまいます」との答えが
返ってきました・・・。

僕は荒木田さんの文章は事実を正確に伝え、その中で「今しかできない
作業」に取り組んでいる、人間としての、そして歴史学者としての、誠意
がこもった素晴らしいものだと思います。それを短い中にきちんと納めて
いることも素晴らしい。表題は、編集者の方がつけられたのだそうですが、
文意と荒木田さんの思いを見事にくみとったものだと思います。


その荒木田さんが、福島の今後のこととして、「あずまおろし」が吹き始
めることを憂いをもった顔で僕に教えてくれました。これは福島市西部か
ら山形県米沢市南部にかけて連なる吾妻連峰から吹き下ろしてくる風の
ことで、毎年、雪が降る季節になると猛烈に吹く風です。それも正面から
受けると自転車が進めないほど強いと解説されるほどです。

しかも、雨の多い10月までの気候と違い、福島はこれから乾燥していくの
だそうです。乾燥した状態で、非常に強い風が吹く。「そのことで放射能
が舞い上げられてより拡散するのではないか。それが心配です」と荒木田
さん。気象庁より今年は冬の到来が遅いことが発表されていますが、しか
し僕が訪れた10月20日、吾妻山は初冠雪を迎えています。

荒木田さんは誰よりも、福島の今を憂いている。そして「見殺しにされ、
忘れられようとしているわが町・福島の姿を伝えたい」とこうした文章を
書いている。しかしそれが「風評被害を作っているのはあんだた」と言わ
れてしまう現実があります。僕はその中で発言している荒木田さんを応援
していきたい。荒木田さんと共に、「するほど「住めない」と思う」除染
に、今後も携っていこうと思います。ただし次回は、作業被曝に対する
防御の工夫をもっと凝らして。


荒木田さんの文章に共感された方は、どうか私までメッセージをお送りく
ださい。荒木田さんにお届けしたいです。今、私たち福島の外にいるもの
ができるのは、福島の苦しみをシェアし、そこでの「もがき」に寄り添っ
ていくことだと思うのです。「元気のでない、先の見えない話になってし
まう」この時期を共にすることが大切だと思います。

同時に僕は思うのです。この中からきっと何か大事な知恵と経験が生まれ
てくるのではないかと。その意味で福島はけして同情の対象なのではなく、
新たな知恵が生まれる場、世界が学ぶべき対象にもなりうるのではないかと
も。これまで幾度も人類が大きな苦しみの中からこそ、新たな知恵を紡ぎだ
してきたように。僕はできればその誕生に立ち会いたい、そのための何かの
お手伝いをしたいと思うのです。


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原発はもういらない-13 私達は「集団ヒステリー」にかかっているらしいの条

2011-06-16 16:16:16 | yaasan随想
 自分達で蒔いた種が毒草となって芽を出したとたん、「芽を出させた奴が悪い!」という。

 これほど無責任で身勝手な人間はいるまい。

 その種まきを主導し、未だにその事を反省もしない親子が日本の政治を動かしている悲劇。

******************************

 反原発は「集団ヒステリー」 自民・石原幹事長

2011年6月14日22時55分
asahicom http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110614-OYT1T01205.htm?from=main2

 自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、イタリアの国民投票で原発反対派が多数だったことについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」と語った。福島第一原発事故を念頭に置いた発言で、表現が不適切との批判が出そうだ。

 石原氏は「反原発と言うのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったとき、国民投票で9割が原発反対だから、やめましょうという簡単な問題ではない」とも述べた。

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イタリアは、これまで、原発に頼ってこなかった、だからこそ「簡単」に止めます!と主張することができる。一方日本は、自民党の政権の下、税金をばらまき、お金で人の心を買い取って、無理矢理原発を日本中に造り出した。だから、「反原発」といっても直ぐに30%の電力を停止することができない。とはいっても、実は30%の電力が止められて一番困るのはこの恩恵を最も享受してきた企業なのだ。私達国民はいつでも電力消費を30%減らすことができる。場合によっては少々のお金がかかっても自然エネルギーに替える努力もできる。

 私達は別に「病気」にかかって「原発はもういらない」といっているのではない。その逆だ。まともな神経を持っているからこそ「反原発」を声を大にして叫んでいるのだ。

 今の不便、これからの負担がイヤだから、原発を維持する!というのは未来に社会を形成していく子孫達に対して責任が持てないからいっているのである。政治家というのは、国家をどの様な方向に持っていくかのビジョンを示す職業なのではないのか。明確なビジョンを描けないあなたこそさっさとお辞めになったらいいのではないだろうか。

以下は毎日新聞与良正男氏の主張である。未熟と無責任しかない日本の政治。結局は自分達で足下から作り直さねばならないのかも知れない。

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熱血!与良政談:民主の未熟、自民の無責任=与良正男

 東日本大震災の被災者たちの、まるで先が見えない苦しい日々が続く中、自民党など野党が内閣不信任決議案を提出し、民主党からも大量の同調者が出そうになったのは、私にはあきれるばかりの出来事だった。

 菅直人首相が否決された途端に年明けまでの続投をにおわせたことも、鳩山由紀夫前首相がそれを「うそつき」呼ばわりしたのも、民主党の未熟さ、幼稚さを改めて示すものだった。

 それでも、こうなった以上は何とか菅内閣よりましな政治体制を作ってもらいたいと願う。しかし、ことはそう簡単に進まないのではなかろうか。

 民主党内の小沢一郎元代表をめぐる「小沢対反小沢」の対立は実際には何ら解消されていない。今、「ポスト菅」として名前が挙がっている人たちは、ほとんどが「反小沢」に属する。小沢元代表が納得しなければ再び、党内抗争に発展する可能性がある。私たちは党を二分する代表選びにまたまた延々と付き合わされるのだろうか。

 しかも、誰が代表=首相になっても国会の衆参ねじれ状況は変わらない。そこでにわかに語られ始めたのが、民主と自民の大連立だ。

 私は震災直後、自民党の谷垣禎一総裁が菅首相からの入閣要請を断った際、本欄で「谷垣氏は入閣すべきだった」と書いた。与野党協力して危機に臨むということであれば、期間限定で復旧・復興に課題を絞り連立するのも一つの方法だと今でも思う。

 でも、自民党からは早速、「連立するなら首相は自民党に」とか、「いずれ民主党政権は行き詰まるから、今年秋の衆院解散・総選挙を狙え」とか異論が出ている。谷垣氏は不信任案提出前には「菅首相が辞めれば、党派を超えた団結はいくらでもできる」と言っていたはずだが、党内がまとまらないから、例によって慎重な物言いだ。要するに責任を負いたくないのだなあと言いたくなる。

 「どっちもどっちだ」と批判しているだけでは無責任だと思うから一つだけ提案を。連立するにせよ、しないにせよ、自民党の方から「次の首相はこの人なら協力する」と具体的に提案してみてはどうか。邪道ではあるけれど、なかなかまとまりそうもない民主党も「自民党が協力してくれるのなら」と後継人選が進むかもしれないし、自民党にも一定の責任が生じる。

 とにかく物事が決まる国会にしないことには、政治への絶望は広がるばかりとなる。(論説副委員長)

http://mainichi.jp/select/opinion/yora/

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