yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2008年度北畠館跡発掘調査報告の条

2008-12-28 21:35:18 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
今年は祟り年だったね、山田博士に厄払いをしてもらわないとね!!怨霊の神様お願いしますよ! 


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 2008年12月24日(世間ではクリスマスイブと呼んでいる日)、北畠館跡の指導委員会があり、行って参りました。

 今年は年初から嫌なことばかりありましたが、年の最後までそれは続いていました。これだけ続くと私も桓武天皇の気分が判るような気がします。
 前日、従姉妹から電話があり、ご主人が亡くなったとのこと、この日が通夜で翌日が葬儀だという。血は繋がっていないが、長く学校の先生をなさっていた方で、とても物静かな方であった。会うのは叔父などの葬儀の時だけなのだが(母の時は相当悪くなっていたらしくお会いすることはなかった)、それなりに親しくして頂いていた。67歳というから本当に早い。癌が手遅れで、1年持たなかったらしい。余命を知ってか、この1年間は奥様とヨーロッパや中国などあちこちを旅行なさったとか。ご冥福をお祈りしたい。

 そんな突発的な事態も神は予想してか、見事に通夜と葬儀の間を開けてくれていた(神さんもドンだけ働かしたら気が済むんでっかねーーー.先日労働条件の調査なるものがあって、今度呼び出されることになったが、どうせ口だけ!!誰も人を増やして仕事を軽減してやろうとは言わない!)。午前中に史跡整備基本方針の会議、午後から現地視察。会議が終わって直ぐに最寄りの駅まで送って頂いて、通夜へ。普段着のママ滑り込みセーフ(フーッ)。

 それにしても午前中の史跡整備会議はお粗末だった!!資料の誤字誤植は言うまでもなく、文章も中味も、ちょっと待ってよと言いたくなる。こんなレポートだったらまずは「不可!!」もっと問題は中味がないこと。まるで開発部局が作った整備管理計画案。史跡として重要だが地元が開発して欲しいと言えば「どうそご自由に」こんな弱気な最初から逃げ腰な文化財部局の文書を見るのは初めてだ。悲しい!!これも市町村合併の典型的な弊害の一つだろう。合併してみんなが無責任になってきた。個性を失ってきた!!


 さて今年の現地は去年の続き。私にとってはとても興味深い成果が出ていた。昨年のちょうど今頃初めて北畠館跡から地割に関する遺構が出てきた。築地跡だ。その続きを掘っていたのだ。

 発掘調査地は昨年の調査地の北、いわゆる六田館跡の直ぐ南であった。



(この図面の上部の四角くやや黒く塗ってあるところが六田館跡の堀跡、その直ぐ南に長く連なっているところが今年と昨年の調査地)



(六田館跡の現状。この家の向こうが館の中心部らしい。委員会ではこの本体を早く掘ってその実態を明らかにすべきではないかという意見が出た)



 (六田館跡の南堀の続きかと思われる落ち込み跡が発見された。)



(石列を北から見たところ。発掘調査区の西端は前回同様川原石を積んだ「石垣」状の遺構によって境されていた。ただしこの遺構は前回のものと微妙に位置を違えているらしく、南端で1m近く西に位置しているという。南端の右から3番目の人の辺りに前回の石列がある。) 


 (途中こんな石組み遺構も認められる。)



 (さらに興味深かったのはちょうどこの石列がグ位置になる辺りに南北の空間を区切る掘立柱柵列が認められるのである。その位置は北の堀から南の築地塀までのほぼ中間に当たり、略計算すると約450㎡(二つ分で900㎡)あるのである。とても切りのいい数字だ)

図面をもう一度見ていただくとよく判るのだが、六田館の南から東にかけてはほぼ同じくらいの南北に長い地割が連なっている。それが発掘調査で確認できたのである。造成時期はどうも16世紀中頃のことらしい。北畠が滅ぶ半世紀ほど前のことである。16世紀前半には北畠に変化が起こっているようで、六田館はその変革の中核を担っているようだ。この館を中心にして、昨年発見された築地塀までが区画整備されているのである。言葉を変えて言えば都市の再整備である。



 どうもその区画の基準が900㎡(あるいはその半分の450㎡)にあるらしい。図面の下に延びている図面が昨年と今年の発掘区である。上半分が今年の調査地でそこに畔があるのも偶然ではなさそうである。どちらからも刀の飾り金具の鋳型や未製品が出ているので、恐らくそうしたかなり特殊な工人達が集住させられていた空間であろう。町の内部にある不思議な、石を使った施設の性格解明も急がれる。
 京都・平安京の最小区画が15m×30m=450㎡だから大体それに近いのは偶然だろうか。その解釈はおいておくとしても、300坪を基準として区画を作り、その町の中に都市民を住まわせる方式はなかなかの計画性である。これまでにも遺存地割りから多気の北畠には朝倉館のような谷全体を統一的に町造りした可能性があると指摘されてきたが、どうもそれは一気になされたのではなく、川向こうの館を中心に展開した15世紀代から16世紀代に入ると、その町割りを基準に川と反対方向の今回の調査地一帯(東側)に利用空間が広がり、その際に新たに六田館が設けられ、これを核にして主に北側に900㎡を基準とした整然とした町造りが始まるのではないだろうか。

 残念なことに、この都市空間は城主の滅亡と共に廃絶し、人々の記憶から薄れていくわけだが、後の伊勢本街道という大和から伊勢に抜ける重要な交通路を抑えた北畠の壮大な政治拠点の形成を予感させるものであった。過疎化が進み、遺跡の保護には絶好の状況である。美杉村がなくなり、津市にとっては交通も不便でお荷物なのかも知れないが、それはあくまで今の感覚からみたものである。地球環境の悪化が叫ばれている今日、これほど豊かな自然に恵まれた住環境こそ大切なのではなかろうか。大和(飛鳥・桜井・榛原)から伊賀(名張)を経て伊勢(多気)に抜ける道沿いに遺されたオアシスである。こんな贅沢な環境は他にない。

 もう開発の時代は終わった!ゼネコンや土木事業で国民の金を浪費するのではなく、自然を守り、育てることに振り向け、そこに雇用を創出し、豊かな生活を保障していくことこそ求められているのではなかろうか。その一翼を担うのが歴史遺産の保護活用であることは間違いない。

 津市民のオアシスとして是非積極的にこの遺跡を護ることに全力を傾けたいものである。
 
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都市北畠氏館址群が面白くなってきたね!津市の皆さん、このオアシスは人工では造れませんよ! 

「その時」歴史は動いたか?の条

2008-12-19 07:39:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
歴史が動いたのは本当はいつなのか?果たしてそれが解っただろうか? 

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 木曜日、授業に出かけると多くの学生達が「昨日NHKを見ましたよ!」と言ってきた。
 「どうして知ってるんや?」と聞くと、
 「この前の撮影の時にデレクターが放送日を教えてくれていたんです」という。
 しかし撮影は2ヶ月近く前のことだった。
 「よく覚えていたもんやな」と言うと、
 「だって使おうと思っていた資料室がそのせいで使えなかったんですもの・・・」と,なるほど迷惑に思っていたものもいたわけだ。あれだけ大騒ぎしたにしてはえらく短かったですねと言う感想を述べた学生もいた。

 確かにその通り。ま、番組なんてものが膨大な「ムダ」を作りながらその中から都合のいい部分を切り貼りしてできあがるのだと言うことを今回も思い知らされた感じがする。もちろん途中からそうなることは判っていたのだが。

 さて一応ここでは番組の評価を私なりにしておかなければならない。

 その前に確認しておかなければならないことが「その時歴史が動いた」という番組は娯楽番組だということだ。多くの視聴者は歴史の教養番組と思っていようが、それは間違っている。いろいろな取材を3ヶ月近くにもわたって受ける中で、判明したことは、専門家にテーマに関する基礎的な、場合によっては今日の最新の研究状況を取材はするが、それが活かされるとは限らないということだ。

 私は日頃テレビを見ないので、「その時」がどんな番組なのか事前には十分に理解していなかった。担当のデレクターの方が来られてこんな番組を考えているがどうか、から始まって、様々な関係書物を紹介し、次々と出てくる疑問に答えながらテーマの持つ魅力を絞っていく。この辺りまでは結構緊張感があって楽しいのであるが、およそ決まった基本方針を「上司」に提案する辺りからおかしくなってくる。

 どこの世の中でもそうだが、「上司」なるものがどれだけ質がいいか悪いかによって、その組織は随分風通しがよくなったり、質が変わったりするものだ。

 この番組も、「上司」の基本的考えは「娯楽番組」。楽しめさえすれば少々の専門的見地からすると検討すべきものは捨象されるようだ。この点については番組を研究していなかった私は理解が及んでいなかった。反省点である。

 しかしそれにしても、「平安京誕生」と題された今回の放送は、研究者の立場を越えてみてもどうだったのかと疑問に思う。

 まず第一にテーマである「その時」がうまく伝わってこないのである。
 平安京に行ったから平安時代という、恐らくこれは日本中の多くの視聴者が思っていることであろう。そして、京都は長く日本の都と意識されていたので文化の中心であった。これまた常識的である。これでは大したインパクトはない。結局「長岡遷都」をあまり大きく取り上げないという「方針?」がこの番組を判りにくくしたのではないかと思う。その事情はうすうす判ってはいるが、それはここではおいておこう。
 
 第二に、映像としての問題である。これも伝わってきた内部での事情がいろいろあったとのことなので、仕方のない側面もあるのだろうが、映像の専門家であるNHKが提供する番組としてはいかがなものかと思わせる場面が多くあった。

 桓武天皇?らしき人物の出で立ち、進行役のナレーションの間に背後で流される映像の同じものの繰り返し。そしてそのシーンの意味不明さ。杓を持って机を挟んで何かしている振りをする。「なんじゃこれ?」とみんなが思ったことではないだろうか。折角長岡京については先の歴博の展示会で立命館大学の河角先生が苦心して作られた映像を利用しているのに、他がこれでは番組全体がしぼんでしまう。河角さん達が作った3Dにしても、もう少し利用の方法があったような・・・。

 第三に内容だが、平城京の問題も、長岡京遷都も、そして平安京遷都とあまりにあれこれと詰め込みすぎて、短い時間ではいずれもが説明不十分で何のことやら判らないという結果になったような気がする。

 平安京誕生が「その時」だというのなら(もちろん私はそうは思わないが!!)もっとここに集中すべきであったろう。ただしそうするとこのテーマを斬新な資料で視聴者に判りやすく説明するのは並大抵のことではない。とても短い準備期間での、限られた予算では無理である。
 だから、長岡京遷都をメインにすればいいのに、どうもどこかでそれを駄目だと言っている人がいるらしい。表向きは「難しい」「一般受けしない」らしいのだが、私には大体その理由は予想できる。それならばいっそのこと平城京から平安京に飛ぶか?ということになると、それはあまりに今の研究状況を無視しすぎることになる。そんなジレンマが見えてくるような内容だった。

 昨年の歴博の展示もそうだったが、結局長岡京遷都から平安京遷都の問題をわかりやすく一般の人に感動を与えるくらいじっくりと伝えるには、この問題を熟知し、どんな資料があるかを知り尽くした人間が時間をかけていろいろな分野の人と相談しながらやらないととても難しいと言うことなのかも知れない。
 そんなことは今の日本の「効率」優先の社会ではとても望めない。ま、あの世に行ってから中山先生や高橋美久二さんと来世博物館でじっくり相談しながらやるしかないかも知れない(笑)。

 そうは言っても、こんな全国区の番組に「長岡京」という名前が出てくることだけでもこれまでにはなかったことである。番組でも奈文研の馬場さんが平城京と長岡京の比較を「ビスタ」という視点でやってくれたのも、昨年の歴博の展示研究会があったからである。これを機会に研究テーマとして若い学生さんが宮都を、長岡京を取り上げてくれ、停滞している長岡京研究に発破をかけてくれればそれはそれでいいのではないかと思っている。

 お疲れ様でした!花村さん。これからも頑張って下さいね。再見!! 


 なお、私自身の個人的感想&反省の弁。

 「山中、肥えたな-!!!」
 「何やこの腫れぼったい顔は?」
 「もちろん頭も薄くなったし!」

 ちょっとショックでしたね(笑)。もちろんプレドニン(ステロイド)の服用がムーンフェースと禿頭にしているのですが、それだけではありませんね。これから毎日ランニングでもしようかしら(大笑い)。


 そして私ははっきり言っておきたい!「その時」は長岡京遷都であると!これなくして平安京なんて誕生しなかったのだから!!どう考えても長岡京は平安京の親だったのである。皆さん忘れないようにネ。 

その時歴史が動いた第346回平安京誕生の条

2008-12-17 16:25:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今夜10時からのその時歴史が動いたは「平安京誕生~千年の都に秘められた苦闘~」 
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NHKのうたい文句は

 千年の都・京都の原点「平安京」。その誕生の裏には、時の桓武天皇をめぐる血ぬられた争いと苦悩が秘められていた。奈良時代の末、平城京での激しい権力闘争の中で桓武天皇は「遷都」によって政治体制の一新をもくろむ。しかし極秘裏に進めた最初の遷都は大きな反発を呼んだ。

だそうです。

 本当ならもっと前から宣伝をしてもよかったのですが、ちょっと躊躇してしまいました。

 なぜか?

 これはこれまでのこの番組の歴史が物語っているのですが、どうも「一般の人に判りやすく!!」を金科玉条のように掲げるために,番組協力者の資料が次第にぼかされ、平板になっていくようです。

 そのことはネット上で検索をすれば判ります。それぞれに言い分があるのでしょうからコメントはしませんが、3ヶ月ほど番組製作に協力する中でそのことを実感しました。もちろん私が企画して放送するのではありませんから、やむを得ないことなのかも知れませんが、折角の「その時」がインパクトに欠けるものになってしまうのは残念なことです。

 私もこの番組で数分のコメントをしましたが、最終的にどの様に扱われているのかは今夜見てみないと判りません。事前に流れてくる情報によると強調したかった長岡京の画期性はどうも随分薄められ、桓武天皇がなぜ遷都をしようと決意したのか。その根本原因である天皇の出自、天皇即位を巡る問題点はほとんど取り上げられないようです。残念!!また平安京遷都の原因についてもかなり最新の研究成果とはかけ離れているようで少し寂しい気がします(もっとも関係機関の中には協力を喜ばず、肝心の資料が提供されなかったとも聞きますから、この辺もイヤですね。悲しー!)。

 ですから、今回の番組だけではなく、今後もでしょうが、こういう番組はやはり専門的見地から見ると、いろいろ課題が残るようです。

 ま、その点は割り切って、あくまで娯楽番組として、歴史物の番組として、気楽に見ればいいのかも知れません。全国区の番組で「長岡京」が取り上げられること(長岡京のなぐらいは出てくるはずです。(笑))なんて、かつてなかったことなのですから、それだけでも有り難いことだと思うべきなのかも知れませんね。

 ですから、皆さんも今夜22時、一応見ていただきたいのですが(私は怖くて見れないかも知れませんが・・・(笑))あまり目くじらを立てないように。

 「アーこういう作り方もあるんだ・・・、」くらいにしておいて下さいね。

 それにしても昨年の秋に歴博で展示をしたお蔭で、長岡京が少しだけですが、認知されたことは嬉しいことです。番組にもその時の共同研究者のSM博士、BHさん、KTさん、NNさんが登場するはずです。
 今後もっともっと研究してメインタイトルに長岡京が流れる番組が作られるよう努力していきたく思っています。

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歴史が動いたのは平安京誕生の時ではなく、長岡京誕生の時ですからね!お忘れなく 

ご意見はNHKへ
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html

初冬の京都に東人の第二陣の条

2008-12-16 08:43:49 | yaasan随想
 寒風の中の京都を歩くのもそれなりに楽しいものです.その上少しダイエットができて!有り難う皆様 

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(出発は豊楽院豊楽殿跡、そして造酒司跡へ)

 御酒の倉 一陣の突風 千年を 



(昼食後に平安神宮へ。正面は応天門跡。)

 木漏れ日に 善男の無念 応天門


(平安神宮なんて!とお思いの方も多いかも知れませんが、これが唯一当時の施設を原寸大に近く想像できる数少ない施設なんです。)



(蒼龍楼や白虎楼は長岡宮で見付かった門闕を立体的に想像するに相応しい施設です。)

 新年に 平安祈る 主の闇 



(枯れ葉の舞う「将軍塚」に上がりました。1ヶ月前は紅葉で満開だったのですが・・・もちろんこれは将軍・坂上田村麻呂の墓などではありません!!)

(ただしとても素敵な太陽のプレゼントが待っていました。しばらくご覧あれ。東山から西を見ながら北から南への光景です)



 陽に浮かぶ 平安京の 冬景色





(先月は真っ赤だった同じ紅葉はもう一葉も残ってはいませんでした。)



 一葉なく しんと群れそう 大日堂



(そしてしんしんと冷える東寺講堂へ)



 西陽射す 校倉の影 堀の中



(西寺から羅城門を経てお別れ)




(羅城門でお別れとはまたロマンチックな!(笑))

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よいしみずさんおめでとーーーーの条

2008-12-15 10:10:02 | yaasan随想
 おめでとう!!YYさんお幸せにね 

 土曜は僕らの研究仲間YYさんの結婚式だった。京都の立派な結婚披露宴会場だったので私たちもとても緊張した。
 私も主賓のご挨拶の後乾杯の音頭をとらせてもあった。
 昨年の春一緒にイングランドのThe Hadrian's Wallに行ったこと、その後二人とも病気になって入院したこと、その最中に彼女からお見舞いがの青汁が届いたが飲まずにおいてあることなどを紹介した。
 後で、「何で飲まなかったのですか!!」ときつく新婦に叱られてしまった(笑)。

 さて、式が始まって緊張しているかと思いきや、一番緊張するはずの新婦がこんな感じ。うまく写せなかったが、ビールもぐいぐい!!とにかく笑いが絶えない結婚式だった。
 やはり大学の同級生で、サークルも同じというのはリラックスするらしい。ずっと笑いが絶えなくて、久しぶりに楽しくとってもいい雰囲気の披露宴に出席させてもらった。ありがとう!
 


(とっても楽しい結婚披露宴でした!おめでとう吉水さん!!)

 何といても驚いたのは友人達が作成したコンピューターを駆使した映像であった。これまでのスライドではなく全てコンピューターに取り込み、さらにアニメーションやビデオを取り組んだものだった。さらに新郎の仲間がやった紹介『劇』はさしずめどこかのコマーシャルビデオだった。



(こんなシーンも流されました!!それにしても今時の子供達はいろんな記録を残してもらっていることがよく判りました。)


(こんなにたくさんの独身女性が集まったのに我が独身男性は何しとんやーーーー!頑張れN君)


(はっきり言って同い歳とは思えないほどしっかりしたお相手でした。M君よろしく頼みますよ!!)

 結婚しても研究を忘れないでね!!『延喜式』にも来てね。 

臨時ニュース!

2008-12-13 23:40:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ハハハいろいろあるんですね!本気で神様になろうかしら!? 

 突然ですが、こんなニュースが飛び込んで参りました。
 あまりに楽しかったので、書きかけていた最新記事を止めてこれを臨時ニュースとしてお知らせします。

 我が同僚山田雄司先生からこんな楽しいお知らせが届きました!さすが怨霊の神様!神に関する情報は飛び抜けています。

 それにしても私こそは歯歯歯の神様であることを権威ある両山田博士に承認いただいたような気がします。ありがとう!!

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 山中先生

 山田邦和先生にまけず、私も歯の神様の報告です。添付したファイルは、大阪梅田の歯神社の写真です。もとは淀川の水を歯止めする神として祀られたそうですが、江戸時代には歯の神様として崇められるようになり、現在では「全国の歯科医はもとより、歯ブラシ、歯磨き粉、歯に関するガム、入れ歯、歯科技工士など歯に関わる老若男女の参拝が絶えずあり、歯の大神さまとして慕われています」ということです。この写真を持っていると御利益があるかもしれません(笑)。

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 でも、今日還暦歯ブラシがまたまた売れました!!さらに予約が殺到しました。
 
 やはり歯歯歯の神様はこの私ですぞ!!

 なんと言っても私は元歯科技工士!!妹と妻は歯科衛生士。叔父と従兄弟が歯科医。実は私は前職になる前に叔父に「歯医者になれ!金は俺が出してやる」と言われたのです!!つまり私は筋金入りの世界に2人といない歯を大事にする考古学者なのです。参ったか!
 
 そんな私だからこそ、いつもポケットに歯ブラシを!!
 食べたら磨く!!

 暇があったら磨く!!

 私の歯はいつもツルツルなのであります。

 その私がみんなからもらった60本の歯ブラシ(今は既に58本になった!!)。
 
 これほど霊験あらたかなご神体はないのである。

 赤い歯ブラシポケットに!! 


「歯神社」

 

東龍山漢墓報告-3 再会そして武関への条

2008-12-12 13:11:15 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
  お久しぶりーーーー!! 


(前日の1日には大雁塔へ参り亡き母に焼香しました。)


(再会!!)
 今回の調査は6年前に発掘調査した東龍山漢墓の再測量を行い、その成果を関口先生のヴァーチャルリアリテー研究に活かして将来的に、現地確での遺跡再現を可能にするためのものだった。
 6年前に一緒に発掘調査した総合地球環境学研究所の槙林さんや東亜大学の黄暁芬さん、そして情報芸術大学院大学の関口先生に参加していただき必要情報を収集したものである。

 11月30日、中部国際空港に集まっていただきそこから上海経由で西安に向かった。
 11月4日に帰国する強行軍であったが、全日快晴で比較的暖かく、病人も出ることなく無事終えることができた。

 西安では報告書の打ち合わせも無事終わり、発掘調査を中国側の責任者として共に進めた劉さんとも再会し,12月2日に現地に向かった。
 現地商洛ではこれまたかって現場で様々な形で調査を補助してくれた王さんとも再会し、現地の状況やその後の様子をうかがった。

 再会の宴は昼間から行われ、白酒の乾杯の嵐で参った(笑)。

 いざ、現地で測量という時点で機械の不具合が判明し、急遽第二の目的地武関へ向かった。


 (西安から商洛へは片道3~4車線の高速道路が真っ直ぐ走っていた!!)

 西安から商洛もそうだが、商洛から武関もとても立派な高速道路が完成し、西安商洛はわずか1.5時間。商洛武関も1時間で行く事ができた。これ全てオリンピックに合わせて私たちが帰国後に進められた大事業の結果である。そのせいか、商洛には立派な高級ホテルが建っていた。
 もっともそのお蔭で、秦嶺山脈の岩場を見ることも、商洛から武関までの様々な史跡をじっくり観察しながら進むこともできなかった。もう一つ驚いたのことは鉄道が完成し、西安から南京まで行く事ができるようになったらしいのである。今後はこうした手段を取って再訪することができるかも知れない 。

 東龍山漢墓は発掘調査によって墳丘を解体したので今はその姿はわずかに凹んだ麦畑の状況から推測する以外にない。わずかに、麦畑の向こうに今も残る給水塔が6年前を甦らせてくれる。
 あの時も実はとても怖かったが、言い出した手前、恐る恐る給水塔に昇り写真を撮ったのだが、今はさらに錆が進みとても昇る気にはなれない。


(随分小さくなってしまった城壁)

 そんな感傷に浸っている間もなく、武関へ向かった。
 武関へは当時東龍山遺跡を発掘していた楊さんが同行してくれ、現地を細かく案内してくれた。そのお陰でとても具体的に武関の様子を知ることができたし、武関そのものの変遷に着いての知見も得ることができた。


(この川ははるか雲夢遺跡まで続いている)

 特に初めて南側を流れる川の向こうに渡り武関を全貌することによって、その要害の地であることの実際を確認することができた。この点については早速1月22日の木曜日に人文学部伊勢湾・熊野地域研究センターの月例報告会で簡単な報告をすることになった。




(武関全景。右端の山の頂部が平である。狼煙台であろうか。)

 とにかく関口先生と声を上げて感激したのは鈴鹿の関との多くの共通点であった。特に川の蛇行部分を活かした立地や陸路との関係、狼煙台などの配置は大いに参考になった。しかし残念なこともいくつかあった。まず第一に6年までも既に大半が失われていた城壁がさらに小さくなって3m余しか残っていなかったこと、城内にあった民家が次々と壊され、明・清の時代にも関であったと言われる城内が急変していること、等であった。これも高速道路の開通による都市化の影響であろうか。


(武関鎮の町)                                


(旧家の庭先で勉強する4歳の女の子)            
 私が中国の文化財担当者なら一刻も早く城内全体の保護の手立てを加えるのだが・・・・。悲しい!!

 その後楊さんに頂いた報告書などによって、武関は古くは丹鳳にあったという。ちょうど商洛と武関の間にある丹鳳には城壁も残っているらしい。これはもう一度来なければならない。そんな思いを残しながら12月2日の調査は終了した。

 もちろん夜は地元料理で祝宴だった。


(地元料理に舌鼓)

 皆さん有り難う!!乾杯!! 


(また会う日まで無事でいて下さいね!城壁さん。)


 背景は四川の大地震の際に少し傾いた大雁塔の最新写真

我こそが歯歯歯の神様なりの条

2008-12-10 23:49:47 | yaasan随想
 なぜか神になってしまったぞ! 

 先ほど山田博士様から突然こんなメールを写真付きで頂いた。

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 大阪府松原市の柴籬神社(しばがきじんじゃ)に行くと、こんな像がありました。
祭神の反正天皇は歯が大変美しく、そのことから「瑞歯別尊」の名を持っていました。
 山中さんこそは現代の瑞歯別尊であるとハタと気がつき、ありがたさ極まって感涙にむせんだ次第です。

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〈説明看板の文章〉
   日本で唯一歯磨き面
当神社は本殿に反正天皇(別名、瑞歯別命)を御祭神とし、ここ末社に歯神を祠る歯に関わる社として、古より多くの方々に崇敬され今日に至っております。本年歯社御祭礼日五周年を記念してここに歯磨面を建立し、指先で触れて大神様のご加護を頂き、健康の源である歯がいつまでも丈夫でありますようご祈念下さい。
上面歯右(夷歯) \ を指先で触って健康と丈夫な
上面歯左(大黒歯)/ 歯でありますようご祈念下さい。




(こんな醜い歯をなでた位で歯が丈夫になるなどと言うのはまやかしに過ぎません。)

 見よこの美しい歯を!!歯ブラシ様を!!




(何あろうこの赤い歯ブラシこそ我が霊験あらたかな「還暦はブラシ」60本のうちの1本様なのである。)

 我が歯ブラシのお蔭で??既にこの子は二児の母!!子宝まで保障する縁結びもやるのが本物の歯の神様なのである。参ったかこのいかさま野郎!!

 素敵なパートナーと丈夫な歯の子供を授かりたいという者は我がこの霊験あらたかな「還暦はブラシ」で毎日歯を磨けばいいのである。

 ただし60本しかないから、先着59名様(既に1本はこの教え子に売れてしまった!※なお、当方宗教法人としては未登録に付き、お布施などの寄付行為は一切ご辞退申し上げます!)にプレゼントする。

 ご希望の方は我が神様のメールまで申し込まれたい!

 赤歯刷毛大御神 より

 全国の歯でお悩みの皆様、歯磨きこそ虫歯、歯槽膿漏予防の第一!!健康に歯は大事ですぞ!!ポケットに赤い歯ブラシを!運動キャンペーン中 

仮に70歳まで生きたら、彼らがもう70本くれるかも知れません。そうすると2018年にはもう70人を救うことができますぞ!ご期待あれ。

  瑞歯別 負けるな赤刷毛 六四歯無し
 (みずはわけ まけるなあかはけ むしばなし)季語は六四

 

寒桜 咲いたのメール の条

2008-12-08 13:11:11 | 三重大学考古学研究室情報
 秋萩の 歌剥片と 瓶の宅 (あきはぎの うたはくへんと みかのいへ 


(この山背国分寺の塔跡から南西方向、木津川の向こうに遺跡はある)

 馬場南遺跡のある現在の岡田国神社の裏山はひょっとしたら当時の最有力貴族橘諸兄の邸宅(別荘)のあったところではないかという説もあるらしい。その遺跡から「「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11字が墨で書かれた木簡が出土した。万葉集巻10に収録されている作者不明の歌「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも」の冒頭部分とみられている。
 あるいはこの邸宅で諸兄や家持が歌を歌い、『萬葉集』の編纂に従事していたと思うととてもワクワクするのだが・・・。

(かつて紫香楽宮とされたこの地は今は甲賀寺ではないかと考えられている。11月2日苅谷俊介さんご一行を案内いたおりに)

 昨日、一昨日と二日間続けて今年の木簡学会だった。
 今年の大会報告は昨年に続き会長である栄原永遠男さんの研究テーマに沿った「歌木簡の総合的研究」であった。
 紫香楽宮の「安積山木簡」の再発見を契機に俄に高まった「万葉木簡」の研究、新たな事例も相次いで見付かりその意義についての熱い研究会であった。特に国文学者のシビアーな研究報告とその内容に関する質疑は久しぶりに緊張感溢れるものであった。ただ少し気になったのは、紫香楽宮や馬場南遺跡で発見された和歌と推定される木簡がこれまでの研究で『萬葉集』の第一期編さん時とされた8世紀中頃に限りなく近い資料であるにもかかわらず、国文の研究者が300年後に写本されて残る資料を基準にして分析する姿であった。

 私なら、後の『萬葉集』に載せられている和歌に限りなく近い歌木簡があれば、そちらこそ、伝わらなかった原『萬葉集』に載せられたものに限りなく近い和歌(和歌の表記方法)だと考えるのだが、どうも彼らは違うようだ。次々と地下から資料の出てくる考古学では、仮説は次々と変遷していく。ところが、ほとんど新たな資料の出てこない上代文学の世界では、定説化した仮説を変えるなんてことは研究者のプライドが許さないらしい。そうかなーーー?!

 安積山 謡うは妹子 宮赤し (あさかやま うたふはいもこ みやあかし)

 そんな国文学者の「解釈」を許すのも、考古学者の責任のような気がする。今回も、木簡を出土した遺跡の調査担当者の報告は少し寂しいものがあったからだ。
 紫香楽宮跡や祢布ヶ森遺跡の報告はとても判りやすく、出土木簡との関係についても積極的に理解しようとの意欲も感じられ、参加者は十分に理解することができたに違いない。しかしそれ以外については少々首をかしげたくなるものがあった。果たして何が伝えたいのか、木簡と遺跡との関係がどの様なものであるのかがさっぱり判らなかったのである。
 中には複雑な事情があるので公表が難しく、説明できないものもあったらしいのだが、それにしてももう少し工夫の余地があったのではないだろうか。
 聞くところによるとある調査については、新聞記者や一部の学者には現地も公開されているとか、ウーン!?と考えさせられてしまう。


 近年地方自治体を初めとする調査主体者の情報隠蔽や恣意的な情報公開が目につく。こんなことで果たして本当の意味での学問研究ができるのだろうか,そんな思いを強くする行為が目につく。日本考古学が停滞している大きな要因がここにもあるように思う。

 かつて頑なに情報公開を拒んできた宮内庁ですら、先の山田博士のブログに紹介されているように(百舌鳥御廟山古墳を見る・・・・の巻)、ここのところかなり積極的に管理する陵墓の調査情報を公開するようになってきた。にもかかわらず、その一方で、ここ半世紀ほど日本の遺跡の発掘調査の大半を担ってきた地方自治体などの公開拒否や選択的公開が目に余るようになってきている。どんな理由があろうとも、税金を使って発掘調査をしている以上、その結果を全面的に公表するのは当然ではないだろうか。特に発掘調査の情報は報告書やネット情報では理解しにくい、現地でなければ確認しにくい情報や資料をたくさん有している。一部の学者にのみ公表して情報を秘匿するというのも実に不公平である。学問というのは平等に資料を公開しその資料を基に多くの研究者が分析して自説を展開するのが原則なのだから!

 もう一つ苦言を呈したいのは、だらだらと弥生時代の遺構や遺物の説明に報告時間を費やす某遺跡の報告者である。もちろん、木簡が出ようが古代の遺跡であろうが、その遺跡がどの様な歴史的背景のもとに成立しているかを説明することはとても大事なことである。とかく木簡の文字のみに注目しがちな研究者に警鐘を鳴らし続けているのはこの学会の大きな特徴でもある。だから、弥生時代を省けとは絶対に言わない。しかし、何の脈絡もなく、だらだらと弥生時代の様子を説明し、突然木簡がここから出ました、墨書土器はこんなにありますと言われても、普通の人間は理解できない。たまたま日本中に著名な遺跡の関連報告なので、参加者は何とか我慢されたのであろうが、一番前に座っていた私等はよほど「もうちょっと古代のことも勉強して報告しろよ!」と怒鳴りたかった(怒鳴らないところが私も歳をとったのかも知れないが(笑))。そんな思いを強くする報告もあった。
 もちろんそうした報告者を選んだのは私も含めたこの会の委員会なのだから大いに反省しなければならないと思った。折角遠方から貴重な時間を割いて、高い会費を払ってきていただいた方々に本当に申し訳なかったとお詫び申し上げたい。初日の和歌木簡の研究報告が素晴らしかっただけにその落差に呆然とした一日でもあった。

 愚痴はこれくらいにして、とてもいい知らせが大会中に舞い込んだ。

 とは言っても、大会中は携帯を切っていたので、何度も電話をくれた本人とは話すことはできなかったんだが・・・・。

 苦節5年、今年三十路を迎える卒業生のN君が関西の某市への就職が決まったのだ。この間、北陸のT県や関西のK市で嘱託職員として頑張っていたのだが、ようやく正職員としての試験に通り採用されたという。

 彼はとても個性的な学生で、1年生の入学式直後からわたしの研究室を訪れ、現場に出ていた学生であった。こう言うとどこが個性的なんだ?と不思議に思われることだろう。本人の名誉のこともあるので相当抑えてご紹介すると、まず第一に研究室に来て直ぐに発した言葉が「先生1000円貸して」だった。「ウン? 何でや」「金ないねん、・・・」経済的に困っていたようなので貸してやった。ところがバイトをし始めても、どうもいろいろ遊びにも行っているようなのに、一向に返しもしなければ状況報告もない。ある時、
 
 「おい、N!! おまえな,金の貸し借りはきちんとせんといかんぞ!俺にとって1000円は別に踏み倒されてもどうという金ではないが、しかし、お前という人間はそういう人間やと思ってしまうぞ。ええんか?」

 もちろん慌てて返しに来た。そんなやりとりがあったからだろうか、彼はよく現状を報告に来た。付きあっている彼女のこと、飼っている猫のこと、弟のこと、お母さんのこと、剣道をやっておられるお父さんのこと等々。とにかく元気だけは人一番いいので研究室を引っ張る人間にもなっていった。卒論は群馬県の三ッ寺遺跡を取り上げて古墳時代の豪族居館を論じた。その資料調査でもエピソードが・・・

 相変わらず金のない彼はバイトの金を切り詰めて群馬へ向かった。ところがお金はどう見ても足りない。そこで、公園の子供が遊ぶコンクリートのトンネルの中で野宿をしていた。朝起きてボーッツとしているとたまたま公園を散歩中の人に話しかけられ、かくかくしかじかと話すと、俺の所へこいという。旅館のご主人だったのである。半額で泊めてもらった上、朝夕の食事も出してもらったとか。卒論は大したことはなかったがそれでも現地まで行こうという努力は評価してやった。

 そして卒業式。

 ナナナント頭を剃り、真ん中にハート型を残し、そこをピンクに染めて出現したのである。みんな唖然!!非難囂々、しかし我関せず。

 そんな彼が大学院へ行くと言うので2年間面倒を見た。そして修了式。運良く??彼の所属している研究科がその年の総代を出す年に。伝統で総代は名簿の順番だ。ろころが、彼より早い名簿の院生が休学中。で、彼に総代の役割が。ご家族中が喜ばれたとか。ついにご両親までもが修了式お出でに!!お父上は北陸の某大学の著名な学者だったのである。さす8がに修了式は真面目な黒のスーツ。頭は完全に刈り、丸坊主。


 その彼にようやく春が!

 私の贈った歌がこれ

 寒桜 咲いたのメール はらはらと 

おめでとう!!しっかり勉強してみんなから褒められる様な調査員になるように!!





(ハイこの中にその1年生の時私の研究室に来た3人が含まれています。やっぱり目的意思,がしっかりしていると違うね。みんなとても立派になりました!!嬉しい!!)

東龍山漢墓報告-2 帰って参りましたの条

2008-12-05 00:50:51 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 今回はどこの飛行機事故もなく無事帰って参りました!  でもスマップの乗る飛行機が1時間近く遅れたとか。ま、それくらいなら許せるか。いえいえ、乗客は迷惑だ多ことでしょうね。何でタレントをそんなに優遇するのかね?わからん。

 ま、それはさておき、こんなニュースを知っているくらいですから無事私たちは帰って参りました。飛行機がちょっとでも遅れ、誰かが検札で引っかかると微妙だったのですが、今回はとてもスムースで、最終のアクアライナーというセントレアから津に向かう舟に無事乗ることができました。他のメンバーの帰宅も微妙だったのですが、これも無事でした。全てスムーズすぎるくらいスム-ズに行った5日間でした。

 これからお風呂に入って寝ます。明後日からは木簡学会、もちろんこの5日間でたまった仕事もあり、また恐怖の年末となりそうです。
 とにかく明日(もう今日か)から少しずつ報告することにします。最終日も実り多き一日でした。中国陝西省の皆さん!!有り難うございました。

 山田博士が祇園で遊んでいる間に一つ仕事が片付きました。 



 

東龍山漢墓報告-1 6年ぶり、感動の東龍山・武関の旅の条

2008-12-04 00:34:37 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 感動の商洛東龍山漢墓の現状、これから毎日楽しみにして下さいね 

 11月30日から12月4日までの予定で現在中国陝西省西安に来ています。明日深夜に帰国します。
 2002年の3月から5月にかけて発掘調査した東龍山漢墓の報告書がいよいよ大詰めになって来ました。そこで、再度現地の補足調査をするため短期間ではありますが、関係者と西安経由で商洛へやってきたのです。現場を共にした懐かしい劉さん夫妻、王さん、直ぐ近くで発掘していた楊さん、そして現場の直ぐ横のうちのおばさん等々、たくさんの人達と会ってきました。

 漢墓は調査によって墳丘を失ってしまいましたが、その痕跡を現地に留めていました。麦畑と化したその地には墓室の痕跡を意味する地表面の陥没が認められるからです。

 かつて現地事務所となっていた施設もこざっぱりとし、直ぐ近くにあったいつも遊びに来ていた女の子の家は綺麗な2階建てに建て替わっていました。
 なんと言っても驚いたのはガタガタの地道だった遺跡前の道が綺麗に舗装され、ナナナント、市バスが運行されていたことです。
 さらに驚くべきことに西安から商洛までわずか1時間半で行けるようになったのです。見事な高速道路ができ、そのまま南京まで行っているそうです。お蔭で、もう一つの目的であった武関にもわずか1時間少しで行く事ができ、短時間の日程にもかかわらずとても有効に時間を使うことができました。

 泊まったホテルは華倫商務酒店というとても綺麗な10階建てのホテルでした。6年前には私たちが毎日ビールを買っていた店のあったところに建てられたホテルです。ちょっと寂しい気持ちにもなりました。

 武関については改めて写真付きで紹介しますが、以前あった城壁がさらにやせ細り、もうほとんど痕跡程度に小さくなっていました。さらに衝撃的なのは、武関の町が大きく変化し、清代あるいは明代かも知れないという古い民家がどんどん建て替えられていることでした。これも高速道路ができたことによる都市化の影響でしょうか。

 しかし新しい発見もありました。御案内いただいた楊さんのお話によると戦国時代の武関は丹鳳にあったとか。現在も古城村と呼ばれている一角に城壁が残り、その時代の「武関」ではないかということでした。御案内で漢代以降の武関の南からの景観も見ることができとても有意義な一日でした。

 そしてそして、最も期待していた東龍山漢墓の出土品と初めて対面することができたのです。

 大量の五朱銭、ミニチュアの鏡、ミニチュアの弩や匙、蝉の飾り金具等々、素晴らしいものばかりでした。その詳しい報告はいずれまた。

 そして来年には日本でこの調査のシンポジウムを開くことができそうな感じで、これからいろいろ細部を詰めていこうと思います。

 ネット環境が悪いのでこれくらいでアップしてみます。

 それでは皆さん帰国後の本格報告をお楽しみに!! 再見!!