yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

《準日記版-7》 『森浩一、食った記録―喜寿記念特別出版―』いただきました!!

2005-07-31 14:10:24 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日出発間際に郵便が届いた。その一つが森浩一先生からいただいた表記の著作であった。
 私は以前にも書いた通り、ちょっとしたきっかけで森先生とおつきあいさせて頂くようになり、以来、必ずと言っていいほど御著書を送って頂く。山田博士のように恩師でも何でもない、浅学非力な私に対する大変なお心遣いである。さっき山田博士の「閑話」を読んでいて、これが非売品で関係者にしか配布されないと知り、益々恐縮した次第である。

 私はそれなりに主張がはっきりしている方だと思う。人物の批評もばっさりやる。いいにくいこともずばずば言う。陰でこそこそ言うのは大嫌いだから、本人の目の前でもいう。だから嫌いな人は顔を見るのも嫌らしい。先日もある調査員に会ったが、こちらが挨拶しても挨拶が返ってくることはなかった。そんな人間に限って、裏での私の悪口はすごいらしい。そしてそれを信じる人も相当いるらしい。

 私はそんなことどうでも好いと思っている。人の評判は自分で相手を直接見て判断するというのが私流である。他人が酷評する人物でも、意外とそうではない側面をもっていることが多い。特にはっきりものをいう人に限ってその傾向が強い。これまでもいろんな上司や同僚と付き合ったが、大喧嘩をした上司に限って必ずいい結果をもらうことができ、以後のつきあいがスムーズになった。人当たりの良さそうな人物に限って優柔不断で結論は出ず、別のところで信じられないような行動を取る。だから少々きついことをいわれようが、はっきりものをいう人間を信用する。

 考古学界では森浩一先生を酷評する学者も結構たくさんいる。いろいろな材料から多角的に分析して発言される、その非考古学的なところを嫌う人が多い。もちろん自分の考えをズケズケ仰るところは一番嫌われるところなのだろう。その学閥に属する教え子達も同様で、先生の批評を鵜呑みにする。
 しかし、今でこそ、考古学の資料一つ一つから丹念な分析をして論文を書くなどということはなさらないが、私は森先生の「大野寺土塔の文字瓦」の分析は大好きだ。あちこちに散逸した資料を丹念に集め、瓦の質やグループを分析した研究である。意外と知られていない研究かも知れないが、山崎院の文字瓦を分析する時に大変勉強になった。

 別に今更「よいしょ」しても何にもならないのだが、「人間」をいかに見抜き、好い人間関係を作っていくか、を考える時に森先生のことをいつも思い出すのである。

 今たまたま遅い就職活動をしている4年生がいる。試験を落ちまくり、これが最後である。この間、彼女に言ったことは
「はよ諦めて来年集中して勉強し、公務員試験を受けろ!」だった。
もちろん彼女は猛反発して、
「イヤです!私は早く就職したいのです」と言う。
しかし私にはどう見ても民間の就職担当に彼女は「受けない」と思えるのだ。愛想もないし、ズケズケものは言うし、容貌も今風ではないし、話し方にとても可愛げがあるとは思えないからである。

 彼女の良さは短時間に面接しただけではとても理解できない、と私は思っている。何かいい仕事を命ずればきちんとするのだが、見た目はなかなかそのようには見えない。その良さを知り、引き出して使えるのは、経営にゆとりのある組織である。つまり、もうそろそろだめかも知れないが、まだ公務員ならたまには好い上司もいる。じっくり育ててみようと考える人もいる。少々上司に噛みついてもクビになることはまずない。左遷されても所詮知れている。だから勉強して公務員を目指せ!といっているのだが・・・。

 最後の砦もそんなに悪くはない職場である。受かればいいな、受かったらどんな人が面接したのか聞いてみたいのだが・・・。そんな思いで、彼女からの電話を心待ちにしている。

 人間を見る目を養うこと、これも人生においては結構大事なことであると思う。



(こんな純真無垢な子の将来が好い友人関係に恵まれますようにと、祈らずにはいられない)

ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-7】 「地理情報システムを用いた古代宮都の環境復原と環境史の研究」参加

2005-07-31 12:17:31 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(「地理情報システムを用いた古代宮都の環境復原と環境史の研究」会議にて)

昨日は正確に言うとこんな長いタイトルの研究会だったそうだ。もうとても覚えられないから、会議中にこっそり辞書に登録してしまった。だから僕のパソコンでは「ち」と打つとこのタイトルが直ぐに出てくる。これでもう忘れることはない?し、林部さんに叱られることもない。

 さて、研究会ではまず今後の計画が説明され、各種問題提議が行われた。
 Geographic Information System(GIS)を用いて、考古学の発掘調査によって得られた3次元情報を表現し、そこから新たな研究視点を獲得し、分析を行って、古代宮都の環境復原に迫ろうとする新しいスタイルの研究の開始である。もちろん今流行でもあり、若い研究者には当たり前の研究手法のようである。しかし、私のような旧人にはGISという言葉すらまだ十分に理解できていない(これも「じ」で登録しておいた)。まずそこから勉強しなければならない。

 これまでのアナログ人間でも、考古学をやっていると、平面的な関係は地図というものを通してその関係、関係の意味を理解することはできる。ところが立体的な位置関係となると、とてもイメージすることは難しい。

「当時、この地点から、あの山の中腹のお墓は見えたのだろうか。」
「この道路側溝の水はどこへ流れていったのだろうか」
「この宮殿はどんな偉容で迫ってきたのだろうか」
こんな疑問になかなか適切には答えられないのである。そんなときGISがあるととても便利である。いろんな方向からその当時の人間の生活空間から「眺める」ことができるのである。それも、瞬時に移動することが可能で、今家の中にいたかと思うと、山に登ることもできるし、もちろん鳥になって空から眺めることもできる。こんな夢のようなことが身近なところで可能になりつつある。

 さて、宮都研究にこれはどのように利用可能なのか?
 僕の今の最大の関心は宮都と「陵墓」・葬地である。前に記した通り大胆にも山田博士に挑戦しようとしている桓武天皇柏原陵の所在地問題なども、これを駆使すればおもしろい成果が生み出せるかも知れない。
 昔取り組んだ条坊側溝の交差状況を元に治水と交通の関係を再検討してみるのもおもしろいかも知れない。

 そんな話をいした後、立命館大学の河角さんが、「宮都研究における環境史とGISの可能性」について研究成果を報告してくれた。とても安価なソフトを用いて作成された「バーチャル平安京」はなかなか利用価値がありそうであった。一つ問題は、平安京に関する考古情報が必ずしも十分ではないということだ。発掘調査には様々な情報が付随している、各地層に含まれるこれら多様な情報を丁寧に解きほぐさないことには、とても往時の姿を正確に復原することはできない。手前味噌かも知れないが、前回の地鎮祭遺構の復原などは地層中の遺物や遺構相互の切り合い関係、文献史料の記述と遺構の検出状況等、繰り返し繰り返し検討して得られた結果である。
 
 考古学のデーターベースとは、建物が何軒あったとか、井戸が何基発見されたとかいう単純な数値情報ではとても対象時期の歴史を再現することはできなのである。残念ながら、その考古学データーベースが、イメージの表現程度にしか使えないのである。

 ではどうするのか、私は、結果を求めず、焦らず、じっくりときちんとしたデーターベースの作成可能なところから始め、それをモデルとして提示し、全国に発信して、関係者の注意を喚起すべきと考えている。
 これだけのデーターを揃えれば、これだけの利用価値があるのだというモデルである。そうした意味で、長岡京のデーターは近年、一部で劣化しているが、それなりに揃っている。絶好のモデルなんだが・・・。

 さて、研究会は予定通り17:00に終わり、本来の目的??!の宴会に突入した。おまけに橿原考古学研究所のM君(M市からのお荷物?だそうな)の乱入があり、大いに盛り上がって橿考研の将来、GIS研究の可能性、東北古代史の現在、等々を厚く語り合い、22:00過ぎには宴を打ち上げてホテルへ。何もせずにバタンキュウ!朝まで熟睡した。楽しく、有意義な一日であった。



(久しぶりの今泉さんはお元気そうだった。とある現場にて)

ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-6】 万歳!万歳!遷都時の地鎮祭が解けた?

2005-07-30 06:53:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 

(写真は326次調査地の復原想定図の一つ。この調査の後、南(右)へも垣が延びていることが判明。修正が必要。)
 長岡京遷都の決定は遅くとも延暦2(783)年10月の桓武天皇による交野の百済王氏訪問時になされた。このとき桓武は4日にも及ぶ滞在で、百済王明信を始め,
多くの百済王氏に褒賞を与えた。
何のために?
第一は母高野新笠との血縁関係を擬装してくれたことに対する御礼のために、
第二に新京候補長岡京の地形確認のために、
そしてかつての恋人明信との逢瀬を楽しむために??

男山・石清水八幡の裏山に登れば、山背国北部が一望できる。後に平安京を建設することになる葛野郡宇多村の地ももちろん見ることができる。しかし桓武が選択した新都の場所はいうまでもなく乙訓郡長岡村の地であった。
 延暦3(784)年5月16日長岡遷都のために視察団が送られた。造長岡宮使・藤原種継一行が現地視察を行ったのだ。地形の起伏など最終確認がなされた後、6月10日に建設工事が開始される。

 私の長岡京最後の調査となった第326次調査地のある乙訓中学校(現勝山中学校)は、後に長岡宮中枢部、大極殿院・「朝堂院」、「豊楽院」相当施設の置かれたところである。長岡京建設の第1歩はこの地から始まったのである。

 都を建設するには、遷都の地を鎮祭しなければならない。今でいう地鎮祭である。藤原京でも、平城京でも地鎮祭の様子が伝えられている。長岡京には記録が残らないが、当然不可欠な行為である。

 調査の結果、長岡京に関連する4回の作業工程が確認された。
 一番上が長岡宮大極殿・「朝堂院」を建てるために整えられた面である。長岡京は桓武が意図的にその地形を選んだために、宮城を置くには相当な造成工事をしなければならない。大極殿という都の顔を建設するために、付近に所在した古墳群(山畑古墳群)を破壊して造成土に用いられたことがこれまでの調査で明らかにされている。今回も持ち込まれて突き固められた土の中に円筒埴輪や蓋形埴輪が入っていた。

 普通は遷都前にあった地形や村、お墓を壊して行うこうした造成作業の痕跡が1回だけ見つかるのだが、第326次調査では異なっていた、土を持ち込む前に簡単な造成が行われていたのである。
 なんのために?
その理由が全国でもここでしか発見できていない特異な遺構によって推測可能になったのである。

 前回の写真でも示したように、東西30m、南北20mの範囲に方形に浅い溝が掘削され、溝の中心に直径数センチの杭(326次調査地内では57本あったが、おそらく全体では200本くらい)が打ち込まれていった。絵巻物などの絵画資料を見てみると、どうもこれは芝垣らしい。杭に芝を結わえ付けて垣根とするのである。
 
 何のために芝垣などを作る必要があったのだろうか。
 さらに不思議なことには、この杭は短時間の内に地上部分で切り取られていたのだ。その証拠に芝垣の遺構の前にも後にも長岡京期の遺構があるのだ。急いでいるはずの造成工事なのに。
 杭の上には川原石や各種長岡京期食器、容器、道具などが放り込まれていた。出土状態から見て芝垣の中で使われたものが廃棄されたものと推定できた。
 これが例の石と穴の関係である。溝の上にはさらに先に述べた造成の土が加えられ、地中に残った杭は完全に密閉される。これが1202年の年月を経て徐々に腐食し、空洞となったのである。私はこれを「モグラが掘った穴」だと勘違いした。

 何故短期間で芝垣が放棄されたのか?その疑問を解く鍵が杭の上に廃棄された「ゴミ」にあった。緑釉陶器の甑や、魚の干物などに付いてくる土錘の存在である。
 「お祭りの道具や!」と直感した。
 「こんなところで何のお祭りや?」
お祭りは直ぐに済んで、鋳物を作るための鋳造炉や、鉄鍛冶のための炉が作られている。大規模な建設工事に際しては現場で釘や各種金物類が製造される。まさにそれである。

 ところで長岡宮大極殿は翌年の正月延暦4年1月1日に完成していたことが『続日本紀』の記録から知られる。造成が始まってわずか6ヶ月後のことである。突貫工事だったのである。
 地鎮祭→金物作り→造成→大極殿建設、今の技術をもってしても6ヶ月は厳しい!そんな慌ただしさが伝わってくる遺構の変遷だった。しかし文献と考古学の資料がこれほどまでにうまくあって、解釈できることはそうない。そして、これこそ歴史考古学の醍醐味である。

 昨夜最後の一行を書き終えたのが21:37。大急ぎで元職場の鎰を閉めに元部下のM君に電話をかける。きっとその声は弾んでいたに違いない。あっという間に自宅にたどり着き、もちろん密かに乾杯した。たった二本の缶ビールに酔ってしまい、ブログに書き込む前にダウンして、今朝になってこれを書き上げた。

 もちろんこれから今泉さんに会いに??橿原へ行く。また新しい課題の解決のために。歴史考古学はこれだからやめられない。



(写真は法然上人絵伝の芝垣)

ランキング登録もよろしくね

(山田大博士の奥様のお陰で、ランキングの方法にミスのあることがわかった。少し手直ししただけで、あっという間に博士と同じ欄に載せていただくことができた。ベストテンだ!!嬉しいな!有り難うございました。 やはり頼りになるのは奥様だ!!たまには僕とフレンチを!)

《準日記版-6》 久しぶりの今泉さん

2005-07-29 12:59:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(ご本人はご覧になっていないと信じて、申し上げます。密告しないでね!今泉さんのイメージ。本当はもっと適切なのがあるんだけれどちょっとそれは・・・。なお、極めて真面目な学問的話なんだが、この写真=蝦夷の頭領アテルイの面はいつのものか明確には解らないが、「蝦夷の鼻」を極めて忠実に写していると思っている。そして今泉さんも(武蔵○も)まさにこの鼻をなさっている。東北の方の鼻には共通性があるというのが私の確信する持論である。)

 明日は橿原考古学研究所で今年から始まる科学研究費「都城とGIS」(正式な名前を忘れました。ゴメンナサイ林部さん)の第1回目の研究会である。

 日本古代宮都の発掘調査情報を3次元情報で取り込み、河川と道路側溝の関係から当時の水の流れがどのようなものであったのか、集中豪雨時に雨水は宅地をどのように浸水させるのか、地下水位と井戸の掘削深度はいかなる関係にあるのか、葬地と宮都との立体的位置関係からどの範囲が見通せたのか、或いはどの範囲を見通すことを意識して葬地を選定したのか、等々テーマは山ほどある。

 もっと具体的にいうと、例えば、石舞台古墳から飛鳥京域はどのように見えたのか、藤原仲麻呂は自らの邸宅に楼閣を建て宮城を見下ろしたと非難されたが、どの程度で宮城は見えたのか、桓武天皇は延暦2年10月に枚方から長岡新京の土地を視察したとされるが、その場所から後の平安京域はどのように見えたのか、桓武天皇柏原陵がどこにあれば長岡京、平安京、大津京の三都が見通せるのか、等々である。

 もっとも今回の会議は顔合わせ、「呑むこと」が主眼??(不真面目!?)だから要するに私の目的は今泉さんと昨年のベトナム以来の近況を語り合うこと。
そうそう、今泉さんのために『大越史記全書』(ベトナム史を記録した数少ない文献)もコピーしてきた。できれば秋にもう一度一緒にベトナムに行きたいのだが・・・。
 
 もう一つ楽しみがある。現在郡山市教育委員会他が共同して発掘している現場で、平城京九条のさらに南から条坊遺構が出ているというのだ。これを林部さんや山川さんの案内で見学できるという。時期や相互の距離などが問題だが、もしこれが平城京以前であるとするなら、私にとっては大変有り難い。以前から私は新城、藤原京十条十坊説には大反対だから。私の考えでは幹線古道(上ッ道・中ッ道・下ッ道・横大路・阿倍山田道)の間を状況に応じて細分したのが新城以後の「条坊制」であって、正方形に区切る発想など全く持ち合わせていたはずがない!!と考えている(もちろん賛同者は極めて少ない)。その一部が下ッ道の延長線上に位置する平城京造営以前に伸びていたとしても何ら不思議はない。
 ワクワク!!

 その前の最後の報告書を現在執筆中。間もなく事実関係が終わる。あと少しだ。今夜のビールはさぞかし美味いことだろう!


ランキング登録もよろしくね

《準日記版-5》 万歳!万歳!のはずが・・・

2005-07-29 07:40:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
残念ながら終わりませんでした。
 いざこれで終わりかと思うとこれも書いておこう、あれを落としてはいけないと次々と手を入れる羽目に、結局これまでに終わったはずの調査地の報告まで再考し直していたために結局夕方まで手直しにかかってしまった。

 昔なら朝までやっても平気なんだが、今は自分の職場ではないからそうもいかず、結局22時30分を限りで引き上げてきた。明日こそ本当に終わり!!にしなければならない。

 夜に原稿にしていたのは、長岡京造営時の地鎮祭の跡から出土したお供え物を入れるのに使用されたと思われる各種容器や食器の組み合わせがどのようであったかについてであった。
 残されていた物はかなり移動してしまったようだが、それなりに当時の豪華な容器や食器を確認することができた。土師器や須恵器の食器類には杯、皿、高坏の3点セット、須恵器の容器類には人間の身体がすっぽり入る大瓶、肩に4個の耳の付いた壺N、大きく口の開く壺H,長岡京には欠かせない長頸壺G、緑釉陶器の甑などがある。この他焼塩壺、土錘なども用いられていたらしい。

 (ここまで書いてパソコンの前でダウン)

 ところでどうしてこの遺跡が地鎮祭跡と解るのかというと、下層から出てくる乙訓郡衙関連遺構に伴う遺物や、長岡京期の遺物、遺構が実に見事に層毎に分かれて発見できたからなのです。そしてそれらの刻々の変化が『続日本紀』の長岡京造営記述と実にうまく合うからなのです。

 その謎解きは今夜すべてが終わってからお話しすることにして、いざ、最後の戦いに出発!!

 ランキング登録もよろしくね

(よくわからないままにここのところのlink.php?数字 を link.php/数字 に変えたんだけれどこれでよかったのかしら?

【研究報告版-6】 宮都造営時の地鎮祭遺構~長岡京の始まりが私の最後の現場~

2005-07-28 00:48:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日は昼から元職場で最後の報告書作りに追われた。4件のうちの3件は前回の報告で書いた通りほぼできあがったのだが、最後に大物が残っていた。長岡宮跡第326次調査報告である。私が直接現場に立って担当した最後の調査であった。

 長岡宮「朝堂院」と「豊楽院」相当施設の間の道路に位置し、長岡宮関係では何もない、と思って掘っていたら、下層からとんでもない穴列が出てきたという現場である。実はこの穴を巡っては愉快なエピソードがある。



(写真は石の下から顔を覗かせた「モグラの穴」)
 忘れもしない1996年7月10日のことである。その頃から始まった地域学習とやらで私も市内の中学校に長岡京の話をしに毎週水曜日、1コマだけ授業に行かされた。受講者は15人前後だったと記憶している。大半が男子生徒で女子が数人いた。実はこの男子生徒が曲者だった。全員野球部。示し合わせて授業を選択したのだ。
 授業では毎回、市内から出土した遺物を持ち込んで、関連する話をしたり、出土遺物をさわらせてみたり、木簡を作らせてみたり、あの手この手で生徒の集中力を維持させようとした。自分なりに相当工夫したつもりであった。ところが全く授業にならなかった。うるさいの何のって、騒ぐわ騒ぐわ、一緒に補助に付いてくれた先生もお手上げだった。いい加減うんざりしていて、早く学期末が来ないかな、と思っていた頃、ちょうどその学校のグランドで私が発掘調査をすることになった。

 どうせ騒ぐなら、外で騒がせよう!こう思って、その日は発掘現場に連れて行った。
 もちろん全員初めての体験であった。道具の説明やら発掘の仕方など一通り説明する時には相変わらずおしゃべりのオンパレードだった。ところがである。発掘を始めて数分も経たないうちに何となく異様を感じた。生徒達が静まりかえって黙々と土を掘っているのである。目の色が変わっていた。
 突然「先生、これいつ頃の土器ですか?」という丁寧な声がした。振り向くとそれは、いつも騒ぎまくっている男子生徒がであった。一瞬耳を疑った。いつもは「おっさん」だった。いつの間にか私は「先生」に変身していた。
 そんなやりとりが続く中、突然「先生、穴が空いたで」という声がし、駆け寄ると、石の下から穴が口を覗かせた。
「先生これ何や?」
空洞の穴が発掘調査で見つかることはそうそうない。つい私は
「モグラの穴やろ!」と言い放った。
ところが、「モグラの穴」が次々と姿を現したのである。さすがの私も面食らった。「何やこれ」声には出さず考え込んだ。いろいろな可能性が脳裏をよぎった。どの穴も直径十センチもない小さな穴で、ほとんど二十センチ前後に等間隔に真っ直ぐ並んでいる。よく見るとそれらは幅四十センチ前後、深さ十センチ足らずの浅い溝の底に並んでいる。穴に手を突っ込むと先が狭くなっているように感じられる。
「杭らしい。それにしてもいつ頃の何もんやこれ?」
全くの初体験の遺構であった。どうも溝から出る遺物はいずれも長岡京期のものであった。どうしたらこのようなものが残るのか?様々な条件を検討して行き着いた結論が、
「杭を用いた柵列が短時間で廃棄され、地面に打ち込まれた部分を残して切断された。その直後にまわりから川原石や土器が投棄された。」であった。つまり、石の投棄時には地下にまだ柵列に用いられた杭の先が残っていたのである。それが年月を経るうちに徐々に腐り始め、ついにはすべての杭の先が腐食し、廃棄された川原石が穴の蓋のような役目を果たし、以後破壊されることなくこの日に至っていたのである。

 さてその後調査は北半分に及んだほか、後日別の所有者の土地でその南延長上を発掘することになり、結局、東西十六メートル以上、南北三十七メートル以上が、方形に巡る杭によって囲われた特別な施設であることが判明した。この方形の空間は北から二十一メートルあたりで区切られ、南北2空間で形成されていることも判明した。地層を形成する遺物の分析からこれらの柵列は長岡京期のものであることも明らかになった。

 では一体これは何か?
 考え抜いた結果、答えは「長岡京造営開始段階の地鎮祭の跡」であった。もちろんあくまで仮説である。しかし過去のどのような調査を振り返ってみても、類似の遺構はない。唯一似ているのが平城宮朝堂院朝庭から発見された大嘗祭の跡である。その遺跡もまた方形の区画を板塀や芝垣が囲っていた。

 記者発表は調査の最終日に行った。時間に追われ、現地説明会は行えなかった。記者発表が終わって、さあ、あと一息、少し確認の記録を取ろうと現場に戻ったその時、激しい雷の音と共に、滝のような雨が降り出した。みるみるうちにトレンチは水没し、遺構は水面の下に隠れてしまった。雨の止むのを待つ時間が惜しく、雷の遠ざかった頃合いを見計らって、雨の中をレベルの追加測量に入った。

 この雨中の測量が私の長岡京での最後の調査となった。天は何かに怒っていたのかも知れない。そしてその時の調査成果がようやく日の目を見ることになる。長岡京跡の発掘調査報告書を執筆することはおそらくもう二度とないだろう。ちょっとばかしセンチな気分の日であった。



(写真は長岡宮造営開始を告げる地鎮祭の斎場を囲った杭の並ぶ様子。)

ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-5】 「東アジア都城比較研究」共同研究会での報告-2葬地版

2005-07-27 11:49:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
(写真は報告する西北大学王維坤さん)

「羅城版」の予想以上の盛り上がりで、恒例の宴会は7時半からとなった。それも夏休み直前で盛り上がる山大生に圧倒され、牢獄のような狭いところに9人が詰め込まれるという惨状だった。さらに狭い中が3人と6人に分断され、相互に日頃食べられない珍品を注文して割り勘負けをしない醜い争い(!?)に終始した。

もちろんふぐだのヒラメだの鯛だのフォアグラだの魚のオンパレードだった(これなら博士に負けないくらい贅沢かな?今日は勝ったかな?!等と思いきや、その頃博士はまたまたフレンチ!アー・・・・。そもそも美食で博士に勝とうと思うのが大間違いだった。身の程知らずでありました。ゴメンナサイ!!)。ささやかな魚料理に満足!!でも明らかな割り勘負け!!!
結局、明日の準備が不十分な私は完全には酔いきれず、やや欲求不満の残る宴を後にし、ホテルで一寝入り。朝四時にセットした目覚ましは無視して、五時から報告のツメをやる始末。どうしていつももっと早くから準備ができないのか!と己のいい加減さを歎き、反省する。

第二日目のテーマは「都城と葬地」だった。私に与えられたテーマは「日本古代宮都の葬地」であった。
もちろんこのテーマは大の苦手で、論文どころか資料を集めたこともない。だいたい私はお墓が嫌い!考古学屋さんの多くが古墳をやるのに対して、私はそれがいやだから歴史時代をやっているのに、何で今更お墓なんぞ?研究代表の橋本さんにまんまと騙されて?やらされる羽目に。
 
 まずは研究史から・・・、と始めてみると、あるワ、あるワ、山田博士の論文のオンパレード。ほとんどの論文は出て直ぐにいただいていて、目を通している(その証拠に?全く記憶のない鉛筆の書き込みがあちこちにあり、いつもやることだが、裏表紙に簡単なコメントまで書いてある)のだが、ほとんど忘れている。唯一覚えているのが「桓武天皇陵は桃山城天守閣だった」というのだけ。
 またまた一から全部読み直すこと1週間。ほとんど毎日博士の講義を聴くような状態だった。結局解ったことは博士がみんな研究しているからつけいる隙がないということ。果て困った!なんか違うことを言わなければ!!どうしよう??そこで先日の日本史研究会7月例会「陵墓制研究の新地平」が大いに役立つ。やっぱりこういう刺激的な研究会には参加せんといかんわな。

 あの時コメントしたように宮都と葬地という関係で葬地の展開を再検討してみよう、というのが僕の報告の主旨。もちろん博士もこの視点で研究なさっているから、私の議論は重箱の隅。

 第一の論点は日本の古代宮都の都市構造の変化が「葬地」を生み出すということ。
 第二の論点は宮都と「陵墓」・葬地との関係が、日本の古代国家の対外関係、対外交流を色濃く反映しているということ。
 第三の論点は、そうしたものを考える素材として桓武天皇柏原陵の変遷や所在地が重要な役割を果たすということ。
大げさにまとめればこんなところだろうか。第三の論点はこの間無謀にも博士に噛みついている桓武天皇柏原陵の現地比定とも大いに関係してくる(最近益々幻覚が激しく、ひょっとしたら博士の研究を覆せるのではないかと妄想しているのが「柏原陵」である)。

 第一の論点については当日妹尾達彦さんの報告が大変勉強になった。妹尾さんによれば、唐長安の都市構造は大明宮の建設によって大きく変化し、これにつられて権力の中枢を担う高級官僚や皇族が次々と東へ居を移し、西にはソグド人などの異民族系の人々や下層の人々の居住する空間になったという。そして彼らの葬地もまた居住地に近く設けられたというのである、ソグド人の墓地は特徴があって、直ぐそれと解るのだが、これが京の西北から集中して出る。一方東へ中心を移した権力の中枢を担う人々は京の東郊外に葬地を設けやや下層の人々は南に設けるようになるらしい。例の井真成の墓誌はまさにこの東から発見されている。おそらく外人墓地があったのだろうという。

日本でも、山田博士の研究によれば、平安時代の葬地が鳥部野に埋葬される貴族や官僚達、賀茂や葛野の川原に放置される佐比川原型へと展開していくという。これも、視点を変えれば、藤原摂関家の左京への集住という都市構造の変化と無縁ではないはずだ。そうすると、右京郊外に展開する葛野郡葬地や紀伊郡葬地の位置づけも見えてくるかも知れない。逆に葬地から右京の居住階層を推定する手法も生まれるだろう。

日本の古代宮都では、平城京後半期から「都市民」が増大したものと考えている。長岡京の条坊制がこれらに対応すべく改造されたことは発見された条坊遺構が明確に示している。もちろん、この傾向をさらに整理したのが平安京である。平安京に入り直ぐに佐比型葬地が増大するのは、まさにこうした「都市民」の増加が実態を持ってきたからに他ならない。なお、唐では佐比型葬地は皆無だという(但し資料にないだけかも知れない-山中註)。宮都の視点から葬地を見ることの大切さを学ぶことができた。

第二の論点は第三の論点とも大いに関係している。中国思想を積極的に取り入れた桓武天皇の葬地が何故平安京の南東にあるのかである。もちろん当初は北西の宇太野に計画された。しかし一般的にはこれが「賀茂神」の怒りを買い移転せざるを得なかったというのである。本当だろうか?そもそもこうした怪異がある時にそれを伝える資料をそのまま素直に読んでいいのだろうか?

怪異現象は基本的に誰かが何かをたくらんで「引き起こされる」政治的なものである(そうでない、実際に怪異現象が起こるのだと信じている人もいるらしいが・・・)。私は桓武天皇陵もその一つだと確信する。では誰が、何故怪異を必要としたのか。その答えが桓武天皇の陵墓問題と彼の陵墓に対する思想を読み解く基本材料になると考えたのである。

その答えも含めて、24日の最後に発表する予定だったのであるが、タイムアップで次回に持ち越しになった。自由な研究会らしい事態である。私にとってはまだ十分にこなれていない説を公表するよりはよほどましなので、喜んで次回12月に延期することに従った。

平安京創始者としての桓武をもう少し丁寧に位置づけることがこの答えにつながると思っている。『桓武朝の考古学』で結論づけるべく今書き進んでいるところである。詳細は今しばらくお待ち頂きたい。

というわけで、金曜日の歴博での報告に始まった7月研究報告版はようやく一段落し、今こうやって久しぶりに私的なメモを書く時間的ゆとりができたところである。また今日からブログな日を過ごすことにしたい。

ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-4】 「東アジア都城比較研究」共同研究会での報告-1羅城版

2005-07-26 17:52:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(新宮さんの報告で解った南京の羅城)

暫く留守にしていたのは、このブログを立ち上げるきっかけになった共同研究「東アジアの都城比較研究」の第3回研究報告会が山口大学で開催され、研究分担者として私も参加していたからです。中国史3人、朝鮮史2人、(日本古代史2人)の研究報告は圧巻でした。

 23日(土)は午後13時半から夕方19時までの強行スケジュールで、充実した研究報告と討論を展開することができました。まず最初に前回のテーマである「都城と羅城」について中国明・清史研究の新宮さんから明代南京城の羅城についての報告があった。

 私が個人的に特に興味深かったのは南京城は西へ拡張されてそこに展開していた「都市的空間」が城壁によって囲われていたという報告であった。画面を見て釘付けになった。というのも、その形態はベトナムのタンロン宮殿遺跡にあまりによく似ていたからだ。タンロン宮殿については15・19世紀の絵図が遺されているが、そのいずれも、西側に都市空間を持ち、これらが城壁によって囲われているように描かれているのだ。今でもハノイ市内の市民の集住する一角に「羅城」と発音する地名があるという。)おまけに南京ではその北に巨大な池があったというがベトナムのタンロンも北部に「太湖」を抱えている。あまりの相似性に声もなかった。研究会では11月末から調査に出かけるが、その時の皆さんの反応が大いに楽しみである。と同時にこうした広い視野と研究成果を比較することのいかに大切であるかを実感した。

さて、報告を終えて、羅城についての総合討論に入った。
共通した認識は羅城の定義がこれまでの研究史においても、また古代の人々においても実に曖昧だったということである。日本の羅城や羅城門が果たしてどのような認識で命名されたのか、必ずしもこれまで十分に議論はされてこなかった。どうも日本の古代人達は羅城と京城を混同しており、「羅城門」という名称が京城の南端の門に付されていることから見て、京城(京域)を囲む城壁を羅城と考えたようであるが、中国の意識ではさらに外側を囲う城壁を羅城と考えていたらしい。

それはさておき、もちろん日本の古代宮都には(一部の研究者の意見を除き。いえ、決してこの説を軽んじるつもりはないんですよ。)羅城はめぐっていなかったとされる。その要因は日本が軍事的緊張感に欠けるからだというのがもっともらしい説である。しかし、中国においても京城の城壁は必ずしも堅固な擁壁ではなかったという(妹尾達彦さんの報告)。さらに新羅慶州では統一後に長安のような宮都が建設されるが、その領域と伝統的な貴族の住んでいる六部とが並立しており、日本の古代宮都のように宮都空間は特別なものではなかったというのである(田中俊明さんの解説)。だから京城の外周に羅城がないのは当然だというのである。なるほど!と頷いてしまった。

日本の宮都は国や郡から独立した特別行政区で、京内は左右京職が管理した。京内の税制や戸籍も独立しており、京と京外では大きな違いがあった。にもかかわらず「羅城」が設けられなかったのは何故か。まだまだ多くの課題が残った研究会であった。

とりあえず初日の報告をここまでにして続きはこの後で。
ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-3】 共同研究「律令国家転換期の王権と都市」の〆

2005-07-22 23:18:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
たった15分の報告のために徹夜までして準備をし、往復8時間をかけて千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ出向いてきました。3年前から私が代表となって進め、今年の春に終了した研究会(もちろん山田博士も参加していた)の総括報告会です。3月ですべてが終わりと思っていたのですが、またやるというので少々うんざりですが、役目ですから仕方ありません。

この間同じようなことを何回も喋っているので、聞いている人も退屈そう。質問も何もありませんでした。特に今日の参加者はほとんどが近代や民俗の研究者。そんな人に桓武天皇たら長岡京たら、左京三条二坊たら言っても解りませんわな。

それなりに苦労して図面をスキャンしたり、プレゼンテーションに動きを付けたりしたのですが、わずか15分ではかえってそんな動きが邪魔になって、途中でどうでも良くなって、帰りの電車が気になって逃げ帰ってきました。あーつまんない!!

何をやったかって?

日本の古代宮都の町毎のデーターを集めているのですが、そのモデル例として左京三条二坊1・2・7・8町のデーターを比較して、八世紀後半の桓武朝に日本の宮都が真の都市へ脱皮するんだと言うことを話そうとしたのですが・・・。ま、わからんかったでしょうな。

それにしても見事ですね。明日は山田博士のお得意のところを私がお勉強して話すという大変憂鬱な発表を山口大学まで行ってしなければならない。改めて桓武天皇陵を読み直すと実によくまとまっていてつけいる隙がない。
ただし依然として解らないのはどうして延暦十一年八月(翌年正月に遷都を発表するのだからこのとき既に長岡京廃都は決定事項だったはず。つまりこの詔は平安遷都を見越しての措置のはず。)に深草山への埋葬を禁止したのに、桓武を最初からそこへ葬らなかったのかと言うこと!皇族の葬地として利用するから百姓の埋葬を禁止したのだと考えるのだが。

桓武としては死んだら深草(つまり東に)埋葬すると決めていたような気がするんだが・・・。もっともあれだけ中国を意識した天皇が何故死に場所を北ではなくて東に求めたのかが解らない。もちろん形式的には最初北(宇多野)に葬るわけだからそれが桓武の意思なら延暦十一年の詔は単なる葬地の規制と言うことになるのだが・・・。

もう一つ気になるのは山田説の言う桃山城跡だが、当時はたして深草の領域だったのだろうかという点だ。深草や稲荷といえば、どうしても現在の稲荷や深草と考えてしまうからだ。地元民は桃山を深草とは決して言わない。

実はこうした「陵墓」・葬地が大きく変化するのも桓武朝なのである。だから八世紀末に歴史は大きく動いたんだ!!というのが僕の主張なんだが。

まだまだ書きたいことは山ほどあるが、今日もこれから準備をしなければならないからこれでおしまい。また来週にじっくり書き込むことにする。

(写真は平城京長屋王邸(左京三条二坊一・二・七・八町)の最初と最後の姿。その一部は780年代には諸国から動員された農民の住む飯場と化していた。日本の都が貴族や天皇の場から多様な人々の居住する都市へと変化したことを如実に物語る資料だ。)



ランキング登録もよろしくね

〈授業版-2〉 前期最後の授業 「木簡と五十戸制」

2005-07-21 15:29:30 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(大反対の中飛鳥池遺跡を破壊して建設が強行されてできた「万葉」ミュージアム。その中庭にいいわけ程度に残された遺跡の一部)

間もなく大学も夏休みである。昔ならとっくに入っているのだが、最近はセメスターだの、授業半期15回だのとうるさくて、4月の始めから7月の終わりまでびっしり授業が詰まっている。学生の方ももっと授業をしろとか、休講の分は補講をしてほしいとか言う奴が時々いる。特に非常勤で行っている大学の学生ほどうるさい。そんな学生に限って授業では寝ているものだ。

だから非常勤なんて行きたくもない!!誰か替わってくれませんか??なんていつも周りに触れ回っているのだがなかなかそんな奇特な人はいない。

さて前期最後の三重大の授業(講義)がさっき終わった。今年のテーマは「木簡」である。特に前期は木簡の製作技法や廃棄の仕方、そうした状況から読み取れる情報などについて話した後、飛鳥から藤原にかけての時期の木簡を中心に話をした。今日最後は当時の地方行政組織のあり方を知る上で貴重な「五十戸」と書いて「サト」と読む木簡のあり方についてである。

「五十戸」表記の木簡は早くに飛鳥京跡から出て大騒ぎになったものである。「白髪部五十戸」と書かれた木簡は厳密な時期比定が困難であるが、天武朝以前であることは解っていた。その後も例が増え、大化五(649)年の孝徳全面立評以降天智朝頃までは「五十戸」表記が知られていたが、飛鳥池遺跡からまとまって出土した木簡によってその終わりが天武後半まで(里表記の木簡が天武十二(683)年には確実に知られる)であることが明らかになり、(国)-評(コホリ)-五十戸(サト)の制度が孝徳、斉明、天智にかけて採られた可能性が出てきたのである。

特に飛鳥池遺跡の木簡には三野国のものが多く、学生にも同国出身の者が多くいることから結構ローカルな話題で盛り上がった。
(1) 丁丑年十二月三野国刀支評恵奈五十戸造阿利麻(下略)
(2) 庚辰年三野大野評大田五十戸∥部稲耳六斗
(3) 癸未年七月三野大野評阿漏里阿漏人米
いずれも現在の岐阜県西部から中部にかけての地域から送られてきた次米関係の木簡であるが、丁丑年(677)天武六年、庚辰年(680)天武九年、癸未年(683)天武十二年と年紀が明確なために阿漏里表記が天武十二年に相当することから上記のような推定が可能となったのである。

いずれも身近な学生に出身者がいて、話題に事欠かなかった。それにしてもどうしてこの頃三野国から盛んに新嘗祭の米が送られたのであろうか。壬申の乱に際し初期戦闘に大きな役割を果たした武儀国造はその後も律令国家における祭祀に大きな役割を果たした。飛鳥浄御原宮に送られた次米は神に捧げたその年の新嘗である。先の直木先生のご講演でも解る通り、天武朝は祖先神祭祀に様々な苦労をした。或いはこうした新嘗祭用の次米を三野国から調達した背景もそこにあるのではないか。

そんなことを妄想しながら、前期の授業を終わることができた。いつもならやっと終わった!という感じなのだが、今回は今まさに研究中の孝徳朝から天武朝だったので話題に事欠かず、楽し区授業を終わることができた。夏休み中にさらに資料を集めて後期に備えたい。



(飛鳥寺に接して道照が設けた東南禅院関係の木簡が出た飛鳥池遺跡の保存地区を見向きもしないで飛鳥寺見学に向かう集団。今日の旅行社のやる史跡巡りのいかに軽薄なことか!!)

ランキング登録もよろしくね

《準日記版-4》 すべてが『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』から始まった

2005-07-21 07:57:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
山田博士と私との交流(平安京閑話7月20日お見舞いと「著書」の巻)はもう15年くらい前になる。京都の新町にある同志社大学で毎週行われていた学習会での報告に始まる。確か同大学出身のN君だったと思うのですが、彼から「長岡京の話をうちで毎週している会で話してくれませんか?」という依頼があり、気楽に出かけた。行ってびっくり!えらいたくさんの学生さんがいるのだ。それだけでなく、森浩一先生もいらっしゃったのだ。

私は全く面識がなかったので、もうちょっとちゃんと準備してくれば良かった!と内心びくびく物で発表した覚えがある。終わって奥にある部屋に呼ばれ、ウイスキーを飲むうちにこの『京都Ⅱ』の話が出た。そのときは私と生年月日がすべて同じ(但しどう見ても彼の方が年上に見える!!のでいつも『お兄さん!!』と呼んでいた)Kさんも入っていたし、他に何人もいて、合計9~10人が共同して執筆するはずだった。

ところが一人抜け、二人抜け、取り残されて最後に「はよ書け!(こんな下品な言葉はいわはりませんでしたよ)」と命を受けたのが私たちだったのです。これまたほとんど面識のなかった博士との珍道中がここから始まったのです。

正直言ってあの本の中味には余り触れたくありません。何せ、長岡京しかしらなかった人間が、突貫工事で南山城の古代遺跡を案内する羽目になったのですから。締め切り間際に大慌てであの辺り一帯を歩き、ようやく遺跡間の関係がわかったという有様でした。

でもそのお陰で初めて「外の世界」を見させてもらいました。嬉しかったです!!

ご承知の通り考古学界にはいろんな「学閥」「派閥」があります。もちろんそんなつもりでもないのに勝手に分類されている場合も多々あります。このころから私は「森派」或いは「角田派」に分類されたらしいのです。
というのも、ある時研究会の後でたまたま帰りが一緒になった大先生から「山中君この頃森さんとえらい仲がええな?」と言われたのです。一瞬何のことかよくわかりませんでした。大先生とお別れしてしばらくするうちに「アーそう言うことなのか」と納得しました。

「えらいこっちゃ分類されてしもうた!!」(「森派」であることを嫌がっているわけではないのですよ!)
しがない小さな教育委員会に勤める人間の性というか、とにかくあちこちに気配りしておかないと遺物も見せてもらえ辺世界です。特に「○○学派」はKYOUDAIです。

でもそれくらいではへこたれない強靱な??図太い神経?鈍感な神経!の持ち主である私は余り気にもせずに仕事はしましたが、確かにその筋からのお仕事は減ったように思います。その代わり森先生からは次々と「命令」が来て何冊もの本に原稿を書かせてもらいました。それが私を今日の職に就かせた大きな要因になったと思います。いわゆる業績はこの頃から飛躍的に積もり積もっていきました。本当に感謝しています。山田博士の恩師は、私にとっては数ある中の大切な恩人のお一人と思っています。有り難うございました。

世間では派閥間の罵りあい?が相変わらず進んでいるようですが、私は所詮一匹狼、誰かが仕事を評価してくれて、「書いてくれへんか?」と言ってくれればどんな「派閥」でも書きます。書くのが仕事ですし、それが生き甲斐で生きているのですもの。

でも、最近は余りえらそうなことが言えません、とんと筆の進みが遅くなったのです。
今進行中の書き下ろし『桓武朝の考古学』(吉川弘文館)も本当ならとっくにできていたはずなのです。にもかかわらず、この頃は他のことに興味が移ってしまって、『海部の考古学』をまとめたくて一杯資料が集まっているのです。しかし、やはり先に長岡京を片付けないと!という後ろめたさもあって、どちらも進みません。やはり著作をものにするのは難しい!!でもこの夏休みこそ外国にも行かず頑張るぞ!ネ博士!! (個人的話題ばかりで済みません。次回からはもう少し格調高く!!??)

ランキング登録もよろしくね

《準日記版-3》 暑中お見舞い申し上げます

2005-07-20 12:49:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
日頃の忠告に一秒たりとも耳を貸さず、飽食にふけった山田大博士(平安京閑話7月19日「お腹が痛い!の巻」)が腹痛でのたうち回ったと伺いました。
もう治まったとはいえ博士ももう少しで50歳、ソロソロ健康を考えなければ!といつも申し上げているでしょう。

わたしなどあと少しで還暦を迎える人間などいつ消えてもいいのですが、さすがに博士にはまだ最低30年の研究生活が待っている。一刻も早く平安京研究の御著書は刊行して頂きたいし、中世都市論も魅力的、そのためには健康第一ですよ。

どうかご摂生遊ばされ、毎朝大根おろしと漬け物、昼は納豆とみそ汁、夜は焼き魚ともずく、もちろん酒は無し。これくらいで適量ですよ。

今度会う時は私はビール博士は黒酢と言うことに致しましょう。お大事に。なお、私目は至って健康、先ほども生協の昼の定食を食べて参りました。夜も生協でしょう。もちろん津にいる時は朝は食べません。
 
 (初めてリンクを貼り色を変えてみました。少しずつ進化するyaasanでした)

ランキング登録もよろしくね

〈授業版-1〉 ガラス玉のネックレス

2005-07-20 01:08:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は三年生の演習最後の日。オオトリは例の山田一族の一人。
彼女のテーマは「ガラス玉の装身具」。これまでにも何人もの女子学生が挑戦を試みて失敗したテーマ。失敗するからやめたら・・・と何気なく言ったのだが通じなかったみたい。でもマ、せっかく意気込んでいる彼女を無理に引きずりおろすのも大人げないと思いやらせることに。


(写真は京都府岩滝町から出土したガラス釧他)

この間二回は悪戦苦闘の状態。今日が前期最後と言うだけあってさすがに緊張感も最高潮。九州と静岡からガラス玉出土状態のいいものを選んで分析を進める。先週は報告書の少ない内の大学では役に立たず、彼女の通学路の愛知県埋蔵文化財センターにお邪魔し、コピーをさせてもらったらしい。ところが悲しいかな、貧乏学生、ちょっとコピーをさぼったのが大失敗。肝心なところがコピーされてなくてガックリ!!

そんな中で興味深かったのは、三雲仲田遺跡の竪穴住居跡に遺されたガラス玉。小さな住居跡の中には生活に使用していたと思われる容器や道具がそっくりそのまま残されていた。入り口の奥(?)の綺麗な壺の下から出てきたのがガラス製の管玉1個と小玉3個。

ガラスといって馬鹿にしてはいけません。当時の日本ではガラスは現在のダイヤモンドより貴重。持てるのは王様とごく一部の臣下のみ。つまりこの住人は相当のお金持ち(権力者)。まさにセレブの徴!!

でも住人はどこへ消えたのだろうか?独身の女性ならひょっとして誘拐されたとか、男性なら戦闘に出かけたまま帰らぬ人になったとか、若い夫婦なら旅先で事故に遭ったとか、あるいは駆け落ちがばれて王様に連れ戻され、相手は処刑されたとか・・・・。空想はいくらでも膨らむのだが残念ながら考古資料は多くは語らない。

でもそのようにして語らぬ資料に語らせる努力をすることが考古学の魅力。山田さんも少しは目覚めたみたいで、これまでの落ち込み様から脱して元気だった。

さて、ガラスに関しては僕も大いに関心がある。昔調査の一部に関係した物集女車塚古墳で大量のガラス玉が出土し、その整理に関与したからだ。向日市在職当時、送られてくる報告書に必ず目を通し、ガラス玉があればコピーしたものだ。その情報がいつの間にか厚さ10センチのファイルで20冊あまりになった。学生達にはこの基礎情報を渡して調べてもらうのだが・・・。


(写真は京都府向日市物集女車塚古墳出土ガラス玉。物集女車塚のパンフレットから複写。ガラス玉を毎日眺めていた当時が懐かしく思い起こされる。)

弥生時代になって朝鮮半島からその製作技法やら原材料が九州に持ち込まれ王墓を中心に展開した。ガラス材料には二種類あり、ソーダのみで作られるペルシャ系のものと、これに鉛を加えて加工を安易にする中国製の鉛ガラス系のものである。ガラス小玉製作技法には三種類あり、心棒に溶けたガラスをまるで水飴を箸に巻き付けるようにして巻きながら作る巻き付け技法と溶けたガラスの一端を引き延ばして長い管を作り、これを切断して作る引き延ばし技法、まるでたこ焼きを作るように土製の鋳型にガラスを流し込む鋳型技法である。この鋳型技法では勾玉が作られていることも知られ、日本列島にはいち早く東アジアの最先端技術が取り入れられ、各地に伝世したことが知られる。

ガラスを用いた装飾品にはネックレス、ブレスレットの二種があり、王達のお墓にはこれらが大量のガラス製品を用いて製作され、埋納された。最もポピュラーであるが、中には一つのネックレスだけでも一〇〇〇個以上が用いられている事実がある。ブレスレットには小玉を用いるものが多いが、ネックレスには管玉だけのもの、小玉だけのもの、これらを混ぜたもの、さらにこれに勾玉を加えたものなどがある。この他全国でも珍しいガラスの帽子状のものが佐賀県の二塚山遺跡にあることを教えてもらった。これらの違いが『魏志倭人伝』に残る九州の各国、対馬国、壱岐国、末蘆国、伊都国、奴国等で違いがあることがわかれば楽しいのであるが・・・・。

そしてもう一つの謎が、丹後半島に集中する様々なガラス製品である。美しく透き通ったようなスカイブルーのガラス釧の輝きは今でも深く脳裏に焼き付いている。九州と入手経路が違うのか、彼らの装飾品の具体像は、等々解明に期待したいものがたくさんあるのだがうまくいくかどうか。夏休みのがんばりに期待したい。

ランキング登録もよろしくね

《準日記版2》 8年前の原稿と調査報告

2005-07-19 22:54:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
8年前に書いた原稿(「長岡京の新発見」という何とも中身のない原稿なのだが、分量だけは五十枚以上ある)が今頃になって日の目を見、出版するということになった。出ないより出る方がましとはいうものの、「その後に出た資料で書き直しの必要な人は書き換えろ!」という編集者からのきついお達しが来たのである。8年も前の原稿を読む気にもならず、締め切りをずるずる延ばし、放置していたのが、とうとう大先生からお便りが来て、7月15日厳守で出して下さい、という。出さないならそのまま載せるというからこれは一大事。仕方なく最後のあがきを始めたが三日前。当然締め切り日を守ることができず昨日の朝になって何とか形にして出したところである。

(写真は今年の5月に慶応女子高等学校の生徒を案内して登った石清水八幡宮のロープウエイから眺めた長岡京域。東院の写真はハードデスク破壊により現在修復中。)

長岡京の調査から離れてもう7年と4ヶ月が過ぎた。テーマが「新発見」なので、この間にどんなものがあったかと思い出してみると、退職直後に発見された「新東院」が大発見である。これ以外は比較的小物で、というより調査自体がどんどん縮小されていて、掘る面積も減らされている(自ら自主規制してへらしている?!)から発見できないでいるのだ。

つまりどうしても東院の箇所だけは手を入れないといけない。
「新東院」そのものについては「山中の推定が間違っていた!」等と騒ぎ立てる人もいるが、私は全く気にもしていない。その時点で公表されている資料と論理を尽くして書くのが論文である。「未来に新しい資料が出るかも知れないから余り大きなことは書かないでおこう」というのが最近の風潮らしく、若者の論文?はどんどん些細なことへと流れている。だからといって私が長岡京の全体像を語らずしてどうなるという自負がある。東院については、十四年前に「左京二条二坊十町の遺構群が東院である」という結論を出した時には誰もこんなところから「東院」が出るとは思わなかったのであるから、新資料によって書き換えられても、その資料を基に新たな論理を組み立てれば済むことなのである。

ところがある行政担当者は、東院公園として遺した市民プールの広場をどうしよう?等と狼狽えたらしい。市の史跡指定を解除しようか、等と審議会の先生と相談したとも聞く。お粗末な話である。「旧東院」は「新東院」が発見されても何ら価値が下がることがないのだ。にもかかわらずとんでもないことが起こった。その直後に「旧東院」跡の一角は市の指定史跡であるにもかかわらず、何の手続きもなく、誰も文句を付けることもなく、せっかく保存した東院東外郭の施設を破壊して市の施設が建設され、遺跡の一部が破壊されてしまったのである。外部には全く秘密裏になされたこの蛮行に見て見ぬふりを決め込んだ調査関係者がいたことは何とも言い難い冷たいものを感じずにはいられなかった。

さて、東院の部分はどう書き換えたか。
結論から言えば、「旧東院」から「新東院」へ移建されたというのが私の答えである。
日本の古代宮都には平城京以来東院がある。史料だけを見ても平城宮の東院玉殿、長岡京延暦十二年の東院、平安京の近東院と東院と、明確に東院という施設が継承され続けているのである(驚くなかれ、渤海国の首都上京龍泉府にも「東院」がある!これについてはいずれまた機会を改めてご紹介しよう)。つまり日本の古代宮都は東院を他の内裏や大極殿と同じように不可欠のものとしたのである。長岡京の東院は当然最初からなければならない。ではそれは「新東院」か?「ノー」である。長岡京では最初山桃院と呼ばれた東院が、後期の全面的、本格的改造に応じて「旧東院」として建設されたのである。「新東院」はあくまで遷都のために設けられた再利用施設に過ぎないのである。

そんな結論を書いてようやく原稿を送ったのであるが、東院を語る時に常に思い起こされるのが、「新東院」の保存問題である。担当調査員による保存運動への妨害という前代未聞の事態が起こったからだ。今更蒸し返しても・・・、というどこかの博士の声もするので、これ以上多くは語らないが、日本考古学協会員によるねつ造事件が起こったこともさもありなんという気がする(私はこんな肥大化した組織は早く解体し、もっと細かな問題にきちんと対応できる組織に再編すべきだというのが持論である)。

さて、8年前の原稿をようやく仕上げ、向かった先が元の職場である。折角のお休みだったのだが、仕方ない。ここでも8年(以上)前の宿題が残っていたのである。報告書の下図作成、写真手配等や原稿執筆のために貴重な休日は費やされてしまったのである。これで積み残してきたすべての宿題が終わるので、それなりに張り切ってはいるのだが、誰もいない旧職場で報告書作成に励む姿は我ながら哀れなものであった。

まもなく、長岡宮造営時の「地鎮祭跡」に関する報告書ができあがるが、このまま終わりたくないと思うほどおもしろい遺跡であった。来週の今頃には終わるであろう原稿を待ってまた紹介することにしよう。電車を乗り継ぎ、祇園祭の余韻でか、鴨の川原に居並ぶ若者達の浴衣姿を横目に見ながら、我が家にたどり着いたのは23時過ぎであった。

ランキング登録もよろしくね

【研究報告版-2】  陵墓研究の新地平」に刺激され ~祇園会の夜の夢想~

2005-07-18 01:41:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨日は「陵墓制研究の新地平」で律令期陵墓研究のまさに最前線を勉強し、その後直ぐに帰るつもりが山田博士のお誘いに乗ってしまい(ために両奥様?からは白い目で睨まれ)、つい宴会に行ったのが後の祭り。楽しい宴の後、皆さんは本当に「浴衣の洪水」宵山の祭りへお出かけになったのに、私たちは結局11時まで痛飲。

(写真は我が家の直ぐ近くの深草聖天の石柱に記された「嘉祥寺」の文字と・・・)

朝から「頑張るぞ!」と思っていたら、今日は義父の13回忌であったことをすっかり忘れ、さっきまで一家でお参り。そんなこんなで昨日から今日は書き込みがお休み。博士はどこかへお出かけのようで(あるいは今日も祇園祭の『豪華宴』かな?!!)「閑話」もひっそり。

そこで博士とお約束の昨日の研究会感想記を少し・・・。


少し遅れて行ったので最初のご報告の外池昇さんの「近代における陵墓政策の展開と矛盾」は三分の二ほどしか伺うことが出来なかったが、宮内庁(省)の陵墓冶定の混乱ぶり、困難さが手に取るようにわかり、そのシャープな説明と共に大変印象的であった。とりわけ強烈なインパクトを受けたのは、近年ようやく進められるようになってきた情報公開による資料の共有化が、いかに研究を前進させるか、と言うことであった。
日本考古学はここ四〇年近く行政による発掘調査に多くの資料を頼ってきた。ところがその情報は極めて秘密的で、不十分であり、一部の者が依然として独占して利用するという信じられない状況にある。特にここ二〇年間のバブル時の大量調査の成果の多くが十分に公開されているとは言い難い現状は極めて残念である。

続いて今尾文昭さんは「考古学から見た律令期陵墓の実像」によって、主に七世紀から八世紀代の陵墓の実態を通して、新益京と陵墓、額田部氏と始祖墓等について考察された。特に植山古墳での二時期の柵列の確認、東石室での時期差のある須恵器の出土などから「陵墓」管理を仮定し、古墳時代の古墳管理の実態との差をもってそれを論証しようとする論理展開は魅力的であった。

個人的には藤原宮の南北中心線上に今尾氏の想定される神武天皇陵=四条塚山古墳が位置するという指摘が大変興味深かった。天武持統朝は伊勢神宮祭祀を制度化するなど、祖先神の確立に腐心した。皇祖神としての天照大神祭祀の復活と固定化(斎宮制度の確立)もその大きな政策の一つであった。始祖神武天皇陵の選定と宮都との関係性を強調するために宮城の真西にこれを置いた可能性は十分あるのではなかろうか。そしてそれが下ッ道の外に置かれたことも、新宮都の四至が陵墓との位置関係を明確に意識して決定されていることの証左になると考えるのである。すなわち、倭京、新城の「京域」内には明らかに「陵墓」を含むが、新たな枠組み(京の四至)をもった新益京(その後の藤原京も)は岸説の通り、下ッ道、中ッ道、横大路、山田道を四至として設定されたものとなる。小澤毅氏の言う「十条十坊」説では、こうした「陵墓」が京内に所在することになるのである。『周礼』を参考にしたとする「理想の都」がこれでよいのであろうか。
今尾氏の指摘はそうした都城制の成立過程を論証する上でも貴重な報告であったといえる。

山田邦和大博士は「平安時代陵墓研究の展望」と題して特に平安時代の天皇「陵墓」を詳細に論じた。関係史料を詳細に分析して復原された後一条天皇火葬塚の復原案は誰にも真似の出来ない山田博士ならではの新見解であった。

特に私が興味深く感じたのは桓武天皇陵の中国的構造であった。山塊を利用して設けられたと推定できるその陵墓(柏原陵)は極めて中国的であり、その所在地については議論の分かれるところであるが。豊臣秀吉の築いた伏見桃山城であるとする山田説に対して近年来村多加史氏の別案がある旨紹介された。もちろん従来から山田博士を平安京研究の神と崇める私の立場からして、来村説など取るに足りないものなのであるが(失礼)、用心深い私は早速今日夕方愛犬を連れて「坊山」探索に出かけた。


(写真は坊山の一角。南に開け、西は長岡京域、北は平安京域が見える絶景の地。その正面にあるのが嘉祥寺の礎石を持つ善福寺。もちろん博士様はそんなこと百もご承知!)

歩きながら気になった言葉が、博士の「陵寺」の説明をされた時の「嘉祥寺が何でこんな伏見みたいなとこに置かれたんかようわからんですがね・・・」という発言であった。実は「坊山」(具体的にここ!と限定することは極めて難しいというのがこの地に生まれ育った我妻の指摘であった)のすぐ前に嘉祥寺があるのである。もちろん西に貞観寺(我が家はその中心に位置する)、極楽寺(我が妹との嫁ぎ先がその一角に当たる)が展開する。

博士、ごめんなさい!私は明日から博士の説を疑って(きっと罰が当たることは承知の上で)、坊山をしらみつぶしに歩いてみることにします。もちろん「徒労に終わるよ!」という博士の軽蔑しきったお顔が目に浮かんでいるのですが、余りに理路整然とした博士の説に少し抵抗してみたくて分析することにしました。

深草の地は、長岡京末年に詔によって庶人が墓を設けることを禁じた場所でした。ところが平安時代に入って多くの皇族・貴族の墓が彼の地に設けられました。平安京も長岡京も見ることのできる東山の南部、深草の地は最適の地であったといえます。

以上長くなってしまったが、このような感想を抱いた次第である。やや残念なことは、あれだけ多くの参加者がいながら、司会や会場を含めて近代史の方々の積極的な発言に対して、古代史、考古学からの発言の少なかったことである。陵墓を語る時、宮都を横に置いて議論できるはずがないのであるが、そうした視点での議論や発言が全くなかったことは極めて残念なことであった。ここにも日本考古学の現実、課題が横たわっている。次回に期待したい。なお、本研究会での発表の詳細は、本年一二月号『日本史研究』の陵墓研究の特集号に載せられるとか(原稿の締め切りが九月とか、山田博士頑張ってね!!)、詳細はそちらでご確認下さい。

ランキング登録もよろしくね