yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

鈴鹿関報告-5  謎?は大土木工事!!の条

2006-08-30 08:19:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(北辺築地の続き。手前のところが北へ延びる北西築地との交点で、ここが崩れたので調査している。)


(雨でもずぶ濡れになりながら調査を続けた。学生達も真剣な目になってきたかな・・・)

 3人(亀山市教委のMさん、Kさんと私)でアーでもない、コーでもないと半日近く壁を見ながら土層の解釈に努めました。やはり発掘調査は複数の目でやるべきですね。もちろん誰もが冷静に、正確に層序を確認しようとしているのですが、誰もがそれぞれの「思い」も抱きながら地層を見ます。中・近世研究の立場の人、古代史の情報に長けている人、地域情報に優れている人等々、地層に自分の情報を重ね、情報に合う地層の変化を一つも見落とすまいとガリをかけ、遠目から眺め、上に行ったり下に行ったり、どの線が一番合理的なのか、いろいろなシュミレーションを脳裏に描きながら、おそらく3人の脳裏には現場の地層をそらんじることができるくらい焼き付いているに違いありません。その日の最後に意見交換をした

結論!!

奈良時代に鈴鹿関「構築」のために大土木工事が行われた!

 驚きました。以前から問題にしていた最下段の地層には白色の地山層が確認できます。この上にもう一層、小石混じりの非常に締まった土層が東側に残っています。何故東側だけかというと、東から2mほどのところで例の大石を含む層によって大きく削り取られているからなのです。次の断面写真がもっともわかりやすいと思います。


(大きな石を含む層が地山面の一つであろうと思われる小石混じりの層の上に堆積している。)
 そしてこれまた以前から問題になっていた中段の地層に認められる大石を含む層と連続する可能性が高まってきたのです。つまりこの大石を含む層は調査地の北西方向から南東方向に厚さ3m近くに渡って堆積しているのです。これが自然なのか人工的なのか、結論は出せずにいました。しかし、先の瓦の堆積がこれを人工のものだと教えてくれました。
 現地を見ていただくとよく分かるのですが(南側に国民宿舎へ至る道路が1967年頃造られたために斜面が寸断されていますが)、築地はこの山塊の西に下る斜面と南に落ちる斜面の傾斜変換点の上に設けられているように見えます。但し現在発掘調査中の南斜面上に設けられた北辺築地下には、小さな谷地形があったようなのです。これを埋めて造成しないことにはまっすぐな築地は設けられません。そこで西側から少しずつ谷を埋めていったのです。その始まりはまだ最終確認できていないのですが、小さな平場に始まって少しずつ埋めていったようです。その過程で(おそらく現地に既に運び込まれていた瓦の破損品がゴミとして埋められたのではないかと仮定しているのですが)、例の瓦堆積が形成されるのです。当初は堀状の遺構に瓦が堆積しているのかと考えましたが、どう見てもそのような立ち上がりが反対側に認められないのです。西から東へ斜め方向に①古代瓦、②人頭大の石を含む黄色の層、③60cmもある大石を含むオレンジ色の地層が堆積しているのです。つまり大石を含む地層は①の古代瓦より後に堆積しているのです。さらに④大石を含む地層の上部を覆うようにして、きれいな黄色の地層が幅5m前後、厚さ数10cmに渡って形成され、⑤その上に築地が構築され、その後④の黄色土の上に⑥崩落した築地の土や瓦が堆積しているのです。
なかなか文字で説明するのは難しいので、よくおわかりいただけないかもしれません。是非現場でたくさんの目でご確認下さい。もちろんまた違ったご意見もあるかもしれません。是非ご教示下さい。


(西端から徐々に造成し、途中で瓦を廃棄し、さらに人頭大の石を放り込んでいる。この後さらに東側に巨石を落とし込んでいる。)

 予想以上の大土木工事です(にもかかわらず、「予想を越えたものはあまりないんだね、・・・」と言って帰られた方もいらっしゃいました。これが予見できた人は神様ですよね・・・)。


(巨岩の上に被せられた黄色土層が築地の基盤層=土塁である。おそらく築地はこの上に掘り込み地業をして構築されていると思われるが、まだ確認できていない。後半の楽しみである。)

 何でここまでして奈良時代に鈴鹿の関を築地塀で囲繞したのだろうか?新たな課題ができました。


(築地南側の崩落状況)

 ちょうど大問題が解決した頃、亀山市史の古代・中世部会の先生方の現地見学がありました。委員の中に旧知の方がいらっしゃって少しこの遺跡を巡って話をすることができました。京都大学大学院博士課程(学振)のSさんです。

 「山中さん、これを造ったのは聖武天皇ではないかと思うんですが、どうですか?」実に単刀直入なご意見に少々驚きながら、
 「私もそう思います。」
 「伊勢行幸の時ですね。」
 「造伊勢行宮使が造ったのか、行幸が終わってから整備したのか、その微妙な時期差はまだ分かりませんが、そうでしょうね」
 「これだけのものを造るのだから、聖武の行幸は相当準備をしていたものではないかと思うのですが」
 修士課程の頃からよく知っているのでズバッズバッと意見が飛んでくる。
 「イヤー、うれしい!私もそう考えているんです!」
 市史で研究が進んでいるいるだけにありがたい指摘を次々としてくださって、久しぶりに意気投合してしまった。

 築地を囲繞施設に用いると言うことは、防御機能よりも装飾性を重視した結果だと思うのですが、それにしてはずいぶんと大規模な土木工事をやっている。もし聖武の時に築造したものでよいとすると、発見された築地は相当明確な意図を持って築造されたことになります。


(北西方向に延びる築地。このように南にはかなり激しく傾斜している。今も水の流れる道ができている。これをどう防いだのかも面白い問題である。)

 三関の整備!次なる研究課題の出現です。

 発掘調査の第1クールは28日で終わり、昨日から大学に戻り、集中講義を学生と共に楽しんでいます。
 「GISによる遺跡空間情報データーベースの構築」という実に実践的な講義を立命館大学文学部の河角龍典先生にやっていただいています(同じタツノリでも何処かの監督とえらい違う!?)。ArcMapソフトを用いた講義なのですが、早速昨日は鈴鹿関や久留倍遺跡、鬼が塩屋遺跡などといった三重大学が関係した遺跡に航空写真を貼り付ける実習をし、学生達の歓声が何度も響いていました。もちろん私も!(学生曰く「先生がマウスを独占して離さないんです!」)集中講義報告はまた機会を改めて。間もなく二日目の講義が、昨夜の懇親会で二日酔いの学生も含めて始まります。乞うご期待!!

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鈴鹿関報告-4  新しい謎の条

2006-08-27 07:10:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 新しい問題が発生しました。やはり発掘調査というのはできるだけ広い範囲を広い視野でやるべきですね。


(西側からこんな状態で瓦が出ました。私はこの西側の築地から少し東側へずらした今の築地が作り替えられたと考えています。)

 実は一昨日いつも壬申の乱ウオークに参加されている市民の方がボランテアで発掘調査に参加下さいました。猫の手も借りたいくらい(それだけ三重大学の学生が少ない!ことを意味している・・・・複雑)の状況だけに大変ありがたいお申し出でした。早速懸案として残してあった中段西側の壁面のガリかけにあたっていただいた。しばらくして
「瓦が出ました!」
「エエッツ!?」
予想外の事態に絶句してしまった。本当に事実は小説より奇なり、掘ってみなければ分からない!です。確かに中段のかなり端から瓦がまとまって出ている。それもこれまで確認している築地よりかなり下の層から。
 早速現場でいろいろな憶測が乱れ飛んだ。ある人はくねくね自然地形に左右されて曲がる城壁を想定されるし、ある人はやっぱりこれは古代のものと違うのではないか?と疑問を呈されるし、意見の違いは随分あるのです。でも私自身は比較的冷静に受け止めることができた。そもそもまだこの築地の築造工程や既検出の「土塁状の高まり」と検出できた築地との位置関係がどうも判然としないのです。昨日になって、さらに面白いことにこの瓦が築地の基盤を形成していると思われる大きな石の混じる層の下に潜っていく可能性のあることが判明したのです。つまりこちら側の方が古いのです。もしそうだとするとこれまで悩んでいた大きな石の混じる層が古代のものであることが確定します。何らかの理由で、築地は少しだけ場所を移して作り替えられた!こんなことが想定できるようになりました。
 もしそうだとすると、これまで発見されている「土塁状高まり」との位置関係で新しい仮説が提示可能になります。ようやくこれまで考えてきた私の仮説に一歩近づくのです。


(北辺築地の東端の状態です。先に見た最下段のあり方が随分違うことがよく分かります。)

 さらに北辺築地が現在の道路によって寸断された場所で崖のガリかけを行いました。瓦などの遺物は一切出ませんでしたので、築地本体の真下ではないかと思われるのですが、築地本体の土が少し以西のものと異なることが気になります。しかし、少なくとも今回の発掘調査で発見された築地の基底部にあった大きな石を含む層はありません。この層がかなり限定的であることが判明しました。前回否定した土石流の可能性も再検討しつつ(地質の人に見てもらいたいですね)、西側発見の瓦について慎重に検討していこうと思っています。

 さて、昨日は亀山市教育委員会のKさんにお願いして旧東海道に残る片山神社に御案内いただきました。実はその前日に奈文研のOさんを案内して訪れようとしたのですが、見つけられなかったのです。ごめんなさいOさん、Iさん。原因が分かりました。途中ではいる狭い道を見落としていたのです。事前に下見をしておくべきで知った。


(こんな素敵な空間を御案内できず済みません。次からの皆さんには必ず御案内します。)
 奥に広がる空間は厳粛で、神秘的、圧倒されました。これぞ東海道!という感じでした。10月29日には鈴鹿峠から関宿まで歩く行事があるそうです。是非参加してみようと思っています。皆さんもいかがですか。行事では下りだけのようですが、片山神社辺りから往復するのもいいのではと思いました。坂下本陣から片山神社、そして鈴鹿峠と実によく面影を残すこの遺産をどうしてもっと活用しないのか、不思議に思いました。もちろん余り多くの人が来て俗化するのはまっぴらですが、こんな素晴らしい景観をどうしてもっとみんなが活かさないのか、不思議に思いました。少し歩いただけでしたが、素敵な森林浴をさせてもらいました。Kさん有り難うございました。


(鈴鹿峠に至るつづら折れの始まり。実に神秘的な空間が広がる。)
 さらにKさんのお陰で、発掘現場の直ぐ上の岩場から城壁と旧道との位置関係を一望した写真を撮ることができました。これもご紹介しておきます。鈴鹿関の城壁がこの地に置かれた理由がこれではっきりします。現地見学でもこのコースは不可欠ですね。


(調査地の築地の直ぐ上にある岩座からの眺望です。正面に西に延びる旧東海道。左に城山が見えます。)
 最近は皆さんと一緒にいろいろな情報をいただきながら調査する喜びに浸っています。全ての情報をオープンに、これからもたくさんの人に見に来てもらい、ご意見を賜りたく思います。

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鈴鹿関報告-3  鈴鹿関北辺城壁の築地を発見!!の条

2006-08-27 04:55:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 合宿所はメール環境にないもので、山を下りたときでないとブログが更新できません。本当は速報でお知らせしたかったのですが、少し遅れてしまいました。やや日を遡りながら最新情報をお知らせいたします。


(北辺築地はこのように激しく崩落しています。その崩落部分を活かして断面観察を行い、見事に残る築地を確認しました。大成功です!!手前が南、奥が北ですが、北側に崩落した瓦や築地の土砂が、築地部分に引っかかって残っていた様子がよく分かります。)

 24日朝から崩れた壁の断面を精査しました。特に最上部で東西に延びる北城壁の西壁を精査しました。以前から瓦の出土状態と土塁状の高まりとの関係がうまくイメージできなかったので、この部分に集中してガリかけを行ったのです。


(東側の断面です。きれいに瓦が築地の壁で止まっているのが見えます。)

 確定しました!
 鈴鹿関の奈良時代の城壁が築地であったことが確定しました!

 築地本体と崩落部分を確定しただけで、崩落が激しいため土砂除去に時間がかかり、まだ築地基底部を検出できていませんが、現状では高さ1m弱、幅1.2m以上を残す築地ではないかと推定しています。『延喜式』の規定では基底部の幅と高さが相関関係にあることが知られており、基底部の確認が急がれています。
 大変興味深いことに、築地本体は細かな砂礫を比較的多く含む土層で構成されており、これまで長岡宮や松林苑など宮都で発見されている数少ない傾斜地での築地本体の様子と酷似しています。今後は築地の土台を形成している土塁状の施設を確認し、その上面に刻印さえているはずの添柱を検出することが大きな課題になります。もっとも今回の発掘調査は崩落部に限られていますので、添柱部分は既に崩落している可能性もあり、検出は次回に持ち越されるかもしれません。
 今後の調査方向としては、①築地基底部の検出、②築地基底部の下部構造の解明、③出土瓦の分析、④北西築地との取り付き方の確認、⑤崩落の時期解明などがありますが、限られた時間の中でどこまで可能か、できるだけの努力をしながらこの画期的な成果をさらに充実していくつもりです。是非皆様方の現地見学と積極的なご意見を賜りたくお願い申し上げます。

 24日に検出した直後に、東京大学史料編纂所のT先生が偶然現地を訪れられました。編纂所で亀山市歴史博物館開催中の「鈴鹿関」展のポスターをご覧になり、わざわざお立ち寄りいただいたそうです。発掘調査のことは偶然お知りになり、お立ち寄りいただいたのですが、旧知の間柄の私としては大変ありがたく、早速ご意見を承りました。外交史がご専門で、関の機能を幅広く比較研究なさっているお立場からのご意見は本当にありがたく拝聴いたしました。
 翌日には全国史跡整備協議会東海ブロックの方々が文化庁のS調査官と共に見学下さいました。皆さん大変感激していただきありがたく思いました。午後には、奈良文化財研究所のO室長が、橿原考古学研究所のIさんと共に現場にお出で頂き、平城京での築地の検出例などを下に本遺構との比較見解など多くの情報を賜ることができました。また、ブログに軽い気持ちで書いた「差し入れ」をたくさんたくさん頂き、本当に恐縮の至りでした。有り難うございました。
 最近は地元新聞が発掘開始のニュースを載せていただいたので、次々と市民が現場を訪れてくれます。本当にありがたいことです。第一クールは一応明後日で終わりますが、9月4日から再開し、週末に現地説明会を予定しています。もちろん決まり次第日程を報告いたします。交通が大変不便なのですが、JR亀山あるいは関駅までおこしいただければお迎えに上がります。遠慮なく私のe-mail(yaa@human.mie-u.ac.jp)まで到着時間などメール下さい。

 さて、これで奈良時代のある時期には鈴鹿関が築地であることが確定しました。この事実は大変重要だと思っています。既に指摘したとおり、報告書を再検討すると、既に調査の及んでいる不破関の「外郭土塁」もまた築地である可能性が大変高くなっています。三関の内の二つまでの構造が酷似しているとすると残る愛発関もまた同様の構造であった可能性が高まります。さらに関設置の立地についても不破関との多くの共通点を認めることができます。場合によっては規模や街道との位置関係についても共通性があるかもしれません。現地説明会までにじっくり考えをまとめ公表したいと思っています。ご期待下さい。


(現在の道路で寸断される前の調査地一帯の航空写真)

 発見できた築地が国の史跡級(私は特別史跡であるべきだと思っています)であることは言うまでもありません。しかし、その範囲すらようやく手がかりが得られたに過ぎません。これを機会に鈴鹿関の全容を解明するため、国が本腰を入れて大規模な調査体制を組んで調査・研究すべきだと思っています。是非応援下さい。


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鈴鹿関報告-2  基礎工事の謎の条

2006-08-24 20:47:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(私たちの宿舎は元坂下しょうがっこうなのです。)

 22・23日と現在露出している断面の調査に全力を尽くしています。いつ建設されたのか判然としないのですが、国民宿舎関ロッジへの進入路によって調査地の南端には大きな崖面が露出しています。さらに近年の崩落によって築地状の高まり部分も半分以上が崩れ、無惨な姿を呈しているのです。これらを利用して断面を精査し、築地の基礎構造、築地そのものの状態を監察しようというのがここ数日の方針です。

 以前から問題ではあったのですが、築地状の高まりの下部に大きなものでは50~60㎝はあろうかという石が入っているのです。厚さは最大1.5mに達する地層です。いつ、どのようにしてこれが形成されたのかが現在最も集中的に検討している課題です。自然の土石流のようなものでないことは石の入り方が不均一なこと、流水のような形跡がないことから判断できるのですが、人の手によるものだとすると急傾斜地を造成するために採られたかなりラフな仕事のように見えます。今のところこの地層からは遺物が確認できておらず、造成時期が定まらないのです。わずかなヒントはその崩落土の可能性のある土の中に古代の瓦が含まれていることくらいです。崩落は何回も起こっていた可能性があり、瓦がいつ混入したのかは今の状況では明らかにし得ません。
 まだ数日は崩落土の除去と断面地層の掌握に時間がかかりそうです。
 見学者も徐々に増え、今日も学校の先生方や地元のおばちゃんが立ち寄ってくれました。学校の先生方は現場の地下に戦争中に設けられた軍需施設に興味があるようで、1300年前の軍事、交通施設にはさほどの興味はお持ちではないようでしたが、バイクにまたがってやってきたおばちゃんは
「私歴史好きやねん。これが関所の跡か?」
「あそこに見える土の高まりが関所の城壁かもしれないと言うことで掘っていますねん。」
「フーン、ワクワクするなー・・・」
「いずれ現地説明会もしますから是非また見に来てください!」
「ほんまか!広報で知らせてくれるんやろ、必ず来るしな!」
颯爽と立ち去って行かれた。
 私たちにとって最も大事な応援団です。地元の中日新聞の記者の方も毎日現場を訪れて「今日の成果」をチェックして帰られる。かつて長岡京の調査をしていた頃、毎日のように現場で京都新聞の記者の方々と「会話」したのを思いだし、とても懐かしく、充実した毎日を送ることができています。これも遺跡の持つ奥深さなんでしょうね。こんな充実感が味わえるというのに、三重大学の学生よりも他の大学の学生や他の分野の学生の方がたくさん手伝いに来てくれるのには複雑な思いがします。「卒論の準備が忙しい」、というのはまだ理解できるのですが、クラブの合宿で来られないというのはどういうつもりなのか、現在の大学生の学問からの乖離に自らの指導の限界も含めて暗澹たる思いを抱いてしまう昨今です。
 そんな学生はおいておいて、「市民」の皆さんに応援をいただけるよう、とにかく急いで一定の目途を付けなければならない。連日の暑さに少々ばて気味の学生も出つつありますが、もう一踏ん張りです。差し入れはいりませんので、ガリかけの応援、よろしく!!


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鈴鹿関報告-1  始まった!記念すべき第1回発掘調査の条

2006-08-22 16:04:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日から鈴鹿関の第一回発掘調査を亀山市教育委員会と共同で開始しました。初日は13人の体制で始めました。緊張あふれる中、朝一番に基本方針、調査段取り、緊急時の対応、見学者への接遇など一通りの注意をして開始しました。
 しかし、やはり2組織が共同でやるというのはなかなか大変です。準備万端!と、整っていたはずの資材がなかったり、調査方針が微妙に異なっていたり、午前中は結局右往左往の状態で、計画通りには進まず、予定していた調査前写真も太陽の当たる不満足なものしか撮れませんでした。ま、でもこんなことは想定内のことですから、さほどキリキリすることもなく、極めて穏やかに、穏やかに進めることができました。


(こんな感じで壊れていました。これを削ることについても若干の意見交換が必要でした・・・)

 その一番の功労者は応援に駆けつけてくれたYM君です。さすが大学院で鍛えに鍛えた?だけにてきぱきとこちらの指示を理解して動いてくれ、初日から6時半までの「残業」を3人でこなしました。
 実は今回の調査は春に壊れた遺構の一部を利用して断面監察をし、遺構の基本構造を明らかにしようというもので、かなり小面積なのですが、その遺構の直上に今にも遺構を壊しそうな大木が二本立っているのです。これを小さなノコギリを使って半日がかりで切り倒したのです。もう最後はもう1人の学生3人ともフラフラ、今日は手が十分に動きません。でも何とか切り倒したお陰でこれからどんな台風が来ても遺構は大丈夫。その達成感は大きなものでした。YM君有り難う!!
 その一方で測量を始めました。信じられないことですが、亀山市にはトランシットというものがないのだそうです。ショック!!やむなく大学から光波測距器を担いでえんやこら。準備されているはずの業者の測量結果も業者が現場から会社に電話で問いただすというていたらく(アーア、先が思いやられる・・我慢我慢)。結局学生に計算させて方位角を出し、地区割りに着手するも杭がない??!エッツ!?


(右から二番目の学生の頭当たりが地山と直上の層の境目でしょうか・・・)

 ま、最近気の長くなったyaaですからなんとかもっているものの昔なら今頃ゴミ箱の三つくらいは壊れていたことでしょう(笑い)。
 
 作業としては現場の崖面を削ることから始めました。その結果、まず遺跡の地山が確定しました。これは貴重な情報です。どこまで掘ればいいのかが確定したのですから(ヤッター!)。

 初日は結局これだけ???ま、お許し下さい。これから少すつ情報をできるだけ積極的に流していきますから。ご見学は自由です。いつでもどこからでも?、ご自由においで下さい。調査は8月21日から28日までの第一クール、9月4日から10日までの第二クールと分かれて朝9時から夕方4時半までやっています。見学無料!(当たり前)、差し入れ大歓迎!!宣伝自由!


(淡々と進む作業)
お待ち申しています。是非いろんな方のご意見を拝聴したく思っています。

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中国紀行-2  白居易は白がお好き?!~白居易宅に薬研を見る~の条

2006-08-19 01:19:45 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 日本に帰ってきて一番ショックだったのは加藤紘一氏の邸宅が放火されたにもかかわらず、言論界が沈黙していることでした。これこそまさにテロ!なのではないでしょうか。テロに反対を唱えるのが大好きな小泉・安倍のご両人は夏休みを理由に黙りを決め込んでいます。加藤氏や山崎氏がリベラルに見えるところが今の日本の悲劇なんですが、その彼らですら「放火」されるとしたら、日本は暴力(団)国家に成り下がったと言えるのではないでしょうか。本当に沈黙していていいんですか?私にはこのまま自由な学問が、考古学ができなくなるのではないかという不安がよぎるのですが・・・。

 今しばらく、不安と不満をじっと我慢しながら、不定期に今回の中国踏査の裏話、話題などをご紹介することにします。


(白居易邸宅の西を限る渠と現在の煉瓦塀)


 洛陽には6日間滞在しました。内一日は応天門、定鼎門、白居易邸宅跡、竜門石窟の見学と踏査でした。今日はその中から短く白居易邸宅跡での出来事をご紹介します。
 今回の見学コースはあらかじめ御案内いただく中国社会科学院の陳良偉さんに連絡し、コースを設定していただいていました。しかしお互いに忙しいもので、出発前にどこをどのように回るかを細かくは詰めることができませんでした。到着した夜、陳さんの計画を知り意見を求められたもので、思い切ってお願いしてみたのが白居易邸宅跡の見学でした。
 今から15年程前(なんとこの見学団には山田邦和博士もご一緒だったのです!!光栄!)に洛陽へは来たことがあるのですが、正直言って、その頃、一帯自分がどこにいるのかチンプンカンプンでした。ですから、白居易邸宅跡の付近を通ったときに「この辺ですよ」という案内者の声は耳に残っていたのですが、そのことの重大性を特に気にとめることもなくやり過ごしていました。それが後に後悔に変わり、いつか洛陽を訪れたときには必ず行こうと思っていたのです。
 快く陳さんは予定の変更を認めてくれ、8月13日午後、待望の邸宅跡を訪れることができたのです。
 お話によると、調査後、遺跡公園にしようと考えていたのですが、資金難などで中断し、やむなく、調査地を農民に貸し与え、保存に努めているというのです。
 白居易の宅地は洛陽の南東部の履道坊の北西街に位置しています。坊の西側道路沿いには京内に給水する渠が巡っているということでした。今その痕跡は余りよく認められませんが、確かに邸宅を囲繞している現在の煉瓦塀の西側は南北に長く周囲の道路とは一段低くなっている部分のあることが分かります。


(葡萄棚の間にその建物跡が眠っているという。邸宅の公園化が望まれるところである。)

 邸宅跡は現在葡萄畑になっており、敷地内には所狭しと棚が形成されていました。調査時に判明した基壇跡などを見学し、帰ろうとしたその時、葡萄園の主が遺物を見せに来たのです。見てびっくり。それはお茶を挽くための薬研(茶臼)でした。三分の一ほどしか残っていない破片でしたが、原形を想定するのに十分な資料でした。白居易邸宅跡からは既に発掘調査によって薬研と輪のセットが知られていますが、これはそれに次ぐものといえるでしょう。白磁製のその品はひょっとして白居易が嗜んだお茶道具だったのでは・・・と考えただけで興奮してしまいます。


(白居易が好んだ白い器?)

 白居易邸宅を見学したかった理由がもう一つあります。出発前に山田邦和博士から託された一枚の地図があります。博士のその地図は実に見事に唐代の洛陽の条坊と現在の洛陽市を重ね合わせたものでした。


(山田博士のお作りになった地図を前に定鼎門跡を見る。門の内側に展開する二つの坊も調査後公園化するという。大公園の出現が予定されている。)

 その精度を確かめてくるように!との厳命を受けていた私は博士の下僕として見学を希望し、実現にこじつけたのです。ところが意外な副産物に出くわしたわけです。言ってみれば薬研に会えたのは博士のお陰だったのであります。さすがは博士の神眼!!有り難うございます。もちろん帰国後直ぐに博士にはその写真をお送りし、御礼に代えさせていただいた次第です。いつか時が来ればこのブログにも載せられるかもしれませんが、公開は控えさせていただきます。


(写真は中国社会科学院洛陽調査隊内に設けられた展示施設に陳列してある白居易邸宅跡からの出土品です。)

 もちろん私が博士に背けるわけがなく、帰国後直ぐに地図の精度についての報告もいたしました。結論的にはベースになった図の精度そのものがよく分からず、現在の道路などとの比較がとても難しいことだけが分かり博士の労作が可なのか否かにつていては結論が出ませんでした。但し簡易GPSで測量をしてきましたので、これを使いこなせば再現できる可能性は十分にあると思っています。
 さてこれは世界の常識なのかもしれませんが、白居易は白が好きなのではと妄想しました。社会科学院に展示してあった遺物の大半は白磁製の食器や文具でした。今回のものも白磁製です。表題を付けた所以です。
 

(今週から始まる定鼎門跡の遺跡公園化のための再発掘調査と公園整備工事の地では着々と準備が進む)

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中国紀行-1  雲夢に秦始皇帝の夢を見るの条

2006-08-17 02:12:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

(主人公「喜」氏は何を思ってこの竹簡群を棺に入れたのであろうか。お陰で「楚王城」は一気に世界中の注目するところとなった。)
 
 久しぶりのブログなので何から書けばいいのかとまどっています。
今中国洛陽にいます。明日(正確には今日)日本に帰ります。
猛烈な暑さと湿気に毎日サウナに入っているような状況で、夕方ホテルに帰るとさすがの私も直ぐに風呂に入ります。8月6日に中国に入り11日目の朝を迎えました。
知性のかけらもない総理大臣のお陰で15日は一日緊張を強いられることになりましたが、ここ洛陽は大変穏やかな一日でした。これもまた、日本という国の特性なのでしょうか。この地にいるとより強く大きな視野で物事を見ることのできない日本との差を感じざるを得ません。若者達が再び戦場に赴かなくても済むように、今こそ言論の火の手を挙げなければならないのではないでしょうか(こんなことを思っていたら読売新聞の世論調査で小泉の靖国参拝の支持率が53㌫だったとか、恐ろしい世の中が進みつつあるのだと実感しつつあります)。


(鉄道の直ぐ側にひっそりと置かれた碑文)

 さて、一昨日は、洛陽の西郊外にある二つの離宮跡を見学に行きました。おそらく当地に足を踏み入れた日本人はほとんどいないのではないでしょうか。合璧宮と興泰宮です。いずれも唐代の避暑地として設けられた離宮といわれています。驚いたのは合璧宮です。まるで久留倍遺跡を見ているような錯覚にとらわれました。もちろん規模は比べものにならないほど巨大で、南北700mくらいあるのでしょうか、最も高いところの比高は50m程度に達するように見えます。しかし、驚いたのはこの宮殿には門闕がありながら、城壁がないのです。さらに驚くべきことには丘の麓に何らかの(集落?)遺跡が広がっているらしいということです。あまりに多くの共通点に、同行した馬彪氏と共に現地でしばらく立ちすくんでしまいました。


(雲夢遺跡の東城壁は大変残りがよく、これからの発掘調査が楽しみです))
 
 まだ一部のボーリング調査しかしていないとのことで、詳しいことはほとんど分からないのですが、独立丘陵の南端崖上の門闕に始まり、北側にほぼ一直線上に7つの基台が認められます。最も高いところに位置するのが最北端の崖上に建っている楼閣的機能があるのではないかという5号基台です。最も広い面積を占めるのが2号基台との間に挟まれて設けられた3・4号基台で、これらが中心施設だといわれます。1~5号基台が整然と並んでいる様は圧巻でした。いずれ中国から詳しい調査がなされるでしょうが、日中の離宮比較研究に欠かせない素晴らしい遺跡であることは間違いありません。いつの日かなされるはずの発掘調査が楽しみです。合璧宮については機会を見てご紹介できるかもしれません。

 さて今日は湖北省江漢市雲夢県に所在する「楚王城」を紹介することにしましょう。これについては山口大学人文学部の馬彪氏の多くの論考があり、今回の現地踏査も馬氏の御案内により実現したものです。
 秦始皇帝は全国統一を成し遂げた後、ほぼ二年に一回の割合で地方巡幸を行ったそうです。その最後となった巡幸の途中立ち寄ったのが雲夢沢です。もちろんその故知は永く不明でした。ところが今から31年前、奇跡が起こりました。鉄道の拡幅工事に際し、数基の墳墓群が発見されたのです。その一つ睡虎地11号墓から秦代の1000余点の竹簡が出土したのです。昨年出土30年を記念して行われたシンポジウムや記念誌によれば、今日までに数百の論文が出され、研究は大いに深化しているそうです(馬彪「論日本睡虎地秦漢研究的団体特性」・「日本雲夢秦律研究文献目録(1977-2004)」『雲夢睡虎地秦竹簡出土30周年記念文集』中共雲夢県委宣伝部・雲夢秦漢文化研究会2005年8月)。


(「ナン」の跡は今は蓮畑と化している。かつて始皇帝の禁苑と知って誰がこの地に足を踏み入れたのであろうか・・・)

 中でも最新の論文で次々と新しいアイデアを出しているのが馬氏です(馬彪「城址と墓葬に見る楚王城の禁苑及び雲夢官の性格」『都市と環境の歴史学第3集』2006)。詳しくは彼の論文をお読みいただければいいのですが、結論のみを申し上げると、雲夢県に所在する「楚王城」と呼ばれてきた遺跡こそ始皇帝の訪れた雲夢沢に置かれた禁苑だというのです。そして「楚王城」の周囲から次々と発見される小規模な墓地群こそ、この禁苑を維持していた下級官人達の墓だというのです。11号の被葬者は安陸令史「喜」氏であった。竹簡には日本の律令研究にも欠かせない秦律を書写したものがあり、その内容を分析すれば、この地こそ禁苑そのものだというのです。実に興味深い論点です。私にはこの論点を正確に評価する能力はありませんが、現地に赴いて驚いたのは禁苑の「証拠」を確認することができたのです。「ナン」(つちへんに換の旁)と呼ばれる遺構を見事に認めることができたのです。もちろんこの用語を現地の遺構と併せて発見したのは馬氏です。彼の指摘するとおり、まさに「ナン」が現地にあるのです。
 「ナン」がどのようなものか誰も考えられなかったそうです。これを見事に解釈したのが馬氏です。彼の説によると、禁苑の城壁内部に沿って設けられた帯状の低湿地で、侵入者の足跡を刻印すること、つまり、侵入者を発見しやすくするための施設だというのです。そして現地には城壁の内側に沿って、明らかに外堀とは深さも幅も異なる溝がめぐっているのです。現在は蓮畑になったりしている様相からも、これが湿地であったことが分かります。
 こうした外郭施設に守られた内部には点々と基台(日本でいうところの基壇)があります。おそらくこれらが禁苑施設なのでしょう。律によればさらに内部には2~3重の防御施設があったはずですが、少なくとも現在はその痕跡を地上から見ることはできません。しかし一部そうした痕跡を示す溝跡が確認されているようで、いずれ発掘調査が進めば、確認されることでしょう。


(北城壁の外には大規模な堀が巡っている)

 ところで、秦漢史や竹簡の研究者を除けば雲夢という土地はほとんど知られていないと思われます。幸い、三重県では久留倍遺跡のシンポジウムで馬氏が講演をしてくださったので、知名度は高く、大いに関心が持たれています。しかし、この地に至るには武漢から車で2時間近くかかる上、バスもほとんどでていません。行きたくてもいけないのです。ところが、現地にはシンセンで成功した地元出身の企業家の寄付によって立派な博物館が建設途中です。余り観光化が進みせっかく残されてきた遺跡が破壊されるのは困りますが、きちんと遺跡の範囲を決めて全体を保護することができるのなら、始皇帝の地方支配の実態を解明するため、発掘調査を実施し、その意義を全世界に知らしめることは大変重要だと思っています。いつの日かもう一度現地を訪れ、調査の一端を担えればと思いつつ遺跡を離れました。

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近況報告 中国西安・雲夢・洛陽の旅

2006-08-10 08:50:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
長らくのご無沙汰お許し下さい。

夏休み前の各種「行事」、三重大ミニ博物館オ-プン、等々いろいろなことをするうちにあっという間に時間が過ぎ、中国へ旅立ちました。現在西安です。これから武漢へ向かいます。

8月6日から10日西安 春秋戦国時代王墓、漢代太液地、秦代阿房宮、唐代円丘、唐代曲江池、明代城壁、等々を回りこれから念願の雲夢遺跡です。始皇帝の禁苑跡です。時間が迫っていますので詳しくはまた洛陽から報告します。ではまた後ほど。

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