yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

ヒロシマ・考古学-1  堺原爆展に行ってきましたの条

2007-07-29 16:24:30 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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山田博士も無事帰国され、次々と論考を発表されているとのこと、私もやっと前期が終わり、あと二つ試験をすれば今学期が終了!長かった2007年度前期でした。

 やっと自由な時間がもて、昨日、朝早くに家を出て、大阪府堺市に行ってきました。
 堺市役所の隣の総合福祉会館で開かれている「堺原爆展」に参加するためです。



(土曜日の朝早くにも関わらず沢山の人々が見学に訪れていました)


 この企画は大阪府堺市に在住の被爆者が作る「堺原爆被害者の会」(堺広長会)とその子供達が中心となって昨年結成された「堺原爆被害者二世の会」が共同で企画されたものだと聞いています。
 実はその中心メンバーの大坂市文化財協会の積山さんから随分前から御案内を頂いていたのです。あの元気な積山さんが被爆二世だと言うことを実はその時初めて知ったのです。お母さんがナガサキの爆心地から余り離れていないところで被爆なさったそうです。私が何故広島大学に「憧れ」ていたのかは先にお話ししたとおりですが、そのヒロシマで私は沢山の友人を作り、今も親しく付きあっています。そして友人の数人はやはり被爆二世で、中にはそのことが原因と考えられる貧血に悩まされる者もいました。私の母は呉の出身なので、被爆しませんでしたが、親戚や知り合いには沢山の被爆者がいると聞いています。

 そのヒロシマ・ナガサキを伝える展示会を積山さんがなさるというので出かけたのでした。
 朝10時の開場、私が到着したのが10時半頃だったのですが、既に沢山の見学者がいらっしゃり、その関心の高さ、日常的な活動の確かさを目の当たりにすることができました。会場に来られた見学者の方々から「会」の方々が戦争体験を取材なさっている姿も印象的でした。

 会場には峠三吉の詩とその挿絵、関連するヒロシマ・ナガサキの被爆状況の写真、見学者の感想文などが所狭しと並べられていました。もちろん、私にとって、ヒロシマは第二の故郷であり、原爆のむごさを伝える写真は子供の頃から身近なものだったのですが、訪れた見学者は、やはり食い入るようにして一枚一枚の説明パネルを一生懸命読んでおられました。





 黒こげの遺体、累々と積み重ねられて発見された子供達の遺骨、一瞬の熱で影として焼き付けられた銀行前に座っていらっしゃった方の「遺体」、無数のガラス片の刺さった被爆直後の人々、久しぶりに見るこれらの記録は、人間であるならば、とても「しかたがなかった」とは言えない悪魔の残虐行為であることを明確に示しています。

 しかし、日本の国政を預かる国会議員(その候補者)が、平気で、日本の核武装を考えているというおそましい事実が最近報道されました。毎日新聞WEBニュース7月16日版はこんな記事を伝えています。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070716k0000m010083000c.html

 参院選:自民候補32%、核武装検討を容認 毎日新聞調査 核武装、集団的自衛権の行使に関するアンケートの結果
 毎日新聞が参院選の全立候補者を対象に実施したアンケートで、自民党候補の32%が日本の核武装の検討を容認していることが分かった。04年の前 回参院選の同党候補より7ポイント増えた。久間章生前防衛相が「原爆発言」で辞任に追い込まれ、改めて核兵器のあり方が問われる中、自民党内で核武装論議 がタブーでなくなりつつあることがうかがえた。
 アンケートでは、日本の核武装について(1)将来にわたって検討すべきではない(2)今後の国際情勢によっては検討すべきだ(3)検討を始めるべきだ(4)核兵器を保有すべきだ--という四つの選択肢を用意して質問した。
 「検討すべきでない」を選択した自民党候補は57%にあたる41人。過半数を占めたものの、全体の82%よりは大幅に低い数字となった。
 このほかの自民党候補は「国際情勢によっては検討」が24%(17人)、「検討を始めるべきだ」が8%(6人)。04年にも全く同じ質問をしており、その際の自民党候補の回答は「国際情勢によっては検討」が25%で、「検討を始めるべきだ」はゼロだった。
 昨年10月に北朝鮮が核実験を実施したことを受け、麻生太郎外相らが核武装の議論を容認する姿勢を示したことなどが3年間での増加の要因になったとみられる。
 民主党候補は94%にあたる72人が「検討すべきでない」を選択。「国際情勢によっては検討」「検討を始めるべきだ」はそれぞれ1%(1人)、3%(2人)にとどまった。公明、共産、社民3党は全員が「検討すべきでない」と回答した。
  一方、現憲法下で集団的自衛権の行使が認められるかどうかを尋ねた質問では、自民党候補は50%(36人)が「認められない」と答え、「認められる」の 36%(26人)を上回った。公明党は全員が「認められない」と回答した。野党では、民主党の19%(15人)、国民新党の18%(4人)が「認められ る」と答えた。共産、社民の両党は全員が「認められない」だった。
 
 「しょうがない」と思っているのは先の大臣一人だけではないことがこれで明白になります。そもそも安倍晋三首相そのものが核武装論者であり、集団的自衛権を行使して他国の侵略を合理化することを強く求めている好戦者であることは首相就任以前の発言を見れば明々白々です。つまり、この様な人間の仕業とは思えない殺人を合理化し、自らもこの兵器を獲得することによって、他国を威嚇したいと考えている人々が、国政を預かっているのです。本当に考えていることは表に出さず美辞麗句を並べ立てて、危機意識と保守意識のみを頼りにイメージで訴える手法、国民も嘗められたものです。



(今柏崎刈羽原発で起こっていることも本当にどれだけの事実が伝えられているのか判らないことがたくさんあります。選挙を前にして核心部分が隠されていると私は思っています。これから「エッツ」という事実が次々と明内なることでしょう。これもまた報道管制です。選挙前になりふり構わず自民党総裁のみを優遇してその主張を述べさせた日本テレビ系列の報道機関に最早公共放送としての資格はありません。)


 しかし、そんな知性も理性もない総理大臣を追放するためにもこうした地道な活動がいかに大切かを、原爆展を見て痛感しました。と同時に、考古学の調査研究に精力的に取組ながら(会場でも最新論文「土器製塩の展開」(『季刊考古学第100号』2007年8月)を頂きました。)、こうした社会的活動をなさる積山さんに本当に頭の下がる思いを強く致しました。と同時に入院などして惚けていてはいけないなという新たな刺激を頂いて会場を後にしました。


(私が今最も関心を持っているヒロシマ問題の一つに、GHQによる報道統制があります。彼らは進駐直後からヒロシマナガサキの事実が外に出ることを防ぐために徹底した報道管制を敷きました。そして原爆投下の目的を明確に示すのが、こうした被爆状況の確認作業(診察ではありません!どんな効果があるかを確認しているだけなのです)でした。こうした事実に蓋をしてアメリカのお陰で戦争が早く終わり、北海道を取られずに済んだなどというのが自民党の多くの議員の考え方なのです。彼らも口には出しませんが「しょうがない」と思っているのです。)



(初めての報道はなんと戦争終結後5年もたった1950年のことだったといいます。報道の自由がいかに大切かをこうした戦争はまざまざと教えてくれます。)

 有り難うございました。私も初心を忘れずこれからも折々にヒロシマをこの場を借りて伝えていくことにします。「ヒロシマ・考古学」の始まりです。

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東山通信-9   平城京まで十条十坊??の条

2007-07-15 09:58:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

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(6月16日は私はあいにくまだ病院に隔離中でしたが、大和郡山市の山川さんから最近現地説明会の資料を送っていただきました。有り難うございました。特に十条大路廃止後の土地利用が手に取るように判ったことが大収穫ですね。そして余り話題にされませんが、極めて重要なのが、「現存地割り」から復元する古代地形の怖さ!!正確な考古資料の強さですね。)


 私は人文科学は全て、現代人間社会が取るべき姿のモデルを、様々な分野の科学的資料を用いて示すことにあると考えています。考古学がロマンだと騒がれる度に「郷愁に耽る学問ではない!」と強く否定したくなるのはそのためです。今日、表題のような日本古代宮都研究の大きな課題を前にしても、常に視野に入れて考えているのは「なぜ人は都市を造り出すのか?なぜ人は都市を目指すのか?」という極めて現代的課題を1200年前の考古学や文献史学の資料を基に考えるためなのです。

 この平城京の郊外(と思われていた)下三橋遺跡で発掘調査の成果が紹介され始めた頃、真っ先に思ったことは日本の古代宮都と羅城の問題でした。張りぼての羅城?見せかけだけの羅城!都市を巡る戦争など想定もしていなかったからこそ、羅城などいらなかったのです。

 朝鮮三国然り!ヴェトナム然り!モンゴル然り!中国周辺のいずれの民族も、戦争の危機に常にさらされ、羅城を築き、幾重にも山城を設け、厳重な関所を配置して、都・都市を守らなければならなかったのです。

 ところが、日本古代国家は天皇が暮らし、国家の重要政務や儀礼が執り行われ、官僚が執務する宮城以外はオープンにしていたのです。先日もある大学でこの話をすると、「そしたら都の内と外はどう違うの?」と異口同音に聞かれました。

 「田んぼがあるかないかかもしれんな」と答えると多くの学生がいぶかしそうでした。きっと「そんな貧相なんか!」と、ちょっぴりプライド?が傷ついたのかも知れませんね。「でもそれだけ日本は平和なんだよ!」といった言葉にどれだけ反応したかはよくわかりません(そこが今の学生の悲しい性でしょうか)。

 日本の宮都ほど、平和な都市はないのです。正規の軍隊同士がぶつかり合った戦国時代ですら、日本の都市は十分な防備を備えていたとは言い難いのです。戦国武将同士が戦争をするときも、彼らが目指すは敵将の首!もちろん、略奪、人さらいは日常茶飯事だったのですが、敵国を根こそぎ消し去るなんて事はあり得なかったのです。実に「平和」な日常だったのです。

 そんな日本が20世紀前半、おごり、高ぶり、傲慢になった政治家、経済人、軍人に扇動されて何百万人もの人々を殺し、殺された。日本史上空前絶後の戦争犯罪を犯し、犠牲を払った。その反省があったからこそ、「戦争放棄」の世界初の憲法ができたのです。

 なぜ戦争放棄を止めようとするのか?私には全く理解できません。
 ヒロシマ・ナガサキを「しょうがない」と吐き捨てる人が防衛大臣だなんて。信じられません。
 女性が初めて防衛大臣になったといって大騒ぎしてますが、彼女、ヒロシマ・ナガサキのことをどう思っているか、何も語りません。
 戦争放棄を放棄して、戦いに動員されるのは

 あなた! そう君たち学生!未来の学生達!若者です。

 間もなく八月六日、九日です。永遠に世界中の人々の心に焼き付けて、核兵器の、戦争の地球上からの放棄を願いましょう。

 日本考古学は戦争の歴史を明かしてきました。弥生時代に始まる首のない遺体、矢の、槍の刺さった遺体。戦争の無惨を後世に伝え続ける!これもまた考古学の責務でしょう。と同時に日本列島の人々が他国を侵略しない限り、日本列島ほど平和な国はなかった、という事実をもっともっと示し、無益な戦争崇拝者達を排除するよう努めなければならないと思います。

 戦争のない世界を!戦争をしない日本を!! 

 考古宅の立場から訴え続けようと思います。

 こんな詩を知りました。ご紹介しておきます。


 「ヒロシマの有る国で」
                         山本さとし 作詞・作曲 後藤寿美 編曲
  八月の青空に 今もこだまするのは
  若き詩人の叫び 遠き被爆者の声
  あなたに感じますか
  手のひらの温もりが
  人の悔し涙が 生き続ける苦しみが
   * 1 わたしの国と かの国の
       人の生命は同じ
       この青い大地のうえに
       同じ生を得たのに
   * 2 ヒロシマの有る国で
       しなければならないことは
       ともる戦の火種を
       消すことだろう
  かの南の国では 大国がのしかかり
  寡黙な少年らが 重い銃に身を灼く
  やせた母の胸に 乳飲み子が泣き叫び
  はだしではだかのまま
  逃げ惑う子どもたち
  故国の土を踏むことも
  家族と暮らすことも
  許されない戦争が なぜに今も起こる 
  *2 くりかえし  *1 くりかえし  *2 くりかえし  *2 くりかえし 



(発掘調査によりその変遷が見事に再現された平城京南部の「条里」。条里制・古代都市研究会はこの遺跡だけで十分二日間の大会を大議論に巻き込むことができると思うのですが・・・。)

 さて、平城京の九条大路に遺る羅城門やその東から発見された城壁が当初のものではないと判ったのが一昨年のこと。平城京には九条より南にまだ都市景観の核である条坊制が伸びていることが判明したのです。さらに今年の六月になって、十条大路が確定したという報道でした。

 ところが驚いたことに「平城京も十条十坊」という説が示されているというのです。先にも書きましたとおり、その記事を掲載した新聞が我がからが消えてしまったので、実際のところは知らないのですが、とにかくいただいた現説の資料を基にもう少し私の考えを示しておこう!と思い、ここに書き始めた次第です。

 なお、これも平城京に羅城はあるのかないのかという日本古代国家の持つ都市観、戦争観を探る極めて重要な成果だと思うからこそここで取り上げます。

 まず直感的に反応したのが、「いつまで藤原京十条十坊説が生き続けるんですかね?」です。

 それとも平城京の東西も十坊だったとでも仰るんですかね。判らん!!

 もっと素直に、岸俊男先生の復元された藤原京八坊十二条説に回帰すればいいだけなのに、と私は思うのですが、病人を興奮させない程度の論理的な反論がいただければ嬉しいですね。

 まさか、十条以南に南北条坊が延びないという秘密情報でもあるのですかね?いやいや現地説明会の資料を見る限りそんなことはなさそうです。

 但し文章だけなのですが、根拠が一つ示されていました。十一条条間北小路相当地に旧河道があり、条坊痕跡が発見できなかったということです。これは重要な「事実」です。

 但し、正確な情報はまだよくわかりません。「」付きの「事実」としたのはそのせいです。どうして平城京だとほんの一部を掘っただけで、その位置に条坊痕跡が認められなかったら、もう南はない!と断言できるんですかね?

 これが長岡京だと、それ見たことか!とばかりに長岡京のできていた範囲はたったこれだけだ!と大袈裟に言われるんですがね(被害妄想かしら (笑))。

 十一条条間北小路はなかったのではなく、旧河道(この「旧」というのも意味深ですよね)があるからないのではないですかね。「旧」河道の時期が示されていないので何とも判断しづらいのですが、一つには、「旧河道があるからこの部分には条坊が施行されなかった」という考える余地が十分あるし、二つには、旧河道ではなく同時河道であって、まだその当時河道が生きていたから条坊ができなかった(或いは河道を利用していた)とも言えます。そもそも、この十条と九条の間の宅地利用ですらまばらで、条坊はあるものの、実質的利用頻度は極めて低かったことが知られています。十一条条間北小路の部分の解釈だけ少し特殊にするのはいかがなものでしょうか。



(私はさらに南へ二条、十二条あると思いますがいかがでしょうか?少なくともこれで南への調査は終わり!ということだけはなしにしましょうね!!)

 以前にも書きましたが、今回の現地説明会資料を読んでもなおかつ私は十二条まで計画されていた(あった)と考えます!!

 現在与えられている資料でそのことをもっと明確に示す根拠は、十条大路の規模です。現説資料では南北両側溝心心距離15.75m(約45大尺)、南北側溝のそれぞれ端から17.5m(約50大尺)だといいます。十条大路で終わりだという説ですと、ここが南京極大路にもなります。明らかに九条大路より狭いのです。どうしてこの問題は軽視されるのでしょうか?平城京十条説を全く理解できない私の一番の根拠です。

 さらに黙して語られませんが、8坊しかない平城京の東西、「藤原京」ではこじつけの数字合わせで坊令12人問題を解決したかに見えますが、では平城京はどうするの?です。

 恐らくそこから出てきたのが無理矢理平城京にも後二坊足して十条十坊にしようという「藤原京十条十坊」すりあわせ説かと危惧します。
 
 以前から指摘しているように平城京の中軸線の延長線(つまり下ッ路の一画に稗田遺跡という不思議な遺跡があります。大規模な祭祀遺跡のようです。今回の平城京が十条以上ある可能性が出てきたときに真っ先の思ったのがこの遺跡でした。以前から何でこんな所で律令祭祀が大規模に行われるんだろう?と疑問だったのです。

 それがこれで、うまく説明できそうなのです。ちょうど十二条付近にこの遺跡があります。まさに「京端」での祭祀遺跡なのではないでしょうか。長岡京だと京内であろうと直ぐに大規模な祭祀遺跡が見つかると「京端祭祀だ!」と断言される祭祀研究科が多い中、平城京はそうは仰らない、不公平ですよね。考古学は科学なんですから!勝手に方程式を代えてもらっては困るのです。

 予断と偏見を捨て去ろう!もっと他人の説も真剣に分析してみよう!!

 大声で言いたいことはまずこのことです。

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東山通信-8  稲荷山は柏原陵の目印?の条

2007-07-14 03:22:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 山田博士も無事着いたようだが、そろそろ帰国の途につくはず。鬼の居ぬ間に結論を述べておこう。

 これまでの私の主張を整理しておきます。

 A 山田博士説の問題点について
 1 現時点で考古資料がないというのは絶対的ではない。特にほとんど発掘調査もなされていない地域での表面探査のみでの「ない」は覆ることが度々指摘されている。
 2 現宮内庁管理地内では日本の古代王権も深くこだわった宮都との関係性をほとんど見出すことができない。
 3 現宮内庁管理地内一帯に王権との歴史的関係性を示す環境が認められない。
 4 『延喜式』に示された兆域の四至や景観が全く異なる。

主にこの4点を批判の根拠にしました。第4の指摘は『延喜式』というほとんど当代史料といってもいい精度の高い文献史料が示す兆域であり、その景観の現地形との一致は必要不可欠ではないでしょうか。

 B 自説の根拠について
 1 まず古代王権の葬地と宮都との間に深い有機的繋がりがあることを前提にしました。今回の「通信」では全く触れていませんが、著名な岸俊男氏の「藤原宮聖なるライン」説が桓武天皇陵の治定にも大いに参考になるということです。藤原宮城の中軸線上に明確な意図を持って、天武・持統合葬陵や中尾山古墳・高松塚古墳等が配置されているという考え方です。平城京北東京外に天皇陵が集中することも重要だと考えています。つまり、桓武天皇陵もまた宮都・長岡京と平安京と全く無縁な地に設けられることはなかったのではないかというのが私の前提です。
 2 この時に直接桓武天皇の葬地とは言っていませんが、延暦十一年に出された深草山への一般民の埋葬の禁令が桓武天皇葬地選定に関係しているのではないかという仮説を立てました。その後の歴史事象として、深草山と葬地とを結びつける唯一の史料が、桓武天皇柏原野だからです。
 3 深草の歴史的環境は古代王権と極めて深い関係にあります。「通信」では触れていませんが、私はここ数年、伊勢国などに所在する大安寺墾田地の成立と展開の歴史的背景を考察し、それらが遅くとも六世紀後半までには成立するミヤケに由来していると考えていくつか拙文をしたためました。ミヤケ設置によってなされた古代王権の伊勢地域における様々な形での直接支配(内陸部交通路の確保:原東海道の管理、港湾の掌握:伊勢湾内水海交通路の管理、部分的な土地の獲得:飯野郡の一部や一志郡の新家屯倉など)と奈良・平安時代に取られる律令国家の諸政策、王権の土地の再分配とが深く関係していると考えています。
 深草の屯倉設置の目的は何か。秦氏を用いた小掠池周辺部の低湿地・荒れ地の開拓があったのかも知れませんが、もう一つの目的として大和から山背東部を経て近江へ入る重要交通路の一画として着目されていたからではないでしょうか。飛鳥に設けられた上・中・下の三幹線古道のうち、中ッ道延長線上の道路はそのまま山背南端の泉津を経て山背国紀伊郡にまで至ります。深草の地はこの幹線古道が東山を越えて宇治郡に入る二つのルート、大亀谷越え(明治期の東海道線のルート)コースと泉涌寺北の谷を通って、宇治郡に入る交通路(まさにこの先に田村麻呂墓があります)のちょうど間に位置しています。南から、或いは東から来る課題の解決のために交通の拠点に置かれた屯倉ということができるでしょう。
 当然深草一帯は王権の管理する土地だったと思われます。その屯倉がその後どうなったかは全く不明ですが、柏原野の分析を通じて明らかにできた通り、数多くの国家が関与した施設が確認できているのです。律令国家といえども、突然、公田を廃棄させ、葬地にすることには多くの問題があったはずです。王権の伝統的に管理する土地だからこそ、葬地の設定は可能だったのではないでしょうか。
 4 兆域の推定を、こうした歴史的事象に関連づけて行った場合、平安時代の資料ですが、仁明天皇陵、嘉祥寺、貞観寺、極楽寺といった王権と深く関連する寺院や陵墓がこの地に設けられる背景を読み取ることができました。

 では結論として柏原陵は何処にあるのでしょうか。
 
 第一の候補は、深草真宗院山町にある真宗院の墓地が置かれている小さな独立丘陵です。もし陵が、柏原野の中心に置かれたとすると、この丘が一番目立つところにあります。もちろん墓地ですから発掘調査することはできませんし、これまでも余り人の手が加わることもなかった場所だと考えられます。考古資料が発見できにくい環境が早くからできあがっていたのです。

 第二の候補は稲荷山そのものです。先に兆域で推定したとおり、稲荷山は兆域の北東部(丑寅の方向)に位置しています。陵は兆域内に推定するのが普通ですが、兆域内の陵はダミーで、二峯を加えるという表現でカモフラージュして稲荷山に葬った、という解釈です。もちろんこれはオーソドックスな解釈ではありません。しかしなぜ北東の二峯をわざわざ付け加えたのかという説明にはなるかもれません。

 さらに稲荷山説と真宗院山町説をミックスした第三の解釈もあります。稲荷山を陵墓(兆域)の目印とし、実際の遺体は真宗院山町の丘を利用して埋葬するというものです。いずれにしろ坂上田村麻呂墓の確定によって、稲荷山の存在感は大いに増したものと考えています。ちなみに、私にとって大いに意外だったのは稲荷山というのは官地つまり国有地だということでした。深草屯倉以来国家直営の地として継承されてきたのではないでしょうか。



(京都第一赤十字病院の屋上から見た稲荷山です。病院の正面が平安京九条大路の延長道路ですから、1200年前の人々はまさにこんな感じで、稲荷山が見えたはずです。)



(目を西に転ずると正面に東寺の五重塔が見えます。病院の地は九条大路の東の端をさらに延長した場所に当たります。)

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 さて一ヶ月の入院のお陰?で一つ話のネタができました。何とか形にしなければなりません(もちろんその構想の大半は国立歴史民俗博物館紀要最新号に既に報告していますが、稲荷山の評価が不十分でした)。朧谷先生の古希記念論集にしようか、はたまた再刊された『古代文化』にしようか、いろいろ考えましたが、忘れてました、早く書き終えないといけない『桓武朝の考古学』(吉川弘文館のライブラリー)、これの最終章(第十二章)に「皇帝桓武ここに眠る」と題して入れることにしました。さて本がいつできあがるのか、この夏休みがホントのホントの正念場となりました。

 今日(正確には昨日)が毎週の血液チェックの日でした。やっと人並みに戻りました。血小板十五万個です。ステロイドも今日から六錠(30mg)に減ります。まだまだ先は長そうですが、大きな壁を越えることができました。
 でも、ステロイドというクスリが恐ろしい薬だということをいろいろ体験中です(こんな体験しない方がいいに決まっていますが仕方ありません)。
 まず私が一番実感しているのは、体内の脂肪という脂肪の大半が体外に排泄されていっているらしいということです。毎日毎日顔はベトベトです。それに合わせるかのように腕も足も細くなりました。
 次いで皮膚が弱くなったことです。今日担当医に伺うと皮膚が薄くなる!と仰っていました。以前にも書きましたが、掌や足の裏が赤いのはそのせいだったのです。その影響でしょう、いつも履いている靴なのに靴擦れが起こります。足も細く皮が薄くなったのです。色白、赤い唇とまるで少年のようになるのもこの薬の副作用なのです。
 そして誰もがなるムーンフェース。残念ながら気性は丸くなりませんが、顔だけ丸くなりつつあります。ステロイド副作用の典型です。伺うと、顔が浮腫むのだそうです。
 さらに最近感じるのは、何処かで自律神経が混乱しているのではないかということです。今目の前でチェックしたはずの事柄を直ぐ忘れてしまうのです。先週は3度も資料の印刷順を間違えてしまいました。

 でも、入院時から決めた規則正しい生活だけは一応二週間、守ることができました。5時起床、朝食の準備と食事と薬。6時15分官舎を出てバス停へ、6時30分のバスで大学へ。7時から8時50分(或いは10時30分)まで授業の準備をしてスタート。全8コマの1週間が進みます。
 夜はもちろん20時51分の最終バスで帰宅。21時15分頃には宿所に到着。風呂を沸かし、洗濯をし、食事の準備をすると大体22時半頃になります。食事と風呂を済ませ、片付けが終わると23時から24時。結局それでバタンキュウ。
 なんだかこの通勤と食事作り(+風呂)の4時間がとてももったいない気がするのですが、そこで休憩になっているのですかね。よう判りません。お陰でみそ汁とサラダだけはうまく??なりました。老後の主夫業の準備とでも思っておきましょうか。(笑)

 今日は土砂降りの雨だったので、東山散策は諦めました。でも、木曜日のハードな一日が祟って、折角早く帰ったのに知らない間に寝てました。まだまだスローモーな毎日です。不思議なことに焦らないというのも薬の副作用かも知れませんね。

 そういえば、入院中にもう一つ大きな話題が新聞紙上を賑わしたそうです。平城京十条十坊説です。悲しいことに、これを伝える新聞は既に廃品回収に出されたとか、直接読んでいないのが残念なのですが、先日大和郡山市の山川さんから現説の資料をいただくことができました。

 山川さんお心遣い本当に有り難うございました!!

 これも以前に書きましたが、東山通信の中で、少し再分析してみようと思っています。とは言っても大したことは言えませんが・・・。ではまた次回。


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東山通信-7  勝手に援軍の条

2007-07-09 10:20:50 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 ところで最初にご紹介したように京都大学の吉川さんがこれまでにも仮説の提示はあったが完全に実証されていたわけではない「西野山古墓=坂上田村麻呂墓」説をッ発表され、私が入院したその日のSankeiweb で紹介され、6月12日には産経新聞朝刊25面でも、自らのコメントを寄せられている。その後、朝日新聞京都版も追いかけ記事を載せ、6月24日朝刊京都版では仮説提唱者鳥居治夫氏を大きく取り上げ、その先見性を高く評価した。



(鳥居さんの業績を紹介する朝日新聞6月24日版)
 今回の吉川さんの研究はいずれ公表されるのであろうが、現時点で、ほぼ坂上田村麻呂墓=西野山古墓説は確定したと見ていいだろう。
そこで私はこの強力助っ人(勝手に助っ人にしてきっと迷惑に違いないのが吉川さんだろうが・・・、お許しあれ)にして、自説を補強しようというのである。

 さて、西野山古墓は現在の京都市山科区通称西野山の中腹あたりにある。直ぐ近くにゴルフ場が迫っており、その景観はかつてのものと相当変化してしまっている。しかし、私が中学の頃からこの奥の滑り石は知られ、山科から京都へ抜ける路であることはよく知られているところである。吉川さんが想定しているように、京都盆地から東へ抜けるための一つの重要古道で合った可能性が高い。まさにその東斜面に田村麻呂墓は位置することになる。数々の伝承が伝えるように、田村麻呂は平安京(京都)の守り神として事ある毎に登場し、ついには埋葬地とは無関係な東山の一画が将軍塚とまで命名され、京都の人はいつしかこの地が田村麻呂の墓所だと信じている。
そんな田村麻呂の墓が西野山古墓であることはまさに東を守護するという意味を込めた往時の王権・嵯峨王権の「思想」を反映しているといえよう。
さて、田村麻呂墓が東を守るのは、ただ単に漠然と平安京を護るためではないのではないだろうか。私には彼を登用した恩人・桓武天皇との関係を全く考慮することがなかったとは思えないのである。もちろん、彼の遺体の埋葬は彼の遺志とは無関係だろうから、果たして嵯峨王権がそこまで配慮したかどうかは想像の域を脱しないが、あっても不思議ではないと思う。
 


(副葬品の太刀細部。『京都府史蹟名勝天然記念物調査会報告第二集』(京都府 1920年)より。京都大学の展示(保存処理後の復元)ではこれら金具の位置が異なっていた。復元の根拠が示されるとありがたかったのだが・・・。それにしても極めて繊細な透かし彫りの技術は超一流としか言いようがない。)



(鏡は見ることができなかったんだが、大収穫はこの風字硯と水滴。田村麻呂が風字硯(このタイプ)を愛用していたとは感激!!まさに長岡京期成立の風字硯から一段階進んだタイプ!水滴もピタリ!恐らく木炭の影響で黒ずんでいたので、私の目にうまく観察できなかったのが残念!!鉄鏃は少なくとも三角翼タイプと実用的一般形態の二種類。儀礼用ばかりの入らないところが田村麻呂らしいところか。素晴らしい!!)



(『清水寺縁起絵巻』の田村麻呂埋葬情景『続々日本絵巻大成清水寺縁起』(中央公論社1994より)
 仮に山田博士説で「桃山城」なら、この配慮は全くなかったことになるのだが、私説なら、実に意味深いところに西野山古墓は位置することになる。先に柏原野の兆域を検討したが、その際大いに問題にしたのが、「加丑虎角二岑一谷」であった。二岑を稲荷山と想定したのだが、まさにこの稲荷山の岑の谷間を進むと、滑り石に行くことができるというのである(まだ私は実際に歩いていないので近日中に探検に出かける予定である)。もしこれが事実だとすると、桓武天皇柏原陵→坂上田村麻呂墓→天智天皇山科陵が、ほぼ一直線上に並ぶことになる。少なくとも田村麻呂墓は桓武天皇陵を頭に仰ぎ、この足下で東を護る形を取ることになるのである。偶然だろうか?
先に示したとおり、日本古代の天皇陵の配置にはそれぞれ何らかの理屈が込められている。天武・持統合葬陵と藤原宮中軸線、聖武陵と平城京、淳和陵と長岡・平安京。そして、桓武陵と長岡・平安・天智陵である。さらにこれに坂上田村麻呂墓が重なって、平安京は強固な守護神を獲得したのではなかろうか。
吉川さんの実証を勝手に援軍に見立てた所以である。お許しあれ。



(真宗院の墓所 ここが最有力地なのだが、まだ決定的資料は採集できていない。)

 東山通信もようやく終わりに近付いてきた。病棟ではこんな荒唐無稽なことを毎日想像しながら過ごした。社会復帰して、日々の「仕事」が再び押し寄せる中、今となってはあの一ヶ月が実に懐かしく思い起こされる。皆さんの忠告に従ってもう一ヶ月入っていればよかったかも・・・。 (笑) さてそろそろお仕事の時間です。行って来まーす。

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東山通信-6  ちょっとコーヒーブレイク・東福寺界隈散策の条

2007-07-07 17:22:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日の検診は期待通りには行かなかった。まだ血小板は106000で足踏みしてしまっていた。だから6錠30mgにはしてもらえず、1錠だけ減らしてもらった。まだまだ先は遠そうである。

 でも元気を出して屋上から眺めていたときから行くぞ!と決めていた東福寺探検の散歩に出かけました。今回はまずアウトラインをたどる散策です。中心伽藍はまたいつか。退耕庵から南明院までと、そのまま伏見稲荷の大鳥居まで、裏道をブラブラ
歩きました。

 驚いたことに本町街道の喧噪が嘘のようなとてもとても静で美しい町並みに、ただただ感動して時間も忘れて歩きました。

 秋の紅葉は大変有名で、有名すぎて人ばかり!夏の東福寺にはほとんど人は訪れません。でも木陰を吹く風の気持ちのいいこと!!絶対穴場ですよ。

 それにしても京都府立日吉ヶ丘高等学校というのはとてもとてもいい環境にある学校なんですね。羨ましかった!

 以下、写真で歩く東福寺界隈です。どうぞごゆっくり。



(長くお世話になった京都第一赤十字病院の南に立つ碑。ここからスタート、終点は稲荷大社の大鳥居です。)



(2 退耕庵に最初に出会いました。こじんまりした玄関に桃山時代という客殿が見事でした)

(3 小さな谷に架かる橋(臥雲橋 3-下付録写真)を渡ると東福寺境内の西側を囲う見事な白壁が見えてきます。)








(4 楽しみは後にしてちょっとだけ境内を覗いてみました。)



(5 南に広がる諸院を覗きながら稲荷を目指します。この庵は名前をチェックし忘れました(というより書いてなかった?)が、とても瀟洒な庭でした。)



(6上↑ 南明院という旭姫の墓があるところだそうです。裏に見える稲荷山に近付きたくて奥まで入らせていただきました。
 7下↓ 目を転ずると西山がばっちり!!淳和天皇大枝西嶺山稜-長岡京-稲荷山(桓武陵兆域)-平安京の関係がここでもよくわかります。)





(8上↑ 願成町からの稲荷山。東福寺とはここでさようなら、古い町並みの路地のようなところを進むとあちこちで稲荷山が見えます。
 9下↓ そしてどこもとてもとても美しい!!アガパンサスという花だそうです。)






(10 途中こんな骨董品やさんのあるところが京都らしいですね。)



(11 そして着きました!お稲荷さん。1時間半ほどのミニ散策でとても新鮮なエネルギーをもらいました。そしてこの後京大博物館での西山古墓の資料へ!! 次回は西野山古墓から見た桓武天皇陵です。お疲れ様でした!是非皆さんも京都へ来たら東福寺!JR奈良線でわずか一駅。最近は快速が止まるから10分おきくらいに電車はありますよ。もちろん駅名はズバリ「東福寺」京都から150円かな?)


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東山通信-5  兆域から考えるの条

2007-07-07 13:40:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
山田博士はイギリスへ、寂しいねと思ったらランキング登録もよろしく


 山田博士はイギリスへ発ったことだし、心おきなく批判ができる?(ゴメンね、イギリスに行くと言ってたの忘れてました。お見送りもせずに、お許し下さい。)。きっとあちらでモブログを読むことはできるだろうが、どうせ毎日パブで飲み明かすに違いないから、その間に全面展開と言うことにしておこう。

 さて本論に戻ろう。

 私が今もう一つ注目しているのが、兆域である。

 『延喜式』治部省諸陵寮式陵墓条によれば桓武天皇の陵は次のように記されている。

 柏原陵 平安宮御宇桓武天皇。在山城國紀伊郡。兆域東八町。西/三町。南五町。北六町。加丑寅角二岑一谷。守戸五烟。 

 兆域の実態は復元が難しく、特に柏原陵のようにその中心の陵すら見当が付かない場合はさらに困難を極める。しかし柏原陵の場合はいくつかのヒントがこの兆域の四至に含まれている。
 
 その一つは、「加丑寅角二岑一谷」であろう。つまり北東方向には岑や谷の続く地形が展開していることである。言うまでもなく紀伊郡において岑や谷が兆域に接しうる場所は東山をおいて他にない。つまり柏原陵が東山の一画にあることは兆域をみるだけで明白である。

 さて、山田博士説でこの二つの岑や谷は確保できるのだろうか。

 現在の桃山御陵は東山の丘陵が大亀谷で一度途切れ、しばらくなだらかな丘陵部が展開した後出現する東西1.2km、南北1,0km弱の独立丘陵である。兆域を入れるに相応しい規模を持っているが、問題は二つの岑と谷である。敢えてそれとするなら大岩山と大亀谷であろうが、かなり離れている点に難点がある。

 後述する深草近辺に比べ、兆域を限る関連施設、空間が何もないというのも解せないのである。果たして、王権は前代以来の歴史において全く無関係の地に兆域を設定することは可能だったのだろうか。そもそもなぜ桃山の地が選ばれたのかという歴史的説明に欠けるように思うのである。

 そこで自説に戻ろう。
 まず延暦十一年の詔を援用して、山城國紀伊郡深草の地に柏原野があると仮定する。
 この地は深草屯倉の設置以来、王権と深い関係のある土地であろう。渡来系氏族秦氏がこの地に入るのも、屯倉の設置と関係があるのであろう。平安時代に仁明天皇陵が置かれ、これに付随してその陵寺たる嘉祥寺が設置されるのも、引き続き貞観寺、極楽寺と王権の中枢部を担う人々の菩提寺が建立されるのも、こうした王権の伝統的直轄支配地の歴史と無関係ではないのではないだろうか。時代は下るが、近世に至るまで、数多くの「天皇陵」が営まれるのも偶然ではなかろう。

 つまり延暦十一年以降この地は王権の埋葬地とするからこそ、一般百姓が埋葬することを禁じたのではなかろうか。平安時代以降の歴史は見事にそのことを証明して見せている。「桃山城」に比べて歴史はとてつもなく深いのである。

 ではその境界はどこに設定すれがいいのだろうか。一つのヒントは岑と谷であり、もう一つは平安時代初期の元号寺院の配置である。東が現東山の峰峯であることも間違いなく、これによって、南と東と西の一部が固定できる。その上で、矩形に近いラインを引くと、丑虎の方向にピタリとはまるのが現在、信仰の対象となっている「稲荷山」そのものなのである。

 「稲荷山」をどう解釈するかは次にして、まずは兆域をこの様に確定することができると考えるのである。


(これはもう30年程前に購入した『空から見た京都』日本交通公社1979年 を複写したものです。ちょうど私の推定する柏原野の兆域がすっぽり入っています。ついでに我が家はこの次の写真に写っています。さてこの写真の下辺真ん中やや左の木立(左上から来るJR奈良線と接している小さな森)が「十二帝陵」と地元では俗称される「深草北陵」です。と同時にこの辺りが貞観寺、嘉祥寺の寺域の北限推定地です。つまり私の推定する兆域の南限です。南面は五町ですから約550m。どこを起点にするかが問題ですが、やはり貞観寺の寺域を参考にすると、西端は直線地割りの残る現バス通りでしょう(つまり我が家の前の路です)。ここから東へ550mを起点に北へ870m北上した地点の北東(丑虎)に稲荷山の岑岑が接します。西側の境界はそのまま北へ延ばし、極楽寺推定寺域までを測るとおよそ300~400m、つまり三町余りです。北の六町は自然地形に合わせて稲荷山の裾まで曲線で描けばほぼ650mとなります。そして、この範囲に含まれる丘は東山の裾に伸びるなだらかな緩斜面を呈し、現在もあちこちで畑の広がる「野」に相応しい光景を示しています。いかがでしょう?)


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東山通信-4(付録)   闘病記録1  

2007-07-05 08:49:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 東山とは直接関係ないのですが、実はこの病気、薬との戦いです。ステロイドの副作用をいかになくすかが問題です。聞いてみると結構あちこちに経験者のいらっしゃることがわかり、驚きました。私自身はもちろん初めての経験ですのでこの後どうなる事やら若干の不安があります。そこで、日常生じている変化を記録して、今後に備えようと思います。お医者さんに任せきりでは健康の自己管理はとてもできないからです。
 以下は、入院中に書きとどめた検査結果と投与薬の推移です。今日もこれから検査に行きますが、結果によっては薬がさらに減る可能性があります(本人はもうそのつもりです。やっと30mg!)。

 ところで現時点で気付いた点は以下の症状?です。

 1 目に見えて判るのが、皮膚の表面に脂質がどんどん代謝されていることです。毎朝石鹸で顔を洗っても直ぐに表面が脂でベトベトになります。手で額をぬぐうと掌にべっとりと「脂」が付くのです。それと共に、身体から脂肪が抜けたかのように、お腹も、足も、手も細くなった様に思います。現にあれだけ食っちゃ寝を繰り返したにもかかわらず体重が4kgも減ったのです。
 2 皮膚の代謝も激しいようで、毎日お風呂に入っているにもかかわらず、身体を洗うと大量の垢が出るのです。それと平行するかのように掌は皮がむけたかのようにシワシワになり、指先に物が直接触れると、ひどく強い刺激を感じるのです。つまり皮が一皮も二皮もむけた(脱皮した!)といった感じなのです。
 3 おそらく薬を何種類も飲むからでしょう。便秘にまずなった後、退院後はその逆です。もちろん食生活も変わったので当然だとは思いますが、どうも腸が普通には動いていないようです。
 4 そして皮膚が脱皮?したことによって、色が白くなりました。
 5 顔が丸くなるのは皆さんの仰るとおりですが、昨日あたりから膨らみ出しました。(笑)
 6 学生が言うには、「声が違う!」らしいのです。えらく甲高く、他人のように聞こえるというのです。声帯が脱皮したのでしょうか???
 7 ステロイドの大量投与の結果、喘息が今完全に治まりました。もちろん投与が減ってどうなるか?ですが、とにかく、息がしやすい!!このことも声の変化と関係があるかも。
 
 ま、現状はこんな程度ですから、特に困ったことがあるわけではありません。ご安心を(誰も心配してないか)。

 少し記録を作ってみました。今後少しづつ症状の変化も記録しながらどの様なことがどう起こってくるのかを示していこうと思います。歴史とは関係ないのですが、私の身体の歴史ですので、ま、読み捨ておき下さい。

2007年6月4日13時に突然始まった入院のメモ帳

入院記録
場所 〒605-0981 京都市東山区本町15丁目749
電話 075-561-1121 naisenn3353/3355(病床管理係)
URL  http//www.kyoto1-jrc.org
東棟514号
病名 突発性血小板減少性紫斑病(難病指定)
経過 ①4月後半に強い風邪を引きかなりの疲労感にさいなまれる。そのまま何となく和らいだが、胸に痛みが残り気になっていた。
   ②そこでいつもかかっている久野病院の住友先生に5月19日に診察していただいた。結果右側を中心に少し影があることが判明。消化器専門の住友先生では判断できないので、日赤に紹介状を書いていただく。
   ③5月25日(金)東山の京都第一日赤へ来院。松本先生に診察。やはり影が依然とある。むしろ少し広がっているかも知れない。しかし、普通の広がり方ではないのでよくわからない。各種検査をした後で判断すると言うことで、再度6月4日以来院を指示される。
   ④この間も胸の痛みは左上を中心に残るが特に他に問題はなかった。
   ⑤6月2日(土)に歴博の「海」研究会での発表があるので、6月1日京成勝田台のアーバンホテル勝田台に宿泊。夜ホテルの風呂場でがらんに強く頭を打ち付ける。瘤。内出血。
   ⑥6月2日(土)深夜帰宅。
   ⑦6月3日(日)大変しんどく、終日寝る。

6/4月 ①京都第一日赤昼11:30来院。
    ②血液検査の結果、血漿板が1000(通常は450000~150000)しかないことが判明。血液内科(岩井医師:血液内科担当医)で骨髄採取(2箇所)。入院指示。準備。各方面に連絡。
    ③東棟501(個室)に一時的に入院。血小板20単位輸血(承諾書あり)。
    ④特に自覚がないだけに不思議な気分。   

6/5火 ①朝血液検査。血小板回復せず。
    ②ステロイドによる治療しかない。やむなく合意。最大3ヶ月、最小1ヶ月はかかると指摘される。ステロイド(経口薬)と抗生物質(点滴)の両大量投与による免疫の抑制と最近対策。以下同じ

6/6水  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:1000]  
6/7木  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:2000]
6/8金  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:2000]
6/9土  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:5000]
6/10日  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:5000]

6/11月  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:20000]
6/12火  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:20000]
6/13水  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:20000]
6/14木  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質点滴朝昼夜:3本 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(以上6月14日まで)、血小板数:29000]
6/15金  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 本日から点滴終了変わって:抗生物質クラビット100mg3錠 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1、血小板数:29000]
6/16土  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 本日から点滴終了変わって:抗生物質クラビット100mg3錠 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1、血小板数:29000]
6/17日  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 本日から点滴終了変わって:抗生物質クラビット100mg3錠 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1、血小板数:29000]

6/18月  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:70000]
6/19火  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:79000]
6/20水  [ステロイド(プレドニン):12錠60mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:79000]
6/21木  血液検査[ステロイド(プレドニン):12錠60mg(本日まで) 抗生物質クラビット100mg3錠 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1、血小板数:94000]
6/22金  [ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日6/22から6/28まで)血小板数:94000]
6/23土  [ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日6/22から6/28まで)血小板数:94000]
6/24日  [ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日6/22から6/28まで)血小板数:94000]

6/25月  血液検査[ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:100500] 
     ①外出許可(13:30~17:30)・文教授業(考古学A 第8回)
6/26火  [ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:100500]
6/27水  [ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1 血小板数:100500]
6/28木  血液検査[ステロイド(プレドニン):10錠50mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1、血小板数:100000]
6/29金  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで)]
     ①眼科(桑原医師)受診。継続診療を依頼。②7/1311:30 再診 視野検査。
6/30土  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:100000]
7/1 日  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:100000] 

7/2 月  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:?]
     ①血液検査・退院 
7/3 火  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:?]
7/4 水  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:?]
7/5 木  [ステロイド(プレドニン):8錠40mg 抗生物質・クラビット錠100mg:3 その他副作用対策のがスターD錠:1、ジフルカンカプセル錠:2、バクタ錠:1(本日から7/5まで) 血小板数:?]  


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東山通信-3  桓武天皇陵が「桃山城」だとえらい遠いなーと思ったの条

2007-07-04 18:10:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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はじめに独り言(20070704記)

久しぶりの授業で昨日はすっかり疲れてしまった。たった一コマの講義形式の授業と演習一つ、四年生の卒論指導を夕食を共にしながら1時間余。
今日から心を改めて毎日家に帰り、風呂に入る!と決めたものだから、バスに乗って帰宅。何と9時には部屋の畳にへたり込んでいた。情けないことに足が浮腫んでいて座れない。やはり一ヶ月というのは長かったんだ!と改めて思う。それにしても軟弱者め!


(以下、20070628病棟にて記)
 6月20日我が親友(宿敵ではなかったの?)山田邦和博士がわざわざ病室を見舞ってくださった。それも聞くところによると、午前中の面会時間外にも来られたのだとか。部屋が判らず、受付で聞くと、時間外だからと結局追い返されたとのこと。お出でいただくだけで恐縮次第なのに、授業と従業の合間を縫って二度も。申し訳ありませんでした。この御礼は必ず「出所」後に!!

 ところがそのお詫びの言葉の舌の根も乾かないうちに、今回は山田博士の桓武天皇柏原陵「桃山御陵説」は違うんじゃない?!というものなのです。怒るやろなー!

 実はこれ、今回の入院の一大成果(また、大袈裟な)の一つなんです。倒れてもタダでは済まさない!受領国司のような性格ですね。執念深い私故の成果かも知れません。もちろん東山の懐に「収容」してくださったお医者さんには大感謝しています。
 皆さんで京都の地図(何でもいいですよ)みて下さい。第一日赤は平安京の南限、九条大路が鴨川を越えて東山にぶつかるその地点にあります。


(毎日毎日二つの病棟を行ったり来たり、みんな変なおっさんと思ったに違いない。真ん中の杉木立の右手に米粒のように見えるのが「桃山城」桃山キャッスルランドの廃城の跡)

 いつも真正面に東寺の五重塔が見えるんです。周囲には京都五山の中心東福寺の大伽藍が広がり、毎日、屋上からその屋根を眺めています(でも今の東福寺は何度も焼けて、結局見えている建物は近代の再建物。本尊も近くにあった院(現寺院名万寿寺)から移したものだとか、その他の古い物も大半がここからの移設だという。

 さて、問題は桓武天皇柏原陵の位置です。

 復習しておきますと、桓武天皇は延暦二十五(806)年三月十七日亡くなります。当然その埋葬地は既に決まっていたはずです。ところがここで、不思議なことが起こります。山城国宇太村の地に葬ったことに対して賀茂の神が怒り、あちこちで不審火が生じているというのです。あの桓武天皇ですよ、どうして賀茂神が皇帝の墓で文句を言うんですか?それもえらく離れている。この辺りから怪しげな空気が広がります。
 やむなく改葬し、新たに葬った場所が山城国紀伊郡柏原野だったのです。ところがこれだけの天皇の墓でありながら地上にその痕跡が残っていない?のです。そこで、皆さん、あれやこれやといろんな材料を集めて類推いたします。尊敬する山田博士は平安京葬地研究の第一人者です。当然御高論が編まれたわけであります。

 但し、結論だけ記すとちょっと物足りない。いえ、悲しい、寂しい。

 「証拠のあるはずの物がないというのは何処かで誰かが完全に壊したからではないか」
 「その犯人こそ、あの豊臣秀吉である!」
 「つまり桓武天皇柏原陵は現在宮内庁管理下にあり、中にはいることすらできない旧桃山城その地なのである」

 あまりに簡略し過ぎて博士に叱られそうなのだが、さすが考古学者、あくまで考古資料にこだわり、これの消去法で至った結論である。

 「ウーン、ちょっと待って!考古学の証拠が本当に全くないのか、それ以外の視点で検討はできないものか・・・・。」

 なにせ私の現住所は京都市伏見区深草僧坊町96-3、知る人ぞ知る藤原良房建立になる貞観寺跡地内なのです(但しこの地は私の妻の出生地、私は京都市内を転々とした流れ者)。時折行かされる犬の散歩が苦痛で、嫌で嫌でなんか口実を作ってはサボるっていたのですが(元々僕が好きこのんで連れてきた犬ではない!!息子が世話をするからという条件!なーんにもしよらん!!)、事情で、最近はできるだけ手伝うことにしたのです。
 折角だから時々この周りを歩くか、ということで、そこで見た風景が私の目を釘付けにしました(この辺りのこと以前にも報告したことがあり重複しますがご辛抱を)。直ぐ横(歩いて5分)の丘の上(この丘の麓がまた、嘉祥寺)に登ると真正面に長岡京が見えるのです。
 「何とようみえるんやなー!」
 「クソ!あの憎たらしい日本電産のビルまで見えよる」
 「オッツ、あれは淳和天皇大枝西嶺陵ジャンか」
 「ふーーん」
 「そういえば山田さんが桓武天皇の墓はこの辺じゃなく、「桃山城」や言うとったな、何でやろ?」

 ま、こんな感じで始まった私の柏原陵探しでした。大したことはなかったんです。ところが改めて山田博士の論文を読み返して、どうも解せん!虫が動き始めました。

 何で桃山何や?

 やっぱり王権ゆかりの地は深草じゃろ!

 そういえば、確か長岡京後半期に詔が出ていた。

 そうか、この地は長岡京時代から注目される場所やったんや。何でかな?

 オッツ、ひょっとしたら柏原陵と関係ないやろか。最近関大の西本昌弘さんによって、桓武遺称を巡る問題点が明かされていた。平城天皇が桓武の意に逆らって皇位継承を進めようとしたことがその中心である。晩年、桓武と平城の間に隙間があったことはよく知られている。薬子問題がその中核である。桓武の死を以て、平城はようやく自らの手で政治を展開することができた。直ぐに桓武遺称を廃棄し、息子への皇位継承を準備したとされる。その過程で、桓武遺言に基づかない宇太村埋葬があったとしたら・・・。

 桓武は元々どこを選んでいたのか?もし選ぶとしたら何が基準になるのか?

 東山を眺めながら、そして「桃山城」を遠くに拝し、ここしかない!と確信を持ったのです。

 『日本紀略』延暦十一年八月四日条によると、長岡京廃都の詔が出る五ヶ月前、不思議な禁令が出されたことが知られる。禁令は短く「禁葬埋山城国紀伊郡深草山西面縁近京城也」とだけ記す。六月には皇太子安殿親王の病を占うに早良親王の祟りとのト占結果が出、王権内部では遷都に向かって準備段階に入っていた時期だと考えられる。その時期に長岡京とも新都(平安京)とも離れた深草の地がどうして「近京城」だとして問題視されたのであろうか。「深草」と「埋葬」のキーワードから直ぐに思い浮かぶのが『日本後紀』大同元年四月七日に「葬於山城国紀伊郡柏原山陵」として改葬された桓武天皇陵である。
『日本後紀』によれば、桓武天皇は延暦二五(八〇六)年三月一七日に亡くなり、翌一八日には葬儀の次第が決められ、一九日に山陵を山城国葛野郡宇太野に決定する旨の詔が出される。ところが決定直後から宇多野周辺で不審火が相次ぎ、二二日には京中が煙によって視界が開けないほどになったという。ついに二三日に至り山陵地を占ったところ「賀茂神祟」とでる。賀茂神は王権との関係の極めて深い神である。その上、賀茂神の所在地と宇太野ではかなり位置関係に距離があると思われる。何故賀茂神が祟るのであろうか。王権を守護する神を持ち出すことによって山陵の決定に異を唱える政治的な動向を読み取ることはできないであろうか。つまり、改葬先は紀伊郡としか書かれていないが、「山城国紀伊郡(深草山)柏原野」だったのではないかという仮説からの出発である。深草山こそ桓武が自ら選んだ寿陵の地だった。その地は長岡宮城の真東に位置し、新京を見守ることもできる。そしてさらに想定したのが、東山の裏(東北)に所在する天智山科陵である。「深草山」がどれかは判らないが、この三条件を満たすところに桓武陵が眠る。それこそ病院の南東に一山頭をもたげて居るのが見える

「稲荷山」!!


(こちら(平安京方向)から稲荷山を見るとまるで唐の山稜のように台形をしている。これも意外な発見だった)

ではないか、どう見てもあの遙か彼方の「桃山城」とは思えないのである。ここでは余りに桓武が可愛そう! (続く)

********

 ところで今頃気付いたのだが、この一ヶ月がやけに早いのである。普通元気な者が病院に入ると退屈で、退屈で、という。ところがそんな感覚に全く襲われないのだ。だからといって持ち込んだパソコンを四六時中眺めているわけでもない。皆さんの忠告を聞いて控えめにしている。原稿ガンガン!というのは嘘っぱちで、ちっとも進まない。ところが何とも不思議なことに焦らないのである。再開後の授業のためにレジュメを用意しようとするのだが、ゆっくりなのである。思考が進まないと言うより、ゆったりなのである。
どうしてだろう?

 先ほどトイレに座っていて気付いた(なにせ今の最大の健康問題は、便秘!!)。

「ク ス リ」(ス テ ロ イ ド)

 そうに違いない!こいつが何かに働いて、スローモーにして居るんだ!だから気付くと直ぐに昼!、夜のご飯!消灯!!早いの何のって、あっという間の一ヶ月だった。(20070628記)

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東山通信-2  「やっと帰って来られました!」の条

2007-07-03 00:50:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 ここ第一日赤は私の生まれ「故郷」です。つまり「オギャ-」といって出てきたところです。そこに58年と8ヶ月15日ぶりに戻ってきました。(笑い)
 
 毎日毎日病室の屋上から東山を眺めています。晴れの日、曇りの日、雨の日、霞んでいる日等々、貌、形を変える三山の姿、少しだけ趣を変える京の町並みをボーッと眺めています。京都がとてもゆったりと流れています。こんな緩やかな時間を過ごすのはおそらく生まれた時以来のことなのでしょう。いかに日常が忙しいか、よくわかります。

 病棟は五階にあり、そのまま屋上に出られるので、とても便利!?結構昼でも風がよく通って気持ちがいい。最初は何気なく眺めていたのですが、退屈しのぎにカメラを取りだし、比叡山、愛宕さん、西山と見える範囲の山々を写すことに。そして直ぐ横が東山。

 「東山三十六峰静に眠る丑三つ時」のあれ。南半部が実によく見えるのです。あれが京女で、あの向こうが火葬場、清水さんは見えないが、その向こうだよな・・・、そうそう、この前吉川さんが歴博で披露してくれた坂上田村麻呂墓である西野山古墓は確かこの辺だよな・・・・。
 僕は生まれは平安京右京五条一坊十二町だからまさに都の中心なんですが、親父の放浪癖で市内を転々として、結局、小学校四年生から結婚するまで山科の北東隅に住んでいました。だから、山科のことにはそれなりに詳しい。なにせ、迷門!山科中学→洛棟高校ですものね(彼の歴博のHK教授こそ我が高校の先輩であることは結構有名になりつつある?)。西野山は冬のマラソンコースで中学の体育でよう走らされた!特に年に一度のマラソン大会はまさに西野山古墓の眠る滑り石まで上がらされる!!

 早く読みたいな、吉川論文!

 そのうち、あまりの退屈さに、冒険に出かけることにした。当初は売店にすら行くなと言われていたのだが、血小板の数が増え出すとそれもなくなった。そこで、隣の病棟へ。もちろん全て迷路のように繋がりあっている。当てずっぽうに出たのが敷地の南に建つ病棟。屋上に上がって仰天!東福寺以南の東山、つまり我が家も含めた稲荷、深草、桃山が一望できるのです。さらに目を転ずると、南の男山、天王山、西山連峰。もちろん淳和天皇陵の推定される西嶺山稜がばっちり。

 必死でシャッターを切りました。毎日毎日どの様に見えるのか、見えないのか、をじっくり観察したのです。もう一度地図を手元に置いて、地形も分析してみました。特に意外だったのは、桃山城(もちろん今見えるのは偽物の廃止された桃山キャッスルランドの残骸)でした。よくは見えるのですが、えらく遠くにぽつんと見えるのです。目立つが、遠いなー。

 こうして「東山観察会」が始まったのです。その先に見えるものは、もちろん宿敵!山田邦和博士の桓武天皇陵論!!

 東山通信の名前の由来です。次回をお楽しみに(誰もしてない?ア ソー)
(270623記)


 やっと先ほど帰らせていただきました。刺身を食い過ぎて、お腹が相撲取りのように膨らんでいます。折角ビールを飲んだのですが、1ヶ月ぶり!(そういえば最後のビールは國學院大學の鈴木先生と飲んだ東京駅近くのデンマークビ-ルだった。)とても苦くて、1本飲むのがやっと!これから「打ち上げ」もやるつもりなのに大丈夫かな?なんて今のところ余裕のyaaです。しばらく東山ネタをお楽しみ下さい。(20070703記)

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