yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

奈良国立博物館大遣唐使展の条

2010-05-24 09:08:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 23日(日)は大雨だった。しかし、1年生の授業であるオリエンテーションセミナー(公式にはスタートアップセミナー)で12人の一年生を案内するために10時に大和西大寺に集合して平城遷都1300年祭を見学した。

 ところが予想通りというか、不安が的中し、次々とメールが入ってくる。
 まず第1号は寝坊して電車に乗り遅れ、今から出ると終わった頃しか行けませんという(「もう来んでもいい!!」、と返信)、第2号が、私の移動中の電車に、乗り換え電車に間に合わず、5分ほど遅れるという軍団(仕方ない、待ってますと返事)、そして極めつけ第3号は、その同じ電車に乗っていながら、もう一度の乗り換え電車に乗り遅れたという者(着いたら電話してと返事)、結局指定の電車で無事着いたのはたったの4人。携帯というのは便利過ぎてこういうずぼらな現象を生み出す。
 雨も降るし、置いていくとどうなるか判らないし、しばらく待って軍団と合流、もう1人の二度遅れは仕方ないから携帯で指示しながらまずは平城宮跡資料館へ。

 何度見てもあまりいい展示とは思えないが、ま、学生には自由に見学して今度の授業で報告して!と伝える。

 ところが後で判ったのだが、一緒に行った内の学生の証言によると、資料館の売店で「かりんと」を売ってましたよ」という。「エッ??」「但しせんと君が寝転んだ絵の変な弁当箱に入っていて1000円もするんですよ。だから買いませんでした」「1000円!!なんじゃそれ!」いかにかりんと好きの我が研究室の学生でも買えなかったのだ。それにしても商売根性丸出しの値段!このイベントを企画している人々の類が想像付くというものだ。庶民のお菓子、かりんとを馬鹿にしている!!

 と怒りを胸に、中央区大極殿を経て東区大極殿へ、そしてこの度特別名勝になるという東院庭園へ。ここで途中合流した関西大学の学生による遺跡の説明が・・・。3年生の報告ならこんなものかということで、時間をとられたが遺跡へ。

 とにかく雨がどんどん降ってきて、そろそろ足下がやばい!と言うところで、朱雀門へ。ここで学生達とはお別れ。大半は西大寺経由で家路についたが、希望者を募って「大遣唐使展」をやっている奈良博へ。無料シャトルバスに乗ろうとすると、ナナナント、前回のようにイベントをやっているときとは違い、45分に1本しかバスが来ないという。大慌てでバスの列へ。ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗って近鉄奈良駅へ向かう。

 その「大遣唐使展」だが、とにかく高い!!一般1400円、学生1000円。中に入ってもっと驚いたのが図録2500円。せめて学生はこの半値にしてやればいいのに、と憤慨。博物館に来ようという学生は希少価値なんだから、彼らの意欲を割くような商売根性にまたまた腹が立った。

 展示はと言うとこれがまた何とも言えぬちぐはぐ。第1会場と第2会場に分かれていて、前者が正倉院展の会場を半分使い、後者が常設展を片付けてこの特別展の会場として使っている。第1会場には宣伝に使われている「吉備大臣入唐絵巻」や薬師寺聖観音菩薩立像がゆったりと、展示解説も黒をバックにした白字をライトで浮かび上がらせるいつもとは異なるスタイルでなされている。入口には青いライトに怪しく浮かぶ和同銀銭があり、正倉院展とは違うな、と思わせるのだが、それはここだけ。

 この展示会NHKが主催者の1つである。「吉備大臣入唐絵巻」を見て気がついた!!そうなんか、これに人を入れるためにあの陳腐なドラマを仕立て上げたのか。何で今頃急に吉備真備なんかと思っていたが、ボストン美術館からこれを借りだしてきて、大金がかかるから、この展示に人を入れるための工作だったのか!と。なんだか利用された絵巻が可愛そう。それにしてもこの展示にはストーリ-が全くない。おそらく学芸員の意見なんて通らなかったのだろうな。イベント屋があの中途半端な「わかりやすさ」を武器に押し切ったのだろうな、と思わせる展示だった。

(この会場で一番腹が立ったのが、遣唐使の流れを大きく変えた光仁桓武朝の遣唐使の意図が全く示されていないこと、そしてなぜか飛鳥から平安までの都を中心とした瓦が並べてあるのに(この瓦コーナーも突然現れて違和感だらけだった!この展示そのものが何のためにあるのかさっぱり理解できんかった。)長岡京がない!!ホント、権力的な展示スタイルが貫かれている。悲しい)

 ついついここで時間をかけてみてしまう。さて第2会場とは何か?と歩いていくといつもの常設展の方ではないか、「何や常設展か?」と思いながら会場に入ってびっくり、常設展のケースを使って所狭しと国宝だの重文が大行列しているのである「エエッ!こりゃ間に合わん!」ほとんど解説を読む暇もなく次々と現れる国宝にびっくりしながら駆け足で閉館のチャイムの鳴る会場を後にした。

 みんなに「感想は?」と聞いても、多すぎてみられなかった!で一致。最低4時間は要るな!と言う意見で一致。4時間かけないと見られない展示などというものを1回1400円で開催する主催者の意図がわからない。遣唐使に関する資料をとにかく集めたということだけはよく判る。その大半が国宝だの重文だから見学者は文句をイワンだろうという展示者の意図も透けて見える。基本的に豪華主義、珍しいもの主義。これって日本を代表する「博物館」の展示なのだろうか?と大いに疑問を持ったのだが・・・。

 平城宮跡資料館にしても、この大遣唐使展にしても、所詮、学芸員の意見など聞く耳持たぬ「イベント屋」の商業主義に席巻された企画なのだな、と実感した。しかし、学芸員がそれに負けていてはその存在感がなくなる。なんとか真の学芸員を日本に定着させたいものだと、改めて思った一日でもあった。

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かりんと物語其の1の条

2010-05-22 13:39:47 | yaasan随想
 かりんと

 我々団塊の世代以前のおやつの定番!と思っていた。

 ところがである。我が研究室の学生達はこのかりんとが好きらしいのである。

 どうして判るかって?!

 私が買ってきて食べ残したかりんとを結構よく食べているのである。

 「うん?! 君らかりんと、好きなの?」

 「ええ!」

以来我が研究室にはかりんとが常備されることになった。誰かがコンビニに買い物に行くとき、

 「先生、かりんと買ってきましょうか?」と一言あるのである。

 私は「かりんと」と「う」を入れないのだが、ネットでは両方あって、Wikipediaには「かりんとう」として次のようにあった。
かりんとうは、小麦粉を砂糖・水・イーストや、食塩、重曹などと共に練り合わせ、棒状に成形してつくった生地を植物油で揚げ、黒砂糖や白砂糖でつくった蜜でからめて乾燥させた駄菓子の一種である。花林糖と当て字で表現する事もある。かりん糖という表記も多い。 類似した製品としては奉天、かみなり、黒ねじといったものがある(Wikipediaかりんとうから)。

 ところで私は実は子供の頃はかりんとがあまり好きではなかった!
 第一にかすかすしていること、第二に、甘くなかったことがその理由であったと思う。 
 実は、母が買ってくるかりんとは甘みがもう一つで、基本的に生地の部分ばかりが目立ったお菓子だったのである。おそらく安物買いの母が、あまり糖分がかかっていないものを選んで!!買ってきたからだろう。

 ところが、成人して働き出し、ある時食べた「黒砂糖のかりんと」の美味しかったこと!!子供の頃から「大きくなったら黒砂糖を食べてやるぞ!!」と心に決めていた私にとって、黒砂糖で来るんだかりんとうは絶品に思えた。
 
 「これ、ホントにかりんと?」と疑ったものである。

 以来、人目を忍んで、黒い(焦げ茶色)のかりんとうを食べるようになったのである。

 →そもそもが私は甘党である!しかし、社会では酒を呑まなければならず、仕方なく大して美味しいと思うことのない酒を呑んできたのである。だから人は勝手に辛党と思いこんでいる。しかし、大学に来てからあまり(ほとんど)呑みたくない連中と呑むなぞという習慣から解放された。だから新年宴会もないし、忘年会もない。新任の先生の歓迎会すら時々忘れ去られることがある。ある面不思議な「社会」でもある。イヤ一般社会ではない空間なのである。

 但し、私にとってはこれほど有り難いことはない。だから、大学で呑むのは、学生達が(私の資金を頼って)誘ってくるささやかな宴会と、ごく親しい友人との間の飲み会になったのである。

 すると、本性が見えてきて、合間を縫ってアイスだの、ケーキだの、かりんとだのを、学生に「お土産」と称して、実は自分が食べたいので買ってくるようになったのである。

 我が研究室のお土産は①黒砂糖かりんと、②ハーゲンダッツのアイス、③ソフトクリーム、④ケーキ、⑤お持ち系お菓子プラスいい香りのコーヒーでお願いしたいのである(何、土産なんか持って行かん!と・・・)。

 と言うわけで、今や研究室中で有名になったかりんと好きの私のために?(自分達のためかも)全国各地から??いろいろなかりんとが集まってくるようになったのである。そこで、時々新しいかりんとが手に入ったところでそれを味と共に紹介しようと思うのである。題して「かりんと物語」

 その第1回の栄えある?紹介にあずかるのが、静岡は清水港の「桜えびかりんとう」である。
 ↓これね。



 ナナナント、桜えびかりんと登場.やはり「かりんとう」と書いてある。関東はこうなのかな?



 袋裏

 また遺跡でも見に行ったのか?とお思いかも知れませんが、これは今年の春卒業した学生が土産だと言って届けてくれたものである。何を好きこのんで清水港まで行ったのかは知らないが女5人?が大阪だの、岐阜だの、三重だの、静岡だのから集まって車で行ったと言うから「けったいな」連中である(あ、ごめん!)。

 ポピュラーなのはこれ ↓


 駿河湾のお土産「桜えびせんべい」

要するに海老せんべい。これはだいすき!しかし桜えびかりんとうは流石にまずいのでは・・・。恐る恐る口に入れたが、これが意外といけるのである。桜えびの海の味と、糖分が入り交じって、海老せんべいとかりんとの両方を食べているような得した気分になれるのである。もちろん学生達の評判も上々!

 そこで、「先生、かりんとのブログやって下さいよ」ということになたわけである。急いで研究室の学生の買い置きのお菓子箱を覗くとこんなのがでてきた。


 これは一の宮から通っている3年生のM君がもたらせた新種かりんと。私はまだ味あわせてもらっていない。早く食べたいな!M君!!

 実はこの前の壬申の乱ウオークで多度を歩いたときに珍しいかりんとを頂いた。参加してくれた三重大学考古学研究室志望の某高校の愛称「ももちゃん」がお母さんに持って行けと言われて頂いた「緑茶かりんと」がそれだ。その時はまさかかりんと話がこんなに受けるとは思わなかったので写真を撮っていなかった。おまけにその袋を某博士にあるものの包装用に差し上げたので、袋も残っていないのである。だから残念ながら映像で紹介できないのである。ももちゃん(お母さん)ごめんね!


 これがコンビニ蜂蜜かりんと

これは原始時代の「かりんとう」?? はは、答えはまたいつか・・・。



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葵祭と共に逝かれた奥様のために素敵なご挨拶

2010-05-16 18:32:07 | yaasan随想
 昨日の京都は葵祭の観光客で大変な人出だった。
 その賀茂社に近いご自宅で朧谷寿先生のご夫人の葬儀が営まれた。

 私達「10年会」の面々にとってその核たる先生を支えてこられた奥様。お会いして親しくお話しをさせて頂いたのは一度しかないのだが、その大きな包容力は一度で十分に知ることができた。先生との会話で度々登場する柴犬達とのユーモラスな日常、そして最近は庭に住んでいる亀さん達との何とも微笑ましいお姿、語り手である先生の軽妙な口調が余計にそうさせるのであろうが、お人柄を知り、勝手に親しみを感じていたのである。

 その奥様が年末に少し調子を崩されたと聞き、気にしていたのだが、今年になって病状がとても厳しいと判った。何とか先生を励まそうと一同が集まって小さな食事会をした。久しぶりの気の置けない「仲間」との会だったからだろうか、少し元気になって頂けたような気がする。

 私達も機会ある毎に一緒に様々な形で祈り、方策を練った。特に漢方でもって、少しお元気になられてご自宅にもお帰りだと伺いホッとしていた矢先のことだった。12日に様態が急変しお亡くなりになられたと聞いた。これが運命というのだろうか。あまりに短い闘病生活であった。同じ病に冒されている友にとっても厳しい結果であった。

 そんな奥様のご葬儀の最後に先生が淡々と、しかし、本当に心のこもったご挨拶をなさった。15分以上の時間だっただろうか、きっとご挨拶としては異例の長さだったろうが、聞いている私達はもっとお話しして頂きたいと思った。

「いつまでもお話し続けて下さい!」と念じながらお話を聞いた。

まるで奥様の人間史をかみしめ、振り返り、その暖かい日々を噛みしめておられるかのように奥深く、心のこもった、とても素敵な「お話し」だった。きっと先生もまた、このままずっと話し続けていらっしゃりたかったに違いない。そして私達もまたずっとこの素敵な人間史に聞き惚れていたかった。こんなご葬儀があるだろうか。

 快晴の葵祭のその日、賀茂の新しい神となって旅立たれた奥様に、ただただ御礼申し上げるのであった。


 賀茂祭り 神化し逝くは 朧月

 

平城遷都1300年祭会場見学の条

2010-05-12 21:17:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 5月9日に平城遷都1300年祭の会場に行ってきました。
 学生を連れて行かなければならないのでその下見です。 
 かなり馬鹿にしてたのですが、見ようによってはなかなか面白い空間ができあがっていました。
 是非一見あれ!!



大和西大寺駅の南口には広大なバスターミナルができ、シャトルバスの運行拠点となっている。ところが、大和西大寺北口から徒歩15分としながら、その徒歩の道は相変わらずの危険一杯の路側帯を歩かざるをえない状況なのだ。

 たった数十メートルの歩道を整備するくらい朝飯前のはずだが、どうして昔のままなのだろうか。

 同様にして平城宮跡資料館もまた何のためのどんなコンセプトの改修だったのかさっぱり判らないのである。入口と出口が入れ替わり、バリアフリーができ、えらく内部が白く綺麗になったのはいいのだが、トイレは和式のまま。こんなので外人さんが来たらどうするのですかね。



新しく入口になったらしい南の玄関?



 そのロビー

 
 資料館の展示も酷いものです。これならよほど前の展示の方が筋が通っていて良かった!金と暇をかけて悪くなったとしか思えないのである。そもそもがこの資料館には専門の学芸員がいない。学芸員資格は持っていらっしゃるのかも知れないが、所詮研究者の片手間である。そんなことで本当にちゃんとした『博物館活動』ができるとはとても思えないのである。

 研修を受けて展示解説をなさる「ボランテア解説員」の熱意は判るのだが、所詮学芸員ではない。なぜこの展示が為されているのか、その主旨は何か、様々な問いにきちんとした裏付けで答えられるのか?疑問である。

 もちろん、一般の方はそんなに難しいことは求めていない!!と仰るだろう。だがしかし、もっと工夫はできるはずだ!!



 なぜか長岡京遷都から展示が始まっている??判らん!!!



 変わらぬトイレ。この後ろにある便器は和式のままだ。



 ちんけな制服?を着せる金があるのなら、トイレくらい直せるだろうに。
 売店の品揃えも相変わらず中途半端。結局何がしたいの?と言いたくなる。


 
 最初に大極殿院の模型が置かれているのはこの後現物を見に行く方には大いに参考になるのだが・・・。みなさんそのことを十分理解されているのだろうか?



 最近どこにでもある作業風景のジオラマ?



 これまでは各ケースにテーマがあったが、今回はなが~いケースにだらだらと遺物が並んでいる。



 愛想もクソもないパネル。





 唯一許せるのがこの宮廷生活の復原くらいだろうか。なかなか豪華そうに見えるのは、ま、見学者に少しだけインパクトを与えているようにも見えた。







 資料館でちょっとがっかりして外に出たのだが、さすが大極殿の迫力は素晴らしかった。



 大極殿院は想像通り広大な広場だった。たまたまこの日はイベントのコンサートの真っ最中!その大音響の音楽も吸収してしまうくらい広々としていた。



 会場内には遺跡と遺跡を結ぶ電気自動車が走っている。聞くところによると高齢者しか乗れないそうだ。



 いろいろなパビリオン?が軒を並べている。資料館のトイレは旧式なのにこうしたパビリオンの近くのトイレは簡易水洗だが洋式だ。







 会場内各所に地図が置かれており親切ではある。



 中に入ると高御座が置かれていた。





 鴟尾の復原もなかなか好評だった。



 大極殿内部には若干のパネル展示が為されていた。



 これまで寂しく建っていた朱雀門がようやくその存在感を増して真正面に見えた。



 東区大極殿は真新しい中央区大極殿ができあがってみると随分汚れていて、悲しそうだった。その上、段上には防止策なのか?ちんけな柵が基壇上面を巡っていた。外国では少々の段差など気にせずにそのままになっている。落ちてケガをしても自己責任ということだろう。何で日本はこんなに過保護なの!!と言いたい。



 東院の北西では発掘調査も行われていた。その現場に置かれた調査状況の説明白板??



 どうせならもう少し親切に書いて欲しいな!




 久しぶりに訪れた朱雀門。やはり大極殿ができると可愛らしい。



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第17回壬申の乱ウオークin石占頓宮を歩く報告2柚井遺跡の条

2010-05-10 09:00:00 | 久留倍遺跡を考える会
 後半は山道を歩いて多度神社をめざしました。途中神宮寺跡付近からの三川の眺めは絶景でした。

 柚井遺跡は平安時代前半代における陸路と水路(揖斐川の水運)の交差する交通の最重要地だったと確信しました!!人々の集まる地で、度々「まつり」が執り行われたのでしょう。その祭りの対象が多度山であったのかも知れません。




 柚井城は立ち入り禁止だった。残念。



 神宮寺へと歩く途中、こんな絶景に出くわした。多度神社が三川を大いに関係する「神」だったと判る。この地からだと多度の地の港としての機能がよく判る。



 多度神宮神宮寺跡に建つ愛宕神社。石神さんの話によると、元はもう少し上の山腹にあったものを、明治の廃仏毀釈によって神宮寺が廃絶すると、この地に遷されたのだという。



 その鐘楼の跡。



 興ざめの観音堂。多度神社の商売根性丸出しのこの左隣の鉄筋の建物、この奥の本殿に向かってコンクリートの山が続く。悲しい!!



 神輿庫が公開されていた。



 神馬



 そして本殿



 かつての神宮寺は多度神社の参道横に再建され、今は付近の山中から出る石塔などが集められている。



 そして柚井遺跡へ。これが当時写された柚井遺跡調査時の写真と同じアングルで山側に近づいた写真。



 この辺り一帯にまだ沢山の木簡が眠っていると思うとワクワクする。
 それにしても柚井遺跡というのは山裾にぴったり付いた立地なのだということを改めて知る。この南に榎撫駅があるとすると、揖斐川沿いにまるでリアス式海岸のように山の出入りがあり、その地を利用して港が形成されていたことになる。とても興味深い地形だった。



 この後養老の滝へ向かったのだが、その養老鉄道での車窓から柚井遺跡を撮影してみた。当時はおそらくこの地は川と海の合流部(揖斐川河口)だったはずだ。



 そして養老の滝へ。ここは3月に訪れたばかりだったが、前日の雨で水量が増し、より迫力があった。



 激流は続く!



 そして美泉へ



 近くのボタン鍋やさんでは処理されたばかりの猪が。



 そして鹿も。

疲れましたが、とても充実した一日でした。久留倍遺跡を考える会のみなさん、そして参加された市民のみなさん、そしてそして何よりも御案内下さった桑名市教育委員会の石神さん、有り難うございました!!大感謝です。

 是非柚井井遺跡を訪ねてみたいなと思ったら、養老鉄道を利用して大垣から多度、または桑名から多度へ!!こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


第17回壬申の乱ウオークin石占頓宮を歩く報告1の条

2010-05-09 07:37:40 | 久留倍遺跡を考える会
 第17回壬申の乱ウオークin石占頓宮&榎撫駅探訪の巻

 17回になりました。毎年欠かさず4回やっていますので、5年目に入ったと言うことですね。目標は50回なんですが命がもつかしら(笑)。



 毎回参加して下さる市民のみなさん。何とこの中に89歳の方が!どの方か判りますか?とてもお若い。61歳で老け込んでいては笑われる。

 今回は聖武天皇が740年11月24日に宿泊した朝明頓宮から、翌日に入った桑名郡石占頓宮に至るコースを見学し、歩きました。
 
 石占頓宮の場所は未だに判ってはいませんが、この間の探訪でおおよその見当がついてきました。今回も訪れる予定になっている「尾津」神社!この名称の由来は東海道伊勢国北端の「榎撫(えなつ)駅」ではないかと考えられています。聖武天皇の伊勢行幸は、基本的に国郡レベルの地方官衙が利用されていることが判明してきました。榎撫駅家はまさにそうした施設の一部だったのではないでしょうか。

 この榎撫駅家の推定地である多度町戸津(現桑名市)の北にあるのが柚井遺跡です。1928年、私が生まれる20年も前に、この柚井の一角で行われていた耕地整理事業の際に大量の遺物が露出していることが地元の郷土史家伊東富太郎のところへもたらされました。その後同じ郷土史家鈴木敏雄や林魁一なども加わって多くの遺物が採集され、断面図や遺物の出土位置の記録、写真撮影などが行われました。この中に墨書のある木簡が2点(木簡状木製品が1点)あったのです。



 日本で初めて発見された木簡の出土地、柚井遺跡に近い宇賀神社から多度神社までを歩きました。

 発見場所は当時の三重県桑名郡多度町一番割ですが、書かれている内容は

「v櫻樹郷□頭守部穎代籾一石□五百□v」(皇學館大学史料編纂所『皇學館大学史料編纂所蔵 鈴木敏雄氏遺稿・旧蔵資料目録』(1991年)岡田登解説)等、かつての美濃国石津郡櫻樹郷から守部が穎稲籾1石を送ってきた荷に付けられていた荷札木簡です。石津郡櫻樹郷とは現在の大垣市上石津町付近と推定されますから小河川から揖斐川に出て舟運で籾を運んできたものでしょうか。柚井遺跡の南には戸津という地名もあり、榎撫駅の名称などからこの辺りに揖斐川の港(津が置かれていたことが判りますから、まさに水陸交通の要所だったのです。さらに興味深いのはこの地は伊勢国と美濃国の国境にも近いと言うことです。駅家設置のあり方とも一致します。しかし、出土した資料の大半は平安時代前半の灰釉陶器や須恵器、祭司遺物などです。いったいなぜ櫻樹郷から1石もの籾が送られてきたのでしょうか。そんな様々な疑問、課題のある遺跡一帯を歩くことができました。



 駅前は早くから沢山の人で埋まっていました。多度神社の祭礼以外でこんなに人が集まるのは初めて?!



 現在は桑名市になってしまいましたが、この旧多度町は自然の残るとてもいい町です。和種のタンポポが沢山咲いていました。

 当日は前日の大雨が嘘のように止み、晴れ上がった最高のウオーキング日和で、200人近い方々が参加して下さいました。

 私達は江戸橋7:15分発の急行に乗り桑名へ、8時04分発の養老鉄道で多度駅に向かいました。到着した多度駅には既に50人ばかりの参加者が待っておられました。



 まず最初に多度駅の踏切を渡って直ぐの尾津神社へ。尾津神社は二つあり、こちらの方が地形的には「尾津」という名前に相応しい位置にある。

 当日の主な見学地は 尾津神社(1)→かしらこ塚→尾津神社(2)ヤマトタケル歌碑→宇賀神社(柚井遺跡説明)→柚井城跡→多度神宮神宮寺跡→愛宕中世墓群→多度大社→多度駅でした。



 戸津という地名は当然榎撫駅から来ているのだろう。この辺りは近世まで三川の旧河口部に当たり、これを渡るための渡しの置かれたところであった。



 かしらこ塚へ伊勢平氏ゆかりの地だという。



 二つ目の尾津神社へ。こちらこそ「戸津」神社とでも言うべき位置にある。

 ご案内は桑名市教育委員会の石神教親氏で、細い路地を通り抜け、神社の横の地道を抜け、次々と最短距離で、御案内頂きました。お陰で200m近く延びた列が実にスムーズに進み、予定通り終えることができました。大感謝です。 



 この二つ目の尾津神社には当地方に伝承しているヤマトタケル伝承からその歌碑が置かれている。



 尾津神社から宇賀神社へ移動途中に見える多度山の美しい姿。見ほれてしまった。なるほど「神坐山」だと納得した。



 細い路地を進んで宇賀神社へ。200m近い長い人並みが続いた。



 宇賀神社というのは桑名の市街の方にもあるそうだ。ちなみにいなべ(旧大安町)にもあるのだが、どんな関係なのだろうか?)。



 宇賀神社本殿の横には三基の古墳が眠る。



 宇賀神社の境内の北からは柚井遺跡の方向に開けた様子がよく判る。左の樹木の方向が柚井遺跡。右に広がるのが三川の土手。



 柚井城跡を見学した後、山道を登って多度神社へ。行列は延々と続いた。



 会終了後、会の役員の方の車に乗せて頂き、今回のウオーキングでは少し離れすぎているために歩かなかった柚井遺跡の現地に参ることができました。お陰で柚井遺跡の立地をしっかり目に焼き付けることができました。

 私個人はその後さらに希望者と共に養老まで足を運び、美泉と滝を見学し、夕方帰津しました。とても充実した一日でした。取り急ぎ今回はその前半部分を報告します。

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「胸が土器土器。」 ~考古学はおもしろい~亀山歴史博物館常設展示新装大オープンの条

2010-05-06 09:09:09 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 これまでまるで神社のように真っ白な世界で知られた亀山市歴史博物館常設(企画)展示!

 ナナナント、この度新装大改修オープンとなったらしい。

 先頃,館長の亀山隆さんからメールを頂き、その変身ぶりにびっくり仰天。なんといってもこれまでの同博物館は「古文書館」。どうも近世史の古文書大好きオタクが学芸員でいると、古文書を並べまくりたがる。古文書もとても大事な文化財なのだから、それを展示するなとは言いませんよ。だけど古文書を市民のみなさんが全部読めるわけでもないのに、所狭しと並べまくる。読めて当たり前!!と言う姿勢なのだ。古文書がスラスラ読める人でも博物館の展示ケースの中の古文書を読むのは相当辛いはずだ。しかし、大体言っても聞かない!!のが一般的だ(亀山の方々が真面目であることはよく知ってますよ。とても熱心な研究者なんです。だけど、博物館は研究だけをするところではない。資料を一般の方々に公開し、その意義を知らせる義務もある。特に公共機関が建設した博物館はそれが不可欠だ。)


 先頃朝日新聞が「ハコモノ列島限界」とデカデカと一面トップに記事を持ってきて博物館の現状と課題の特集記事を連載した。その主張の基本は無責任な自治体の箱を造って人を入れない姿勢の批判にあるのだが、一方で、博物館に所属する人々(学芸員だけではない)の経営意識の欠如も指摘している。
 私はこの記事を読んで、直ぐに学生に配り、その感想を求めた。
 もちろん興味を持って受講している学生だから、みなさん異口同音にその事態を嘆いた。

 しかし私は敢えて一言追加した。

 「その責任の一端は学芸員にもある!」と。

 つまり、公共博物館であることにあぐらをかいて、学芸員が学芸員としての仕事を放棄するのだ。何もしないなら直ぐに飛ばされるのだが、そうでないところが悲劇なのだ。
 たいていの学芸員は、自分の興味のある分野にのみ熱中し、それ以外のことをしなくなるのである。まるでそれが権利であるかの如く誤解して。もちろんそうした学芸員の興味を極一部で支える市民を巻き込んで。之も質が悪い。
 
 「そんな展示、見に来るものおらへんがな!!」と言いたいのであるが、しかし、ほとんどのオタク学芸員はそんなこと聞く耳持たないのだ。

 隅から隅までずずずいと・・・自分の好きなものを好きな者にしか判らない方法で並べまくるのである。だから「古文書館」には真っ白な紙の絨毯の世界ができあがるのである。さらにさらに、壁面にまれに解説がパネルにして置かれるのだが、これがまた文字だらけ。明らかに博物館の私物化である。そんなに古文書と戯れたかったら自分で博物館でも建てて古文書大好き人間と楽しめばいいのに。そこまでの度量はない!!

 私の元所属していた資料館もこの古文書病に冒されて今はすっかり古文書講習会場に化している。

 折角苦労して造った資料館だが、結局学芸員が学芸員として機能しなければ「無用のハコモノ」と化し、つぶされるのが落ちなのである。
(お断りしておきますが、古文書を展示するなとは言いませんよ。古文書だけでも工夫すればとても判りやすい地域の歴史を語る材料になることは25年も前にやった先の資料館での「よみがえる古代の文字展」(1986年)で実証済みなんです。要するにできるだけ多くの人に理解してもらうにはどの様な工夫が必要なのかを真剣に考えれば、「文字」だけでも十分伝えることができるのです。

 ところでこの古文書病に勇敢にも断固立ち向かった??のが昨年から館長になられた名前まで市を背負っていらっしゃる亀山さんなのである(笑)。

 その展示の様子は博物館のHP に詳しいが、許可をもらってここでも紹介しておこう。

 常設展示にまで名前がついて・・・・

 「胸が土器土器。」 ~考古学はおもしろい~
 

 日本考古学の礎を築いた坪井正五郎は、『遺跡にて 良き物得んとあせるとき心は石器(急つき)胸は土器土器(ドキドキ)』と戯れ歌を詠んでいます。坪井さんはどうして胸がドキドキしたのでしょうか?土器や石器を見つけることがそんなに楽しいでしょうか?今回の展示は、土器や石器を観察する楽しさがテーマです。



 なんと言っても本邦初公開!釣鐘山古墳の組み合わせ式石棺が見もの。



 弥生時代の亀山は近江と伊勢湾岸との間にあってとても興味深い様相を呈していますよ。これは現在市史の関係で地蔵僧遺跡の土器を整理中。初源期の「s」字型甕が面白い様相を呈しています。



 古墳時代ではこの木下古墳の埴輪群がよく知られています。我が大学に所蔵されているものが1年間里帰りです。亀山市に全部戻そうかしらと思っています。



 そしてもちろん鈴鹿関の資料もしっかり展示されています。





 近世亀山城関係の資料もばっちり。


 正直言って土器ばかりで我々考古学のものでも少々疲れそうですが、ま、これまでの真っ白、2次元世界に比べればようやくまともな博物館として進み始めたかな、というところ(失礼!)。できれば少し他の資料、例えば鈴鹿関なら立体模型を一緒に並べるとか、3Dの画像を流すとか、もう一押し工夫が欲しいところではある。ま、これからボチボチ修正されて行かれることだと大いに期待している。

 亀山市の博物館にようやく夜明けが近づいてきた!!

 そうしたところを新一年生のオリエンテーションセミナー「博物館学芸員をめざそう!!」でしっかり見させ、批評させようと、7月10日には学生と訪れて博物館の評価と学芸員の仕事をチェックすることにしている。
 どんな感想を出してくれるか大いに楽しみである。

 みなさんも、是非、新装の亀山市歴史博物館へお立ち寄り下さい。
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伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねて最終回報告の条

2010-05-05 08:00:00 | 三重大学考古学研究室情報
 伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねてもいよいよ最終回である。



 伊勢の家々にはこうした「蘇民将来札」があちこちに架かっている。伝統的祭祀行為は営々と続いている。

 外宮をさっと見学した後、市内バスで内宮に向かった。10分おきに運行されており、とても便利なのだが、とても高い。内宮までの10分足らずが410円だった。ついでに言うと、内宮から二見浦(御塩殿神社に近いバスセンター)までもバスに乗った。これも高くて580円。ちょっと学生には可愛そうだった。



 3月の末に、卒業生が結婚して台湾に行くというのでささやかなお別れの宴を1泊2日でやったときに行ったばかりだった伊勢神宮内宮、この日は前の天皇の誕生日ということもあるのか、奇妙な服装の老人達や新興宗教らしき集団がうようよしていた。
 もう一度戦争をして大儲けしようと企んでいる奴らの思惑に載せられて、それこそもっとじっくり神社を眺めればいいのに。
 もちろん我々は掛け替えられたばかりの橋をじっくり観察した。



 この日は前日の雨で五十鈴川は激しく流れていた。



 私は以前から橋と交通に関心があり、論文も何本か書いたことがある。その過程で、橋の構造についても興味を持つことになり、世界各地を訪ねても橋を見ると直ぐ下からのぞき込みたくなるのである。そして、今は式年遷宮に合わせて伊勢神宮関連の橋が次々と架け替えられている。こんなチャンスは滅多にない。もちろん、架橋技術が古代から続いているとは思えないのだが、少なくとも木造橋架橋の一側面を知ることができる。



 そして嬉しかったのはこの伊勢神宮内宮への宇治橋を守る神様として置かれている、内宮とは道を挟んで反対側に鎮座する饗土橋姫神社を訪ねることができたことである。ナナナント、この橋姫神社も「式年遷宮」していたのである!



 なぜ橋が女性の神様なのかも興味深いが、とても可愛らしい社殿にその意味が込められていた。但し興ざめなのは社殿のすぐ前がタクシーの待機場になっていて、肝心の橋がよく見えないのである。商売のことばっかり考えてんともっと本来の「聖なる地」としての空間を大事にせんとな・・・・。



 何とか見えるでしょう。向こうの方の人だかり。これが五十鈴川に架かる宇治橋。



 そしてなんといっても私にとって嬉しかったのは、風日祈宮(かぜひのみのみや)に渡る橋が改修工事真っ盛りだったことである。既に橋脚が建ってしまっており、その基礎構造がどうなっているかは判らなかったが、橋板はまだはめられておらずそこから全体像を見ることができた。ラッキー!!





 確かにこんな状態なら二十年に一度くらいは建て替えないと橋脚も痛むはな!(今の全国に架かっている高速道路の橋、50年後に建て替える予算を考えているのかしら??)



 なるほど!宇治橋の真ん中に同様の出っ張りがあるのは真ん中の橋脚を受けるためなのだ。納得。

 

 橋の周辺にはかつて架橋時にお祭りをしたときのものであろうか、須恵器の甕片や銭貨が落ちていた。



 風日祈宮の本殿の鰹木も綺麗になっていた。



 本殿は大変な人だかりなので適当に見て遷宮の地を横目に大急ぎで神楽の会場へ。





 残念ながら神楽は丁度終わったところだったが、出演者達が目の前を通って帰って行くところに出くわした。



 独立棟持ち柱建物があちこちに。これも参考になるのだが、学生達は素通り。「おい、ちょっとちょっと、ここの建物もちゃんとみとかんと!!君たち何しに来たん?」とつい愚痴も。



 海老錠。私はこうした由緒のある神社や寺院を訪ねるときは見るポイントを決めている。一つが建物の構造。基礎から床、梁、天井、そのそれぞれの組み物がとても興味深いからだ。そしてもう一つが錠前。かつて発掘したことのある様々なタイプの錠前。以後必ず正倉院展ではチェックするのだが、こうした古い建造物でも必ず注意をする。



 さて内宮での橋探検を終えて、ようやく最終目的地昼河古墳群へ。バスの都合で先に二見浦にある御塩殿神社へ。4年生で若狭の製塩土器をやる学生がいるから是非これも見ておこうということで寄ったのである。



 御塩殿神社の裏にある鹹水(濃縮した濃い海水)を溜めておく小屋。御塩殿神社の祭りは毎年10月5日に開催されるのでそれまでは入ることができない。



 バスを乗り継ぎ乗り継ぎ、やっとの思いでやってきた昼河古墳群。ところが・・・。な~んにもない!!看板すらない(そらそやろ、恥ずかしくて建てられんわな)。



 それにしても、この地にできている施設は高速道路といい、アリーナといい、そして目の前の広大な公園といい、みんな公共施設ばかり。どうしてそれなのに昼河古墳群は消されたの??信じられん!!
 これを目的にやってきた院生はがっくり!!

 昼河古墳群は伊勢市を代表する古墳群。それもそんじょそこらにあるものではなく、横穴式木室墓という、日本でも極めて珍しい葬法をとったお墓である。石で造るのがあたりまえの当時の遺体埋葬室を木を組んで作り、遺体を納めた後、火を付けて燃やしてしまうという非常に興味深い火葬の方法なのである。なぜ伊勢神宮のお膝元でこんな葬法が取り入れられたのか。そもそもこうした火葬の方法はどこから来たのか、どんな思想から来ているのか。課題とすべき事は山ほどあるのである。それをすっかり壊してしまって、有ったことすら伝えないというのはどういう事なのだろうか。訳のわからない公園を造るお金があるのなら、古墳を活かした公園造りをすればいいではないか。

 あまりの空しさに、折角の一日の充実した思いが一気に吹き飛んでしまい、疲れだけがどっと残った。帰りのバスではみんな声もなくただ眠った。

 伊勢の地は本当に奥深いのだが、どうもどこかボタンが掛け違われているように思えてならない。とても悲しい一日だった。

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纒向遺跡から藤原京踏破の条

2010-05-04 09:08:13 | 三重大学考古学研究室情報
 (もう少し伊勢報告があるのだが、忘れないうちに研究室での纒向遺跡・藤原京探訪の報告を)

5月1日は予告通り①纒向遺跡から②箸墓、③渋谷向山古墳を歩いた後、藤原京へ移動し、④吉備池廃寺、⑤藤原宮大極殿跡、⑥朱雀門・朱雀大路から⑦日高山古墳群・横穴群、⑦大官大寺、⑧本薬師寺と歩いた。

ナナナント、ブログを見てきて下さった方が3人、メールでやりとりをしていた奈良文化財同好会の方が1人、同僚の先生が2人、授業で配ったチラシを見てきてくれた1・2年生が2人、そして我が研究室の学生と総勢19人の大??行列となった。中でも2人の元気な学生が参加してくれたのにはとても嬉しかった。

 そして最も驚いたのは、以前放送大学の面接授業を受けて下さり、長岡京見学も参加された社会人の方が豊田から駆けつけて下さったことである。上は還暦をとっくに過ぎた○○歳の方から、まだピチピチの18歳まで実にバラエテイーに富んだグループだった。



 まずはみなさんお待ちかねの纒向遺跡へ。
 あの大規模建物?が発見されたところはもう埋め戻されていて、影も形もない。図面や写真を見ながら想像してもらう。そうそう、忘れないうちに。今回の資料は久しぶりに学生達が一生懸命作ってくれた。きっといい勉強になったはずなのだが、いざ説明しろと言うと、尻込みしてしまう。みなさんおしとやかだね。



 実はまだまだ保存の方策が立っていないらしく、折角の「邪馬台国の都」も今のところ判るものはこうした看板しかない。早く整備できるといいのにね。



 箸墓古墳を北東から。



 続いて景行天皇陵として宮内庁によって管理されている渋谷向山古墳へ。

 全長310mという巨大な古墳は、地上からではその壮大さがよく判らない。
 直ぐ北には崇神天皇陵としてやはり宮内庁が管理する行燈山古墳がある。

 本当なら行燈山古墳まで行きたかったのだが、次の列車が来るので、大急ぎで巻向駅へ戻り、次なる目標藤原京めざして香久山駅へ。



 こんな駅で降りるのは初めてだ。いつもは車で来るので。地図を確かめ吉備池廃寺を目指す。ところがここで大助かりの方が。久留倍遺跡を考える会の役員さんのUさん。つい先日この辺を歩きに来たというので、うる覚えの私より前をすたすたと歩いて下さる。それも聞いてびっくり、Uさんは心臓が悪いのでニトロを持って歩いているという。でも、一番元気!!学生さんよ、日頃もっと歩けよ!!!



 横大路を横切って吉備池へ。



 田植えの時期なので池には満々と水が。この下に寺跡があるというとみなさんびっくり。塔跡の基壇は土手にまで利用されている。



 丁度いい時間だったので、ここでお昼に。



 このみんなが座っている切り株のあるところが日本最初の国家寺院百済大寺の塔基壇跡。この後訪れる大官大寺の基になった寺院で、その塔に匹敵する巨大な基壇が確認され、百済大寺と確定した。



 途中の民家に咲いていた紫陽花。→と思っていたら「オオデマリ」という名の木だそうです。やはり私には植物の名前は無理!!ごめんなさい。



 吉備池廃寺を堪能して、西へ。途中中ッ道を横断(そんなもんある訳がない!!という先生もいらっしゃるのだが・・・。私にはどうしても納得できない。)そしてもう一つ。これまた大先生に刃向かうことになって、小さくならないといけないのだが、この中ッ道から西を岸俊男先生は藤原京(新益京)とされたのだが、今日の大勢は10条10坊の正方形の都説になっている。つい最近のある雑誌の特集号でもそれは強調されていたのだが・・・。私は新益京は岸説でいいと思っている。ま、早く書かないからいけないのだが。



 藤原宮大極殿基壇跡。



 大極殿正面の閤門の外、朝堂院の北端付近の発掘調査が始まったばかりらしい。この4月から三重大学の卒業生が飛鳥藤原宮跡調査部?に戻ったらしいのでいつか見せてもらおうっと。



 朱雀門、朱雀大路を経て日高山横穴群へ。驚いたのはこの貴重な遺跡が大した保護もされず放置されていたことだ。直ぐ横の斜面は最近機械によって激しくえぐり取られている。いいのかしら、こんな事で。藤原京だけが守れればいいとは思わないのだが・・・。しかし、一緒に行った院生は大喜びだった。




 そして大官大寺へ。途中県営のテニスコートでトイレ休憩。この地が紀寺跡でもある。もうこの頃になるとみなさん歩がのろくて・・・。
後少しだからね!と励ましながら歩く始末。アー情けない。なんと言っても先頭を歩くのが常に最年長なんだから、何とかして欲しいな、学生諸君。



 はいポーズ!の声に反応する元気もなさそう。(笑)



 そしてようやく最後の地・本薬師寺へ。お疲れ様!!





 東塔の塔心礎の水たまりに映った参加者。はい、これで本当におしまし。

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伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねて第2回報告の条

2010-05-03 17:26:58 | Weblog
 磯神社から近鉄小俣駅まで戻り、宇治山田で下車、次の目的地④隠岡遺跡をめざした。4年生の一人が宇治山田にある伊勢高校の出身ということで、私が御案内しますということで、隠岡遺跡まではすいすいといくはずだったのだが・・・。高校時代からこの遺跡を知っているようなら超一級なのだが、そこはま、期待するのが無理であろう。その上彼には当日そわそわする原因があるらしく、この後の内宮で先に帰ってしまった。




 それはさておき、やっと見つけた隠岡(かくれがおか)遺跡は想像以上に面白い立地をしていた。説明板では外宮の禰宜、尾上の長と称した度会康平・彦晴・貞雄の館跡ということになっているのだが、出土土器には彼らの活躍した時期より古いものが相当ある。特にこの遺跡の性格を考える上で欠かせない緑釉陶器や志摩式製塩土器は、むしろ彼らが活躍した時期のものではないのではないかと思える。



この様な大規模な総柱建物もあったようだが今はマンションになってしまっている。



 遺跡には弥生時代の集落跡もあり、伊勢湾を眼下に見晴らす絶景の場所であった。現在は道路が遺跡を断ち切っているが、東には陵墓参考地の「倭姫陵」が所在している。倭姫命は初代斎王・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に次いで二代目の斎王となったとされる人物だが、昭和になるまで全く無縁の土地であった。江戸時代前半までは刑場があり、その後常明寺という寺になったところである。江戸時代には常明寺の門前町は遊郭で賑わったという。


 倭姫陵参考地(戦前の軍国主義真っ盛りの中、こんなものまで簡単に造ってしまう。これも歴史のねつ造なのだが、誰も文句は言わない.おかしな社会!!)。






 隠岡遺跡からの景色は絶景!!ホント、圧倒される。それにしてもこれが外宮禰宜の館だというのだが、えらく外宮とも離れている。その上途中に川もある。そんなところに館を構えるのかな??



 なぜかピンぼけになってしまったが高倉山古墳のある高倉山がよく見える。

 本当ならこの丘の上で弁当にすればよかったのだが、なぜか彼らは弁当を持っていない!!ええ、何で?やむなく岡を降りてホカ弁を買わせ、ナナナント外宮前で昼飯に。



 ま、折角置いてあるベンチだからま、いいかということで。そして外宮へ。



 しらなんだのだが、外宮の橋も建て替えるらしい。この後出てくる内宮の橋が立て替えられるのは知っていたが、式年遷宮とやら、みなさんうまく使ってますな。これも公共事業ですかね。(笑)



 外宮近くから見た高倉山。甘南備山だったようだ。

付録

隠岡遺跡で携帯するイラク人のお姉ーさん???



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伊勢の古代遺跡と昼河古墳を訪ねて第1回報告の条

2010-05-02 19:09:15 | 三重大学考古学研究室情報
 29日は朝から伊勢市に出かけた。
 大学院の学生が本年度は二人所属しているのだが、彼らの受講している授業に「三重の文化と社会」というのがある。大学院は人文社会科学研究科というのだが、そこには学部の文化学科系の地域文化論専攻と法律経済学科系の社会科学専攻という2つの専攻がある。普通は共に学ぶことのない大学院で、両専攻の学生が、県内のある自治体を舞台にそれぞれのテーマで研究を進め、研究成果を自治体職員や市民に紹介するというユニークな授業である。本年度は伊勢市が舞台となった。

 そこで考古学専攻の我が二人の学生がそれぞれの関心に従って伊勢市の関連する遺跡を見て回ろうということになったのである。その第1回を実施したのである。
 一人のテーマが「伊勢国の交通路~度会郡の駅家を中心に~」、もう一人が「古代伊勢の葬送~昼河古墳群の考察から~」である。いずれも資料の限られた難題であるが、ひとまず現地を見ておこうということで出かけたのである。他に熱心な4年生二人も参加した。



 津発8:04のJR紀勢本線の鈍行で宮川へ。丁度一時間ののんびりした旅で始まった。



 離宮院は一度調査したかったのだが、残念ながら果たせなかった。

 当日の予定コースは①離宮院→②小御堂前遺跡→③磯神社→④隠岡遺跡→⑤外宮→⑥内宮(橋姫神社)→⑦御塩殿神社→⑧昼河古墳群である。

 まず離宮院からスタートである。
 離宮院は延暦十六(797)年猿田彦神社近く、月読宮の東に推定されている山田原沼木郷高河原から遷されたという。この高河原の地については興味深い記事が残されている。宝亀四(773)年に一度大修理が行われたというのである。前年の11月13日、光仁天皇の斎王として酒人内親王がト定されている。同年の3月2日に、母井上皇后が天皇への巫蠱(ふこ)事件で逮捕されているにもかかわらず、ケガレを嫌う斎王にその娘が選ばれているのである。明らかに異例の斎王である。その斎王の使用する斎宮が大規模に、壮麗に建設されたことは既によく知られているところであるが、離宮院もまた改修の手が加えられていたのである。そして平安遷都間もない延暦十六年に伊勢神宮から遙か離れた現在の離宮院の地、度会郡湯田郷宇羽西村に遷されたという。離宮院はその後824年から839年までの15年間常斎宮として使用されたこともあった。なぜ離宮院は8世紀末から9世紀初めにかけて、この様に激しく変遷するのであろうか。

 五月末日までに完全原稿で出せ!と鬼のような形相で迫る山田博士に

 「はい、必ず・・・」と蚊の泣くような声で命令に従ったがために『仁明朝の研究』の隅っこに入れてもらう原稿を書かなければならない羽目に。このテーマに少しだけ添う可能性のある伊勢での唯一の素材がこの離宮院である。

 私はもちろん何回も来たことがあるのだが、学生達を出汁に今一度現地を歩いて、なぜこの地なのかを分析し論文のデーターに使おうとしたのである。

 学生達は直ぐ近くに住みながら、いずれも初めてだという。まず立地を確認しようということで南を流れる河(汁谷川ということを初めて知った)の岸辺に降りた。今は完全に護岸され、岸辺の道は舗装されてかつての面影は全くない。そこで説明していると自転車に乗ったお爺さんが通りかかった。古老は遺跡のかつての様子を教えてくれる貴重な情報源である。




 「この河の名前は何というのですか?」
 「□△川じゃ!」
 「ハア?・・・」
 「汁谷川!!さんずいに十の汁の汁じゃ」(これで川の名前がわかったのである。)

 古老のお陰でこの川の名前が汁谷川とわかった。葭の生える湿原だったというからこの辺りは水運で自由に行き交うことができたようだ。汁谷川という名も湿原を表しているようだ。


 何とお爺さんは89歳だという。とてもそうは見えない。何でも前立腺肥大等で何度もお腹を切ったと言って腹の傷跡まで見せてくれた。自分はこの辺りで生まれたというので、さらに聞いて見た。

 「この辺の土地の名前は何というのですか?」
 「馬道とか松倉や.田丸のお城に年貢を運ぶので馬が使われたそうや。」
 「この川は昔は船が上がって来たんですか?」
 「そうや、この辺は昔葭が一杯茂っていてな、船はなんぼでも上がって来た。」

 離宮院は斎王の離宮(伊勢神宮奉祭のための宿所)であると共に駅使の宿所でもあるとされる。伊勢国内には『延喜式』によれば東海道と別れた支路が志摩の国へ延び、市村駅、飯高駅に次いで度会駅がある。度会の後は志摩国に入り、鴨部駅、磯部駅を経て志摩国府へ至る。度会駅がどこにあるかは明確ではないが、離宮院もまた有力な比定地である。少なくとも現在地に離宮院が移動して以後は、斎王が伊勢神宮に六・九・十二月の三度参るための交通路は当然、斎宮→度会駅→内宮であったはずである。近年の研究によれば駅家の配置は陸路だけが重視されたのではなく、山陽道のように瀬戸内海に沿って東西行する官道は水運との接点も重視されていたことが知られる。伊勢湾岸を北上する東海道、鈴鹿駅から別れて南下する東海道支路もまた当然水運との関係を無視することはできなかったはずである。離宮院が汁谷川の直ぐ側に設けられたのも、こうした交通路との関係も無視できないのではなかろうか。


 

 学生達はあちこちで土器を拾ってきた。離宮院は丁度今書きかけの「仁明朝期の斎宮」の舞台である。残念ながらその中心部分は発掘できていないため、詳細は不明だが、これだけの土器が拾えるのだから調査すればその実態が判るに違いない。



 いうまでもなく離宮院には区画を示す築地の高まりが残っている。



 次いで③磯神社に向かった。当初は歩いてまず②小御堂前遺跡を見る予定だったが、予想外に離宮院で時間をとったのと、あまりに距離が長すぎたのと、たまたま宮川駅にタクシーが止まっていて、その運転手が親切にも私達5人が乗れるように中型の車を呼んでくれたのである。これは大正解だった。おそらく歩いていたらこの行程は半ばで挫折していたに違いない。

 離宮院から東4キロほどのところに磯神社がある。直ぐ近くの小御堂前遺跡を訪ねるためにまずこの地を訪れた。磯神社は式内社であるが社地は宮川の氾濫で度々変遷したようだ。正確な鎮座地は別にしても、こうした宮川の川側にこの神社があり、この後訪れた小御堂前遺跡がおそらく宮川の水運と関係することを考えると、この神社の立地の由来もおおよそ見当がつこうというものである。



 小御堂前遺跡は宮川に接する位置から発見された古代の遺跡で、その性格についてはほとんど言及されていない。しかし、立地から見て、水運との関係を考えざるを得ない。しかし、ただそれだけなのだろうか。



さて②小御堂前遺跡であるが、かつてほ場整備の関係で調査されたらしい。大量の緑釉陶器や志摩式製塩土器が出土しており、宮川を通じて大量の物資がこの地に集積されていたに違いない。宮川には近世には渡しがあったらしく、水運の伝統は続いていたようだ。

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