yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

神雄寺に塔があったの条

2011-02-20 02:21:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 忙しくて紹介することができなかったのが、一昨日の新聞に小さく掲載されていた(ことを先ほど知った)馬場南遺跡発見の神雄寺塔跡の情報だった。

 1月31日に津からの帰りに時間を取って急遽現地を見学させて頂いた。
 もちろん木津川市の中島さんのご案内だ。新聞発表の後ならなんぼ書いてもいいよ、と言われていて、しかし、上記のような理由ですっかり忘れてた。おまけにドジなことだが、ナナナント今日現説だったというではないか。ごめんなさい!中島さん。でもきっと彼のことだからたくさん人を呼び寄せたに違いない。



17日朝の朝日新聞です。京都版にしか載っていませんでした。この頃の新聞記者って、ホント勉強不足!!いい記事は自分で調べて価値を見出し、そこで大きく取り上げるべきか否かを考え、デスクに訴える。デスクもその話をきちんと調べて判断する。これが本来なんだよね。価値が解ってないよね。情けない。




 寒風の吹く中久しぶりの馬場南遺跡であった。現地はすっかり保存モードになっていて、史跡指定の対象地には厚く土が入れて保護されていた。馬場南が指定されれば木津川市で九つめの史跡になるという。素晴らしい!!三重県では全部で特別史跡も入れて37だから木津川市だけでその四分の一を占めることになる(ちなみに京都府下の国特別史跡・史跡は91件だから木津川市はその1割を占めることになる)。どこぞの埋文センターが、自説をひけらかすために他説を排除し、保存の訴えも極限られた方々に頼ってやっているのとは大違いだよね。




 昨年確認された仏堂跡の西上方にほぼ軸線を揃えてあるという。



 この方向に水路上に架かる土橋があったという。何か関係があるのかも知れない。

 西側の斜面には本来なら雨落ち溝のようなものがあっていいはずだが、見学したときはまだ判らないという。



 塔の北半分である。可愛らしくはあるがちゃんと心礎がある。



 東から南側をみた所。
 


 来年度は西側の池も発掘するという。

 さてこの神雄寺、一体誰がいつどんな目的で建てたのか、これが問題だ。これまでの京都府の報告書によれば、出土している土器の中心をなすのが平城宮の3~4(文字化けするのでアラビア数字にしたが本当はローマ数字)だという。740年~770年頃の土器である。これ以外に長岡宮期の土器も出土している。発見された遺構は小規模な仏堂跡と今回の塔跡である。瓦は出土するが決して小型瓦ではなく普通の瓦が用いられている。仏堂跡からは緑釉の「須弥山」(ではないという意見が最近は強いらしいが・・・?)と四天王像が出土している。

今回の発掘成果について京都新聞は
「文献に登場しない奈良時代の寺院「神雄寺」跡が発見された京都府木津川市木津の馬場南遺跡発掘調査で、市教委は16日、仏堂西側の天神山中腹で、類例のない構造の「層塔」とみられる建物跡が見つかったと発表した。市教委は「信仰対象である現天神山の象徴として建てられたのでは。聖域の山を背景に池で囲まれた儀礼空間が存在し、外側に俗地があるという寺の形態が分かってきた」としている。
 神雄寺は、天神山の山裾に仏堂や礼堂、川状の池が配置され、水源の山を信仰していたと考えられている。調査では建物の四方を支える四天柱の北側2本と、中心の心柱の礎石計三つが見つかった。残る二つの据え付け穴もあり、四方が扉の層塔とみられる。
 三重塔などの層塔は通常、心柱の周囲に四天柱、さらに外側に側柱があるが、塔跡には側柱の痕跡がなかった。心柱と四天柱のみの構造は国内に例がないという。坪井清足元興寺文化財研究所所長は、きちんとした基壇がない点にも着目し、「地面に直接礎石を埋める様式も見たことがない」と指摘する。
 高さは不明だが、一辺約1・8メートルと屋外木造塔では国内最小の規模で、仏堂や池と同時代のものと考えられる。心柱を囲む位置から壁土も見つかり、市教委の中島正課長補佐は「塔内に四方仏など構造物が置かれていたのでは」と推測。過去の調査結果も踏まえ、「仏堂、礼堂、塔は一連の計画の中で作られたとみられる。山中に修行の痕跡が希薄なことも含め、神雄寺は平地寺院とも山岳寺院とも異なる、儀礼を中心とした形態の寺だった」と分析している。」

と伝えている。

 上記の見解だとどうも聖武・孝謙親子が特殊な祭場として建立したと考えられているようだ。

 しかし私が一番気にしているのは、緑釉「須弥山」だ。
 「須弥山」ではないとする意見が強くなっているようだが、その解釈はお任せするとして、なぜこれと同じもの(おそらく同一工房で製作されたもの)が、伊勢国飯野郡の伊勢寺廃寺から出るのかということだ。

 著名な先生方はこの資料を中央の資料からばかりお考えのようだが、私はこれを解く一番の鍵は伊勢寺廃寺にあると考えている。

 8世紀後半、伊勢で起こった大事件とは、称徳・道鏡王権による伊勢太神宮寺の建立である。逢鹿瀬寺がそれで、遺跡としては逢鹿瀬廃寺がこれに当たるとされている。

 当該王権は伊勢太神宮の直ぐ近くに寺を建て、神宮に揺さぶりをかけたのである。さらにまるで神宮を北から包囲するかのように飯野郡内に次々と寺を建てたのである。斎宮の直ぐ北西にも大雷寺廃寺が建てられている。瓦の共有関係からこの寺が王権と深い繋がりを持っていたことが明らかにされている。

 つまりこの時期

 王権 対 伊勢太神宮

が極めて深刻な状態にあったのである。

その同じ時期に都に近い木津川左岸の地では「神雄寺」という意味深な名前を持つ「寺院」が建立・維持されていたのである。この地でも「神」とかけられている点に注目があつまる。

 称徳・道鏡王権による「神」勢力との神経戦の場こそこの地だったのではないだろうか。ただしこの戦いは長くは続かなかった。神護景雲四年八月四日道鏡を支えた称徳天皇が死去し、直後に道鏡は下野薬師寺へ追放される。称徳・道鏡王権の解体によって、伊勢太神宮寺もその五年後には多気郡から排除され、その命運を断つ。この辺りの詳しいことは2010年9月19日のブログ「原稿が進まないのに忙しくて・・・・の条」に詳しく書いているので参考にして頂きたい。(それにしてもこの頃も原稿に追われていたんだな・・・。)
 もちろんこうした点については詳細な分析が不可欠であり、いずれ論をなしてみようと思っている。

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 神雄寺 寒風の先 小塔一基

 道鏡の 野望破れた 木津の雪
 


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