yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

大宰府探訪-1 大宰府条坊遺構群を歩くの条

2009-11-28 00:53:48 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本


 多気北畠氏遺跡 第32次調査地現地視察



 礎石が4基東西に並んでいる。担当者は柵列だと言うが、どうやって建てるのだろうか?判らん!!



 一番の問題はこの石列。昨年この直ぐ西側で発見された石列(私は築地の基礎だと思っている)と1mも北にずれるという。ホント????配られた資料ですらずれているのとずれていないのがある。原因は「略測図だから」だそうだが、こんな大事なことを「略測」で報告するのは何故?不思議!

 今日は朝から「多気北畠氏遺跡調査指導委員会」でした。9時から18時まで拘束されていたので、とても疲れました。この報告もいずれしなければいけないのですが(書いておかないといけないことが一杯あるのですが)、今日はまだ頭が整理できていないので、別にします。

 ここのところずっと風邪気味なのですが、とてもとても忙しくて、これから先ももっともっと忙しくて・・・、まさに文字通り師走を実践しそうな勢いなのです。しかし、その師走前から既に助走が始まっていました。11月27日(今日多気)北畠氏遺跡調査指導委員会 28日亀山市史編集委員会 29日亀山市史古代史部会との個別協議 30日病院検査終了後歴博 12月1日歴博 12月3日講演会レジュメ提出 4日京都アスニーでの講演会 5日木簡学会 6日木簡学会 10日レジュメ提出2件 11日出前授業 12日四日市市歴博講演会 13日名張生涯学習講演会 19・20歴博研究会報告 24日~28日補講 アー死んでしまう!!

そんなこんなで、更新する気力も起こらない今日この頃なのですが、たまにはやっておかないと忘れられそうなので、助走期間の大宰府探訪をしばらく断続的にご紹介します。
 
 11月20日から24日までYグチ大学のHY教授の科研費による研究会で大宰府とその周辺に展開する山城などを踏査する研究会に参加した。とても充実した研究会で、22日には各遺跡の調査担当者からの内容の濃い報告がなされ、熱心な討論が行われた。本来ならリアルタイムで報告するところだが、連日連夜の夜の宴でホテルに帰るとバタンキュ!!24日夜に津に戻ってきたのですがその後もハードスケジュールがぎっしり詰まり、やっと少しだけその報告を認める気力が起こってきたので書いてみることにする。


 初日は本当は19日(木)なのだが、私は夕方まで授業があったのでやむなく二日目から参加した。初日は大宰府政庁やその周辺に展開する観世音寺、学校院地区、蔵司地区等々の中枢部を歩いたらしい。もっともこれらについてはこれまで大宰府の調査委員として何度も訪れていたので、今回はパスしても問題なかろうと判断もした。ただし蔵司地区は10月の委員会で現地を見学させていただいたのだが、その後発掘調査が進むということで、少し気がかりであった。ところが同行者に伺うと発掘はほとんど進んでいなかったということでホッとした。

 二日目は太宰府の政庁周辺部で進む条坊の発見現場を歩いた。午前中は水城を中心に、午後は夕方暮れきるまで条坊を歩き回った。



 水城へ至る官道を南から進んでいった。太宰府市教育委員会の丁寧な発掘調査によって、あちこちでこうした道路の確認調査が行われ、開発によって壊された時には看板が設置されている。

 もちろんこれも以前に太宰府市教育委員会のNKさんのご案内で丁寧に歩いたところであり、その後の調査調査の進展により幾分か新しい成果が増えたものの、基本的な条坊の研究には影響がないということで、復習のつもりで歩いた。しかし新しい発想も得ることができた。感謝!!

 案内者は今や太宰府条坊研究を一手に引き受けて先導するD教育委員会のIN氏である。近年の氏の研究によると太宰府条坊は基本的に90m四方の方眼を基準にしてその両側に道路敷きと宅地を割く分割型の条坊によって形成されているという。以前に訪ねたところも数多いのだが、どうしても自分の足で歩かないとその場のイメージを描きにくい。それにしても大半がマンションの一角にその痕跡を残しているに過ぎず、Iさんのご案内がなければ到底回れない遺構群であった。逆に言うと今回はIさんの御案内のお蔭で隅々まで回ることができた。感謝!!

 最近の彼の持論は、90m方眼の地割りが7世紀段階からあったというものである。特に右郭と呼ばれる西側には7世紀代の遺物の集中する地域があり、今は宅地となっているところが多いが、かつては「通古賀」(とうのこが)等の地名研究からもこの地が筑前国の中心であったというのである。その地域を中心として.『周礼』考工記によるという説もある飛鳥の新城のような広大な条坊が整備されていたという。

 「ウーン??なんぼiさんの説と言ってもそれはナインちゃうか!!」

こんなことを思いながら一緒に歩いた(詳しい説明や反論は22日の研究会の報告で)。要するに私は条坊が7世紀代には既に形成されていたという見解には従いかね流のだが、大宰府政庁を中心としてどの範囲にどんな遺構群があるのかを説明を聞きながら丹念に歩いた。



 官道の跡がカラー舗装されて表示されている。こんな所をこの後次々と訪れることになる。

 まだまだ先は長い。ひとまず今日はさわりだけで。

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第2回久留倍まつりと第11回三校交流会の条

2009-11-16 02:03:33 | 三重大学考古学研究室情報
 11月14日は第2回久留倍まつり、15日は第11回三校交流会だった。

 昨年に続き久留倍まつりは午前の部に衣装隊による行列、午後を講演会として準備して来た。ところがあいにく14日は午前中大雨の予報。仕方なく前日に行列は中止と決まった。ただし、折角用意した衣装であるから、雨の日用に確保してあった朝明プラザで衣装のお披露目をすることになった。


 


 何と!その解説を私がする羽目に。

 俄に資料の印刷に罹り、何とか簡単なものを用意したのだが、さらに追い打ちが!!

 時間が余るので何か話をしろ!という。それでなくとも午後の講演会すら種切れ状態なのにそれに加えて絞り出すものはこれ以上ない!!

 どないしょ!!

 悩んでいるうちにどんどん時間が経つ。夜中の3時頃に起き出していろいろスキャンしたり、本を読んだり・・・。

 あっという間に時間が過ぎて、まだ準備ができていないのに、遅刻は許されないので、江戸橋駅まで走って電車に駆け込む。激しい動悸がして気分すら悪くなる中、電車の中では何もできず。とにかく会場のある近鉄富田駅まで到着。さて、タクシーに乗ろうと思って学生にお金を渡そうとしてポケットを触るも何もない!!

 慌てて出てきたもので、研究室の机の上に忘れてきてしまったのだ。もっとも最近は財布にお金を入れることがないので、現金はないのだが・・・。大慌てで鞄の中から予備においてあるお金を出して学生に。

 会場に着くと直ぐに着替えて!と思ったらまだ会場が開かないという。どんどん時間が過ぎていく中、途中で止めてきたプレゼンテーションの作成を急ぐ。しかし、会場の準備も手伝わなければならず、もう頭も身体もてんやわんや。途中で目眩がして、ひょっとして倒れるかも知れないと思い、ソファに腰掛ける。倒れたら倒れた時や!と思いながら大慌てで資料を作り始めると動機も収まって、

 間もなく始めます。

 と言う声と同時に完成。ご来賓の挨拶の間にプレゼンテーションの話しの段取りを頭の中でシュミレーションして、直ぐに開始。


 子どもたちが久留倍遺跡に興味を持ってくれると最高なのだが・・・。


 たくさんの子どもたちが衣装を着てくれただけでなく、新聞に載せてもらったお蔭で市民の方も着て下さった。(雨が降らなかったらいい行列になったのにな・・・、と少し悔しい思いがこみ上げてきたが、こればかりは仕方がない。)



 市民の方の関心も高く!!

 あちこちからお借りした衣装や会員さんの皆さんが作って下さった衣装を一つ一つその意味を含めて紹介して何とか時間を過ごす。

 写真撮影などに時間がいったので一息ついてミニ講演を。「古代の衣服と色彩」というにわか作りのプレゼンテーションで20分ほどお話しをする。25年程前、向日市史を書いた時に作った衣服令の一覧表が大いに役立って、何とか話を終えることができた。特にこの後予定の雅楽の演奏に時間が必要だから早く終われという指示にホッとして、休憩。



 ミニ講演は疲れた!

 そうこうするうちに午後の講演者である早稲田大学他で講師をなさっている古代の渡来系氏族を中心とした氏族研究の第一人者、加藤謙吉さんがお見えになる。雑談をしていると加藤さんを訪ねて次々とお客さんが来られる。加藤さんはこの富田にある三重県有数の進学校・四日市高等学校のご出身なのである。小学校の時の担任の先生やら、同級生のお母さんやら、ご兄妹やら、次々と開会前の控え室に来られるのである。

 故郷に錦を飾るとはこのことかも知れない。

 そして、講演会の開始。私の話は短くして加藤さんにじっくり話していただく。

 「伊勢国の猪名部について」と題した講演である。事前に原稿を頂いていて、それに添って関連史料を丁寧に読みながら、一つ一つの史料をかみ砕くように丁寧にお話しいただいた。内容的にはかなり高度なものなのだが、実に判りやすく、しかし深みのあるお話しをじっくり1時間45分いただいた。
 
 特に、猪名部氏の最初の本拠地は播磨国の猪名川流域であったが、遅くとも5世紀後半までには東海地方(伊勢北部或いは南部)へ到達し、ここで宮殿建築を専門とする大工へと変化しながら定着するという。

 東大寺大仏殿の建設大工として著名な猪名部百世は記録上は「伊賀」の出身となっているが、おそらく伊勢の間違いであろうと解説され、伊勢ならば郡名にその名を残す北伊勢の員弁郡の人であろうという。

 度会郡と員弁郡に定着した猪名部氏(或いは船木氏)は、本来の造船技術を活かして宮殿建築も行う氏族として成長し、大仏殿建設に功をなすまでになるのだという(この内容は『国史跡久留倍官衙遺跡講演会 資料集』として200円で会で販売しているので、是非ご覧頂きたい。お申し込みは私まで。)

 加藤さんのお蔭で、会場に来られた200名余りの皆さんはとても満足した顔でお帰り頂いた。もちろんその後は加藤さんと一杯やって、とても楽しい一時を過ごすことができた。ただし、私は15日にも学生達の毎年行っている「三校交流会」が奈良女子大学であるので、眠たい目をこすりながら最終近い特急で京都へ。よくぞ乗り過ごさなかったことだと思うくらいよく寝たが何とか自宅へ。

 そして日曜日の昼からは奈良へ。前夜あんなに飲まなければ桜井の纒向遺跡の現説に行けたのだが、午前中はほとんどボーッツ!そして奈良女へ。


 紅葉に映える重文指定の奈良女子師範時代の旧校舎


 三重大学・奈良女子大学・京都府立大学の学生が年に一回集まってお互いの研究成果を披露する会である。私が着任して以来だからもう11回になる。昔は何かテーマを決めてそれについてそれぞれの大学が発表したのだが、近年は卒論予稿集の事前発表のような様相を呈している。だから、余り期待していなかったのだが、京都府立大学の学生の発表は後期旧石器を代表する国府型石器の編年に関するものだったが、内容も発表方法も、資料の作り方もとてもよくできていてなかなか興味深いものであった。


 我が研究室代表NAさんも内容はよかったのだが発表の仕方がな・・・・。

 終了後いつもの通り軽いつまみで懇親会が開かれたが、そこで、びっくり!が。

 「私向日市に住んでいるんです」

 「??」

 「瓦をやっています。特に宮都系の瓦を」

この後宴会場で7757だの、7133だのマニアックな瓦の型式番号である数字の話題がしばらく続くことに。とても楽しかった。

 Yさん頑張ってこれからも研究を続けてね。

こうして今週もまた土日が終わってしまった。来週の土日は大宰府である。

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不破関再訪-2  安楽寺裏山は見張り台の条

2009-11-13 00:45:01 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 鈴鹿関の城山に相当する施設が不破関にはないのだろうか?

 こうした疑問を胸に近年事ある毎に不破関周辺の地形図を眺めてきた。そこで目についたのが藤古川の西側にある、山中集落のはずれ、「安楽寺の裏山」(弘文天皇自害峰。以下「裏山」と称す)であった。

 安楽寺といっても赤坂の安楽寺ではなく、まるで民家のような建物がポツンと一棟あるだけの「寺」である。ここから国道21号を越えて北側には安楽寺と関係の深い大谷吉継の墓や陣跡が推定されており、若宮八幡宮も所在する。言うまでもなく安楽寺は西軍の武将大谷の持参した梵鐘をその死後徳川家康が入れた縁がある寺である。当地に安楽寺と号する寺があるのもその関係であろう。

 地形図上ではどの程度の見晴らしなのか、どこがどの様に見えるのかがよく判らないので、以前からこの丘に行ってみたかったのである。



 藤古川を渡ると平坦地が南北に延び、その西に丘がある。




 坂を登るとそこは山中という名の集落だった。



 基壇の一つ


 前回の報告にある通り、藤古川を渡ると道は再び上り坂となり、「裏山」の麓に辿り着く。「寺」の横をすり抜けて丘に登るとその頂部は平坦に造成された空間だった。平坦面にはいくつかの基壇状の高まりを認めることができる。頂部付近には近世以降の瓦も若干拾うことができる。或いは安楽寺の前進(安楽寺そのもの)がこの地にあったのかも知れない。



 「裏山」の平坦地。あちこちに基壇状の高まりが残っている。

 この平坦地は東西80m、南北50m前後の規模を有し、その南斜面には弘文天皇自害峰の三本杉が植っている。尾根の北西方向から黒血川が南東方向に向かって「裏山」の裾を縫うように流れる。黒血川は、不破関の城壁のある台地の先に位置する井上神社の先、現名神高速道路を越えた辺りで藤古川と合流する。藤古川はいずれ今須川・牧田川と合流し揖斐川に流れ込む。この様に「裏山」は黒血川と藤古川が削り遺してできた独立丘陵である。

「裏山」は現在東海道新幹線、名神高速道路によって3分割されているが、本来は北西から南東に傾斜する一つの尾根であった。ただし、東海道新幹線の通る位置は、明治24年の20000分の1正式地形図によると若宮八幡宮(若宮八幡宮と称する神社は関ヶ原町一帯に数多く点在する.この地にあるのも大谷吉継との関係であろうか)の境内奥から黒血川(西)へ抜ける小さな谷筋になっており、かつてはこの地を通る道があったことが判る。この場合、少なくとも「裏山」は南北に二分されていたことになる。



 今は新幹線によって分断されている「裏山」

 実はまだ正確に測れてはいないのだが、この若宮八幡宮の道はこれまで推定されてきた不破関の南城壁の西延長線上にほぼ位置している。私はひょっとしたらこの位置に元々何か構造物があったのではないかと妄想している。



 北城壁がこの地にあるのも何となく頷けてくる。

 さて、この「裏山」に登ってみると実に面白い光景が杉林の間を通して見えてくる。東に目をやると、不破関城内推定地が真正面にくっきり浮かび上がる。北側を通っているとされる東山道推定地(現国道21号)に目をやると近江側から美濃側に至る道筋が見事に見える。もちろん黒血川に沿った谷部も見下ろすことができるし南端では若宮神社から延びる小道は直ぐ目の前である。さらに、この谷部も取り込んでいたとして、南へ足を伸ばすと、その先では今須川と藤古川が合流し。間もなく牧田の集落になる地点をも見通すことができるのである。この地こそ不破関の東城壁に添って南へ延びる伊勢街道の位置である。「裏山」は眼下に不破関にいたる西・南の交通路を監視することを可能にしているのである。



 木立の隙間からくっきり東山道が見える。


 なお北に抜ける北国街道には小関という地名があり、これも関の機能の一部であろう。小関を含めた全体で不破関は全方向からの交通を遮断し、チェックすることを可能にしていたのではなかろうか。


 小関のバス停。



 関ヶ原の合戦場の北端が小関である。


 このように見てくると次ぎに興味深く見えてくるのが、「裏山」の東裾と藤古川との間に南北に細長く残る平坦地である。鈴鹿関における城山と鈴鹿川との間に残された平坦地のように見えてくるのである。もうここまで妄想が激しくなると病気かも知れませんね(笑)。



 この平坦地どう思います?


 風邪を引く前に訪れた不破関は新しい発想と研究への意欲を与えてくれた。感謝感謝の一日であった。お礼に学生と食べた夕食は少々高くついたが、ま、この成果に比べれば安いものである。有り難うEさん、O君!!

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不破関再訪-1 鈴鹿関と不破関に共通点を見出すの条

2009-11-10 12:56:01 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 11月2日、不破関に行ってきた。私自身はもう何回目か覚えていない。しかし、今回は大きな成果が得られた。



 資料館はあいにく月曜日なので休館であったが、いつもの通りここに車を置いて見学をスタートした。



 今回の目的はこれまでの推定城壁内とは異なり、城壁の外、特に西側が注目点であった。

 そもそもの目的は、科研費で共同研究をしている大垣の情報科学芸術大学院大学の関口先生と、本年度の研究成果をすりあわせることにあった。もう一つの目的が学生の卒論指導であった。その卒論指導の中での探査で希望通り成果を得ることができたのである。

 一人の学生の卒論は、鈴鹿関を中心とした古代関・城柵の機能をGISを用いた3D復元によって分析してみようというものである。もう一人は、古代駅に付与された機能を、やはりGISを用いて立体的に景観復元し、その多機能性に迫るというものである。もちろんまだまだ不十分な点ばかりが目立つ「研究状況」ではあるが、それなりに面白い成果も出つつあり、今少しの頑張りが求められているところである。

 

 目指すはこの向こうに見える丘!!杉林が平らなところである。

 実は科研費での研究テーマの一つにも、「GISを用いた三関の比較研究」があり、既に鈴鹿関の3D化をほぼ完成させ、不破関の復元へと進みつつあった。そこで、先生とその方法論についていろいろお話しをする内に、
「ならば不破関に行って確認してみよう!」と言うことになったのである。


 これまではこの藤戸川で探訪は終わっていた。しかし、今回は・・・。

 食事をした後現地へ出かけた。学生は初めての不破関らしいのだが、特に感動する風もない。仮想現実にはまっている今時の学生にとっては現場などは大して感動を与えないのだろうかと、とても不思議に思った。

 ところで何故不破関へ?

 実は最近、鈴鹿関を分析する内にある発想に行き着いたのである。
 その確認のために一度現地に行ってみたかったのである。大正解だった。



 藤戸川を越えると再び道は向こうに見える丘に向かってだらだらと登っていく。

 実は、鈴鹿関の発掘調査によって、鈴鹿関の中に城山が取り込まれていたことがほぼ確実になった。これが発想の原点である。

 何故城山が必要だったのか?

 私はその目的を「監視」と考えた。今、城山に登っても木が生えていて多くは見通せないが、これさえなければ、西端の最高所からは真下に伊賀から来る東海道と近江から来る新東海道が見える。そして尾根のどこからでも関所全体が見渡せるのである。
 「見張り台」については、既に北西角の城壁の調査によって、その北に巨岩があり、この岩から南を監視でき、向かいの観音山からは東と南を監視することができることを明らかにした。この仮説ー監視説が正しいとすると、三関全てに「監視台」があったと考えてもいいことになる。

 ところがこれまで不破関については、城壁に囲まれた空間は藤戸川の段丘上の平坦地で、監視台など設ける余地がないと考えてきたのである。

 つまり仮説が間違っている?!ウーン一度現地で確認してみたいことがある。

 この答は次回に。



 

 弘文天皇自害峰と呼ばれている丘がこの左手にある。



 自害峰と言ってもここで自害したわけではない。具体的な場所は諸説あるが、「山前」と『日本書紀』は記す。その首を不破の野上にいた大海人皇子に村国男依がもち帰り、首実検の後この地に葬ったという伝説に依るらしい。

 

 672年7月初め、大津朝廷側の奇襲による激戦で黒く血に染まったという言い伝えの川。ま、いろいろありますなー。



 そしてこれが三本杉。大友皇子の首が葬られた場所がこの杉だというのですが、それにしては杉の太さが・・・・?!


 

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山の中に陽が射し、穂が実るの条

2009-11-09 17:57:18 | yaasan随想

 息子の娘が生まれて今日で2週間。彼女にやっと名前がつきました。

 

 みのり

と読ませるそうです。予想通り一字でしたね。



 はじめまして、「穂」です。どうぞよろしくお願いします。だいぶん人間らしくなってきましたね。(お金がかかるので同志社女子大ではなくて奈良女子大に入りたいなーと今から思ってます。??)

 耕(父たすく) ありさ(母) 陽(長男ひなた) 穂(長女みのり) 

なかなか明るくていい名前ばかりですね。いつまでも仲良くね。


 「山中に 溢るる陽射して 稲穂垂る」 
 (やまなかに あふるるひさして いなほたる)

 「陽の恵み 黄金の穂 ふさふさと」
 (ひのめぐみ こがねのみのり ふさふさと)

 「陽の中に ありて耕し さ!穂」
 (ひのなかに ありてたがやし さ!みのり)
                       企良

 とにかくこれでやっと人間の仲間入りです。特別大出血、これ以降はホントにホント、一般公開はしません。

 最新の

 

です。兄貴共々よろしくお願い致します。 



 兄貴! あっしが穂でやんす。よろしくね。

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訃報、2通に接して

2009-11-07 12:04:20 | yaasan随想
 昨日朝、まだ風邪気味でボーッとしていた机に、お二人の先生の訃報が届いた。

 お二人ともお亡くなりになって既に長い時が過ぎていた。

 お一人は10月14日に亡くなられたという藤田弘夫さんである。慌てて検索してみると確かに新聞各紙に訃報が伝えられている。胃がんだったという。

 藤田さんとは広瀬和雄さんが奈良女子大学で開催されていた研究会でお会いしたのが最初だった。たくさんの著書がおありだが、エッセンスの詰まった中公新書『都市の論理―権力はなぜ都市を必要とするか』(中央公論社 1993年)はしばらく私の鞄に常駐していた。切れ味鋭い都市論とは全く異なり、とても穏やかで包容力のあるお話しのスタイルは、さすが学史を引っ張る人物だなと感心させられた。その後年賀状のやりとりをさせていただき、何度か研究会でお会いし、その論理に傾注するだけではなく、度々論文の一節を引用させて頂き、日本古代宮都・都市論の論理的主柱として使わせて頂いてきた。

 つい最近、考古学研究会のシンポジウム記録として発刊された、考古学研究会例会委員会編『シンポジウム記録6 現代に生きる遺跡 古墳時代の備讃瀬戸 都城周辺の都市的景観』(2009年)での拙文「古代宮都と周辺都市~山崎院から都市・山崎への変貌」(pp.207-223)でも次のように引用させていただいていた。

「藤田氏の都市論を端的に表す言葉が、「都市は、権力が都市を必要とする時に建設された。その時、都市は、はじめから「都市」として、村落とは異なるものとして建設された」(藤田弘夫『都市と権力―飢餓と飽食の歴史社会学』(創文社1991年))である。都市はあくまで権力によって構成された人口が集積した大聚落だというのである。その「権力」はいかなる種類のものであれ、様々な「意味」のもとに、多種多様な〈保障〉を掲げて活動する。しかしそのためには〈支配〉が不可欠である。しかも人々の生活は、権力なしにはあり得ない。」という。権力とは〈保障〉と〈支配〉の相互作用だというのである。」
 
 マルクス・エンゲルスの都市論から脱し切れていない日本の考古学界にあって、いち早くその論理を取り入れ、弥生都市論へと結実させた広瀬和雄氏との共同研究がなければ出会うことのなかった社会学者・藤田弘夫さんである。しかし、私とたった1歳しか違わない学者の、その余りに早すぎる死に捧げる言葉すら思い浮かばない。本当に残念でならない。


 もうお一人は私の小学校6年生の時の担任の先生・千賀祥一先生である。

 私は父親の気まぐれで4年生の二学期までに小学校を5回も替わった。転勤族ならいざ知らず、理由はよく知らないが、次々と転職して、そのたびに転居し、結果、学校も替わらざるを得なかった。その最後に行き着いたところが山科のはて、大津市との市境の廃屋のような借家だった。すぐ近くに大津市立藤尾小学校があったのだが、一応京都市が居住区だったのでやむなく30分余り歩いて音羽小学校に通った。

 転校馴れしていたとはいえ、4年間で5回というのはさすがに子供心に堪えた。それでも四・五年生の時は若くてはつらつとし、とても優しい桜井先生のクラスだったので、実に楽しい毎日だった。ところが6年生になってクラス替えがあり、私は『ろ』組に編成された。その時の担任の先生が千賀先生だった。

 奥様からのお便りによるとお亡くなりになったのが今年の1月で91歳だったと言うから、当時は40歳のもっとも脂ののりきった時期だったのだろう。
 とにかく厳しかった!!

 冬になると毎朝学校の周りをランニングさせられるのだが、ある日、学級委員長だった私に突然、その日回ったコースを説明せよ!と言う。
 「校門を出て、右に回って、次の交差点を左に回り、・・・・」と説明していると、大声で怒鳴る声が聞こえる。一瞬何事かよく判らなかった。誰かが悪態でもついて怒られているのかと思っていると、どうも私がその対象らしい。

 「馬鹿もん!!6年生にもなって右だの左だの、何という説明をするんだ!人間は東西南北という基準を持っているんだ。そんなもんで他人に説明して判ってもらえるはずがない!!やり直せ!!」

 こんな調子である。もう一つの想い出は、放送部での事だ。当時としては珍しく我が母校には結構まともな放送設備が整っていた。ミキサー室とアナウンス室が別れており、ちゃんとガラス越しにミキサー室から指示が出せるのである。当時放送部の部長だった私は昼休み時間にいろいろなレコードを使って音楽を流していた。テーマ音楽は「ウイリアムテル序曲」だった。
 そのミキサー室には恐らく運動会で使用するのだろう、たくさんの行進曲のレコードが詰まっていた。ある放課後、私は放送室で放課後のバックグラウンドミュージックを物色していた。一丁景気づけに流すか!と取りだしたのが「軍艦マーチ」昔はパチンコ屋の定番音楽だったあれである。「若鷲の歌」だの次々と軍歌を流すと突然職員室から走ってきた千賀先生に怒鳴られ、こっぴどく叱られた。その顔は蒼白だった。当時保守的な家に育った私にはなぜ怒られているのかがよく判らなかった。

 そんな先生が担任だったものだから、卒業後も怖さが先に立って同窓会もほとんどしないか、他のクラスとの合同クラス会にすること多かった。

 卒業から20年ほど経ったある日、私がその頃兼務で勤務していた向日市文化資料館に初老のご夫婦が訪ねてこられた。

 「千賀です。山中君の記事を新聞で見たので尋ねてきました。」

とにかくびっくりした。実はクラス会を開いても先生は多忙でご出席下さることはなかったのでお会いするのはまさに卒業以来である。少し老けられたが、あの痩せて精悍で、鋭い目のお顔は変わっておられなかった。

 「ご無沙汰しております。」としか言いようがなかった。その時でも直ぐに思い浮かんだのが先の叱られた光景である。(「また先生の気に食わないことを何かしでかしたかな?」とふと、不安に襲われた。)

 「あなたの発掘調査の記事が出てたので女房と2人でやって来たんや」

 「有り難うございます」

 「頑張っとるんやな!」

 「いえ、はい」

ぎこちない会話が続いた中で判ったことは先生は既にご退職なさり、今は歴史が好きで、新聞の記事をよく読んで下さっているという。何度も名前が出るのでそれで会いに来たという。

 あの出来の悪い学級委員長、怒られてばかりいた児童をよくぞ覚えて下さっていたものだと、感激した。以来何かある度にお出で下さった。講演会、現地説明会、史跡巡り等々。

 しかし、二年程前の年賀状にこの頃は体調がよくないと書かれていた。それが現実になった。とても寂しい!!あんなに大声で、怒鳴りつけて叱ってくれる先生に、その後会ったこともない。あのランニングのコースの件以来、私は必ず道案内を東西南北でする。どこに行っても先ずどこが北かを確認して話を聞く。もちろん、軍歌は二度と聴くこともない。

 あの時何も言われなかったが、先生のお歳を考えると、戦争に行かれ、その悲惨さを実感されていたのだろう。その後私が「反戦」に目覚めたのもひょっとしたら先生のあの時のお怒りが底流にあったからかも知れない。教師とは?を態度で示して下さった先生がもういらっしゃらないと思うだけで心のどこかに穴が空いたような寂しさがこみ上げて来る。

 2009年11月6日、とても悲しい一日となった。


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 戦争反対!!核兵器廃絶!! オバマ大統領の11月12日ヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

風邪を引いてしまいましたの条

2009-11-06 10:26:51 | yaasan随想
 一昨日(3日)は一年生の授業の延長線上で長岡宮を丸一日案内して歩きました。
 インフルエンザの心配もあったので、学生にはマスクを着用させ、もちろん私もマスクを付けての案内でした。前日が異常に寒かったのですが、それに比べると少しはましでした。それでも日陰になると、とても寒く感じました。

 今年の1年生の後期の授業では、趣向を変えて、一昨年、歴博でやった展示に使ったパネルを利用して「学芸員の基礎を学ばせよう」という企画です。一昨年の展示は言うまでもなく長岡京でしたので、高校時代に長岡京のなの字も教えられていない一年生に長岡京を体験してもらおうという主旨での現地案内でした。



 元気な一年生達。でも私のせいで怪しいマスク姿で長岡宮を歩きました。ゴメンね。

 6人の一年生に3年生が一人加わって、とても熱心で和気藹々とした楽しい一日でした。ただし、夕刻迫る頃の寒さは少し堪えました。本当ならみんなで食事をして帰らせるのですが、それもせず解散しました。申し訳なかった事態でした。

 今回の案内では初めて宝菩提院廃寺のあの風呂遺構の出た現場に行きました。



 発見された当時はこんな感じでした。

しかし行ってみると全くその面影はなく、地域全体が開発され尽くしていて、かつて、宝菩提院の背後にあった丘の斜面もなくなり、全く往時の景観を思い浮かべる事が不可能となっていました。

 驚いたことに、その背後の谷筋にあった道が、急な斜面ながら綺麗に舗装され、丘の上にある桓武天皇皇后藤原乙牟呂陵高畠陵へと進むことができるようになっていたのです。さらに、その途中の開発された住宅街から平安京南西部を一望することが可能となっていました。



 どこにもかつてのお寺の姿を彷彿とさせるものはなくなっていました。悲しい悲しい現実です。



 私が初めて向日市に行った頃はこの風景は高畠陵の背後の丘の竹藪の間からかすかに見えるだけでした。

 その後、五塚原古墳を経て向日市文化資料館へ。でも残念なことに当日は向日市内の指定文化財の展示と言うことで半分は片付けられ、所狭しと古地図やら古文書やらが並べられていました。

 開館して25年目の節目の年ですが、記念の行事もなく、資料館の現状に対する総括もなく、寂しい今日この頃です。ちなみにたまたま資料館前のタイムカプセルを覗くと、1984年11月3日に埋めたもので、後25年したら空けることになっていました。もちろん私は生きていませんが、その時誰がどんな思いでこれを空けるのですかね。少し心配になりました。

 この後、向日神社から大極殿、朝堂院、築地、内裏と定番のコースですが、歩きました。学生もかなり疲れてきたので少々早めの17時には向日町駅で解散しました。 

 そんなこんなで長岡京を丸一日歩いたせいか、とても疲れました。
 しかし、翌日、午後から奈良で会議があったので出かけました。その会議室がとても寒かったのです(途中で誰かが暖房を入れてくれました。それくらい寒かったのですが、私には時既に遅しでした)。本当なら、夕方会議が終わって津に戻るところ、頭痛と寒気で急遽京都の家に帰りました。ひょっとして息子の息子に新型インフルエンザをうつされたかな?と心配で、用心のため、それからずっと先程まで布団の中でおとなしく丸まっていました。

 幸いなことに、熱が上がってこないのでインフルエンザでないことは間違いないようでした。先程も、元気になりつつある息子の息子と久しぶりに話しました。五歳の彼が言うには、

 「あの苦しみはなー、大きいとおちゃんには味あわせたくないからなー、僕には近づいたらあかんで!」というものでした(笑)。

 もちろん既にお医者さんから完治のお墨付きをもらっているので私とも向かい合って話せるのですが、よほど苦しかったのでしょう。新型は五歳くらいから脳症など危ないという話しもありましたので、とても心配しましたが、これでホッとしました。

 皆さんもインフルエンザには気を付けて下さいね。

 インフルエンザには負けないぞ!と精神力だけではどうにもなりませんので日頃からのうがい、マスク、人混みには近付かないを実行しましょうね。

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宝塚古墳出土埴輪再検討の条

2009-11-02 23:36:19 | 三重大学考古学研究室情報
 松阪市に所在する宝塚古墳は大型の船形埴輪がほぼ完形で出土したことで全国的にもよく知られる三重県では数少ない大型の前方後円墳である。
 既に正報告書も出版され、出土埴輪についてはおおかたの情報が発信されている。しかし、報告書をよく読んでみると形象埴輪についての分析は多いが、大半を占める円筒埴輪については余り多くの情報は記されていないのが実情である。もっとも、円筒埴輪についてはそもそもが余りできのいい作り方ではなく、担当者の知的欲求を刺激しなかった可能性は高い。



 これは前方部先端部におかれた楯形埴輪の円筒部。これが楯形の一部であることも彼女の資料で確実になった。

 実は前にも記したかもしれないが、今年の四年生は当初10人も所属していた。しかし、元々無理だと判っていたのだが、二人が留年確実となり、一人がいろいろな事情で抜けることになり、今は7人になってしまった。これでも文化学科のゼミ生としては多い方から2番目という盛況ぶりなのである。

 ただしこれには大いなる落ちがある。実は最近就職状況調査なるものが度々回ってくるのだが、私の学生の欄は今のところ誰も就職欄に丸がつかないのである。もちろん不況と言うこともあるのだが、かなり積極的に自らの意志で就職しようとしない学生が大半なのである。

 進学するか、じっくり準備をして、自分のやりたいことをやるという学生ばかりなのである。困ったことなのである。恐らくご父兄にしてみれば、「山中はけしからん!!」とお怒りであるに違いない。



 学生が「この地区の埴輪は胎土が悪くて持つと痛いのです。さらにとても重くて、大きくて、こんなのこの地区にだけあるんです!!」と言ってた代物である。確かに重くて大きい。

 そんな学生の一人、三年生まで合気道に打ち込んでいた女子学生が、4年生になってピタリと辞め、卒論の準備を始めた。一年生の時から知っている学生で、その頃から「埴輪が大好き」という学生であった。ただし、別に学問的に何か興味があるわけではないのである。何となく、人物埴輪とかが「可愛い!」から好きなだけなのである。そこで、ま、折角だから地元にある有名な埴輪でも扱えばちょっとは印象に残る学生時代ということになるのかな、と思い、

 「宝塚古墳でもやってみないか?」と提案してみた。

 「先ず、報告書をじっくり読んで、その中から何か新しい課題でも見つけようか」と具体的な方法を指示してみた。

 

 今回の調査で、埴輪には少量のスサが入れられ、藁のようなもので「ナデ」ているていることが判った。これも現物を見ての収穫であった。

 それから1ヶ月、川西さんの「円筒埴輪総論」だって読んだことのない彼女が円筒埴輪と苦闘しだした。夏休み前になると、自ら購入したという報告書が真っ黒になるくらい読み込み、書き込み、分類した資料が山のように示された。まるで川西論文を読むかのような分析結果が、宝塚一号墳の墳丘や造り出しに用いられた円筒埴輪の分析から示された。もちろん川西さんの説にうまくのらない埴輪も沢山あった。
 「報告書だけでは情報も足りないから、現物を見に行ってあなたの分析結果を再検討しようよ」と提案した。
 夏休みの40度を超す松阪市埋蔵文化財センターの収蔵庫に毎日通った彼女のデーターはさらに詳細に、大量に積み上げられていった。夏休み中ほとんど日本にいなかった私の下にメールで報告が届く。とても興味深いものへとどんどん進んでいた。その結果が10月半ばの演習で報告された。しかし私自身の目で見ないと納得できない点も多々あった。そこで、10月30日に学生と一緒に収蔵庫に出かけ、一緒に埴輪を確認した。

 

 底部にも藁圧痕がたくさん付いている。

 分析通り、調整やタガの断面、胎土や成形技法の共通点もあったが、もう少し丁寧なグルーピングも求められた。ただし、とにかくよく観察し、よく記録に留め、資料化していることに感心した。



 造り出しの正面側には胎土の質のいい、綺麗な円筒埴輪が置かれていたという。
それに比べて先程の奴は大きくてとても胎土が悪い。これまでいろいろ言われてきたことの一部ではあるが、円筒埴輪でこれが証明できれば素晴らしい!!

 松阪市の教育委員会には実は私が三重大へ行って初めの頃に教えた女子学生が一般職で就職していた。彼女の卒論は三重県地方の円筒埴輪を詳細に分析し、その製作集団と古墳築造者との関係を見事にあぶり出したものだった。実は彼女が卒論をやる少し前に宝塚古墳の発掘調査が進んでいた。埴輪に興味を持っていたし、実家が直ぐ近くなので、是非埴輪の整理をやらせてやって欲しい。バイト賃も何もいらないから作業をさせてやって欲しいと、私は何度も頭を下げた。

 しかし、何故か、させてはもらえず、遠く同志社大学から院生が来て整理などを手伝ったらしい。とても残念だった。彼女なら、恐らく、今回の四年生がやった作業の大半はその時にやり終え、報告書に活かすことができたに違いない。悔しかった。

 でもそのやり残した仕事を、今回後輩がやってくれそうな勢いである。今、彼女には、大学院進学を勧めている。そして、宝塚だけではなく、全国の埴輪を徹底的に再分析してくれることを大いに期待している。

 7人は一人として「就職」しないかも知れない。でも、こんな学生が巣立ってくれれば、少しは教師らしい仕事ができたかな、と思いたくなる。

 この前伊豆へ調査に行った学生、春に山陽道を歩いた学生、みんなみんな女子学生だ。今は彼女たちの方がとてもとても熱心で、能力に溢れ、頑張っている。もちろん学問に性差は関係ないのだから、「女子」学生などと言うのはナンセンスなのだが、まだまだ社会の目はそう甘くはない。彼女たちこそこのまだまだ偏見に満ちあふれた社会を打ち破る先兵として頑張って欲しい。

 そんな思いを強くした一日だった。

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 そしてもちろん、 オバマ大統領の11月ヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!<



ザ・フォク・クルセダーズ新結成記念・解散音楽会に涙しましたの条

2009-11-01 23:05:34 | yaasan随想
 先日亡くなった加藤和彦さんを偲んで、2002年10月17日に行われた「ザ・フォク・クルセダーズ新結成記念・解散音楽会」が、今日11月1日13時からNHKBS2で放送された。

 久しぶりに北山修の語りを聞き、あの加藤和彦の甘い歌声に引き込まれた。
 坂崎幸之助を知らなかったが、とても澄んだ綺麗な声で聞き惚れた。

 市川猿之助の口上に始まり、歌われる歌の全てが思い出深く、懐かしく、そしてこれでもう聞くことができないのかと思うと悲しく、切ない2時間だった。

 

 この歌声が聞こえなくなったなんて・・・。

 僕の18歳は「帰って来たヨッパライ」で始まった。現役で受験に失敗し、一浪の受験勉強中、深夜放送でこのわけの判らない、しかしとてもユーモアのある、リズミカルな歌に引き込まれた。歌うグループが京都の学生達だと聞いてとても親しみを持った。

 二浪時代の私は、後のない浪人であるにもかかわらず、ベトナム反戦闘争にのめり込んでいた。その時聞いたイムジン河は、南北に分断された朝鮮半島の悲劇と、統一を願う反戦の聖歌に聞こえた。彼らの歌声や、岡林の反戦歌が私の数少ない「持ち歌」だった。

 テレビを見ながら久しぶりに口ずさんだ「ヨッパライ」「イムジン河」「戦争を知らない子どもたち」いつしか涙で画面が曇って見えた。

 今、私たちの周りにもたくさんの「戦争」が横たわっている。にもかかわらず、私も学生も「反戦」の一言も言わない、歌わない。

 加藤和彦は彼の能力のありったけを音楽にして、そして逝ったのかも知れない。でも、どこかで、何もしない、何もできない自分にも少し腹が立っていたのかもしれない。(と勝手に思うことにしている)

 もちろん番組をビデオに撮った。しばらく i-phone で聞くことになるだろう(聞き続けたい、と思う)。そしてこの歌声を聞きながら消えていくことができるのなら、どんなに幸せかと夢見る今日だった。

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 アフガンから撤退できないオバマに幻想を抱くことがナンセンスだとは判っているが、でも オバマ大統領の11月、ヒロシマ,ナガサキ訪問から、核兵器廃絶の第一歩を始めよう!!

 


息子の娘その後そしてもう見せないの条

2009-11-01 15:21:00 | yaasan随想
 山田博士からはわざわざメールでお祝いを頂いた上に、平安京閑話でもご紹介いただいた息子の娘であります。

 生まれて直ぐはこんなだったのですが、
 

 たった五日でこんなに変わるんですね。昨日退院してきたので初めて見せてもらいました。

 

 こんなに人間らしくなって、やはり女の子らしい骨格をしています。

 

 早くも愛嬌を振りまいているようにも見えます。とりあえず、ま、普通の赤ちゃんというところでしょうか(巷では早くもお婆ちゃん共が、「美人」だの「可愛い」だの、言っていますが、そんなもん判るわけがない!!)。ただし、面が割れると山田博士に誘拐されそうなので、これ以上はもう絶対に見せませんよ!!

 そんなことを言っていたら、今朝になって、息子の息子が新型インフルエンザに罹っていることが判りました(保育園の同じクラスの子が5人も罹っていたとか)。たまたま昨日から大学が全学停電で使えないのでやむなく京都に帰ったために私は濃厚接触者になってしまい、マスクを強制されています。皆さんもしばらくは私に近付かない方がいいですよ。

 この子のお嫁入りまで私が生きていることは絶対に無理ですが、ま、平和な社会になって、無事生きていくことを祈るばかりです。あ、そうそう、まだなまえがついていない(おしえてもらえない)ので、とうぜんのことながらこのこはむすこのむすめとよばざるをえないのであります。

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 もちろん この子等の平和のためにこそ、オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ11月訪問を求めよう!!</fon