yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

鈴鹿関報告番外編-2  ご指導有り難うございました!の条

2006-10-29 01:49:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 発掘調査中にはいろいろな方が見学に来られ、意見を拝聴することができました。( 次々と研究者が現場を訪れて下さったのですが、お名前を出す許可を得ていませんので基本的にイニシャルにしましたご無礼お許し下さい。)
 皆さん貴重な意見や着想を教えてくださいました。お陰様で発掘調査に際しましても遺構の理解に大いに役立てることができました。厚く御礼申し上げます。そこで調査も終了したところで各先生方のご意見、見解をご紹介し、皆様の理解の助けにしていただければと思います。


(東北大学の先生方と古厩にて)

 一番最初に来ていただいたのは東京大学史料編纂所TI先生でした。続いて近畿大学ST先生、東北学院大学KK先生にお出でいただきましたが生憎私が留守だったもので直接貴重なご意見をお伺いすることができませんでした。残念!!次いで、東北大学IT・NH両先生、長崎外国語大学KM先生、皇學館大学ON先生、三重大学YY・HY両先生、立命館大学KT先生、奈良女子大学TK・YS先生、名古屋大学のKY先生、奈良文化財研究所OT先生、橿原考古学研究所IT先生、花園大学YK先生が次々とお出でになりました。特に最後にお出でになった國學院大學のSY・SY両先生と國學院栃木女子短期大学のSM先生には伊勢国府を御案内するつもりが道を間違えてしまったあげく予定の時間に津に戻れず、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。ここに改めてお詫び申し上げます。 他、地元の埋蔵文化財調査担当者の方々、元同僚の仲間達が現場を見学に来られ様々な意見を拝聴することができました。来週の日曜日(11月5日)には条里制・古代都市研究会の現地見学会の皆さんがお出でいただくことになっています。話題は当然「東海道」となるに違い有りません。楽しみです。



(國學院大學の先生方と現場上の巨岩にて東海道を見る。本当にごめんなさい!お付き合いいただいた奈良文化財研究所のITさんにも多大なご迷惑をおかけいたしました。)

 特にこの春に滋賀県立大学をご勇退なさった高橋美久二先生からは、野磨駅跡の貴重な報告書や先生の最新の御高論を頂き、山陽道の駅が丘陵斜面地の一角に建設され、築地構造の壁で囲繞されていたことを教えていただきました。その中心建物の北側斜面側には石組みがなされており、今回の築地基底部の石組み同様大きさの異なる石を貼り付けるような工法であるように見受けられます。私の言うところの「古墳葺石工法」であります。先日ご紹介した大野城屯水石垣の一部にも認められた稚拙な?石組み工法が古代の地方官衙遺跡においても認められるとしたら、土木技術史を研究する上で貴重な資料といえます。私が最も尊敬する高橋先生から温かい励ましのお言葉も頂き本当にうれしく思いました。本当ならお迎えに上がってでも現地を見ていただきたいのですが、それが叶わないところがとても残念でなりません。
直接拝聴することができなかった先生方もいらっしゃいますが、歴史、考古、地理、文学など様々な分野の先生方から多様な見解を伺うことができました。忘れないうちにその見解を少し整理しておくことにします。あくまで私の忘備で、聞き間違い、勘違い、理解不足など有ろうかと思いますが、私的なメモとして残しておくことにします。


(いろいろな先生方に山に登っていただきました。お疲れ様でした。)

 考古学の先生方からは、地層の堆積状況や崩落過程について様々なご意見をいただくことができました。
なんと言っても意見が分かれたのは崩落過程の一つではないかと考えた大石の解釈でした。大石の載る土層が微妙な土色をなしている上、結構よく締まっているので、やはり、築造過程のものではないかというご意見です。既に述べたことがありますように私たちもそう考えたのですが、土層の斬り合い関係から崩落過程の一部と解釈することも不可能ではないかと考えました。最終段階で地層の詳細な分層を試み、結論として次のようなものを導き出しました。①南側斜面を下る小さな谷地形が造成工事着手段階に認められ、これを埋めるために伝統的「古墳葺石工法」でもって巨岩や土石を利用して埋め立てる。②その上で、築地基底部を形成するために人頭大の礫を含む「土塁」を構築する。③「土塁」に最も雨水の流下する部分に人頭大前後の石を貼り付ける。④「土塁」中に木製暗渠を設ける。⑤「土塁」上面に掘り込みを入れ、築地を構築する。⑥暗渠部分を中心に崩落が生じ、築地が大きく解体する。
次いで西側中段の造成過程と崩落についても貴重なご意見を伺うことができました。不破関同様土塁状の基底部には外側に堀があるのではないかというご指摘です。もちろんそれも考えての結論でしたが、地層が斜面上に堆積している現状から、断面に見えている地層が必ずしもそのまま奥に続いているとは限らないのではないかというご意見です。確かに一部そうした状況を確認している地層があり、少し調査区を広げて平面から再精査することにしましたが、結論的には西側には後世の雨水の流露は確認できるが、大規模な堀はないことが判明しました。
考古学だけではなく他の分野の先生方の指摘でもあるのですが、これら築地がどこをどう巡るのかという問題には関心が集中しました。
正直言っていろいろな可能性が考えられ、正論がないのが現状ですが、多くは、現状を活かして、地形に沿って建設されているという、未調査の部分も含めて確認できる築地状高まり全てをつなぎ合わせて考える見解です。そこに鈴鹿関の特徴があるのではないかというご意見もいただきました。私たちも基本的にそう考えているのですが、調査中の委員会で、調査地外に部分トレンチを入れて検討してはどうかという積極的なご意見も頂きありがたく拝聴しました。時間が許せば少し実施してみたく思っていましたが果たせませんでした。
瓦の年代観については異論はありませんでしたが、出土須恵器については猿投産だろうというご指摘がありました。年代観も含めて一致し、一安心です。
調査方法についても築地基底部まできれいに出すために瓦の堆積を一部除去してでも早く下まで掘ってはどうかというご意見もありました。貴重な遺跡だけに慎重に慎重を重ね、こうしていろいろな情報を即座に提供して調査してきました。最終段階で瓦落ち部分を確認し、その幅が1㍍足らずの狭いものであることが判明しました。今回の発掘調査範囲では基底部上面の雨水を排水する小溝群による暗渠排水溝は発見できませんでした。もちろん今回の調査地以外のところも早く掘ったら!というご意見もいただきました。できることならこの現場に死ぬまでへばりついて調査したいくらいなので大変ありがたいお言葉なのですが、大学での授業もあり、たくさんの雑務も待っていましたので諦めました。いずれ亀山市教育委員会が継続的に調査されることでしょうから、定年後にはボランテアで参加させてもらおうかと思っています(迷惑かな?!)。

文献の先生方からもたくさんのご研究成果のご教示をいただきました。まだ未公表のご見解もあるようなので詳しくは述べられませんが、三関が律令に規定されているように「関剗」であることに注目すべきであることをご教示いただいたのは東北大学の今泉隆雄・永田英明両先生のご指摘でした。現在調査している遺構そのものが剗であることを明快に指摘していただきました。厚く御礼申し上げます。剗が築地であることも日本の「関」の特徴と考えていいのかもしれません。なぜならば、再検討したところ、不破関も土塁状の高まりの上に構築された築地を外城に持っていることが判明しているからです(当然愛発関も築地でしょう!!)。その剗に使用された瓦が重圈文(結局重画文は出ませんでした。)であること、伊勢国府からも同瓦窯産の重圈文が出ていることも、その維持管理に国司があたる三関の特徴と見事に一致しています。おそらく複雑な自然地形の中に大規模な造成工事を実施してまで建設した本城壁は剗の機能を十二分に発揮していると言えそうです。
奈良女子大学の舘野先生からは鈴鹿関の場合「大関」「小関」をどう考えるのか、という課題も与えられました。もちろんこれまでにも八賀先生による東西城の復原案な
どがあり、これらと大関・小関の関係などが注目されるところです。





(現場の直ぐ上にある巨岩の上からご指導?いただく山田博士。愛妻へのメールが欠かせないらしく、こんな所からもメールなさっていました。)

鈴鹿関が壬申の乱における進行コース、奈良時代の東海道、平安時代の東海道、伊勢への別街道等々複雑に入り組む歴史的・交通史的環境下にありますので、今回の調査ではとてもそうした課題に答えることができませんが、軍事的性格、官衙的性格、交通制度的性格等々複雑に絡む歴史環境を、これから地道な発掘調査によって解明していかなければならないことを痛感させられたところです。まだまだご指摘、ご教示いただいたことはたくさんあるのですが、とりあえずこうした指摘を胸に刻み年度末にはまとめなければならない報告書に向け早速月末から準備に係ります。

ランキング登録もよろしく

鈴鹿関報告番外編  驚きの大野城屯水石垣の条

2006-10-23 02:20:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 本当はブログを書いているときではないのです。ここ数日朝から晩まで科研費の申請書類とにらめっこしていると気持ちが滅入ってきてなかなか進まないのです。だからコーヒーブレーク!原稿をお待ちの皆さんお許しを!

 実は先週末大宰府史跡整備員会に出席してきました。この会議は大先生ばかりがいらっしゃって、東大のS先生が最年少で末席に座るというとんでもない委員会。私はいつも居所がなくて、S先生の横に座ることにしている。

(崩落した屯水土塁城壁の版築は見事なものだった。)


 そんな大宰府の会議の中心議題はもちろん大宰府の本年度の調査・研究状況、来年度の調査方針等なのだが、いつも期待しているのが会議終了後に案内いただける周辺関連遺跡の発掘現場。今回はそれがここ数年続いている九州で連続する集中豪雨や台風、地震などによる大野城の被害の再建・整備工事に伴う発掘現場の見学だったのです。見学した委員の先生方が次々と仰るのが、こんな災害でもなければ大野城の石垣をこんなに大胆に調査することはなかっただろうな、の一言。


(こんなに見事な版築が延々と続くのです。すごい!!)

 数十㍍に渡って崩落した城壁の発掘調査と修復の為の確認調査がなされているのです。


(これまでに大野城で唯一確認されていた石垣の水門施設。この水が出る状況から「屯水」と名が付いたらしい。)

 今回は屯水城壁と北石垣を拝見することができた。特に北石垣では新たに城門が発見され、その設置位置などから様々な議論が展開された。特に私が注意深く観察したのが、城門の直ぐ西が「へ」の字状に屈曲している部分でした。なぜか?そう!鈴鹿関の屈曲部を思い出したからなんです。


(北大垣の屈曲部の土層の乱れ。ここに堰板がかまされ方向を変えたのではないだろうか。)

 もちろん設置位置が同じ斜面途中とはいえ、谷筋ではないので直接的な参考にはならないのですが、百済の土塁築造技術の一端を見ることができて大変参考になりました。実に見事な版築で土塁を積み上げるのですが、ちょうどコーナー部に日本の築地で言うところの添え柱が置かれているのです。高さ5メートルはあろうかという大土塁ですから築地とは比べものになりませんが、他の土塁(つまり直線的に延びるところ)では築造単位が見えないというのですが、このコーナー部はほぼこの位置で城壁の版築を一度止め、改めて角度を付けて先へと延ばしているようなのです。明瞭な堰板の跡は認められませんでしたが、添え柱に沿ってかなり色の異なる土が認められましたのでこれが堰板のあった証拠だと感じました。もちろん鈴鹿関の屈曲部はどうも石垣や暗渠などで独立していたようなので全く異なっています。その技術の差に愕然として現場を去ったのでした。

 元々鈴鹿関と大野城を比較するのが間違っている。大野城の築造者は百済の亡命者たちではないか。そんな無駄なことを考えるから誇大妄想だと言うんです。等と自戒しながら次の現場へ進んだのです。


(本当に驚きました。こんなに似ているなんて。)

 しかし、そこで見たものは、ナナナント鈴鹿関でした!!

 まるで鈴鹿に戻ったかのような錯覚に陥りました。小さな谷を埋めるように巨岩が落とし込まれ、その間に周辺の土砂が堆積しているのです。堆積土の断面も斜め方向ですから間違いなさそうです。さらに驚いたのは、この土木工事の上に土塁が構築されるのですが、その土塁の構築方法が、まさに鈴鹿と同じ!!
 人頭大の礫を多く含みながら、厚さ20から30センチ単位で積み上げていくのです。異なるのは鈴鹿にはその上に築地が構築されること!!これを見ても鈴鹿の防御性と装飾性の両面がよく分かるでしょう。

(足下の巨岩。頭上の粗い造成。どれを見ても鈴鹿の関ですよね。私はこれこそ倭人の伝統的技術だと感じました。大野城は百済の技術者だけで造ったのではなかったのです。おそらくこの技術体系は古墳の葺石築造技術から来ていると思います。)


(比べてみてください。こちら鈴鹿関。畦の残し方までそっくりで、笑ってしまいました。「土木技術からみた日本の技術継承」なんて論文でも書こうかしら・・・)

 思わず「鈴鹿と一緒!」と叫んでしまいました。今度K市教育委員会の方々を連れてきてもいいですか?と聞いてしまいました。もちろんOK!

 そんな興奮を伝えたくてコーヒーブレークしました。ではまた仕事に戻ります。科研費ができたらまた溜まっている鈴鹿関報告を書くことにします。

ランキング登録もよろしく



実況中継  山田博士の凛々しいお姿生中継の条

2006-10-16 13:20:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 本日は大学の事務当局からの強制命令で休みをとらされ、京都におりました。そこで山田博士予告のKBS放送の「京都ちゃちゃちゃ」という番組(私は生まれて初めて)をみました。


(アップの博士 ゴメンね内のテレビまだアナログなもので写りが悪くて)

 まず山田博士の大学での授業風景が紹介され、颯爽と博士がご登場です。

 実によく準備がされていて、まるで普通に大学の授業を聞くような感じでスタートしました。アナウンサーもなかなか地方局としては洗練されていて(三重のケーブルテレビに出てくる内の卒業生なんかよりよっぽど洗練されてる(ア、ゴメン)。やっぱり京都弁というのが何となく雰囲気を和らげるのかな・・・。僕らにとってはすごく聞き心地がよい。


(初期京都未完成説を蕩々と述べる博士。後ろの図面見えるかな?!)
 さてまず山田博士が京都の初期は最初は左右対称ではなかった!といきなり衝撃発言。きっと京都市埋文研にこれでまた足が向けられんようになるわな・・・(こんなこともっと歴博の共同研究会で積極的にいうてくれたらええのに・・・等と思いながら聞く。そうそう!あのパネルようできてたから、今度の「長岡京遷都」の歴博の展示会に貸してもらお!そうすれば長岡京だけが全部できてなかったわけではないことがよう判るし!!)。


(アナウンサーの進行もとてもよかった)

 その後得意の平安京の変遷がわかりやすいパネルで示され、いよいよクライマックスへ。写真を取り損ねたんですが、なかなかよかったのは千本丸太町の現在の写真に大極殿の復元イラストを重ねてその大きさを比較したところ!!(これも今度の展示に使えるな!頂戴ね!)わかりやすかった。アナウンサーも感心してましたもんね。大成功!!
 平安宮をイメージする材料として平安神宮を出し、このほぼ倍が元の平安宮だという話にアナウンサーは圧倒されていました。何回も平安神宮に行ったはるからなんです。

 なんといってもこれが京都のKBSという放送局でやっているもんやから「千本丸太町」とか「平安神宮」とか、「鴨川」とか何の抵抗もなくアナウンサー達もその場所が理解できるところが強み。彼らも別に難しいことを聞いているという風がない。三重で京都の話をしても全然通じひんのと大違い!やっぱり都の研究は都やね。

 最後に遺跡を大事にして、遺跡を下に研究をさらに進めたいなんて殺し文句で決めて、「かっこいい!!」「ピューピュー」

 無事「講義」が終わって、とてもうまくいったという安堵感からか、さらににこやかな山田博士の顔がアップに映し出され、終了。その後も番組に出続け、ただいま12:53画面から消えました。ナナナント最後は新製品の八つ橋を思いっきりほおばっていました。黒ごまの八つ橋!うまそうに食べてましたよ。

 最後に内の奥さんの感想。
 「山田さん痩せはったんとちゃう?ちょっと白髪が増えはったけど・・・」
 私
 「うーん?歳とったんちゃうかな?!」(あれだけ美味を食して痩せるはずがない という私の予断と偏見!によるねたみも含めた反応)

 よかったですよ。きっとこれでさらに露出度アップ!女学生の人気急上昇。奥さんの心配が倍増!??

 最近は京都の文化人として定着しているだけに堂々たるものでした。きっとこの後美味なる昼ご飯を食べるに違いない。これから電話して邪魔したろかな・・・?!

ランキング登録もよろしく


(とても素晴らしかった博士の授業!!ふぁんが一杯できましたよ。ホントならこれから博士のおごりで祇園辺りへ呑みに行きたいところなんやけどね・・・)

講演会報告  壬申の乱と縄生廃寺の条

2006-10-15 23:03:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 昨日は三重大学の主催する文化フォーラムで標記のような講演をしてきました。
 大学というところは本当に宣伝がへたくそで、今回はまだ40人ほど来られていましたが、聞くところによると伊賀でやったフォーラムには一桁の参加者しかなかったとか、信じられません。もっともそれを深刻に受け止められないところも大学の沈下の原因なのかもしれませんね。

 私の話がどれだけ人々の期待に添うものだったかは後ほど公開されるアンケートに記されていることでしょうからとても心配ですが、まずは内容をご紹介しておきましょう。

 縄生廃寺は塔心礎の舎利孔に唐三彩の碗やガラス製の舎利容器を埋納していたことで知られるお寺です。昨年ドイツでの日本展に出品された際、展示準備の過程で破損したことでも有名になってしまいました。現在の行政区画では三重県三重郡朝日町の縄生に位置しています。今からちょうど20年前に中部電力の鉄塔建設工事に際し発掘調査され、見事な出土品から建設予定地を変更して保存された遺跡です。唐三彩は国の重要文化財に指定されたのですがなぜか遺跡は現在も未指定のまま現地に残っています。

(塔心礎に納められていた唐三彩とガラス製舎利容器。[縄生廃寺発掘調査報告書]より)


 廃寺といっても塔跡しかない極めて特異な「寺院」です。基壇規模が10m四方ほどしかない小規模なもので、三重の塔であったと推定されています。鉄塔の移設に際し周辺部の一部が発掘調査されましたが、他の伽藍は発見されておらず。現状では塔だけで構成されていたものと推定されます。この点も縄生廃寺の性格を大いに反映しているものと思われます。


(塔心礎と基壇[同報告書]より)

 私は縄生廃寺こそ壬申の乱において大海人皇子達が拠点とした桑名の施設であり、70年後聖武天皇が利用した桑名頓宮の一角だったのではないかと考えています。朝日町自身は現在は三重郡(旧朝明郡)ですが、当時は桑名郡の南端に位置していたのではないでしょうか。今も直ぐ西側に所在する桑部・熊部などの地名などから見て、この丘陵自体が桑名郡だったと考えるのです。


(縄生廃寺塔基壇平面図・断面図[同報告書]より)
 ところで縄生廃寺周辺部には他に特に目立った遺跡はありません。特に6世紀後半から7世紀中頃までの資料はほとんど判っていません。もちろん壬申の乱の功臣として知られる人物もいません。にもかかわらず当時としては日本一とも言える最高級の陶器を塔心礎に埋納しているのです。この埋納者は王権以外にあり得ないと思うのです。出土した軒瓦や唐三彩の碗の年代観から7世紀末から8世紀初めのものだと考えられています。
 八賀晋氏は伊勢北部から美濃に展開する川原寺式瓦を壬申の乱と結び付けて考察されていますが、私は必ずしもそうとは言い切れない側面があると考えています。特に縄生廃寺の瓦が壬申の乱から30年近く後のものであることからするととても関連性は薄いと思うのです。
 実はちょうどこの頃、702年に持統天皇が東国へ行幸し、伊勢にも立ち寄っています。そして、都へ帰って間もなく亡くなります。壬申の乱ゆかりの地を巡り、思い出深い桑名の地に記念碑としてあるいは夫天武を弔うために塔を建てた、と考えるのです。

(この地図の半分以下に見えるのが朝明郡条里の痕跡です。その北端がまさにこの条里の方向を規制した地割りです。その先の丘に縄生廃寺はあります。)


 もう一つの理由が縄生廃寺の場所です。久留倍遺跡の発見によって判ることは縄生廃寺の丘の下(南)に展開する朝明郡条里の基準線と思われる地割りを西へ伸ばすと久留倍遺跡に到達することです。私は久留倍遺跡が聖武天皇の朝明頓宮跡だと考えていますから、当然久留倍遺跡の一角を東海道が通ったと考えます。では桑名へはどのコースをたどったのでしょうか。官道が近辺条里の基準になることは足利健亮先生が指摘されてきたことです。朝明頓宮と桑名頓宮を結ぶ直線の地割りこそ奈良時代の東海道だったのではないでしょうか。さらに、この直線道が員弁川あるいは揖斐川に当たる地点が伊勢湾を渡る港の地であったと考えます。
 壬申の乱の時期の原東海道がどの地点を通ったのかについての資料はありませんが、奈良時代の東海道をこの地点に推定可能ならば、当然あまり変わらない地点を通っていたのではないでしょうか。迹太川で天照大神を望拝し、桑名に向かった大海人皇子一行が安息の場所として選んだところこそが、海を望み不破関と鈴鹿の関、両地点に至る道を望むことのできる丘だったとしても不思議ではありません。なお、以前にご紹介しました上石津町へ至る道もまた縄生廃寺の前を通っている現在の国道421号線から365号線です。私は多度を通る川沿いの道よりもこの山側の道を大海人皇子も高市皇子も通って不破関(道)へ至ったと考えています。その第一の根拠は421号線と365号線の接点の位置に後に天武天皇によって大安寺に施入される斯理志野(現在の志礼石新田)という墾田地があることです。


 その地は前方に員弁川あるいは揖斐川、背後に東海道を控え、防御性からも交通の利便性からも極めて優れた場所だったのです。

ランキング登録もよろしく

鈴鹿関報告-17  やっと現場が終わりましたの条

2006-10-14 01:06:11 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 長かった現場が今週の月曜日に終わりました。直ぐに書き込もうと思っていたのですが、相次いで押し寄せる事務や授業、様々な会議に、結局未だに総括が書けないでいます。でも少し中日新聞に連載させていただくことになった原稿ができましたので、ここに紹介しておきます。三重県の方ならお読みになることもあるかもしれませんが、それ以外では読むことは不可能ですので少しアレンジしてブログにも掲載することにしました。

 題して「鈴鹿関余話別冊」です。


鈴鹿関余話別冊-1

 大土木工事の謎~崖上の城壁~


(大土木工事の跡を示す崖。上段が城壁の基礎部分。その下の崖に谷を埋めた大きな石や土砂が確認できた。この部分の造成土はやや柔らかく、斜面上方から谷に向かって次々と土砂を落とし込んだものと考えている。最深部からの高さ推定7㍍にも及ぶ大工事であった。雨の中シートを張って作業をしたことが思い出される。)


 「関所」というと水戸黄門でも度々登場するように、木戸があって、そこで身分証明書や荷物を点検するお役人とお役所の姿が思い浮かびます。古代においても同様で、『大宝律令』という法律によると、関所の第一の役割は無許可で旅をしている通行人がいないか等のチェックをすることとしています。特に三関(さんげん)と呼ばれた鈴鹿関、不破(ふわ)関、愛発(あらち)関にはもう一つ大事な機能がありました。城壁を築いて非常時に備えることでした。ただし、関にどのような施設が設けられていたかなどの実態は余りよく分かっていませんでした。
 ところが驚いたことに、今回の発掘調査によって、城壁は大土木工事を行った総延長最長2㎞にも及ぶ壮大な施設であるだけでなく、美しい築地塀であったことが判ってきたのです。城壁が設けられた場所は、鈴鹿山脈の南山裾にある観音山の斜面の途中でした。急な斜面には、いくつもの小さな谷があります。これを埋め立てておかないと真っ直ぐな城壁は築けません。そこでまず、山の上から石や土を落として谷を埋める土木工事が実施されました。中には数トンはあろうかという巨大な石も落とし込まれていました。斜面の凹凸をならすと、次に城壁の基礎工事が実施されます。特に谷の縁に沿って巡る城壁は基礎をしっかりしておかないと、簡単に崩れてしまいます。山頂から降り注ぐ鉄砲水を防ぐために堀が掘られ、幅10㍍、高さ2㍍近い土台が築かれました。
 土台の上に造られたのが築地塀です。お寺の塀などによく見られる白壁、瓦葺きの塀です。特に軒先には聖武天皇の宮殿のシンボルマークとも言える同心円を描いた瓦が使われていました。誰が造ったのかが一目で分かるよう工夫されていたのです。
城壁は防御を主目的にしているのですから、崖の上に設けるのは効果的です。しかし、見栄えは必要なかったはずです。なぜ聖武天皇のシンボルマークの入った瓦を用いた築地にしたのでしょうか。推理してみましょう。
 城壁の外側、つまり北と西は鈴鹿山脈に連なる山間部ですから、山を下って進入しようとする「賊」は高い塀に遮られて簡単には中にはいることができません。逆に谷側から塀をよじ登り、外に出ることはさらに困難です。実はこの谷に向かって南西方向から入ってくる道が古代の東海道だったのです。右に城山、左に観音山、その間をつなぐ瓦葺きの城壁、旅人は鈴鹿関の偉容に圧倒されたに違いありません。これこそ防御と見栄えを兼ね備えた城壁建築の目的だったのではないでしょうか。では何故聖武天皇がこれほどの大工事をしてまで鈴鹿関の城壁を建築しなければならなかったのでしょうか。
 

鈴鹿関余話別冊-2

 聖武天皇の変身~関所も大仏も~




(上 鈴鹿関第一次調査出土 下 切山瓦窯(亀山市関町萩原)出土
二つの「重圈文軒丸瓦」の発見によって、これらが鈴鹿関の建設のために、聖武天皇によって造られたことが分かりました。直ぐ近くの丘で大量に瓦を焼いていたようです。ところで現在までに軒丸瓦は一点しか出土していません。他の瓦類が大変残りがいいだけに流失したとも考えにくく、出土場所が西端であるだけに、あるいは棟の端に用いられたものではないかとも考えています。)

 聖武天皇といえば奈良の大仏さんです。全国に国分寺・国分尼寺を建てたことでも知られ、東海地方でも大垣市の美濃国分寺、豊川市の参河国分寺、鈴鹿市の伊勢国分寺など、旧国(現在の府県にほぼ相当)毎に建設されたことが知られています。日本の国を仏教の力を借りて護ろうとしたのです。
 聖武天皇は東海地方と縁が深く、天平十二(七四〇)年には、二ヶ月間に渡り伊賀、伊勢、美濃、近江を旅しています。旅の理由は直前に起こった藤原広嗣の乱だといわれてきました。広嗣は父宇合(うまかい)を失った後、大宰府に左遷され、不満を抱いて九州の地で反乱を起こします。驚いた天皇が逃げるようにして東へ向かったというのが通説です。しかし、旅に際して宿泊した施設が相次いで発見され、旅行が周到な準備の下に実施されたことが判明してきました。四日市市久留(くる)倍(べ)遺跡は、聖武天皇が泊まった朝明頓宮(とんぐう)跡と私は推定しています。わずか二日の滞在のために郡の役所を壊して建てた施設です。
 旅行の最後には、遷都の詔が出され、奈良の平城京を廃止して、京都の恭仁(くに)京に都を遷すことが決定されます。以後矢継ぎ早に新政策が発表され、大仏建設もこの中で決定されました。
 実はこの旅行の途中で立ち寄ったのが鈴鹿関と不破関でした。今回の発掘調査によって、ちょうどこの頃に鈴鹿関の城壁が建設されたことが判ったのです。不破関の調査結果によると、関所の一角が奈良時代中頃に建設されたことが指摘されています。これらは偶然でしょうか。私は聖武天皇が明確な方針の下に二つの関所(おそらく愛発関も含めた三関)の大工事を実施したと考えたいのです。
 聖武天皇が尊敬する人物が曾祖父の天武天皇でした。六七二年、壬申の乱が勃発します。吉野を出発した大海人皇子(後の天武天皇)がまず最初に目指したのが鈴鹿関、次いで確保したのが不破関でした。勝利の要因は、二関の早期の奪取にあったといわれます。政権に就いた天皇は全国に寺を建てさせ、大阪に副都難波宮を建設・整備します。天照大神を祭るため伊勢の地に娘大伯皇女を派遣し、本格的な斎宮制度を創出するのも彼でした。こうした政策の多くが聖武天皇に受け継がれているのです。天武天皇の血を引く聖武天皇が、自らのルーツともいえる伊勢・美濃の地において、二関の重要性を考慮して大規模な城壁を建設した、と考えるのです。いかがでしょうか。


鈴鹿関余話別冊-3

 二つの東海道~片山神社の不思議~


(九世紀末に開削された阿須波道の急崖に至る場所に片山神社はたたずむ。鈴鹿山中に旧鎮座地があったとする伝承もあるが、現鎮座地は「古道」をにらむ絶好の地にある。今はない本殿は巨大な磐座を背に建っていた。古びた神社の鎮座地もまた鈴鹿関とは無縁ではなかった。この岩座の石をよく観察するとあちこちにのみの跡が認められる。意図的に平面になるよう削ったことが判る。)

 東海道といえば誰でも東海道新幹線を思い出しますが、本来は道路とこれに連なる地域の名称です。現在の国道一号線がその名残です。東京日本橋をスタートして、京都三条までの五〇〇余㎞を結ぶ幹線道路です。今日の幹線道路が首都・東京を起点として整理されているように、古代においても七道と呼ばれた官道はいずれも都を起点に設けられていました。だから、奈良・平城京に都があった時と京都・平安京へ移ったときとではコースが若干異なっていたのです。


(問題の日本橋にも行ってきました。別の機会に日本橋問題を取り上げます。)

 奈良時代の東海道は平城京を出て、都祁→山添→薦生のコースで伊賀に入り上野→柘植→加太を経て伊勢国の管轄下にあった鈴鹿関に至ったものと推定されます。聖武天皇は名張→阿保から伊勢国一志郡の川口関に設けられた関宮(河口頓宮)に入りました。なぜ一気に鈴鹿関を目指さなかったのかについては諸説ありますが、今の一号線と全く異なるルートであったことだけは間違いありません。
 ところが平安時代になると初期には、近江草津から水口を経て柘植に至るコースが採用され、その後、仁和二(八八六)年に現在の一号線にほぼ相当する阿須波道が開削されます。土山から鈴鹿峠を経て、坂下→鈴鹿のコースが東海道となったようです。
 この鈴鹿峠越えの東海道が峠の急坂を下りたところに鎮座するのが延喜式内社片山神社です。延喜式内社とは日本古代に各地に祭られた神社を格式別に整理、リストアップしたもので、普通、奈良時代以前から各地で有力な神を祭った地点であると考えられています。もし片山神社が奈良時代からこの地に鎮座したのだとすると、平安時代以前から鈴鹿峠越えの「古道」がこの地を通り、通行人の守り神として崇められていた、と推理することも可能です。
 この仮説と今回発見された鈴鹿関の城壁の位置が大いに関係するのです。もし平安時代の東海道、即ち国道一号線が聖武天皇の頃にまだ開通していなかったならば、城壁はもう少し東に設置してもよかったはずなのです。東ならばこれほどの大工事を実施することもなく、不破関と同じように方形に巡らし、見栄えもよく、かつ、十分防御性に富んだ城壁とすることができたはずなのです。
 私は新旧の東海道がちょうど交差する地点を遮るために、敢えてこの地を選んで築いたと考えるのですが、いかがでしょうか。


鈴鹿関余話別冊-4

 観音山の眺望~太鼓が鳴った!~


(発掘現場の直上にある岩に上ると、新旧の東海道が眼下にはっきりと見て取れる。正面に右手奥から延びるのが奈良時代の東海道。左が鈴鹿関のシンボル城山。城山に大鼓が置かれていたたとしたら、四周に響き渡ったことでしょう。私はこの丘の上に漏刻もあったと考えています。以前ご紹介した城山に残る城壁がそれらの施設を囲むものかもしれないと考えています。それにしても正面に見える建物はせっかくの景観を台無しにしています。)

 「昨日の夢に死んだ親父が出てきて・・・、何か不吉な予感がする!」等ということがあります。
 宝亀十一(七八〇)年六月と翌天応元(七八一)年三月、相次いで鈴鹿関西内(中)城の大鼓が自ら鳴ったという報告が都へ届けられます。この頃都では光仁天皇が病気がちで度々危篤に陥っていました。翌四月に天皇位が桓武天皇に譲られ、十二月には亡くなります。鈴鹿関が「大事」を告げる役目を担っていたのです。『続日本紀』という当時の歴史書によりますと、午の時と巳の時(おおよそ昼前後)に大鼓が鳴ったと記しています。歴史書に時刻まで記してあるのは大変異例です。
こうした記事から類推されるのは、鈴鹿関は西城や内城と呼ばれるように「城」であったこと、東西、あるいは内外の区別があったこと、そして、漏刻が設けられ、太鼓が置かれ時を告げていたこと等の内部構造です。発掘された城壁が「城」にふさわしい立派なものであったことは既にご紹介したとおりです。では西城と東城はどこにあるのでしょうか。西城が今回の地点を北西端とする位置に設けられていたことは異存がないでしょう。東城はこれまでも推定されているように関神社の辺りに眠っているのかもしれませんがまだ証拠は十分ではありません。
では内城や太鼓(鼓楼)はどこにあったのでしょうか。大胆な推測を試みてみましょう。太鼓が時を告げるものであった以上、周辺より高いところに設けられと考えます。中国西安に残る鼓楼や鐘楼も城内にあって大変目立つ高い建物です。飛鳥京で発見された漏刻も高い建物に付属していました。西内城に設けられていた大鼓を設置するに相応しい場所こそ、西城の南を限る小高い丘・城山ではなかったでしょうか。城山には不思議な城壁が残されています。今後の発掘調査が楽しみです。
ところで発掘現場の直ぐ上に巨岩が聳え立っています。隣にある円錐形をした美しい山の山頂にも腰掛石と名付けられた巨岩があります。両岩に登ると鈴鹿関が一望でき、新旧の東海道を眼下に眺めることができるのです。城山も含めたこの三丘で鈴鹿関は見張られていたとしたら完璧です。




鈴鹿関余話別冊-5

 鈴鹿関と壬申の乱~世界遺産への道~


(城壁の南西コーナー部は特に入念にこのように大きな石を積み上げて護岸されていた。日本の古代の遺跡の中でこのように石を多用する施設は、九州や瀬戸内海沿岸部に7世紀後半に造られた朝鮮式山城だけです。奈良時代中頃の石を使った技術の一端をかいま見ることができます。私は相当技術的には退化していると思っています。適当な大きさの石を適当に貼り付けているからです。)

 さて、肝心の関所の中枢施設「関司」の話題が出てきません。いったい黄門さんはどこで「葵の御紋」を見せればいいのでしょうか。城門はどこに?通行人はどこでチェックを?わずかなヒントは江戸時代の東海道五十三次の一つ関宿です。
 関宿は「重要伝統的建造物群保存地区」として関町の人々の熱意によって古い家並みが大切に守られています。時々行われる民家の改修工事や下水工事で発掘調査が実施され、地下の状態が判りつつあります。それによると意外にも、関宿一帯は東半部を除いて江戸時代以降の建物や茶碗しか出てこないのです。つまり奈良時代の東海道と現在の関宿を通る道とは一致しないのです。ところが最新の研究(先にご紹介した亀山氏の論考)では、中世の東海道が関宿の北にあったというのです。ひょっとすると、関の中心部は関宿の裏・北辺りから発見されるかもしれません。いずれ発掘調査によって、大規模な城門跡や役所跡、通行人が所持した通行札(過所)が発見されることでしょう。期待に胸がふくらみます。
 これまでの話でおわかりのように、鈴鹿関は東海道と不可分の施設でした。そこで最後に、奈良時代の東海道をたどりながら周辺の歴史遺産を巡って、その魅力に触れてみましょう。
 平城京を出発して東へ、都祁(つげ)には長屋王の氷室(ひむろ)が知られています。木津川沿いに遡ると急な斜面地に見事な礎石群を残す聖武天皇ゆかりの山添村・毛(け)原廃寺(はらはいじ)に至ります。平安時代の著名な牧場であった薦生(こもお)牧(まき)を経て伊賀に入り、伊賀国府・国分寺から壬申の乱の激戦地・柘植に至ると往時の面影を残す緑豊かな空間が広がります。ここからは険しい山道で、大海人(おおあまの)皇子も苦しんだ大山越えです。加太(かぶと)を越えて直ぐ、山際にまるで東海道をにらむかのように笹ヶ(ささが)平(ひら)古墳群が認められます。山道が鈴鹿川と加太川の合流部に至る手前に巨岩が現れます。新道(しんみち)岩陰遺跡です。神秘的な巨岩の裾には古墳時代初頭のお祭りの跡が認められました。岩陰遺跡の直ぐ先が城山を抱く鈴鹿関です。
 関を出て東に向かうと継体天皇と関係のあった井田川茶臼山古墳跡に出ます。安楽寺川を渡り、日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓との伝承をもつ能褒野(のぼの)王塚古墳前を東北上すると伊勢国府です。南に歩を進めると伊勢国分寺(尼寺)、東へ進むと大鹿(おおが)氏の本拠地三宅神社です。ここから北上して朝明(あさけ)頓宮跡である久留(くる)倍(べ)遺跡、桑名頓宮跡と推定している縄生(なお)廃寺(はいじ)に至ります。鈴鹿関と縁の深い天武・聖武天皇にまつわる国史跡が東海道沿いに連なっていることがよくわかります。東海道を軸にした歴史遺産群を世界遺産に登録しては、というのが私の提案です。

 今日も三重県の担当者会議で鈴鹿市に出かけていました。そこでは最近続々と指定された三重県内の史跡指定遺跡の指定に至る苦労話が疲労されました。その中でも少しご紹介したのですが、私はこの東海道歴史遺産群構想は相当いける発想だと思っています。サイクリングもできる遊歩道を是非作り上げ、遺跡群を貸し自転車で巡ることができれば、第二の飛鳥になると考えています。

ランキング登録もよろしく

鈴鹿関報告-16  写真の日の条

2006-10-08 02:28:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 今日は全体写真の日でした。電気屋さんのクレーン車をMさんが手配してくれて、その上に乗ってこれまで撮れなかったアングルで写真を撮りました。とはいっても狭い道路に車を置いて、樹木や電線の間を縫うようにし、時には枝を払いながらの悪戦苦闘でした。
 おまけに撮影直前ににわか雨!準備が遅れ、やっと開始したかと思うと、今度は晴れてきて、木の陰だらけの写真。度々雲の流れを待ちながらの撮影だったので、よけいに時間がかかり、最後の写真はナナナント、最大16秒の開放状態。そんなときに限ってまたまた雨!きっといい写真はできなかったに違いありません。
 陽も完全にくれた伊勢別街道を車を走らせていると正面に雲の合間から顔を出した中秋の名月(ホントは昨日)。


(一日遅れの中秋の名月)


 帰ってソファーに腰掛けると共にバタンキュウ!さっきまでうたた寝してました。風呂も入らずに。


(現場の正面観(南から))

 でもまあ、東西南北四方から枝の間を縫うようにして全景を撮ることができました。櫓を次々と移動させてくださった亀山市教育委員会のKさん本当に有り難うございました。


(基底部の南側の支えだという説もある巨岩)
写真を写すのに必死で、余り十分に観察している余裕はなかったのですが、やはりコーナー部は随分手の込んだ造作をなしていることが大変よく分かりました。


(東西築地の全景。西端の石垣状遺構から見る)
 泣いても笑っても今日でもうおわりです。一部危険な図面の書き直しという問題が残ってしまいましたが、これさえクリアーできればほぼ完璧に調査を終わることができそうです。



打ち上げはようやく10月25日に決まったそうです。少し気の抜けたビールのように思うのですが、これも現在の学生流なんでしょうか。


(南北築地方向を南端から見る)

とにかくクタクタ。しばらく静養したいくらいですが、もう授業が始まっています。原稿催促も留め状態です。大学教育の難しさをひしひしと感じた1ヶ月半でした。でもとてもいい発掘調査ができました。これから早速報告書作りです。市民向けの講演会も待っています。もちろん亀山市教育委員会の手に委ねられる第2次発掘調査もあります。・・・・・・

ランキング登録もよろしく

鈴鹿関報告-15  カラスにあぶらげ?事件の条

2006-10-07 07:41:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 昨日もまた雨でした。3日連続の大雨はさすがに応えます。それでもまたまたシートを張って、550円で合羽を買ってきて(何せ連日の雨で持っていた合羽がどろどろになったので洗ってしまったのです。だからまた朝買いました)、モグラ人生です。


(問題の石で防御した基底部。この図面がまだ未完成!)
 でもさすがに合羽は威力がありますね。着ていた服は(上半身)全く汚れませんでした。但し、汗が逃げませんので上から下まで服はぐしょぐしょです。
 あまりの雨が気になって崖にまでシートをかける段取りをして、かけたとたんに止みました(真、いつもこんな問です)。

 雨が止んだ頃お昼になったので、現場の道ばたの縁石に腰掛けてコンビニで買ってきたいなり寿司を食べることにしました。ここで事件?が起こりました!!

 汗のせいであまりに寒く、仕方なく飯の途中で、下着を替えることにし、直ぐ側に停めて発った車で着替えをしていました。ふと気になって後ろを振り向くと、カラスが一羽、ナナナント私の弁当を覗いているではありませんか!とっさに「コラーッ」と大声で叫びました。カラスに言葉が通じるはずもないのですが、声の大きさに驚いたのかカラスは飛び去りました。


(見事にあぶらげだけを抜いて持って行かれたいなり寿司のご飯。アーア、カラスにまで馬鹿にされて・・・悲しい!!)


 慌てて弁当に戻ると、
 「エッ?!」
 そこには不思議なものが一個転がっていました。よく見るとそれが、あぶらげのないいなり寿司の中身のご飯だったのです。
 「???」
 要するに鳶ならぬカラスにあぶらげを捕られたのです。

 「クソーッ・・・」
 
 それにしてもどうしてこんなにうまくあぶらげだけを取ることができたのか?よほどカラスの好物なのか?
 腹立たしい中に、疑問がわいてきました。きっと全部捕ろうと思ったのだがあまりの重さにあぶらげだけを取っていったに違いない。ならばきっともう一度帰って来るに違いない。
 「ヨーシこうなったら、カラスに一撃をくわわせなければ!」
ということで離れたところでしばらく監視し、近づいてきたら石を投げつけることにしました。しかし敵も然る者、なかなか現れません。そのうちこちらも退屈になって、メールを打ちながら時々「飯」に目をやっていました。

 ふと気付くと飯がありません。メールに夢中な余りその隙を縫って、見事に飯まで捕られてしまいました。愚かな学者の昼ご飯でした。

 カラスにまで馬鹿にされ、午後からはただひたすら、本日の全体写真撮影の準備のために現場の片付けをやっていました。



(やはり3年生から専門に上がる今の教育方法ではとても無理ですね。せめて2年生、できれば1年生から「技術」を教えていかないと・・・)

 それにしても学生の図面の遅いこと!たった横3メートル、高さ1メートルほどの断面図に一日かかるんですから・・・。この半月図面ばかり書いているのに、未だに20分の一の「換算」ができないらしいのです。ホンマに義務教育受けてきたんかいな?と疑わざるを得ません。

 果たして8日の夕方までに終わるのか?ひょっとしてサーチライトを買ってこないかんのかしら・・・?泣いても笑ってもあと二日。頑張りましょう!


ランキング登録もよろしく

 






鈴鹿関報告-14  ブルーシートの下での条

2006-10-06 06:53:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 精神的にも肉体的にも限界が近づいてきました。やはり還暦を前にした「老人」には1ヶ月の長丁場は限界ですかね。
 
 一番負担になっているのは、どうして原因者負担の工期の限られた、予算の制限のある発掘調査でもないのに、期限を切られ、雨の中シートで覆ってまでして現場をやらなければならないのか?!ということなんです。私の科研費で、私の所の所属学生とやっている現場なんです。予算的にも何の問題もないのです。にもかかわらず・・・。やはり行政が学術調査に関与することは問題だと私は思います。

 
(もちろん10年程前まではこんなこと当たり前のようにしてやっていました。時にはヤクザに脅されて、「俺の命とお前の趣味とどっちが大事なんや?」と迫られ、「電気貸したるさかい、夜中も寝んとやれや!」と言うことでサーチライト照らしたこともしばしばです。でも何で学術調査でそんなことせんといかんのですかね?判りません!)

 そんなこんなで、意外にも、地元の熱心な考古学ファンのKさんからたくさんいただいたリポDが大変役に立っています。先ほどもこうして呑みました。でもこの一番軽いのでも切れると急に眠くなります(私は酒断ちでリポD!ところが山田博士はその頃女子院生と三条木屋町で大宴会?神は正直なはず。きっと近日中に痛風の痛みが博士を襲うに違いない。)。


(Kさんにはいつもあちこちに連れて行ってもらいます。先日も城山巡りをしました。そのレポートもそろそろアップしなければ・・・・)

 さて今日の現場ニュースは東西築地と南北築地の接合状況がようやく明らかになったことです。以前から話題になっていた南北築地西斜面の人頭大の石の処理の仕方が判明しました。西最下段からしっかりと元位置を留めた石列が発見されたのです。


(南北築地の西斜面の南端(東西築地の西端)の西斜面基底部の礫群。まるで東西・南北陵築地の基底部をぐるっと回るように配置されている。手前に並ぶ石が基底部の石列です。(西から))


 南北築地の西斜面の南端(東西築地の西端)の西斜面にはほとんどしまりのない人頭大の礫群が集まっていることは以前にご紹介しました。それらが原状を保っていないと判断し除去したところ、最下部から礫群がきれいに列をなして現れました。その方向は見事に北で西に数度振れている北西築地と一致します。これらの礫群が築造当初のものであることが始めて確定しました。


(基底部の石列を東西築地西端の上から撮影したところ。黄色い水糸が国土座標の真南北右が北。先日この上に立っているところへ歴博のNさんから電話があり、そのお陰で仕事を一つ減らしていただいた。こんな優しい研究者もいらっしゃるというのに・・・)
 
 さらに重要なことは、東西方向の築地基底部を築造し終えた後、南北方向に延びる北西築地の構築(少なくともコーナー部の築造)が行われていることが判明したことです。鈴鹿関城壁については周辺部に4カ所の築地痕跡が認められますが、築造の前後関係が判明したのは初めてのことです。
 東西築地を築造し、基底部に石を回し、保護した上で、南北方向へ築地を構築しています(もちろん基底部の造作は並行して進められているものと想定できます)。


(雨でどろどろになっていて少し見にくいですが、これが南護岸の石列を上から見たところです。左がコーナーに向かう石、右がおそらく木製暗渠に接していた石列です。)

 さらにもう一つ。東西方向の築地の北側に平行する排水溝があることは以前にご紹介しましたが、そのコーナー部、つまり南北築地との取り付き部に限って、排水溝の南壁が巨岩で護岸されているのです。おそらく斜面上を流れ下る大量の水による攻撃を防ぐためだと推定できます。
 となるとますますこの護岸が切れる東側に南へも抜く排水溝(木製暗渠排水溝) が設けられていた可能性が高まります。そのことを環すかに証明する可能性のある凹みを昨日確認することができました。もちろん崩落してしまっている原状ではあくまで稀証に過ぎませんが、大きな手がかりです。

 それにしてもこんなことをブルーシートのフィルターの中で目を凝らしながらやらなければならないなんて悲しいことです。日本の文化系学問がどんどん学問とは縁の遠い世界へ追いやられている現実を感じざるを得ません。

 今日も雨です。またブルーシートが活躍するようです。間もなくリポDも無くなります。大げさですが極限まで働け!ということなんでしょう。ま、これも人生、頑張りましょう。


(東西築地西端の断面。当初築地本体に当たって残った石だと考えた巨岩は基底部の造成土の中にあることが判明。山を削って築造した築地だけに大量の岩石が築地基底部に使われている。鈴鹿関築地の大きな特徴である。)

ランキング登録もよろしく
 




鈴鹿関報告-13  中世東海道復元素材の条

2006-10-04 20:21:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 亀山隆氏前掲論文(「東海道関地蔵「御茶屋御殿」の復元」(三重歴史文化研究会『Mie history』 vol 17 2006.8)[亀山隆2006])に従って、なかなか止まない雨の中渋々現場を閉じ、学生達は少し内業をさせて、私は関町内を歩いてみました。電動自転車ですいすいではあったのですが、途中から本降りになった雨の中、今度はデジカメがおかしくなって、ピンぼけ写真が一杯できてしまいました。また撮り直さねばなりません。
 
 それはさておき、 御茶屋御殿の北側を通る東西の道が少なくとも中世の東海道ではないかというのが氏の指摘です。確かに中世らしく道は意図的に寺院にあたり{T}字路や「L]字路が次々と出現します。特に興味深いのは近世鈴鹿宿にはほとんど無い寺院がこの道路付近に集中するのです。

 ところで、寺院を取り去ると、御茶屋御殿の北側の道は比較的スムーズに東西に通ります。つまり、寺院の建設、移転が意図的に直線道の途中に置かれているように見えます。まるで直線道が寺院を串刺しするように点在するのです。この事実は中世東海道だけでなくそれ以前の東海道を考える上で、つまり、古代鈴鹿関と東海道の関係を復元する上で、大変重要な資料ではないかと思います。
 

(亀山隆氏推定の「御茶屋御殿」の位置と現在地形[亀山隆2006]より)

 亀山氏の論考の主旨はもちろんタイトルそのものでありますが、論考によって浮かび上がる近世初頭における、つまり後世の鈴鹿宿整備直前段階の当該地域を考える上で大変重要な論考ではないかと思いました。そこで、氏の論考に導かれて旧関町内の鈴鹿宿北側に展開する現況地形を写真でご紹介することにいたします。


(復元された御茶屋御殿の施設配置 [亀山隆2006]より)

 ところで、徳川家康の宿泊施設として出発したと推定されている御茶屋御殿が、その後亀山班の出先機関として、近代に入っても学校敷地として、そして現在も郵便局の一角として公共機関が利用し続けていることも大変興味深いものがあります。
 律令国家の直営地、例えば宮都や国衙、郡衙などの支配拠点となった土地の変遷については必ずしも明確な視点が出されているわけではありませんが、私はミヤケ制の成立以後の王権の直轄地については場合によっては現代に至るまで、連続的に「王権」によって維持され続けるのではないかと考えています。

 その視点を鈴鹿関についても援用できないかと思うのです。もちろん影も形もない、まだ始まったばかりの関の調査の途中段階でいうのは慎重さに欠けるとの誹りを受けるかと思いますが、一つの視点として出しておきます。仮に中世東海道がこの地に設けられていたとすると、古代東海道もさほどその位置は変化していなかったのではないかと考えるのです。


([字御茶屋・字北野]の地積復原図 [亀山隆2006]より)


 実はこれまで、竃山市教育委員会の手によって、伝統的建造物群(通称「伝建地区」)での土木工事に際し詳細な立ち会い調査が実施されてきました。その成果によると近世鈴鹿宿地域は近世以降に整地、整備されたことが徐々に明らかになっているのです。もちろんまだまだ資料不足は否めませんので、結論は急ぐべきではないのですが、この調査成果から考えると、近世以前の東海道は別のところを通ったということになります。亀山氏の論考によって(是非中世東海道の復元をテーマに論考をお願いしたいところですが)、その候補地として御茶屋御殿北側の道路痕跡が浮かび上がってきたのです。この考察結果と今回の鈴鹿関北西部城壁の位置関係が示す古代鈴鹿関と東海道の位置関係は大いに意味があると考えます。

 これまで全く見当すら付かなかった鈴鹿関司の位置を推定する材料の入手であります。御茶屋御殿が置かれたと推定される約60㍍×90㍍(200尺×300尺)の方形の区画は大いに参考になります。但し本位置は推定される鈴鹿関「西城」の東であります。とすると「東城」内の中枢施設なのかもしれませんが、いずれにしろ、鈴鹿関司調査の手がかりとして、有力候補地が生まれたことになります。

 それでは「中世東海道」の旅に出発しましょう。


(現在の福蔵寺正面 (南から))

 福蔵寺は亀山氏の指摘によれば元御茶屋御殿の位置にあったという。福蔵寺の西塀からはさらに西へ細い道が現在も残っている。では元福蔵寺の境内はどんな土地利用だったのだろうか?残念ながら今はまだ判らない。


(御茶屋御殿跡の南には近世鈴鹿宿に接して高札場が設けられていた。御殿の敷地の東半分はその後旧亀山県出役所や小学校敷地となり、現在は関町郵便局として利用されている。(鈴鹿宿の町並みを南西から))
 高札場や御茶屋御殿、そして亀山藩の出先、と公共施設がこの地には集中している。


(御茶屋御殿北側の道路は所々に寺を挟みながら関神社前までほぼ真っ直ぐ通る。 (西から))

 古代東海道の道幅については関東などで検出される古代官道が参考になるが、最大12㍍という道幅を現地形から読み取ることは困難である。
 「中世東海道」は東端で関神社鳥居前に至り、そのまま段丘を小野川沿いに降りていく。関神社周辺でも古代の土器が採集されている。この地も有力な関司の推定地である。


(関神社門前の東西道路 (東から))


(関神社前から東へ段丘を降りると小野川沿いに古道が延びる。(北東から))

 鈴鹿関の発掘調査を通じて、地元では関に対する関心が一挙に高まっている。早急に鈴鹿関の「範囲」を決め保護対策に手を付けなければならない。その見通しを立てる上でも亀山氏の論考は大いに参考になると思い紹介しました。是非買って読んでくださいね。他にも今回の中世都市研究会の成果に活かされたたくさんの論考が載っていますよ!!

ランキング登録もよろしく

鈴鹿関報告-12  ワクワクする土木工事の粋の条

2006-10-03 06:15:28 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 一昨日、昨日と雨に祟られてなかなか現場が進みません。仕方なく昨日は午後から中で作業をすることになり、私は雨の中を関町内を回って関司探しに行ってきました。電動自転車て便利ですね。急な坂もすいすい。お陰でようやく関の地形や立地を頭にたたき込むことができました。そのレポートは次回お伝えします。
 
(コーナー部西側の斜面を巻くようにして溜まった石。(西から))



(同(南先端部側から))
 今日はこれから現場に行って作業し、昼に帰ってきて後期最初の授業をやって・・・と、超忙しいのでとりあえず写真だけアップしときます。

 前回ご報告したコーナー部の謎の石だまりです。私は後世のものと推定しているんですが、慎重には慎重を期して、図と写真は撮り終え、今日から一部はずします。

 また、当初から問題としていた排水施設がどうもあった可能性が高まってきました。山の斜面を遮って土塁と築地を積み上げるのですから、誰が考えても排水をよくしておかないと土の造作物は簡単に壊れます。


(コーナーの基底部の水平面(南から)。この地点に暗渠が置かれていたのではないかと考えている。)

 古代の技術者はとても優秀ですからかなり手の込んだ排水構造をもっていたようです。私たちが掘っているところは築地が崩落してないのですが、どうもこの地点はやはり推測通り、当初から排水施設で穴が開いていて、崩落しやすかったようです。


(排水施設の流れの方向をこの崩落は示しているのかもしれない(北西から))

 さらに面白いことに、最下段に認められた大規模な造成の跡にひょっとすると繋がるかもしれないのです。当初から谷地形を利用し排水施設(暗渠)とするために大きな石を入れて造成した可能性が出てきました。面白いですね。土木工学の人に見てもらいたいくらいです。誰か知り合いいませんか?こんなことに興味のある人・・・。


(この断面です! 作業しているところが崩壊した凹みです。その延長線上に一番手前の断面が繋がるのです。そしてそこに入れられている大きな石!)

 これだけ想像力を鍛えてくれる現場は最高です!!


(コーナー部に残った築地の断面(東から))

 少なくとも東西方向に延びる築地基底部の北側には堀があることが確実です。それが北西から来る築地の東側堀と合流する部分が今回の調査地です。もちろん水は東へも流したと思われます。しかし斜面を来る大量の水をこれだけで受けていたのでは基底部はひとたまりもありません。コーナー部で南へ水を落とすのが一番合理的です。木樋の痕跡は今のところつかめませんが、コーナー部の基底部がやけに水平なのです。おそらく、このいちに木樋(場合によっては枡も設けられていたかもしれません)が置かれていたものと推定しています。


(東西築地の断面もようやく明確になってきました。(西から))

 東西築地の基底部も明確になってきました。毎日ワクワクして現場に興奮しています。でも図面を取る学生が足りません。K大学のお方はいいので誰か献身的に手伝ってくれる人いませんかね・・・今度の土日が最終なんです!!(贅沢かしら)。

ランキング登録もよろしく

予告 亀山隆さんから「東海道関地蔵「御茶屋御殿」の復元」(三重歴史文化研究会『Mie history』 vol 17 2006.8)という論文をいただきました。とても興味深い論文で一気に読みました。鈴鹿関の関司や東海道の位置を考える上で欠かせない論文です。この論文に刺激されて電動自転車で雨中関町内を何度も回ってきました。次回はそのレポートです。ご期待下さい。差し入れいらんから「てったい」が欲しい!!
やあ






鈴鹿関報告-11  あまりに忙しくて目が回りそうの条

2006-10-01 03:38:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

現説が終わってホッとするどころか、次々と難題が押し寄せてきて、てんてこまい。とうとう今朝まで入院してました。


(私の主張する桓武天皇柏原陵に近い稲荷山の病院の窓からの風景)

いやいや、随分前から決まっていた定期検査のための入院です。あんまり喜ばないでください。毎年おしりからちゅうぶを突っ込まれて大腸の中をファイバースコープで見る検査です。毎年やっていて、毎年1~2個のポリープたらいうのを取っているのですが、ここのところ忙しくて2年も間が開いてしまったのです。もちろんわずか一年で癌ができることもあるのですから油断はなりません。でもご期待にはずれ、腫瘍性のポリープはありませんでした。いつもの良性のを一個取っただけなのに二日も入院させられました。ちょっと不満!!
今回の入院で判ったことはやはり医療は患者の身になってなされていないということでした。以前私の親友が難病に罹り、闘病生活をしていることはご紹介しました。彼女は今も苦しい戦いの真っ最中なのですが、その彼女が気付いたことが点滴の冷たさでした。今回それを実感しました。私は病人ではないのですよ!それでも、冷たい点滴と、大腸検査のために呑む二リットルの氷のように冷たい洗浄剤のために検査前から調子が悪くなってしまったのです。悪寒がして、くしゃみが出、まるで風邪引き状態です(きっとそうだったと思います)。
1時間半におよぶ大腸検査はけっこうつらいものがあります。ただし今回は比較的楽でした。これは楽勝だな!とおもっていたところ、小さなポリープがあるからとりますね、といわれて、内視鏡で切断する頃から気分が悪くなり、終わったときには顔面蒼白。病室に帰って吐いてしまいました。吐くものなど無いはずなのに・・・。


(確認調査の続く南北城壁と東西城壁の交差点部分。左手が東西城壁の西端、右が東西城壁の端)

そんなこんなで現場はMさんに任せて二日間離れていました。もっともこれからはだめ押しの段階なのでやることは決まっています。大きな混乱はないはずです。粛々と確認すべき所まで下げきり、図面を取る!これだけなのです。ところが図面を取ったことのない学生が一杯!なかなか進みません。悲しい!!(私の留守中に手伝いに来た??K大学大学院の方が指導なさってくださった?お陰で進んだ、とご自慢なさって帰られたそうです・・・。お方によると三重大学の教育はナットランとか!済みませんね。教育できていなくて。何せこの夏始めて現場に出たものばかりなので、なーんにも知らないのがようけ居るんですわ。しかしこれが大学教育なんですよね。うまくなったな、と思ったらもう居ない。また一から教え直す。これの繰り返しなんですよ!K大学のように「優秀な方」ばかりいらっしゃるところとは違いますのであしからず。)。だからMさんと二人でフーフー言いながら何でもやっているんです。学生の範たらんとね。世の中いろんな人がいることは十分知っているつもりなんですが、この頃特に仁義をわきまえん奴が増えて困ります。寂しい!


(東西城壁東側の瓦だまり。東側はこの高さが瓦だまりの頂点であるが、西側はこれより40センチ以上低いのである。)


(西側部分の基底部に崩落した大きな岩が築地基底部にあたって止まっている。)

そんなことより現場で一つ難題が持ち上がっています。バタバタして今いい写真がないので今度公開しますが、南北城壁と東西城壁の交点部分の築造状況がどうも違うのです。もちろん当初からこの部分は排水溝などがある可能性があるから要注意地点だ!と認識していたのです。その認識があたっているかもしれません。どうも今回の調査地点は単に近代以降に崩落したのではなさそうなのです。明らかに築地基底部の造作方法が崩落地点付近を境に西と東で異なるのです。その上、築地基底部の高さも異なっていることが判ってきました。南北城壁寄りではかなり低い地点に基底部の水平な造作面があるのです。ひょっとしたらここに山側から流れ下ってくる水を排水する排水溝が開けられていたのではないかと考え始めています。考えじゃなくて、事実はどうなんだ!と詰問されそうですが、これがまた複雑なことに、後世の崩落のよって削平されている上、大量の堆積物によって覆われているのです。ようやくそれらを識別し、除去し始めたところで入院でした。
これから現場に向かいます。どこまで崩落土が除去できたか、楽しみです。これからは毎日大学に戻りますからブログの更新も可能です。しばらくご注目下さい。


ランキング登録もよろしく