yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2008年を恨みます!

2008-08-29 00:57:56 | yaasan随想
一昨日伯母が亡くなったという電話を今日受けました。誰にも言うなという生前の願いだったと言います。

もうこれで私たちの家族以外に山中を名乗る者はいなくなりました。
一時は12人もの子供がいた山中初蔵の残した家ですが、一族が消えていくのが実に簡単なことなのだと実感します。



私には山中の伯母には特別の思い入れがあります。父の兄の奥さんですから、血はつながっていません。以前この欄でもご紹介したように、父の兄はバレーボール9人制初期の全日本の選手でした。大正生まれなのに185cmもある大男でした。それ故でしょうか、奈良女子大学の助教授になって生駒に移って直ぐに心臓麻痺で亡くなりました。

伯父42歳、私は小学校4年生の春でした。

従姉妹が3人いました。一番上が私より二つ上でユミチャン、次女が私と同い年でミキボン、3女が妹と同い年でタエボンと呼び合っていました。父譲りの長身で、みんな美人でした。彼女たちが京都の家(そこが祖父が設けた広大な屋敷でした)に居たときも一時我が家族も居候していて、一緒に住んでいたことがあります。だからとても仲がよかったのです。それもそのはず、実は初めて入学した小学校は朱雀第3小学校でしたが、次女のミキボンと私はなぜか同じクラスだったのです。

そんな彼女たちが父を亡くし、寂しくないはずがありません。

いつの頃からか、私たち兄妹は休みになると「生駒」へ遊びに出かけるようになりました。その時世話をしてくれたのが伯母でした。

伯母と私の母は2歳違いで、私の母が上です。全く性格も容姿も何もかも違うのですが、唯一似ているところが「厳しい」ところでした。その厳しさも微妙に違うのですが、とにかく「ビシッ」としていました。そんな伯母でしたが、僕には余り厳しく言いませんでした。単に僕が鈍感だっただけなのかも知れません。僕を怒る分従姉妹にとても厳しくしつけをしていました。

大黒柱を失って、精神的にも、経済的にも大変だったでしょうから、当然だったと思います。

それでも鈍感な僕は一体何回生駒を訪れたことでしょう。ある時から自転車で4時間ほど駆けていくようになりました。時には母に叱られて、家出同然で行ったこともあります。電話もなかった時代、どうしたのでしょう?今から思えば不思議です。

受験勉強が嫌になって、東大寺二月堂のお水取りにふらっと出かけ、徹夜で二月堂で護摩供養を眺め、その足で早朝、生駒の家へ出かけたこともありました。

最悪だったのは私の父が胃潰瘍の手術をした1969年12月27日のことでした。
胃潰瘍だから大したことはないけれど、久しぶりだから帰ってきなさい。と言われて渋々帰ったのですが、途中下車をして、その頃大阪に移り住んでいた伯母の家を訪れて、談笑していたのです。そこへ電話がかかり(私がそこにいるとも知らず)、母が伯母に父の危篤を伝えたのです。

きっと伯母は気まずかったに違いありません。京都へ飛んで帰りましたが、間に合いませんでした。親戚中から非難囂々でした。何せ、最後に父や母と会ったのは1969年9月、ある特殊な場所だったからです。結局父と顔を合わせたのはその時が最後で、私は生まれて初めての父の泣き顔が最後の顔だったと言うとんでもない極道をしたのでした。

それほど、伯母の家にいるとホッとしました。もう一つの家族でした。

今年は、母に次いでその伯母まで失ってしまいました。一度に2人の母を亡くした気持ちです。

それでも、母の葬儀には病気のために来て頂けなかった伯母に四十九日が済んで、報告に行きました。久しぶりに会う伯母は従姉妹も驚くくらいしゃんとしておられました。かつてのふくよかな顔立ちはすっかり消え、髪も真っ白でしたが、相変わらず「章ちゃん元気そうやな」と声をかけて頂きました。それが最後でした。

母以上に大変な50年を生きてこられた伯母に

有り難うございました!と申し上げたく思います。葬儀は従姉妹達だけで済ませたそうです。それが遺言だったとか。これからお礼に行ってこようと思います。

 2008年は許せません!! 





有り難うございました!お陰様でヒット商品No.1獲得!!

2008-08-26 20:04:41 | yaasan随想
 たとえ瞬間でも一番は気持ちがいいね!! 


本当に有り難うございました。お陰様で、アマゾンヒット商品ナンバーワンを瞬間的ではありますが、三時間ほど記録しました。今も全体で50位ほどのところに位置しています。今後ともお友達やご親戚、介護中の方々、その筋の関係者にご宣伝頂ければ幸いです。


(1位!!!)


著者になりかわりまして、御礼申し上げ奉ります。



 在庫全部買い占めてやろうという気骨のあるお方、大歓迎致します!! 

アマゾンで早くも23位にランクイン!!間もなく1位か?!

2008-08-25 13:28:07 | yaasan随想
 「妻のために生きる」よろしくね 



(広島還暦集会でのshiozy。この日-8月2日-仲間4人がさらし首になりました!アー恥ずかしい!!)

アマゾンから購入!!(ここをクリックすると入れます)是非よろしく。


私たち団塊の世代にとって、介護問題は他人事ではなくなりつつあります。

私も、妻がくも膜下で倒れた時にはこのshiozyのことが直ぐ思い浮かび、彼に電話しました。

まだどうなるかもわからないのに、どこに障害が残るか、命すらどうなるかわからなかったのに、家をどう改造しようかとか、どんなリハビリがいいのかとか・・・。

幸いなことに、奇跡的にどこにも障害が残らず、今は何もなかったかのように普通に生活できていますが、今度は私がそうなったらどうしようかなどと思うようになりました。そんな時、彼のこのエッセーがどれほど励みになったことか。

学生時代から彼のことをよく知っている僕としては、その豹変ぶりがしばらく信じられなかったくらいです。

「運命」と言えばそれまでなのでしょうが、その「運命」を今彼はさばさばと受け止めて生きています。もちろん彼の本質的な人間性がそうさせたのでしょうが。

とにかく一度読んでみて下さい。それも是非今日中にとりあえずアマゾンでお一人一冊買って下さい。そして是非1位にランクアップさせて、この書を全国に広めたいのです。お願いします。(なんだか選挙運動みたいになってきました(笑))

私は早速家族の名前で3冊買いました。



(資金がないので??アマゾンには画像がありません。よってここに本の表紙をアップしておきます。少し色が違うようですが・・・ま、我慢下さい。)

 間もなくベストテン入り! 

もう少しshiozyを紹介しておきます

2008-08-23 12:16:00 | yaasan随想
 8月25日アマゾンで一人1冊ずつ『妻のために生きる』買ってね 


今日のshiozyのブログ「shiozyの介護生活」にこんな文章が載っている。
shiozyの処女作『妻のために生きる』のはじめにの一部が紹介されているのです。

_________________________

「妻のために生きる」のなかの「はじめに」を紹介してみよう。


--------------------------

はじめに

本書は大きくふたつの内容で構成されています。

ひとつはメインである中国新聞連載エッセー「これがおやじの生きる道」。

2006(平成18)年6月から翌年の6月までの一年間に掲載した五十四本のエッセーです。

この当時、団塊世代の大量退職時代を迎えるということで、

中国新聞さんは毎週日曜日に「団塊の頁」を見開きで組んでいました。

その中のひとつが私のコラムでした。

団塊特集の中のエッセーということで、テーマはもちろん「団塊」です。

私自身が団塊世代の末尾に位置する人間ですから、

それはいわば、「私の人生論」みたいな話になります。

私の人生の中で一番大きな出来事、それが「妻の介護」でした。

五十五歳の若さで妻が脳梗塞で倒れました。

幸い一命をとりとめましたが、右半身不随・失語症という障害を負うことになりました。

妻を病院に担ぎ込んだ夜の病院で、私は「これからは妻のために生きる」と決意しました。

四ヵ月半に及んだ入院中、私は一日も欠かさず病室を訪れました。

二十五年続けてきた会社経営も「引退」の覚悟をしました。

(社長から会長に退くのに、実際は二年を要しましたが、それでも実現させました。)

つまり、妻の介護は私にとっての「生き方の大転換」を意味したのでした。

我々団塊の世代にとっては、介護といえば普通は親の介護を指します。

しかし、私の場合は妻だった。そしてそれは、私の生き方を百八十度転換させた。

ここに、団塊世代の、特に主婦層に共感を得た理由があるように思えます。

妻が今倒れたら、さて世の亭主族はどう生きていくのか? 

いや、生きて行くことが出来るのか? 

そんな問題を突きつけたように思います。

この連載エッセーのテーマは「団塊・介護」です。

人より一足お先に遭遇した団塊の私の介護経験が、皆様のお役に立てれば幸いです。


さて、新聞連載エッセーと並ぶもうひとつの内容は、ブログネタです。

年甲斐もなくオヤジブロガーの私です。

三年近くほぼ毎日ブログを書いてきました。

今では一日に千五百から二千のアクセスがあります。

過去書き溜めた千近くのブログ記事を、なんとか活字で日の目を見せてやりたい。

これが本書出版の目的のひとつでもあります。

こちらの話は硬軟多岐にわたります。

新聞連載に書ききれなかった「介護な話」や、人生論的な話。

そして、ブログならではの軽口トークや私の文章作法など、

過去に書き溜めた内容が満載です。

お気軽な話として笑い飛ばしていただければ本望です。


もともと編集あがりの私は、人様の本を出版する側の人間でした。

それが自分の本を出す。面映く照れくさい作業でした。

しかし、活字人間としては、ネット上の文章を活字にもう一度置き換えて表現してやりたい。

この思いが強くあります。

「ネットと活字の共闘」とでも呼べばいいのでしょうか。

本書でその新しい共闘関係が築ければ、と願っています。

 1500円という破格の値段?!買わなきゃ損損!! 
これね↓↓


shiozyの介護生活をご紹介します

2008-08-22 23:49:21 | yaasan随想
 この献身的な介護があったから今がある!! 

親友・shiozyのブログと中国新聞の記事の一部を紹介しておきます。

実は彼の奥様・秀子さんが倒れられたと聞いた数日後私は広島近くに出張することになっていました。直ぐに病院へ飛んでいきました。とても今の奥様は想像だにできませんでした。それくらい彼は献身的に介護しました。その姿が実に豊かに語られています。

  『これがオヤジの生きる道』

  No01:はじめまして

  (2006年6月18日付、中国新聞Dの頁掲載)


  ↓↓紙面はこんな雰囲気ね。

  



 はじめまして、塩爺(しおじい)ともうします。

 こう書くと「なんやジジイかい」と

 お若い方からはつっこまれそうですが、

 やっと五十七歳です。

 田舎へ行けばまだまだ立派な青年団。

 とはいえ若い人の多い街場では

 やはりジジイには違いありません。

 ジジイであり青年団でもある。

 そんな中途半端な世代が

 われわれ団塊の世代なのかもしれませんね。


 さて、この欄のエッセーを担当するにあたって、

 気分はまさに「公園デビュー」の若ママさん。

 私の書いたものがすんなりみんなに溶け込めるかしらん。

 仲間はずれにされるんじゃないかしらん。

 しばらく公園の隅で小さくなっていようかしらん。

 いろいろ気をもむ心理状態でございます。


 デビューに際しては

 自己紹介から始めるのが世の習わしですが、

 そこでハタと考え込みました。

 これからつづっていこうと思う内容は

 「団塊おやじ、五十七年の来し方行く末を語る」

 といったようなエッセーになります。

 これってけっきょく自己紹介?

 なんだ、自己紹介のエッセーを書こうとしてるのか。

 初めて気づいたしだいです。


 ま、かっこよくいえば

 「団塊世代の生きざまを検証する」

 みたいになるのでしょうが、

 はたしてそんな格調高い文章が書けますかどうか、

 請うご期待。

 温かい眼差しで見守ってやってください。


 もともと私がこのエッセーを書くきっかけになったのは、

 ブログ(日記風サイト)に脳梗塞で倒れた妻の介護生活を

 書いていたからです。

 一般的に「介護」というと親の介護が直面する問題でしょう。

 それが私の場合、妻だった。

 ここから私の人生観・価値観がごろりと変わりました。

 仕事人間から家庭人間へ。

 「殴る夫」から介護する夫へ。

 百八十度の大転換でしたね。


 そんな経験が少しでもお役に立てればとの思いで、

 団塊おやじとしてのそれなりに波乱に富んだ人生模様と、

 青年団としてのこれからの生き方。

 つまり、過去と将来の話を

 「団塊・ブログ・介護」

 という切り口で語ってまいります。


     ●


 【読者につっこまれる前の自己採点:いいわけが多いぞっ】

 (団塊ブログおやじ・塩崎周司 廿日市市)



そしてこれが最終回です。

『これがオヤジの生きる道』 NO54 最終回


  ご愛読感謝

  妻ら主婦への贖罪込め


 (2007年6月24日付、中国新聞Dの頁掲載)



↓↓紙面はこんな雰囲気ね。







二十歳のころからずっと、

「おれの人生ナナメだなあ」と思いつつ生きてきた。

学生運動で逮捕され、大学も中退。

まともな会社に就職できるはずもなく、

それでも何とかもぐりこんだ会社では、

ストライキを起こした若い人たちに独立を迫られた。

以来、足かけ三十年、徒手空拳で事業をやってきた。


こんな「ナナメな生き方」が、

果たして「これがオヤジの生きる道」と言えるのか。

そのどこに普遍性があるというのか。

そんな不安を抱きつつ、このエッセーを書いてきた。


一方で、ちゃんと学校を卒業し、

それなりの就職を果たし、定年まで無事勤め上げた、

一見「順風満帆な生き方」にも、

長い人生、山もあれば、谷もある。

人はいや応なしに「ジグザグ」に

生きざるを得ないのではないか。


そう考えると、ナナメもジグザグも、似たようなものだ。

そんな開き直りの気持ちもあった。

つまり、不安と開き直り、

この両てんびんを行ったり来たりしながら

書いてきたように思う。


このエッセーが掲載されている紙面は、

団塊スクエア「Dのページ」と名づけられている。

今年から始まった「団塊世代の大量退職」に向けて、

同世代の男性陣にメッセージを送りたいと思ったが、

読者さんは圧倒的に女性だった。


妻の秀子は「未届けの妻」である。

婚姻届は出していない。

それはお互い覚悟の上の選択であったが、

それならもう少しねぎらってやればいいものを、

「仕事一筋」という口実のもと、

家庭を顧みない亭主だった。


妻の介護で主夫となった私には、

主婦の気持ちが良くわかるようになった。

それは、「家庭から社会を見る」視点ができたからであろう。

妻の秀子への贖罪(しょくざい)の気持ちを込めて、

主婦読者さんたちに何がしかのことを伝えたいと思った。


何がしかのこと、

それは「ありがとう」という気持ちかもしれない。

このエッセーが、ナナメやジグザグに生きた団塊世代諸氏の

「ありがとう」の代弁になったのならうれしいのだが。

評価は読者さんにお任せしよう。


最後に、イラストを描いていただいた野坂健三郎さんに感謝です。

妻の秀子のお気に入りでした。

読んでいただいた皆さま、一年間のご愛読ありがとうございました。


おわり


     ●


【秀子もひと言…は、はずかしかったけど、ありがとう】

(ブログ「Shiozyの介護生活」運営者=廿日市市)


 8月25日アマゾンでお願いしますね 

親友の著作間もなく刊行!!8月25日アマゾンで!

2008-08-22 13:58:28 | yaasan随想
 「妻のために生きる!」なかなか言えんよな でも読んでみようと思ったら 是非!! 



(表紙はこんな感じ)

僕の大学時代の親友が本を出す。
学術書でも実用書でも、小説でもない。

彼の奥さんのための壮絶でしかしとても心暖まる介護体験をまとめたエッセイである。
広島に本社を置き、中国地方の中心的新聞社である中国新聞に50余回にわたって連載されたエッセイを中心にして、彼の連日更新されるユニークで楽しいブログの記事をちりばめた珠玉の書である。



(チラシも素敵!!)

彼のブログに紹介された内容によるとこんな構成になっているらしい。

中国新聞連載エッセー収載『妻のために生きる』
B6判286頁 定価1500円(税込)
発行所:創美企画株式会社
発売所:株式会社ザメディアジョン
ISBN978-4-86250-070-0

目次
はじめに
第一章 中国新聞連載エッセー
第二章 介護なお話
第三章 人生論的なお話
第四章 ブログや文章作法みたいなもの
第五章 軽口風味と会社ネタ
あとがき

実は彼は「創美企画」という会社をやっている。会社案内やホームページ、いろいろな企画書の提出など、『書籍』に関してはプロである。

そんな彼が自らの書籍を自らの会社から出版するのは別に目的がある。

地方-とりあえずは広島山口など中国・山陰地方-の書き手(文章だけに限らない)を発掘し、世に問うためだ。その道を開拓するために、大手出版社の誘いを断って、自ら困難な海に乗り出したのである。

だから、販売も完璧でなければならない。決して自らの利益ではなく、将来の道のために。

そこで、書店販売の直前にアマゾンキャンペーンを1日限定でやる。この日に集中して買ってもらってランキング登場という目論見である。大出版社なら宣伝でそんなことは十分にできるのだろうが、出版物の経験がない彼にとってはこれは一大事業である。そんなわけで以下のようにキャンペーンを計画している。もし買ってやろうとお思い頂けるなら是非8月25日にアマゾンで買って欲しい。ただし2冊同じ人が買ってもランキングポイントは1しかつかないので、ご面倒でもその場合は奥様やお子様お祖父様おばあさまのお名前を動員してお買いあげ頂きたい。

8月25日(月)<一日限定>
アマゾンキャンペーン

書店発売に先立ち、アマゾンで先行発売いたします。

ネットで購入の方は、ぜひ8月25日(月)にご購入をお願いいたします。


  ただし、アマゾンの売り上げランキングは、
  「1日1人1カウント」なので、複数冊購入していただける方は、
  2冊目以上は別の日にお願いします。
  25日以降はいつでも購入できます。(ややこしくてすみません)

最近、私たちが集まると話題は自らの健康問題と両親の介護問題に集中する。彼の体験(今も進行中である)は決して他人事ではないのである。自らが彼の立場になるかも知れないし、奥様の立場になる可能性も十分にある。その心構えを持つためにも、いやその経験をした彼の貴重な人生を我がものにするためにも是非読んで欲しい。



(これは山田さんちという連載漫画を書いている彼の友人の作になるもの。みんな暖かい!)

 8月25日アマゾン、よっしゃと思って頂けたら是非 

初盆と墓参り

2008-08-17 00:45:45 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 五山の送り火と共に送りました 

 昨日お墓参りに行ってきました。最近はほとんど母に任せていたのですが、とうとう私たちが主役になる時が来てしまったという感じです。
 40年ぶりに父と再会したはずなのですが、もっと前に亡くなったような錯覚に襲われてしまいます。
 これで母をよく知る人も、父の祖先を知る人もほとんどいなくなりました。位牌や墓碑の名を読みながら娘にこれは誰々だと説明している自分が不思議に思えました。明らかに時代は新しくなったようです。



(我が家のお墓は瑞泉寺のお寺と衣笠の等持院の霊園の2箇所にあります。これは曾祖父が大正11年に等持院の墓地に造った墓です。当時は上の写真のように鉄の門扉があったようですが、戦争中に供出させられたのでしょう、今,下の写真ではありません。前の二人が曾祖父母のようです。)





(そしてこちらが瑞泉寺にある寺内墓。これを建てたのも曾祖母だというのですから、その頃山中家には勢いがあったのでしょうね。とは言ってもどうしてこの寺が我が家の旦那寺になったのか、も一つよく由来はわかっていません。曾祖父母の本籍地は四条烏丸の辺りですから、えらく離れています。永観堂にも縁があるようなので、東の方に何かあったのかも知れません。)

 今日は五山の送り火の日でした。13日に迎えた仏が帰っていきました。妹が今朝早く出かけていき、大文字の送り火となる護摩木を我が両親のために捧げてきました。昼過ぎに降った雨のせいなのでしょうか、今年の大文字は一段と綺麗に,映えて見えました。
 
 母と大森の2人を送る日でした。合掌




亀山市史、いよいよお尻に・・・

2008-08-13 12:48:15 | yaasan随想
 お尻には何も付けたくないねと思ったら 

 一昨日はお尻にカメラを入れたかと思うと・・・、昨日はナナナントお尻に火が付きました・・・・・?。(笑)

 昨日は一昨日のお尻カメラの影響でぐったり、それでも朝無理矢理起こされて検査結果の確認などで再び病院へ。

 そんな予想外のバタバタでボーッとしていたのか、はたまた年のせいなのか、きっと両方が影響していたに違いありません。もう少しで大事な会議をすっぽかすところだった。
 
 病院から帰り、家でホッと一息ついてテレビで北京オリンピックでもと、チャンネルを回す内に、ふと気になって、三重県津市のある人に電話をした。

「済みません、先日ファイルをお送りしたのですが、まだ開いていただいていないようなので、至急開いてもらえませんか?」そんな催促の電話だった。

 受話器を置いてしばらくすると、胸騒ぎがし、連想ゲームのようあるに会議のことが甦ってきた。

「彼はKさんだよな。KさんはKF大学の出身でH先生の教え子。た し か 2人とどこかで、近日中に会う予定があったはず。エエッツと、いつだったかな?そう、確かそれは12日の亀山市史の会議!!」

「ところで今日は・・・・・」

「エエッツ!12日しかも11時。」

「確か会議は13時から!電車は?」

「なぬ,11時発でないと間に合わない!・・・・・他の手段は?・・・・新幹線は?・・・・・ない!!」
「・・・・」困った!

「そ、そうや、息子がいる。車で送ってもらおう!」二階に駆け上がる。

「済まん、大事な会議に遅刻しそうなんや、ちょっと亀山まで走ってくれへんか?」
「ええよ、まだまにあうんか?」
「おそらく」

というわけで開通したばかりの新名神をひた走ることに。わずか一時間余で亀山へ。

滑り込みセーフ!!と思いきや、みなさん意外と暢気にラーメンをすすっている。

新館長のKさんも「お早いですね。有り難うございます。」とのたまう。
どうも雰囲気がおかしい。

おそるおそる
「今日何時からですか?」と聞くと、14時からです。という。エエッツ!

まだ1時間もあったのだ。

ま、いいや、そのお陰で準備できていない資料もできる。
ということで大急ぎで資料作りに。

お陰で会議の始まる前には何食わぬ顔で資料を作り会議へ。

その上、会議に出席されたH先生はお腹の調子が超悪いとかで全く元気なし。可愛そうなくらい。

会議のもう一方の先生方は後で聞くところによると2日前にも会議をされて準備万端。直ぐに考古の方針を示せとおっしゃる。びっくり仰天。大慌てで先ほど造ったばかりの資料や、事務局が用意してくれた資料を基に考古学の現状を紹介し、目次予定を説明する。冷や汗ものだった。

それでも初めて文献の先生方と具体的に通史編の分担を確認できた点はとても大きかった。特に古代史を担当する京都のK大学埋蔵文化財調査室のSさんとは彼が学生時代からの知り合いなので、かなり突っ込んだ話ができてようやく具体的なイメージができあがる。

ということは、お尻に火が!!一刻も早くもう少し具体的な目次案を書かねばならない。えらいこっちゃ


帰りの電車も一緒で、2時間余りずっと、伊勢の魅力を語り続けた。Sさんは遠慮がちな人で、あまり自説を言われることもなかった。きっと本心はいたかったに違いないが、私一人が喋りまくった。本当ならどこかで一杯と誘うところだが、医者から23日は呑むなと言われていたので、ぐっと我慢して京都駅で解散。

最寄りの駅まで迎えを頼むとそこには再び息子が。
「いやはや申し訳ない。お陰で間に合ったよ。有り難う。」と恐縮千万の一日だった。

日頃からもっと計画的に仕事をしないといけませんね。懺悔!!

 仕事は計画的に!!会議日時は正確に!!息子はいい子に!感謝!! 






強烈にしんどかった大腸カメラ

2008-08-12 05:02:27 | yaasan随想
 検査のためだから仕方ないとはいえ・・・アーしんどかった! 

今日11日は、本当なら毎年受けないといけないらしいが、ここ数年の忙しさからサボっていた大腸カメラの検査だった。

これで4回目になるか。

初めの頃は平気だったのだが、前回から腸の洗浄剤を飲むととても寒くなって、検査をする前からしんどくなる。
おまけに前回から使われている某食品会社生産のこの薬はとても変な味が付いていて呑みにくい。その上、この病院の看護師がいいかげんなのか、はたまた構造的なものなのか、どっちかよく判らないが、薬剤を水に混ぜて溶かすようなのだが、その薬がよく混ざっていないのだ。容器の底に来るほど濃くなってきて、呑むのもしんどくなる最後は特に強烈な味がするのである。

本来なら2時間で呑まないと行けない者を3時間かけてやっとの思いで呑んだ。

そこでやっと腸が綺麗になって、検査開始!!

ところがなぜか今回はとてもきつかった、腸はくねくね曲がっている。特にほぼ四角形だから四箇所で90度近く曲がっている。そのコーナーをカメラが通過するときに腸壁に当たるのでとても強い圧迫感がある。ずっと同じ先生に診てもらっているので、技術が変わったわけではないのにどうしてだろうと思いながらただひたすら終わるのを待つ。延々1時間、もう最後はどうでもいいくらい疲れた!!

その上、腫瘍じゃないけれど小さなポリープがあったので、念のために取っておきました。ということでさらに30分間検査台の上に寝たまま点滴をされる羽目に。
それでなくても寒いのに、検査室は冷房がガンガン、看護師は暑い暑いを連発するし、きっと医者も暑いに違いない。ここが冷たいものを呑まされた患者とそうでない処置者の違い。

ぶるぶる震えながら点滴が終わるのを待つ。吐き気がするのに、トイレにも行けなくてずっと寒い検査台にいるときほど苦しいものはない。

やっとの思いでトイレに駆け込んだが、これがまた和式のトイレ。

家に帰って直ぐにぶっ倒れて寝てしまった。
ご飯ですよ、と起こされて、食べに行くと今日はバーベキューだと・・・。
小さな庭先で珍しく今は家族6人となった全員が揃っての宴会だった。

いつもなら美味しいのだが、今日はとにかくしんどい。医者は酒を呑むなというし、仕方なくビールを横目にお茶ばかり飲みながら野菜ばかり食べるつらさ、・・・。

検査をしてしんどくなるくらいなら止めた方がいいんじゃないかとも思えてくる。
でも友人にはいつもこの検査を勧める。だって僕の恩人の高橋美久二さんも、大腸癌で亡くなっているもの。でもこの間、1回も癌性のものは見付かっていないから、もうこれで止めにしようかな、とも。早くに寝付いたので、今頃目が覚めてすることもないので、ブログを書く羽目に。ではまたお休み。

 大腸カメラ大切ですよ 



もう8・6も8・9も過ぎてしまいました。

2008-08-10 01:19:21 | yaasan随想
今日友人に電話したら、もう1ヶ月以上もブログを書かないからどうしたのかと思っていたと言われました。

そうなんだ、早いものです。1ヶ月なんて。

その間書くことは一杯あったんです。

北海道の続きで秋田のこと、
11日、大学理事者と教育GPの話しをしたが理解されなかったこと、
12日、久留倍遺跡を考える会の方達に話した中味が自分でも楽しかったこと、
13日、朧谷寿先生の前座で四日市文化会で話したが余りうまくいかなかったこと、でもその後の記念パーェテーでいろんな人と出会えたこと、
16日、久しぶりに大学院の共通授業に出席して今の人文の大学院生の質の低さを知ったこと、
18日、海の博物館館長の話を聞いたこと、同じ日、京都の読売新聞の記者から長岡京の朝堂院の馬鹿げた話を聞いて悲しくなったこと、
21日、広島県三次まで出かけいろんな人と出会ったこと、
23日、大学病院の定期検査でまた数値が下がって脅されたこと、同日、日本研究をするグループで話し合ったこと、さらに同日、大学の職員相手に科研費の取り方??について話さされたこと、そしてその夜初めて事務系の職員と呑んだこと、
24日、日赤で視野検査を受けて「進んでるな・・・」と感じたこと、
29日、改組委員会のこと、
30日、試験が始まったこと、試験が終わって直ぐ、津高校での出前授業に飛んでいって、結構うまくいったこと、この夜苦しんだ北海道と秋田の土器を扱った論考が完成したこと、
8月1日、オープンキャンパスの協力事業として毎年やっている勾玉作りが今年も好評で200人もの高校生が来てくれたこと、
2・3日、広島大学の旧友20人と広島で還暦パーテー、夜中まで痛飲したこと、
3・4日津和野三松堂さんへご挨拶に伺ったこと、ここでもまた新しい出会いがあったこと、
6日、急に舞い込んだ古代文化の書棚の原稿『弥勒寺遺跡群』が校了したこと、そして
今朝9日、11月1日開催予定の『久留倍まつり』の一環である「聖武天皇東国行幸サミット」資料集の見本原稿ができ、パネラーのみなさんに催促を出したこと、・・・まるで山田博士のようになってきましたね。

こんなつもりじゃなかったのですが、・・・・・。

もうすぐ大森の49日、もう書くのを止めようかなとも思っていたのですが、・・・・友人の求めに応じて書いてしまいました。

中味はありませんが。

この半年間、いろんな事が一杯あり過ぎて、さすがの私も疲れました!!

広島の友人との還暦パーテーで今後の抱負を言えと言われて

「早く消え入りたい!」と。癌でも告知されれば幸せなのに、と口では言う右ものの、明後日はそんなことを恐れて大腸癌予防のための大腸カメラ。

いいかげんな人間です。

この暑さ、まともな思考なんてできません。ではまたいつか。

ランキングもどうでもいいのですが、慣例で・・・。

 何で人は戦争をするのかネ・・・?わからん!!