yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

壬申の乱ウオーク-7+α  障害を持つ方のウオークの条

2007-05-17 07:14:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
最近楽しく読んでいるあるブログで、今回のウオークの紹介を少しだけした。ある方が読んで下さって、

「楽しそうだなー、私も行ってみたいなー、でも無理」と書かれた。

彼女のブログの自己紹介によると、10年程前に脳内出血で倒れられ、障害が残ったので、長く歩くのは無理だということだと言うことだろう。

そこで「ハッ」と気付いた。

そう言えば、このウオークの催しは、障害を持つ方が参加されることなど全く想定していなかったなと。

毎回参加される高齢の方で杖をついて後からゆっくり歩いてこられる方がいらっしゃる。いつも最後なので説明が聞けない。でも毎回のように参加される。私が説明しなくてよいときには時々歩きながら説明の補足をするのだが、もちろんそれも不十分である。「お気の毒に」と思うことはあっても、ではどうする?と考えたことがなかった。

もちろん、この行事は皆さんボランテアで、準備に当たって下さっている久留倍遺跡を考える会の皆さんも、大変お忙しい中を事前に何回も集まって、段取りを付けて下さる。今回の吉野行きも、予め吉野町教育委員会に電話され、担当の池田さんとコンタクトを取った上、事前に現地にまで行かれてコースの下見をし、さらにバスの手配、バス会社との値段の交渉、お弁当屋さんとの値段の交渉等々一切合切全部数人の会の方々のボランテア活動の結果なのです。大学の方でも、学生は夜遅くまで資料作りを手伝ってくれますが、基本的にボランテア。

遺跡を護ろうという市民の力の結集の結果なのです。

だからこのウオークの活動としてはなかなか実行するのは難しそうなのですが、障害を持つ方だって、歴史散歩はしてみたいのは当然です。指摘していただいた問題にどう応えればいいのか現在思案中です。

参加者が車いすを押しながら、或いは歩行の補助をしながら、そして手話も交えて一緒に歩くというのが理想なのでしょうが、毎回100人を超す参加者と同じ歩調で進むことは難しそうです。

さらに問題なのは、ウオークする道が「危険」なのです。今回はさほど交通量のない道をゆっくり歩くことができましたが、都市部では交通整理に苦労します。まだまだ道には段差が多く、神社やお寺はかいだんだらけです。別に機会を持つ以外にないのでしょうか。

早速友人に相談してみたところ、社会福祉協議会や県の福祉センターなどと具体的に相談してみては、というアドバイスをもらいました。一度具体的に試行してみようかと思っています。参加希望者を10人くらいに限って、まず歩行の難しい方に参加いただくというプランを考えています。もちろん私一人ではできませんので、ボランテアを募らねばなりません。資料の作り方にも工夫が必要です。まだまだ準備が必要ですが、何とか実現できないかと考えています。こんなことも知らないのかと叱られそうですが、いろいろな方法で実行されていると思います。 yaa1948@gmail.com へアドバイスいただければ幸いです。

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壬申の乱ウオーク-7  壬申の乱構想の地吉野への条

2007-05-13 18:35:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 昨日は新緑のまっただ中、吉野宮滝遺跡周辺のウオークに出かけました。四日市からバス2台100人、現地で参加された方50人、総勢150人で少し汗ばむほどのいい天気の中壬申の乱勃発の地吉野宮滝の遺跡巡りでした。


(河川交流センターは人で埋まりました。)
 宮滝遺跡の石碑の建つ直ぐ横にできた河川交流センターに集合し、12時から始まった見学会は熱気に溢れていました。今回は吉野町教育委員会の全面的な支援を受けて同町の池田淳さんの名調子の解説とたまたま奈良に来られていた玉城妙子さんの遺跡での解説までしていただく特別案内となりました。
 いつもながら時間と距離(3時間以内10キロメートル未満)が限られていますので、さほど沢山の場所が見学できないという問題はありますが、私にとっては手頃な距離と汗でした。


(吉野川を下に見ながら往時をしのぶ)
 バスで来られた方には途中の休憩所で乗り移りながら今回のコースの見所を事前にお配りした資料を基に各1時間ほどご説明を致しました。今回もまた資料作りは直前までもつれ込み、さすがに今回は私も最後の資料セットを手伝う羽目になりました。前100頁の資料300部をセットするのにとうとう午前1時前までかかってしまい、手伝ってくれた学生さん達は翌朝早くに電車に乗らなければならず、当日の集合場所ではみんな眠そうな目をしていました。


(桜木神社では池田さんの名調子が・・・) 

(白く輝く川岸は秘境に相応しい景観でした。)
 今回の見学のポイントは吉野という地がなぜ大海人皇子によって選ばれたのかという点を現地の立地に見ることにあります。母斉明天皇によって開かれた吉野宮は以後持統、文武、元明、元正、聖武と奈良時代前半の天皇達の心を捉えて離しませんでした。しかし、孝謙以後は記録に見えず、度々各地に鷹狩りに出かけた桓武は一度も訪れていません。再び吉野が注目されるのは平安時代前期、清和・宇多天皇の頃でした。桓武以後の平安初期の天皇達が吉野を訪れなかったことは、やはり王朝意識と深く関わっているのではないでしょうか。最近桓武朝の天智系の意識という考え方に批判が集中していますが、私はやはり桓武が皇統を意識する中で歴代の天皇の血筋を意識することはあっても、天武系を評価することはあり得なかったと思っています。

 天智の蒲生野に、大津に行幸することはあっても吉野へ行くことなど考えられもしなかったのではないでしょうか。つまり、吉野はまさに天武系の聖地だったと私は考えています。

 さて案内は、まず交流センターで一通りの解説をした後、吉野川の絶景を見ながら桜木神社へ向かいました。桜木神社では吉野町教育委員会の池田さんによる名解説があり、参加者一同聞き惚れました。この神社がどこまで歴史を遡るかは定かではありませんが、吉野野山へはいる旧道であったことは間違いなさそうです。上千本、奥千本へと歩いて上がるには絶好のハイキングコースだそうです。

 さてその後再び吉野川川岸に戻り上流に点在する奇岩を見学した後、発掘調査地を見学、往時の大海人、聖武の吉野での生活を思い起こしました。
 今回の資料作りをしながら改めて考えたことは、吉野宮を最初に作った斉明天皇の意識ではないでしょうか。飛鳥の宮殿に近く、奇岩などのある神仙峡の趣のあるこの地の景観こそ彼女の心を捉え、その神秘性故、大海人皇子隠棲の場として選ばれたのではないでしょうか。もちろん決起の場合の行軍の地の利、飛鳥に近く情報収集の利便性も重要なファクターであったことはいうまでもないでしょう。

 ところで、二条大路木簡に含まれていた聖武天皇の天平8年6月27日から7月13日までの吉野行幸関係木簡は久留倍遺跡の評価にも多大なヒントを与えてくれました。準備のための役夫達の食料支給、吉野への野菜の搬出、諸雑器の搬出等々、平城京とはさほど離れていない吉野でさえこれだけの資材の調達をやるのですから、伊勢(関東)行幸ともなると相当量の資材が2ヶ月間に渡って動かされたはずです。つまり聖武の宿泊地頓宮はそんないいかげんな場所では絶対にないはずです。彼が宿泊した施設の全てが公共施設です。それも国府などの中核施設ではないところがみそではないでしょうか。川口関周辺の調査の結果その利用範囲が広大であったことが判明しました。川口頓宮が設けられた結果その施設が拡大した結果だと考えましたが、同じことが鈴鹿関にもいえそうです。そして久留倍遺跡は駅家ではなかったのか、それを改修して頓宮にしたと考えれば理解しやすい。そもそもあの近くに、大量物資を調達して管理、運営することのできなければならない朝明頓宮を置くことの可能な空間などどこにもありはしないのだから・・・等々と考えた次第です。



(象山の向こうに青根が峰が見える)
 最後に吉野町の歴史民俗資料館のある丘に登り青根が峰を見ながら池田さんのお話を伺った後、資料館をを見学し、皆さん大満足のウオーキングでした。

 次回は8月11日(土) 9時までにJR関西線の加太駅集合で、今回は加太から西(伊賀方面)を目指します。

 お暇な方は参加下さい。

 (それはそうと連休中音無だった山田博士が、予想通り重病だったようです。だからあれほど飲み過ぎには注意しましょうね!と忠告しておいたんですがね。ま、連休中でよかった!これからは同女の基本方針を厳守して禁酒!!で毎日テイーパーテーでお過ごし下さい。)

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