yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

懐かしい人からのメールの条

2008-04-23 22:39:12 | yaasan随想
友はいいよね!と思ったらよろしくお願いします。

 ここ1週間の間に次々と懐かしい人からメールが飛び込んできた。その一方でそろそろと届いてもいいはずのメールが届かないという不思議な事態に陥っている。

 その突破口は私の後輩からのメールである。
 確か、私の記憶では彼女からメールをもらったことがないから、彼女自身がどこかで私のメールを探し出して送ってきたに違いない。それもとても嬉しいワクワクするような知らせでしばらく有頂天になったくらいだ。

 彼女は私が大学に在籍中から知っている数少ない(というより唯一の)後輩である。1年生の時に下宿に訪ねていったこともある。ドアーを開けてびっくり、中にはたくさんの若者がいて、ギターを奏で、歌を歌っていた。用事を済ませ、直ぐ帰った記憶が今も鮮明に残っている。そんな長い?付き合いだから私が卒業後も度々お酒を飲みに行った。今はK考古学研究所にいるMさんに元職場の発掘調査員として来てもらい、とても確実で、丁寧ないい仕事をしてもらえたのも、実は、彼女のお陰だったのだ。

 歳が離れてはいるし、男と女という事もあって、変に誤解する人がいたかも知れないが、とても気の置けない友である。
 しかし、彼女が、職を求めて関東に行き、エジプトの「acoris」遺跡を調査するようになってからは余り会うこともなく、時々電話で話をするくらいになった。最後に会ったのがいつだったか正確には覚えていない。おそらく10年程前の大学の○○周年記念パーテーだったと思う。その頃、彼女の計画で、レバノンのローマ時代の遺跡を発掘調査するという壮大な計画があり、手伝ってくれないかと誘われていた。度々電話などもしたのだが、結局資金の問題が解決せず、立ち消えになってしまった。

 余談だが、その頃のレバノンはとても危険で、イスラエルとパレスチナとの間でドンパチが日常茶飯事、いつ発掘現場にミサイルが落ちてもおかしくはない状況だった。だから学生達に
 「一緒に行こうよ!」と誘っても誰も行くとは言ってくれなかった。

(ローマの遺跡で死ねるなんて世界中の考古学者を捜してもないんやから、行こうよ!と言ったのだが駄目だった。 (笑))

 そんな彼女からのメールだから恐る恐る開けてみた。
 開けてびっくり玉手箱!!浦島太郎のような気分にもなった。

 いずれ正式に決まればどんな内容かご紹介することができるだろうが、今は

 「秘密!」 

とにかく楽しい遺跡の発掘調査の話しが舞い込んできて、ヴェトナムであった嫌なことが一挙に吹き飛んだ。今回のヴェトナム調査で実感したことだが、共同調査というものは、お互いに気心の知れあったものが取り組まないととんでもないことが起こるのだということだった。もちろん、ヴェトナムでもそれなりに理解をしていたつもりだったが、常識では考えられない「人格」に遭遇し、ここのところずっと胃が痛くて困っていたところだ。

 
 そんなメールが届いた数日後、今度は中国から突然メールが来た。
 2年ほど行方が判らなかった内の卒業生だった。異国の地に行ったまま「行方の判らない女性」となると諏訪、事件か?!となる。そろそろご自宅にでも電話してご家族もお知りでないのかどうか確かめてから行動を起こそうと思っていた矢先だった。

 ところが、やはり現代っ子である。こちらの心配など笑い飛ばす勢い、他の同級生も心配してたぞと伝えると。逆に「私こそ探してたのに」と逆襲される始末。何でも今月末に異動の発表があって、日本に帰って来れそうだというのである。薄給で随分苦労したようだが、本人はあっけらかんとしていて、何の悲壮感もない。きっと中国語はぺらぺらで、仕事の面でもうまくいっているのだろう。自信を持って帰国してきそうだ。それにしても今の女子学生は強い!!度胸がある!!それに比べてレバノンのミサイルを怖がる男子学生なんぞへの突っ張りにもならない (大笑)。

 さて、今日はもう一つ朗報が届いた。我が娘の就職が決まったという。希望通りではないかも知れないが、一応中国語を活かした仕事だという。ま、親父もそうだったように、
 「いくつか仕事をやってみて、本当に自分にあったものを探せばいい」と、言ってある。これで我が家は子育てから解放されたわけだ。嬉しくもあり、悲しくもある・・・、複雑な心境の日でもあった。


それにしてもメールの威力は素晴らしいねと思ったら・・・・・もよろしくね 

瑞泉寺四十九日法要の条

2008-04-21 01:27:40 | yaasan随想
四十九日とは早いですね。よろしくお願いします。




二十日は母の四十九日だった。
早いものである。まだ隣の部屋からひょいと顔を出すような気もする。


(瑞泉寺の境内は昼間、自由に見学できます)
しかし、あのハノイから急いで帰ってきた日のことがまるで遠い過去のことのようにも思える。


(瑞泉寺のご住職もとても気さくな方です。秀次を偲んできましたと言えばいろんなお話しをしてくれますよ。)
法要は我が家の菩提寺である京都三条木屋町角の瑞泉寺で営まれた。

瑞泉寺の名前は豊臣秀吉の甥で、関白にまでなった豊臣秀次の「瑞泉寺殿」に由来するらしい。

寺そのものは江戸時代初期の事業家角倉了以の建立になる。彼が京都鴨川に併行して流れる運河・高瀬川を開削したことは有名であるが。この工事に際し大量の石塔などが出土し、それが豊臣秀次一族処刑の塚に由来するものだと知り、建立したのだという。そのためであろう、瑞泉寺には角倉了以の木彫も安置されている。


(住職のご子息-中川學さん現副住職-がまたこれ異才で、こんな素敵なイラストを描かれるんですよ。個展を東京で開いたりもされるとか・・・)



豊臣秀次は秀吉の姉の子で、天正19(1591)年、秀吉の嫡男鶴松が亡くなった後、養子とされ、ついで関白に任じられた人物である。しかし、文禄2(1593)年に秀頼が生まれると疎んじられ、文禄4年には高野山に幽閉され、謀反の疑いをかけられて自害させられている。ただそれに留まらず、翌月には妻子39人が鴨の川原で処刑され、多くの家臣も後を追ったのであった。


(秀次の一族を祀った石塔群。そういえば、最上から嫁いだ駒姫もこの地で処刑されたんですよね。)

秀吉の秀次に対する処置は厳しく、特別の墓もなかったと言われる。
この様な悲しい由来を持つ寺である。今もその傍らには49の石塔がもの悲しく並んでいる。山中の家がなぜこの寺を壇那寺としたのかは判らない。幕末には姉小路堀川辺りに住まいして西陣関係の商売をしていたと漏れ聞くが、当寺とは随分離れている。

以前にも紹介したとおり、山中家の男は随分早死にの家系で、父も父の兄(この伯父が家督相続者)も40代で亡くなっている。その上、たくさんいた子供も、女子は嫁ぎ、男子は養子に出したり戦死したため、結局山中を名乗るのは私一人となり、そんな関係で、山中家関係の法事というと必ず参列することとなり、度々この寺を訪れ、前住職、現住職共によく存じ上げることとなった次第である。


納骨は6月14日に予定している百日に、衣笠にある等持院の墓で執り行う。

そんな関係で今日の法事も親戚は全て従姉妹・従兄弟であった。ただ、最も近い山中の従姉妹は伯母が伏せっているために出席できないという返事。近頃は親戚が亡くなって久しぶりに顔を合わすという嫌なことばかりなので、事前にお見舞いに伺った。伺っていた病状は相当なものだったので、母の時と同じ様子を思い描いて病室に入ったのだが、嬉しいことに当日はこれまでのところ一番いい状況で、伯母自身が身体を起こして、久しぶりの再開をとても喜んでくれるのである。
顔や体つきはとても以前のものではないのだが、声だけはかつてよく話したあのとても澄んだ綺麗な声のままだった。


(お疲れ様でした!)
7年ぶりの従姉妹との会話も弾み、京都へ戻ったらもう日が変わりつつあった。近年、親戚付き合いの希薄化が言われるが、まだかろうじて私たち従姉妹間の人間関係が繋がりあっていることがとても嬉しかった。これも母の頑張った人生のお陰かな、と改めて母のことを思い出した次第である。

京都へ行ったら、三条大橋の直ぐ近く、瑞泉寺をお尋ね下さい。もよろしくね


とんでもないNHK経営委員長古森重隆氏の罷免を求める署名集めを続けています。ご近所、ご友人にも知らせて、是非署名活動ご協力下さい。

『延喜式』研究会「中務省式」の条

2008-04-16 04:09:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
『延喜式』研究って、結構考古学に役に立つんだねと思ったらよろしくお願いします。


(礎石建ち総柱建物を区画する築地塀の雨落ち溝と礎石)

昨日は『延喜式』研究会の新年度最初の会だった。
研究会も新年度からは、京都大学大学院のA さんが就職して京都から離れ、名古屋に移り住むことになったので、一人減って、とても寂しくなってしまった。
昨日は本来の発表者の都合が付かなかったので、SM博士による補足発表となった。補足と言っても、奈良文化財研究所が先日行った「廩院」に関する第429次調査の現地説明会資料を使った大変内容の充実した発表だった。

 その中で特に興味深かったのが、中務省の施設配置に関する裏松固禅の『大内裏図考証』に引用されていた「籍御倉」であった。全国から集められた戸籍の一部は天皇が見るために中務省に保管される。一国でどのくらいの量になるかは国の規模によって異なるが、複数巻に及ぶことは想像に難くない。仮に一国平均一〇巻あったとすると全国で約66カ国だから造籍年には660巻の巻物が中務省に届けられることになる。戸籍は6年に一度作り替えられ、30年間保管されるから3300巻余の巻物が中務省のどこかに保管されていることになるのである。戸籍の巻物一巻の重さがどれくらいなのか知らないが、仮に1kgとすると全体で3トン余の重さになるはずである。


(東側の官衙区画もとても興味深い)
 
 『大内裏図考証』によれば、この戸籍を保管する施設として「籍御倉」がある。具体的な場所は不明なのだが、平安宮では中務省は朝堂院の東に並ぶ中央官司の中では最も北に位置し、南から式部省、民部省、太政官、中務省の順となっている。中務省の官衙区画内部には西南に中務省の本庁、東南に陰陽寮、北西に侍従局、北の中央に内舎人所、北東に主鈴局・主鎰局・監物局が配置され、四面に門が開いていたとされる。籍御倉の場所は不明だが、その機能や規模からして、中務省本庁の一角にあった可能性が高いのではないかと考える。
さてここで問題である。

 以前のブログ(4月7日)で紹介したのだが、実は最近平城宮の第429次発掘調査でこの「朝堂院の東側北部の官衙区画」を発掘調査したのだ。残念ながらトレンチ調査なので、全容が不明なのだが、平安宮大内裏図と比較するとおおよそ先にみた中務省から太政官にかけての位置に当たるのである。調査では調査区の西側から東西に並ぶ2基の礎石建ち総柱建物(倉庫)、この倉庫群と接するようにして以前から発見されている平城宮の基幹排水溝の一つSD2700が確認され、この溝から東側には性格不明の大規模な掘立柱建物群が4時期ほどの時期変遷を経て確認されるという。この東側の官衙区画も面白く、東西幅50mほどの狭い空間が南北100m以上にわたって広がるのだが、この内部がそれぞれ機能を別にしていくつかの空間に分割されるらしい。調査地の一角からは大規模な土壙状の遺構が見付かっておりその中から削り屑を中心とした木簡群が出土しつつある。木簡の分析が急がれるところだが、ひょっとしたら今年の木簡学会で一部が展示されるかも知れない。


(礎石建ち、総柱倉庫の柱跡)

 ところでこの発見された倉庫群を奈良文化財研究所では「廩院」の可能性があると解説している。その根拠は朝堂院周辺にあったことが確認できる大規模な倉庫群は、平安宮大内裏図に見える廩院だけであることによる。発見された倉庫も礎石建ちの立派な建物で、2基並んでいる点なども宮内におかれた米蔵に相応しいものであるという論法であった。現地でご説明頂いたときにも「なるほど!」と、納得して帰ってきたのである。

 ところが、昨日の『延喜式』研究会の史料を見せられて「ひょっとしたら」という疑問がわいてきた。
 そう!宮内には他にも倉庫があるのだと言うこと。それも戸籍という極めて重要な文書群を保管するための倉庫・籍御倉があるということ。
「諏訪一大事」である。(大袈裟な!)
では、発見された礎石建ち倉庫は、籍御倉に相応しくない遺構だろうか?
イヤむしろこちらの方にこそ相応しい遺構なのではないだろうか。そもそも、どうして米蔵が礎石建ちでなければならないのだろうか?全国で発見されている倉庫群、中でも郡の正倉と考えられている倉庫群のほとんどは掘立柱建物である。弥生時代に朝鮮半島や大陸から伝わってきた米作り。収穫した米を保管しておくのが銅鐸絵画にも出てくる高床式の倉庫である。米蔵の基本は掘立柱建物なのである。
そして、巻物などを入れておく倉庫こそ、礎石建ち、校倉造りであることは正倉院を筆頭に法隆寺や東寺に残る蔵を見れば明白である。長岡京で発見された宮内の大規模な総柱建物は大蔵と推定しているが、これもまた礎石建ちである。要するに、文書や経、宝物などを入れておく倉こそ礎石建ちなのである。
 さて、原点に立ち返って発掘調査された場所を確認しておこう。平安宮では中務省の南から太政官の置かれたところに位置している。奈良文化財研究が推定している廩院は本調査地の南2区画、東1区画の位置にある。これを近いと見るか遠いと見るかは研究者の「解釈」の違いにあり、どちらが正しいとも言えないが、中務省の位置が本調査地と一部重なるという見方は問題なかろう。
 もちろん平城宮の役所の配置が平安京に似ているのか、藤原京を継承しているのか、はたまた独自のものなのかはまだまだ明確ではない。似ているところもあるし全く異なるところもあるというのが実体だろうか。確定できないことはいうまでもないが、発見された倉庫が、籍御倉である可能性を思いついた研究会であった。もちろん奈良文化財研究所のみなさんはそんなことは既に検討済みで、その検討を経ての「廩院」説なのだろうが、敢えて異論を唱えた次第である。
 先に勉強した「慰労詔書」もそうであったが、文献史料を詳細に読む機会が少ない私にとっては、この研究会ではいつもとても新鮮な刺激を与えてもらっている。
どなたか会に参加して一緒に勉強してみませんか・・・・。
 こんな貴重な史料を教えて頂いたSM博士、いつも会の準備をしてくれているM市埋文のNさん、そして遠方から参加してくれている京都大学のSさん、岸和田市のHさん今回もいろいろ有り難うございました。次回の発表も楽しみです。

籍御倉、いけるんじゃない!と思ったらよろしくね

NHK経営委員長罷免要求のWEB署名はこちらから!!
http://space.geocities.jp/shichoshacommunity/WEBsyomei.html

NHKの国営放送化を目論む古森経営委員長の罷免を求める署名にご協力下さい

2008-04-11 05:28:52 | NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
今こそ監視の目を厳しく!!よろしくお願いします。


2008年4月7日

内閣総理大臣 福田康夫様
衆議院議員 参議院議員 各位

        古森重隆NHK経営委員長罷免の申し入れ

NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
HK問題京都連絡会
NHK問題を考える会(兵庫)
NHK問題を考える大阪の市民の会

 公共放送であるNHKの最高責任者・古森重隆経営委員長は、就任以来数々の「政治的」発言を繰り返し、氏の資質が問題とされてきましたが、最近になって、「政治的」言動をいちだんと強めています。このまま進めば、NHKが放送法の定める「放送の不偏不党」「自主自律」「表現の自由」が侵され、「国営放送」に変質させられるのではと危惧さえします。以下簡単に同氏の言動を列挙します。
古森氏は昨年9月11日の経営委員会で「選挙期間中の放送については、歴史ものなどの放映はいつも以上にご注意願いたい」と発言し、経営委員会の職責を逸脱した「放送内容に対する政治的発言」として国民的な批判を浴びました。この発言はあまりにも重大であったため、改正放送法で、「経営委員は個々の放送番組の編集その他の協会の業務を執行できない」との条文(第16条)の新設をもたらしたほどです。
次に古森氏は就任前から参加していた安倍前首相を囲む財界人の集まり「四季の会」から退会すべきだとの批判に対しても退会を拒んでいます。同氏の「政治家への接触の鈍感さ」の表れが2月26日、自民党衆議院議員武藤容治氏を「励ます会」への出席と発言にも見られます。そこでは「NHKの仕事もしておりまして、経営委員長を仰せつかりまして昨年6月以来、苦闘しております。みなさんの応援をぜひお願いいたします」と発言しています。
 古森氏は1月29日の経営委員会において、上記の新放送法第16条への無理解を露呈し、「経営委員会はNHK全体の監督責任を持っている。その責任を負う立場としておよそ全く関与できないことについては少し違和感を覚える。」と発言し、同席した他の経営委員等からたしなめられ「解説」を受け、なお執拗にこの種の発言を繰り返しています。
 そして3月11日の経営委員会での「国際放送における国益擁護報道」発言となりました。さらに国連憲章に対して疑義を呈し、「国際放送では国益を主張せよ」と執拗にNHK経営陣に迫っています。
以上の古森氏の言動から次の申し入れを行うものです。

               申 し 入 れ

一 NHK経営委員長古森重隆氏は、政治から独立し自主・自立を堅持するNHKの先頭に立つべき責任者としての適格性を疑わせる一連の行為・発言を繰り返しており、それらは放送法第20条に規定される「委員に職務上の義務違反その他委員たるに適しない非行」に該当すると考えられるので、内閣と国会の名において経営委員を罷免すること

以 上
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氏  名  |   所  属  |   住       所
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取り扱い団体   NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
この画面をコピーし署名の上専用ファックス 075-642-5354へお送り下さい。


とんでもない人物が委員長なんだなと思ったらぜひ署名を!!よろしく!!

金子裕之さんを失って・・・の条

2008-04-07 03:32:31 | yaasan随想
東院の桜がとても悲しそうに見えました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 4月3日久しぶりに平城宮の現場見学に向かった。


(民部省廩院跡ではないかと言われる現場では予め連絡頂いていたので、史料調査室室長のWさん直々に説明頂きました。有り難うございました。)

 奈良文化財研究所のBさんの御配慮で朝堂院の東、民部省廩院かとされる発掘調査現場を見学するためだった。途中大極殿院南東隅を訪れた。そこは、金子裕之さんと最後に会った場所だった。

 ヴェトナムから帰ったその日、悲しいメールが届いた。

 奈良国立文化財研究所にいらっしやった金子裕之さんが3月17日に亡くなったという知らせだった。ご本人・ご遺族の意思で内密にしていただきたいとのことだった。でも、一昨日、久しぶりに平城宮跡の発掘現場を訪れ、金子さんと最後に会った現場がここだったなと思い出すと、書かずにはいられなくなった。

 ごめんなさい!金子さん。

 訃報を聞いて直ぐにお悔やみ申し上げたかったのだが、なかなか書けなかった。直後にイギリスに発ち、その間にもいろいろな「事件」が起こり、うまく気持ちをまとめられなかったのだ。


(奈文研では珍しいトレンチ調査だという。でも、Wさんの発掘調査と言うことでか、大量に木簡を含む土壙が見付かったという。)

 もちろんご遺志を尊重すべきだというのが普通だと思う。私には彼の地から

 「君はどうして僕の心を傷つけるんだ!!本人がイヤだと言っているのに!」

と、あの甲高い声でお怒りになっているのが聞こえてくるのだが、それでも一言書いておかなければならない。それくらい金子さんには言い尽くせないお世話になった。だから、お礼の言葉を述べさせていただきたいのだ。

 もちろん、金子さんに会うと必ず一言苦言!注意?文句?愚痴?を言われる。それがぐさっと心に突き刺さることもあれば、

 「始まった、始まった、・・・しばらくの辛抱!」とおもうときもある。

この最初の一言が苦手で、余り話さない人がたくさんいたと聞く。しかし、僕は全く苦にならなかった。

 一くさりお小言を頂くと、突然顔つきまで変わって、優しく、

「この前こんなのを書いたので読んで!」とか、
「これ持っているか?」と言って、刊行されたばかりの奈文研の報告書を下さるのだった。研究者にとって一番大事なものは資料である。正確で、最新の資料こそ研究の源である。当時地方公務員に過ぎなかった私にとって、金子さんから頂く平城宮の諸資料は宝物だった。考え方も、論点も、性格も違う私にどうして最新の資料を下さるのか、不思議な気持ちになったことがあるが、それは、3回にわたった金子さん主宰の「都城制研究会」でご一緒させて頂いてよく判った。

 都城研究は平城京の研究(藤原京を含めて奈文研の行う研究)だけではとても解明し尽くせない幅広いものだと言うことを切実に感じておられたのだ。だから都を調査する者全てに声をかけてくださったのだ。とても有り難かった。それ以来、資料の公開性と公平な扱いを肝に銘じることになった。

 そんな金子さんから最後に頂いたのが、奈良女子大学COEの報告書だった。
 
 驚いたのは簡単なメモが挟んであって、

 「あなたほどの人が、いつまで長岡京正都論を唱えているのだ。早く副都論に変えなさい!」というものだった。

 ああ、これは金子さんが、正面切って「副都論」を闘わせようという宣戦布告だな!と思った。
 もちろん受けて立つつもりだったので、その準備にかかろうと思っていたところだった。金子さんの論点の中心は、「長岡宮「朝堂院」が副都難波宮のそれと同じ八堂であること」だった(と思う)。

 最近、実に適当に、何の概念規定も、時代考証も、歴史性も抜きに「副都論」を唱え、勉強もしていないマスコミに取り上げられて有頂天になってみたものの、大先生に一笑に付されると、直ぐに黙ってしまう体たらくの「副都論」があった。それに比べれば、間違っているのは確かだが(あちらで地団駄踏んでお怒りだろうな・・・)、「八堂」にこだわる金子説を論破するために、そもそも何故難波宮は八堂なのかから論じて、日本の複都制そのものを研究する契機ができるのではないかと期待していたのだ。しかし、それも果たせなくなった。悲しい!!

 近年の都城制研究の後退は目を覆うものがある。研究史を無視し、発掘調査資料をつまみ食いして「遷都論」を唱える悪質な文章が商業ベースの書籍に載ったかと思えば、かつては査読誌として知られる雑誌がこれを巻頭論文として「再録」する始末。査読する研究者すら手配できないという、都城制研究の末期症状の様相を呈しているとしか思えない事態が進行しつつある。そんな時、金子さんを失った損失は計り知れない。

 1945年生まれだから私より3歳年上だ。63歳の若さだったと思う。一昨年の高橋美久二さん、昨年の鎌田元一さん、そして今年の金子裕之さんと、まだまだこれからご指導頂きたかった都城研究の先輩を相次いで亡くして、呆然としている。

 
(この日は円山公園の桜を少し見て、・・・・夜遅くまで痛飲しました!金子さんへの深い尊敬の念を込めて乾杯! 彼岸からこれからも苦言を呈してくださいね。)

これからの都城研究、一体どうなるんですかね・・・

The Antonine Wall報告-3  まだ行方も判らず帰ってこない荷物の条

2008-04-01 17:47:50 | 歴史・考古情報《西欧》-1 英国 
 BA も金属疲労かな?!と思ったら・・・・よろしくお願いします。


(実は混乱の予感は確実にあったのです!)

あれから3日が過ぎた。
荷物を積み込んだ日からすると既に4日が過ぎている。
にもかかわらず不親切極まりないBAのホームページには


(こんな立派な、見栄えだけはとても綺麗な空港なんだけれどもね・・・)
TRACING CONTINUES. PLEASE CHECK BACK LATER
(引き続き探索しているので後でチェックしてください。  というのである。)
No information available
(それにしても「何の情報もない」というのはどうなっているんですかね)

と、実に素っ気ないのである。
そもそもがここに辿り着くまでにいろいろな問題があり、中でも一番の問題は

File Reference という

このファいつの中にはいるためのいわばID番号があるのだが、彼らが教えてくれたのは5ケタの数字のみ。

これでログインすると、10ケタの記号を入れろと言う?そんなもんどこにあるんや?

いろいろ試して判ったことが、① 成田空港の略記号と思われる「NRT」とバッグの略かと想像する「BA」からなる語を入れ、さらにこれに教えてもらった5ケタの数字を入れ、そして自分の姓名の名前の方を次の升に入れてやっとつながるのだ。


こんなこと誰も教えてくれない!!そもそもが全部英語で書いてあるからとてもわかりにくく、時間がかかる。そしてやっと辿り着いたのこの「情報」??

一体全体どうなっとるんや!!ええかげんにせー!

と怒鳴りたくなる。こんなことで本当に荷物は返ってくるのだろうか。


(結局この飛行機に荷物は載らなかったのである。よく見るとカートに荷物が載っていないようにも見えるが・・・・?!)
こんなことなら二度とBAには乗らないぞ!!と固く決意した次第である。
ちなみに、イギリスに行くのにBAでなくとも「Vergin Atlantic air 」が飛んでいるし、もちろんJAl やANA もあるのだからこっちにした方が親切だ。

今日から新学期、授業はまだだが、新一年生が学内をうろちょろしている。我が新ゼミ生9人も早速昨年度の後期の成績をもらいに我が研究室を訪れた。本当ならその際に彼らに「お土産」を渡すはずだったのがそんなこんなで渡せなかった。

残念!(とは言っても大した土産はないのだが・・・・)

なお、ヴェトナムで体調を崩した新3年生3人も無事元気な笑顔を見せてくれた。少しホッとした。あのくだらない「怒鳴り声」がトラウマにならないことを願っている。


(とてもよく残っていたBarHillの城壁)
みんな元気でよかったねと思ったらよろしくね