yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第3回久留倍遺跡シンポジウム

2005-06-29 17:43:28 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 
 
 少し宣伝をさせていただきます。昨年から地元四日市市で発見された久留倍遺跡については奈良時代の朝明郡の役所跡ではないかと考えられ、その保存に尽力してきました。その結果一応国の史跡になることが決定したのですが、私たちは保存方法に疑問を感じ、また遺跡の内容についてもまだまだ他の可能性があるのではないかと考え、調査の深化と研究の進展を訴えています。その一環として地元久留倍遺跡を考える会の皆さんと共同して講演会や遺跡巡り、学習会を計画しています。その第3弾として今週末に下記のような要領でシンポジウムを開催します。是非お仲間のblogで宣伝して下さい。


 これまでのシンポジウムでは作家の永井路子さんや考古学、歴史学の蒼々たる先生方から講演をいただいていますが、今回も素晴らしい先生方のご協力を得ることができました。これも、遺跡の持つ魅力だと思っています。

 また今年の冬には三重大学考古学研究室主催の第二回の久留倍遺跡の発掘調査を実施します。今度こそ木簡を掘るんだ!!と張り切っています(また空振りしたらどうしよう?)。また予定が決まればこのBLOGで報告します。

 もう一つ大事なことを忘れていました。今回の講演では直木先生から大変興味深い伊勢神宮の成立に関するお話しをしていただきますが、8月23日から始まる斎宮跡の本年度の調査には私たちも協力することになり、初期斎宮を掘ることになりました。こちらも大いに期待して下さい。

久留倍遺跡と朝明郡
日時  2005年7月2日(土) 13:00~17:30
会場  四日市市総合会館(市庁舎西隣) 8階大ホール(視聴覚室)
次第  13:00~13:15    開会挨拶
    13:15~14:30    岸 宏子先生(作家)「壬申の乱と伊勢・伊賀」
    14:30~14:45    休憩
    14:45~16:00    武田佐知子先生(大阪外国語大学教授)「聖武天皇の行幸と天皇の衣服」
    16:00~17:15    直木孝次郎先生(大阪市立大学名誉教授)「壬申の乱と伊勢神宮」
    17:15~17:30    山中 章(三重大学教授)「久留倍遺跡のこれから」
主催  久留倍遺跡を考える会 三重大学考古学研究室(久留倍遺跡シンポジウム実行委員会・人文学部伊勢湾文化資料研究センター) 
後援  四日市市教育委員会 後援・助成  岡田文化財団 協賛  大矢知手延素麺組合


博物館と金太郎飴

2005-06-28 19:59:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先日ある大学の授業を利用して、名古屋市立博物館での(おそらく万博を記念して開催されていた)『古代エジプト展』に行った。
 平日の午後であるにもかかわらず沢山の人々で会場はごった返していた。予想通りであった。
そもそも私が考古学に興味を持ったのが小学校の時に聞いたラジオ番組と中学校の時に京都市立美術館に来た『ツタンカーメン王展』であった。その前後に『ミロのヴィーナス展』も来た。今から考えると随分豪華な展示が次々と来たし、学校もよくぞ子供達を連れて行ってくれたもんだと思う。世界最高の「物」を見て私は是非海外で発掘調査がしたい!!と心に強く思ったものである(残念ながら語学の素質のない私は結局日本の考古学をやることになってしまったが)。

 これら一級品はただ置いてあるだけで見る人々を圧倒する。だからへたくそな展示解説などいらないのである。しかし残念ながら今やこれらは簡単に持ち出せないし、仮に持ち出せても大変な金がかかる。だから久しぶりの古代エジプト展は大盛況になること間違いなしだった。ところが常設展示には無料で入れるにもかかわらず、ほとんどの観客は見向きもしなかった。

 学生達を連れて行ったのには理由があって、エジプト展と常設展を比較してどこがどのように違うのか、或いは、観客の反応はどうかなどをレポートさせるためだ。

異口同音にして語られたのが、せっかくの素晴らしい展示品があまりに会場が狭いので、肩寄せ合うようにして詰め込んで展示しすぎではないかという点であった。コーナー毎のパピルスを模した紙を用いた説明は、なかなか雰囲気があって良かったがそれらと各個別展示とがあまりに違いすぎて、コーナー解説にエネルギーが注ぎ込まれすぎて本体にまで及ばなかったのではないかという批評が印象的だった。

常設展との比較では尾張の通史がいろんなジオラマを用いて説明してあったのが好意的に評価された。もちろん大半の学生が初めて見たらしい(名古屋の大学生なのに寂しい限りだが、これも博物館に問題がないわけではない。)が、ほとんど人のいなかったことに驚いていた。

やはりここでも常設展鑑賞者の少なさが大いに問題とされたわけである。「博物館と閑古鳥問題」である。

まず提案したい第一は、日本中の博物館展示企画から展示を専門とする大企業をはずすことである。
○○企画、××メデア、□□科学などがおそらく全国の博物館の90パーセントを企画立案したに違いない。その結果全国に実に見事に「美しい」博物館・資料館ができた。ところがその結果全国どこに行っても同じ雰囲気の展示施設を見る羽目になったのである。目さえ肥えてくれば、それがどこの業者のものかすぐに分かる。つまり、金太郎飴現象の招来である。説明やイメージは同じで、置いてある物だけが違う。これでは二度と常設展を見ようという気にならないのが当たり前だろう。

 提案の第二は学芸員の定期異動である。ほとんどの資料館・博物館の学芸員は一度その館に採用されたなら、別世界へでも転職するか、国立博物館のように異動できる人を除き、大半が生涯その施設に勤務する。このため館の内情を大変よく知り、館の中の主となる。これが資料の管理や物の貸借に便利なことはいうまでもないが、当然マンネリ化という弊害も生み出す。独善的な展示にふんぞり返り、「俺の研究成果じゃ、見たけりゃみろ。わからんやつはこんでもええ」といった感じの展示が横行する。閑古鳥が鳴いても平気な学芸員は日本中に山ほどいる(こんな苦言を呈する私などは彼らにとってはとんでもない極悪非道のやくざ、と言うことかも知れない)。

 私は彼らを追放しろとは言っていない、学芸員でもできる他部局での仕事(例えば公立の博物館なら教育委員会の生涯学習事業や文化財調査、国庫補助金の管理事務等々。私立の博物館でも助成金事務や館外活動、他館との交流事業や宣伝事業など)はあるはずだ。それが資料館運営に役立つことは間違いない。こうしたことに抵抗を示す学芸員のたいていは学芸員の本来の仕事を忘れて研究者気取りでいる。もちろん学芸員が研究してはいけないなどと言うつもりは全くない。学芸員が学芸員として研究すべき課題は山ほどあるからだ。興味のある問題を自分なりに深化し、研究論文を書くことも当然のことであろう。しかし第一に「閑古鳥」問題はもっとも深刻で大きな課題である。それを真剣に研究して初めて(或いは平行して初めて)学芸員として職を得ている意味があるのである。そうでない学芸員は職務怠慢なのだから、全く別分野に異動させられても、場合によったらクビを切られてもし仕方なかろう。

第三に、資料館同士の交流を具体化すべきである。特に同一県下、或いは同一地域に所在する館同士が、相互に開催する展示会を数年間にわたって予め協議し、同一内容を避けたり、相互に関連し合う展示を心がけたり、ジオラマの開発を共同で行ったり、今はやりの3Dを研究したり・・・・、することはいくらでもあるはずだ。もちろん閑古鳥が鳴いている常設展の改善に対してどうすればいいかを協議すべきであろう。資料館に閑古鳥が鳴いている今こそ絶好の改革のチャンスである。是非真剣に検討してもらいたいものだ。

 まだまだ提案したいことはいくらでもあるが、とりあえずここまでで止めて、皆さんの批判を待つことにしよう。



キョウオンナとの懇親会??

2005-06-27 09:09:35 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ここのところ歴史考古学とは無縁な個人的な話ばかりで退屈なかたも多いに違いないが、ここはもう一言だけ書きとどめておきたいことがある。
 昨日の「平安京閑話」を覗いてドキッとなさったかたは多いに違いない。
「とうとう山田博士も恋に狂ったかな・・・」などと。

 「京女」と書いてなんと読む。
 「キョウオンナに決まってるじゃん!」と仰るかたは雅でない?と博士は言うに違いない。
「キョウジョ」すなわち京都女子大学または京都女子高等学校の略称なのです(どちらかというと私は後者のことをそう言う。前者は単に「女子大」というような気がする。余り縁がないので滅多に口をついて出てはこないが。)。そう言えば「東女」で東京の人たちは「トンジョ」と言いますよね。東京と京都の私立女子大の雄を指してどちらも一般の人にはなじまないかも・・・。

 さて、読み進む内にこれが「キョウジョ」のことだと解ってがっかりした。ところがしばらくしてまたときめいた。博士が研究会にも行かずに懇親会だけ行くとはけしからん!!と激怒していたところ、その理由が高橋慎一郎さんに会うためだとわかったからだ。彼と会うためなら許してやろう。でもどうして彼は高橋さんと懇意なのだろう?いや逆もまた真かも知れないが・・・。高橋さんは学問が一流なのは言うまでもないが、この世界では珍しく?!背が高く、ハンサムで、物腰が柔らかく、言葉遣いも優雅なのである。

 私は7年ほど前、山川出版から出された新版日本史の中の『都市社会史』でご一緒させて頂いた。吉田伸之さん配下の猛者連中?(いえいえ、皆さん紳士淑女ばかりですよ)の中でひときわ目立っていたのが高橋さんである。確か一度長岡京をご案内しますと言いながらしなかったような気がする。

 こんな所でも人間関係が続いているのかと感激させられた。そうそう、コメントを書いてくれた関の「てらしま」さん、山田邦和博士も美形ではありますが、高橋さんには負けてます。ひょっとして『中世都市研究会』にも来られるかも知れません。是非こちらこそ万難を排して見に行くべきです。

 さて、とても学問的とは思えない週末が明けてこれから過酷な仕事の1週間が始まります。今日は夕方から府立大学での大学院の授業と、夜、身内でやっている『延喜式』研究会です。府大(これも大阪の人なら大阪府立大なんでしょうね)の授業はなかなか楽しくて(でも準備は大変)、結構勉強になります。今日は鎌田元一先生の大論文「評の成立と国造」を素材に、律令国家成立前の地方社会について分析します。もちろん私も孝徳全面立評の立場ですが、興味深いことに立評が形として表れるには少し時間がかかるんですね。この辺が考古学と文献史学とのずれで、いずれ真剣に考えないと行けないと思うのですが、とにかく国造制から評制への展開が律令国家成立の大きなターニングポイントだったと思いますので、力が入ります。特に伊勢国については『大安寺伽藍縁起併流記資財帳』があり、十分考古資料を補ってくれます。「中央の地方支配」という古くて新しい課題を余り誰もやってないところでやるのはとても刺激的です。いつか本にできたらなーと相変わらず夢想しています。

(一度アップしかかってちょっと脇見したためにこの文章も二度目です。そろそろ真剣に準備にかからないといけません。写真は毎年案内する慶応女子高等学校の生徒さん達(中山修一先生から引き継いでもう20年以上になります)と登った東山からの平安京南部の風景です。この山裾辺りにキョウジョがあります。博物館の横です。)

ある休日の過ごし方比較

2005-06-26 11:37:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日の私はとにかく一日中部屋の大掃除。
 掃除といっても掃いたり拭いたりするのではなく(それもしたが)、机の上やら床の上に積み上げられた書類やら本やら、授業の資料の残りやらなんじゃかんじゃの紙類を大整理する仕事である。

 だいたい2ヶ月に1回くらい衝動が起こり突如片づけ出すのが恒例である。ところが今回はいろいろあって、半年ぶりというからこれは難題。
 何度も何度も「地層」を移動させているうちに「層序」が乱れ、古いものが上に来たり新しいものが下に行ったり、はたまた、書類と資料がごちゃ混ぜになったりで、その種別だけで大騒動。とうとう書類の片づけは来週に持ち越されてしまったが、それでも何とか夕方の宴会の待ち合わせ時間までには形になった。

 掃除の間、昨日の山田博士に刺激されて、大昔買ったヴェートーヴェンのCDをかける。やりましたね、これで優雅さも五分五分と思いきや、CDの音が異常に大きい。おかしいなーと思いつつも、マ、掃除だから少々大きくてもいいか、と思いなおし作業を進める。しばらくして、それにしても大きいので原因を探ることに。ボロ(学生が捨てていったCDプレーヤー)プレーヤーをいじくること数分。どうもうまくいかない、仕方なく原始的な方法で二三度ドツクとナナナント、直ったではありませんか。久しぶりにやった修理法法。昔は我が家の短波放送のラジオがボロで、時々どつかないと聞けない。短波で何を聞くかって?そりゃ決まってまんがな!気象情報?嘘!野球の実況中継。古いなー。

 そんなこんなでピアノコンチェルトを聴く。オ、大将もやるじゃんんと思われるかも知れませんがあの山田博士との大違いが先ほど「平安京閑話」を覗いて判明。なんと彼は今日僕がこんな話題を書くと見越してか?昨日、今日の休日のためにCDを買ったそうなのです。それがこれ。

 ストラヴィンスキー「兵士の物語」(マルケヴィッチ指揮アンサンブル・ド・ソリスト)
 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」(ハスキル〈ピアノ〉、マルケヴィッチ指揮コンセール・ ラムルー管)
 そしてもう一枚、、(美人姉妹として有名な)ラベック姉妹のピアノ連弾のブラームス「ハンガ  リー舞曲集」
だって。

同じヴェートヴェンのピアノコンチェルトなのだが、そもそも私の聞いたのが何番なのか覚えてない。きっと有名どころだから同じなのかも知れないが・・・。それにしても彼は何であれだけ演奏者の容貌までよく知っているのか?ひょっとして音楽より演奏者や指揮者の美貌(ということは女性演奏者??)に興味があるのでは・・・・・?なーんてひがんでみても勝負はあったり!

 結局、昨日はみんな忙しいとかで、居酒屋で飲んだのは二人だけ。W氏と考古学から見た伊勢神宮、伊勢湾西岸の弥生から古墳初期の個性を大いに語り、少し元気を得て京都へ。ところが電車が行ったばかりでそれから待つこと40分。近鉄津駅のプラットフォームにある効かない冷房の待合室でうとうとしながら時間を過ごす。自宅へ帰ったら22:30。風呂に入って!(ここが昨日と違うところ、アー久しぶりの風呂は気持ちいい!!まるで砂漠へでも出張していたみたい。)バタンキュウ!!

 今朝は早くに目が覚めたがすぐには起きあがれず、結局動き出したのは8時。起きてきた息子の息子と遊ぶが、今日はどうもご機嫌斜め。どこにも優雅さの漂わない休日の始まりであります。

 やはり休日の過ごし方も大博士に負けている私でした。ウーン、何とか改善しなければ・・・。かといって、「自転車」を「タクシー」に変えろというてらしまさんのご提案も何となく姑息だしなー。
 これから青木書店から出る論集『王権と王統譜』の校正に目を通し、9月に出る恩師の退官記念論集の校正をやり、アー、忘れてた!ミネルヴァの校正もやらないと怖い先生からどつかれる。そして明日の府立の準備。マ、世間とはかけ離れた休日ですな。

ある歴史考古学者の一日比較

2005-06-25 10:20:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私の友人の一人、山田邦和博士は大変著名なサイト『平安京探偵団』の主である。その中に彼の楽しい毎日を綴るBLOG「平安京閑話」(http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/)のあることはもちろん皆さんご存じの通りである。そして彼のBLOGに私やその家族が度々登場することもBLOGの通ならご存じの通りである。このため私の行動は彼のBLOGを通してかなり知れ渡ってしまっている。先日も「○○夫人の巻」で登場したし、その後も新幹線の中でのビールで登場した。
 実は不覚なことに私は「平安京閑話」がBLOGなるものだということをつい最近まで知らなかったのである。「探偵団」の一部として奥さんが作ったコーナーだとばかり思っていた。ところが最近、あるきっかけでわたしのBLOGを立ち上げることになり、いろんなものをいじくっているうちに、「人気Blog投票」なるものの「歴史」コーナーに「平安京閑話」が第2位にランクされているのを知った。

 そうだったのかBLOGだったんだ、ということになり、それまで余り読まなかった彼の「閑話」を読むようになった。そこで気がついたことは彼の日常生活が充実していること、実に優雅なこと、であった。そこで今日は二人の日常を比較することにより、どうして彼が優雅なのかを分析することにする。

 まずお断りしておくが、私と彼とで一番違うのは(歳だが、それ以上に)論文の数と質である。この違いがあるにもかかわらず、つまり論文を書くには相当の時間とエネルギーがいるはずなのに、どうして優雅なのか、これが疑問なのである。

 さて昨日の私の行動は、
 ①前日から始まった部屋の片づけがようやく夜中の2時頃終わり?、それから仮眠。
 ②朝5時45分にセットした携帯の目覚ましが鳴る前に起きてしまって、仕方なく早めに顔を洗い、コーヒーを沸かし、ボーっとする。もうちょっと寝ればよかったと反省。
 ③何故こんなに早起きしたかというと、単なる我が身の怠慢。その日ある2件の非常勤の授業の準備がまだ整っていなかったのである。今年はいろいろ懲りすぎて(単にごちゃごちゃにしただけ見たいなんだが・・・。)、なかなか授業の構想が直前まで定まらない時がある。昨日はその典型例。
 ④いろいろ考えて、少し楽をすることにして、「ヴェトナムタンロン宮殿の遺跡保護と日本」と題して遺跡活用の検討をおこなうことにした(これなら、既にプレゼンもあるし、資料もそんなにいらないから何とかその場は切り抜けられる)。
 ⑤8時に最寄り駅(江戸橋)に向かう。ふと、「そうだ、明日は津にいるんだ(久しぶりに県下の調査員と宴会)、だったら自転車で行こう!」と突然方針変更。自転車にまたがる(今年の卒業生からもらった自転車)。ところがなぜだか、ゴリゴリいう。前後輪とも空気が余り無いのである。今更空気入れも探せないからそのままゴリゴリいわせながら駅へ向かう。
 ⑥以後、午前・午後2件の授業をこなし、その合間の11時にはいつもの通り近鉄四日市駅上にあるうどん屋でいつもと同じうどんを食う。
 ⑦授業中に何度も携帯のバイブが響き、どこのどいつやと思いながら授業を進め、15時に終了。先週課した課題「天王山古墳・親王塚古墳を活かした町造り」を提出させる。チラチラと見るが、みんな適当。もちろん数人はいつも真面目に書いてくれ、今回もなかなかの力作(85人中数人。寂しー)。
 ⑧電話の主は誰かいな、と着信履歴を見ると我が学生。「納涼大会のために名古屋に向かっている」という(ところで納涼大会と言えば皆さんは何を思い浮かべます。彼らは「肝試し」なんですよ。びっくりした!)。ビールで納涼することにし、待ち合わせ。
 ⑨いろいろあって、結局5時過ぎに「高島屋の時計台!」の下で待ち合わせ。早く着いた私は「時計台」はどこや、と探検に出かける。ところがどこにもない!仕方なく高島屋の案内嬢に尋ねようかと近づく目線の先に何となく時計が目にはいる(「エ、まさかあれ?」)。とても時計台とは言えない金メッキの安ぼったい時計があった。
 ⑩まだ時間があったので滅多にしない高島屋巡り。歩き疲れて地下に行くと沢山のおばさん。夕食を買いあさっている(アーこれの残りもゴミとなるんだ。アフリカの人たちが何人食べられることやら、等と思いながら「Faution」の出すパン屋で珍しいパン二個を明日の朝食用として買う-さっきこれを書きながら食べた。マーマーだった。)。
 ⑪国立大学法人N大学に進学したO院生を呼び出し、M大生を含め総勢?4人で、学生行きつけの世界のビールが飲めるという店に行く。
 ⑫僕はてっきり世界中のうまいビールがジョッキで次々と運ばれてくるのかと思いきや、単にいろんな国の瓶ビールそれも小瓶が出てくるだけなのだ。学生はビールも飲まんししゃあないか、と諦める。
 ⑬仕方なく、今日はヴェトナムの話をしたことだし、ハノイで飲んだ「333(バババ」を飲む。向こうでなら50円もしないのに600円。なんじゃこれ。
 ⑭花金の夕方だから大衆酒場は一杯。予約が入っているからと二時間で追い出され、手持ちぶさたで、カラオケへ。
 ⑮学生の早口の歌と私の古くさい歌とがごちゃ混ぜの何ともけったいなカラオケ大会を二時間やって、津に戻る。空気の抜けた自転車をあえぎながらこぎつつ、「部屋」に帰ったらちょうどシンデレラ時刻。さすがにメールなどをチェックしてバタンキュウ。

 今日になって、博士の「閑話」を覗くと優雅な話。それでこんなものを書く羽目に・・・。アーもう10時や。

 で、博士は一昨日何をしたかというと(詳細は彼の日記をどうぞ)、仕事をした点はマ、同じ。ところが夕方からの行動が全く違う。
 ア) 京響の西村智実コンサートに出かける。無教養な私には西村智美なんて指揮者は知らん。演奏曲名すらようわからんのに、第一楽章と第二楽章の間の間まで彼は知っている。そしてそれを知らない「無教養な聴衆」がまだ終わってもいないのに手をたたくと非難する。
 → そもそも京響に行こうと思うところから既に差がある。こちらカラオケじゃもんね。下品!!歌った歌はもっと・・・・。
 → 昔昔あるところに純情な高校生がいました。彼は父親に譲ってもらったチケットを手に、岡崎の京都会館第二ホールへおそるおそる歩を進めました。そこには正装したご婦人やらおじさんが開館前に今日のヴァイオリンニスとの評判を話していました。学生服に身を包んだ彼は小さくなりながらシートに腰掛け、約2時間くらいの演奏に聴き入りました。
 → それから何度か行くうちに少しはコンサートが好きになったのですが、あいにくその頃流行った「いまはもう長すぎるコンチェルトなど聴いている時ではない・・・」という歌に洗脳されて、以後クラシックを聴くことはほとんどなくなりました。

 イ) 演奏者の批評、聴衆の批判、実にプロ級の文言。
 → びっくりした。博士がこんなにクラシックに造詣が深いとは・・・。

 ウ) 演奏後レストランでフレンチ!フォアグラに高給ワイン。
 → こちらはつけもんに「333」。
 → これまで彼の病気(痛風)に少し同情してきた私だが、今日から断固放棄。あの病気になるのは当然。まさにあなたのためにある病気。まさに贅沢病。確かこの前の書き込みでもどこかで大先生とええもん食べたとか。彼の日記の最後には必ず優雅な食事と酒が付いてくる。

 ↓↓ 
 で結論。寸暇を惜しんで論文を書き、合間に優雅な食事を持ち、優雅な趣味で過ごす。
 これぞ山田式優雅人生。

 とにかく第一前提ができてんわな、この私。コンサートは遠慮するけど、その後のフォアグラは付き合うから今度声かけてね、博士。

 (今日の写真。フレンチとは無縁な私がこの春に行った集安の町中にあった石碑の横のトイレ。食べてしもたらみんなこれ。一緒やないの、とやせ我慢。こんなのが趣味じゃコンサートは無理やもんね。隙間だらけのてんこ盛り。ついこないだまで日本もこうやったのに、まるで別世界のものでも見るかのような同行者の視線。それにしてもいつも思うが、どうして中国のトイレはあんなにてんこ盛りなんかね。)

ヴェトナム・タンロン宮殿の文字塼

2005-06-23 11:43:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今年の専門の授業の一つは日本古代木簡である。
 前期の初めは少々遊び心を入れ、木簡作りから廃棄までを割り箸を使ってやった。少々時間を取りすぎて予定が遅れ気味である。ここ2週ほどは、初期木簡の事例として「十干十二支」を取り上げて年紀の記しかた、西暦年への換算の仕方などを説明し(試験をして暗記させ)、今日の後半からは現時点での最古年を記した前期難波宮北西部出土「戊申年」木簡を素材にその出土の意味、考古学的な位置づけ、遺跡の評価などについて話した。今授業が終わってホッとしているところである。

 その意義は言うまでもなく、①この木簡が大量の土器類を伴って出土したこと、②よって、若干の議論のあった土器の年代観(私は一部で声高に叫ばれている年代観-これまでより新しく考える考え方-は明らかに間違っていると思っている)に決定打を与えたこと、③一部で疑問視されていた前期難波宮=難波長柄豊碕宮説を完全に証明したこと、等にある。

 それはともかくとして、私が今日の授業で強く主張したかったことは、①中国で開発された太陰太陽暦という暦は、当時の東アジア全体で使用され、ほんの少し前まで使い続けられたこと、②干支で誕生年を言う習慣は中国を核とした東アジア固有の文化であること、③東アジア全体で言語や文化に多くの共通項が横たわっていることがわかること、等である。

 今、靖国神社に参ることがいかにも日本固有の文化であるかのごとく声高に吹聴されているが(どうしてあんなにがなり立てるのだろうか)、私には全く理解できないのである。そもそも日本人はもっと穏やかな人類だったはずだ。東アジア全体の中で、中国とも朝鮮とも、時にはヴェトナムとも実にうまく(外交)してきた。だからこそあの太平洋戦争を除き一度も外国の侵略を受けることがなかったのである(もちろん1274・1281年は危機一髪だったが)。つまり膨大な人命を犠牲にして馬鹿げた侵略戦争に邁進したからこそ、日本列島は焦土と化し、GHQに占領されたのである。そんな歴史を私たちは誇らしく思わなければならないのだろうか。

 暦に十干十二支を用いる年紀記載方法があるからこそ、東アジアの歴史はあたかも西暦で見るように簡単に国々の出来事を時系列で並べることができ比較することが可能なのである。そもそも漢字を用いることもそうである。今日でこそ、朝鮮半島はハングル一色に変わり、ヴェトナムもアルファベット表記に変わってしまったが、どの国の出土資料の圧倒的多数は漢字で表記されている。

 日本列島の「個性」ばかりを強調し、個性の背後に横たわる豊かな東アジアの文化を忘れてしまっては、個性が育まれた土壌が見えなくなる。母なる大地あってこそ今があるのだということを忘れてはならない。
 このBLOGの名称が「東アジア・・・」とオーバーな名称を持っているのも、決して私自身が東アジア全体の宮都を研究しているからではなく、そうした広い視野を歴史をやっている人間が持ち、現代社会の歪んだ歴史観によるゆがんだ外交関係を正常に戻さなければならない、という、強い気持ちからなのである。
 
 私の専門分野である宮都の構造を見ても東アジアで比較してみると実に興味深い姿が見えてくる。追々、そうした姿についても触れていきたいと思っている。

 (写真はタンロン宮殿から出土した文字塼である。タンロン宮殿成立(1010年)前の唐代・安南都護府時代の造営にかかる「江西軍」の文字が見られる。昨年現地を訪れた時、時間があったので少し塼を分類してみたが、基本的に同一胎土で焼かれ、厚さなどの寸法も実に規格的であることを知った。スタンプは5種類あり、おそらくもっと他種類あるに違いない。安南都護府末期の姿を知る貴重な資料群である。)

『文字と古代日本』第3巻刊行!!

2005-06-22 22:04:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
平川南・栄原永遠男・沖森卓也・山中章編『文字と古代日本』第3巻(吉川弘文館)、僕の担当分が刊行されました。全五巻の内これでようやく半分が刊行されたわけです。どこまで『文字』に迫れているのか、少々議論のあるシリーズですが、自分で言うのも何ですが、結構まとまりのあるシリーズだと思います。購入ご希望の方は私のメール(yaa@human.mie-u.ac.jp)に連絡下さい。全巻2割引(6615円×0.8=5292円と送料)になります。

以下の文章は総説の部分です。第3巻の概要は見当が付くと思いますので読んでみて下さい(実は、早速今日、大学院の授業(今年は受講者は2人しかいません。おまけに今日は一人でした。)で私の「市と文字」を使いましたが、残念ながらあまり関心を示しませんでした。もっとも原稿段階で一度話をしたからかも知れません。だからといってその内容を覚えているわけでもないんですけれどねー・・・・??寂しー)。
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 総説 「資料整理の手段としての文字~流通・経済の現場から~」   山中 章

経済情報と文字 出勤途中の電車の中で経済情報に目を凝らすサラリーマン達、彼らが対象としている紙面には、株価の変動、円やドルの値動き、そしてアメリカや日本の財務省から発表される様々な統計情報、各種企業の業績、場合によっては虚偽情報等々、大半は数字による情報が掲載されている。一方、トヨタや松下などの企業では現場生産に徹底した合理化が進められ、ライン上を流れる製品や部品の数量、時間、期日が厳密に定められているという。流通業界においてはバーコードが日常化し、金融業界ではカードが中心になりつつある。いずれも数字化された情報を素早く統計処理するための技術である。私には到底理解できない株式市場の数字群や△▽の記号、バーコード、これらの「文字」を通して伝達される情報にこそ経済・流通・生産社会の特殊な文字社会がある。
では、古代社会において財政・経済・会計・流通・交通・生産といった日々刻々変化していく分野における文字の姿とはどんなものであったのだろうか。物量、人数、日数、価格、統計、品質等々、物の数量や等級の表示のために用いる数字はいずれにおいても不可欠であろう。もちろん、会計のように数字が中心の世界でも、数字以外の文字がなければその持つ意味を説明し、伝達することはできない。現代社会同様、数字と文字をいかにうまく組み合わせて表現、伝達するかが、実社会を動かす大きな原動力になっていたに違いない。

古代の財政文書 古代国家の財政は民衆の各種負担(税や労働)によって成り立っていた。収入を確保しつつ支出を効果的に行うことが、国家や諸行政組織を維持、経営する基本である。残念ながら国家財政の予算書や決算書は残存していないが、造東大寺司配下の写経所のそれが知られている。当初、予算書が「事業遂行の経済的基盤」の確保と同時に「作業完了までの大まかな見通しを示す作業計画書」として重視されていたが、「天平宝字年間から財政運用を審査する資料として」決算書が重視されるようになったという。このような変化の背景には「現物経済に対する貨幣経済の比重の高まり」があったとした(大平聡:第Ⅰ部1)。流通経済の構造の変化が、必要とされる文字情報の質や量を変えたのである。

出土資料から税や負担を知る 各種税負担等に関する史料は荷札木簡を中心とした出土資料によって飛躍的に増えた。荷札木簡に記載された負担の実態もまた、負担を管理する行政組織の整備の進展と無縁ではなかった。負担情報が地方行政組織のどの時点で作成、管理されたのかによって、もたらされる文字情報は異なっていた(吉川真司:第Ⅰ部2)。 
 出挙もまた民衆に課された負担の一つであるが、その実態もまた出土文字資料によって解明されつつある。出挙は地域社会に潜在的に存在していた稲の貸し借りであり、地域社会の中で大きな意味を持っていた負担であった。であるが故に、「出挙の実態を解明することは、同時に、古代の地域社会における記録技術の実態を解明することにもつなが」り、「古代地方社会の出挙の運用と文字文化の習得とは不可分の関係にあった」という三上喜孝:第Ⅰ部3)。例えば天平期に整備された公出挙は国郡制、戸籍制の枠組みの中で行われていたからこそ、その記載に「戸主」「妻」といった表記が認められた。八世紀の公出挙の収納を示す木簡群を分析すると、個人別に「本稲+利稲=合計」を規格化された板に記し、これをカードとして利用し、紙の「公出挙帳」を作成したという。紙木を併用した巧みな記録技術の一端を垣間見ることができる。
 貴族や寺社の経済基盤の一画を支えるための制度として封戸がある。上級貴族の俸禄である食封や寺社の寺封・神封などに指定された戸を指す。封戸に課された諸税は封主に与えられるが、どのような経路を経て封主に至るかは必ずしも明確ではない。『長屋王家木簡』には大量の荷札木簡が含まれ、長屋王の父・高市皇子から伝領した封戸の存在が指摘された。しかし封戸からの特別な書式の荷札がある訳ではなく、希に「封戸」などの記載があるだけで、「封主」名や「封戸」の明記以外には、特定地域のものの集中といった状況証拠が揃わないと、書式の上からだけで封戸からの貢進か否かを弁別するのは難しい」という(森公章:第Ⅰ部4)。しかし、地方官衙出土木簡によって、封主が封戸に対し実態を細かく管理するために木簡を利用している様が判明している。

古代の借金証文 宮都で働く下級官人達は、出挙銭として家財や労働を担保に、親族や姻族などを保証人に立て、単利月額約六.三%で銭を貸借することができた。その借金申請書が『正倉院文書』に遺り、ほぼ令の規定(雑令公私以財物条)通りに記されている。他に写経所の写経生達が行っていた給与の前借りである月借銭が知られる。いずれの借用書にも今日の住宅ローンのそれ同様、元本、利率、担保、保証人等の記載が認められる。現代との違いは、利率を「六十日で元本の八分の一」(単利十二.五%を意味する)などと表記する点であろう。金利計算なども正確に行われているが、中には二重帳簿ではないかと疑われる文書も残されているという(吉川敏子:第Ⅰ部5)

市にあふれた文字 奈良時代の経済は中央に官市、地方に国府市と地方市が設けられ、両流通経済圏が相互に補完し合いながら運営されていた。市における文字の機能はまず第一に物品名の表示であった。官市には豊富な「商品」が肆(鄽)に並べられていたことが都に残された豊富な史・資料から推定できる。主に官人達を対象とした市には微妙に品質の異なる多種多様な物資が販売されていたが、購買者達はその違いを文字によって識別することが可能であった。高度な識字力を持った人々の集まる市は情報の獲得源でもあった。迷子の捜索、拾得物の公開、各種禁制の伝達など、文字情報が氾濫していた。しかし一方で、市に近接した工房では非識字層の仕丁や使部・兵士達が商品の製造や運搬、警備に当たってい た。彼らを管理するために文字が視覚的なマークとして使用されることも多々あった。市は民衆の坩堝でもあった(山中章:第Ⅱ部1)。

交通と文書 全国的な流通経済圏が形成・維持されるためには物や人の移動が保証されなければならない。他方、人・物の自由な移動は軍事的緊張や犯罪の温床となりかねない。そこで、通行証が発給されるのである。その代表例が過所である。法制史料は過所について細かく規定するが、その主な記載項目はA.通行理由+通過関+目的地、B.人・物・馬牛の名数など、C.年月日+発給官司の位署である。「過所様木簡」と称される一群の木簡は、過所そのものではないが、これら基本項目を含み、申請・上申手続きの過程で作成されたものとされ、過所の制が実質的に機能していた事を示す。しかし過所以外にも、大宝令以前から、中央・地方の様々な公権力が文書によって人の移動を保証する役割も果たしていたとされ、交通の確保のために文字が臨機応変に機能していたことを知ることができる(永田英明:第Ⅱ部2)。
 律令国家の公的交通制度として駅制と伝馬制がある。駅家に置かれた駅馬を利用するには駅鈴が、伝馬には伝符が必要とされた。これらは銅鈴や漆塗りの板であり、駅使や伝使が利用する予定の馬の数が刻んであった。つまり刻まれた剋数(記号)が数字の機能を果たしたのである。しかしこれでは使者の名前などの他の情報を知ることができない。そこで使者の正当性を示す資料として別に文書が用意されたのである。公的交通制度は器物と文書を併用して維持されていた(市大樹:第Ⅱ部3)。

土地支配と条理プラン 土地や情報の管理、物資の生産の場面で文字はどのような機能を果たしたのであろうか。
 国家による土地支配は、土地そのものに人間を配置するのではなく、文字による記録を通して実現した。国家が最も精確に支配しようとした土地が田である。田の所在地を確定する基本的手段として確立されたのが条里プランである。条里プランは三つの種類の数値の組み合わせで基本単位を表示する方法である。しかし土地支配を確実にするのためには数字や文字だけではなく「図」が必要であった。天平十年八月諸国に国郡図を造進させた。条里呼称法がこれによって導入され、その後の班田によって成立したとするのである(鷺森浩幸:第Ⅲ部1)。このように土地支配の実務的中心となったのは土地そのものと密着した国郡であった。国郡は数字・文字・図を駆使して支配すべき土地の情報を管理、提供したのである。九世紀に入り、中央政府の国郡に対する統制力が後退すると、たちまち土地支配は弛緩するのであった。なお、本巻では触れられていないが、宮都の宅地もまた、条・坊・町という三つの数値を 組み合わせて管理されていた。

物品管理の木簡や帳簿からわかること 宮都の下級官司などを中心に物品の請求のために用いられた木簡が大量に出土している。その書式や記録媒体の移動経路の分析を通して、文字の機能を知ることができる。物品請求木簡は宛所に留まる場合と、物品と共に差し出しに戻ってくる場合がある。それぞれの場で、木簡に記された情報を下に帳簿が作成されたはずである。また請求者と非請求者との関係によって公式様文書様式を用いるか否かの相違があることも知られた。しかし前者においてすら公式令の規定通りには書記されておらず、末端行政組織や地方官衙では公式令では律しきれない現実の文書世界があったことが明らかにされた(舘野和巳:第Ⅲ部2)
 物品は保存場所から移動(出納)することによって始めて価値を生ずる。物品の管理とは物品を保存し、必要に応じて出納することであり、単に厳重に保存することではない。物品は出納することによって複雑な様相を呈し、そこに特異な文字の使用形態が要求される。物品管理は帳簿作成によって始めて正当な状況を確定し、現状と比較することを可能にする。さらに文書によって出納を行うことによって行為の正当性を確保することができる(鷺森浩幸:第Ⅲ部3)。物品の出納自身に文書を介在させることによって個々の出納行為をその都度確認することができる。これにさらに出納権を設定することにより、出納の正当性を高めることができるのである。その象徴的物品が「正倉院宝物」である。

生産の現場で使われた文字 最後に経済・流通の実態をなす生産現場での文字の役割をみておくことにする。
 東大寺大仏の鋳造に用いられた銅は長門国の長登銅山から供給されたことが知られる。銅山跡は山口県美東町に所在し、これまでに八〇〇点にのぼる木簡が出土している。既にみた通り、宮都や地方の官司で用いられる木簡は、紙と併用されながら文書行政の末端を支えていた。ところが長登銅山出土木簡では、短冊形の木片の上端左右に切り込みを入れた、いわゆる付札状木簡が主流を占め、木簡の再利用に際し発生する削り屑木簡が極めて少ないという。木簡の内容は銅の生産と工人の労働状況を合理的に把握(記録・管理)するために、複数の形態の記録技術を用いて有機的関連をもって作成され、さらに紙の文書とも密接に関わっているという。例えば、銅の鋳造塊につけられた付札には「工人名+生産量(+枚数+品質)+月日」の基本情報のみが記されている。この木簡が基本カードとなって、月毎の工人別の生産高、複数の工人(集団)の月別生産高が集計されていたという(橋本義則:第Ⅲ部4)。恭仁宮における文字刻印瓦の押印が生産管理のためであったことは既に指摘されているところであるが、国家機関による物品(原材料)の生産には数多くの民衆が動員された。その管理のために整然とした帳票形式の文書事務が展開されていたのである。
地方の寺院や官衙跡からも文字を刻んだ瓦や磚の出土することが知られる。武蔵国分寺は古くから研究が進み、記名の目的が知識か貢納かで熱い議論が戦わされている。いずれの説を採るにしろ、文字が地方社会の末端にまで及んでいたことを示す貴重な材料である。近年、出土する税負担の荷札木簡の検討によって、古代社会において文字は地域社会の奥深くまで浸透、活用されていた姿が明らかにされつつある。国分寺や国府、多賀城などの国を代表する施設から出土する文字瓦の分析から、その建設が国司や郡司の裁量に従って、時々の諸国の造瓦体制や負担の状況に応じて、雑徭を用いて進められたという(山路直充:第Ⅲ部5)。雑徭という実態の判明しがたい民衆の多様な負担の様相が、郡郷名などを記した文字瓦から読み取ることができるというのである。地域を挙げての労働提供の姿は、雑徭研究に新たな地平を開くことになる。
飛鳥池木簡は多様な高温作業を伴う工房の資料を提供した。古代において大規模な手工業生産を継続していくためには、原材料の調達、品質の確保、生産量の確認、生産の場の維持管理、生産に必要な工人などの労働力編成、生産現場での給食、他の工房などとの連絡、製品の運搬といった生産活動の全般にわたる管理が必要であった。七世紀後半というこれまでの工房跡では最も早い時期の生産現場において、断片的ではあるが文字が管理に用いられたことが明らかにされ、貴重である(堀部猛:第Ⅲ部6)。
 生産・流通といった分野では、常に新しい情報や物資が求められた。このためそれらを迅速に移動し、確保するために様々な記録技術が用いられた。その他の行政文書の取り扱い方とは大いに異なったのである。

博物館常設展に閑古鳥は鳴いていいか?!

2005-06-22 07:46:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
昨夜、正確には本日早朝まで学生達と「博物館にいかにして人を呼ぶのか?」について熱い??議論をしました。もっともそのきっかけは彼らの他の授業での宿題なんですが・・・・。
学生曰く
・質問コーナーを設けてやりとりをする
・いろんな企画を立てて人々の関心を深める。
・子供向けの企画は多いが大人向けが少ないので高大生を中心とした人々に関心を持ってもらえる企画を立てる
・もっと宣伝をする
・例えばホームページを充実する
・・・・・等々でした。

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これに対する私の反応
・ちゃんと調べた?そんなのどこの博物館もやっていて(やっていない博物館があるとしたらそれはもう博物館に展示すべき博物館。化石化した博物館)それでも閑古鳥が鳴いていると思わない?
→ウーン、確かに。調べた三重県内のY博物館はいろんな企画をやっている。でも平日に訪れた時に案内嬢から「常設展しかやっていませんがいいですか?」と同情された。実際見学しているのは自分一人だった!

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それっていいのかなー。博物館が企画だけして展示を見てもらわなくていいんだったら展示は止めて、経費のかかる案内係も止めて・・・、ナーンテことにはならないかなー。
要するに僕が思うには今の人文系博物館(これって大学にも通ずるんだけどね。今の人文系大学は・・と主語を置き換えて)て、「見たけりゃ見ろよ!俺が教えてやるから!興味のない奴は帰れよ!!」と言っているように見えるんですよね(「俺の授業がわからん奴は俺が悪いんじゃなくて理解できない学生が悪いんだ!」と居直っている先生と同じじゃないかな?)。
確かに高度な知識を求めてきている見学者に小学生に分かる展示を見せたら退屈かも知れないね。
でも本当にそうだろうか。大人の見学者は本当に小学生に分かる展示の全てを「常識」として既に獲得しているだろうか?

ウーン?!

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例えば旧石器時代の展示でよくある説明として(実際にY博物館にもあった!)マンモスの復原図や骨格模型を置いたり、複製品の牙をガラスケースに展示したり、ガラスの背景にこれを狩る人の風景を絵で示したりしている。旧石器人の生活を示したつもりなんだよね。
でも、旧石器人達はマンモスを殺してどれだけの肉を手に入れたと思う?そもそも1頭のマンモスを狩るのにどんな道具がいるんだろうか?何家族で狩りをするんだろうか?
彼らはちゃんと考えていたんだよね。
今の日本では毎日毎日コンビニなどで売れ残った弁当などが300万食も出るんだそうな。それらが全て「ゴミ」として処分されているとか。一方で世界中には何億人もの飢えた人々が明日をも知れない生活をしている。これって尋常かな?

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マンモス数十頭をただ殺して捨てる。そんな展示もあるといいんじゃない?

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マンモスハンター達はマンモスは捕りやすいからといって、どんどん捕っていたわけではないんだよね。ちゃんと計画的に、何家族かで相談して、捕獲し、肉を分け合っていたんだよね。もちろん肉だけを使ったのではなく、骨も、牙も、皮もぜーんぶ使ったんだよね。専用の加工「工場」も持っていたんだよね。

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そこで展示。
展示場入り口にシーソーを置いておく。片方にマンモス、片方に焼き肉屋さんで出てくるロース一人前のお皿「何枚載せればマンモスの肉と同じになるか調べてみよう!」として、コンピューターを使ってシーソーの片方に10枚、100枚とお皿を載せていく、予め予想させておいて当たれば大正解!のファンファーレ!
もちろん時々意地悪してマンモスをナウマン象に変えておく。いつもの調子でやってきて、友達に自慢げに「1231枚だよ」と教えてやる子、それを煙たげに見守る奴。ところが985枚でバランスが取れてしまった。「エッツ」「お前間違ってるじゃん」非難する子。しょげる子。すると明くる日またその子供達がやってきて・・・、こんなリピーターが欲しいよね。でも「大人」は本当にマンモス1頭で何人前の肉が取れるか知ってる?ナウマン象ではどう?鹿ではどう?ホーラ、その内子供の方が物知りになるよ。
「旧石器時代はまだ土器を知らず、狩猟採集の原始的な社会だった。」なんて難しし言葉で語ってもその実態が分かっていないじゃん!

ウーム

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僕がいつも思うのは人文系博物館には動きがない!特に古文書館にはまるで切腹のシーンのように真っ白な空間しかない。シーンと静寂が漂っていて、とても子供には近づけない空間だ。ところがよく読むとその古文書の中身は借金の証文だったり、駆け落ちした男女の捜索願だったり、役所からの税金の督促状だったりする。

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借金証文の前で、「どうする○○フル。ご利用は計画的に!」このコマーシャルでも流しておけば、昔の奴も借金にこまっとたんや、高利貸しがようけおったんや、・・・等と理解できると思うんだけど、下品かなー。

理科系の博物館。動物園なんかその最たるもの。みんなみんな走り回って大声で感動している。最近は特に参加型が増えてきて、いろんな動物と接触できるようになった。水族館のイルカショウでも、イルカにキスをしてもらうコーナーなんか当たり前。「三重県立博物館に行きたいよー」と言う子供はいなくても「鳥羽の水族館につれてってー」と言う子供は一杯いる。そして学芸員は、所詮無理よ!と諦めている。そうかな?ほんとに?

縄文時代の落とし穴、弥生時代の灌漑用水路を掘る苦労、古墳時代の王様のネックレス、古代の都のトイレ、等々、僕にはなんぼでも参加型の展示イメージがある。子供で賑わう展示館に来た老人が、その光景に眉を寄せることがあるのだろうか。「うるさい、静かにしろ!」と怒るだろうか。

常設展に閑古鳥が鳴いていいはずがない。鳴かさないためにどうすればいいのか、学芸員がもっともっと、展示品を熟知して、その本質にいかに迫れるか考えに考えて展示する。参加型にするにはどうすればいいのか考えたことなんてないでしょう(だからといって僕は大学の授業をどれもこれも参加型や問題解決型にすればいいなんて思っているわけではないんですよ。)。

(写真は間もなく開館する内モンゴルサリンハキの上京博物館正面のジンギスカンの銅像。内部は近代的な展示方法の綺麗なジオラマや遺物が並ぶらしい。でもきっと開館後一年で人は激減するだろうな。その後どうする?いつも出会うどこかの国の田舎の博物館のように埃だらけにならなければいいが・・・。)

遅くまで付き合わされた学生諸君、理解したかなー?

天王山古墳と親王塚古墳

2005-06-19 18:10:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
えらいたいそうな名前やな、そんな古墳どこにあるんや?
もちろん愛知県の方々ならすぐにアーとお答えになるのでしょうが、私、春日井市にある某大学に非常勤に行きながらそのすぐ近くにこんな古墳が二基も見られるなんて知りませんでした。お恥ずかしい話です。

旅の恥はかきすて?他府県のことは知らぬ存ぜぬで通す!こんな根性で恥ずかしくも、春日井市の教育委員会に電話し、「今どこか掘っているとこはありませんか?」と尋ねた。すると不審に思ったのか何となく偉そうな感じのおじさんが、「何のご用ですか」と少々お怒り気味の声でお答えになった。仕方なくかくかくしかじかで、某大学の学生のために現場を見せてやってくれませんか?と懇願した。するとようやく、「後で担当者から電話させるから・・」とぶっきらぼうな返事。

そんなこんなで何とかコネをつけた次第でところが担当者の村松さんは大変親切な方で、すぐに懇切丁寧な地図と資料を送って下さった。実は同教育委員会には三重大出身のMさんがいるので彼女に頼んでも良かったのだが、あんまり教官面をするのも悪いかと思って、遠回しにお願いした次第。

で先週の金曜日の午後現地を訪ねた。なんとそこにはMさんも動員されていた。申し訳ない。

なんと説明によると天王山古墳は4世紀にまで遡るかもしれないという。
学生の方は大半が炎天下、ほとんど聞いているのか聞いていないのかわからない感じ、それでも予め刺しておいた釘が聞いたのか、授業の時より集中していた。

特に盛り上がったのが、午前中の中学生の授業で使ったとかいう遺物を持っておられたのでそれの説明。やはり現物の威力はすごい!初めてだっこさせてもらった二子山古墳の円筒埴輪に大感激の学生もいたり、一生懸命スケッチする学生もいたりで、やはり「もの」の威力はすごい!!大学に現物があればもう少しはましな授業ができるのになーと思いながら横目で眺めていた次第。

続いてすぐ近く(約200m)にある親王塚古墳にいった。横穴式石室は入り口が鉄格子で蓋されていたが、デジカメで写真を撮ると何とか内部を示すことができた。それを学生に示しながら説明すると結構みんな大喜び、これまた現物の威力はすごい!!

学生にはこうした「二基の古墳を、現在区画整理事業で大改造中の旧大留村がをどのように景観保存し、歴史的遺産を行かした町作りをするか」という結構難解な課題を宿題として出して解散。
もしいいのができたなら教育委員会に出しますから、とお約束して村松さん達と分かれた。

講義形態の授業からすると少々さぼっているようにも見えるが、これでも結構苦労しているんですよ。
見学風景はこちらhttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/46/fcc21a9e1b5f4316e8f460d135a166dc.jpg

平城宮現地説明会

2005-06-19 15:20:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
久しぶりに平城宮の現説に行きました。
コメントにも書いたとおり奈良版にしか載らなかったにもかかわらず、なんとこんなにたくさん、おそらく500人以上の人が集まっていました。
奈文研の人々も総出?で、次々といろんな人に会いました。そういえば我が先輩川越部長の「一般公開」の日でもあったのではないでしょうか。なかなかユーモアたっぷりに、しかし決してえらそブラずに、実に手短にご挨拶をされたのが印象的でした。さすが尊敬する先輩!!

次々と知り合いに会い、とうとう説明は遠くから何となく進むN研究員の声を聞くだけになってしまい、本当のところはどんな説明だったのか聞くことができませんでした。ごめんなさい!(でも、K元部長からあの子は強いよ!少々呑んでも平気だよ!という情報をキャッチしました。今度平城に行く時には二本酒を抱えていくことにします。)

でも後で一緒に行ったピジョーさん夫妻や大阪市大の院生のミカさんに聞くと少し長かったが、張り切って説明していたよ、とのことでした。初登場としては十分合格だったと思います。そういえば最初の方は少し聞こえてきていて、今日は彼女のお父さんの還暦だとか、おめでとうございます。

さて、現説で仕入れた裏情報によると、昨日書いた玉石敷きについては時期の判断がまだ決められなくて困っているとのことでした(内緒の内緒の話では、ひょっとしてもっともっと新しい可能性もあるとか・・・。「エエッツ、それでは困るじゃん!」)。ですから当日の説明もほとんど触れられることはなく、ごく簡単に「朝堂院のために設けられた施設」といった程度だったと思います。

現場で話した奈文研の調査員も、あまり関心はないようで、僕のように第一次第極殿との関係で解釈した人はなかったようです。そもそも、奈文研の連中(なんて言うと叱られるかも、先生方)は第1次大極殿院を評価されない方が多いようで、積極的に歴史的に位置づけようとなさらないようにも見受けられます。一度本格的な議論が必要なんですが、なかなか土俵に上げてもらえないのが現実です。この点について最も理論的に論文を示されているのが水林彪さん(現一橋大学教授)の「平城京読解」なんですが、彼が法制史の出身だからというわけではないのでしょうが、古代史の間ではほとんど評価されていません。僕は画期的な論文だと思うのですがね。

でも、昨日第一次大極殿院に集まった500人以上の人々を見て、私は確信しました。今建設中の第一次大極殿は工事用フェンスで広く囲われ、本来の大極殿院の半分以下の広さしかないのですが、それでもあれだけの人がとてもちっぽけに見えたのです。間違いなくこの空間には1万人近い人を収容できる!昨日の収穫の一つです。だからこそ中門の前から見つかった石敷きは(本当に古代のものであるなら)大いに意味があるということなのです)。

それはさておき、現地で、金子元部長にも会いました。新旧部長のニアミスなどもあり少し刺激的でしたが、相変わらずの「毒説」にさらされたお陰で今回の調査現場に対する別の見方も教えて頂きました(ほとんどみんな私たち二人の話しているところを怖いものでも見るかのように避けて通っていきました・・採って食うわけじゃあるまいに・・・笑い)。

金子さんによるとどうしてもっと大嘗宮のことを言わないのかなーという感想でした。私もそう思いました。ここのメインは大嘗宮の調査ですものね。要するに想定位置から廻立殿が出なかったからのようです。ところが金子さんによると今回も一部が確認できた中門の下に以前から見つかっている掘立柱建物があるというんです。ただしそれは『儀式』にあるような5×2間ではなく4×2間だというのです。要するに5×2間になるのは平安時代からで、奈良時代は4×2間でいいんじゃないのかというのが彼の説です(これだけ柔軟な説を出せるお人なのに、どうして長岡京は8堂だから副都だ、と頑固なんでしょうね・・・もちろん昨日はそんなこと聞けませんでしたが・・・笑い)。

そんなこんなでいろんな刺激を受けて帰って参りました。最後は、ピジョーさんのご主人・アーニーさんが帽子を忘れて真っ赤っかな顔をしていたので、急遽私の帽子を貸して、現説現場から離れ、奈良ファミリーでおいしいものを食べて帰りました。今頃彼らは飛行機の上で長かった大阪市大での3週間を振り返っていることでしょう。See you again!
なお、今、藤原宮の第五朝堂を掘っているとか、来週辺りが現説のようです。また行こうかしら。






平城宮前期中央区大極殿院門前の石敷き

2005-06-17 05:52:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
奈良文化財研究所ではいわゆる第一次朝堂院地区で称徳天皇の大嘗祭の廻立殿を確定するために発掘調査を行っていた。廻立殿については確定できなかったようだが新たに初期朝堂北端部から人頭大の玉石を敷き詰めた施設が発見され、話題となっている。
玉石敷きは飛鳥ではよく見ることができるが、平城宮では内裏の井戸などごく一部においてしか確認できない施設である。
この施設をどのように解釈するかは当然それぞれの前期平城宮に対する見解から分かれるが、私は中央区大極殿院を極めて中国的な建造物と考えており、当然この玉石敷きもその補助装置と考えざるを得ないと思っている。
報道資料によれば、この写真の石敷き抜き取り痕の形成時期(つまりいつ抜いたかであるが)、二通り考えられ、①大極殿院南面回廊に東西楼が建設される時期、②恭仁宮遷都の時期だという。その時期によって遺構の評価もかなり分かれるが、私はどちらかというと東西楼が建設された時期ではないかと考えている。
言うまでもなく中央区大極殿院は塼積み基壇の上に建設された大極殿が前面の広場を見下ろすように建っている、前後の都では認めることのできない壮大な施設である。
北京の故宮に行かれたことのある方は思い出していただきたい。午門を入ると広大な広場が現れ、その正面に映画『ラストエンペラー』で皇帝溥儀がバッタを追いかけるシーンでおなじみの大和殿が現れる。
私はこの空間こそ中央区大極殿院が目指したものだと思っている。もちろんその元は唐長安の太明宮である。
故宮で言えば、午門の前が今回の発掘現場である。大極殿院中門として発表された門が午門に相当しようか。するとこの問題の石敷きは門前に敷かれたことになる。周辺部の既存の発掘調査成果を参考にすると、南北にはこれ以上延びず、東西が最大で東西楼あたりまで延びる可能性がある。いずれにしろ門前にのみ設けられた施設でどこかからどこかへ行くための通路とは考えにくい。
そこで考えたのが門前の拝礼空間である。中門を入れば大極殿院である。その内部では正月元旦の朝賀の儀式を筆頭に大規模な国家儀礼が催される。大極殿に登御した天皇の前に広大な広場が拡がり、そこに左大臣以下の官人達が居並んだ。彼らが大極殿院に入場するための門が南門である。その出入時に門前に敷かれた玉石敷きで衣服を整え、拝礼して官人達が入場、退出する、そんな施設として考えられないだろうか。

中国に同様の施設があるか否かについては資料がないようだが、いずれにしろ、初期平城宮の大極殿院に伴う極めて異国情緒豊かな施設と言うことができるのでは無かろうか。

しかし、聖武にとっては、藤原不比等によって建設された初期平王宮の中国的な施設は意に添わなかった。それ故、恭仁宮から帰った後期平城宮ではこれを廃し、東側に藤原宮と同じ構造の大極殿、朝堂を設けたのである。
或いは、東西楼を中央区大極殿院の南面回廊の取り付けた段階で既に聖武の意志が働いていた可能性もあるかも知れない。つまりこの石敷きが撤去された時期は、聖武の平城宮改作の意思表明開始の時期を探る絶好の資料のように考えられるのである。
明日午後1時半から現地説明会がある。是非見学に行って欲しい。場所は平壌宮跡で現在建設中の第一次大極殿のすぐ前である。
(失敗の原因判明。アップする写真の容量が1メガを超えていたのである。ナナナント単純!アー情けなや。これからはまた頑張ってアップするぞ!!)