yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

久しぶりの研究会~第10回古代馬の研究会~参加の帖

2020-03-22 14:16:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は第10回古代馬の研究会に参加しました。京都府立大学の諫早直人さんの主催されている研究会で、これまでも何回か案内には接していたのですが、重い腰が上がらず行きそびれている内に、もう10回になっていたようです。
 諫早さんとはこれまで全く面識がなかったのですが、昨年、近畿古代牧研究会で韓国の牧の踏査に参加した折、偶然、新羅の王陵を案内されていた諫早さんに遭遇し、その案内について回っている内に、ご案内のすばらしさに感動し、いつかこの研究会にも参加し、その研究成果に触れようと思っていたところでした。今回案内を見ると、以前から少し興味のあった蔀屋北遺跡を題材とした報告があるというので参加することにしました。
 上野-信州の牧踏査から帰ったばかりで少々疲れが残っていたのですが、思い切って参加してみました。しかし、世の中はコロナウイルス騒動で、外出自粛、集会自粛と動きづらい状況、そこで諫早さんは、厳重な研究会開催の管理体制を構築し、マスク着用、座席の間隔確保、教室の換気徹底、休憩の回数確保、懇親会の中止などの条件で開催されました。素晴らしい対応でした。本当に有り難うございました。

 報告は以下の三本が予定されていました。
 ① 「木器生産と周辺環境(仮)」 岡田賢(大阪府教育庁)
 ② 「蔀屋北遺跡で出土した製塩土器の意味」塚本浩司(大阪府立弥生博物館)
 ③ 「河内の馬飼いのウマ」丸山真史(東海大学)・覚張隆史(金沢1大学)

 ③は私には評価できる素養がないので、ただ拝聴するだけでしたが、馬の骨や歯に蓄積した諸元素の分析から見た馬の生産地に関するものでした。予想通りよく理解できませんでした。歯に堆積したストロンチウムや酸素の同位元素の含有量からその産地を同定するというもののようなのですが、そもそも、歯に含有されるストロンチウムがなぜ産地の同定に使用可能なのかという原則をよく理解できていない私には、なかなか理解困難な報告でした。馬がその生息地で飲んできた水に含まれるストロンチウムなどが産地の同定に役立つということのようです。以前からの研究の蓄積の中からの報告で、共同研究者である覚張隆史(金沢1大学)氏の研究の一部を事前に学習していったのですが、やはり難しかった!
 馬に不可欠なものに塩がありますので、塩に含まれる諸元素が生育地の識別に使えないのか、少し気になり質問したのですが、『塩はNACLで元素の違いはないので、地域差を識別することはできない、』といったような回答で、残念でした。これは、馬が摂取する塩分をNACLのみと決めつけることから来る誤解で、最近の我々の研究会の報告では、人間が摂取するのと同じ固形塩や散状塩塩(NACL)をなめることによって塩分を摂取するのではなく、塩分を含んだ鉱泉水や火山地帯を流れる河川の水を摂取することによって塩分を確保することがあると判ってきました。馬は単に水が必要で飲むのではなく、塩分の含まれている水を好んで摂取するということです。つまり、仮に産地の水に含まれるストロンチウムの量が産地の特定に利用できるのだとすると、塩分を含んだ鉱泉などを飲用する馬ほどそうした影響を受けやすいのではないかと思って質問したのですが、理解してもらえませんでした。残念!。

 ①は蔀屋北遺跡出土木器の樹種を各時期毎に分析して、周辺環境を復元するというものでした。発表の意図がよく理解できず、私の脳裏に取り込むことはできませんでした。馬の研究なのだからもう少し、木製馬具の時期毎の樹種の選択方法の違い(があるのなら)などに集中して報告してもらうとよかったのですが、そもそも、木製馬具の出土量が極めて少ないのでそのような分析はできなかったようで、木製品の樹種選択と周辺環境との関係を一般論として述べるに留まりました。もう少しテーマを絞って分析し、その結果を解釈する姿勢が欲しかったですね。

 ②はテーマに興味があり、最も期待した発表でしたが、期待はずれでした。
 塩業史を付け焼き刃的に勉強して、その断片的な知識で、出土「製塩土器」を理解、説明しようとするものですから、何を主張しているのかさっぱり判りませんでした。かつては弥生博にはそうそうたる研究者が集い、先進的な研究成果を発表していましたが、随分質が変わったのですかね。とても残念でした。
 「コップ形」の外面叩きの「製塩土器」を焼き塩用と理解する結論には大いに魅力を感じますが、その論証方法が支離滅裂でした。河内潟の東辺に位置する蔀屋北遺跡に大阪湾から「鹹水」を船で運んで製塩したとの想定ですが、「ホント?」と思わずのけぞってしまいました。もしそのようなことが可能なら、鹹水を運ぶ専用容器が相当量必要ですから、遺跡からも相当量見つかるはずです。そうした考古学的な「証拠」を積み重ねての推測なら説得力もありますが、水運がいいこと、燃料が枯渇したこと(その後も大阪湾では盛んに製塩が行われており燃料が枯渇したとは思えないのですが・・・)など、から想像するのはいかがなものでしょうか。それよりはもう少し丁寧に外面叩きの「製塩土器」の特徴からこれを焼き塩用とした根拠を説明した方がよほど考古学的で説得力があると思いました。
 外面叩きの土器だというのですが、内面には充て具のような痕跡は(あくまで図を見ただけですが)確認できませんでした。古代の焼塩壺には確実に型作りのものがあり(北九州産など)内面には布目痕が認められます。外面は粘土紐を巻き付けた痕跡が明瞭に残り、水分が漏れることを恐れない、焼き塩専用として有用な、そして大量生産可能な土器構造をしています。蔀屋北遺跡のものがなぜ外面叩きを多用し、それが焼き塩用だと主張できるのか、その根拠が余りに曖昧でした。

総じて久しぶりの考古学の研究会は退屈でっした。若手研究者の最新の研究成果に期待しましたが、一〇年一日大して変わらない飛躍の多い、あるいはデータだけの提示に終わる進歩の見られない報告でした。途中の休憩時間に鉄パイプと喧嘩してこぶを作るという「事故」を引き起こし、さんざんな一日でした。

 年寄りは引っ込んでおれといいうことでしょうか。益々足が遠のきそうです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。