yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

研究余録  伊賀名張の再編とガラス玉の条

2006-05-29 11:39:32 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 一昨日は四年生の卒論演習の日だった。発表の数日前になるとその四年生達が夜昼となく私の部屋に次々と現れ、発表の予行演習をするのである(いっときますが私がそうしろと命じてるわけではないんですよ。私より気にする近世史、中世史の先生の質問が怖いからという訳の分からないことが原因なんです)。勿論これも教育の一環なのだから真面目に対応はしているつもりなのだが、あまりの集中砲火に少々へこたれる時もある。
 その中で、これまで就職活動で奔走していた女子学生が、やっと落ち着いてきて、真面目に卒論に取り組みだした。その一人のテーマが、「ガラス玉副葬古墳からみた地域編成」(ということをやりたいらしい??!)である。その論考の第一歩として、お決まりのコースだが三重県の資料から分析を開始することになる。
 彼女はまず伊賀地域からやり始めた。赤目四八滝で有名な(とはいっても本人はそんな滝のあることすら知らなかったが・・・)赤目町に所在した尻矢古墳群が面白いから聞いてくれと言うのである。

 以前から後期古墳が地域にどのような形で成立してくるのかという点が解明できれば、律令国家の地方支配確立の過程がそれなりにあぶり出せるのではないかと、考えていた私は、海浜部の後期古墳については一通りの目処が付いてきたのだが、内陸部の後期古墳の変遷については余りに多いのでどこから手をつけようかと迷っていたところである。既に元のフィールドである山背国乙訓郡については少し分析を開始したが、他に、伊賀、飛騨等の内陸部小国も重要な対象地であった。伊賀はその中でも伊勢湾に王権が到達する上で避けることのできない重要地域である。学生の資料を再分析する内に面白いヒントを見つけることができた。
 
 旧伊賀国は南北に長い卵形に近い形をなし、古代の行政区画では四郡しかない山間部の狭小な地域である。にもかかわらず律令期には「国」として独立し、現在の伊賀市東部、佐那具駅の周辺に国府が所在したとされる。名張郡は伊賀国の南西部に位置し、北西部を大和国、南を伊勢国、北・東を伊賀郡と接している。大和から東国に出る最短ルートがこれで、重要な交通路に位置している。大化改新詔では畿内の範囲として名張がその東端として位置づけられている。名張は七世紀中頃の王権にとって畿内に組み込むことができるくらい重要な地域であったのである。名張郡の東、北に伊賀郡、阿拝郡、山田郡が所在している。
名張郡の中心地は名称から推測すると名張郷であったと考えられる。名張郷は宇陀川の南岸、現在の赤目町域に位置したらしい。その氾濫原に接する東西に延びる低位段丘上に設けられたのが尻矢古墳群である。六世紀初頭から7世紀前半まで営まれた小規模な群集墳で、発掘調査により合計八基の円墳群が確認されている。どこにでもありそうな古墳であるが、副葬品であるガラス製品に着目すると、意外にもなかなか面白い古墳群であることが分かったのである。
<ahref="http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/">
(ガラス玉はダイヤモンドだったことを証明しようと思う!これは京都府向日市の物集女車塚古墳出土のガラス玉である。これらほどではないが、尻矢古墳群もなかなかの代物であることが分かってきた。)

 古墳群は三つのグループに分けることができる。6世紀初頭に段丘尾根上のほぼ中央に木棺直葬の2基の古墳が設けられる(2→3号墳)。次いで6世紀中頃に尾根の先端部である西側に5号墳が竪穴系横口式石室(報告書では小石室とする)に近い構造で設けられる(5→7号墳)。その後横穴式石室が導入され、引き続き尾根の西端部付近に集中して築造される(4→8号墳)。ところが古墳群の最終段階である7世紀前半になると伝統的な西に設けられた6号墳と2号墳の東に独立する1号墳とに分裂する。
 興味深いのは各変化の時期に2・5・1号墳にガラス玉が副葬される点である。特に名張郡でも最も早い時期に築造された可能性の高い2号墳には、大量のガラス玉と共に全国的にも珍しいガラス勾玉が副葬されるという特徴がある。六世紀の地域小豪族がガラスを入手することが極めて難しかったことはガラス出土古墳の数を見れば歴然としている。ましてやガラス勾玉は極めて異例である。
「古墳時代後期王権」が2号墳の被葬者に与えた物とすることも十分可能なのではなかろうか。以後、竪穴系横口式石室に転換する時期、横穴式石室を持つ古墳が東西に分裂する時期にもガラス玉を副葬する古墳が築造される。いずれも外的要因(その証拠品がガラス)が加わって、古墳群に微妙な変化が生じたと解釈することはできないだろうか。その他の副葬品や墳丘の構造、規模などに際だった特徴が見いだせない中、ガラス玉副葬の有無を基準に、名張郷の社会構造の変化を描き出すことが可能ではないかと思うのである。
 
 6世紀初頭、新たな王権は地方を直接的に支配するために国造制、ミヤケ制、部民制を創始する。在地に新たな豪族層を確保し、王権の直接的支配を実行させる。伊賀国造や伊賀に置かれた屯倉の存在が文献史料からは知られ、新王権の伊賀での政策の実行を物語るものかもしれない。これに対して尻矢2号墳は、名張郡名張郷というより限られた地域での在地と王権との関係を探る材料を与えてくれる。東に大きな勢力を張っていた中期の豪族(伝統的勢力)と比較すると、明らかに勢力も小さく、地域的にも離れた場所に位置していた。
にもかかわらず新たな王権は、東国への交通路を確保するために、従来のような「前方後円墳体制」ではなく、在地の小豪族を取り込み、地方での新たな支配関係を確立しようとする。名張郡では、名張郷(赤目地域)の2号墳の被葬者を取り立て、名張郡をも視野に入れて、宇陀川南岸域の交通路を確保したのではなかろうか。その後竪穴系横口式石室や横穴式石室を墳墓に採用する王権もまた、同系列の5号墳・7号墳などに引き続き同目的で任務に当たらせる。ところが7世紀にはいると尻矢古墳群の「一族」が二派に分裂し、新たなグループが王権との関係を確立する。7世紀中頃以降の様相は不明であり、或いは別のグループに役割が移動したのかもしれない。7世紀後半には北に接する夏見郷に夏見廃寺が建立される。壬申の乱以降、王権との関係は夏見郷に所在した「小豪族」に役割が移動した可能性が高い。
 残念ながら、尻矢古墳群以外の詳細な調査の成果が不明であり、今与えられた資料からはこの程度のことしか解釈できないが、少なくともガラス玉に注目する必要性は大いに高まったと言えよう。

 果たして学生が他の地域でどれだけ新たな分析を加え、尻矢古墳群の分析を普遍化できるかにその成否はかかっている。これからが楽しみである。

ランキング登録もよろしく

雑感  (135+127)÷2=131の条

2006-05-27 23:04:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

今日は毎年恒例のOB ・OG会だった。八賀先生の時代から続いている行事で、基本的に5月の中旬の土曜日にやることになっている。昼過ぎに集まって、ボーリングをやり、その後一杯飲み会をやるのだが、今年は諸般の事情で朝の10時からやることに・・・。何故ボーリングか、て?それは八賀先生の得意スポーツの一つだからである。
驚くなかれ、本日も2ゲームのアベレージが162!ハイスコアーが168なのである。つい先日72歳になられたのに、である。ほとんど毎年先生が一番なので、優勝は先生を除いて決めることが恒例となっている。もちろんOB達は練習してくる場合もあるから、希に、本当に優勝することもあるが、それはよほど先生が調子の悪い時でしかない。
ところが、今年はナナナント、OB・OGが誰も来なかったのである。つまり現役学生対先生との対決になったのである。これは勝ち目がない!!
それでも惨敗では話にならないので、テニス部の現役学生など、心得のある若手の男子学生3人を集めて戦わせたのだが・・・。これが大誤算!!なんと、その男共が、まだ1回しかしたことがない女子学生や前回が49だった学生に完敗したのである。男3人共アベレージが100どころか80にも満たないのである。アー恥ずかしい!
「お、俺は、ボーリングの指導までせんとあかんのかいな!?」
そんな状況の中で、堂々のスコアー?!を出してぶっちぎりの?優勝を果たしたのが誰あろう、この私だったのである。OB・OG会に参加して初めての快挙?だったのである。何故か?実は幹事の勘違いで学生達は勿論私もなのだが、佐々木小次郎にならされたのである。つまり約束の時間と場所を突然に変更したため大混乱が起こり、待ち合わせ場所に先生が来られなかったのである。あちこちを探し回り予定の時間を30分以上遅れて変更になったボーリング場に辿り着いたら、そこに先生はもう既に到着されていたのである。
「エッツ??」
そんなわけで張り切っていた学生は「俊太郎!」出すは出すは、ガーターのオンパレード。そんな騒動とは関係のない私はマイペース、どころかいつもより何故か調子がよくて、1回目135、2回目127というハイアベレージ!!???で優勝となったのである。

しかし既に肩や内股が痛く、明後日が思いやられる。そもそもこんなことしている暇があるのか?とあちこちの編集者が怒りに震えているはずなのだが、これも「仕事!」お許しあれ。
本当ならその後、美酒に酔いつぶれる所なのだが、先生の都合が付かず、昼飯代わりのおにぎりを少し食べて終わり。何とものどかな半日でした。

さて、山田博士は肩の荷が下りて、相変わらずの美食三昧のようなのですが、私は一向に軽くならず、益々ずしりと重くなるばかり。次から次へとかかってくる電話やメールに最早拒否現象!登校拒否児童の心境。このまま押しつぶされそう!
そんなこんなで、もう縺れた糸の復原は不可能な状態。それでも、なんとか一本書き上げて、次の一本に・・・、という所なのだが、なかなか進めない。おまけに、昨日は久しぶりに机にウップシテ転た寝したせいで、今非常に眠い。少し早い目に寝て明日朝から頑張るしかなさそう。ではまた明日。


ランキング登録もよろしく

研究会報告  「緋色油絹」~真っ赤なマント~の条

2006-05-27 07:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 毎月第二月曜日と第四月曜日に「『延喜式』研究会」をやっていることは以前に私の一週間の行動でご紹介したことがある。今週はその第四月曜日であった。今回が普及版国史大系『延喜式』後編の「隼人司」の後半である。発表者はKF大学大学院のNさんの初めての登場であった。(残り「刑部省式」で後編もやっと終わり。間もなく太政官式に入る-最初からではなく、物に関係する、遺跡に関係しそうな所から読んでいるんです)

(発掘調査時の「バンビオ」はこんな感じでした。長岡京期に全国から集められた造営のための仕丁達を住まわせておくための人間の倉庫=飯場。黒く塗りつぶしてある長方形が彼等の住まわされた施設の跡。同じ大きさの建物が並ぶ。タコ部屋状態だったに違いない。外には火を焚いた跡や井戸もあった。しかしこんな表示はどこにもない。こんなことでいいのかしら)

 以前は向日市埋蔵文化財センターでやっていたのだが、「「よそ者」が混じって研究することはけしからん」、ということでKによって追放されてしまい、やむを得ず、JR長岡京駅前に最近遺跡を破壊してできたバンビオ一番館とかいう第三セクター運営の施設を借用して行っている。1回千円ほどだが、車で来る人は駐車場がやたら高く、一台当たり同じくらいかかる。大学院生も参加しているので、彼等からお金を取るわけにも行かないから、社会人で負担している。別にお金が惜しくていうのではない!埋文センターなら研究会の中でいろいろな話題が出た時に直ぐに資料を探すことができるのだが、ここでは何もできない。会員の中心メンバーであるN君はわざわざ重い辞書をもってきてくれる。悲しいことだ!

 さて、今回の注目項目は「造進用途」条に出てくる油絹だ。

 「凡毎年造進油絹六十疋/緋三十疋縹二十五/疋白五疋/其料絹自内蔵寮請取・・・」

で始まる条文には「油絹」を作るための荏胡麻油や絹を縫うための練り糸、油を絞るための綿、絹を張るための縄の材料である苧、絹を干すための簀の子や蓆、油絹を作らされる今来隼人の作業用衣服の材料である布、油をしみ込ます時に用いるのであろう「田具」と呼ばれる道具(これがどんな物かようわからん。誰か教えて!)、油を煎じるための燃料としての薪、油をこすりつける時に用いる(竹)篦などの必要量が細かく書いてあるだけのなんの変哲もない条文である。
 恐らく文献だけをやっている方々だと油絹の用途であるとか、其の原材料である油や絹を用意する内蔵寮の機能について関心が集まる所だろうが、私達の研究会は多くが考古学(しかし最近はそうでもないかも・・・、文献の人が半分くらいいるかな)関係者なので、つい、用いられる道具に関心がいってしまう。
 今回も直ぐに雑談になり、竹篦が話題となった。私が乙訓にいた頃は佐藤さんという竹篦作りの名人がいらっしゃった。三重大学に異動した時に催してもらった「励ます会」にもお出でいただいて、その竹篦を百本近くも下さったことを鮮明に憶えている。

「山中はん、必要になったらいつでも言うとくなはれや!」

と無造作に新聞紙に包まれたその篦を渡されたことが印象的だった。その後も岐阜県垂井町でやっていた「美濃国府」第八次発掘調査の現地説明会にひょっこりお出でになり、篦を頂いたこともある。その時も同じ台詞を残して帰られた。
 
 「そういえばあの佐藤さんどうしたはるの?」と尋ねると、
 「亡くなりました」と悲しい知らせを聞いた。

迂闊だった!あの素晴らしい篦はもう手に入らないのか!悔しさと共に涙がにじんできた。

 道具というのは使った人でないとその良さは分からないものだが、佐藤さんの篦もその一つだ。何とも言えない持ち心地、何故か硬い土を削っても減らない(実際は減っているのだが、減ったこと気付かさないくらい同じように減り続ける)。実はこんな話題になったのも、三重大学でやっている久留倍遺跡第二次発掘調査の現場でつい先日、私自身が、包含層から出土した完形品の山茶碗を検出するために、地面に寝そべって使ったばかりだったのである。その時フッと佐藤さんの顔が浮かんだのだが、そうだったのか、もうお亡くなりになっていたのか・・・。

 ひとしきり佐藤さんの名人芸篦の話をした後、「油絹」に話題が移った。
 ここから先は我らが会長、清水みきさんの独壇場である。
 油絹とは天皇が用いる雨合羽であり、「ブルー」(レッド)シートだというのである。要するに防水のために絹に油をしみ込ませた特殊な布地を隼人に作らせ、内蔵寮に納めさせていたのである。
 
 さらに!東院木簡にはこの油絹に関する記述を持つ木簡があるというのである。研究会の後、報告書を広げてみると、確かに

16 表 「寮仕丁拾人/一人政所 一人挟纈所 一人油衣/一人□(作ヵ) 以下略 」
裏 「□□□(輿殿一ヵ)  五月十二日大主□(鎰ヵ) 大蔵真成      」

とある。「雨衣」がこれだというのである。さすが!我らが会長!!能力が飛び抜けている。そして勿論この木簡群は東院の一角に所在した内蔵寮のものなのである。これほどうまく研究会の条文と合致する資料はそうはない。

 しかし、改めて『報告書』を開いてみて、怒りがこみ上げてきた!!東院木簡(だけで無く遺跡の解釈全般について)を解読し、その意味を説き明かした清水さんの名前がどこにも記していないのです(木簡の釈読をしてもいない人や、調査とも関係のない人の名前が「執筆者」に名を連ねているのに。一般的にはこれを「横取り」と言うように思うのですが・・・恥ずかしい!!)。報告書を「編集」(偽造)したK氏により抹殺されたのです。こんなひどい話がどこにあるのでしょう。そんなK氏が今度奈良女のCOEで荒唐無稽な報告をするという。信じられない!よくもこんな人物を報告者に選ぶわ!と人選した人物を疑いたくなる(もっともこんな醜い話はなかなか外には伝わらないからご存じないのだろうけれど・・・。この際キッパリ言っておきます。自己を顕示することだけを求めているKのような権力者に調査だの、報告書だのという学問領域に介入させることはやめさせるべきです!!)。
 
 そんなイヤな話はこれくらいにして、もう一度有意義な学問のお話しを。

 つまり埋文センターを追放された(研究会の場所だけでなく職をも追放された人がいる)私達がやっている『延喜式』の研究会は、文献史料を考古学の最新の資料と付き合わせながら読み直そうという試みなのです。
 真っ赤なマントを着た桓武天皇が大原野で鷹狩りをする!絵になりますね(これ、今度の歴博の展示会のポスターに使ってくれないかしら?)。当然鷹狩りをする内に雨に遭うこともあろう、そんな時に身に着けたり、車に掛けたりするのがこの「油絹」なのだそうだ。本当にいい勉強になります。有り難う!!
 ところでこの油を炊くシーンについても参加者から意見が相次いだ。篦はどのように使用するのか、何故隼人は竹器の製造に関わるのか、焙り籠というのはお風呂に入らない当時の人々の衣服が臭いからこれに香を焚きしめるために使う籠のことだろう(この隼人と竹、索餅については瀧川政次郎「雑供戸考」(『法制史論叢第四冊 律令諸制及び令外官の研究』角川書店 1967年所収)に指摘があるという紹介もなされた)等々・・・。話題は尽きず、九時を回っても議論に耽った。

 学問は楽しい!!久しぶりに頭をリフレッシュできた有意義な夜であった。

 次回は六月二十六日の予定。18時半からJR長岡京駅直ぐ横(この場所こそ、長岡京造営のために集められた人々が閉じこめられ、日々生活した「飯場」跡なんです。しかし寂しいことに、なんの説明板もないのです)バンビオ四階の会議室で「刑部省式」をやります(何せ考古学の人間が中心で始めたもので、物に関係する所から読み始めているので対象とする条文があちこちに飛ぶんです。お許しを!)。飛び入り大歓迎!

 それにしても、佐藤さんの竹篦がもう手に入られないのか、残念! 学生にもよく言い聞かせて大事に使わせてもらおう。有り難うございました。きっと佐藤さんのことだからあちらでもいろんな人-ひょっとして閻魔さんにも・・・-に竹篦配ってるんだろうな・・・。あのしゃがれた声で

「山中はん早よ来なはれ」と呼んでいるような気がする。

ランキング登録もよろしく

活動報告  祝!! 久留倍遺跡国史跡指定決定の条

2006-05-22 04:23:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 滅多に景気のいい、楽しい話のない私のBLOGですが、今日くらいはちょとがかり祝砲を挙げておいても叱られることはないでしょう。

 あの久留倍遺跡の国史跡指定が正式に決定されたのです。ついでに言うともう一つ私も関わっている美杉村(現津市)の北畠館跡も史跡指定されたのです。二連発です。すごい!!

ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 活動を始めた頃から考えると夢のような成果です。というのは、当初、市教委は現地説明会すら拒んでいたのです。地元の自治会も遺跡の保護に慎重で、私は連合自治会の会議に出席を求められ、皆さんから激しい非難の声を浴びせられたものです。私は地元念願のバイパス建設を妨害する「悪党の親分」のようでした(笑い)。でも今となっては貴重な経験でもありました。いかに地道に地元の方々のご理解を得るか、その大切さを知って、小さな種火に過ぎなかった「久留倍遺跡を考える会」の活動を支えていきました。今や地元だけで三〇〇人を超す多くの市民の方が会を支援下さり、シンポジウムは大盛況です。四日市市教育委員会も最近では、シンポジウムを「依頼」されるようになりました。大事ですね、地元の方々の「文化力」!



(地元の地主さんのご厚意により三重大学でも発掘調査をすることができ、多くの成果を挙げることができました。これも文化力だと思います。)


 先の長岡宮朝堂南門の門闕の国史跡指定といい、関係した遺跡保存の活動が二件(北畠館も入れれば三件)も連続して国史跡指定だなんて、前代未聞!?の大事件です。これも本当に全国の皆さん方の厚い支援のお陰!心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

 これからも国史跡候補は山積みです。身近なところでは鈴鹿関跡、笹ヶ平古墳、縄生廃寺跡、河口頓宮跡等々、いずれも相当の優れものです。というよりこれまで対象にすらなってこなかったことが不思議なくらいです。皆さん頑張りましょうね。


(三重県の市民の方々がお持ちの文化力に感嘆しています。)

 ただし、いい話はここまで。これからが大変なんです。全国の史跡指定地が陥っているジレンマが、指定後の活用なんです。直ぐにぺんぺん草が生え、見学者が絶えてしまい、そのうち行政の熱も冷めて放置されてしまうことが多いのです。名張の夏目廃寺しかり、伊賀の城之越遺跡またしかりなんです。せっかく遺跡にガイダンス施設まで作りながら、「人」がいないんです。見学者が来るのを待っているだけなんです。これでは・・・。
 だからこの後なんです。昨日も書きましたが、結局町全体を史跡のある町として美しくしなければなんにもならないんです。道ばたにポイ!草むらにポイ!!人目を避けられる所なら車でもテレビでも何でもポイ!こんな社会ではダメなんです。果たして四日市市も、美杉村(津市)も、向日市もできますかね。


(草ぼうぼうでベンチは壊れたまま史跡指定地に放置!これで直ぐ南に指定された門闕が活用できますかね?心配!!)

 三重大学でも最近、環境ISO14001取得に向かって学生委員会が結成され、立派な看板も立てられて、いかにも環境を大事にしているように見えるんですが、信用なりません。だって、学生の自転車が平気で盲人用点字版に置いてあるんです。建物の玄関先に平気で食べかすが捨ててあるんです。私はできるだけ拾いますが、誰も拾おうともしません。校内の見た目の美しさより、学生の、教員の心の環境の方が問題じゃないですかね。遺跡の活用も同じです。


(ボートの楽しめるヨークの市内。美しい川には鳥たちもたくさんやってくる。)

 特に久留倍遺跡もこの先が心配です。手放しで喜べないのが私の悪い性格(アーもっと大らかな性格に生まれたかった)!なんと言っても遺跡の直ぐ横には日本最大という産業廃棄物の投棄場所が「発見」されたんですもの。要するに最大になるまで放っておいたのは行政ですから。見て見ぬふりするのがお得意の方々ですから。そんな行政でできますかね。

 まず第一に史跡指定地のど真ん中に高架用の橋脚を立てるスペースが確保され、その地が史跡指定外にされているという何とも姑息な指定である点が問題です。どうしてこんな中途半端なことをするのか、それこそ後世に禍根を残すに違いない!これまでどれだけ多くの中途半端が無惨な姿をさらしてきたか、どうして行政というのは中途半端なのか。要するにあっちこっちに「気配りしなければいけないから」なんだそうですが・・・。
「妥協しなければ史跡指定ができなかった」
「大学の先生は無責任だから好き勝手なことを言う」
こんな声が聞こえてきそうですが、「ホント?」と問い返したくなります。
高架橋が敷地のど真ん中を横断する公園に喜んでいく市民がいますかね?よほどの物好きでも無ければ訪れませんよね。きっと今はやり?の落書きで直ぐに醜くなりますよね。最初から彼等にカンバスを与えている様なものですもの。

 次に問題は四日市には国史跡がこれしかないということなんです。でも、この遺跡が史跡指定されたのは隣町の朝日町の縄生廃寺や鈴鹿市にある国府・国分寺(尼寺)遺跡と大いに関係があるからなんです。だからこれらと関連づけて残すべきなんです。でも、そんな気概はみじんも感じられません。排気ガスをまき散らすバイパスを造るよりも、ゆったりと歩ける遊歩道を整備する方がよほど人間にはいいのではないですか。


(うーん!? これって美しいかな??東海道を示す数少ない標し)

 もっともこんなこと何回も書いたのでもうこの辺にしておきます。耳にタコができた人もいるでしょうから。

 それよりも素敵なお便りを頂きました。私の「ロンドンレポート」を読まれた読者のお一人からです。

 「ロンドンの博物館の学芸員の子供たちへの接し方について書かれていましたが、わたしも同じ経験をしました。ターナーの絵が好きだったのでトラファルガー広場近くのナショナル・ギャラリーへ行ったときのことです。 小学低学年の生徒10名ぐらいが、1枚の大きなターナーの絵の前で、床に座って真剣に学芸員の 説明を聞いていました。わたしは少々疲れたので、その近くのベンチに坐って30分ほどその様子をじっと見ていました。学芸員は身振り手振りをまじえて、一生懸命説明をしています。しばらくすると、一人一人に手をさし、質問をしていました。そして あてられた幼い子供達は学芸員の質問に、一生懸命答えておりました。幼い子供たちは、1枚のターナーの絵に飽きることなく真剣そのものでありました。その様子をみて、本当の小学教育というものが、よく判りました。 産業革命当時、イギリスの自然が破壊されて行く様を描いたターナーの絵に感動した以上に、すばらしい経験を致しました。」

 私と全く同じ経験をなさった方からのお便りでした。つまり史跡指定地にしろ、資料館にしろ、美術館にしろ、それを守り、運営していく「人間」が問題なんです。ハートのある人間が一人いるだけで、そしてその一人が次世代へ活動を受け継ぐだけで、随分違うのです。

 四日市市大矢知や美杉村にはハートのある市民がたくさんいらっしゃいます。行政はこの方々を「利用」するのではなく、この方々を主人公に、遺跡を守り、「育てる」ことこそ大事だと思うのです。四日市市では市民に整備プランを募集するようです。それも大事なことでしょうが、応募された方々にいつまでも遺跡を思ってもらえるような対応こそ必要ではないでしょうか。
 幸い、四日市市には立派な博物館があります。昨年には久留倍遺跡をテーマにした展示会も行われました。とても素敵なパンフレットも出版されました。非の打ち所のない博物館活動です。後はこれからもずっと、学芸員の方が、遺跡を語り続けられることです。史跡指定を機会に、博物館と文化財保護係に分かれている縦割り行政をやめて、二つの職場にいらっしゃるたくさんの学芸員の方々に、市民の中に入っていって欲しいのです。特に子供達に分かりやすく久留倍遺跡を、壬申の乱を、聖武天皇の「東遊」を語ってやって欲しいのです。お願いします。期待しています。


(美しいニューカッスル、サウスシールドの海岸。ハドリアヌスウオールの東端の町はとても美しかった!)


ランキング登録もよろしく

活動報告  第3回壬申の乱ウオーク~「越大山至伊勢鈴鹿」~の条

2006-05-21 09:20:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


(加太から鈴鹿関へ。今日は大山越えである。)

ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。


 昨日は第3回壬申の乱ウオークの日であった。大雨の予想を覆して、晴れ間も見える、しかし時折通り雨も降るという複雑な天候ではあったが、なんとか半日持ちこたえてくれた。そんな天候だから何人の人が来られるか心配だったが、100人もの多くの市民の方が集まってくださった。


(加太駅の直ぐ西にある善光寺の仏像は平安時代末期のものらしい。かなり傷んでいるが、往時を偲ぶには十分な資料である)

 もう何十回もしたような気がするのだが、まだ3回目だと知って、複雑な心境だった。何せ、年4回で50回やる予定なのだから。
 今回のコースは「大山越え」である。『日本書紀』ではわずか三文字のコースである。しかし、この道を越えたことで大海人皇子の道は開けるのである。既に伊賀で合流した高市皇子、そして大山を越えた後鈴鹿で合流した大津皇子、二人の強力な援軍無くして壬申の乱の勝利はなかったかも知れない。伊賀・名張にに入って出た黒雲を見て、天下を二分する戦いの始まりを予言した大海人皇子の行く手が明るく開ける瞬間であった。そんな歴史の一舞台を歩くのである。


(旧国道25号線(現在は西名阪となっている自動車専用道が25号線である)
を一列になって歩く参加者達。亀山市教育委員会の皆さんの全面的なご協力を得た。感謝!)

 加太から鈴鹿関までの道のりは約6㎞。100人の行列が広くない旧大和街道(旧東海道)をひたすら歩いた。この間ある遺跡はわずかに金鋳場遺跡と笹ヶ平古墳である。笹ヶ平古墳については既に紹介したことがあるのでご存じの方も多かろう。金鋳場遺跡は鉄屑が出る谷付近を指すらしいが詳細は不明だ。一昨日拝見したその鉄屑は明らかに製錬屑である。但しこれだけでは時代が分からない。供伴しているほかの屑からすると鉄鉱石を用いた製錬屑のようであるが、付近にそうした鉱石のでる話はないらしい。とは言っても、三重県はいろいろな鉱物の出るところとして知られている。かつて知られざる鉱山があったとしても不思議ではない。さすがに金鋳場遺跡には上がることはできなかったが、笹ヶ平古墳は高齢者の方が多かったにもかかわらずほぼ全員が「登山」された。杉林の山はそれなりに手入れされていて、歩くには快適なくらいである。忽然と姿を現す古墳を目の前に参加者のフラッシュの雨が浴びせられた。


(笹ヶ平古墳のおもしろさはその立地にある。付近にあるのは道をおいて他にない。もちろん、金鋳場遺跡が古代前のものだとすると製鉄とも関係するのだが・・・・)

 さすがに畿内型の横穴式石室は迫力がある。参加者の皆さんも堪能されて、困難な「登山」に不満を漏らされることなく次のウオークへと進んだ。再び歩き出した参加者の前に現れたのが旧大和街道(旧東海道)の切り通しである。古代の東海道、壬申の乱に際して大海人皇子が歩いた大山がどこかについては諸説あるが、私は笹ヶ平古墳ともう一つの重要な遺跡の発見によってもう決まりだと確信している。遅くとも古墳時代の初め以来この道は確保されていたらしいのである。


(旧大和街道(旧東海道)の切り通し。)

 参加者気分で何もしない学生に腹を立てながら(「壬申の乱ウオーク」の旗をもつのも不満らしい!!久留倍遺跡を考える会の70歳を超えたご年配の方々がそれぞれ持って歩いておられたのを学生に持たせたのがよほど不満らしい。寂しい限りである。)、山に登り、地をはい、竹藪を抜けて最新の発見地である関の西築地跡に着いたのが11時半過ぎだった。2時間半のウオーキングは終わってみればなかなか爽快なものだった。こんな素晴らしい遺跡や歴史的景観を直ぐ身近に抱きながら、我が研究室の学生ですら参加したのはたったの三人。確実に日本の「文化力」は衰えている。そしてもう一つ、極めて残念だったのが、ウオークするみちすがらに落とされているゴミまたゴミ!!笹ヶ平古墳への入山口にはなんとマットレスまで捨ててあった。もちろん!?関の西追分付近の国道1号線は車からポイ捨てされたのであろう、まるでゴミステーションかと思うほどのゴミ!!これではどんなに遺跡を遺しても誰も大切にしようとは思わないはず。先にご紹介したイギリスの町々との大きな違いがここにある。今回のウオークには地元の市会議員さんや古くからの住民の方々もたくさん参加された。是非こうしたゴミをなくすことから歴史遺産の活用を始めて欲しいと願って、第3回を終えた。


(4時間の行程を歩き疲れて学生達と入ったおぜんざいやさんは、地蔵院という近世関宿の西端にあった。疲れた身体にぜんざいの甘さがしみ通り、その足で京都へ戻ったが、夕刻まで飯を何も食べていなかったことをすっかり忘れるくらい美味しかった!!新茶を三杯酢で頂いたが、これまた珍味!きっと痛風の方にはいいと思うのだが・・・)

 参加者の皆さん、本当にお疲れ様でした。次回は8月19日(日)柘植駅に集合して周辺を歩く予定です。
また、7月17日には第5回久留倍遺跡シンポジウムも開催することになりました。昨日、国史跡になることが正式に決定したのを受けて「久留倍遺跡史跡指定記念シンポジウム」と題して大々的にやる予定です。史跡指定の感慨はまた書き記すことにして、取り急ぎ最新情報をご紹介しておきます。

ランキング登録もよろしく

小さな命 ~グッバイ葵ちゃん!!~

2006-05-19 07:58:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。


 5月15日は京都は三大祭りの一つ葵祭の日であった。その日我が家にはもう一つの新しい命が誕生するはずだった。ところが、お母さんのおなかから出てくる前に心臓が動かなくなってしまったらしく、「オギャー」という声を発することなくあの世へ逝ってしまった。予定日はもう少し後ではあったが、現在の医学からすれば十分に命を救うことはできた嬰児であった。
 最近の妊娠から出産の過程は最新の機器を使って克明に追究することができるらしい。トムクルーズがそれを自らの手で確認しようとしたことが、大きな波紋を呼び、議会まで動かしたと聞く。彼の購入した超音波で胎児の動きをチェックする装置を医者以外が使用することを規制しようとする動きになったというのである。
 実は、我が息子の息子(いわゆる孫?)もまたそうした装置によって逐一監視されていたらしく、8ヶ月目当たりから成長が鈍いから母親からの栄養吸収をスムーズにするため入院して点滴を打とうということになり、処置を施していたのである。何とか体重も回復し、さー誕生という直前の悲劇であった。
 何が原因でこうなったのかは全く分からないらしい。昔なら、途中で成長が鈍くなったことなどもそうはっきりとは分からず、せいぜい「動きが鈍い」とか「母親も含めた体重が余り増えてない」とかそんな当たりから異常を感じる程度で、生まれてきて初めてその子の状況が分かることが多かった。しかし今は超音波などの最新機器によって、逐一成長過程が分かるのである。もちろん男女の区別も明確に分かるという。私には母親の気持ちは全く分からないが、十月十日を経る前からこうした情報が逐一判明することはいいことなのだろうか。
 少子化が叫ばれて久しいが、かえって最新機器からもたらされる情報が妊婦に負担をかけ、或いは誕生前に対策が取られることによって、少子化に拍車をかけることにならないのだろうか。少し心配になる。もちろん事前に出産直後の対策を立て、新しい命を救うのにも役立っていることも事実であり、その調和は結構難しい。
 近代以前の社会に於いて、出産は大変な営みであった。生まれてくる子供にも、産む母親にも大きな負担がかかり、多くの子供が成長する前に死んでいったといわれる。母親も若くして亡くなる例が多かったらしい。そうした時代の寿命が短いのはそのためだともいう。
 近代に入って日本の人口は増大に増大を重ね、一億二千万人にまで膨れあがって、ストップした。奈良時代には550万人に過ぎなかった人口は、二〇倍にまでなったのである。それが多いのか少ないのかは私には分からない。しかし、一つだけ言えることは、近年、生まれてきた命があまりに粗末にされていることである。出生率よりも生まれてきた人間の命を大切にする社会こそ大切なのではなかろうか。
 昨日もまた小さな子供の命がいとも簡単に奪われてしまった。毎日のように紙面を飾る「殺人」。ついこの前まで、そう、わずか20年ほど前まで、こんな国、こんな社会じゃなかったように思う。バブルの頃から日本社会が壊れてきているように見えるのは私だけだろうか。一方で「金が全てや」といったホリエモンを批判しながら、実は社会全体はその主張と変わらない行動をし続けている、そのようにしか見えないのだが・・・。
 法律を変えて「愛国心教育」をすれば社会が変わるかのごとき幻想を振りまく政治家がいる。本当にそうだろうか。私には社会を変えない限りこうした風潮は止まらないように思える。「効率」「効率」と人間性よりも経済を優先する風潮を流布しておいて、そうした社会へと「構造改革」しておいて、本当に人間的な社会が生まれるとは思えないのである。愛せる社会、慈しみを抱ける社会があれば、人は自ずとその国を愛することができる。

 つい最近、経済成長し続ける中国と経済的には決して「発展」しているわけではないイギリスに行って相反する印象を受けた。
 一番感じたことは、中国の汚さ、人々の慌ただしさとイギリスの美しさ、人々の優しさであった。もちろん、中国の街角には「美しい」カフェやアメリカ資本のファーストフード店が次々とオープンしている。街角の屋台は排除され、店の内部もこれまでとは見違えるような姿に変身しつつある。まさに経済発展真っ最中の勢いのある中国を実感させる光景である。しかし街角には物乞いをする老人や子供が溢れ、信号で立ち止まるとポン引きが「日本語」で声をかけてくる。15年前にはなかった光景である。
 一方、ロンドンの町を歩いていて困った顔をしていると必ずといっていいほど声をかけてくれる老人がいる。そして丁寧に道を教えてくれる。思いもよらない優しさのプレゼントだ。ロンドンも、ヨークも町並みは古くさい煉瓦造りである。道路も決して美しいカラー舗装などしてはいない。街路灯も薄暗く、日本だととても歩く気にはなれない。しかし夜中に平気で女性が歩いている。もちろん物乞いにもあったことがない。果たしてどちらが美しいのであろうか。

 生まれることができなかったその嬰児は「葵」ちゃんという名をもらって旅立っていった。黒々とした髪の毛も備え、立派な赤ん坊の顔をしていて、涙なくしては送ることができなかった。こんな難しい世の中に出る前に逝ったことも或いはこの子にとっては幸せだったかもしれないと、取り返すことのできない命に向かって無念の言葉を贈らざるをえなかった。

 グッバイ葵ちゃん!!もうすぐあっちで遊んでやるからな!

ランキング登録もよろしく

転載  「おっかあ、ええところへ行けよ」の条

2006-05-08 10:45:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 これは僕の親友、shiozyがやっている「3kannet」というサイトの最新の記事です。もちろん私のホームページにもリンクしてありますから、お読みになった方もいらっしゃるでしょうが、人間の原点に立ち返るために読んでもらおうと、編集者の了解を得て転載します(転載自由です!!どうぞどんどん転載して下さい!!との御本人からのメールです)。

ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 以前にも少し書きましたが、私は緑内障の手術を三回しており、もう後は視神経が耐えてくれるのをじっと待つだけです。最近は特に異常はないようですが、徐々に視野が欠損してきているのを実感しています。

 先日も半分開いていたドアーにぶつかってしまいました。特にこうなって感じるのは、人間も動物なんだな!ということです。よく剣豪の殺気とか、気配を感じるという話が時代劇に出てきますが、あれは結構正しいのではないかと思い始めています。

 最近は富みに、人間の気配を感じられないのです。だから、普通に廊下を歩いていて、ハッと気付いたら目の前に人間が立っているのです。視野が欠損するとこういう事態が進行します。

 もちろん私の目はまだ見えますし、仮に失明してもどうせ余命幾ばくもない年齢ですから、どうということはないのです。しかしこの本(さっき注文しました)に出てくる彼等は恐らく生まれながらにして光を失っているのでしょう。

 その上、目だけではない障害も抱えていて、・・・・きっと私なら耐えられないと思うのですが・・・。

 そんな彼の「おっかあ、ええとこへ行けよ」の叫び。願い。母への熱い思い。自分の未来への不安などみじんも感じさせない心からの叫び。

 人間が人間を次々と殺していく、それも我が子を、隣人を、幼児を・・・。そんな地獄絵の続く今日この頃。そして他人の手を借りて人殺しを正当化する軍隊の創出を目論む稚拙な政治家達。核兵器を開発することで自らを守ろうとする国々。町にも家庭にも人殺しを競うゲームが溢れ、最早人類に倫理観などどこにもないのでは、と思わせる昨今。要するに人類は滅亡への道をまっしぐらに進んでいるとしか思えないのだが・・。

 みんなこの子のように目が見えなくなったら、きっと殺すよりも慈しむ大切さに気付くに違いないのだが。誰も自らが盲目になるとは思ってもいない。己だけは生き延びられると信じようとしている。


3kannet第77号から転載させて頂きました(http://www.3kan.net/)。感想をShiozyさんまで届けてあげて下さい(info@3kan.net)。そしてこの本を買って読んでみて下さい。


*****************************

  『眼をください』  その2

  「おっかあ、ええところへ行けよ」

  私が経験した中で一番感銘した話があります。

  この話だけは是非聞いて欲しいので話をさせて下さい。

  この話は、中学三年生の男の子ですが、

  まことに不幸な話です。


  この子にはお母さん一人だけで、お父さんは亡くなり、
 
  兄弟、親戚もおられないのです。そして非常に頭が弱く、

  どもりで、ほとんどものが言えないのです。

  ですから私どもが「何々君これはどう思いますか。」

  と訊いても、 「あわあ・・・」 という言葉だけで

  いつも下を向いているのです。

  先生に何か訊かれるのが怖いので、

  下を向いて、椅子にはりつけになっているような、

  日常生活でございました。

  そして吃音がひどいので、友達がいないのです。


  そんな子供のお話ですが、

  ちょうど七月ごろでございました。

  もうしばらくすれば学校もお休みという時、

  私が授業をしていると、

  教室の戸を「どんどん」と叩くのです。

  どなたと思ったときに、私の前につっ立っていたのは

  少年の隣の人でした。

 「先生えらいことです。先生聞いて下さい。

  あのGさんのお母さんが死んでしまったのです。」

 「先生、あの子の親戚は全然いないのです。

  親戚の人が葬式をしなければならないのに、

  何もできないのです。

  そして近所の人とのつきあいがないのです。

  先生が葬式一切を見てくれませんか。

  火葬場までつれて行って、

  最後の別れをしてやって下さいな。」

  というのです。



 「一体どんなことをするんやろな、困ったなあ。」

 「そんなことをしたおぼえがないがなあ。」

  私はそう言いました。

 「先生ね、あなたがこの子を教えていなさるんやから、

  あなたしかいない。一つお願いします。」

 「そうかなあ、この子に一番身近いのは私しかいないのかなあ。

  おばあちゃん明日二時頃行ったらいいのやね。」

  
  こうして私は葬儀一切をすることになりました。

  あくる日二時前に私は彼の家を訊ねてまいりました。
 
  暫くすると金色の自動車、つまり葬儀の霊柩車がきました。

  霊柩車一台だけなのです。親族もいないのです。

  霊柩車の運転手はおりてきました。


  しばらくすると家からお母さんの柩を、

  四人の近所の人がかかえてまいりました。

  霊柩車の後の戸が開かれ、

  お母さんの遺体が入ったのでございます。

  その自動車の運転手が私に向かって言うのです。

  「お乗り下さい。」

  私は実はその自動車の運転手の横に

  座らせてくれると思っていたら、今遺体の入った

  自動車の中に入りなさいというのです。

  遺体のそばに私が入るのです。


  その遺体はお母さんであることは知っていますけれども、

  今まであの部屋の中に、何千ではないが、

  何百体も遺体が入ったということを想像すると、

  不気味でふるえがくるようになりました。


  どうぞここに乗って下さいというのですから、

  いやというわけにもいかないのです。

  私は彼をしっかり抱いて

  自動車の中へ入りこんだのであります。

  
  自動車は発車しました。

  見送る人は数人の近所の人でした。

  神戸というところは坂道が多い。

  その坂道をどんどんのぼって行きました。

  山中に火葬場がございます。

  約一時間ばかりまっくらな中で、

  持つところがないものだから、その棺桶のはしに

  爪をたててにぎっていたのでございます。


  彼はにぎるところがないものだからぐらぐらゆれる。

  私は今にも手がはなれそうになるけれども、

  今手を放したら、彼は転ぶにちがいない。

  彼を抱きかかえ、棺桶のはしをつかまえ、

  ゆられるにまかせて、早くつくことを

  祈っておったのでございます。


  やがて火葬場は間近になり、霊柩車は止まりました。

  後の扉が開かれ、その柩が運ばれ、

  最後の別れをしたのでございます。

  お母さんの口に水をたらして、

  これで一切は終わりました。

 「これから遺体を納めさせていただきます。」

  という係の人の言葉。


  この子は一体どうすればよいのであろうか。

  この子を明日からどうするんだろうか。

  お母さんのことよりも、この子を明日から

  一体だれがどうするかという思いで一ぱいでした。

  そのとき炉の中に、お母さんはおしこまれ、

  扉がしめられたのです。


  場内にこだまして、私の耳を打つものがありました。


 「おっかあ、おっかあ、ええところへ行きよ。

  おっかあ、ええところへ行けよ。」


  その言葉はだんだん大きくなった。

  戸をどんどん叩く音もだんだん大きくなった。

 「ええとこへ行けよ、ええとこへ。」

  ふと前を見たとき、そこにしっかり抱いていた子が、

  炉の口のところに立っているのです。

  戸をさかんに叩いて、「おっかあ、ええ所に行けよ。」

  と叫んでいるのです。



  「おっかあ、おっかあ、」という言葉はわかりましても、

  ええ所へ行けよ。ええところという意味は

  私にはわかりませんでした。


 「お母ちゃん、浄土に行って下さいよ。

  ほんとうに楽しい極楽に行きなさいよ。」

  という意味でした。


  何もしゃべらない下ばっかりを向いて、

  友達からのけものにされていたあの子が、

  どうしてこの言葉が言えたのでしょう。

  私は自分の耳をうたがうものでした。


 「お母さん、自分もお母さんに話ができるのですよ。

  私のこの声を聞いて下さいよ。お母さん幸せに。」という

  母に対する愛の思い、慕う思いが

  言葉になったのではないかと、

  私ははじめて

  愛の偉大さを思い知らされたのでございます。


  やがて誰も彼の身の回りを見ることもできず、

  彼は寄宿舎のある学校へかわっていきました。

  しかし、今なお彼はどうなったか分かっていません。

  私の心に深い傷をのこしているのでございます。




--------------------------------------------------------------------------------

  こういういい本を出しておられる出版社

  それは 「ざ・ぼんぢわーく」 さん。

  北九州の小さな出版社さんです。


  福来四郎先生の『愛に生きる盲児とその母』だけでなく

 「心の文庫」として24集の講演録を発行しています。

  興味のある方はぜひ購入してみてください。


  ●連絡先 電話・FAX093-681-5083

   ざ・ぼんぢわーく

   〒805-0004
   北九州市八幡東区日の出3-13-20


  ■先週号では、「さっそく購入しました」というメールをいただきました。
   また、ネット上ではここで購入できますよ、と教えてくださいました。
   ありがとうございました。

  「ぷれし~ど」で購入できます。
   http://www.pleaseed.com/SC_Item.cfm?ItemCode=M-Hukurai1


ランキング登録もよろしく

博物館便り-2  『三重大学考古資料館』出発!の条

2006-05-07 03:23:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 
 とうとうゴールデンウイークも終わりだ!アーア悲しい!!
 誰が名付けたのか知らないが、この四月末から五月初めにかけての「休日」は私にとっては「Silver Weak!」に他ならない。老体を鞭打って、この10日間、現場で肉体を酷使し、さすがの私も毎日お風呂に入り、ビールも呑まずに机に向かって原稿を書こうとするが、直ぐに睡魔が襲い、気が付くと朝―!
 アーシマッタ!と後悔するも直ぐに現場へ。大嫌いな車の運転に神経をすり減らし、7時半には大学を出発。そんなこんなの「連休」もやっと終わり。でも原稿ができず、どうすればいいのか・・・。誰かさんは煮詰まったというが、私はもう焦げ付いて木炭状態!明日かかって来るであろうR博のNさんとMさんの電話が怖い!!(実は明日までにどうしても書き上げないといけない原稿がもう一つあるのです。C大学のST先生の命令!これはどうしても裏切れない。やっとその原稿に今見通しが付いたところなのです。ゴメンナサイ!!)

 そんな連休中の谷間も仕事!!
 前にもご紹介した、1年生を対象とした半期の授業(オリエンテーションセミナー)の「Open!『三重大学考古資料館』~初代学芸員への道~」が本格的にスタートしたのです。
 もちろんようやく展示場が確保でき、展示ケースも某所から引き上げてきて、枠組みが決まっただけ。二日には学生の希望を聞いて、弥生班、古墳班、古代班の三班構成が確定。授業計画では、博物館を見学することになっているのだが、授業時間中には行けないので(この頃の学生さんはとても真面目なので、前後の授業をさぼれ!とはとても言えず)、仕方なく学生に自主的に見学の課題を与える。
 見学といっても、展示の中味だけではなく、展示方法やパンフレットの作り方、チケットのセンス、展示品キャプションの書き方等、日頃あまり関心のないはずの資料館学芸員の最も苦労するところに目をやってくるように申し伝える。連休明けにはその成果を発表してもらい、いよいよ各班毎に展示品のリストアップである。
 でも、ほとんどが1年生。中には中国からの留学生もいる。弥生時代や古墳時代といってもせいぜいセンター試験程度の知識である。さて、まず手短に各時代の話をするところから始めなければならない。かといってあまり私が介入してはおもしろくない。どれだけ自主的に、どれだけ彼等が自ら考えて資料館に結実させるのか・・・、不安でもあるし、楽しみでもある。
 
 第8回の6月10~11日には、合宿研修と称して遺跡や博物館を見学し、資料の展示方法を集中討議する予定もある。幸いなことに今回の学生達は相当歴史が好きらしく、既に発掘調査に参加してくれた学生もいる。なんとか彼等の興味をつなぎ止める展示ができればいいのだが・・・。7月11日、学長も招待してOPEN!の予定です。
 乞うご期待!!

ランキング登録もよろしく

博物館便り  百人一首テーマパーク時雨殿の条

2006-05-02 09:08:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 4月はじめの10年回の宴の前に嵐山の櫻を楽しんだことはお伝えした。その折、ふと目にとまったのが「時雨殿」という名のテーマパークだった。百人一首をテーマにした資料館なのかなと思っていたが、ホームぺじによると「テーマパーク」ということだった。

 任天堂が出資して建設したらしく、現在も任天堂のホームページから時雨殿のホームページへアクセスできる。

 800円という入館料は高いのだが、さすがに世界の任天堂の技術を集めただけあって、遊び心満点の装置が一杯である。特に圧巻は床面に埋め込まれた(画面は百人一首形に80ほどに区切られている)大画面(10m四方くらいあるのだろうか)の平安京(京都市内)の航空写真である。この写真の上を特殊な検索装置を使って、歩き回るというのが第一の趣向である。


(私の案内鳥は赤い白鳥?だった)

 観客はまず航空写真のどこかに立つ。その上で手元の検索装置で例えば「伏見稲荷大社」を選ぶと足下の航空写真の中に突然鳥が現れて伏見稲荷まで案内してくれるのである。鳥は検索装置毎に色が変えられているので他人のものと間違えることはないし、歩き出すと鳥がその方向に誘導してくれるのである。


(これを手に持って地名リストから行きたいところを指定すると鳥が案内してくれる)

 そうこうする内に画面が突然変わり、大文字の送り火の風景となる。さらに平安京の復原図が現れ、現在の京都市内との比較ができるようになる。そして最後に床面でのカルタ取りである。各枠の中に百人一首の歌と歌人の絵が現れ、手元の検索装置に出てくる読み札がどこにあるか探し、見つけ出したらOKボタンを押してカルタをとるのである。たくさんとれたら合格?私などは何回やっても一枚しかとれず、「もっと勉強しろ?」と出た。


(80枚ほどの読み札の中から自分の手元に出ているものと同じものを探す。結構大変だ!)

 このコーナーで汗した後??!は本格的な?百人一首取り競争である。画面に現れた清少納言や藤原定家とカルタ取りを競うのである。10年会のメンバーはなんとか全問正解で面目を保った!!


(挑戦!清少納言)

 この他井戸に沈んだカルタ探し等々なかなか遊ばせてくれる。

 二階はカルタ大会でも催されるのだろう、大広間だけの空間である。平安貴族達の人形が並べられているほか、縁側付近に五台ほどのケースが並び、中に近世以降の百人一首が並べられている。しかし任天堂にしてはその数、種類共に余りに寂しい限りである。この辺りがテーマパークと資料館(博物館)との違いであろう!


(二階の大広間がこれだけでは寂しすぎる!!)

 会場にいる和装した案内人に聞くと施設には学芸員もいるとか、一応資料館としての体制も整えようとしているらしいのだが、とてもまともな「資料」とは言えない。一月にオープンしたばかりでグッズコーナーも未整備で、大変残念な気持ちになった。いずれ整うのだろうが、是非とも世界中のカルタ、少なくともいろいろな百人一首は揃えて欲しいものだ。


(二階に少し並べてあった任天堂の百人一首。小学生の頃、お袋の内職を手伝わされて裏紙を何枚も何枚も貼ったことを思い出す。確か一枚1銭だったように思うのだが・・・、つまり百人一首一箱貼って1円!気の遠くなるような内職だった)

 それともう一つ!時雨殿のホームページはなっていない!!ハイテク技術など朝飯前のはずの任天堂の強い影響下にある施設のHPがこれでは余りに情けない!!一刻も早く改装すべきであろう。

 まそれはともかくとして、騙されたと思って、一度試してきて下さい!アクセスなどはHPに精しく載っています。大井川の左岸、渡月橋の北詰めを上流側に川沿いを歩いて五分ばかり、右手に瀟洒な建物が見えてきます。見学後は亀山公園を経て二尊院や落柿舎などを見て回るのも最高!!今頃はツツジかな!


(化野念仏寺)


 正規の博物館でも資料館でもないのだから、当然違いはあるのだが、それにしてもこの遊び心満点のサービス、最新の電子機器やゲームソフト等を活かした装置をなんとか博物館に採用できないのか、山内さん!京都にあるあちこちの博物館にもこのハードとソフトを寄付してあげて!!

ランキング登録もよろしく

「読売新聞の主張」+αの条

2006-05-01 21:19:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 読売新聞「YOMIURI ON LINE」の5月1日付けは[高松塚壁画]「国の宝を守る役所がこれでは」と題して社説を掲載しています。

 私は最近の新聞社説は「・・しろ」とか「・・・ではダメ」とか命令口調でとてもイヤな思いをしてきたのであまり読まないのですが、さすがに文化担当の論説委員は「これでは」と控えめに揶揄し、警鐘を発している。ご一読あれ。

 「人災」である高松塚古墳のカビ発生に端を発した石室解体問題はこれから先の日本の文化財保護行政のあり方を左右する大問題だと思うのです。どうしてみんなもっと大騒ぎしないのかな(イヤどこかで大騒ぎされているのだとしたらお許しあれ)。先の考古学研究会でも話題にすらならなかった。不思議!寂しいね!

 今日は本年度最初の亀山市史合同委員会の日だった。その前に考古部会の同僚委員であるKF大学のHさんをこれまで見つかったいろいろな遺跡に案内するというので私もお供させて頂いた。以前にご紹介した亀山市金鋳場笹ヶ平の右肩袖の横穴式石室他を約3時間にわたって歩き回った。圧巻は残念ながら今ご紹介することができないのだが、いずれ市史の巻頭を飾ることになろう。

 それ以外にも、近世の東海道や先日紹介した鈴鹿関「西築地」出土平・丸瓦などを見た。古墳の評価も瓦の評価もH氏と一致し、大いにこれからの発掘調査に期待がかかる。但し問題は亀山市がどれだけ広範囲を遺跡として周知させられるかにかかっている。鈴鹿関には関所だけがあるのではないことは以前から知られている。しかし大半の関心が関にあるため、以外の遺跡への注目度は大変低い。

 鈴鹿駅、鈴鹿頓宮、赤坂頓宮がそれである。恐らくこれらの遺跡は重層しながら広範囲に展開しているに違いない。広域遺跡として周知徹底し、遺跡範囲における土木工事に対するチェックを徹底させ、たとえ小規模な工事であれ、補助金を最大限に活かして発掘調査を実施する、このことこそ求められているように思う。

 そして今は語れない超一級の遺跡と共に一帯を世界遺産に登録する!こんな夢を抱かせてくれる一日だった。

ランキング登録もよろしく