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一昨日は四年生の卒論演習の日だった。発表の数日前になるとその四年生達が夜昼となく私の部屋に次々と現れ、発表の予行演習をするのである(いっときますが私がそうしろと命じてるわけではないんですよ。私より気にする近世史、中世史の先生の質問が怖いからという訳の分からないことが原因なんです)。勿論これも教育の一環なのだから真面目に対応はしているつもりなのだが、あまりの集中砲火に少々へこたれる時もある。
その中で、これまで就職活動で奔走していた女子学生が、やっと落ち着いてきて、真面目に卒論に取り組みだした。その一人のテーマが、「ガラス玉副葬古墳からみた地域編成」(ということをやりたいらしい??!)である。その論考の第一歩として、お決まりのコースだが三重県の資料から分析を開始することになる。
彼女はまず伊賀地域からやり始めた。赤目四八滝で有名な(とはいっても本人はそんな滝のあることすら知らなかったが・・・)赤目町に所在した尻矢古墳群が面白いから聞いてくれと言うのである。
以前から後期古墳が地域にどのような形で成立してくるのかという点が解明できれば、律令国家の地方支配確立の過程がそれなりにあぶり出せるのではないかと、考えていた私は、海浜部の後期古墳については一通りの目処が付いてきたのだが、内陸部の後期古墳の変遷については余りに多いのでどこから手をつけようかと迷っていたところである。既に元のフィールドである山背国乙訓郡については少し分析を開始したが、他に、伊賀、飛騨等の内陸部小国も重要な対象地であった。伊賀はその中でも伊勢湾に王権が到達する上で避けることのできない重要地域である。学生の資料を再分析する内に面白いヒントを見つけることができた。
旧伊賀国は南北に長い卵形に近い形をなし、古代の行政区画では四郡しかない山間部の狭小な地域である。にもかかわらず律令期には「国」として独立し、現在の伊賀市東部、佐那具駅の周辺に国府が所在したとされる。名張郡は伊賀国の南西部に位置し、北西部を大和国、南を伊勢国、北・東を伊賀郡と接している。大和から東国に出る最短ルートがこれで、重要な交通路に位置している。大化改新詔では畿内の範囲として名張がその東端として位置づけられている。名張は七世紀中頃の王権にとって畿内に組み込むことができるくらい重要な地域であったのである。名張郡の東、北に伊賀郡、阿拝郡、山田郡が所在している。
名張郡の中心地は名称から推測すると名張郷であったと考えられる。名張郷は宇陀川の南岸、現在の赤目町域に位置したらしい。その氾濫原に接する東西に延びる低位段丘上に設けられたのが尻矢古墳群である。六世紀初頭から7世紀前半まで営まれた小規模な群集墳で、発掘調査により合計八基の円墳群が確認されている。どこにでもありそうな古墳であるが、副葬品であるガラス製品に着目すると、意外にもなかなか面白い古墳群であることが分かったのである。
<ahref="http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/">
(ガラス玉はダイヤモンドだったことを証明しようと思う!これは京都府向日市の物集女車塚古墳出土のガラス玉である。これらほどではないが、尻矢古墳群もなかなかの代物であることが分かってきた。)
古墳群は三つのグループに分けることができる。6世紀初頭に段丘尾根上のほぼ中央に木棺直葬の2基の古墳が設けられる(2→3号墳)。次いで6世紀中頃に尾根の先端部である西側に5号墳が竪穴系横口式石室(報告書では小石室とする)に近い構造で設けられる(5→7号墳)。その後横穴式石室が導入され、引き続き尾根の西端部付近に集中して築造される(4→8号墳)。ところが古墳群の最終段階である7世紀前半になると伝統的な西に設けられた6号墳と2号墳の東に独立する1号墳とに分裂する。
興味深いのは各変化の時期に2・5・1号墳にガラス玉が副葬される点である。特に名張郡でも最も早い時期に築造された可能性の高い2号墳には、大量のガラス玉と共に全国的にも珍しいガラス勾玉が副葬されるという特徴がある。六世紀の地域小豪族がガラスを入手することが極めて難しかったことはガラス出土古墳の数を見れば歴然としている。ましてやガラス勾玉は極めて異例である。
「古墳時代後期王権」が2号墳の被葬者に与えた物とすることも十分可能なのではなかろうか。以後、竪穴系横口式石室に転換する時期、横穴式石室を持つ古墳が東西に分裂する時期にもガラス玉を副葬する古墳が築造される。いずれも外的要因(その証拠品がガラス)が加わって、古墳群に微妙な変化が生じたと解釈することはできないだろうか。その他の副葬品や墳丘の構造、規模などに際だった特徴が見いだせない中、ガラス玉副葬の有無を基準に、名張郷の社会構造の変化を描き出すことが可能ではないかと思うのである。
6世紀初頭、新たな王権は地方を直接的に支配するために国造制、ミヤケ制、部民制を創始する。在地に新たな豪族層を確保し、王権の直接的支配を実行させる。伊賀国造や伊賀に置かれた屯倉の存在が文献史料からは知られ、新王権の伊賀での政策の実行を物語るものかもしれない。これに対して尻矢2号墳は、名張郡名張郷というより限られた地域での在地と王権との関係を探る材料を与えてくれる。東に大きな勢力を張っていた中期の豪族(伝統的勢力)と比較すると、明らかに勢力も小さく、地域的にも離れた場所に位置していた。
にもかかわらず新たな王権は、東国への交通路を確保するために、従来のような「前方後円墳体制」ではなく、在地の小豪族を取り込み、地方での新たな支配関係を確立しようとする。名張郡では、名張郷(赤目地域)の2号墳の被葬者を取り立て、名張郡をも視野に入れて、宇陀川南岸域の交通路を確保したのではなかろうか。その後竪穴系横口式石室や横穴式石室を墳墓に採用する王権もまた、同系列の5号墳・7号墳などに引き続き同目的で任務に当たらせる。ところが7世紀にはいると尻矢古墳群の「一族」が二派に分裂し、新たなグループが王権との関係を確立する。7世紀中頃以降の様相は不明であり、或いは別のグループに役割が移動したのかもしれない。7世紀後半には北に接する夏見郷に夏見廃寺が建立される。壬申の乱以降、王権との関係は夏見郷に所在した「小豪族」に役割が移動した可能性が高い。
残念ながら、尻矢古墳群以外の詳細な調査の成果が不明であり、今与えられた資料からはこの程度のことしか解釈できないが、少なくともガラス玉に注目する必要性は大いに高まったと言えよう。
果たして学生が他の地域でどれだけ新たな分析を加え、尻矢古墳群の分析を普遍化できるかにその成否はかかっている。これからが楽しみである。
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