yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

『延喜式』研究会式部省式筑摩御厨の条

2014-04-30 18:37:17 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 最近は参加者がじり貧で、直ぐに順番が回ってくるので困るのだが、ま、しっかり勉強せよ!という神のお告げかと思えば、不信心な私でも少しはがんばれる。

 今は式部省式をやっている。もちろん私には難解極まりない条文ばかりだから、ほとんどが虎尾俊哉編集英社版『訳注日本史料 延喜式』に頼るばかりである。とは言っても訳注に全部載っているわけではない。私がやる条文に限ってなのか、他の方々の場合も同じなのかは知らないが、難解な条文に限って補註もなければ字句解説もない。

 今回私が当たった条文にこの様なものがあった。

 「凡そ内外諸司の史生・官掌・省掌・台掌・職掌・坊掌・寮・掌使・掌司、掌伊勢太神宮司、同度会神宮の祢宜、賀茂二社の祢宜・祝、住吉の神主、宇佐宮司・祝、気比神宮司、筑摩長、。雑色人をもってこれを補せよ。ともに笏を把らせよ。」

 「把笏」、即ち官人の象徴である「笏」をこれら官職の者に与えるという条文である。「笏」とは、おじゃる丸で小鬼達がいつも取り返そうとしているおじゃる丸がいつも手に持っているあの木の板のことである。もっとも木とは限らず、位が高ければ象牙なども用いられる。

 私は一度長岡京域で木製の笏を掘ったことがある。発掘事例としては極めて珍しいものであった。

 それはさておき、最後に出てくる「筑摩御厨長」という官職名が目に飛び込んできて、とても嬉しかった。今から21年も前のことである。当時、旧米原町の担当者であった中井均さん(現、滋賀県立大学教授)から情報がもたらされ、筑摩御厨推定地から墨書土器やら奈良・平安時代の土器や木製品が大量に発見されたので見に来ないかという連絡であった。

 その遺跡は近代に入って埋め立てられ、今や農地と化しているが、元は筑摩の潟と呼ばれた内湖だったところである。その旧湖岸線に沿って古代の土器を出す遺跡が転々として存在しているというのである。

 筑摩御厨とは古代の中央官司である内膳司に付属した淡水産の水産物を貢納する王権直轄の水産物生産施設である。文献史料の初見は延暦19年(800)で、この時から内膳司所管になったことが知られている。古代律令国家では海浜部に海部が配され、海産物を貢納する志摩や淡路、伊豆などの特殊な国が設置されていたが、淡水産の水産物については河川や湖水域毎に江人や網引戸が置かれ贄人としてその収取に当たった。筑摩御厨には40人の贄人が配されたとされ、その統括者御厨長)に笏を与え官人として職務に当たらせたものであろう。

 筑摩御厨については1993年3月14日に米原町で「びわこ交通セミナー」と題して報告会が行われ、中井さんや御厨の研究者である清水みきさん、交通史が専門の高橋美久二さん、民俗学の北村助男さんなどがパネラーとして報告された。とても重厚なセミナーで、その時の資料はそのまま研究史料として使えるものだった。

 

 筑摩御厨位置図(現況図)



 中世の絵図(正応4年(1291)8月18日の年紀がある)に描かれた筑摩御厨



 発掘された木沓




 大量の土器

 その資料を先日紹介した私の抜き刷り・報告資料保管棚から探し出し、報告に使ったのである。資料の保存と整理がようやく役に立った瞬間でもあった。


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神泉苑の池の水が抜かれて池底が見えますの条

2014-04-29 11:45:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 山田邦和博士に教えて頂いて、神泉苑に行ってきました。
 今、池の水を抜いて若干、池底の整備を行っているようです。滅多に見られないので博士が教えて下さったのです。

 

 昔はスッポンがいてかみつかれたら離さないから近づくなと言われていました。純真?な私は池をのぞくのもこわくて、その縁にすら行ったことがありません。子供の印象ですが、当時はこんなにきれいでなかったように思います。

 以前ブログにも書いた通り、我が「母園」です。60年前壬生の家から毎日毎日母に手を引かれながら歩いて通った幼稚園です。今は幼稚園は閉鎖されています。市内では子供が減って経営できないのでしょう。その代わり本堂を料亭に貸して?おられます。その本堂も随分前に火災が起きて鉄筋コンクリートになっています。檀家の少ないお寺では仕方のないことなのかもしれませんが、残念です。だって、平安京随一、唯一の国家が建設した苑池なのですから。

 昔、学芸会はこの本堂で開かれました。同級生の山本君と一緒に写っている写真が残っています。浦島太郎も主役でした。生涯これが最初で最後の主役です(笑)

 園舎は東側にありました(今もその建物らしきものは荒廃して残っています)。園舎の奥には狂言堂があります。何でも修理が必要ならしく、寄進を募る張り紙がありました。あいにく現金を持っていなかったのでできませんでした。今度にします。

 でも、粋でしょ。幼稚園と狂言堂が隣り合わせだなんて。そして毎年開かれる狂言会では園児達も一緒に園舎の方から観劇するのです。もちろんこの日は幼稚園全体が開放されていろんな人がやってきます。母は先生でしたから、きっと忙しく接待に励んでいたのでしょう。私はほったらかしなのでひたすら狂言に見とれていました。内容などわかるはずもありません。でも、土蜘蛛だけは鮮明に覚えています。特に最後に舞台の端からこちら側(園舎の方)に向かって蜘蛛の糸を巻くシーンはおどろおどろしく、逃げたい気持ちなのですが、しかし興味もあり、固まって見ていたものです。

 知識を促す張り紙にはこの狂言、何でも明治に始まったらしいのです。もっと古いものだと思っていましたが、意外と新しかったのです。でも、明治の町衆の力、文化力を知ることができます。今の資本家共の目先の銭ばかりを追い求めるのと大違いです。
 考えてみれば、壬生の家は壬生寺の直ぐ近くです。壬生寺によると壬生狂言は鎌倉時代に円覚によって始められたという。節分、春、秋に催されるというから見に行っているはずなのだが記憶にはない。きっと幼稚園のかぶりつきで見た土蜘蛛の迫力が壬生寺の記憶を消したのであろう。何でも今日から春の狂言が始まるという。久しぶりに行ってみたいものである。

 神泉苑を見て、壬生までぶらぶらして、京都の風情を味わってみて下さい。せっかくの機会なのだから発掘すればいいのに!!



  神泉苑 水なき底に 花一片


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駄句を少しの条

2014-04-29 08:02:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 20140108 今泉さんのご葬儀を終えて帰路新幹線にて今泉さんを思い出しながら

  友と来た 閖上の潟 白銀に
     (2013年9月5日、今泉さんに連れていただいた閖上の潟を思い起こしながら)


  多賀の城 霜踏む足に 友の声
      (2013年9月4日 今泉さんのご案内で訪れた発掘中の多賀城南門付近の遺構を思いながら)


  凍りつく 心のままに 弔辞読み
       (2014年1月8日 悲しい弔辞を読んだ自分を思い起こしながら)


  冠雪の 富士の被る 雲帽子

 今泉さんのご葬儀に際し新幹線で富士の裾野を通過した折、ふと句を読む気になって。



 今頃あちらはどんな気候なんだろう。もう櫻は終わったのかな。


     独り臥す 草の枕の 夜の露は 友なき鹿の 涙なりけり  実朝

もうあれから4ヶ月が経ってしまった。仙台に新しいお墓がもうできた頃だろうか。寂しい。免疫不全、恐ろしいね。副腎皮質ホルモン、やっぱり万能薬ではないんだね。あるものを抑えることがdきても別のところを悪さする。

 今泉さんは腎臓を集中攻撃したのかな。その点血小板だった私は一段階ずつ遅いのかな。どうも次の攻撃対象は関節と筋肉らしい。


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断捨離がはやっているらしいの条

2014-04-28 11:20:57 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
断捨離 ウキペデイアにはこの様にあります。

  断=入ってくる要らない物を断つ
 捨=家にずっとある要らない物を捨てる
 離=物への執着から離れる

 最近私の友人達も特に所蔵する書籍が居住空間を侵し始め、同居者からの整理を求められて仕方なく整理を進めているという。その時の整理の極意がこれだというのだが。

 確かに「捨」は以前にも野口さんの整理法で言われていたことで、彼の方法は全てのものを自分のところへ入ってきた時点で袋に入れ、棚の手前から順番に前へ前へと入れていき、古いものを先へと送るというのだ。もしそれらのものが必要になって出した時には用が済んだ後はその時点の一番前に入れるという。そして、一年経って、一度も出さなかったものは不要品としてそのまま廃棄する。

 なかなか面白いので私も暫くやってみた。結構快適で、これを続けようと思った。ところが、私の場合、一年経ってひょっとして必要になるかもしれないという恐怖感から抜け出すことができなかった。結局、元の木阿弥。

 唯一、年代順というのは踏襲し、全ての研究会・会議資料を封筒やクリアファイルに入れ・挟み年代順に棚に収めるが、廃棄はせずに棚を維持することにした。


 
 年代順にやっと片付き始めた私自身の原稿や研究会の発表資料。右上端が1970年代。以下左→下へ2014年に近づく。授業の資料は全部棄ててきた。もっともこちらの方は多くがパソコンにデータとしては残っている。



 一方、もう一つの膨大な資料である研究者の著作や論文のコピー・頂いた抜き刷りは著者・筆者のアイウエオ順に全てを並べている。というか、この数ヶ月でようやくその姿にほぼ近づきつつあるというのが実情である。その過程で、かつて集めた資料のコピーや残しておいた原稿の下書き、校正、メモ、事務的書類は紙のゴミとして段ボール箱に詰め廃棄することにした。先日回収にdすと段ボールばこ20箱近くになった。これで部屋のスペースが少しだけ空くようになった。

 
 膨大な論文の抜き刷りやコピーである。これもアイウエオ順に並んでいるが入り切らなくなりつつある。写真はア行からタ行までの本棚。この真裏にナ行以降が同じだけある。
 予定では先日買った大型スキャナーで順番にスキャンし、これらは箱詰めしてお蔵入りなのだが、全く進んでいない。

 
 
 整理を待っている抜き刷り類がまだこの倍くらいある。スキャンできれば研究者仲間に差し上げるつもりなのだが・・。果たして命ある内に終わるかどうか??(笑)

 「断捨離」の精神からすると、やっと「捨」が少し進んだことになる。一方、書籍の中でそれなりの数ある発掘調査報告書であるが、これは、棄てるわけにはいかないので、大学を離れてもう使うことはない弥生時代以前のものは教え子に寄贈することにした。中には思い切って買ったものもあるのだが、どうせ、私が死ねば二束三文。付ける人が持つことの方が有意義だろう。だからこれは純粋な「捨」ではなさそうだが、これで少しは本棚に隙間ができた。とは言っても6世紀以降の情報のある『報告書』は棄てきれず、もう少し手元に置くことにしてしまった。

 さて、「離」である。

 これには余り執着はないはずなのだが、学生時代に読んだ小説の文庫本や思想書は結局棄てられずに残している。最近は芥川賞と直木賞の作家の小説ぐらいしか文学書は買わないから友人達に比べてこの手の書籍は全然増えていないのだが、棄てる勇気は出てこない。「孫が読むかもしれない」などと甘い期待をしているが、わら半紙のように変色した文庫本など孫が読むとは到底思えない。きっと棺桶に数冊入れて後は「廃品回収」だろう。

 その他にも子供の頃の写真や収集品があちこちに残っている。「離」は結構難しい!!

 さらに「断」である。  
 
 これはそれなりに実行している。
 とにかく身につけるものはもういらない!!上着や肌着は後30年生きても傷まないくらいある。とは言っても、先日の祝賀会では様々な「物」を頂いた。特に困ってしまったのが「日本酒」である。記念に頂いた、それはそれは美味しそうな日本酒である。だから、先日久しぶりに冷酒にして呑んでみた。美味かった!!でも、これを毎日呑んで晩酌が欠かせなくなると身体にも、経済にもよくなかろう!とあっさり呑まなくなった。

 とにかく何もいらないのである。もしどうしてもやろう!!という方にお願いするのは、コーヒーくらいかもしれない。とは言ってもコーヒーも長くは持たない。やはり、何もいらない!!

 今、私が一番欲しい物は、朝・晩の白い熱々ご飯と大根下ろし(+鰹節)、時々の甘塩鮭、昼の熱々のおうどんである。365日これで十分である。後は合間に飲むコーヒーでパーフェクト。

 だから「断」は比較的できているように思う。

 というようなわけで、「断捨離」難しいけれどいい方法があるぞ!という人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ








 

勲章を頂きましたの条

2014-04-27 17:01:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ブログに書いた通り、昨日は久留倍遺跡を考える会の総会(報告会)でした。

 総会の後、恒例となった私のミニ講演会を行いました。内容は記した通りですが、講演が済んだ後、思いがけないプレゼントを頂きました。

 感謝状とかりんとう


です。








 とても驚いたと共にとても嬉しく思いました。

 
  皆さん、ありがとうございました!


私が16年間、三重大学できちんと仕事をしたことの証です。私は生まれてこの方賞状というものを余りもらったことがありません。そんな中でのとても素敵な賞状でした。

 と同時に、ナナナント、

 かりんとう!!

 それも私の大好きな黒砂糖かりんとうが一杯!!

 もうさっきから胸焼け覚悟で食べまくっています。

 講演を聴きに来て下さった方が40人ほど、顔なじみの方もたくさんいらっしゃるのですが、初めてお見かけする方もおられました。お話しの後の質問コーナーでも鋭い質問が連発され、皆さんの質の高さ、教養の深さをさらに実感しました。

 来月10日には第32回壬申の乱ウオークin犬山です。是非これにも参加したいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

「久留部官衙遺跡を考える会10周年」講演の条

2014-04-26 02:30:37 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日はこれから四日市市富田にある大矢知地区市民センターで久留部官衙遺跡創設10周年記念の報告会に出かけます。

 2004年の創設以来壬申の乱ウオーク、久留倍シンポジウム、聖武天皇東国行幸都市サミット、久留倍講演会と様々な事業を展開してきた市民の会が、無事10年を迎えることになったそうです。素晴らしいことです。
 その事業の大半を市民の手で作り上げ、遺跡の保護と活用に大いに役立ててこられたわけです。創設当初から事業実施に深く関わらせていただいてきた私にとっても素敵な勲章を頂いた気分です。

 この間実施してきた事業はこの様なものです。

 A 壬申の乱ウオーク
第1回 20051112  鈴鹿関 
第2回 20060212  縄生廃寺
第3回 20060520 加太越え
第4回 20060819 柘植山口
第5回 20061111 海蔵川
第6回 20070212 隠駅
第7回 20070512 吉野
第8回 20070811 加太・鈴鹿
第9回 20071110 伊賀御墓山古墳
第10回 20080209 大雪の近江大津宮 
第11回 20080510 河曲郡
第12回 20080809 能褒野王塚
第13回 20090214 久留倍遺跡
第14回 20090509 養老多度山美泉
第15回 20091114 久留倍まつりで久留倍を歩く
第16回 20100213 額田廃寺
第17回 20100508 桑名石占頓宮 
第18回 20100807 平城京 
第19回 20101113 久留倍遺跡 
第20回 20110212 不破関
第21回 20110514 野口王墓(大内陵)
第22回 20110918 斎宮
第23回 20120211 恭仁京
第24回 20120630 宇陀 
第25回 20120915 勢多唐橋 
第26回 20121208 久留倍遺跡周辺 
第27回 20130209 難波宮 
第28回 20130511 甲賀 
第29回 20130713 近江路 
第30回 20131109 山崎 
第31回 20140208 河口頓宮 

以下今後の予定 乞うご期待!


第32回 20140510 村國男依の故郷
第33回 20140920 身毛君廣の故郷
第34回 20150314、和珥部臣君手の故郷

 
 B 久留倍遺跡シンポジウム
第1回 20040919 久留倍遺跡と朝明郡1 永井路子
第2回 20050219 久留倍遺跡と朝明郡2 岡田 登
第3回 20050702 久留倍遺跡と朝明郡3 直木孝次郎
第4回 20060211 久留倍遺跡と朝明郡4 八賀 晋
第5回 20060717 久留倍遺跡と朝明郡5 栄原 永遠男
第6回 20061126 聖武天皇と則天武后 陳 良偉
 C 久留倍サミット・まつり・講演会
第1回 20081101 聖武天皇東国行幸サミット 刈谷俊介
第2回 20091114 久留倍遺跡と北伊勢 加藤謙吉
第3回 20101113 聖武天皇と万葉歌人と伊勢 森 浩一
第4回 20111112 伊勢湾と木簡 今泉隆雄
第5回 20121208 伊勢国と東海道 塚本 明
第6回 20131026 世界の遺跡のヴァーチャルリアリティ- 
    ~久留倍遺跡復元のために~ 関口敦仁


第6回 20141115 壬申の乱前夜の伊勢



そしてこの間毎年開かれる考える会の総会・報告会で時々の成果をお話ししてきました。
今回は10周年ということを知らずにお引き受けしたので講演の中身は実に細かな研究成果の紹介となりました。

「久留倍遺跡と朝明駅家」というテーマです。
《要旨》 久留倍遺跡になぜ聖武天皇が宿泊することになったのか。私はこの地が当時朝明駅家だったからだと考えています。駅家とは当時の「国立ホテル」です。都で定められた法律や新たに発せられた命令はいち早く全国に早馬で伝達されます。その道を七道と呼び、今日も交通機関にその名を残しています。東海地方を通る道は東海道と東山道です。他に、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道があります。これらの道にはおよそ16km毎に駅家が置かれていました。馬を休ませたり交換したり駅使と呼ばれた使者が休憩、宿泊するための施設です。伊勢国の東海道では鈴鹿駅、河曲駅、朝明駅、榎撫駅の4駅が置かれていました。これまではいずれの場所も特定できていませんでしたが、鈴鹿関や久留倍遺跡の発掘調査によってその位置を特定することが可能になってきました。朝明駅家は「久留倍遺跡第Ⅰ期官衙]と呼ばれる施設ではないかと私は考えています。Ⅰ期政庁と呼ばれる整然と建物が並ぶ遺構群は地方官衙の中心施設と考えられています。一般的にはこれは朝明郡衙、つまり四日市市役所と考えているようですが、私はこれこそ朝明駅家だと考えています。その理由と全国の駅家の遺構や道路の遺構についてお話ししようと思います。

 また講演会の様子は明日にでも報告します。暫くいろいろな話題を紹介しながらブログの再スタートの助走に当たっていきますので宜しくお願いいたします。

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「ご通知 籾井勝人氏のNHK会長辞任を停止条件として 受信料支払い凍結運動に踏み切ります」の条

2014-04-22 22:00:57 | NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
 私たちは署名の提出だけでは「無視」で居直り続けるNHK会長を辞任に追い込むために受信料支払い凍結運動に踏み切ることにしました。具体的には以下の様な方法を参考にして下さい。


 受信料停止を行うための一方法
 ①銀行に行く
 ②「受信料引き落とし」の停止を通知
 ③自動振り込みが停止
 ④次回からは自動的には引き落とされなくなる。
 ⑤その後、NHKに対して(東京でも地元でも)「籾井会長が辞任するまで停止し、辞任が実現したら払う」と通告(メールでもファックスでも可。《例》NHK受信料の窓口にあるフリーダイヤル0120-151515か有料ダイヤル050-3786-5003)。
 ⑥辞任が実現したら(当会の方針としては)遡って支払う。
 ⑦NHKの方であなたの入金がないことが判明した段階で「受信料払い込みのお願い」の通知が「払込用紙」とともに届く。
 ⑧それは無視。
 ⑨放置しておくと4ヶ月後にお宅に訪問集金のスタッフが来る、
 ⑩口頭で「籾井氏が辞任するまでは払わない」と言う。
 ⑪辞任が実現し「支払い再開」を希望されても、以降は、訪問集金を待つ。
 ⑫4ヶ月たてば集金に来る。NHKに対する意見を言うこともできる。



 昨日提出した通知文書をお知らせいたします。

2014年4月21日
NHK経営委員会 御中
NHK会長 籾井勝人様
NHK理事 各位

ご通知
籾井勝人氏のNHK会長辞任を停止条件として
受信料支払い凍結運動に踏み切ります

NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
共同代表 湯山哲守・醍醐 聰
 

籾井勝人氏のNHK会長就任会見での妄言、百田尚樹、長谷川三千子両氏のNHK経営委員としてあるまじき言動に対してNHKに多くの視聴者から抗議の声が寄せられています。当会が他の6つの市民団体と共同で2月末から始めた3氏の罷免、辞任を求める署名も4月18日現在の集計で3万筆を超えました。また、この間、当会には、「今のNHKには受信料を払う気になれない」、「口座の引き落としを止めたいがどうしたらよいか」という問い合わせが多数届いています。
当会は3氏の罷免、辞任を求める署名運動に取り組むとともに、3氏が経営委員会や国会でどのような釈明・答弁をされるのか、それらに対する視聴者・世論の動向はどうか、などを慎重に見極めてきました。
しかし、籾井氏は前例のない抗議の声も意に介さないかのように、「無理やり言わされた」、「不慣れだった」と釈明する一方、「どこか間違っていたでしょうか」と開き直る有様です。
また、籾井氏はご自身こそ辞表を提出すべき状況にありながら、会長就任早々、全理事から日付のない辞表を取りつけ、いまだにそれを理事に返却せず、会長の人事権を盾に専決体制を敷こうとする態度を改めていません。そのうえで、個人としての見解と会長としての見解を整理しないまま発言したことは反省すると語ってきました。百田、長谷川両氏も問題にされた言動は経営委員の職務外のもので、個人としての言論の自由に属するものだという反論を繰り返しています。つまり、3氏は問題とされた一連の「個人的見解」それ自体を今もって撤回も改めもしていないのです。
しかし、今回の一連の発言で問われているのは、放送に携わる者の職責と定められた「健全な民主主義の発達に資するよう」(放送法第1条第3項)放送を規律するのに適した資質を3氏が備えていたのかどうかです。特に、「国際放送では政府が右というものを左というわけにはいかない」、「従軍慰安婦はどの国にもあった、それをいいとか悪いとかいう立場にはない」という個人的見解を持つ人物を敢えて NHKの会長に選任した経営委員会の判断の可否が問われているのです。

当会はこれまで3度にわたって、他の市民団体と共同で、署名簿を添えて籾井氏ら3人の罷免、辞任を求める申し入れを籾井氏ご本人及びNHK経営委員会、さらには経営委員の任命権者である安倍首相に提出してきました。しかし、さる4月13日に放送された籾井会長の釈明会見でも、市民団体の申し入れを意に介さず、前例のない多くの視聴者からの批判も顧みず、棒読み同然の幕引き談話で会長職に居座り続けようとしています。私たちはこうした籾井氏の対応を放置するわけにはいきません。
そこで、当会の運営委員会は約2か月にわたる慎重な協議を経て、以下のとおり、NHK経営委員会が籾井勝人氏をNHK会長から罷免するか、籾井氏が自ら辞任を決断するよう、再度の申し入れをし、この要望が受け入れられない場合は、受信料の支払いを向う半年間、凍結する運動を起こすことにしました。
籾井氏に絞って辞任を求めるのは、同氏が会長職にとどまると、当面する放送業務、人事編成などにおいて、会長の権限が濫用され、NHKは「ボルトとナットで締め直され」て、公共放送にふさわしい理事会の民主的合議体制が機能しなくなる恐れがあるからです。それはNHKをいっそう混乱に陥れ、「民主主義の発達に資する」放送を提供すべきNHKがトップダウン型の専決組織に変質させられる危険性ともいえます。そこで、私たちは籾井氏に一刻も早く会長職から退いていただくことを焦眉の課題と考え、以下の行動を提起することとしました。


「受信料支払い凍結運動」の要点
1.目的
「今のままでは受信料を払う気になれない」という多くの視聴者の意思を汲み上げ、
   当面、籾井会長の辞任を促す。
2.支払い凍結運動の方法
①4月末日までに籾井氏を罷免するか籾井氏が会長職を辞するよう決断されるよう、
再度、要求する。
②4月末に至っても、なお、籾井氏が会長職にとどまる場合は、同氏の辞職をさら
 に強く促すため、向う半年間、受信料の支払いを凍結する(本年5月から10月
 の間に納期が来る受信料の口座引き落とし等を停止し、振り込み票による支払い
も行わない)運動を起こす。
 ③上記②を実行するにあたっては、凍結したことをNHKに通告するよう呼びかけ
る。
  ④半年経過するまでに籾井氏が会長を辞任した場合は、その時点で受信料支払いの
  凍結を解除し、支払いを再開する。
  ⑤半年が経過した時点で籾井氏がなお会長職にとどまっている場合は、凍結を継続
するか解除するかは、凍結を始めた各視聴者の判断に委ねる。
 ⑥どの時点で凍結を解除するにせよ、凍結分も含め、受信料を支払うものとする。

 
 当会は、NHKが国からの出資や助成、営利企業からの広告料に頼らず、視聴者の受信料で財源を賄う公共放送の体制を堅持することを強く支持することに変わりはありません。今回、提起する受信料支払い凍結運動は、このような立場を踏まえ、「受信料不払い」運動とは明確に一線を画するものであることを申し添えます。それは、上記の「支払い凍結運動の方法」の②、④~⑥で明確に示されています。
 と同時に、私たちは、視聴者がNHKと結ぶ受信契約は税金や国民健康保険料のような片務性の公契約ではなく、視聴者とNHKが相互に権利と義務を分かち合う双務契約だという点を重視しています。過去、何度も受信料の支払い義務を法制化しようとする放送法改定法案が国会に上程されながら廃案となったのは、NHKの人事、運営等に関して視聴者にまったくと言ってよいほど権利が与えられていない現在の受信契約の下で、支払い義務化によって今以上に強い受信料徴収権をNHKに与えると、特権的・徴税的な意識がNHK内に生まれ、視聴者との相互信頼関係が損なわれるとの危惧があったからです(資料①②参照)。
 私たちは、受信料の支払いは視聴者の片務的な義務ではなく、NHKが放送法ならびにNHK放送ガイドライン等の定めに沿って、民主主義の発達に資する番組を国民に提供するという、視聴者とNHKの間の相互信頼関係の上に成り立つ義務であると理解しています(資料②③参照)。
 だとすれば、「政府が右といったら左とは言えない」などと公共放送の自立性を端から理解しない一方で、会長職の権限にはことのほか執着する人物がNHK会長職に居座り続けたのでは、  視聴者は、NHKが公共放送にふさわしい民主的な組織運営に徹し、自主自律の放送を提供する責務を誠実に履行するという信頼を保てないと言わざるを得ません。
このような場合、視聴者は、NHKが公共放送の事業者にふさわしい信頼を回復するのに必要な措置を講じるまで―――今回の場合は籾井会長が辞任するまで―――民法第533条で明記された「同時履行の抗弁権」を準用して、自己の義務の履行を停止する権利を行使できると考えるのが至当です。
ただし、この場合の視聴者の権利は「相手方〔ここではNHK〕の債権を絶対的に否認する抗弁権ではなく、相手方の債権の存在を認めるけれどもその行使を一時的に制限する延期的抗弁権である」(島谷部茂「同時履行の抗弁権」『法学教室』1999年12月、26ページ)ことを私たちは十分理解しています。今回、私たちが「受信料支払い凍結運動」を籾井氏の会長辞任を停止条件として実施に踏み切ることにしたのも、支払い凍結を解除する際には凍結分も含めて受信料を支払うものとしたのも、このような理解を前提にしているからです。
貴委員会ならびに貴職におかれましては、こうした当会の見地を十分ご理解の上、籾井氏の会長罷免または自主的な辞職を一日も早く、決断されるよう、強く要望いたします。

以上




【資料】

① 1980(昭和55)年4月9日、衆議院逓信委員会における武部文委員の質問(抜粋)
「武部委員 今度の義務制の問題あるいは料金値上げの問題等をめぐってマスコミに登場してきた国民の声を私なりにいろいろと調べてみました。それを見ますと、放送の内容あるいは経営の姿勢、大体どこで選ばれるかわからない会長や経営委員などの組織が云々というような主張がありますね。これは事実であります。
 また、払わぬ一つの理屈として、現在のNHKは支持できない、それはNHKを見ないから払わぬのではなくて、NHKを見ておるから払わぬのだ、こういう奇妙な理屈がございました。それは、いま申し上げたような、放送の内容がどこで決まって、NHKを経営する経営委員なるものが一体だれで、どこでどういう方法で選ばれたのか皆目わからぬということで、NHKの受信料を払わぬよ、こういう理屈になっておるようですね。そういう声があります。
 それから、支払い義務があるというならば、それに対応するところの視聴者側の権利を明確にしなければならぬはずだ、それはNHKの人事とか予算あるいは放送内容について、視聴者側の権利を明確にする必要があるのではないかという意見が出ておるようであります。これももっともなことだと思うのです。たとえば、監査の問題等をとってみてもそうですが、監査の決定権は視聴者が持つべきだ、自分たちが払っておるのだから自分たちの代表がそれを決定する権利を持つべきだという意見もあります。NHKの経営あるいは番組制作などについてチェックしていくためにも、現在の経営委員――自民党の皆さんの発言を見ますと、国民の声の代表である経営委員に対してもっと発言権を持つべきだというような意見がきょうの新聞報道にございますが、この経営委員は視聴者の公選制にすべきではないかという意見もあるようです。これは言うはやすくなかなかむずかしいことだと思うのです。二千八百万の視聴者から経営委員を公選制にしろと言ったって、なかなかできっこないと思うのです。しかし、それはまた考えようによっては、各県ごとに視聴者会議というものもあるわけですから、そういうものを通じて推薦を得た者を、たとえば中国本部あるいは近畿本部というものの中から選択をし、選び、そうしてできるだけ公選制に近いような形で経営委員を選ぶべきではないかという意見が出てくるのは私は当然だと思います。
 ここに十二名の方の経歴の一覧表もございますし、今度また任期切れの方もあるようですけれども、確かにわれわれは、この人たちが果たしてNHKの放送についてどういう見識をお持ちだろう、どんな発言をせられただろうか、先般当委員会でも同僚委員から発言もございましたけれども、皆目見当がつかぬ。一体どうして選ばれておるのだろうか、見たこともなければ聞いたこともないような人だということになってくる。あるいはまた、この中には新聞界の方がいま二名、この次また一名予定されているようでありますが、この十二名の中に三人の全国大新聞の代表の方が入られる、これは一体どういうこと、だろうか。いろいろな点についての疑問がある。したがって、公選制をやれという意見が出てくるのも私は当然だと思うのですが、こういうことについてNHKはどういう見解をお持ちでしょうか。」
(「衆議院逓信委員会会議録」より)

② 河野弘矩「NHK受信契約」(遠藤浩・林良平・水本浩監修『現代契約法大系』第7巻、サービス・労務供給契約、1984年有斐閣、241ページ)
 「思うに、国民的支援にささえられた番組編成、経営基盤(財源)の自主独立性を堅持し、国民の総意に沿ったサービスの提供に努めうる諸環境を存続させるためにも、NHKに完全な特権的、徴税的な心理を育成する方向には絶対に進むべきではなく、そのためにも、NHKと受信者が受信契約の締結という行為を介して形成され、育成された相互信頼関係はその範囲で価値あるものであり、現行放送法32条は、それなりに評価に値する規定であるといえよう。」

③ 1999(平成11)年3月15日、衆議院逓信委員会における海老沢勝二NHK会長(当時)の発言(抜粋)
「海老沢参考人 この受信料の公正負担ということで、私ども日ごろいろいろな形で我々の公共放送の意義なり存在というものを御説明しているわけであります。そういう中で、私は、広告放送なりあるいはNHKが有料放送をやりますれば、根本的に放送のやり方が変わっていかざるを得ないだろうと思っております。
 先ほど申しましたように、やはり、イギリスにBBCというのがあります、これは受信料だけで広告放送をやらないでやっておりますが、イギリスの方は御承知のように罰則規定がありますし、強制的に徴収される。それで、NHKは罰則規定、いわゆる公権力が働かなくて、NHKと国民との信頼に基づいて受信料をいただいているという全く世界に例のない理想的な公共放送であります。
 そういう面では、我々日本人は、私は、性善説をとっているというのですけれども、性善説の中で、国民の理解と信頼で成り立っているわけであります。この組織というものを私は大事にし、やはり、日本人の心の優しさといいますか、それを信じながらいい番組をつくっていくことが我々の使命だろうと思っております。そういう面で、私は、多メディア・多チャンネルになっても、NHKは受信料を堅持し、これを我々はさらに発展させていくように努力するのが我々の使命だろうと思っております。」

 
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第32回壬申の乱ウオークin犬山 ~壬申の乱の影武者村國男依りの故郷を訪ねて~開催の条

2014-04-21 21:30:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 壬申の乱ウオークも予定の半分を過ぎ、次回は第32回となります。巡る場所は愛知県犬山市を中心に壬申の乱の陰の功労者とも言っていい村國男依の故郷を訪ねます。

「第32回壬申の乱ウォークin犬山市~青塚古墳、村国男依と周辺遺跡」

 実施日時   2014年5月10日(土)   (雨天決行)
 行 先    犬山市、大縣神社、青塚古墳、犬山成田山、ほか    
 交通機関   貸切バス   (2台)
 参加者数   90名
 参加費用   5,600 円     昼食代含む
 昼 食    レストランきらく 犬山市大字犬山字白山平5-2(犬山成田山正面)TEL 0568-61-0760        


 近鉄四日市駅西・四日市博物館・噴水前8:00→JR富田駅東口(国道1号線沿い)8:3 0→みえ朝日IC→(伊勢湾岸・東名阪)→大山田PA(10分)→名古屋西(名二環)→楠JCT・(都市高速)→小牧北IC→10:15大縣神社(参拝,説明)10:45→11:15青塚古墳12:00→12:20犬山成田山前・レストランきらく(昼食)(東の宮古墳の説明)13:30→13:45JR鵜沼駅前(下車)⇒(徒歩)⇒13:55村国真墨田神社14:20⇒(徒歩)⇒14:50犬山城前(自由行動)15:20(バス乗車)→15:40音楽寺16:00→ 一宮中IC(都市高速)→清洲東→(名二環)→名古屋西IC(東名阪・伊勢湾岸)→みえ朝日IC→17:30 JR富田駅東口→18:00近鉄四日市駅

主催: 久留倍官衙遺跡を考える会
共催: 三重大学人文学部伊勢湾・熊野地域研究センター

〔問い合わせ・お申し込み・連絡先 〕 久留倍官衙遺跡を考える会事務局
                  前川 勝宏 TEL/FAX 059-364-0395
 今回は壬申の乱の陰の功労者の一人・村國男依の本拠地である犬山市、各務原市の遺跡や関係地を巡ります。久しぶりに昼食もレストランを予約し、その前後に犬山城下町の町並み復元の実態を感じ取っていただこうと思っております。

 さらに、今回からしばらくは、壬申の乱開始の直前、密かに内戦の準備に当たった三人衆(村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手)の故郷を巡ります。
 大海人皇子は旧領である美濃國安八磨郡の湯沐管理者である多臣品治に対し挙兵するよう密偵を送ります。それが村國男依でした。男依りの本拠地は村国真墨田神社の所在地から美濃国各務郡の北東部と推定できます。湯沐の所在地は不明ですが、各務郡の中心地でしょう。その管理者が多臣品治ということからすると、中央豪族多氏との関係の深い(多氏そのものの可能性も十分あります)人物でしょう。湯沐という王権の直轄地(ミヤケ)を維持管理するために伴造氏族が派遣されると共に在地の有力者も取り込まれたものと思われます。村国真墨田神社の位置するところは、木曽川が山間部から平地部に出るまさにその場所です。近世、犬山城を管理した成瀬氏もこの木曽の水運の管理が大きな目的だったと聞きます。村国真墨田神社の対岸の現犬山市東部に「入鹿池」というきんせいの用水池があり、これが「入鹿屯倉」と関係する場所だというのも興味深いものです。

 そして身毛君廣、和珥部臣君手もまた、前代から当該地を実質管理した在地有力者だと考えています。その最大の任務は長良川、揖斐川、つまり木曽三川の管理こそ彼らの仕事だったのではないでしょうか。その地を順番に訪ねます。

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岡山古窯探索~またまた空白期間!そろそろ再開すべきか、はたまたFACEBOOKかLINEかの条

2014-04-21 14:49:00 | yaasan随想
 一時復活しかかったのですが、退職前の片付けやら、引き継ぎ準備やら、なんやかやの準備であっという間に時間がなくなり、今日になってしまいました。

 あらためてご挨拶申し上げます。

 2014年3月31日をもちまして三重大学人文学部を退職しました(昔は退官と言ったのですが、この頃は事務方と同じ退職と言え!!ということでこう表現しています)。

 3月9日には盛大な退職記念パーテーも開いて頂いて、120人ほどの多くの方にご出席頂きました。特に卒業生が40人近く来てくれて、懐かしい顔、顔で埋まりました。また、久留倍遺跡を考える会を始めとする市民の方々もたくさん参加頂き恐縮した次第です。

 ありがとうございました!!

  お世話になりました!!!


ということで4月1日からブログを再開しようと思っていたのですが、大学から引き上げてきた本や資料の片付けに随分時間がかかり、さらに、授業の準備やら、たまたま当たっていた某研究会の発表やら、昨年末が閉めきりという雑誌の原稿を忘れていて、その矢の催促に追われるやらで、あっと言う間に1週間が過ぎてしまいました。すると次は4月から始まった非常勤講師の授業の準備。限られた年金生活ではお小遣いに困るので、皆さんのご配慮により今年は2コマ余り授業をさせていただくことになった。その資料作りがまた始まってしまったのです。

 皆様にはご挨拶状をお送りしないといけないのですが、それもまだ準備できておりません。失礼の段お許し下さい。

 ようやく先週が2週目で、その非常勤生活にもなれ始め、少しゆとりができたので、ブログでも書いてみようかということに。
 
 この間話題は一杯一杯あるのですが、何から書こうかな?と今度はこれが悩みの種。するとまた筆が鈍り、日曜には書き始めるつもりが今頃になったのであります。

 まずは直近の遺跡見学から書き始めることに。

 4月17日(木曜日)に四日市市垂坂の西部に位置する岡山古窯の現地見学に行ってきました。
 近鉄江戸橋駅から四日市まで行き、湯の山線に乗り換えて20分ほどこの櫻駅で下車します。そこからは院生のHTさんに車を出していただき8人の学生をピストン運転で現地まで運んでいただきました。感謝!!

 
 後で判ったのですが、四日市駅から三交バスが出ていて、赤沢北と言うところから歩けば5分ほどのところに遺跡はありました。
 

 昨年末から三重大学が所蔵する大昔の資料の整理を始めていました。大半が45年近く昔に掘られて林檎箱やら木箱に入って埃だらけのものです。収蔵されているプレハブが年代物で、教育学部の管理下にあるのですが、1階に置かれていた資料は横殴りの雨で直ぐに水浸しに。近年は木箱が腐り始めて触ることもできない状況だったのです。

 仕方ないのでそれらを今時のコンテナに移し替えるのですが、お金がないので大赤字!!退職間際に大借金を残す羽目に。でもいろいろご配慮いただいたお蔭で、何とか被害は最小限に留めることができました。事務の方々に大感謝です。

 何とか木箱はコンテナに移し替えたのですが、入っているラベルも劣化が激しく、読めないものも多数。これではせっかくの「宝物」がただのゴミと化す危険性大。そこで、今年度卒業する学生にこの遺物を資料化してみないかと言うことに。まずは地区別、窯別に遺物を集め、さらに遺物の種類毎に分けて、何がどの程度有るのかを確認する作業から始めた。あるわ、あるわ!奈良平安時代の須恵器、瓦塔、硯、瓦、焼成前線刻土器・・・。

 担当学生を決めて3人で分担して整理することに。もちろん大半が実測もされていないので、実測から始めるのだが、まずは遺跡を知ろうということで、現地踏査と相成ったのであります。これまでの報告類を見ても現地がどこなのかよくわからないのであります。そこで四日市市に尋ねたところ、現地は途中まで開発されたがその後ストップし、何もない!!というのです。目印は県小学校だから、これを目指し、その北北西に独立した丘陵があり、そこが遺跡だというのです。地図を調べると小学校の直ぐ南が県神社。これは由緒のありそうな神社だからここから始めようということで、県神社を目指して行ったのであります。もっtも現地で判ったのですが、この神社はとても新しいもので、周辺の須賀神社や天満宮を合祀した校正のものだそうです。少しがっかりしながら現地の岡を目指しました。

県神社の正面に記された由緒

 


 

 行ってびっくり見てびっくり。現地には「グリーンパーク岡山」なる立派な看板が立っているのであります。その上、この看板によると、四日市市の「市民緑地開設第1号」として2005年にできているのです。

 
 
 
 「????」みんな首をかしげました。おそるおそる中に入っていってみると遊歩道が作られており、陶芸教室用の窯までできているのです。

 
 
 「????」

さらに進むと花壇があり、作業をなさる老人の方々がおられるのです。聞いてみると、

 「アー、窯ならこの向こうの竹藪の中に遺っているよ。今年こんなパンフレットも作ったよ」

と手作りの素敵なパンフレットを下さるのです。その地図を基に現地に入ると、噂に聞くモトクロスのコースに現地は大きく改変され、あちこちに車道ができているのです。おそらく車が掘り起こしたのでしょう、現地には大量の土器が散乱しているのです。

 

 一帯行政は何をしているのでしょう?岡山古窯はそれなりに他府県にも知られた面白い窯跡です。一部は壊されたものの、当時の人々の努力で、遺跡は多くが現地に遺されたのです。そして、地元の方々はその貴重な遺跡を含む里山を大切にしようと、林を整備し、子供達、市民が集える空間を作って大切になさっていうrのです。にもかかわらず文化財行政は知らん顔。

 ホント、ダメですね。行政が文化財保護なんて大きな口をたたけるのは20年前までの話し。気力と能力のない行政にかかれば遺跡なんてひとたまりもありません。その典型は三重大学に所在する鬼が塩屋遺跡でいやというほど思い知らされましたが。

 それはともかく、私たちが早急にしなければならないことは、「岡山古窯の学術的な価値をきちんと世に出すこと」これだと実感しました。一緒に行った学生には大急ぎで、大学にある資料を整理し、まず、岡山古窯とはどんな遺跡なのかをきっちりと紹介しようではないかということにしました。

 

 

 


 私自身にも問題があることはいうまでもありません。16年間、ほとんどこれに手を付けられなかったからです。その罪滅ぼしも兼ねて、今いる学生でできるだけきちんと資料を図化しようと思います。まずは、事実関係の掌握です。外野から矢が何本も飛んで来るという噂ですが、気にしません。mmし興味のある方は是非三重大学に、現地に行ってみて下さい。


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