yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

考古・古代史安否情報1の条

2011-03-18 00:25:18 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 様々な友人達が、一生懸命情報を集めてくれています。

 東京の友人からの考古関係の情報です。一応頭文字のイニシャルで表示します。

::::::::::::::::::


 自分が知る限りの情報をお送りします。

 卒業生や自治体行政の方々の情報を総合しますと、宮城県内は局所的に
連絡がつかない方々はまだまだ多いようです。
 13日に、岩手方面(盛岡市Y木M則さん、奥州市I藤H幸さん、T橋C晶さん)からは無事の知らせがメールで来ました。仮に岩手方面の方々に何かあれば、蝦夷研究会方面で知らせが来ますので、樋G先生ほか、大丈夫なものと思われます(※別にご無事と確認しています)。

 秋田のI藤T士さんからも13日にご連絡が来て、秋田城は城内にもまったく影響なし、とのご連絡がきましたし、山形のI藤K弘さんからも同様のご連絡を同日にいただいています。

 しかしながら、心配なのは三陸方面です。
 個人的に、墨書土器が出土して、2年間ほどほぼ毎月通った陸前高田は壊滅状態です。恩人たる担当者の方も、行方不明です。
 別方面からの情報では、市役所の屋上に避難した50名のうち、生き残ったのは8名のみだそうです。文化財課は低層階でしたので…です。ご家族もご連絡が取れていないそうです。
 東松島のS藤T幸さん、八戸市のU部N保さんともご連絡が取れていません。
 上記以外の古代関係者以外でも、個人的に、大槌町、山田町、宮古市、
気仙沼市ではお仕事を深くご一緒した方々がおられ、自分も被災したような気持ちでいっぱいです。

 新潟の柏崎市、茨城の水戸市の文化財担当の方からは、やはり派遣や
避難所開設・対応に不眠不休の状態であることが伝わってきました。

 そんななか、今日、府中市のE口桂さんから、府中でも支援がきまり、車と食料を派遣することが決まったが、相手先として国府つながりで多賀城を考えている。ついては、多賀城市のC葉T弥さんの連絡先を知らないか…とのお話でしたので、知っている携帯にかけてみたところ、ご本人が出られました。
 避難所で大変な想いをされていらっしゃるようでしたが、「東京も大変だったんじゃないですか」と心配され、号泣しながら、ただただ頭を下げました。
「本当に貞観の地震、まさにあの通りですよ」と、短い時間のお電話で、しかも現在の状況下で、その発言がでるC葉さんのすごさを感じました。


 少ないですが、現在の状況です。また、わかり次第ご連絡いたします。


 *******************

 ということでした。ブログに掲載してほしいとのことでしたのでここに載せさせて頂きます。有り難うございました。

 他に、歴博からの情報では、考古学では東北大学のFAさん、古代史では東北学院大学のKKさん、宮城女子学院大学のOSさん、東北大学のHYさん、NHさんもご無事だと聞いております。 

 また情報があればアップしますが、これからはいかに支援するかですね。原発の問題も深刻で、西への避難をお考えの方に我々で対応を考えなければならないと思っております。 


 

喜びと不安と・・・・の 条

2011-03-15 16:59:05 | yaasan随想
 行方を捜していた卒業生の安否が確認できた!

 おそらく大丈夫だろうとは思っていたが、しかし、勤務地が名取市だけに確認できるまでは不安であった。

 だから卒業生のリストから実家の住所と電話番号を探し、電話をかけてみたのだが繋がらず、ひょっとしたら何か問題があって出かけられたのか?等と少し悪い方に考えたりしていたのだ。

 それが昨日の夕方になって、やっとお父様と話すことができ、ご実家でも私が電話するほんの数分前に本人から連絡があり、元気にやっているとのことだった。普通にしていれば彼は役所に勤めているから、町全体が流された町は別にして、おそらく大丈夫とは思っていたが、確認できるまでは不安だった。

 なんでも避難民の世話をしているという。直ぐに同級生達に連絡を入れた。一様に、

 「あいつもようやく人の役に立つようになったか」

とみんなで大喜びしたところである。学生時代はいろいろ課題の多い行動ぶりで、同級生とも度々トラブルを起こしていたが、それでもみんなとっても心配していた。同じ釜の飯を食った仲間というのは本当にいものだ。

 と、久しぶりにいい話を聞いて我が家に帰ったら、とんでもないことが判った。


 息子が福島に派遣されることになったいう。


 「エエッ!!」絶句した。まだ具体的な場所は判らないが、場合によったら今大問題の原発の近くに派遣されるかもしれないという。

 ま、消防士という仕事を選んだときから、私自身、いつかこういうことが起こるのだろうという覚悟はあった。人を助けていくらの職業だから。これまでも救助の仕事が主だからいろいろあったらしい。火災現場でも消火時に脚を取られて火の海に落ちそうになったこともあったという。

 だが、今回は、普通の救助とは異なる。場合によったら、高濃度の放射能に汚染さえる危険性もある。それでなくとも正義感が強く、人より先に突っ込もうという性格だから、余計に心配だ。

 今朝も、出かける前に、神妙な顔をして挨拶していくから、

 「あんまり無理すんなよ!!」と一声かけておいた。

 そんなこと以上の大変な現地だから、安全な場所にいる我々がする心配なんて小さいものなのだが、何となく「出征兵士」を見送る親のような気持ちになった。それでなくともフィアンセもいて、この前から体調がよくない身である。人様の役に立たなければいけないことはもちろんだが、必ず無事に帰ってきてほしい!!

 世の中には今回の天災を

 「天罰」だ等と言う首長がいる。なんでも政権が悪いと村山さんの時の阪神淡路、そして菅さんの時の今回と「天罰」が下ったのだという。愚かな方である。これでも「文学者」の端くれなんだが・・・。あなたこそ東京に電力を送っている会社の起こした不始末なんだから、先頭に立って消火に、冷却に行きなさいよといいたくなる。¥

 「天罰」が我が子に及ばないことを祈りつつ、帰りを待つ。


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 無事でなと 送るわが子に陸奥の冷雨


『東アジア,都城の比較研究』上梓の条

2011-03-14 20:59:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 橋本義則編著『東アジア都城の比較研究』(京都大学学術出版会 2011年2月28日)の大冊が完成して手元に届いた。昨秋から年末にかけて四苦八苦した原稿だ。

 B5版 1-414pp.巻頭カラー図版4頁の大著である。
 定価8400円(税別) (著者割引7400円送料税込み)

 ご希望の方は私まで御連絡下さい。

 

 B5版で400頁を越えますのでとてもボリュームのある書籍となりました。

 本書の構想は編著者である橋本氏がその序文で的確に述べているように、10余年前から本書の主要な著者でもある田中俊明、妹尾達彦両氏と橋本氏三氏が構想した東アジア比較都城史研究会に始まる。とりわけ書の題にもなっている「比較」に重点が置かれ、「互いの歴史の共通性と共に相違点を認識し、そこに至った理由や背景を解明する、比較の観点が極めて有効である」とする認識に基づいて編集された書である。

 そうした比較の対象を都城と都城制に絞った理由は明快であり、「都城と都城制に関する研究が、国家研究、国家史研究と直結するから」である。もちろんこれまでにも奈良文化財研究所を始めとする様々な機関が東アジアの都城を比較する国際的検討会や公開講演会を実施してきた。しかしそれらはいずれも「個別分散的」で具体性に欠けたのである。だから東アジア比較都城史研究会ではより具体的にテーマを定めて一つ一つ検討を進めていこうということになったのである。

 その後、橋本氏を代表とする科学研究費基盤研究(A)(B)が採択され、その共同研究者としてさらにスタッフが充実され、上記の主旨に従って一年に3~4回の研究会が開催され東アジア全体を共通のテーマで比較検討する研究会が開催されたのである。

 私もこの研究会の一員に加わり、主に日本の考古学的な資料を分析する担当となったのであった。

 さらにこの研究会の優れたところは、橋本、妹尾、田中三氏及び科研で共同研究者となった馬彪(中国古代史)、新宮学(中国近世史)、桑野栄治(朝鮮近世史)、林部均(日本考古学)と私の幅広い人脈を活かして中国、朝鮮、ベトナムなどの最先端の学者を招いての国際的共同研究会を定期的に実施した点であった。特に海外研究協力者である朴淳發、陳良偉、劉振東の各氏は、日本及び中国朝鮮において度々研究発表を行い、現地にて遺跡を案内して日本の研究者の研究に多大な刺激を与えたのであった。

 こうした共同研究の成果の第1弾が本書である。本書が無事完成したのは橋本義則氏の大変な編集力以外のなにものでもない。氏の努力なくして本書はなしえなかったことだろう。

 本書の構成は以下の通りである。


第一章 羅城をめぐる諸問題
 中国近世における羅城-明代南京の京城と外郭城の場合- 新宮 学
 古代朝鮮における羅城の成立              田中俊明
 泗�都城研究の現段階                 朴 淳發
 日本古代宮都の羅城をめぐる諸問題           山中 章
○朝鮮都城史研究の現況                 桑野栄治

第二章 都城と葬地
 城址と墓葬にみる楚王城の非郡県治的性格        馬  彪
 隋唐長安城と郊外の誕生                妹尾達彦
 北京城と葬地-明王朝の場合-             新宮 学
 韓国古代の都城と墓域-百済を中心に-         朴 淳發
 朝鮮三国の陵寺について                田中俊明
 日本古代宮都と陵墓・葬地-宮都内古墳の処理にみる陵墓意識-山中 章
 日本古代の宮都と葬地                 橋本義則
○朝鮮王陵研究の現況                  桑野栄治

第三章 都城と禁苑
 雲夢楚王城における禁苑と沢官の二重性格        馬  彪
 隋唐長安城の皇室庭園                 妹尾達彦
 朝鮮初期の「禁苑」-景福宮後苑小考-         桑野栄治
 日本古代宮都の禁苑概観                橋本義則
○明清北京城の禁苑                   新宮 学
○考古学からみた日本古代宮都禁苑研究の現状と課題    山中 章

第四章 都城を繞る壇廟
 朝鮮初期の圓丘壇と北郊壇               桑野栄治
○明嘉靖年間に置ける北京天壇の成立と都城空間の変容   新宮 学
○新羅始祖廟・神宮                   田中俊明
○考古学からみた日本古代宮都壇廟研究の現状と課題    山中 章
索引
                         (○は研究ノート)

 研究会はまだまだ続いており、既に次の書籍刊行の準備も調っている。具体的な比較都城の書として是非読んで頂きたい。

 東アジア都城の比較研究とても面白そうだな、買ってみようかなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

ご一家の無事確認の報せの条

2011-03-14 10:08:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 仙台のIT先生のご一家の無事を確認致しました。
 
 少し安心しました。

 また、仙台の避難所にいる卒業生の一人からもメールがあり無事を確認しました。
 ただしいるところが若林町の避難所とかで、驚きました。

 なお、まだ卒業生の一人とは連絡が取れません。市役所に勤務してましたから、きっと自分のことどころではないと思いたいのですが。
 豊川のご実家にも連絡がつかず、心配です。

 なおGoogleの安否情報サイトでIT先生の安否を確認しました。

 http://japan.person-finder.appspot.com

 171も使ってみたのですが、被災地外からのアクセスは制限されていて使えませんでした。その上、相手が携帯しか持っていないと連絡できないみたいで、これも難しいことでした。

 他にもつい先日の城柵官衙遺跡検討会でお会いしたばかりの方々が沢山いらっしゃいます。岩手大学のHT先生や東北大学のNH先生、FA先生の安否が判らないのですが・・・。電気の限られている中でこちらが勝手に電話するわけにも行かず・・・。本当に、神戸の時もそうでしたが、こうしたときの連絡網の整備が急務だと思いました。

 もしどなたかご存じでしたら教えてください。


 

心配な報せの条

2011-03-13 22:05:31 | 三重大学考古学研究室情報
 今朝になって次々と東北地方の惨状が明らかになってきた。驚いたことに名取市がかなり酷い被害を受けているらしいのである。空港も未だに水が引かず、2~3階のロビーに1200人もの方がいらっしゃるという。驚いた。

 その名取市に就職している卒業生がいるのだ。

 同級生からの連絡で「連絡がつかない」という。

 つい先ほども、今日新婚旅行から帰ったばかりという同級生が心配して電話してきてくれた。

 直ぐに私も電話したが、もちろん繋がらない。メールもしてみたが、送ることは送れても返事はない。171にかけてみたら、相手の電話は携帯電話はダメらしい。彼は遠い親戚の家を継ぐとかで宮城県亘理郡へ転居したはずなので、確か家には誰もいないはずだ。だから誰も固定電話を知らない。

 SAという彼は大学院に進学したのだが、養子先に行くとかで名取市の市職員試験を受け、合格して今はそちらにいるはずだった。最近は同級生の結婚式に電報が来たりしていたが、直接話したことはなかった。

 学生時代はいろいろなことがあって、なかなか私には連絡しにくいのかな?と思っていたが、そうでもないらしい。つい最近も消息を聞いたことがある。だからとても心配なのである。

 そんな話しをしていると、もう一人卒業生が「仙台」にいるという。発掘会社で全国の遺跡を飛びまっわっているのだが、なんでも少し前から「仙台」らしい。その彼とは連絡がつき、なんでも避難所にいるという。

 仙台にも避難所があるのだろうか?それとも多賀城市や名取市のことだろうか。避難所では長話も出来ないから心配だけが残る。ま、それでも生きていることが判っただけでもホッとした。

 いまは、SAの無事を祈るだけである。きっと電気も通じていないだろうから、メールもネットも見られないので連絡がないと信じたい(さっきから、メールの着信音の度にビクッとするのだが・・・。まだ連絡はない。明日静岡のご実家に電話してみることにする。)。

 一人でも多くの方が助かることを祈って今夜もテレビにかじりつきそうである。



だから原発は危険!核兵器などもちろんいらない!の条

2011-03-13 01:42:51 | yaasan随想
 畏れていた事態となりました。

 原発の炉心がメルトダウンするという事態。

 この頃の政治家は日本の民主党も、自民党も、その他諸々の政党も、そして地方政党の長も、さらに世界中で、「原発が環境に優しい!」と抜かしておりました。アメリカや中国では早速商売が始まり、日本の企業はこれに飛びつきました。しかし、これほど危険なものをこれ以上広げてどうするつもりか!と思っていた所です。とりわけ、中国のような管理体制の悪い国がこんなものをどんどん増やしていったら偏西風下にある日本はひとたまりもありません。

 その一大事が日本で起こったのです!!

とりあえず、完全なメルトダウンの危険性が少し緩和されたようですから、よかったと言わざるを得ません。これで、当然商売はストップするはずです。もちろんそうならなくともストップすべきことは言うまでもありません。

 今回のことは先年起こった新潟地震での柏原原発事故で予想されたことです。にもかかわらず、政治家や官僚共は、原発商売をするために全くその対策をしてきませんでした。いかにも原発が危ないことを国民に知られたくなかったからです。

 1時間の放射能が一年間の「許容量」を越えたというのに、政府も官僚も、「安全」だと言ってごまかしています。とんでもないことです。日常で放射能がわずか漏れても大騒ぎなのに、なぜか地震の後だと、皆さんが、「少々のことは・・・」と「寛容」になっているところが信じられません。さらにこの危険極まりない事態を覆い隠すために、「最も安全な方法」である海水を入れて「廃炉」するというのです。本当にそれで大丈夫なのでしょうか?

 仮になんとかメルトダウンを防げても、これでもって、原発につぎ込んだ 数千億円が消えてしまいます。さらにこれから廃炉にするためにも数百億円のお金がかかります。原発とは、それほど危険で、経済効果の極めて悪い施設なのです。

 それだけの金があればもっと自然を利用した水力発電や風力発電、太陽光発電が出来たはずです。その開発のための研究費をつぎ込めたはずです。

 要するにこれでは土建屋が儲からないのです。だから、敢えて危険極まりない原発を日本中に増やしたのです。「安全」「環境に優しい」という大嘘をついて。どこぞの野球の監督さんも、「安全」とニコニコしながら言うてました。責任とれ!!と言いたいです。

 ところで、「辞める」と言っていた石原が翻意してまた出ると言いだしました。その男の真意は、息子に頼まれての政権打倒のシンボルです。そして「核武装」を一歩前に進めようとしたからです。今の体たらく内閣を批判さえすれば、なんでも出来ることが見えてきたからです。

 大声を出して、いかにもリーダーシップがあるかに見せかけて何がしたいのか、日本を戦争の出来る国にして、戦争商売人を肥やすことです。

 こんな男がなぜ東京都知事に3回も当選し、4回目も狙えるのか?よくよく今の事態を眼を開いてみてほしいものです。原発も核兵器も同じです。イヤもちろん核兵器の方が何倍も危険なことは言うまでもありません。にもかかわらず、「朝鮮・中国脅威論」をばらまくことによって、日本の核武装を説く手法は実に巧妙なナショナリズムを利用した戦争屋の手口です。

 今刮目しなければならないのは、

 原発が、核兵器が いかに危険か

と言うことが実証されたことです。

 チェルノブイリやスリーマイルの二の前は目前です。今こそ完璧な非核三原則を宣言すべき時です。なぜこんな下らない男の扇動に乗って核武装するのですか?なぜヒロシマ、ナガサキの二の前をやろうとするのですか?

 断固として核拒否を主張しましょう!!


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内閣崩壊、列島沈没、国家崩壊の条

2011-03-11 20:59:19 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 こんな政府、さっさと解体してしまえばいいのに!!と強く強く思っていたら、日本列島の東半分が津波に呑み込まれ、破壊されてしまった。

 驚きました。

 M8.8とも8.9とも。阪神淡路大震災の後、M8.4規模を想定した耐震基準を考えるなどといっていたのを思いだした。本当にそんな規模でええんかいなと疑問に思ったのだが、それがまさ夢となって目の前に現れた。しかし、まさか自分の目の黒いうちに起こるとは思っていなかった。

 自然は恐ろしい。

 列島が壊れるのは困るのだが、こんなことで政権が延命するのはけしからん。さっさと潰れてしまえ!!と言いたくなるこの体たらく。

 以前から、前職場の上司のタイプをみていて判ったことなのだが、日頃いいことばっかり、優しそうな顔していかにも物わかりが良さそうな上司に限って、いざとなったらなんの判断も、決断もできんと言うこと。いざとなったら逃げると言うこと、これをイヤという程経験させられてきた。

 だから、そういう人間は信用しないようにしてきた。それよりもズケズケ物を言ってぶつかる人間の方がよっぽどいざとなったら頼りになることを実感してきた。だから学生にもいつも言う。就職したら、上司に向かってでもはっきり物を言え!と。それをごまかしたり聞き流したりする奴は信用するな!と。大声で怒鳴ったり、思い切り反対意見を述べたりする奴の方がいざとなったら頼りになるから。そういう人間とはどんどん喧嘩をしろ!物を言え!と。逆に何も言わない奴はあんまり言うと後でこっそり裏切ったり、逃げたりするから気をつけろ!と。

 今の政治家を見ていると全くそれと同じであることが判る。鳩山然り、菅然り!!口先ばかりいいことを言うだけで、いざ、判断をしなければならなくなったら、よう喧嘩をしない。自分の意見をきちんと言って議論しない。「相手と協議して」などとごまかして逃げようとする。

 ほんとみみっちーたらありゃしない。

 二人とも、さっさと政治家辞めて坊主にでもなって全国謝罪の旅に出ろ!と言いたい。もちろんそれまで政権を握ってきた自民党や公明党の馬鹿共なんか、坊主にならなくていいからさっさと引退してどっかへ消えろ!と言いたい。だって、こいつ等がこの国の国力を割き、無駄金を使い切って国力を貶め、次代に何も残さなかったのだから。

 そのメチャクチャな状況を、この肝っ玉の小さな今の政権与党の政治家ではとてもとても対処の出来るはずがない。

 じゃ、どうするのか?

 ヒットラーを待つのか?!

 実際言うことやること全てヒットラーと変わりのない石原やら、河村やら、橋下やら、東国原やら。

 国民はウジウジに疲れてこうした暴君を待つようになっているらしいが、その後のツケが恐ろしいことも何となく判ってもいるらしい。


 暴君がイヤならどうすればいいのか?

 私には、残念ながら今期で辞める秋葉忠利のような行動力のある政治家がその第一の候補だと思うのだが。彼自身は議会からの誹謗中傷、嫌がらせに疲れ果てたようだ。もちろん今の自民党と同じで、広島市にはあら探しばかりして、「世論」を扇動するしか脳のない市会議員がいるらしい。非生産的な現状を見せつけて、彼を疲れさせようとした作戦が見事に当たったのだ。

 本当は彼こそもう一度国政に戻り、総理大臣になってもらいたい人間だった。

 しかし、疲れ果てた彼はそんな気もない。残念で仕方がない。

 
 ま、元々政党政治なんかに興味がなかったこの私、これで綺麗さっぱり選挙なんかとおさらばできる。正直言ってもうどうでもよくなった。後は今の若者がどう考えるかであって、私がとやかく言う筋合いのものではないのである。

 それにしても今回の地震は恐ろしいね。東北には今泉隆雄さんをはじめたくさんの尊敬する学者・知人がいらっしゃる。彼等の家は仙台市,盛岡市、多賀城市、栗原市等々東北全般に及んでいる。つい先日横手でお会いした人ばかりだ。大丈夫なのか。それが一番心配なのである(なお、留年組の学生の故郷が石巻である。今昼、電話したら、「家族は無事!」だという。一安心だった。)

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8人の卒業が確定しましたの条

2011-03-09 21:01:29 | 三重大学考古学研究室情報
 今日は定例の教授会であった。

 ここで本年度卒業、非卒業の認定作業が発表された。その前におおよそは判っていたのだが、卒業生にとってみると「確定」の文字が欲しいらしく、それなりにみんな心配していたようだ。

 それが「確定」したのでこんなメールを打っておいた。

 卒業生のみなさんへ

 先ほどの教授会で皆さん全ての卒業が確定しました。四年間~五年間、よく頑張りました。それぞれの道を頑張って下さい。

 OYは明日(ペルーへ)出発だよな。気をつけてな!スリやひったくりにくれぐれも気をつけて!あんまり金持ちらしい格好はしていかないように。

 IHはもう勉強を始めてるか?KTがやっていたように(公務員試験は)集中して繰り返すこと!これだからな。

 SSはいつまでこちらにいるのだ?お前がいなくなった後のYSがちょっと心配だから、時々連絡してやってくれな。

 MTは怒られたからしょげてるのか?情けない。ウジウジ病を再発したら(彼女に)棄てられるぞ!世の中に出たらこんなことでは済まないくらいいろんな攻撃 が来るのだから、もっとしっかりしろ。怒られたからと言って黙って帰るとは言語道断!

 YSは,故郷に帰って英気を養ったら、次なる目標に向かって進もうぜ。少なくとも2年後にはMTを越えられるようにな。やっぱり大学院に行くと 違うな!と言わせるくらいになろうぜ。

 NAは、念願の彼氏も手に入ったし、後は壽退職に向かってひたすら貯金しろよ。彼がうまくK市に入って文化財担当になったら、実測おば さん
やってくれるともっと嬉しい。期待してるぞ。

 ETは、就職したら独り言は止めろよ。嫌われるぞ。とはいってもあんたの職場そのものがそんなに明るいところではないから、カラオケの時のように明るく元気にな。

 RSはさっさと納めるもの納めろよ!!俺の仕事はもう終わったからな。後の行動は自分で責任持ってやれよ。


 以上最後の小言でした。ジャーな。あ、そうそう、以前、壬申の乱に来てくれていた○○ちゃんが無事三重大に通って、四月から考古学研究室生第1号 だと伝えてきた。またどこかで会うかも知れないから、忘れないでね。

 今年の卒業生も一年生の時の授業から一緒の者が多くて、公私ともにいろいろなことを知っている仲だからとても思い出深い。その分ちょっぴりセンチにもなる。


 すると直ぐにこんなメールが返ってきた。

 OYさんから

 8人の卒業確定よかったです〓〓
 明日からいよいよ出発です
 もちろん貧乏スタイルで行きますよ〓
 体調とスリに気をつけて行ってきます〓
 また先生のイタリアの話も楽しみにしてます〓
 今後のブログの更新も楽しみにしてますね〓  
        (〓〓これは絵文字が化けたらしい)

 MT君から

 メールありがとうございます。昨日の件でまた先生にご迷惑をかけることとなり、最後まで先生のお役に立てず申し訳ない気持ちで一杯です。
先生に前から言われてきたことですが、形ばかりを気にする性格というのが今さらですがわかってきました。期日や字数といったうわべの数字ばかりにとらわれて、中身が疎かになりがちです。要求の裏にどんな意図があるのか、もっともっと考える癖をつけるようにします。こんなことで学芸員をやっていけるのか不安ばかりです。けれど、この前の卒論発表会で、大勢の前で分かりやすく説明しようと心がけて話をすれば、みんなにも伝わりあんなに自分にも達成感があることをひしひしと感じました!四月からは先生に叱って頂いた言葉を一つ一つ思い出してウジウジ病を退治します!!先生、四年間ご指導下さりありがとうございました。まだまだ教えて頂きたいことが山ほどあります。院生として残り、都城や官道の基礎を学びたかったです。また、E先輩やYさんからパソコン上でのデータの処理や発表方法など盗みたかったです。でも、その分現場経験を積む所存です。
MTも少しはましになったと、言われるよう頑張ります!先生、きっとN市に講演に来て下さい!!

 NAさんから

 お言葉、本当にありがとうございます。
 普通の学生より1年長く大学に通う事になりましたが、大学の思い出を振り返えれば、充実した大学生活だったと感じています。
 1年生のオリセミから、5年間という長い間、親身にご指導して頂き、本当にありがとうございました。
 1~3年生の時は部活でよく怪我をしていましたので先生に心配をかけ、4年生では将来が定まらず心配をかけ、5年生では卒論制作で心配をかけるなど、思い返すと何かと先生に心配ばかりかけていた気がします。本当にすいませんでした。
 出来の悪い学生でしたが、先生の人柄に救われ何とか卒業出来ました。本当にありがとうございます。
 考古学のゼミに入って、先生から注意された事、褒められた事、たくさん食べ物を頂いた事…どれもが掛け替えのない思い出です。山中先生は私の生涯の恩師です。本当に今までありがとうございました。
 ゼミでの様々な思い出を胸に、社会の風に負けず壽退社を目指して貯金に勤しみます(笑)そして、ゆくゆくは実測おばさんに!?
 山中先生、これからもお元気で。先生のご健康を願っています。
 追伸:この先私が彼に捨てられずに結婚という事になりましたら、先生にお言葉を頂きたいと思っていますので、その時はよろしくお願いします!


 みんな、有り難う!!(ちょっぴり涙)彼らの卒業式に出られないのが本当に残念だ。


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 一人臥す 草の枕の夜の露は 友なき鹿の涙なりけり  実朝

 




朗報!!の条

2011-03-09 00:56:18 | 三重大学考古学研究室情報
 今朝、とても嬉しいメールが飛び込んできた。


 「三重大学人文学部 合格しました」


 というのである。

 もちろん私の娘や息子でも、姪や甥でもない(実は姪が一浪してやっと東京のC大学に合格したという連絡が来たばかりなのであるが)。

 昨年の春頃からメールのやりとりをして、どうしても三重大学の考古学研究室に来たいという,実に真面目な女子高校生からなのである。

 とっても嬉しくて、直ぐにみんなに連絡した。

 彼女は受験中にも関わらず、春の壬申の乱ウオークにも参加してくれたり、内の学生と食事に行ったりととても熱心なのであった。とても考古学をやるような荒々しい(ごめん、決して内の女子学生が荒々しいと言っているのではないのですよ(笑))子じゃなくて、とても清楚で、物静かで、それでいて何か秘めている、この頃の高校生とは明らかに違う生徒さんだったのです。

 一番驚いたのは初めてもらったメールなのです。

 全く面識のない生徒さんからある日突然(今見ると4月11日の17時02分のことだった)、こんなメールが飛び込んできたのである。

「こんにちは。
 ○高等学校3年の□□ と申します。
突然ですがこの度、山中教授にお尋ねしたいことがあって、メールさせて頂きました。

 最近考古学に興味を持ち始め、三重大学人文学部の受験を考えています。
 長い間卒業後の方向がまったく定まっていなかったのですが、もともと歴史が好きだったこともあり、昨年の冬頃から考古学を学ぶことを考え始めました。
 地元で勉強ができないかと探していた三重大学のホームページで山中教授のお名前を知り、運営されているブログを見つけて、1ヶ月ほど通わせて頂きました。どのような方なのだろうと思い進路部に相談にいったところ、
「考古学がやりたいなら、山中先生のところがいい」

という答えを貰いました。

 1月の三重大学での展示には足を運べませんでしたが、『長岡京研究序説』を拝読しました。
 専門用語が多く分からない部分も多々ありましたが、教科書の上ではたった1行、1頁で済まされてしまうようなことにも様々な背景があって、血の通った誰かが残した記録なのだと感じました。
 それからますます、山中教授の所で考古学を学びたい、そう思えるようになりました。

 山中教授はあと数年で定年を迎えられるということですが、定年後も三重大学に残って頂けるのでしょうか。2010年度の受験で三重大学に入学したとして、山中教授に教えて頂くことはできるでしょうか。

 お返事頂ければ幸いです。」

 
 こんなメールだった。とても高校三年生のものとは思えない、しっかりした文章だったのにまず驚いた。

 だから直ぐに、こんな返事を出した。

 「残念ながら(幸か不幸か)私は後3年(昨年の四月段階で)弱しか大学におられません。あなたの学校のレベルならきっと名古屋大学や京都大学、大阪大学も合格可能だと思います。それぞれ私のよく存じ上げている素晴らしい先生方がいらっしゃいますから、是非そちらを受けて下さい。どんな時代をやりたいのかによって、推薦できる大学が異なりますので、おおよそで結構ですから教えて下さい。」

 ところがである。是非地元から通いたいという。

 ならば、名古屋なら通えるし、名古屋には梶原先生というとってもいい先生がいらっしゃるからあちらへ行きなさい。と伝えた。

 名古屋に通る自信がないから三重にしたいと言う(もちろんこれは謙遜だと判っていた。)。ならば、三重に入って、3年次編入というのがあって通りやすいから、これで私がいなくなる3年生から名古屋に行きなさいと申しあげた。それよりもとにもかくにも私に会えば、こんなおっさんの所はイヤだと思うに違いないから一度話しに来ませんか。と申しあげた。

 数日後だったか、直ぐにやってきた。その第一印象が先に記した通りのとても清楚なお嬢さんだったのである。メールの文章そのものが姿を現したという感じだった。驚いた。こんな表現はいけないのだろうが、「今日日こんな高校生もいるんだ!」というのが正直な感想だった。

 いろんな事を私から話すだけではよく判らないだろうから、学生達の雰囲気も見てもらった方がいいと思い、学生にはざっくばらんに私の恐ろしいところ、ダメなところもきちんと話せと言って数人の学生と話しをしてもらった。私はあいにくその日の夕刻から用事があったので後は学生達に任せて反応を待ったのである。

 すると直ぐにメールが来た。

 「お忙しい中たくさんお話を聞かせて頂いてありがとうございました。
研究室の方々にも親切にして頂き、とても楽しい時間を過ごすことができました。
 遅くまで居座らせて頂いた上、夕食までご馳走になってしまい、申し訳なかったです。

 手に取れるような距離で土器を見たのは実のところ初めてだったのですが、土の中から発掘されたそれらが、何百年も前に使用されていたものなのだと思うと凄く胸が高鳴って、実際に掘ってみたい! という気持ちになりました。その場所に息づいていた歴史があって今があるのだと、おぼろげながら感じることができたように思います。

金曜日から聞かせて頂いたことも色々と考えて、やはり三重大学を受験したいという気持ちを固めることができました。受験期ではありますが、勉強もしっかりしつつ、壬申の乱ウォーク等、誘って頂いた企画も参加できればと思っています。

本当にありがとうございました。」

 「アチャー!逆効果だったか。」

 どないしょ。でも折角そこまで言ってくれてるのだから、三重大学考古学研究室の雰囲気を予め知っておいてもらうのも悪くないだろう。

 こんな思いから、余り引きずり回しては受験に差し障るが、五月ならまだ時間もあるし、多度を中心として歩く第17回壬申の乱ウオークに参加して見ないかと、誘ってみた。当日やってきた彼女が差し出したのが、私の好物「かりんと」だった。それも抹茶かりんと。なんでもお母様が持って行けと言ったという。(「アー、ちゃんと親子でいろんな話しをしてるんだな!」と思った。ちなみに、三重大学の学生と話していて思うことは皆さんとても親子の会話が多いことだ。だからみんないい子ばかりなんだと思ったことがある。)

 そこで驚いたのはみんな彼女のファンになってしまったと言うことなのだ。

 「是非三重大に受かって,考古学研究室に来てね!!」いつしかこんな言葉が飛び交うようになった。

 

 そして今日のこの朗報なのである。

 もちろん彼女なら受かるだろうと思っていた。だからそれを見越して、来年度はやらないでおこうかなと思っていた共通教育の特別な授業スタイル「PBLセミナー」をやることにしていた。彼女とならきっと素敵なセミナーが出来、他の学生も引き込んでくれるに違いない。

 ただ、それだけに責任は重大である。どんな学生に育ってもらうのが一番いいのか、まださっぱり判らない。少なくとも三重大学に来てよかった!と思ってもらえる様な教育をやらねば!と身の引き締まる思いをした日でもあった。

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宴の後の条

2011-03-08 12:12:12 | yaasan随想
 一昨日(六日)の豪華な料理から一転しての粗食なのである。

 昨日(七日)の朝昼兼用食事はチキンラーメン餅入り、豚キ&ャベツトッピング食費100円以下。

 夕食はこれね。

 

 北海道産昆布で出汁を取り、広島産牡蠣醤油で味付けをし、少々の塩胡椒を振りかけただけの野菜スープ。これが絶品。石油製品、保存薬品など一切無し。超天然、自然食。これだから私の血液検査の結果は全部真ん中!!

 そしてメインデイッシュは、



 なかなか美味しいよね、最近のレトルトカレー。

 レトルトチキンカレー

 予め作ってあった炊きたて冷凍おにぎりをチンして、そのご飯にカレーをかけて再びチンして先のスープと共に頂く。食費は0円。いずれも貰ったものばかり。締めて本日の食費合計100円未満。昨日がウン万円だから、この落差の激しいこと。お腹もびっくりしてるに違いない。

 ちなみに昨日の食事はこれね。



 

 あと10日間は粗食で頑張ります。体重64キロ代前半を目指して!!

 実は最後の原稿に苦しんでいるのであります。これが出来れば昨年末から
1『亀山市史』 
2『仁明朝の研究』(思文閣出版) 
3『三重大史学』(三重大学考古学・日本史・東洋史研究室)第11号 
4『東アジア比較都城研究』(京都大学学術出版会) 
5『都市・王城形成史の比較研究』

と、五冊もの本が一気に出ることになるのだが。大半が他力本願とはいえ、これは少々狂気の沙汰ではある。

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 宴後に 振り返れば 皆巣立ち

 弥生雨 見送る我れが 涙かな
 
 一人去り 二人去り 残されし我


考古学研究室お別れパーテーの条

2011-03-07 11:09:05 | 三重大学考古学研究室情報
 毎年恒例の研究室お別れパーテーが昨6日開かれた。

 いつもなら卒業式の後、我が家で、我が妻の手料理を振る舞うのだが、今年はあいにく卒業式の日に海外出張が重なってしまい、出来ないので前倒しですることになった。

 もう少し卒業式に近づいてからでもよかったのだが、卒業旅行に行く学生もいて、この日になった。今回は特別に四日市まで繰り出して、イタリア料理とワイン,そして二次会は大カラオケ大会でお祝いをした。卒業生8人、在学生7人、総勢15人での会となった。残念ながら留学生の一人が就職試験だというので、参加できなかったが、ほぼ全員の楽しい会となった。

 もっとも前日が卒論発表会だったのでほぼ同じメンバーではあったが、そこは、考古だけの内輪の話もあってとても楽しい一日となった。

 

 なぜ二人だけ椅子に座っているか?
 その理由はこの後のサプライズで!!


 

 今年は学生からなんだかとてつもなく大きい箱に入ったものをプレゼントされた。びっくりした。



 空けてびっくり玉手箱!ナナナント!寝袋である。それもツタンカーメンの棺のプリントされた寝袋である。研究室で泊まる時用にわざわざ手配してくれたらしい。とても暖かそうで、これならいつでもどこでも寝られそうだ。感謝!!



 でも、まだあるという。



 ???



 モアイ像のデザインされたテイッシュの函カバーだという。これも風邪を引いたたとき手放せないテイッシュ用の素敵な品だ。
 みんなみんな、有り難う!大感激。

 在校生からは、卒業生一人一人に「考古学研究室」とプリントされたボールペンが渡された。これもとても心のこもった品々だった。



 さてお料理は様々なとても美味しいものばかり。



 前菜のマカロニ(イタリア語ではマッケローニ-複数-というらしい)サラダ。



 生ハム



 小魚のフライ

みんなみんなあっという間になくなってしまって、中には私まで回ってこなかったものもあったので、マスターがメインデイッシュは一人一人配ってくれた。



 そんなこんなで時間は一気に過ぎたのだが、もう一つ誰も予想だにしていなかった大サプライズが暴露された。

 卒論を頑張ったNAさんと我が研究室の某学生が最近お付き合いを始めたというのである。これにはみんな一瞬、何が言われたのか判らず

 「ポカ~ン」

 「ハ!??」

 実は某学生にはバレンタイン疑惑というのが浮上していたのである。

 当日の話しでは家族からチョコを3つもらったと言っていたのが、その後の宴会でぽろっと、四個もらったと言ったのである。

 「誰?誰?」とみんなで追及するのだが、口を割らないのである。

 きっと、クラブの下級生か、同級生だろうと勝手に思い込んでいたのである。

 そして当日、ホワイトデーのことが話題になって、誰に何を返すのか、とみんなが追及しだしたのである。そこで彼は「マグカップ」と答えた。

 再び注目を集め、みんなが「誰だ?誰だ?」と騒ぎ出した。


 「今そこでお箸を置いた人」

 「????}キョロキョロ

 「エッツ?まさか?」

 「ほんと??」


 ここで一番ショックを受けたのが、彼女の友人で、いつもいろんな事を話していたEYだ。

 「エエッツ!!ウソオーッツ!なんで言うてくれんかったん!!」

会場は騒然、みんななんと言っていいやら判らないので、しばらく沈黙であった。

 というわけで、その「罪」によって全員写真では真ん中に座らせたのであった。

 この頃我が研究室は「めでたい」話しばかりで、それももてないと思っていた野郎に次々と彼女が出来ていくのである。折角「フラレタリア同盟」の組織員を増やそうと思って会員にしたのに次々と裏切られていくのである。今回も有力な会員候補に逃げられた」悲しむべきやら喜ぶべきやら。

 ま、それにしても私の教え子では初めて同じ研究室同士のカップルである。彼女は既に就職先が決まっている。しっかり姉さん女房で素敵な愛を育てて欲しいものである。

 結婚するときは呼んでね-!!とみんなに祝福されたのであった。



 そしてこの後、カラオケへ。



 もちろん皆さん大ブレークしたのであった。

 もうこれで会えなくなるかと思うととてもしんみりした一日でもあった。皆さん新しい社会でそれなりに充実した、楽しい人生を歩んで下さいね。お幸せに!!

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 新しき 門出に友と 二人して

 
 





2010年度卒論報告会報告の条

2011-03-06 09:31:00 | 三重大学考古学研究室情報
 昨日の卒論報告会はいろいろな意味でとても盛り上がった。



 これがエントリー表である。ナナナント内の3年生の男子学生MA君の書なのである。彼は電気屋の息子で、様々な電気器具に精通し、パソコンにも詳しく、ピンポンが得意で、そしてこれである。
 素晴らしい!!ある学生などはこれを切り取って持って帰りたいとまで言っていた。納得!!



 久しぶりの参加?だと我が同僚の塚本先生が言うのだが、昨年出なかっただけで、一昨年は出たはずだし、・・・。

 それにしても今年は多かった。50人くらい来てくれただろうか。ただし、考古の先輩方は誰も来てくれなかった。とても残念だった。見捨てられているのだろうか。どうせ卒論なんてろくなもんはない!と決めつけられているのだろうか。

 でもちゃんと来られないからと言って差し入れを届けて下さった方がいらっしゃる。


 ジャーン


 八賀晋先生が、わざわざ、薩摩のいも焼酎「風来坊」を届けて下さったのである。

 感謝!!(それ以外の先輩共は何をしとるんか!と言いたいね。これくらい書いとけば来年はわんさか参加するだろうし、差し入れも一杯届くに違いない。忘れないでね!!!)


 今回よかったもう一つの点は司会だった。午前と午後に3人の司会を三年生が務めたのだが、とてもよく報告を聞いていて、会場からの質問が途切れ、ちょっと時間が空くと予定時間と照らし合わせながら、実に手際よく質問を補足したのである。素晴らしかった!!



 今度大学院へ進学する我が考古学研究室の「☆★」??YSさんの発表は、若狭出身ながら若狭の皆さんが信じて止まない船岡式製塩土器の機能論を木っ端みじんに吹き飛ばした力作だった。

 ま、これで若狭へ錦を飾ることはできなくなったが・・・。(笑)




 もう一人がMT 君。使いものになるかどうか、4月からの就職先に昨年から勤めている先輩OIさんもチェックに駆けつけた。
 A412頁もの資料をたった20分で実に手際よくまとめ、聴衆を魅了した!??授業を替わって欲しかったくらいだ。もっともこれを愛知や岐阜の連中が聞いたら頭から火を噴いて怒るに違いない。4月から岐阜の山奥の教育委員会に勤めるのだが、もう三重には帰って来れないかも知れない。だって、犬山で赤塚次郎さんに誅殺されるから(笑)。

 ホラ、みんな熱心に聞いてくれてるでしょ。こんなに身を乗り出して!!ようく見て下さいね、この構図 (笑)

 で、内容なのですが、これがなかなか充実していた。もちろん「石」もあったが、今回は大半が「玉」だった。

 どれがというのは言いにくいのだが、ま、ご想像にお任せします。

 さて普通ならこれで報告は終わりなのだが、今回は番外がまた盛り上がった。

 会場を大急ぎで片付けて「情報交換会」の開催だ。簡単な立食なのだが、ここでまたまた司会など様々な準備に奔走してくれたMA君がまたまた大活躍。マイクやらバックグラウンドミュージックやら、普通のパソコンを駆使して、エッツ??なんでこんなこと出来るん?というほどの「芸」を披露したのだ。


 そして極めつけは、山田博士の「歌」!最初は井上陽水だったのだが、自ら引き続き、得意だという同年の「○○○○」の歌(名前をよく覚えていない!学生もしらんという女性歌手の歌)を披露なさったのである。






 これには会場が騒然!!とにかく18時半に始まった「情報交換会」は実に有意義な会となって21時半に打ち上げとなったのであった。

 皆さん有り難う!!幹事の3年生お疲れ様。来年は新三年生が頑張らないとね。よろしく!!

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 発表が 終わってみなと ”高3生”

 巣立ち行く 若者の元気 しんみりと

 四年間 楽しい仲間と 素敵な日々


 

2010年度卒論報告会の条

2011-03-04 10:50:50 | 三重大学考古学研究室情報
 毎年三月初めにその年度の卒業論文を先輩方や後輩達に見てもらうための報告会をしている。

 今年は3月5日(土)10時から三重大学の共通教育2号館三階にある381号教室で開催する。

 今年の卒論は以下の様なものだった。
◎ 二〇一〇年度卒業論文題目
【考古学】
遠藤哲「宝塚1号墳における盾形埴輪の特徴・役割についての一考察」
中野綾子「宝塚古墳における円筒埴輪の製作技法と配置―埴輪工人集団の考察から―」
林 振華「唐長安大明宮含元殿考」
犬飼はな江「古代東海道の復元」
大島由衣「ガラス勾玉の製作技法に関する一考察」
杉本智子「大津京の選地に関する一考察」
味噌井拓志「古墳時代初頭の伊勢湾系土器波及にみる伊勢地域の役割について―ヒサゴ壷の分析を通して―」
山し央倫「船岡式製塩土器の機能における一考察」

【中世史】
稲垣あゆみ「源頼朝による戦死者供養―源義朝の供養を中心に―」
下林未奈「中世後期北野社における」
生川千恵「鎌倉時代における治療関係者―僧医を中心に―」
長谷川沙智子「狂言の排卑俗化について」
松本葵「治承・寿永の乱における南都焼討の認識と被害状況」

【近世・近代史】
大西美紅「近世尾鷲地域における難船処理の経済的影響―尾鷲組九木浦を事例に―」
岡村沙紀「明治・大正期における伊勢朝熊岳の開発と保存―保勝会とケーブルカー敷設問題を中心に―」
服部由貴「近世東海道石薬師宿・庄野宿の機能と特質」

【講評】
 本年度は十六本の卒業論文が提出された。近年の傾向と違わず、今年も出身地に関する題材を出発点に資料を集め、当該地を知る者ならではの視点で分析を加え、新たな解釈を導き出す秀作が目立った。ただ惜しむらくはそれらが、地域に深く食い込んで詳細な分析をしながら、普遍化する力が弱い点に課題を残した。もう少し風呂敷を広げる若者らしい大胆な発想の論考があってもよかった。


 三重大史学11号も販売します。是非ご参加下さい。終了後簡単な宴をもよおします。

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第37回城柵官衙遺跡検討会の条

2011-03-02 13:04:24 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 2月26・27日と恒例の城柵官衙遺跡検討会が開かれた。
 毎年この時期に開催される東北地方の城柵官衙関連遺跡の研究会である。大体宮城県と他の東北地方の諸県諸都市を交替で開催している。今年は秋田県横手市で初めて開催された。



 新幹線の車窓から盛岡を過ぎてから




 大曲駅



 後三年駅




 後三年駅を過ぎて横手へ。奥羽本線を南へ進む


 横手市には行ったことがなかったのでとても楽しみだったが、行く前から「大雪」が伝えられており,少々心配ではあったが、朝五時に津を出発して新幹線を乗り継いで13時には無事会場に辿り着いた。
 噂通りの雪だっtがタクシーの運転手に聞くとこの倍(2m以上)はあったと言うから驚きだ。

 途中もっと知り合いに会うかと思ったが意外と会わず、唯一、YKさん親子に会っただけだった。彼女とは確か以前もこの研究会で同じく親子でいらっしゃっていたときに会った気がする。人の子供は直ぐ大きくなると言うその通り、確か赤ん坊だった子供が走り回っていた。何せ彼女とはもう10数年前、ロシアから国境を越えて中国へ入り、渤海の研究ツアーを組んだときからの仲間で、,その当時と変わらぬはつらつとした姿に元気をもらった。

 そういえば、渤海のツアーではいろんなハプニングがあったが、最も印象的だったのが東京竜原府(吉林省琿春市)を訪れたときだった。その当時から中国政府は東北地方の支配を合理化するために、歴史をひん曲げ、高句麗や渤海を中国の一地方組織だと言いくるめてきた。これを否定する日本の学者が中国に入ることを妨害することもしばしばであった。

 私達はただこれらの遺跡の現状を見学するのが目的だったが、当局はピリピリしていた。事前に見学の許可をもらっていたが、当日になって、急に全て不許可にされた。

 「エッツそんな!」
 「どうするのこれから??」

と言うことで一同途方に暮れた。そこで市内見学と言うことになったのだが、市内にはろくな遺跡も博物館もない。たまたま公園に辿り着いて、ここで気分転換でもするか、と言うことになり、ほとんど人気のない遊園地で時間をつぶすことになった。その時の団長さんは高橋美久二さんだった。団長自ら子供用の足こぎ車に乗って競争に興じたり、ゴーカート??に乗って園内をぶっ飛ばしたりした。

 私は恐る恐る軸の錆びた観覧車に乗って上空から市内を撮影することにした。ホント恐ろしかった。降りてからはYKさんが二人乗りの空中足こぎ自動車に乗ろうと言うから、これも錆びて恐ろしいのだが、二人でくるくる回った。まさに子供に返って一日憂さを晴らしたのを今でも好く覚えている。




 

 さて、研究会だが、今回はいつもの一年間の調査事例報告に加えて、シンポジウム「古代城柵から柵・館へ」と言う特集が組まれた。

 この研究会の事例報告はいつも感心するくらい時間通りに、内容も濃く、とても判りやすいのだが、久しぶりに来た今回はちょっと雰囲気が違っていた。もちろん相変わらず、パワーポイントを実にうまく使いこなしてとても判りやすく手際のいい発表もあったのだが、余りに細かいことに拘りすぎて結局時間がなくなり、よく判らない発表もあって少し残念な気がしたのもあった。今ちょうど世代交代の時期で若干うまくいっていないところもあるのかな?と少し不安に思ったことも事実だ。

 それでももちろん幾つもの興味深い発表があった。

 私が最も興味を抱いたのが赤井遺跡の建物群だった。この遺跡はかなり古い時代に調査に着手された遺跡の一つで、今回が42回目になると言う。古代牡鹿柵・牡鹿郡家に推定されている遺跡である。七世紀中葉からの遺物が出土し、九世紀後半まで使用されたという。
 赤井遺跡のある陸奥国牡鹿郡は7世紀中頃上総地域から移った丸子氏との関係の深い遺跡だという。丸子氏はその後牡鹿連に改姓し、さらに道嶋宿禰を名乗るようになる。その本拠地が赤井遺跡周辺であり、赤井遺跡は彼らが支配した牡鹿郡家或いは牡鹿柵でははないかというのである。
 この赤井遺跡の所在する大崎平野には関東からの移民により郡が建てられたことが知られているが、赤井遺跡はその東端にあり、仙台に設けられた郡山遺跡などとも深い繋がりのある遺跡だというのである。

 とりわけ興味深いのが道嶋氏が「大国造」を名乗ったことであろう。八世紀の国造は神事を掌ったがその中でも「大」を付けてより高い地位を誇示したのである。

 そうした歴史的背景をもつ赤井遺跡だけに発見された遺構の解釈が大変興味深いのである。

 特に注目したのがこの図に示された総柱建物を材木列と堀で二重に囲う施設である。担当者は他に10棟ほど発見されている総柱建物と同等にみなして牡鹿郡正倉をイメージした倉庫群と考えているようだが、私にはこの堀などに囲繞された総柱建物まで同等に扱うには抵抗があった。

 

 赤井遺跡の特殊な建物群とその囲繞施設。


 実は以前にもこの遺跡の西に位置する壇の越遺跡でも非常によく似た構造の施設を見たことがあり、それとの関係が注目された。壇の越遺跡より注目できたのは、この施設群が、さらに外側を堀で囲っていたのではないかとみられたからたからである。仮に上図のような構造であったとすると、この総柱建物は実に3重に囲われていたことになる。この様に見事に二つの施設が外側の溝のど真ん中に来ることがあるだろうか。そしてもう一つ気になるのが、西の溝で囲われた施設が南を空けているのに対し、東の施設は「ロ」字形に閉塞している点だ。これも対照的で面白い。

 これが普通の倉庫だろうか?

 もちろんだからと言って何か?と問われても類例があるわけではないのだが、「律令国造」を名乗った道嶋氏であるとすると、そうした宗教的な施設とすることはできないのか、と考えたのである。

 もちろん道嶋氏が国造になる時期とこれら施設の建設時期がずれており、そうは簡単ではないのだが、いずれにしろ、私にはこれを普通の倉庫群とする解釈には賛成できないのである。




 報告者の解釈はこうだ。その根拠は仮に右側の「コ」字形の堀が左側の古い時期のものだとすると左側に2基並列している堀に囲われた遺構群の西(左)隣にある「床束」のある建物と重なってしまうからだという。しかし、どう見てもこの床束のある建物はその右(東)にある総柱建物より柱堀方(抜き取り穴)の規模が異なる。柱の並び方も少し異なっている。そもそもがこちらは普通の側柱建物なのに、右の二つは総柱建物で、全く構造が違う。それを同じ時期と考える方がおかしいのである。

 (こんな風に若い人達の報告を批判すると、またどこかから非難の矢が飛んできそうだ。今回、研究会後の「懇親会」の席で東北古代史を背負って立つ若き?(中堅!)の研究者からお小言をもらった。「あんまり若い人を「ダメ」だとか「○○」とか言うべきではありませんよ」と。「ウーン、そうかなー?若者達こそこれまでの研究史を余りに無視する事例が多いのじゃないのかな-?もちろん若い人達の新鮮な脳みそでの思考の方が優れているのだろうが・・・。でも人文学って、結構年寄りの研究でも生きている例は多いのじゃないかな?若けりゃ何でもいいとは思えないのだが・・・?ハハ、でもこう思うところがもう年寄りかな?(笑)STさん忠告有り難う。これから注意しますね。」)

 そんな感想を抱いた後で今回の特集が始まった。ただ、私には余りに難解でまだ十分に咀嚼することができないのである。もう少しじっくりとレジュメ集を読んだ上で、後日考えをまとめてみる,とにする。

 いずれにしろ相変わらず刺激的な研究会であった。今年の夏には考古学研究会東海例会を三重大学で開催することが決定した。
 2010年8月6(土)・7(日)日の二日間、東海地方を中心とした駅路と官道について検討しようと思っている。とても城柵官衙遺跡検討会には及ばないが、少しでも近づけるよう、これから準備に励みたく思っている。

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 雄勝へと 歩を進める兵に 雪の壁
 
 北上の 凍てし流れの 先に蝦夷

 白銀の 車窓を共に 柵論議

 都より 白銀の世界 兵いずこ