yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2708洛陽見聞録-1  洛陽の隅から隅までの条

2007-08-22 09:26:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
洛陽いいなと思ったらよろしくお願いします。

 17日から今日22日まで中国河南省の洛陽に滞在し、洛陽を堪能しました。
 本当はもっと早く書き込みたかったのですが、連日歩き回って、帰ってきたら20時過ぎ、風呂も入らずに(一寝入りしてから入ってますからご心配なく!!!)バタンキュウ。そんなのでなかなか書き込めませんでした。これから間もなく西安に向かって汽車で移動します。洛陽の本格的なレポートは西安に着いてから書きますが、少しだけエッセンスをお伝えしておきます。

 とにかく、5日間はとってもとっても充実していました。洛陽がこんなによく遺っているとは想像もしていませんでした。もちろん中国社会科学院の隋唐洛陽調査隊の方々が隅から隅まで案内下さったから充実していたことは言うまでもありません。しかし、今回は初めて自分の足で半日宮城内をあちこち歩き回り、私の頭に洛陽の地図を作ることができました。これが一番の成果です。今度皆さんを御案内することができるに違いありません??ホントかな?


(三度目の応天門も自分で歩くとよくわかります。この日は掃除もされていて全体がよく見えました)
 特に今回の大きな成果は、宮城、皇城、郭城のそれぞれの城壁や門跡を草むらをかき分けかき分け訪ね歩くことができた点です。調査隊の皆さんには冬に来い!と言われましたが、確かに冬ならもっとよく見えたかもしれませんね。

 それにしても東部の地割のよく遺っていることには大感激しました。中でも半日歩いた南市はとてもよく地形が遺っており、そのところどころに調査の後があることもわかり、ようやく実感がわいてきました。

 
(発掘調査中の定鼎門跡の遠景)
もう時間が来ましたので、レポートはこれだけ、今夜またアップできるかも・・・

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ヒロシマ・考古学-3  小田実が逝ってしまったの条

2007-08-15 04:29:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今私達に求められているのは何なんだろうか?戦争?平和?平和だと思ったらよろしくお願いします。

 参議院選挙で自由民主党が記録的な大敗を喫したその日、小田実がこの世を去った。既に末期癌であることを告白していたから、いつかこの日が来ることは判っていたが、寂しい。

 私は小田実と会ったことも話したこともない。しかし彼の提議した「ベ平連」運動は私の人生を180度変えた。そういう意味では彼も私の人生の恩人であるかも知れない。

 私が彼の行動を知ったのは1968年5月のことだった。

 高等学校在学中はどうしようもない「右翼」少年だった。日教組の先生方に反発し、君が代を歌い、日の丸を掲げることのどこが悪いのだと、生徒会の幹部に嘯いていた。そんな少年が、小田実の行動に感銘を受け、突然変異したのである。

 その前の月、日本中は原子力空母エンタープライズの佐世保寄港で騒然としていた。当時私は2年目の浪人の春を迎えていた。大丈夫かなと思っていた3月の試験に失敗し、これ以上ブラブラすることも許されない状況だった。生まれて初めて新聞配達のアルバイトをし、大学の試験がだめなことも想定し、衛生検査技師の受験書類も手配する背水の陣?を敷かざるを得ない状況だった。ところが、そんな時に見たのがアサヒグラフの本多勝一の記事であり、あの有名な写真であった。

 「今、受験勉強にうつつを抜かしているその瞬間に、こうしてベトナムでは、アメ リカ軍によって、多くの子供達が殺されていっている!」

ある面、受験からの逃避だったのかも知れない、しかし沸々と沸いてきたその思いは日に日に増幅し、エンタープライズが来るというその前日になって爆発した。

 当時私は、京都の東のはずれ山科に住んでいた。小さな集落で、住む人のほとんどの動向を皆が知っていた。そんな中で、家の玄関横の壁に、アサヒグラフの写真と記事を「エンタープライズ佐世保寄港反対!!」の文字と共に貼ったのである。

 そして次に起こした行動が、最寄りの駅であった京阪電車京津線の追分駅での街頭カンパ活動だった。
エンタープライズの反対運動を調べる内に「ベ平連」なるものがあることを知った私は、直ぐに「殺すな!」のバッチなどを申し込んだ。大きなバッチを胸に付け、自家製のカンパ袋と署名用紙を片手に朝のラッシュ?でに賑わう駅頭に立ったのである。

 「章ちゃんどうしたん?」

そんな声をかけられながら、ほとんど見知った顔ばかりの駅頭でカンパを集めた。いくら集まったのか細かいことはもう覚えていないが、直ぐに東京のベ平連にお金を送った。これが小田実との最初の「出会い」だった。

 その後、京都ベ平連のデモに参加する内に、定例デモだけでは我慢できなくなり、参加していた浪人仲間と、京都大学の新聞部の一画に居候させてもらいながら「京都反戦浪人連合」というグループを結成し、受験勉強そっちのけであちこちのデモに参加していった。グレーのヘルメットに身を固め、仲間10人ほどで参加したその年の「10.21国際反戦デー」御堂筋デモは壮観だった。「右翼」少年を変節させ、こんな大胆な行動に走らせたのが「ベ平連」であり、小田実だった。

 もしあの時、「殺すな!」というとてもシンプルで衝撃的なフレーズに出会わなかったなら、きっと私は「普通の」社会人として、今頃社会の何処かで定年を前に悶々とする日々を送っていたに違いない。

 人間というのは不思議なもので、11月以降のわずかな時間受験勉強に集中しただけなのにほとんどの仲間も志望校に入ってしまい、その後の大学闘争で活躍することになる。

 「今学問することが、ベトナムでの人殺しに荷担することになる」という論理は、偽善に満ちあふれた大学教官達の姿勢に向けられていったのである。こうした世界中の若者の運動が、ベトナム人民の不屈の戦いを支え、結果、世界最強のアメリカ軍を敗走させることになったのである。

 日本で始まった小田実の提議した小さな「殺すな!」運動が、アメリカ帝国主義に勝利した瞬間でもあった。しかし、その後の経済主義の台頭によって、社会運動は埋没し、今や公然と憲法9条の改悪が主張され、自衛隊の海外派兵は日常茶飯事と化している。こんな時、小田実を失った痛手は余りに大きい。今の世界に対し彼ならどんな運動を提議するのだろうか。私には、「殺すな」運動の継続が求め続けられているように思えてならないのだが・・・。

 イラクで、アフガンで、パレスチナで、パキスタンで、アフリカ各国で、南米で・・・、数えればきりがないほど多くの、ヴェトナム戦争以上の多くの人々が殺され、その地域が拡大し続けている。
 更に、核拡散が拡大し、イランまでもが核武装に踏み切ろうとしている。そして忘れてはならないのは、日本が世界有数の核保有国となる基礎能力を保持していることである。平和憲法を破棄し、海外派兵に突き進み、集団的自衛権の行使までちらつかせる現政府の出現は、「殺すな」の言葉を自らに投げかけ、行動を起こすことを求めているように思う。

 小田実の「殺すな」を肝に銘じ行動することを誓って、追悼の言葉としたい。小田さん、有り難うございました。

「殺すな」と思ったら・・・もよろしくね

 明日から27日まで中国洛陽と西安に調査に行ってきます。調査といっても発掘ではありません。これから進める測量調査の準備です。しかし、アジアでの政治的緊張は、考古学にも暗い影を投げかけています。中国に於いても「軍事問題」を理由にあちこちで、遺跡にはいること、調査することが制限されつつあります。「ヒロシマ・考古学」を書き続けなければならない理由がここにあります。学問は平和でないとできない!
 帰国したらまた最新の中国宮都情報をお知らせします。それまでこのブログはしばらく夏休みです。残暑厳しき折からご自愛下さい。

壬申の乱ウオーク-8  大和街道を歩くの条

2007-08-12 11:09:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
壬申の乱ウオークに参加してみたいなと思ったらよろしくお願いします。


 今回で第8回目になる壬申の乱ウオーク。でもここのところ続く猛暑の中どれだけの方が来て下さるのか心配だったのですが、加太駅についてびっくり!150人の参加者でびっしり。



(加太駅は無人駅。柘植と加太の間は9キロ近くある長い長い駅間。その間がクネクネ曲がる険しい山沿いのコース。鉄道マニアには有名なスポットだとも聞く。)

 今日のコースは特に健脚向きで、余り文化遺産がないのです。にもかかわらずこの沢山の参加者、有り難いことです。とは言っても今日のコースは私が案内するのではなく、亀山市教育委員会の亀山さんが全行程説明して下さることになっていて、私は参加者の一人として聞いていればいいのです。こんな楽なことはありません。



(大和街道を占拠?したウオーキングの一行)

 そのコースは、①JR関西線加太(かぶと)駅前の神福寺の前を通って、②2000年に道路の拡幅工事に伴って発掘調査された市場遺跡の前に至り、鹿伏兎(かぶと)氏の居館跡に思いを巡らせます。この地点から鹿伏兎城を見上げ、往時の同氏の勢力に思いを馳せます。③鹿伏兎城下に大和街道に沿って設けられたのが宿屋、問屋場や高札場などの商業的、政治的施設であり、それに隣接して発見されたのが市場遺跡の石垣でした。おそらく鹿伏兎氏の城下に住まいした居宅跡ではないかと推定されています。


(地元の方々はとても熱心で、今回のウオーキングのために草刈りなどもしてくださったと聞く、こうした熱意こそ大事ではないだろうか)

 ④大和街道はここで複雑に折れ曲がり、加太川を渡って、梶ヶ坂の小さな峠を越えて、⑤板屋の集落に入ります。近世ではここが中心だったようで、本陣が置かれ、周りには茶屋や宿屋、そば屋や鍛冶屋などの店が並び、商工業の中心地となったようです。

 ⑥本陣跡から少し西へ進むと川沿いに小さな杜が広がります。延喜式内社川俣神社です。古代以来、柘植と関との間にあって、唯一の平坦地の広がる加太の地ですから、こうした土地柄を特徴づける交通の要所としての神様ではないでしょうか。この加太の集落の一番西端から近年笹ヶ平古墳という畿内系の横穴式石室をもつ後期古墳が発見されたのも加太の正確をよく表しています。
 ⑦狭い国道を更に西へ進むと小さなトンネルに出会います。これが明治時代に敷設された関西本線が大和街道を跨ぐために設置された橋です。解説の亀山さんによると、イギリスの煉瓦などを用いて造られたとか・・・。もちろん大和街道はまだまだこの先続くのですが、今日のウオークはここでUターン。

 大和街道(現国道25号。正式,には西名阪が国道25号なのだろうか)は、この先はほとんど整備されていないにもかかわらず建築資材を運ぶダンプカーがひっきりなしに通るために、歩行者が歩を進める道ではない。第二名神なんかを造るお金のほんの一部、久留倍遺跡を破壊したバイパス建設に用いられる経費の数%で、こうした道に往時の松並木を再現した遊歩道を造ることはいとも簡単なはずである。こんな道ができれば、赤字に悩む関西本線に人を呼び戻し、「今日は加太で降りて柘植まで歩き、柘植からまた電車に乗って・・・」と旅行者を呼ぶこともできるはずだ。事実、私が乗ったときには同乗した中年のグループは車窓に広がる風景に感動しまくっていた。


(こうしたカーブが次々と現れ運転席横で見ているととても迫力がある。)



(川俣神社では宮司さんから丁寧なお話を伺うことができた。本殿の裏には県指定にもなっているというご神木の杜が広がっている)

 壬申の乱に於いて、大海人皇子一行は、この先の柘植で高市皇子と落ち合った後、「大山越」と称して険しい川沿いの山道を、関を目指したといわれる。現在の関西線の鉄道も、柘植と加太との間が一番険しく、山沿いをクネクネと蛇行しながら進む。大海人皇子一行がこの加太の地に入ったときにはようやく平坦な土地が開け、少しはホッとしたのではないだろうか。関までは後4キロほどのところだった。この地に延喜式内社があるのもうなずける。

 わずか3時間足らずのウオーキングでしたが、汗だくになりながらも、時折吹く山あいの風に涼を感じ、皆さんの「先生大丈夫?」というご心配の声も吹き飛ばして進むことのできた爽快な一日でした。

 帰りは柘植から草津線に乗り換え、甲賀、水口を経て草津に至り、そこから東海道線に入り、大津から山科、京都と久しぶりにJRで帰ってきました。

 次回は11月10日、午前中は伊賀路を、午後からは紫香楽にまで歩を延ばすという豪華版、参加してみたいなと思ったらポチッとねもよろしくね

ヒロシマ・考古学-2  2007平和宣言の条

2007-08-06 10:11:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

            平 和 宣 言

 運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)――静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

 落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

 14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

 それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

 しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

 こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん) しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

 しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

 世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

 我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

 唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

 被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

 2007年(平成19年)8月6日
                      広島市長 秋 葉 忠 利


 時代遅れの指導者達にノーと思ったらポチッとねよろしくお願いします。


 今朝、久しぶりにヒロシマの平和式典の様子を見た。事前に概要が伝えられていた秋葉さんの平和宣言は、鎧を隠して座る安倍晋三氏には右の耳から左の耳へと通り抜けただけだったろうが、私には、とてつもなく重みのある言葉として遺った。

 それ以上に感動したのは子供達の読み上げた平和への誓いだった。

 「憎しみの連鎖を断とう!」「祖父母が築いたヒロシマの生き方を見て欲しい」というメッセージほど今の地球に相応しいものはないと思った。

 
 「9.11テロ」に対する報復が憎しみの連鎖を引き起こし、爆撃ー自爆ー爆撃と果てしなく続く悲しい死の連鎖を生み出した。もし、ヒロシマ・ナガサキ20余万人が「憎しみの連鎖」に入っていたら、とっくの昔に地球は死の灰の降り注ぐ死の天体と化していたに違いない。ヒロシマ・ナガサキの被爆者達は、報復するのではなく、自制し、原爆投下者アメリカへの憎しみを呑み込み、人間らしく、「私達のような悲惨な経験は二度と繰り返してはならない」と世界中に訴えた。にもかかわらず、アメリカ(や日本)の為政者の多くが、核兵器を必要不可欠とし、ヒロシマ・ナガサキは戦争終結のために必要だったと居直るのである。アメリカへの攻撃は「テロ」として報復を認め、ヒロシマへの原爆は「戦争終結に必要なもの」として肯定し、報復は認めない。こんな身勝手な論理が通るのも力がある内だろう。

 秋葉さんが「時代遅れの」と酷評し、子供達が「憎しみの連鎖を断とう」と訴えた相手こそ、核兵器で威圧する戦争当事者であるアメリカであり、これを支える日本であった。と同時に、イラクで、パキスタンで、パレスチナで繰り返される自爆攻撃に対しても「報復の繰り返し」では戦争を停めることはできないと断じ、ヒロシマの祖父母達を見倣って欲しいと訴えたのである。

 久しぶりに人間らしい、口先だけではない、素晴らしいメッセージを聞くことができた朝だった。